仏教哲学総合スレ4
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
783吾輩は名無しである2019/01/25(金) 14:35:47.62ID:mM1gDNX7
これ、書いたっけ?
「原典訳ウパニシャッド」
ウパニシャッドと呼ばれるインドの文献は200個はある。
うち五個のウパニシャッドが訳されタ本。
チャーンドグヤ・ウパニシャッド「この世に存在する一切のものと、あらゆる欲望があらわれた。」
ブリハッド・ウパニシャッド「一切の存在の中に居住し、一切の存在とは別のものであり、
一切の存在が知ることなく、一切の存在を肉身とし、一切の存在を内部から制御するもの、
それがあなたのアートマン(真我)であり、不死の、内部の抑制者であります。」 シャンカラ「ウパデーシャ・サーハスリー」
「それゆえにアートマン(真我)が知られたときには、一切が非存在となるだろう。」
「二元が欠けているので、善でも悪でもなく、昼でも夜でもない。それが不二である。」
二元論にならないという哲学。
紀元前400年の釈尊の「無明」を、西暦8世紀に「潜在印象」と呼んでいて、無意識と解釈した。 出家する訳ないじゃん
ゲームやネットも出来なくなるし >>950
生きることを楽しむとは言っても楽しみと苦が一時的に少なくなっている時間に限定されまた楽しみが消える時に苦を味わうことになる
酔いから覚めると酔う前以上に虚しくなるのと一緒
それに気づかない人は楽しむことに執着し生きることに執着する
賢者はそのような苦しみに帰する生への執着はなくこの世を厭い来世を厭う
一切の形成されたものは苦であると正しい智慧によって観ることが出来れば逆に苦しみである生そして死から解脱でき涅槃に到達する
その時「生は尽きた。梵行は完成した。なすべきことはなし終えた(所作已弁(しょさいべん))再びこのような生を受けることはない」と知ることになる それならば、ひなたぼっこの楽しみに伴う苦しみを説明してほしいな
適度な日光浴は単純に細胞に良いというか心身に良いよ
まあでもアリストテレスの言った「賢者は快楽を求めず、苦痛なきを求める」と言うことだよな 仏教の苦は苦痛のことじゃなくて不満足な状態のことだよ。
ひなたぼっこが楽しくてもずっとやってたら、いずれ不満足な状態になってしまう。 確かに雨や曇りの日は不満を感じるかもだけど
最も仏教的な哲学者はやはりショーペンハウアーだと思うな
新潮文庫で出てる幸福について(人生論)は未読なら読んでみるといいよ
上のアリストテレスの引用もそうだけど随所にかなり頷ける内容だから かなり簡単に要約すると人生は健康と精神の平静が何よりも重要で歴代の賢人達が隠遁の生活をしていた様にそれを見習えと
この地上や社会に求めるものには殆ど全く価値も無いし、なるべく哲学とか芸術とかの知的精神活動を勧めてるのもある ショーペンハウアーと言えば厭世だけど、この本の何がいいかと言えばシニカルや冷淡さに終始してる訳でも無いところ
現実主義だけどかなり「知性に重きを置こう」と言う内容だから 訳者のお陰もあるかもしれないけど日本語文章もかなり生真面目だしいいよ 仏教は始める動機が厭世の人は多いけど、
善も悪もありのまま観察するのが仏教だよ。
何にでも良い悪いってラベル付けしてるのは自分の頭の中のほうで、
それを滅尽するためのトレーニングが隠遁生活だったりするわけで。 確かにそれはわかるな
例えば本の終盤で性欲についても少し語られてるけど仏教的に観たら悪や苦悩として扱われるものだよな
でも現代では色々無駄な労力を使う事も無くネットやAVなどで簡単に処理できる媒体もあるし医学的に観たら適度な分泌や射精は身体の健康維持に良いし美しい女体として観たら芸術感性にもなる だから視点を変えてもっと達観して観たら肯定否定や善悪を超えて行く場合もある 仏教的にはAV鑑賞は、ありのまま観るのが基本じゃないかな?
つまり性的にみるのでもなく芸術としてでもなく、
目があって鼻があって皮膚があって乳首があって・・・更に言えば
画素ごとに色の濃淡がある二次元の並び・・・とありのまま観ることで
煩悩や執着を滅尽する。 “心は、欲望に満ちた世界と同じ性格ではなく、
純粋な物質からのみなる世界と同じ性格ではなく、
純粋な精神のみからなる世界と同じ性格でもない。”
― 「大日経」 1.真言の教えに入り、心の特徴を理解する章 『大乗仏典 8 中国密教』 頼富本宏訳 (1988) >仏教的にはAV鑑賞は、ありのまま観るのが基本じゃないかな? Avは抜くためのツールなんだから自然に抜くのがイイのではないか? 成程
Avは現代では女体学の最高の映像テキストだよな 田辺元の「あるというものにはないといい、ないというものにはあるという」という弁証法が、
誰が言い始めたのか探している。
鈴木大拙の「浄土系思想論」でも見つけたのだが、その文章が見つからない。
一心三観として、円融か円教か知らないがいいだしたこと。
それを学んだ空海が「秘密曼荼羅十住心論」にも一心三観は書いてある。
その後で、インドのシャンカラが「二元を欠く」という、二つの思想を一つとしてとらえる認識論を主張した。
このシャンカラの「二元を欠く」というものは、ヘーゲルのアウフヘーベン(止揚、概念融合)と同じ発想だと思われる。 質問です。
「世界苦」って仏教ですか?
鈴木大拙の「浄土系思想論」に出てきたかと思ったんですが、見つからないんです。 仏陀の教え
h ttp://buddha-osie.com/last_trip/trip07.html
さっき見つけた記事だけど、これは皆にも読んでほしい。 超逆境クイズバトル!!99人の壁 古舘伊知郎が生涯クイズ初挑戦!2時間SP★1
仏教古舘 天台宗の初祖「慧文は、龍樹による『大智度論』と『中論』に依って「一心三観」の仏理を無師独悟したとされる。」
(天台宗wikiより) 一心三観
いっしんさんがん
天台宗の瞑想法の一つ。あらゆる事象が相対を超えた仏教の絶対的真理にかなっていることを体得すること。
現象世界を否定的にあつかう空観 (くうがん) ,肯定的にとらえる仮観 (けがん) ,
この両者がともにそなわってはじめて真理を把握しうるとする中観 (ちゅうがん) の三観を,ひと思いに一時に観念すること。
(出典 ブリタニカ国際大百科事典) 「空」を観じることは「空観」とよばれ、私たちを日常的な見方が引き起こす「我」の捉われから解放してくれます。
しかし、この見方に固執すれば事物は実在しないというニヒリズムに陥ります。
そこで、縁によって現れている「仮」の姿をもう一度見るのです。
これを「仮観」といって、事物個々の特質を再認識し、他に対する無関心を防ぐのです。
この2つの見方は視点が異なるだけで同じ対象を捉えているのですが、聖性と凡性を別々にしか照らせないという欠点があります。
事物の正しい観察はこの2つを同時に見る「中道観」によってはじめて達成されるのです。
天台宗ではひと思いのうちに一切を空と観じ、仮と観じ、また空仮が一であると観じる「一心三観」を指南としています。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1485415554 >>980
《この世が苦しいから、彼の土へ往きたいというは真宗の大義ではない。日本的霊性の特異性でない。
これは通俗化し世諦化した信仰で、他力の真相ではない。それは貴族文化の残滓である。》鈴木大拙 日本的霊性より
世界苦という言葉はドイツ語のWeltschmerzの直訳で柳田國男なども使っている*。
ドイツは仏教を早くに取り入れたから(訳語を含め)仏教由来の可能性はあるが、
ゲーテの時代の流行語と考えるべきだ。
*
柳田國男
「世界苦と孤島苦」(内容は「青年と学問」文庫全集27or岩波文庫版所収。講演タイトルは後に改題)
電子版なし。柳田國男の眼目は孤島苦の方。
『故郷七十年』(kindleあり)に「世界苦と孤島苦」の章題で回想されている。
参考:
http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den037.htm
…和辻哲郎によると、「もののあはれ」は「永遠への思慕」である。
美学者大西克禮は単なる「あはれ」を一つの派生的美的範疇として論じ
ようとする論文の中で、その語を「世界苦」(ドイツ語のWeltschmerz)として
定義したこともある…
https://deepstsky.net/Blog/0100-Weltschmerz-I/
ドイツ語における言葉自体は、ゲーテと同時代の作家でゲーテと並ぶ巨匠とも
言われたりしていますが、その割には読んだことがあると言う人をあまり見かけ
ないジャン・パウルの造語のようです。…
以下のブログは世界苦の自覚を仏教の特徴としているが
https://blogs.yahoo.co.jp/sangam_manager/53574294.html?__ysp=44K444Oj44Oz44Od44Km44OrIOS4lueVjOiLpg%3D%3D >>768-770
三世実有説
説一切有部の基本的立場は三世実有・法体恒有と古来いわれている。
森羅万象(サンスカーラ、梵: saṃskāra)を構成する恒常不滅の基本要素として70ほどの有法、法体を想定し、
これらの有法は過去・未来・現在の三世にわたって変化することなく実在し続けるが、
我々がそれらを経験・認識できるのは現在の一瞬間である、という。
未来世の法が現在にあらわれて、一瞬間我々に認識され、すぐに過去に去っていくという。
このように我々は映画のフィルムのコマを見るように、瞬間ごとに異なった法を経験しているのだと、諸行無常を説明する。
(説一切有部wiki) 三世実有説にある「過去・現在・未来」の変化という捉え方は、
仏教とフッサール現象学に共通する特徴。 フッサールの「流れつつとどまっている現在(strömendstehende Gegenwart)」(『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』第四十九節)。
知覚それ自身が、過去志向と未来志向の連続体に挟まれる「生きいきとした」現在としてあるという。
Husserliana 6, Die Krisis der europäischen Wissenschaften und die transzendentale Phänomenologie, SS49 フッサールは仏教からヒントを得たのでは?
> 現象学と仏教。。。。。
> 現象学と仏教について教えてください。
> https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1440409419
> ハイデッガーは正法眼蔵に衝撃を受けて《存在と時間》を書いたそうですが、
> ハイデッガーの先生のフッサールの現象学は仏教をヒントにしていたりなんかはしているのでしょうか? フッサールは田辺から西田についても聞いていた。
> 1928年
> ドイツに留学してきた田辺元を通して、西田幾多郎が『自覚に於ける直観と反省』で展開した思想の概略を聞くことができた。
> フッサールは数学者のエルンスト・ツェルメロと一緒に田辺の解説に耳を傾け、熱心に議論したのだという。
(エトムント・フッサールwiki) 鈴木大拙「大乗仏教概論」を読了。
愛を肯定している明治仏教だった。なかなか良い。
いやあ、日本仏教は、百年も前から愛を肯定していたことを今日知ったぜ。 唯識が扱っている問題系は、そのままデリダやクリステヴァと比較できる。 現象学や心理学を持ち込んだりするのは、近代仏教だけど。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 418日 1時間 3分 37秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。