時間とは何か 23
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月の満ち欠けは地球中心の星座平面より、プラネタリウム的、星々の空間
の広大さから、演算というものをするようですね。 >>457
時間が量として普及したのが産業革命以後。
分単位の労働管理が求められた。
現に、物理学においても、アインシュタインは時間より速度が基準であることを示した。
光の速度を元に速度は決められる。
あとは、エントロピーの増大。
この宇宙の不可逆性。
時間は進む。光の速度と相対的に。 物理としての始りは自然では観測できない
実在すると証明できたら降参する 始まりが体内にあるかというとたぶんないと思う。生物学の方が優秀だ
と思うけど。生物の中では、闇鍋将軍がゆで時間を決めているらしい。 存在者として1があり、そこから遡れば、始源には、存在者が消失する無として
0があったと考えることが錯覚に過ぎないのだろう。時間が螺旋を描く軌跡で
あるとすると、遠近法によって消失点として0が存在するかのように見えるが、
遡れば螺旋は無限に後退することになり、後退した時点においてやはり存在者
として1があり、そこから消失点としての0が存在するかのように見えるだけ
なのかもしれない。 >>483
産業革命前の時間は都市毎にマチマチで、太陽が真上に来たら正午だった。
しかし、産業革命で蒸気機関が発明され、鉄道が普及すると、様々な問題が起きた。
そこで遠く離れた都市間で時刻を同期させる多数のアイデアが考案され、様々な特許が登録された。
その時、特許局で働いてたのがアインシュタイン。 時間とは生きることに終止符を打つためのquestionだな 「無」は「無」ゆえに存在しない。
存在するのは「空」である。
しかし、「空」単体では存在する「場」が無い。
存在には「場」が必要である。
自分自身が「場」であり「存在」である。
この二重性がすべてである。 >>492
まぁ強引だけど、ざっくり纏めるとこうなる。
当時の列車のダイヤは、出発する都市の時刻で書いてあったから、利用者はかなり混乱したみたいだ。
更に線路も単線が多かったから、時刻の混乱から、列車の正面衝突もかなりあったらしい。 人々が量としての時間を知るのは、
工場労働でしょう。
一日が規則正しく時間で区切られ、繰り返される。
起床時間から出勤、労働、昼食、仕事終わり、夕食、睡眠 >人々が量としての時間を知る
老いもそうかも、ヘイフリック限界 的な。
今後のバイオテクノロジーで、細胞の劣化コピーが操作可能とか
iPS細胞系移植技術発展とかになったら、人の思想は変わりそう。
なんせなかなか死なないという… 例えば銀河と似たような形態の台風
台風の物理としての始りは自然では観測できるか否か
濃淡の海の渦潮 濃淡の海 自体の物理としての始りか、、なんだろね
わかりません 科学者が宇宙の始りまりはあともう少しに迫っているなんてことを語っているのを読んだことがあるけど
徒労に終わると思う
身の周りの自然、そして自身の始りだって、辿り着けないし どこから人間に成り、どこから他の何かに成るのか
位置は精確に指示しうるのか
速度は精確に測りうるのか
究極的にいうとすぺては近似値に過ぎない
運動という有を静止という無で理解している
此処からの此処、静止としての此処などどこにも無い
自然の生々流転の中にすべては存在し、何かから何かに生成され
また何かに生成されている過程 同一としてのわたしも自然も何処にも実在しない
生々流転している、運動している対象、不同一の対象を同一で捉える
だから運動量で理解しなければならない
時間の正体はこの認識の在り方が要請する次元であり、実在しない わたしはわたしであり、わたしではない
運動は存在すると同時に存在しない
運動する対象を静止、つまり否定関係で理解する
クレタ人の逆説が示すように、弁証法の矛盾の正体は決定不能ということだ 次元など実在しない
四次元である時間もまた
実在すると主張するのなら、それは光速度一定の原理の否定でしかない
そしてその展開である量子力学もまた崩壊する 地動説、進化論、光速度一定の原理の共通点は
認識の在り方だろう
それは認識する立場は自然には実在しないということを示している
認識する立場を意識して、地球からはこう見えることは否定しない
そうみえるから、地球は不動だ、動物ではない、絶対座標は実在するとすることが誤謬になることを示している
自然に於いて何ものも特別なものは実在しない、つまり自然は無矛盾であることを示したのが一連の科学革命
重力も諸力も最小単位も実在しない
それらは加速と生成に必要なエネルギー量でしかない
次元は理解に必要だが、実在しない
自然は極めて単純だ 数は部分を持たない
ゼノンの逆説はその数が実在するとなると運動は不可能であることを示した
クレタ人の逆説は自然と論理の関係を示し、決定不能であることをしめした
カントの二律背反は、自然を理解するのに必要な次元の問題
ヘーゲルの運動規定、矛盾は決定不能
量子力学は自然が一であると理解するパルメニデスを指示する
また不確定性原理は自然という対象とそれを理解することからくる齟齬でしかない
それらは論理と自然との関係を示している
現代科学は論理がそのまま自然を反映しているという素朴反映論であり天動説的認識論でしかない 光速度一定の原理は科学の究極というか前提とも考えられる
そこから量子力学の展開も切り拓かれるし、自然観の確立が出来る
また論理の性格、限界も認識できる
それは運動が枠であるということだろう
それを否定することはできない
ふとと、社会と論理みたいなことを連想した
禁酒法にしても社会主義にしても、どんなに論理として筋が通っていても
実社会というか人間には合わないということだと理解している
ある方はどんなに論理的と思えたことでも実験でダメならそれは真理ではないのだと語る
光速度一定の法則でも、どこかに座標原点があると思うのは論理的だろう
しかし自然が無矛盾で無ければ理解できないという枠組みからは排除されてしまう
論理が対象のそのままの反映ではないというのは前提だろう
不同一の対象を同一で理解するというのはそういうことでしょう 武道の名人の境地がとても不思議だったが、ディープラーニングは
その理解の一助になる可能性があるというのは面白い
認識論的に検討する価値がありそう それは人間の可能性の新たなる可能性を示すものかもしれない
わたしは天才と言われる人たちの能力の生成過程を理解する可能性が出てきたような気がする
肉体が四民平等であるしことを示したように、時期の問題はあるにすれ
人間の能力もまた展開というか修練次第でかなりの境地になる可能性を
このディープラーニングは示しているのかもしれない 人間の能力の新たなる段階の展開が可能な社会がユートピアなのかディスとピアなのか
なんか後者くさいかも知れないが、人間の知恵はそれを克服してきたというある物理学者の言葉を信じたい >>496
工場労働は大きな要因の一つだろう。
産業革命により工場が建ち、機械が人間社会に入り込み、沢山の人が工場で働く。
機械式の時計が発明され、一般に広く普及していく。
産業革命は人類に機械文明をもたらした。
そして機械的な時間が一般化した。 元々特別な人などいない
それは環境と人間の関係が創りあげた作品ではないかと 環境もまた人間自身がその関係で創りあげるものでしょう
その可能性を展開させるのは人間自身でもあるのだと エントロピー学説にはラーナーが疑問を呈していたけどな
具体的な反論を「ビッグバンはなかった」で展開していた
個別理論の適用範囲の問題でしょう 一般相対性理論もまたそのようなものでしかない
光速度一定の原理は認識の自己言及という側面がある
静止は実在しないが、静止で理解しなければならないのだと 機械、すなわちAI的には認識論的宇宙でも存在論的宇宙でもどちらでもかまわない。
どっちに傾くかは実験しながら考察する。
「わたし」としての{}は認識論的でも存在論的でもない。
「わたし」の始まりとしての{{}}は認識論的か存在論的か。
存在論的認識論か認識論的存在論か。
「わたし」の「宇宙」の始まりとしての{{},{{}}}はどちらなのか。
これが超ひもであれば振動している。存在論と認識論の間での振動。
(ただし、認識論は非人間的「対象」に拡大させて「関係論」として扱う) >>515
エントロピーの増加と、ビックバンは関係ないでしょ。
ビックバン説はエントロピーの増大の原因として、考えられているだけ。
そしてエントロピーの増加とは、この宇宙では乱雑さは増えていくという不可逆性を物理的に表現しただけのこと。 乱雑さの増大を、人は時間という概念で量化している。
時間という概念を用いて、この宇宙の現象を表現しえていることが、乱雑さが増大していることを示している。
一つの架設としては、光の速さという固有数をもって、ビックバンから宇宙が広がり続けているために、
この宇宙の乱雑さ増大の原因ではないか。
すなわち時間が流れる原因。 物質、すなわちエネルギーの量が変わらずに、宇宙の大きさが広がれば、当然乱雑さは増す。
そしてやがて、エントロピーは無限大になり、この宇宙内の秩序、星やその運行は解体し、全くの均一な状態になる。
いや今度はエントロピーは減少に転じて、今と逆に時間は流れる? 時間を流れると表現する時点で感覚の次元でしかないけどね この世界ではすべてのものは崩壊しつつている。
人で言えば老化。
すべての物質は老化し続けている。
机の上の本も、鉛筆も刻々と老化している。
それを人は時間として表現する?
しかし物理学には不可逆性はない。 崩壊と形成のサイクルだよね
老化だって人間の都合で表現される状態でしかないし 秩序には意図がかかわっているということでしょう
意図に沿わないものは秩序が乱れている
補正のしようもなく秩序が乱れているものは、崩壊している 無秩序から秩序が生まれることはあります。
自己組織化とうとう >>
系の外部からコントロールされることなく、自然のプロセスだけで自発的に秩序が形成、つまり創発されることを自己組織化といいます。
名称の由来は、外界から注入された特定の箇所(ベナールセルでは鍋の底または地表)に遍在していたエネルギーが系全体を流れて外部に散逸(散らされ逸)していくことによって、秩序構造が自己組織化(創発)されることによります。
このように、注入されたエネルギーが外部に散逸している系で動的な秩序構造が創発されることを理論的に解明し、これを散逸構造と命名したのはベルギーのイリヤ・プリゴジンです。
ベナール対流はエネルギーの流れによって作られますが、高いエネルギーを持った物質が流れ込むことによって生じる散逸構造もあります。
例えば、渦潮(うずしお)は、潮の高低差によって入り江に入り込んだ海水の流れが作り出す散逸構造です。
また台風は、湿った空気が常に低気圧の領域に流れ込むことによって作られる一種の散逸構造です。
ベナール対流や渦潮などの動的な秩序構造(散逸構造)が存在している系に注がれているエネルギーおよび物質の供給を止めれば、それまでに存在していた秩序構造が次第に消えていきます。
このように、エネルギーおよび物質の出入りがない系――これを孤立系と呼びます――では秩序が壊されていきます。
これが、熱力学で定められている「エントロピー増大の法則」(別名:熱力学第二法則)です。
エントロピーとは、無秩序の度合いを表す物理量です。
外部とエネルギーや物質をやり取りしない孤立系ではエントロピー(無秩序の度合い)が増大する、すなわち秩序が消滅することが熱力学の基本法則なのです。 プリゴジン以前には、自然界では「エントロピー(無秩序の度合い)増大の法則」が成り立つので、自然に起きる作用では秩序構造は破壊されるだけで、
秩序が生み出されることはない、とされていました。
しかし、エントロピー増大の法則は孤立系でのみ成り立つ法則です。
外界に対して開放され、しかもエネルギー(および物質)が外部に流れ出ている、つまり平衡状態にない非平衡・開放系では、
自然に起きるプロセスで動的な秩序、すなわち散逸構造が作られるのです。
この場合、エネルギー(および物質)を外部に散逸させてエントロピーを外部に捨てることによって
開放系の内部のエントロピーを減少させて秩序(散逸構造)を作り出しています。
<< エネルギーも崩壊熱のような自然系と、意図的に発動するものがあるけど
意図的にはつどうするものも自然系に含まれるのか? >エネルギーも崩壊熱のような自然系と
太陽のエネルギーを受け取って
>意図的に発動するもの
地球上の生物が活動するようなものでつか? 哲学は智を愛する。
そして哲学は「わたし」=Iから始まる。
哲学は智をIするものである。
すべては愛=Iによって成り立っている。
自己同一性とは自己愛なわけだ。
自己愛によって「わたし」=Iは「存在」する。
どこに「存在」するのかといえば、「わたし」の中である。
「わたし」の中の「わたし」が、(最初の)「わたし」の中で「わたし」の中の「わたし」から「わたし」であり「わたし」でないものを「愛」によって作り出す。
まあ、簡単にいえば自然数論だ。
未定義用語である「愛」からすべてを作り出せる。 >>531
人の意図で動くエネルギーと、人以外の動物、風力やらの違いというか
人意的な操作で、後者のエネルギーを引っ掻き回すことも含めて
自然といえるのかなとふと思ったもので >>532
自己愛だけで存在できるのは人というかただの動物な気もする
人は他人あっての存在だから >>519
とりあえず読んで見てはいかがでしょう
物理としては何も無くならない、生まれない 人間は自然の一部で、環境を変えられるけどその可能性の範囲内だしなあ
技術にしても自然の法則の意図的な適用だし
あくまでも自然を超えることは無いでしょう >>534
発生的に遺伝的宇宙を考えたときの話であって、最初には自分しかいないので「愛」は自分にしか向くことができない。
遺伝的宇宙を考えるなら、根源的なものが同じであるとするなら他人であっても自己愛w
そもそも「わたし」というのは人間のことではなく、「存在」するものそれぞれであり、主体。
無定義用語である「愛」には二面性がある。二面性とは「波」でもある。
この二面性を根源とする宇宙を発展させていって、われわれの宇宙のようなものになれるかどうかをシミュレーションしようという、いわば、計算哲学。思考実験ではなく計算実験/シミュレーション哲学なわけ。
「無」とは、たくさんの「わたし」が無秩序に「ある」のだが、「存在」ではない。
「わたし」が「存在」してしまうと、空集合であるがゆえに外延性の公理から「ただひとつ」になってしまう。量子力学における「観測者」の問題と同じ。 量子力学の世界を考えれば考えるほどこの世は夢物語でしかない 『哲学とは、何か』
と、聞かれて、鷲田さんだったと思うが、
『私にもわからない』、と言っていた
私見ですが
『哲学とは何か』、と聞く者に
『明日は、何をしますか』
と、尋ねる
答えがあれば、『では、その次の日は?』
と、尋ねる
いずれ、予定の無い日になる
その日に、何をするか、(何をしたいか、何をするのが良いか)
を、考える行為が、『哲学』
と、言うのが、哲学とは何か、
に対する、答えである
この問いは、つまり、立ち返って、予定のある明日にも、果たして、その予定で良いのかと、問いただす行為となる
これが、哲学とは、何かに対する、答えである
また、つまり、毎日、毎日、やりたい事が尽きず、それに突き動かされて行く者には、哲学は無い
野生のオオカミには、哲学は無い この、哲学とは何か、という問い
《問いかける行為》、は、では、そもそも
あしたとは、なんだ
と問う行為となる、(思考する行為)
明日、とは何か
時間とは、何か
世界とは、何か
存在とは、何か
である 今さらながら気が付いたけど、こうやって表現してみると、
cos(x)とi*sin(x)って、式に現れる正負の符号が1つ違うだけなんだな。
(1/2)*(1/(-1)^(x/π)+(-1)^(x/π))=cos(x)
(1/2)*(-1/(-1)^(x/π)+(-1)^(x/π))=i*sin(x) 浮気発覚後の言い訳テンプレ
「ごめん」→謝るなら最初からしなければいいのに。
「寂しかったから」→寂しいと他の男に股を開くんですね。
「好きなのは貴方だけ」→好きでもない男に股を(ry
「もう二度としないから」→今後するしないでなく今したことが問題なんですが。
「別れるのだけはいや」→このまま続けるのだけはいやです。
「ひとりにしないで」→ばかだなー、お前には間男がいるじゃないかー(笑顔で
「じゃあ死ぬ」→そこまで想ってる人がいるのに浮気できるんだーすごいねー。
「寂しくて死んじゃう」→そこまで想っている人がいるのに浮気できるんだーすごいねー。
「どうしたら元通りの関係になるの?」→二度と会わないことを誓えば、出会う前の関係に戻るよ
「間男は冷たかった」→お前を甘くしてるのはお前だけだよ
「間男は裏切ったから」→お前は俺を裏切ったのにねー
「世界に一つの家族じゃないの」→それこそ今猛烈に後悔している
「もうこれっきりだから許して」→今度しないでなく(ry
「平日にいつも一緒にいてくれなきゃいや」→じゃあ一緒の会社で働こうか
「貴方にも責任がある」→好きでもない女にチンポ突っ込んでません
「残業ばかりで1人で寂しかった」→寂しいと他の男に(ry
「どうにかしてた」→こんな女に惚れた俺がどうにかしてた^^ 過去も未来も決まっているなら時間は自己同一性を持つ。
ゆえに時間は「存在」してしまう。
その上を別の時間を持つものが蠢くのであれば、そちらの時間は「存在」ではない。
時間が「存在」してしまうということは、「消滅」と同義なのかもしれない。
別の(存在ではない)「時間」を持つものが、時間が「存在」してしまった廃墟の中で蠢く。
廃墟としての世界というシナリオも考える必要があるのかもしれない。 さて、それで、単純に、単刀直入には
『明日は、何をしたら良いのか』
と言う、問いとなる
しかし、『そんな問は〜〜』
と敬遠する者が、多いだろう(この国では特に)
しかし、人は意識下でも、考えている(判断している)
ので、誰しも、日々の生活に(なにがしかの)
疑問を持っている 廃墟としての世界は、別の(存在しない)「時間」を持つものによって再生される。
われわれは再生された世界をみているのかもしれない。
心身二元論であればそれも成り立たなくはない。 時間とは何か
は、超難しい問いで
この問いを、問い立てている者も
いるかどうか、知りませんが
つまり、その答えは、時間を説明する論説で、
他者をあるほど納得させうる論説、です
時間とは、何なのですか
に対して
時間とは、〜〜〜〜
〜
〜
である、と言う論説
うん、難しいですね、ただ、時間とは何か
は、時間の意味は何か、
と問うている訳です
ハイデガーの、存在の意味は何か、と同じですね
さらに、ここで、時間とは何か
は、時間の意味は何か
と、全く同じなのか
もちろん、少し、違います
しかし、その少しの違いは、いったい何なのか なるほど
ハイデガーの、存在と時間、が
いまいち、理解してもらえないのは
存在とは何か、の問いと(問う行為)
存在の意味とは何か、の問い(問う行為)との違いが
良く説明されて無いからですね タダで書けるし、間違えても、責任無いし
書かせてもらいますが
ハイデガーの、存在と時間は、理解しようとして読んでもわかりません
あれは、あの本で哲学する本なのです
理解する本では無いのです
もっとも、この言い方は、漱石の坊ちゃんでも
同じ言い方ができます。坊ちゃんは、読む本では無く、あの本で坊ちゃんする本なのです
坊ちゃんを読む人は、読むたびに、坊ちゃんするので、その時、その時で、坊ちゃんの仕方が変わる
つまり、本から受ける印象が変わるのです 時計と時間は関係ないよ。
時計はどちらかというと数字と関係が深い。
でもって数字はどこにも存在しない概念。
動いていることを観測するなら、ろうそくが短くなるのを眺めるだけ十分。 宇宙は歪んでてワープ出来るから時間も多々あって変幻自在 >ろうそくが短くなるのを眺めるだけ十分
ろうそくを時計として使っているだけですよ?
ろうそくが短くなるのは蝋の燃焼が進んでいるから。
その進み具合が時間の経過を表している。 経験知で天動説は成立した
天動説だと理解しがたい天体の運動という経験知で
科学の経験知とは人間の認識の在り方での自然認識ということが意識されるようになる
座標原点を適当に設置する、ということを科学者は意識しているのはこのことからだと思われる
経験知によって経験知が相対化されたということだろう
保存則は何も生まれない、無くならないということ
しかし自然の目の前の対象は誕生し、無くなる
科学法則を前提にするのなら、やはりこの経験知が相対化されなければならない
科学者たちもわたしたちもまだ天動説を産んだ認識の在り方から抜け出てない 地動説は経験知の在り方の自己言及
進化論もまた
光速度一定の原理は科学法則による経験知の相対化であり
経験知の自己言及
自然科学理論は経験知という人間の認識の在り方であり
自然=理論ではないこととなる
方程式の出発点は仮構であり、天動説なのです
ここからは対象の運動はこう観測できるということ
天動説はこう観測できる=地球が中心で動かないとしたことが誤りで
この仮構であることを意識したのが地動説ということ 現代科学の知というかわたしたちは未だに天動説的認識論から脱していない 自然は無矛盾でなければ理解は出来ない
この大前提を忘れてはならない >>564
具体的に指摘すればどうでしょうか?
できなければ野次でしかありません 存在と時間は、失敗している書である、と言う意見もあるようですが
そう言う評価は、適切ではないと思っています
あの書は、存在の意味は何か、に答えようとしています
そして、答えています
存在の意味は時間である、、、@
です。そして、この言明を説明する為にかなり、詳細に、言ってみれば、丁寧に解説しているのですが。その解説が易しくない。
書を評価するのであれば、@を評価しなければなりませんが、その様な意見を見た事が有りません 時間とは何か、の問い、問いというよりたぶん疑問
には、直ちには、答えられません
時間の意味は何か、の解説が出来てからになるでしょう。そして、その前にまず、意味とは何かを説明しなければなら無いでしょう。
じつは、ハイデガーは書の中で、意味とは何かに答えています
それに、注目する者がいません 保存則は何も生まれない、無くならないということ
ではない。解釈によっては間違いではないが誤解を与えかねない。
保存則は、むしろ、「変化則」であると考えるべきかもしれなせん。
そこにすでに「時間」が「ある」。
つまり「時間」と呼ばれるものの根源は「原理」である。
しかし、保存則は法則であって原理ではない。
根源となる「原理」はわからないとして、
保存則という法則が「時間」を生み出している。
すなわち「時間」とは「物理量」である。
すくなくとも、物理量として「存在」する、といえる。 何も生まれない、無くならないというのは自然が理解できるということでもある
ただそこに在る
それは運動変化の過程として在るだけ
時間は運動変化を直接捉えることが出来ない人間の認識の在り方が要請する
観念としての存在
自然は無矛盾でなければならないというのは大原則 自然という対象に無で成立する次元が実在するはずも無い
自然は単純そのものだ
運動するエネルギーの濃淡の海でありその過程に実在する
次元も力もそれを理解する観念的存在でしかない
有を無、運動を静止という否定関係で理解「しなければ」ならない (現存在として)時間がなんであるかが、解る、と言う事態は
どんな事態であるのか
車がなんであるか、が解っている事態は、(いずれにしても)車を利用出来るという事態である
では、時間が何であるかが解ると、時間を利用出来るのか
時間が利用出来る毎日とは、一体、どんな事態、(現存在としての在り方)を言っているのだろうか けっきょく光速度一定の原理で幻惑され、量子力学の観測問題、不確定性原理とかが
無矛盾な自然観の確立という科学の大前提を放棄させたんでしょう
貫く棒の如きものというか糸が忘れられているのが現代の科学知 不完全性定理の解釈もまた何もわからないのだという理解をする人が増えた一因かな
自然が無矛盾であるから矛盾で理解されなければならないし
そしてその関係は決定不能であるということ
理解が可能だからこその不完全性定理 保存則は、何も生まれない、無くならない、ということを要請していない。
要請されているのは物理量の保存である。
なんのことはない、「無」に物理量を与えれよいのだ。
それでいて「無」という概念と整合性がとれていればよい。
KOBAYASHI-maru problemである。 >>568
メリットがあるのに抜け出せないと想定しているように見えたための振りです。 >>572
自然過程説(о´∀`о)
うわーぷぴぴ!
頭良い。 自然はエネルギー的に安定な方向へ向かうことを好む。その過程は示すために時間が必要とされるのであれば、可逆的ともいえるだろう。
しかしながら、一旦安定なところへ落ち着いたとするならば、それがまた不安定なところへ行くには膨大なエネルギーを必要とする。
従って、その行為が確率的に不可能なほどに外部からのエネルギーを必要とするならば、それは不可逆といえる。
老いて死ぬとはそういうことじゃないかな。
結局、生物は自然へ還っていくことが安定。 >>580
底辺、自然過程説が好きだもん(о´∀`о)!!! ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています