時間とは何か 23
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
>>720
スタート地点というところの、ラインの諸条件を描いた上で思えているか否かが問題なわけですが、その辺はどうなんですか? 以下の表現は、数学では認められていない。
cos(2tπ/(2iπ))+isin(2tπ/(2iπ))=(cos(2π)+isin(2π))^(t/(2iπ))=e^t
それでも、おそらく、時間は、この関係を成立させるような想定として捉えられているのだろう。
それは、この1時間と次の1時間、今日1日と明日1日がまったく違うものであることを
知りながらも、それを同じものの繰り返しとして捉える、矛盾を排除するわけでも、
解消するわけでもない想定である。 >>722
教育なんて、ダメダメだと思っていますけどね
人間の能力の可能性を切り拓くどころか、摘んでいるのが現在でしょう
科学にしても、混乱状態というのがわたしの理解
上手くいえないけど、こういう物理条件でこういう物理存在はこうなるというのは
予想できないのが多いし、逆にいえばある意味沃野だと まあ、漠たる予感ですが
科学の終焉を読んだ時に、ホーガンさんご冗談をという感想しかなかった
その後ブリゴジンが同じことを言っていたので意を強くしました 理由があるという理由がない。
理由がないという(メタ的)理由もない。
裸の無は理由がないということであり、
空とは理由そのものである。
主体としての「わたし」は「理由」である。
理由がないということが理由をうみだしてしまうとしたら、そのメカニズムはどういったものなのか。
「無い」ということが「有る」ということをうみだしてしまう。
保存則もみたしており、理由もうみだす。
ここでうみだされた「わたし」が真の「わたし」であって、「あなた」は真の「わたし」の遺伝的コピーである。
しまたー。神の存在証明だ。 おそらくこれが、ゲーデルのやりそこなった神の存在証明である。
不完全性定理は、あと一歩足りないのだ、という予想。 「無い」ということがさらに「無い」ということを「有る」と考えるか、より深い「無」であると考えるか。
「有る」ということがさらに「有る」ということを「無い」と考えるか、より深い「有」であると考えるか。
ネーターの定理から考えると対称性があるべきだ。
対称性とは「波」である。途中をすっとばして考えれば保存則とは「波」のことである。
ここで「理由がない」という問題に戻れば、
「波」でない理由はないということである。
かなり強引だw
「無」とはBLACKではなくWHITEである。
「無」には、可能なすべての波が「ある」。
このシナリオなら「無」から「自発的」に「存在=自己同一性」がつくることができる。
遺伝的ということも「波」であると解釈できる。
時空間の中に「波」があるのではなく、「波」が時空間と認識されるなにかをつくりだす。
非時空間的な「波」を真のモナドとして想像できるかどうか。そこが問題だ。
「語るものの正体」としての「波」。物理的な概念の波ではない。 濃淡の海ではないけれど、タレスは万物の根源は水と考えてたね
重力からフリーの液体って球状になるけど(無限とはいえ)濃淡の海の形やいかに
勿論海っていうのは比喩でしょうが 2 絶対座標の否定が示すこと
光速度一定の原理は不思議ですが、ここで注目されなければならないのは、絶対座標が実在しないということです。
地動説もそうですが、わたしたちは対象の運動を理解する場合には座標原点、運動量ゼロを適当に設けます。
絶対座標を探求することは、自然における始点の探求でもありますが、それはこの原理によって否定されたわけです。
座標原点はゼロ次元ですが、数学に拠れば数は部分を持ちません。その数をたとえ無限に集めたとしても0が部分を、つまり大きさをもつわけではありません。0×∞=0です。
このことは次元の実在が否定されたことを意味しますが、それは後ほど論じることにします。
この原理は静止の実在を否定していることを示しています。
つまり自然の存在形態は運動ということになり、量子力学の自然観である、運動するエネルギーの濃淡の海という理解を導くことが出来ます。
なぜなら運動を前提に有と無という否定関係が成立することはないからです。 いわゆるエーテルという光速度を変えるような物理存在は無いのですが、運動の普遍性を示していますから、物理存在そのものは否定できませんし、ディラックの海はそのことを裏付けていると言ってよいのです。
いわゆる真空はエネルギーの基底状態として理解すべきであり、何も無いわけではないということです。
ここから観測問題である対立する波と粒子と理解されている現象は実は波が渦の状態を呈していると考えれば対立、否定関係は解消されます。 自然は運動するエネルギーの濃淡の海ですからすべては波ということです。
(この理解はなんら突飛ではなく、現在でもブリゴジン学派の科学者たちはその予想で研究していますし、十九世紀の英国学者はそのように理解していますし、また古代ギリシャ哲学の一派は粒子は波の一形態だと述べています。
「ビッグバンはなかった」の著者であるラーナーはこの説に言及していますが、銀河系の渦状態を示す方程式との関係で面白い指摘をしています。)
重力は加速に必要なエネルギー量、諸力はある物理的状態から違う物理的状態、つまり渦の状態である粒子をさらに小さい渦状態に生成するのに必要なエネルギー量と定義すればよいわけです。
この理解において重力、諸力はエネルギー量に還元できるわけです。つまり力は実在しないのです。
重力は加速に必要なエネルギー量であり他の諸力は運動する自然の物理状態の生成過程に必要なエネルギー量という違う側面であることになります。
いわゆる最小単位問題は、ある物理条件が設定可能ならばいくらでも小さくできる、実際には渦の状態である粒子をより小さい渦状態にすること、つまり最小単位は実在しないことになります。
つまりすべては運動するエネルギーの多様な在り方ということです。
光速度一定の原理が示す無矛盾な自然観から、観測問題と最小単位問題の一つの解決案を出すことができましたが、不確定性原理は違う問題ですので次章以降で解決案を出すことにします。 フィロソフィアと、一般的な日常
フィロソフィア的な問題。そしてそれは人はなぜ問うのかと言う、問いにさえ至る。
何かの回答が、あるのか無いのかも良く分からない。
で、最初に哲学とは何か、の問いへの答え、を書きました。フィロソフィアは人に必要であると。ヨーロッパなどでは、何かの拍子に、貴方の哲学はなんですかと聞かれ、そんなものは考えてない、みたいな答えをすると怪訝な顔で見られると言います。
人であるなら、フィロソフィア的な問題は避けられないと、考えます。証明の様なものも出来るかも知れません。 >>701
追加発言
意識下の問題
これは、つじつまが合う、と言う発言への思い付きです。
辻褄があう、と言う実存的事象の説明の試みで、それは、人間はつまり現存在は、意識下でも物事を考えているからではないか。
人は意識下でも、物事に対する判断を行なっています。つまり、意識下でも思考しています。
また、意識下でも、つまりはっきり意識していないでも、何事かを認識している状態があります。 ビッグバンがないと宇宙の一部の途中からの説明がなりたたない。 わからないことというのは否定の根拠にはならない
大構造の年月はたしか六百億年前後だったかな
いまでも解決試みているけど、三十年くらいダメでしょう
他の仮説も説明できないのはいろいろあるけど
ガリレオはなぜ地球の裏側の人たちは落ちないんだと言われて
それは後世の人が解決してくれると言った
それはどの仮説も同じだけど、個人的には保存則破らない、光速度一定の原理を否定しない
プラズマ仮説が納得できる わたしの理解だと自然はただ運動変化しているだけで、時間も含めて次元はそれを説明する自然を抽象した観念的存在
実在しない有限で無限を理解している
ニュートン、ポーは無限宇宙論では重力で潰れてしまうと否定したが
有限が無限に集まって無限と理解している
実在しない有限が幾ら集まっても実在することにならない カントの二律背反は自然が無限であり論理が有限だとしないと解決できない
何より基本法則否定したらわたしには理解できない 自然科学は自然が矛盾したら理解できないでしょう
「現代」科学は大前提を忘れている >>736
やれやれ、次元は数だと思ってるみたいだね。違うよ。
端的に言うと次元とは方向かな?
0×∞=0
これで次元の実在が否定できる?
こんな掛け算が何を実証してるの?
基礎をちゃんとやらないと、こんなんなっちゃうんだろうね。 エネルギー保存則は何も生まれない、無くならないということ
光速度意一定の原理も静止する何も実在しないということ
つまり自然が無矛盾であることを証明した基本法則
これを破るような自然理解は誤りでしょう 「ある」ということを考える。「存在」ではない。
1があるとすれば、それが保存されるということは変化が無い。変化する理由がみあたらない。
2があるとすれば、2つの「もの?」の間に関係があり、関係が変化しても2は保存される。
関係がないという理由がみあたらない。関係がなければ2ではなく別個の1である。
1-1であり、1は変化しないのだから変化するのは「関係」である。
主体としての外部の認識者は必要ない。
この1が外延性の公理からただひとつであるとするならば、関係は自己射である。
ひとつになった1は消滅し、自己射だけがチェシャ猫のニヤニヤ笑いのように残る。
それは存在でないのにかかわらず「存在」である。
1と1は自己射に保存される。
振動しているのは「関係」であり、「波」とは「関係」の「波」なのだろう。
電磁波というものを考察しなおす必要がありそうだ。そこにヒントがある。
「関係」が「変化」するということ、それが「時間」という概念を生む。
「関係」が自己射を持つならば「存在」であり、そこだけを考えれば変化をみいだせない。
しかし、自己射を持たない「関係」は「関係」として「ある」にもかかわらず変化しないという理由をみいだせない。
「存在」を集合に限定されたクラス、
「ある」を真のクラスを含みうるクラスと考える。
「真の『ある』」が、変化そのものでもある。 「関係」が「変化」をもたらす「理由」としての「理由のないこと」がやっとみえてきた。
1対1の関係では「変化」にまでいたらない。
やはり3つ必要なのだ。
関係とは2であり、それが3の関係であれば2-3オートマトンが形成できる。 2*3=6。
6本のルールはアインシュタイン方程式における6本の運動方程式である。
さらに4本の方程式は2つの保存則である。
2-3オートマトンの2と3、状態と色で2つ。これほ保存則と考えれば、
4つの方程式から成り立っているはず。
状態が運動の保存則であり、色がエネルギーの保存則。(逆でもつじつまがあっていればよいw)
とりあえずアインシュタイン方程式につながる道がみえてきた。 古典的にデカルト座標で考えるなら、
2-3オートマトンは、回転と並進の2つと3つの座標から6つの自由度を持つのだとされるだろう。
2-3オートマトンにおける6つのルールは自由度だと考えられる。
これはxyzあるいはxyiオートマトンとでも呼ぶべきものかもしれない。
古典的には三次元空間上で展開されるはずだ。まずここをしっかりとおさえておかないと、
次のステップである量子論的描像にたどりつけない。 時間とは何か、の問い
実は、個人的には、このスレッドを立てた人に、好感は持てませんでした。
本気なのか? と言う気持ちが、先になったからです。
しかし、たとえ不完全でも、ハイデガーが、存在とは何か、に答えているとしたら、時間とは何か、にも答えはあるかも知れません。
そして、そこに、問いがある以上、研究する、考えてみるしかない。
この、問いがあるからと言う事情は、何故か、禅問答みたいですが。 存在者が時間的に存在することが現存在を映し出しているのです >>749
変形や変質し続けているさなかですが
保存則が尽きる可能性は絶対にない? 何も生まれませんし、無くなりませんから
身の周りでもそんなことは起きませんし
何よりも時間は実在せず、自然はたんに運動変化しているだけです
今、一瞬が永遠に自然の存在形態として在るだけです
今の正体は運動です 人生暇つぶし。退屈死しないように、時間があったりなかったりする。 説明と了解
我々は、現存在は、了解して何かでいます。
そして、その了解は、ある説明によって構成されています。
明日、会社に出て行く者は、その事情を了解しています。あるいは、了解させられています。
ある現存在が、何かボーとして今日を過ごすとしても、その者は、ある了解の中で今日を過ごしました。
ある人が、今日、何かをしているのも、そして何かをしないでいるのも、了解してなのです。
我々の実存は、ある了解の中にあります。
その了解が、不十分だとしたら、より充分にしたいのです。
我々の実存の、了解に向けた説明の中に、時間とは何かの問いがあります。その問いは、問い続けられます。 >>711
わかるけど俺としてはそれは能力がどうというよりはその発想をその時たまたま持っていたかどうかだと思う
もちろん能力が高い方がそういう発想をいくつも同時に抱えたり新たに気付いたりできるんだけど
天才が全くの無から思い付いてるように見えても、それは彼らがその裏にある理論を言語化できないだけで
彼らなりの思考の道筋というものはあるはず。裏に思考がないならたまたま当たることはあっても当て続けることは不可能でしょ >>763
イマイチ理解できなかったんで、展開期待したりします お前に俺の気持ちが分かるかよ。
まだ私欲で行動するのかよ。 中学生でも扱えるような簡素な放物線を使ったテレビゲームばっかり作りやがって 「裸の無」は保存則に従えない。それが保存してしまうと「空」になってしまうからだ。
「空」は保存則に従い、保存則自身でもある。
そして「主体」であり、「主体」であるがゆえに「空」は「空の『宇宙』」を持つ。
保存則が尽きると考えるならば、それは「空」の消滅である。
「空」の消滅とは「裸の無」になるということだが、「裸の無」は「無」であるがゆえに「ない」。
よって、保存則は尽きない。
すべては「空」の遺伝的発展である。
「空」とは「仏性」であり「神」でもある。
「神の存在証明」ではなく、「仏性の存在証明」である。「仏性」は尽きない。すべてのものごとは「仏性」の遺伝的発展である。 気を付けなくてはならないのは「遺伝的発展」という「煩悩」だろう。
「保存則」が「煩悩」をうみだしてしまう。
「保存則」こそが「煩悩」の元となる「愛」なのだ。
「空」は常に「可能性」をうみだしている。「可能性」とはなにか。それが問題だ。
「保存則」とは「自己射」であり、「対象」である。
「空」は対象としての自分自身を取り込もうとする。
ラッセルのパラドックスである。
パラドックスが矛盾にならないように「可能性」がうみだされる。
この「可能性」を「希望」であるとみなして、可能性をうみだす機構をパンドラ構造体と仮に名付けてみたわけだ。
矛盾+可能性=無矛盾
これが「変化」や「時空間」となるものの正体であろう。 パンドラ構造体、パンドラ機構への言及は先送りしてモナドを考える。
ライプニッツのモナドはモナドではない。
真のモナドは「空」であり、ただひとつである。
ライプニッツのモナドは「真のモナド」の遺伝的発展であり、やはり、モナドの定義から外れる。 時間には展望(prospect)と回顧(retrospect)があるんだよ。展望と回顧は、
対称的な関係にはない。なぜなら、回顧は既に起きたことの回顧であり、
個別の事象にかかわるが、展望は、これまでに生じたことの反復または
展開として見通されるのだから。 >>759
運動が継続している間、何も生まれないしなくならないのは理解できますが
身の周りでそんなことが起きないのは継続しているからではありませんか?
自然の存在形態そのものが停止する事態が起きる可能性がないと
人間が言い切ることはできないのではないかと思う。 光速より速いものはない
「今」のvelocityは光速
こんなに宇宙は広いのに遍く光速で同期
普く同時に訪れる未来
velo velo ばー 僕は理系の人達の方が好き。
だから、このスレは割と好き。 2 絶対座標の否定が示すこと
光速度一定の原理は不思議ですが、ここで注目されなければならないのは、絶対座標が実在しないということです。
地動説もそうですが、わたしたちは対象の運動を理解する場合には座標原点、運動量ゼロを適当に設けます。
光速度一定の原理は、自然における絶対座標、つまり自然における始点を実験で否定したものです。
座標原点はゼロ次元ですが、数学に拠れば数は部分を持ちません。その数をたとえ無限に集めたとしても0が部分を、つまり大きさをもつわけではありません。0×∞=0です。
このことは次元の実在が否定されたことを意味しますが、それは後ほど論じることにします。 この原理は静止が自然のどこにも存在していないことを示しています。
つまり自然の存在形態は運動ということになり、量子力学の自然観である、運動するエネルギーの濃淡の海という理解を導くことが出来ます。
なぜなら運動を前提に有と無という否定関係が成立することはないからです。
いわゆるエーテルという光速度を変えるような物理存在は無いのですが、運動の普遍性を示していますから、物理存在そのものは否定できませんし、ディラックの海はそのことを裏付けていると言ってよいのです。
いわゆる真空はエネルギーの基底状態として理解すべきであり、何も無いわけではないということです。
ここから観測問題である対立する波と粒子と理解されている現象は実は波が渦の状態を呈していると考えれば対立、否定関係は解消されます。
自然は運動するエネルギーの濃淡の海ですからすべては波ということです。
(この理解はなんら突飛ではなく、現在でもブリゴジン学派の科学者たちはその予想で研究していますし、十九世紀の英国学者はそのように理解していますし、また古代ギリシャ哲学の一派は粒子は波の一形態だと述べています。
「ビッグバンはなかった」の著者であるラーナーはこの説に言及していますが、銀河系の渦状態を示す方程式との関係で面白い指摘をしています。) 重力は加速に必要なエネルギー量、諸力はある物理的状態から違う物理的状態、つまり渦の状態である粒子をさらに小さい渦状態に生成するのに必要なエネルギー量と定義すればよいわけです。
この理解において重力、諸力はエネルギー量に還元できるわけです。つまり力は実在しないのです。
重力は加速に必要なエネルギー量であり他の諸力は運動する自然の物理状態の生成過程に必要なエネルギー量という違う側面であることになります。
いわゆる最小単位問題は、ある物理条件が設定可能ならばいくらでも小さくできる、実際には渦の状態である粒子をより小さい渦状態にすること、つまり最小単位は実在しないことになります。
つまりすべては運動するエネルギーの多様な在り方ということです。
光速度一定の原理が示す無矛盾な自然観から、観測問題と最小単位問題の一つの解決案を出すことができましたが、不確定性原理は違う問題ですので次章以降で解決案を出すことにします。 二時間前に書き飛ばしたので推敲はあまりしていませんが
ここで簡単に自己言及について考察したいと思います
三浦つとむ氏は、言語を対象ー認識ー表現という構造を持つとしました。
スポーツの実況中継はそれがよくわかります。
わたしという言語表現の場合、自己言及ですが、対象と認識主体が同一です。
この「わたし」という言語表現の認識構造を考えてみることにします。
わたしたちが地図を描く場合には、頭の中で街の空の上に自己がいるものとして描きます。
日本地図、地球、太陽系などそれまでの知識が元になって描くわけです。
またわたしたちは赤ん坊を見て自分の過去、年上の人たちを見て自分の将来をそれぞれ想像します。
テレビドラマを見たり、小説を読んだり、映画を観たりして頭の中で過去や未来、現在、他の天体に行ったり、宇宙人が来たり、またそれらの中の主人公とか空想上の、また歴史上の人物などになったりします。
わたしたちにはこういう能力があり、それは三浦つとむ氏は観念的な自己分裂と名付けました。 わたし、という言語表現も、頭の中で自己自身を対象として、認識し表現するわけです。
それを直接示すのが、鏡です。鏡を見てわたしたちは服装が似合っているかとかいろいろ観察します。
この場合、実は頭の中では鏡に映った自分が現実の自分を認識することになります。
この場合、鏡の中の自己が認識主体ということになり、現実の自己は認識対象であり、それが「わたし」という表現となります。
これまでが三浦つとむ氏が「日本語はどういう言語か」、「弁証法はどういう科学か」で展開された観念的な自己分裂という用語のわたしの理解した説明です。 わたしは、ただ一点この説明に疑念を抱いています。
それは表現された「わたし」は鏡の中の「わたし」が現実の「わたし」という理解です。
実はここにも「クレタ人の逆説」の本質である決定不能という命題が潜んでいるのではないのか、ということです。
認識対象である現実の自己と認識主体である観念としての自己は対立関係で、互に他者としての自己です。
つまり現実の自己、わたしは鏡の中の自己にとっては他者でもありますし、また鏡の中の自己は現実のわたしには他者なのです。
「わたし」という表現にはこの決定不能というクレタ人の逆説が潜んでいるのではないか、というのがわたしの疑念です。
認識対象と認識主体という対立、否定関係がもたらす決定不能ではないかという疑念です。 表現としての「わたし」という自己言及は認識主体と認識対象という対立が本質としてありますので、このような決定不能の命題を抱えます。
運動を理解するには静止という運動の否定で理解しますが、運動とは何かと定義することは、そのことの自己言及です。
数学では有限を無限で理解しますから、これも否定関係ですし、不完全性定理はこのことの自己言及です。
自然科学という学問は自然が生成した人間の脳が自然を理解しますから、その本質として自己言及であることに成ります。
意識が薬で変容することは知られますし、睡眠薬は意識を一時的に無くしたりできますし、また脳を無くせば意識もまた失われます。
このことは意識は物理存在のある状態の付随現象と理解されるべきことを示しています。
未完 (全て私見ですので(当たり前)、以降、断りません)
世界とは何かの問題
世界は、意味的に世界である。世界が、どういうものか、が説明される必要があるでしょう。
世界は、意味的に世界である、と言う言明は、また、主張でもあり、他者の同意を求めるものです。
意味の個別性
蕎麦の場合を、考えてみます。蕎麦は食べもので、如何の斯うのと辞書によって説明されます。しかし、蕎麦アレルギーの人にとって、それは食べものではありません。
意味は、個人的、個別的なあり方をしています。
個別的なあり方の意味から、世界を捉え、説明する試みは、他者との共通世界の成立を、またそこから、説明しなければなりません。
意味は、行為にある
意味は行為にあります。わたし、という言辞の意味は、その発言行為にあります。誰かに対しての、発言行為にあります。
人が、わたし、という言辞について思考する時、既に、その思考は言語行為の前提の中にあります。
前提が、仮定されています。そうでなければ、その言語は、発音されず、書かれてもいないので、それこそ、何の意味もありません。持ち得ません。書かれた言葉は、誰かに読まれることを前提してあります。すなわち、無言の中で、表象される(読まれる)、行為を前提して
あります。
(全て、説明不足ですが、とりあえずの
概略にはなるでしょう) たかが「自然」世界の理解をするための部位でしかないということで 『神との対話』シリーズの神。
どこか特定の宗教だけの神ではなく、
世の多くの宗教にインスピレーションを与えてきた普遍的な唯一の神。
思索的な哲学書として読んでも面白い書物だと思います。
イエスの事も「イエスは最高のマスター(師)の例だが、イエスだけが聖者・マスターではない」と。
今回は宗教や格式を超えて、愛を持って気さくな形で人類に語りかけてきてくれた。
この愛の神を本当に信じ、心に受け入れれば、本当に世界の観方と経験が変わると思います。
《10分ほどで読めて分かる『神との対話』》
https://conversationswithgod.wixsite.com/kamitonotaiwa-matome
意味は行為に
意味は行為にあるので、実行出来ないなら意味がない、と人は日常的に発言します。
そして、必ずしも実行可能性の見通せない物事について思考する(思考を繰り返す)事態が、人の実存が、サルトルの言うように、言わば、(即自存在と対自存在に、)分裂してあるかの様に捉えられる原因です。 共通世界
個人的、個別的な意味から捉えられた、言わば一次的な意味世界より、他者との協力共同する共通意味世界の、獲得、説明が、諸社会科学の基礎になります。 時間は実在する
すべての存在は変化(生成・消滅・動)する
変化は少なくとも二つ以上の物が存在しなければ変化はない
一つの物しかなければ何物にも変化しえない
変化とは物と物との関係性が本体と言える
しかし関係性それ自体はただの事実で現実的には何も動かすことはできない
物と物とを動かす別の力を必要とし、それは必ず継続的でなければならない
そのようなものは時間しかなく、時間は実在すると言わざるをえない 翻って獲得される世界
人は、ある社会のなかに、既にあり、その社会のなかに流通する意味を受け取り、社会を(世界を)受け取り、その中の自己を了解し生活を始めます。
しかし、いつかフィロソフィア的思考を始める時、翻って意味とは、世界とは、自己とはと、思考し、そして個別的な意味世界を獲得します。意味世界は翻って獲得されます。そしてその個別的意味世界から、他者との共通意味世界が
獲得、構築されます。様々な、制約や条件付きだったとしても。
その制約や条件のあり方が、その時代と呼ばれます。 科学が示す事実として世界は一である
すべては差異としてあることもまた示している
差異としての関係性というだけ
一つのものの存在形態が運動であり、その濃淡、差異が多として減少しているだけ
科学は次元そのものの実在を否定している
ここから出発しなければならない >一つのものの存在形態が運動であり、その濃淡、差異が多として減少しているだけ
一つのものの存在形態が運動であり、その濃淡、差異が多として:現象しているだけ 否定関係で理解しているだけ
生物分類はそのことを示している
ウィルスは生物もまた物理存在としてということを示している
生物は物理存在の差異でしかない わたしたちは時間とは何かを自然が示す事実から理解すべきであり、それ以外ではない 過程さんの「時間」は死体にとっての時間って感じなんだよなぁ
素の宇宙は死体か 理解とは
1足す1は、2ですね。数学者は、これを厳密な科学と言います。
しかし、実際1足す1は、2にはならないといった方が正しいのです。
まず、1リットルの水を正確に取る事が容易ではありません。更にもう一つ1リットルの水をとったとして、それを合わせると2リットルの水になりますか。
容器に張り付いて、移動しない水を考慮しただけで、それは出来ない事が明らかです。
更に、2リットルの水があったとして、それを1リットルと、1リットルの水に分ける事が出来ないなら、初めにあったのは、2リットルの水であると主張する行為は、どれほどの意味があるでしょうか。あるいは、あったのでしょうか。
我々は、人は、理解させられているのであって、それ以外ではありません。あるいは、それを越えて、理解していると言う者は理解の伝道者か、何かの諦めを呑み込んだ存在者でしょう。 理解とは
実存者の理解とは、理解させられていると言う、一つの現象である。社会内存在の現象である。
理解しょうとする行為が、悟りとか、何かの諦めに行きつくのてはないか。
(前項、最後は少し言い過ぎ) 宇宙を完全解明した人間はいない
実際に示している自然の運動から宇宙を理解しようとするのは認識学で
科学は認識を証明できなくても、自然法則から宇宙世界の構造を考えるのが哲学だな
> 何も生まれない、無くならないのが宇宙
何も生まれないし無くならないのが自然だったものから宇宙という世界まで通用するかどうかが
自然を理解しただけでは不完全だろう 理解とは
水の件、の他に、二個のリンゴを検討してみます。街で美味しいそうなリンゴを見かけたので同じような大きさ、形、色の物を選んで二個のリンゴを買って帰ります。
二人の兄弟が、そろってリンゴが好きだからです。二個のリンゴは、一個と一個のリンゴに分けられるはずで、問題は無さそうですが、そうはなりません。
一方が、こちらが欲しいと言い、もう一人もそれが欲しいと言えば、事件の発生です。
最初にあった二個のリンゴは、リンゴ花(固有名詞)と、リンゴ雪だったのです。 自然を(傍観者的に)理解するということがそもそもの間違い。
ホイラー的見解では「理解」は「傍観」ではなく「参加」である。
参加型の理解でなくてはならない。
(ま、わたしの場合は、参加を通り越してメソッド哲学(c)なわけだが) 時間了解
ハイデガー風に言えば、我々は日々、時間のなかに居て、時間に対応して生活している。それでありながら、時間とは何かと問われると答えられない。
つまり、ある時間了解のなかに居る。
その了解は、意味的である。 傍観者では意味がとれない。
参加者であるからこそ「意味」があるのだ、と考えるとおもしろい。
哲学と量子論は同じものだなやはり。 時間とはマンコだよ
オ マ ン コ を哲学する。A [無断転載禁止]©5ch.net
1 名前:考える名無しさん 2017/04/06(木) 00:37:12.63 0
おまたせ
シーズン2だよ。 自然科学が示した事実でそれ以外ではないし
そこからが出発点だろう e^t(cos(t)+isin(t))=(-1)^((1-i)t/(π))=(cos(π)+isin(π))^(2t/(2π)+2t/(2iπ)) 余計な括弧が入っていたから訂正
e^t(cos(t)+isin(t))=(-1)^((1-i)t/π)=(cos(π)+isin(π))^(2t/(2π)+2t/(2iπ)) 付随現象としての意識は、うまれて、なくなる
から保存則的にはチャラですか?
そも無関係? 出発する時が訪れる。訪れた時を振り返って見ると、そこに出発してからの時間がある。 >>812
この辺は説明が難しいなあ
物理状態は恒常として在るのですが、それはであって、ではない、ということが、です。
対象は、で在って、ではないという決定不能です 存在者の現れというのは、回顧的(retrospective)な反復の写し(double)である
と言うことができるのかもしれません。 物理存在としては何もなくならない、生まれない
物理存在の運動変化による状態は、であって、ではないということ
このことは無くならない
○○であって、○○ではないというのは不同一を同一として捉えるからです
運動変化の過程で差異としての物理状態に生成されていく
物理としては何も無くならない、生まれない
やはり理解の在り方が生死という認識になるわけですが
なんか手懸りが掴めそうなんですが
やはり同一という理解の在り方の問題だとは思います
挟雑物が何か、ということが判れば >>811
この表現は、よく耳にすることのあるフーリエ変換と呼ばれるものと
関係しているようですね。私には、数学的な説明はさっぱり分らない
けれど、存在者として認識されたものの時間的変化を現存在との
かかわりで考えて言語化するためのヒントになりそうだと感じられる。
数学を専門とする人にそんなことについて尋ねても、無関係だと思うと
即答されるだけだとは思うけどね。 運動変化している自然を静止で理解する
この今に於いて、であって、ではないという物理状態
今は運動であり、幅が無い
幅が無いとは静止で理解された運動
であって、ではないという物理状態が恒常
である、という静止で理解した対象は運動変化している
わたしという静止で理解した対象
言葉は静止であり、理解に付き纏う
運動を静止で理解する
静止で理解された対象は運動変化して差異としての物理状態と成る
しかし物理状態としてのであって、ではない、ということ自体は失われない
どこで差異として質の違う物理状態と成るのかは、始点が無い以上認識できない
この今に於ける差異としての物理状態というのは無くならない 因果的閉包性 - 心の哲学まとめWiki - アットウィキ
https://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/50.html
アルキメデス「私に地球外の1点をお与え下されば、地球を動かして見せましょう」 「理解」とはなにか。
「わたし」である人間は想定しない。
人間を想定しない場合の「理解」とはなにか。最低限必要なものはなにか。
「理解」するということを「理解」できなければならないだろう。
それが「理解」できねば「理解」ではない。
しかし、人間を想定したとしてもそれは理想にすぎないのかもしれない。 >>823
なんだそれ?
ゼノンのパラドックスってやつ? >>823
その理屈は通ると思う
そしてその理解は科学的になんの役に立つ前提なのか 無くなるとは静止、否定として理解された運動変化する物理状態であり、運動しているエネルギーが呈する変化する物理状態自体は普遍であり無くならない。
同一であることは無い自然を同一で理解する。
同一であると理解された不同一である自然は常に生まれ、また無くなっているとも理解できる。
つまり存在すると同時に存在しないということ。 >>829
自然認識の在り方の前提です
有限で理解する科学理論は、認識の在り方を媒介したものであり
自然そのものではないということです。 >>828
ゼノンの逆説をどう理解したらよいのかが出発点です 3 次元は実在するのか
次元の出発点であるゼロ次元を科学革命である地動説、そして光速度一定の原理も否定しています。
一次元はそのゼロ次元の無限集合であり、二次元もまたその一次元の無限集合、
三次元もその二次元の無限集合であり、運動しない三次元の実在は光速度一定の原理によってその実在は否定されます。
三次元はもともと自然の物理存在、たとえば木、机などの高さ奥行き幅などを計るためには便利ですし
また時代が違っても場所が遠くてもその単位で計測された記録があれば理解できるわけですが
高さそれ自体、奥行きそれ自体は実在せず
物理対象としては分離できるわけではありません。
始点、幅、厚み、運動などの諸次元はそれぞれ独立して自然に実在しないのです。
つまり次元は対象の大きさを理解するために物理存在から抽象されたものであり、実在しないのです。
それは果物一般は実在せず、個々のミカン、リンゴ、スイカとして実在するのと同じです。 単位にしてもフット、つまり足の大きさで測られたりメートルで測られるのですが、
単位の設定は自由で、単位を変換すればヤード、尺で理解することも可能になります。
このことは単位が物理存在から抽象したものですから変換自体が可能になるということです。
また自然は濃淡の海ですから、ここからここまでということは量子の世界では在りませんし、
このことは物理存在の次元の実在を否定しているわけです。
わたしたちは濃淡の海である淡、エネルギーの基底状態としての真空は認識できないのです。
四次元である時間はどうでしょうか。
三次元が諸次元の集合ですが、当然四次元もまた三次元の集合ということになります。
四次元もまた三次元の無限の集合となるわけです。
四次元、つまり時間が実在すると仮定します。
そうだと仮定しますと一秒の時点にも対応する三次元があることになりますし、
どの時点を指示してもそれに対応する三次元が実在することになりますし、
最小単位としての時間、四次元が実在するとしたら、三次元が四次元を構成しますから、
当然その中に無限に実在しなければなりません。
仮に一秒という時間が実在するとしたら、一秒と自然に存在できない寿命の短い、
たとえば素粒子という物理存在はわたしたちの目の前には在るのと同時に無い状態に成ります。
次元が実在すると仮定しますとたとえ時間がどのように短くとも三次元
、つまり静止している物理状態が無限に実在しなければならないのです。
つまり四次元もまた三次元同様にその実在が疑問になるわけです。
三次元が物理存在のための頭の中にだけある存在ならば、四次元もまたそのようなものとして在るのではないのか、という理解になるのは当然です。
では次章では四次元、つまり時間とは何かを論じる前に論理と何かを考えてみることにします。 4 論理の性格について
たとえば、わたしという物理存在は赤ん坊から大人になるまで大きく変化していても、同一としての「わたし」として理解されます。
地球でも太陽系でも自然でも、それ自体では常に運動変化していますしこの意味では人間と同じで、地球、太陽、自然という同一で理解します。そして人間も地球も太陽系も自然自体はどんな場合も同一であることはないのです。
光速度一定の原理が示すように静止は実在しませんし、同一であることはありません。
つまりわたしたちは非同一としての自然という対象を同一で理解するということです。
言い換えると運動する対象をその否定である静止で理解するということです。
このことは自然認識の在り方にどうかかわるのでしょうか。 ヘーゲルという哲学者は、今、此処と指示すると今も此処も飛び去ると指摘します。
このように運動は直接には捉えられませんから量で理解するわけです。
対象である物理対象、つまり人間、車、などなどの速度は座標原点を適宜に設定して運動を量にして理解するわけです。
このことは運動を静止、つまり運動量ゼロとして無限の集合としての四次元、つまり時間で理解することを意味するわけです。
微積分で、限り無くゼロに近いがゼロでは無いということ考えが前提になっていますが、この運動という有を静止という無で理解するということを示しています。
(この不思議な考え方はクレタ人の逆説とも関係しますが、それは後ほど述べることにします。)
またヘーゲルは「運動とは存在すると同時に存在しないこと」と定義しました。
この定義を最初に読んだときにわたしはまったく理解できず、この謎のような定義は以降わたしの頭を離れませんでした。
この不思議な定義を理解する鍵であると思われる「クレタ人の逆説」を考察することにします。 「クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言った」というものですが、仮にクレタ人が嘘つきならば、クレタ人本人が嘘つきであるということは言いませんし、クレタ人が正直でしたら、嘘つきだと言うことは無いのです。
この命題は決定不能の命題と知られていますが、この問題は対象をその否定で規定するからです。
クレタ人が嘘つきであるということをその否定、つまりクレタ人が正直に言うからです。
運動を理解する場合に、わたしたちは静止という否定で理解しなければならないのです。
ゼノンの逆説の一つである「飛ぶ矢の逆説」というのがありますが、これは「飛ぶ矢は空間の一点に存在するが、静止もまた空間の一点に存在することだから、飛ぶ矢は飛んでいない。」というものです。
「存在」という定義もまた静止であり、運動を静止、つまり対象をその否定で理解しなければないないことをこの逆説は示しているということです。
つまりクレタ人の逆説と同じであり、運動という対象をその否定で規定するからなのです。
板倉聖宣氏が「新哲学入門」で示すように論理の本質は静止ということを「飛ぶ矢の逆説」は示しています。 ヘーゲルの運動規定もまた、対象をその否定で理解する、つまり運動を静止で理解するから「存在すると同時に存在しない」という決定不能となることを示しています。
いわゆる弁証法の主張する矛盾とは、この決定不能であることを示しています。
生物学者のある方は、生物は生きると同時に死んでいると語ります。つまり生物もまた物理状態としては同一であることは無いわけですが、同一で理解しなければならないことを示しています。
自然もまたその存在形態は運動ですから、同一であることは無いのですが、同一で理解しなければなりません。 ゼノンの逆説は良く知られたものに四つあります。
一つは「競技場の逆説」で時間と物理に最小単位があると仮定するとその半分が存在することを証明したもので、最小単位は実在しないことを示します。
またピタゴラス学派が主張するように自然を構成する数が部分をもたないのならば、アキレスの前にいる亀の空間には無限の数が実在しますから、その無限の数をアキレスは踏破しなければなりません。
(それ以前に部分の無い数、大きさの無い数を無限に集めても大きさを形成することはありません。
0×∞=0なのです。)
二分の一の逆説も大きさの無い数が実在したら目的地に到達することはできない、つまり運動は不可能であることを示しています。
「飛ぶ矢の逆説」は点、つまり大きさの無い数が実在したら、運動が不可能であることを示しています。
この逆説は座標原点が実在すると仮定すると、飛ぶ矢はその一点に実在するのですから、座標原点が意味する静止とその否定である運動は区別がつかなくなるわけです。
(ライプニッツは静止とは運動の均衡状態だと指摘しています。
野球のボールが静止している状態にあったとしても地球自身は運動しています。
わたしたちがこれらを、動いている、動かすと認識ことはこの均衡状態が破れる、つまり加速であることになります。
つまり運動の否定である静止は自然には実在しないのです。)
ゼノンの逆説は、ピュタゴラス学派が主張するように大きさの無い数が実在したら運動は不可能であることを示しています。
科学もまた絶対座標の実在の否定を意味する光速度一定の原理によって、大きさの無い数の実在を否定しました。 しかしこの逆説は数で理解することは否定していません。
存在という言葉は静止であり、わたしを含む自然を静止として理解するということです。
つまり対象をその否定で理解することです。
自然の存在形態は運動である、という場合の存在という言葉は静止ですから、決定不能ということになるわけです。
科学革命である地動説はこの意味では地球が静止すると「仮定」、つまり座標原点を設定して天体運動を観測することを指摘したとも言えます。
光速度一定の原理は絶対座標が実在しない、つまりこの自然のどこにも静止する特別な位置が実在しないことを示します。
このことで自然の存在形態が運動、つまり無矛盾で理解可能であることを示しました。
このことは自然認識である自然科学という学問は、あくまでも人間の自然認識の在り方、つまり静止で理解されていて、自然とはイコール、つまりそのまま自然を写したものでは無いことを示します。
このことは自然科学の理論を規定してきます。 科学革命は自然が運動するエネルギーの濃淡の海であり、わたしたちを含めてその運動変化の結果としての生成過程に在ることを示します。
数、点が実在しないので空間に終始もまた実在しません。
座標原点、絶対座標が実在しないことはこのことを明白に示します。
ビッグバン仮説は未だに確たる証拠があるわけではありませんし、宇宙の果て自体も観測されていません。
いわゆるインフレーション仮説の前提である空間は光速度一定の原理から外れるという仮定は実証されていない仮説です。
あるビッグバン仮説を支持する科学者は新定常宇宙論を好き勝手な仮説を設定すると批判しますが、ビッグバン仮説もこのような仮説で成立していますし、
幾つかの観測事実を説明できていなかったりするのはどの仮説も同じで、近藤陽次氏が語るように、今のところこの仮説で決まりだということはできないのです。
この仮説はなによりも光速度一定の原理の前提である絶対座標が実在しないこと、つまり科学が発見した観測結果を否定しているのです。
さらにエネルギー保存則もまた否定しているのです。
これらの重要な基本法則を破り、検証されていない仮説で成立する学説をわたしは支持することはできません。 >>830 で、無くなる、無くならないということの説明を試みました
まだイマイチかなあ・・・ 関係ないですが、例の731部隊のアメリカ公文書を調べた外人さんが
何も出てこなかったと記しているそうです
なんかなあ・・・
アメリカが公開した731部隊の資料。
"To be honest, I'd hoped we'd find something," Mr. Drea says.
"That's the historian's dream: fresh information that illuminates a dark problem. It just wasn't there."
「正直、何か見つかると思ってた。歴史家の夢、闇を照らす新情報、そんなものは無かった。」
731部隊関連文書、アメリカが隠してると散々言われ続けた機密文書が近年公開され
米の公文書図書館で10万ページを読み漁ったドレアさんのボヤキ
http://chronicle.com/free/v53/i20/20a00901.htm
〜まとめ〜
・日本からの風船爆弾には細菌の散布装置はついていなかった。
・石井中将には細菌兵器の戦略及び戦術的な使用に関する「着想」があった。
・終戦後、731部隊関係者がモスクワ近郊で細菌兵器の研究プロジェクトに従事させられた。
・患部の写真等の資料を石井中将が保管していた。
・人体実験の証拠は一件も発見されませんでした。
・ついでに「慰安婦問題」を裏付ける文書も探したが見つからなかった。 歴史としての事実はなかなか確定しないみたいだなあ
勝海舟の談話でも、法螺話もあるとかで、公文書とか調べたら
裏づけもある話もあるそうで
繰り返し検証できる科学観測もあるけど、それが何であるかはわからなかってりする わたしの科学への異議は、観測事実ではなくその理解です
ライプニッツのニュートンの重力某定式への敬意と重力概念への異議と同じです 意味
閑けさや岩にしみ入る蝉の声、、芭蕉
どのようにしたら、岩に蝉の声が入ると言うのか、不可能である。蝉の声がうるさいのに、何故、閑かだと言うとか。論理矛盾である。 ランダムに打たれた点の集合を見て人は何かしらパターンを見つけると人はランダム性を疑う
逆にある程度の数値の上限を持たせた上でマクロに見ると均一に見えるものをランダムだと思う
しかし真にランダムな場合は無限大に点の間隔が開く可能性があるために限られた範囲内に点が一つもない可能性の方が高い
数学や物理を用いて法則を導き出してもそれは人がそう思い込み法則を数学的に作り上げているに過ぎないのかもね 人は有限性の中でしか物事を捉えらないし
数学もまた有限の中で成立する学問だよね
文学も数学で記述は出来るだろうけどそこに有用性を見出さないから取り組む人はいない
しかしAIに文学を書かせるといった取り組みも出てきている
AIが文学を作る過程は複雑すぎて人間は把握できない、或いは把握に膨大な時間がかかり人間用には応用し難いだろう 意味
蝉しぐれ
その山で作者が、体験した蝉の声は、何dBだったのか。その音量は、人が静かだと思える音量なのか。また、岩には確かに何パーセントかの音が入り込むが、それは音の周波数、その岩の表面温度、などで変化するだろうが、岩の表面で反射する音波の方がはるかに多量だろう。
音波が、しみ込むのであれば、周囲にある樹木への、浸透の量の方が明らかに多量だろう。
なぜ、作者は、樹木に吸収される音量に、言及しないのか。ナンセンスである。 3次元(パンドラ)は4次元を裏返したのだ
3から4で包まれたものは3軸加速度センサ なにかを理解するとは、そのなにかが当たり前になるということ
当然 同然 1/2*((-1)^((2t/(2π))+(2t/(2iπ)))+(-1)^((-2t/(2π))+(2t/(2iπ))))=
1/2*((-1)^((1-i)t/π)+(-1)^(-(1+i)t/π))=e^t(cos(t))
1/2*((-1)^((2t/(2π))+(2t/(2iπ)))-(-1)^((-2t/(2π))+(2t/(2iπ))))=
1/2*((-1)^((1-i)t/π)-(-1)^(-(1+i)t/π))=e^t(isin(t)) 意味
『孝雄は、山路を登り始めた。連れは、いつもの山田である。山は実存する。風は無かった。傾斜は緩やかで、無言で登る。道は実存する。孝雄は、頭の中で繰り返す、私は実存する。
昼過ぎの、山路を他に登る者はいない。無は実存するのか。サルトルは実存を思考して、吐き気を覚えたのだが、孝雄にはそれは無い。傾斜が、いつの間にきつくなり、息が上がる。私は実存する。あたりは、杉の森である。
杉は実存する。突然、蝉の激しい声が辺りを支配した。道の左手は、黒い濡れたような岩肌である。蝉の激しい声は降りしきる雨のようだった。
ふと、気がつくと、山頂だった。野原が眼下に見える。山頂を示す道標に一瞥をくれて、二人、下り道にはいる。一陣の風が吹き過ぎる。孝雄は風は実存する、と思うと同時に、蝉の声でいっぱいだったその時、実存を、忘れていた事に気が付いた。
蝉はさっきの様に、激しく鳴くことは、もう無かった。
下りきった所に、お堂がある。入るとその闇の中に山田と座った。閑かである。
外に、出て帰り道を急ぐともなく歩く。再び、実存の問いが襲ってくる。闇は実存するのか。
ふと、気づいた、お堂の闇の中ではその問いは止んでいたと。、、、、完』
『、、から、、』、までは体験現象である。
それは、それの何であるかが、直ちに指摘出来ないが、ある意味を持っている。
翻って、芭蕉の一句は、ある物語の究極の凝縮ではないのか。
逆に、読む者は句から、自身で物語りをつくるのだ。 説明を若干、間違えました。
途中で、何を説明したいのか、混乱しました。 e^t(cos(t)+isin(t))=cos(t+t/i)+isin(t+t/i)
e^t(cos(t)+isin(t))=cos(2πt/(2π)+2πt/(2πi))+isin(2πt/(2π)+2πt/(2πi)) 人間は自然というボールの上を乗りこなしているようなものですね
ケージの中は自然エネルギーに満ち溢れ推移が激しく変動するため
科学で証明できることがあるものの
ケージの外となるとエネルギーは停滞し、科学的認識の域を超え
推測の域をでない
生物、中でも最たる人間は、結果ボールの上でバランスをとるために
意識を開闢し乗りこなすしか術のない哀れなピエロですが、それを
自分の意思と信じ意欲的に立ち振る舞う人間という舞台を設け
自ら人生を強いている愚かな生き物、ボールから降りて歩き出すのは
不可能でしょう・・・ 地球の自転や公転を身体的感覚で感じとれる人っているのかな
ほとんどの人は知識としての自転公転だよね >>861
好天の真昼間に野原に大の字になり寝っ転がって上空眺めてると雲の動きとかで身体全体が何となく自転公転してる気分になる
知識が全くなかった4歳の幼少の頃からずっとそう 5 ここでは四次元、つまり時間について考えてみます。
時間が実在したら、たとえどんなに短い時間を考えてみてもそれは静止
する無限の三次元が実在することになります。 ある物理状態はその中で無くなったり生まれたりするわけですが、それが
一緒に実在するということです。
これは実に理解しがたいことです。
では次元についてかんたんに考えてみることにします。
一次元は大きさの無い点、つまり実在しない点から成ります。
実在しないゼロ次元を無限に集めたら幅の無い一次元が実在すること
にはなりません。 実在しない一次元を無限に集めたら厚みの無い二次元が実在すること
にはなりません。 実在しない二次元を無限に集めたら運動しない三次元が実在すること
にはなりません。 同様に運動しない三次元を無限を集めても四次元が実在することには
ならないのです。
今には幅がありませし、その今を無限に集めても時間にはならないので
す。
四次元は運動しない三次元の無限の集合ですが、わたしたちはそれに
よって対象の運動量を測るわけです。
ゼロ次元によって位置を、一次元、二次元、三次元によって対象であ
る物理存在の大きさを、四次元によって運動量を測りますが、対象であ
る物理の存在形態は運動です。 わたしたちは目の前の自然の物理存在の大きさを測るときに縦横高さと
してその大きさを知りますが、縦横高さはそれぞれ独立して実在するわけ
ではありません。
どうように運動しない三次元は実在しないことからもわかるように、次元
自体は対象である運動する自然の様々な物理存在の抽象であり、対象
である物理状態の大きさ、運動などを認識する場合に必要な観念的存
在というべきものです。
三次元が物理の大きさの抽象であるように、四次元は運動の抽象です
。
いわゆる時間は常に定期的な運動をすると思われる、月、太陽、光の
運動量の抽象です。
これらでわかるように四次元、時間の正体は運動量なのです。 「此処」から、という座標原点、出発点は自然には実在しないことを科
学は示しています。量子力学は自然が運動するエネルギーの濃淡の海
であることを示しますから、わたしたちが「此処」と指示しても濃淡の境目
自体は自然には実在しません。
つまり仮定であり、近似値としてしか縦横高さは認識できないのです。
次元自体は抽象でしかなく実在しないのです。
語義から言いますと、現在は現に在る、過去は過ぎ去る、未来は未だ
来たらざる、ということで、過去も未来も現在には存在しません。
現在には幅が在りません。在ったらその中には過去も未来も並存するこ
とになりますし、基準の採り方で現在は過去や未来になります。
そして現在という有は無で理解されるからこそ、幅が無いということになり
ます。 様々なことは、現在の正体が運動であることを示しています。
わたしたちは運動を静止、つまり有を無で理解しています。
そして時間とはある対象の運動量をある物理存在、つまり太陽、月、光
速度などで理解していますが、この共通点はいずれも運動量です。
対象である自然はこの現在においてのみ運動していますが、次元が対
象である自然の物理存在の抽象であり、それで自然の物理存在の大き
さ、運動量を理解していますが、運動を量にしてその抽象が四次元であ
り時間で、ゼロ次元から三次元がそれ自体で独立して実在しないように、
時間という四次元は運動しない三次元の集合ですし実在するはずもあり
ません。
自然には数が実在しないことは、数に大きさが無いことでも明白ですし
、座標原点が実在しないことを科学革命は示しています。
時間もまた諸次元同様に自然を理解するために運動する自然の物理
対象を抽象した観念としての存在なのです。
この意味で、科学革命はゼノンの逆説の主張、つまり自然は数ででき
ていないということを裏付けたわけです。 6 ここではエネルギー保存則について考えてみることにします
エネルギー保存則については量子力学でその破れが言われています。
超心理学という分野では、理解できない超常現象と思われる現象がある実験方法で確認されますが
新たな実験方法でその理解できない現象が合理的に、つまり非超常現象として理解できるようになるのですが
それでもまた理解できない現象が出てくるという繰り返しの歴史だそうです。
エネルギー保存則もまた同じ歴史を辿っているという指摘があります。
これらは現在の科学の水準で理解できない現象は必ずしも超常現象、エネルギー保存則などの破れが実在することを意味しないということです。
科学の分野での一例をあげますと、雷はフランクリンの実験があるまで電気現象であることがわかりませんでした。
つまり理解できるまでは未解明現象であり、その時までの科学などでは理解できないわけなのですが
○○だと断定することは理解することになりますが、そういうことはいえないということです。
これは、雷の正体が不明なときに神鳴りと理解してはいけないということです。
その未解明現象が未来にわたっても未解明であることが証明されれば別ですが、それもわからない限り
それについて将来もわかる、わからないとは言えないということです。
量子力学分野でのエネルギー保存則の破れと言われている事象は、実は未だに確定しているわけではないということです。 量子力学のエネルギー保存則の破れといわれる現象は、自然認識は運動を実在しない静止で理解することですから此処からの此処は実在しない仮定である座標原点を設定した下での近似値ですし
不確定性原理の意味とは正確にそのまま対象を測ることが測定の本質上不可能ということです。
この破れといわれる現象は超心理学、エネルギー保存則の理解の歴史が示すように、対象では無く認識する側の在り方の問題だとするのが妥当なのです。 なによりも物理存在が無くなったり生まれたらどこに行くのかということにもなりますが、自然しか実在しませんから何処にも行くところはありませんし、また認識が近似値であり、そのままで理解できるわけではないのです。
そのことはミクロの世界であればあるほど顕わにされるということです。
量子力学でのエネルギー保存則の破れと思われる現象はあくまでも認識する側の問題でしかありません。
自然以外が対象として実在するとしたら光速度一定の原理である座標原点はどこにも実在しないという観測事実を否定することになります。
対象である自然には静止は実在しないということはそういうことでもあります。
自然は無限なのです。
わたしたちは、無くなる、生まれると認識します。
科学は何も無くならないし、何も生まれないと自然を認識します。
これはどういうことなのでしょうか。 生まれるというのは物理状態の変化です。
死ぬということもまた物理状態の変化です。
つまり物理状態の変化という観点からは生死は実在しないのです。
ある生物学者が語るように、生物は生きつつ、かつ死んでいるわけです。
生物もそうですが、自然自体は運動変化する過程に実在しているだけです。
それは或る物理状態から違う物理状態に生成していく過程に実在しているだけなのです。
或る物理状態は常に同一としては実在していません。
しかしこの不同一としての物理状態自体は恒常、つまり同一として実在することです。
不同一を同一で理解するから生まれる、無くなると理解することになります。
無くなるとは静止という否定で理解された物理状態であり、運動しているエネルギーが呈する変化する物理状態自体は普遍であり無くなりません。
同一であることが一切無い自然を同一で理解するのです。
同一であると理解された不同一である自然は常に生まれ、また無くなっているとも理解できます。
つまり存在すると同時に存在しないということで、決定不能であるということです。 7 一が多と成り、多が一と成り
科学革命である地動説、進化論、光速度一定の原理の発見によって自然科学は対象である自然が運動するエネルギーの濃淡の海であり、
濃淡の物理状態としての現象は差異であり
物理条件で他の物理状態との親和、反発の過程を経て様々な物理状態と成り、
またその物理状態もまた違う物理条件で様々な物理状態に成るという生成過程が自然であることが導かれます。
人間はその過程で生成され、また違う何かに生成されていく過程として実在します。
地球という自然環境も太陽との関係もありますし、また太陽もその基本として生成され、
また違う何かに生成されていきますし、自然は全てそのようなものとして在るわけです。
エネルギーの淡の状態は基底状態であり、無は実在しませんが、それを裏付ける事実として、
ディラックの海は真空は無でないことを示しています。 わたしたちの目の前の自然は多と現象しているのですが、それは一としての展開であり、濃であるエネルギーの状態が認識可能であり、淡の状態は認識できないということです。
むろん、濃であるエネルギー状態は条件によって淡となり認識できなくなりますし、またその逆もあるわけです。
一は多として現象しますが、それは一が濃淡の海であり、淡は認識できないからです。
一は多と成り、多は一と成る、ということです。 8 哲学と数学の諸問題
ここではかんたんに板倉聖宣氏が指摘した論理の本質である静止という観点から、
今までに述べきたことを概観することにします。
つまり古代ギリシャが提起した諸問題と、カントの二律背反、
つまり時空には終始があると同時に存在しないこと、ヘーゲルの運動定義と矛盾、数学の不完全性定理などです。
クレタ人の逆説は、対象をその否定で理解することが原因で決定不能となることを示します。
ゼノンの逆説は、自然が多、つまり数で出来ていると仮定すると運動は不可能であることを示しました。
科学革命は大きさの無い点が実在しないことを指摘しています。
わたしたちは自然という運動する対象を静止、つまり否定で理解するということです。
カントの二律背反は、自然、つまりは無限の運動する自然を理解するには否定である有限で理解するという
自然を理解する論理がもたらす問題です。
つまり自然は無限なのですが、論理は有限であるということを示しているわけです。
ヘーゲルの「運動とは存在すると同時に存在しないこと」という不思議な定義は、運動を静止、
つまり対象をその否定で理解しているために決定不能ということを矛盾と捉えたもので、正当だということです。
数学の不完全性定理もまた有限を無限で、つまり対象をその否定で理解するので決定不能な命題が在るということです。 またこれらは論理の自己言及という側面があることを指摘しています。
自然は運動し無限ですが、論理自体は静止であり有限です。
静止は実在しませんが、論理の中では存在します。
つまり論理は無が「在る」という矛盾で成立しています。
ヘーゲルの運動定義はそうですし、弁証法の矛盾とは決定不能の言い換えです。
つまり無矛盾である自然を矛盾である論理で理解しなけれはなら無いのです。
(科学革命は、自然においては座標原点が実在しないことを示しますし、このことは論理、つまり静止、有限の実在を否定していることを示しています。
科学理論は人間の認識に対象化されたものであり、実在しませんし、方程式も近似値であり自然の運動そのものではないのです。)
クレタ人の逆説でわかるように、運動を定義する論理は静止、つまり対象をその否定で理解するのですから、決定不能となるわけです。
アインシュタインは自然をなぜ理解できるのかは理解できないと語りました。
自然は無矛盾ですから理解可能なのですが、理解自体は無の存在という矛盾ですから理解できないのです。
自然という運動する対象を論理という静止で理解しますから、運動はヘーゲルが規定するように矛盾、つまり決定不能ということになります。 9 宇宙論の現在の主流はビッグバン学説ですが、近藤陽次氏はその著書で今のところは何も決定的な証拠がないと指摘していますし、
宇宙背景放射もまた火星に運河を発見した類ではないかという指摘を或る天文学者がしていて、
これでノーベル賞を受賞したスムート博士がこの可能性を否定していないことは前にも述べましたが、
この宇宙背景放射という理解については以前からビッグバン仮説に批判的な科学者たちが同様のことを指摘しています。
またいわゆる宇宙が膨張している証拠であるとする赤方偏移は必ずしも膨張していることを示しているのではない可能性を
アープという天文学者が観測事実を集めて指摘しています。
科学史は科学者が発見観測した事実を正確に理解しているわけではないことを数多く示していますし、天動説はその典型であるわけです。
この仮説はエネルギーの保存則を破ったり、インフレーション仮説は光速度一定の原理は空間には適用されないとしたり、
天動説がその綻びを繕うために周転円をたくさん描いたように、様々な仮説で一杯になっています。
現代科学、なかんづく宇宙論の分野では光速度一定の原理が示した絶対座標の実在の否定が忘れられていますが、
ある科学者が語っている、宇宙の始まりまであと僅かまで迫っているというのはかなり疑問だと思っています。
わたしたち自身もそうですが、身のまわりの全ては始まりはありません。
始点の実在、つまり静止は科学によって存在しないことが証明されています。 新井白石は、西洋では自然を神が創造したと主張し、神は元々存在していると考えているようだが、だったら自然が元々存在すると考えても良いと指摘しているそうです。
わたし自身はエネルギー保存則の何も生まれないし、無くならないという科学の示す事実からも、この新井白石の指摘はもっともだと考えています。
科学は自然が無矛盾、つまり理解可能だと前提しないと成立しません。
自然の誕生と死、無、つまり非自然から有、自然からの無ということはエネルギー保存則の否定となります。
ビッグバン仮説はこれらの科学の成立条件と基本法則と合致しません。
科学の基本法則と科学革命が示すように自然は生まれたものではなく、運動変化するエネルギーの濃淡の状態としてただ在るだけなのです。
新定常宇宙論もまたエネルギー保存則を破ります。
プラズマ宇宙論は、プラズマが宇宙のほとんどであるから宇宙はプラズマが主役だと主張しますし、無限宇宙論であり、エネルギー保存則、光速度一定の原理などの科学法則を破りません。
またプラズマ宇宙論を支持するぺラット博士は、シミュレーションで様々な形の銀河系生成を再現していますし、ラーナーは宇宙の泡構造を予想したと述べています。
ビッグバン宇宙論が主張する宇宙年齢ではいわゆる大構造形成に必要な時間はとても足りませんが、無限宇宙論であるプラズマ宇宙論では無視できます。
ビッグバン宇宙論、新定常宇宙論、プラズマ宇宙論とありますが、説明できない観測結果があるのは現状ではどれも同じですが、わたし自身は既成の科学法則を破らないプラズマ宇宙論に可能性を感じます。
なによりも科学革命が無限宇宙論を支持しているのです。 有限宇宙論と無限宇宙論について
エドガー・アラン・ポーは宇宙が無限だとすると重力で潰れてしまうと指摘し、無限宇宙論を退けました。
ここでは有限で無限ができていると理解されています。
しかし有限自体が自然には実在していないのです。
わたしたちは無限を実在しない有限で理解しているのです。
ゼノンは「無限とは理解不能の何かであり、したがっていかなる説明にも用いるべきではない」(「宇宙天体論」学研155頁)と言っているそうです。
光速度一定の原理は絶対座標、つまり此処という有限の出発点である静止が否定されています。ということは有限は自然には実在しないということですし、自然の何処にも静止が実在しないということは自然が無限であることを示します。
オルバースのパラドックスは無限宇宙論だとすると宇宙は光で満ちているはずだと無限宇宙論に疑問符が突きつけます。
これに対して無限宇宙論側の解答はわたしは寡聞にして知りません。(光は減衰するという仮説があるそうですがインフレーション仮説の前提同様に証明はされていません。) 地球が運動しているのならば裏側の人たちはどうやって地球にしがみついているのだという地動説批判について、ガリレオはそれは後世の人が説明してくれると語ったそうです。
この逸話は、各学説このように主張することが可能であり、決定的な証拠がない現在、たとえ説明できない事象があったとしても、それらはなんら各学説が誤謬であることを示しているわけではないのです。
有限宇宙論、無限宇宙論は各々現時点では説明困難な事象を抱えています。
私見だと、やはり基本法則を破らない仮説に魅力を感じます。
また哲学などの疑問にも解答から導き出すことができる科学革命が裏づけとなる無限宇宙論にわたちしは可能性があると考える者です。 付論 ここで簡単に自己言及について考察したいと思います
三浦つとむ氏は、言語は対象ー認識ー表現という構造を持つとしました。
スポーツの実況中継はそれがよくわかります。
わたしという言語表現の場合、自己言及ですが、対象と認識主体が同一です。
この「わたし」という言語表現の認識構造を考えてみることにします。
わたしたちが地図を描く場合には、頭の中で街の空の上に自己がいるものとして描きます。
日本地図、地球、太陽系などそれまでの知識が元になって描くわけです。
またわたしたちは赤ん坊を見て自分の過去、年上の人たちを見て自分の将来をそれぞれ想像します。
テレビドラマを見たり、小説を読んだり、映画を観たりして頭の中で過去や未来、現在、他の天体に行ったり、宇宙人が来たり、またそれらの中の主人公とか空想上の、また歴史上の人物などになったりします。
わたしたちにはこういう能力があり、それは三浦つとむ氏は観念的な自己分裂と名付けました。 わたし、という言語表現も、頭の中で自己自身を対象として、認識し表現するわけです。
それを直接示すのが、鏡です。鏡を見てわたしたちは服装が似合っているかとかいろいろ観察します。
この場合、実は頭の中では鏡に映った自分が現実の自分を認識することになります。
鏡の中の自己が認識主体ということになり、現実の自己は認識対象であり、それが「わたし」という表現となります。
これまでが三浦つとむ氏が「日本語はどういう言語か」、「弁証法はどういう科学か」で展開された観念的な自己分裂という用語のわたしの理解した説明です。 わたしは、ただ一点この説明に疑念を抱いています。
それは表現された「わたし」は鏡の中の「わたし」が現実の「わたし」という理解です。
実はここにも「クレタ人の逆説」の本質である決定不能という命題が潜んでいるのではないのか、ということです。
認識対象である現実の自己と認識主体である観念としての自己は対立関係で、互に他者としての自己です。
つまり現実の自己、わたしは鏡の中の自己にとっては他者でもありますし、また鏡の中の自己は現実のわたしには他者なのです。
「わたし」という表現にはこの決定不能というクレタ人の逆説が潜んでいるのではないか、というのがわたしの疑念です。
認識対象と認識主体という対立、否定関係がもたらす決定不能ではないかという疑念です。 表現としての「わたし」という自己言及は認識主体と認識対象という対立が本質としてありますので、このような決定不能の命題を抱えるのではないかということです。
運動を理解するには静止という運動の否定で理解しますが、運動とは何かと定義することは、そのことの自己言及です。
数学では有限を無限で理解しますから、これも否定関係ですし、不完全性定理はこのことの自己言及です。
自然科学という学問は自然が生成した人間の脳が自然を理解しますから、その本質として自己言及であることに成ります。
意識が薬で変容することは知られますし、睡眠薬は意識を一時的に無くしたりできますし、また脳を無くせば意識もまた失われます。
このことは意識は物理存在のある状態の付随現象と理解されるべきことを示しています。
意識とは自然の物理存在が自己言及可能な状態であると定義できます。 自己言及についてはもう少し考察する必要がありそうな あとは纏めですが、これはまだやっていません
今週中というか、必要があって水曜か木曜の早朝までに仕上げたいのですが 半世紀にかかりましたか
まだまだ推敲は必要ですが、ライフワークは八分がた出来上がりました
何かあったとしても悔いは無いと思っています
さりあえずです フランス構造主義
内田さんが、フランス構造主義を学生のときには読んで全く分からなかったが、時が経って大人になって読むと分かった。と言い、寝ながら読める構造主義、を書いたと言います。
これは、大人になったから分かったのではありません。その間、意識していない中で考え続けていたのです。 >>863
何でエネルギーが存在しないんですか
エネルギーって何か分かってますか? >>890
エネルギーってゆーのは
濃とか淡とかあって
運動してて
基底状態とかあって
万能薬みたいなもん とりあえずの纏めです
自然は光速度一定の原理が示すように運動するエネルギーの濃淡の海であり、すべてはその生成過程として存在します。
絶対座標は自然理解に必要ですが、実在しません。
生物分類は濃淡、つまり差異として実在する自然を否定関係で理解することを示します。
座標原点もまた否定関係で理解することを示します。
座標原点は実在せずいわゆる三次元もまた差異を否定で理解するということです。
此処からの、此処は実在しませんし、また此処までも実在しないのです。
わたしたちは対象である自然の運動をそのまま理解できるわけではないので、運動量としなければなりません。
四次元とは静止である三次元の運動量の静止の無限集合です。
運動する自然をその否定である静止で理解することは地動説、光速度一定の原理が示しています。
ゼノンの逆説は大きさの無い数で自然ができているのなら運動は不可能であることを導きます。
カントの二律背反もまた、運動する自然と論理の関係です。
生物分類で分類が困難な対象が出てくるのは、なんら対象の問題ではなく、差異を否定で理解するという分類そのものの問題です。
同様に、ゼノン逆説、カントの二律背反、ヘーゲルの運動規定、光速度一定の原理、量子力学の理解困難な事象、エネルギー保存法則の破れなどは、対象とそれを理解する論理の問題です。 構造主義 レヴィ=ストロース
「実存主義は死んだ」⭐🌺 ハイデガーの実存哲学は存在無き存在論です。👰
「実存哲学は死んだ」
ハイネマン。⭐🌺 「キリストの誕生により、その時に哲学は終焉してる」
バルト。👰
皆様悔い改められますように〜🌠 白馬の王子さまは、現れない(;゜0゜)
「美魔女は詰んだ」⭐🌺 >>896
「誰がじゃぁ、なにがじゃぁ、どうしてじゃぁ」
間寛平♪😃 >>896
「誰がじゃぁ、なにがじゃぁ、どうしてじゃぁ」
間寛平♪😃 >>896
「誰がじゃぁ、なにがじゃぁ、どうしてじゃぁ」
間寛平♪😃 >>896
「誰がじゃぁ、なにがじゃぁ、どうしてじゃぁ」
間寛平♪😃 「現代の実存の呪いを解かなくてはならない」
バルト。👰 >>905
われ!(`ヘ´)なめとったら鼻の穴から割り箸…💦われ! >>831有限で理解する科学理論は、人間に確認可能な規則性なのだから
認識のあり方を媒介したもので自然そのものではない前提は
科学的に役に立つことにならないんじゃないか? うーん・・・
天体観測は地球が静止していると仮定してですよね
それを理解すると地動説になりますし
イコールというのは有りえないんです 天動説・地動説
結局のところはどちらの方が天文学として理解しやすいのかという選択に過ぎない >>910
学問は科学的な認識の上で行われるものなので
>有限で理解する科学理論は、認識の在り方を媒介したものであり
>自然そのものではないという自然認識の在り方の前提
は科学的な関与はないのでは?という意見です。
どのように科学的な学問に貢献する前提での主張なのかなと。 のび太に貢献するドラえもん
四次元ポケット
時間の要素は存在せず、4次元の空間に無限に物体を収納することができるというもの 科学的な認識は有限でしか有りえないということなんですが・・・
しかし無限は有限で出来ているわけではない、有限で理解しているだけです
ポーは有限で出来ていると理解しているからこそ、無限宇宙は重力で潰れてしまうと
有限宇宙論を否定しました。
科学者はこのことを意識しなければならないわけです 光速度一定の原理は絶対座標を否定します。
つまり方程式の座標原点は仮のものだと理解しなければならない。
それがどのように有効であったとしても。
地動説は観測結果はあくまでも地球が静止したものとしてであり
仮のものでしかないことを指摘したので、地球からこう観えるということは否定していない。
天動説論者の天文学者が観測したものでも、それは否定しないわけです。
一般相対性理論がどのように有効であったとしても、それは宇宙の始りを示さない。
出発点、つまり絶対座標が否定されているという光速度一定の原理の意味が理解されていないからこそのビッグバン宇宙論ということです。 科学者たちはこの原理が根本的に次元の実在を否定し、次元もまた否定されていることに未だ気がついていない。
そしてこの原理が示す事実は量子力学的自然観を導くわけです。
つまり次元で理解されるが次元の実在は否定される
地動説もまた座標原点で理解される、つまり地球からの観測はあくまでもその仮定で展開され
その結果自体は否定しません。
両方とも、それで理解することは否定しないのですが、それは仮であることを示しています。 認識は静止です。
それは自然には実在しませんが、それで認識するしかないのです。 地動説、進化論、光速度一定の原理は、認識の在り方の自己言及です。
わたしが、この原理が科学革命の一つだと主張する所以です。
つまりそれで理解しなければならないのですが、それは実在しないというこです。
進化論は自然の生物を認識している人間は認識主体であり、天動説の地球と同様に理解されていたが
やはり人間自身もまた生物の一つであり、なんら特別では無いこと、つまり認識主体は認識対象の一部であることとなります
静止という特別な立場など無いが、それで理解しなければならない 有限で理解されるが、有限の実在は否定される
最小単位など無いし、自然は生成過程として実在するだけです
絶対座標が実在しないことが理解されていないからこそのビッグバン仮説です
これが理解されない限り、周転円はまだまだ出てくることでしょう
つまり天動説は未だ克服されていない 意味
時間とは何か、と問われて答えられない。その問いは、時間の意味とは何かに置き換えられるとして、しかし、そもそも、意味とは何か、と問われても答えられない。
意味についても、人は、意味了解と言った状況にあるのか。 存在了解
ハイデガーは、存在と時間の中で、人は、現存在は、ある存在了解の中にあると言う。しかし、その了解は、していると、させられている、が混ざっている。
している、は主体的な判断であり、させられている、は社会的な状況を含んだ判断である。
そこで、主体的な判断を目指すとして、充分に主体的な判断としての、意味了解となる。ただ、さらに、充分とは、何に対して充分なのか。 意味了解
人は、現存在は、日常、自身の意味了解をかなり、自主的、主体的にしている。勉強しなさいと言われ、する者としない者といる。しない者は、すでに、主体的にその判断を、しているのだ。
意味は、個人的、個別的なあり方をしていて、個人的な現存在はその個人的意味了解にある。
勉強、アメリカの首都はワシントンである。
それを覚えて、一体何の意味があるのか。 https://www.wolframalpha.com/input/?i=cos(x)%2Bisin(x)%3Dlim(n%E2%86%92%E2%88%9E)+((1%2B1%2F(2i%CF%80*n))%5E(-2x%CF%80*n))
cos(x)+isin(x)=e^(ix)=lim(n→∞) ((1+1/(2iπ*n))^(-2xπ*n)) 自然=万物というのを前提とした過程さんの仮説はなんとなく理解できた。
プラズマ宇宙論のように万物は無限に続いていく。常に変化しているが総エネルギーは変わらないという主張なのだろう。
絶対座標がなく相対座標というのも同意する。
でも"科学的な認識は有限でしか有りえない"という根拠がわからない。
宇宙論でも量子論でも有限か無限かはわかっていないというのが現状だ。
宇宙論でいえば、例えばマルチバースのような最新の宇宙論では(負の曲率にいる)宇宙の中の人から見れば無限だが、その外側にいる人から見れば有限(正の曲率)となる。
量子力学でも粒子で理解すれば無限になってしまうが、超弦理論で理解すれば有限になる。 "最小単位など無い"というのもわからない
"自然(万物)は生成過程として実在するだけ"は超弦理論で理解できるけど・・・
量子力学では、粒子の位置凅と運動量冪には、冪凅≦h/2というハイゼンベルクの不確定性原理という関係がある。過程さんもご存知だと思うけど、量子ゆらぎによって素粒子の位置と運動量は同時には確定できないということだ。
粒子の位置が近づきすぎると無限の運動エネルギーが出現してしまう。
だから粒子ではなく大きさのあるものにしたい。シンプルに点を一方向にだけのばし、最小単位を粒子(0次元)ではなく、大きさのあるひも(1次元)にしたのが超弦理論だ。 e^(ix)=(-1)^(x/π)=(-1)^(2ix/(2iπ))=lim(n→∞) ((1+1/(2iπ*n))^(-2xπ*n)) 天動説も地動説も両立しえる。
意味とは言語という妄想に張り付いている
了承可能なもののことだろうな。時間にもそういう傾向があるが、
時間に遅れると神の次元から零落し、退屈とあきらめの日常になる。
早く務め励み、素早く信仰し、急いで善を行え。神の次元から遅れないように
準備しておくんだ。
存在を了解するべきだ等より存在を疑うべき。意味は他社投影の販社として写すもの
映るものだから。個人的な意味ナルシストじゃいけないな。
無限はなく有限はある。宇宙買いも平常テンションで想定できる。
光速は一定ではない。進化は事故や怪我によってもなされてきている、
断続平衡的ラインともいえるが。
過程さんの仮説にケチばかりつけて何も主張しないというのも恐縮なので、わたしの「時間とは?」の問いに対する仮説を一つ。
まずカリフォルニア大学バークレー校の野村教授などが中心となって研究されている「量子マルチバース」が前提となる。
量子マルチバースの実証可能性はこの宇宙に「負の曲率」が観測されることだ(現在の観測結果ではわれわれの宇宙は平坦とされているが、今後数十年で観測精度が2ケタほど向上すると考えられているので期待したい)。
野村教授によれば「量子マルチバース」は厳格に定義された確率を含んでいなければならず、この制約によってマルチバース全体の量子状態を決定できる見込みが出てきたそうだ。このことはマルチバース全体の量子量が静的な可能性を示唆している。
例えば、マルチバースの中にいる観測者から見て、あらたな泡宇宙が常に生まれ続けていても、マルチバースの外側にいる観測者から見れば、マルチバース全体の量子状態は変わらない。
宇宙の中にいる私たちの知覚が時とともに変化していくこと、つまり「時間」の概念は幻にすぎず、「時間」は、もっと根源的なものから生まれる「創発的な概念」の可能性がある。
「時間」とはマルチバースのそれぞれの局所的な枝の中にだけあるもの、それぞれの「宇宙の地平」の中においてのみ存在するもの、というのがわたしが今信じている仮説です。 宗教
何らかの宗教を信じる者は、他の宗教を排除する。その宗教が、すべてを説明するからそうなる。とりあえず、妥協できていても、何か衝突する事態がいつか、生じうる。
例えば、物理学で、世界を説明しょうとする者は(物理学で世界を獲得する者は)、たとえ意見が異なっても、論争にはなっても深刻な衝突には、なりにくいだろう。 >>924
どこかに座標原点設定しないと認識できません
科学革命はその座標原点の実在を否定することで自然が無限であることを示します
うーん、と
何回も書いているのですが、わかりにくいということかな いちおう疑問にはすべて答えているつもりではありますが 具体的に説明してもらえないと分かりません
頭が悪いので 過程氏の主張から推測するに
例「おにぎり」という物体は
認識上有限する認識として存在する
しかし、認識の前提では「おにぎり」という有限の物は存在しておらず
おにぎりはアミノ酸、糖質、水分等々のエネルギーが作用していて
夏場、1週間経過したらおにぎりと認識できなくなるように
有限の物質は、宇宙に何一つないと、すべては無限に運動していると
科学的な思考をするのには一端、有限する「おにぎり」と仮定認識せざる得ないということかな。
認識上の規則性に過ぎないそれらを科学的な前提としたところで
科学の役に立つわけではないけど、人間が科学を理解するための前提と言えるのでしょう。
おにぎりはご飯でできている前提が成り立つように 座標原点とは、いわゆる現存在のことでしょうか?
現存在はそのもの自体として表れることは決してなく、
存在者が時間的に現れることに映し出され、
そのことにより存在者としての地位を得る。
ただし、存在者としての地位を得た現存在を
座標原「点」と呼ぶことはできないでしょう。 >>935
通訳になったのかどうなのか?
そこは過程氏に判断してもらわないとね >>931
何回も書いてくださっているけど正直わかりにくい
わたしの頭が悪いのかな
>どこかに座標原点設定しないと認識できません
う〜ん、なぜ科学認識で座標原点を設定しないと認識できないの?
もしかして宇宙はビッグバンからはじまったというのが座標原点ってこと?
ビッグバンは量子のゆらぎからインフレーションが起こってはじまったとされているけど、ゆらぎがどうして起こったのかまだわかっていない。
だからまだ誰もスタートがどこかなんてわかっていない。ゆらぎの前にもしかしたら別の宇宙があったのかも・・・
宇宙の終わりにしたって何パターンも想定されている
つまり、科学に座標原点なんてない
>>934
わかりやすい^^ >>934
イメージ的にはこれですか
粒子というのはけっきょく波が渦を呈している状態です
厳密には境目など無く濃淡の淡が認識できないだけです
すぺて内も外も無い
アスペだったかな、一瞬にして情報がというのは自然に切れ目が無いことでもありますし
重力もニュートン的な遠隔作用というライプニッツが批判した魔術的理解を排除できる
他の力はくっ付けているのではなく、そのような状態にするのに必要なエネルギー量という理解です
力はこれですべてエネルギー量に還元できます
重力と他の諸力は本質として違います 座標原点は、此処から始めるという意味です
車の速度計測は此処からスタートします、とか
車が動き始めるというのは、地球が運動していますから加速です
山は動いていないと言っても地球は運動しています
つまり静止しているのはこの地球上のどこにもない
静止とはライプニッツが指摘するように均衡状態です
運動量は座標原点設置しないと測れないでしょう ビッグバンは仮でしかない静止が実在しているという仮説ですから、それはおかしいということです どんどんどんどんトンデモになっていくから、なにをやっているのかわからなくなるw
座標原点?
どっかに決めればいいだけでしょ?
有限も無限も、どんな意味でつかっているかすらわからない。
素朴存在論的トンデモ世界なんだろうねぇ。 「点」を考える。
「点」は大きさもなにも持たない。位置も持たない。「点」が存在する空間も無い。
そう考えれば、「点」とは、ただ「ある」ということである。
「自己同一性」も無い。すなわち「点」は「わたし」であることもできない。
しかし、なにものかによって語られている以上「自己同一性」を持ってしまう。
なにものか? 「点」しかいないのだから「点」が語るしかない。
なにものもなく、ただ「語られる」。
「語られる」ことで「空」(=空集合)が「ある」。
結局、「点」とは「空」である以外にありようがない。 おにぎり例がイメージ的にそう遠くないということなので
実在しない時間がなぜ時間が実在しているかのように
認識してしまうかを例のごとくおにぎりで推測してみましょうか・・・ 「空」が基本的なものではなく、「空」を作る「力」あるいは「ルール」が基本的なものであると考える。
それは、「集合化」である。
それも、部分集合の集合を作るということになる。
これがすべての「力」の根源であり、その名残りともいうべきものが「重力」であろう。
裸の無から部分集合の集合がつくれるのかどうかは検討中だが、
空集合の集合からは、この「ルール」によってあらゆるものが作成できる。
問題は空集合から空集合の集合がつくれるか、
そして、裸の無から空集合がつくれるかということだ。
空集合から空集合の集合をつくる、ということと、部分集合の集合をつくる、ということをひとつのルールとして統合はできるだろう。
選択公理とはなにか、というところに踏み込んでいる。ZFとCの統合は不可能ではないという予測。
「反集合」とでも呼ぶべきものを含めて公理系を再構築できるかどうか。考え中。 ネイピア数について教えるのに、最初に
e=lim(n→∞) ((1+1/n)^n)
の形式を導入するのはいいとして、続いて次に
e=lim(n→∞) ((1+1/(2iπ*n))^(2iπ*n))
の形式を教えていれば、三角関数との関係が明らかになって、
多くの理解の困難が避けられると思うんだけど、
なぜ、この形式が提示されることがないのだろう。 そりゃあな
冪数に虚数を導入できることは自明ではないからだ >>944
ビッグバンは宇宙が膨張してるってのを逆算すれば宇宙は最初小さな火の玉だったことになるってだけの話だぞ
別に神秘主義ではないのでその小さな火の玉になる前がどうだったかまではわからんし言及もしてない
wikipediaにすら載ってるぞ少しでも調べたのか 哲学は手法が古くて実際に調べるってことをしないから実践研究の話になるとすぐボロが出るのが嫌なところね フィロソフィアの可能性
空、点、集合、良いですね。
読ませてもらいます。おにぎり思考、も面白い。
大げさに聞こえるでしょうが、フィロソフィアの可能性を、感じている。実は、このフィロソフィアの可能性は、例えば、デカルトのコギトにあるし、ハイデガーの存在と無にもあると考えています。
フランス構造主義、ポスト構造主義、新しい世界が(人間存在に)、開きつつある、大袈裟ですが。 フィロソフィアの可能性
人間は、自身の考えているようになる。
これは、思考は実現する、という言葉とほぼ同じですが、何時からか、それは事実であると思う様に成りました。ある程は、その理由が説明できると考えています。
人間は、考えている事を、無意識下でも実践する。つまり、それへの実践、努力を10年以上などに渡り、し続ける訳である。東大教授になってやろう、がどこどこの教授で実現する。
有り得えます。
ここ事象を、集合としての人間存在にも(つまり世界、社会)、適応出来る。ただ、すぐにでは無い。 フィロソフィアの可能性
例えば、デカルトのコギトは、民主主義に実現しょうとしていると思える。(デリダが、来るべき民主主義、と繰り返しますが)
存在と時間も、何かに実現すると思われます。 意味としての世界
意味としての世界の研究、そして世界内存在者としての人間存在の考察に向けての研究は、人間存在と世界を変え得る。
父母未生以前自己
父母未生以前自己如何、禅問答の、この問いも、それが何かを意味しているなら、それは、いずれ解説可能になり、説明される。
そして、すでに、その問いを思いつき、人に問うた者がいた。 >>943
>運動量は座標原点設置しないと測れないでしょう
相対座標じゃだめなの? なんか返事をする気もなくなるようなレスばかりで w
何かが爆発したとしてのそれはその中で爆発しただけ
ビッグバンもそういうお話
宇宙のものが誕生したわけじゃあない
宇宙は誕生も死も無い
すべてはその中で >>962
だからあ、実在しないでしょ、というお・は・な・し 座標は人間が定義するもの。原点が実在とかアホな力説をするまでもない。
座標そのものが実在せず、原点はその内の一点に過ぎない。 六十年代に、素粒子論の科学者が動物分類やっておけば良かったと冗談紛れに言っていたのは有名だけど
けっきょく生物分類と同じで、素粒子も地球も太陽系も銀河系も
いろいろ分類されるけど、それは差異を否定で理解しているには変わりが無い
すべては宇宙における差異を否定で理解しているだけ 光速度一定の原理の絶対座標否定を考えれば
静止は実在しないし、宇宙無限であり始まりなんか無いでしょ、ということ
これが否定されたら、わたしの論拠は根本的に崩壊します
この一点で成立しています
↓ どうぞ >>967
自然過程説(о´∀`о)!!!
ぷぴぴ。ぱぴならー! 底辺さんのいつものレスで笑ってしまった
自然の存在が前提で、絶対座標の実在はそれを否定することになる
自然が誕生することを意味するのだから
すべてはこの枠の中で展開されている
この枠を否定するような理解は×ということ
絶対座標実在はこの枠の否定になるということ >>969
自然過程説(о´∀`о)!!!ありがとう(о´∀`о)!!! 意味としての世界
意味としての世界の研究は、先ず、この人間存在の経験する世界が、意味的である事情を説明しなければならない。(経験する世界は、また、実践する世界だろう)
その前に、意味とは何かに付いての大まかな考察が必要であろうか。
ものとこと
ものと、事と言う表現は、日本語特有であるという。ものとは、空飛ぶ絨毯のようなものがあったらいいなぁ、と言う時のものである。それは、仮定上の物を表現する手段である。
こととは、もしそんなことがあったら大変だ、と表現する時の事であり、仮定上の事象事態である。
我々が、日常これらの、こととものと言う表現を多用する(多用して生活する)理由は、ひとつ、それが便利であるからだが、同時にその言辞の使用によって、様々の事実的な事態が、不明の闇のなかに置き去りにされる結果になる。(ここではそれらの表現を意識して避けている)
また、それらの表現行為は、現状の世界、社会の中での “やりくり” に役立っている。これと同じ事情が、意味という言辞行為にも潜んでいるのでは無いか。
としたら、意味の研究は、とりあえずの意味理解、意味了解から出発するし、現在ここで、我々が、その意味了解にある、(それが実存)限り、それしか出来得ない。(人は、何時でも、いまここからしか出発できない) 大前提忘れて科学理論を構築するなということ
宇宙に始りがあるはずもなし 自然科学なんだから、自然が実在しないのからそれは自然科学ではなくなる
そして自然は無矛盾でないと理解は出来ない
対象が自然と非自然で在るなら、対象は理解できない
「現代」科学は天動説である地球静止と同じ誤謬でしかない
地動説に戻れ 主に参照した書物
「新哲学入門」板倉聖宣
論理が静止であることを指摘している
実験概念が重要であることを指摘していて、禁酒法、社会主義が社会実験の結果失敗していて、人間社会には向いていないと結論している
「ゼノン4つの逆理」山川偉也
ゼノンの逆説がどういうものかを示している。
師であるパルメニデスの世界は一であり数でできていないという主張を擁護するために有名なアキレスと亀の逆説などで、ピタゴララス学派が主張するように世界が数でできていると仮定すると運動は不可能であることを示した
山川氏は科学がピタゴラス学派の論理であると主張するが、科学革命はピタゴラス学派の論理で理解されることを指摘していて、その実在は否定している
またヘーゲルの運動定義を否定しているが、運動を静止で理解するから矛盾、つまり決定不能であることを示し、わたしは正しい定義だと理解している
「日本語はどういう言語か」三浦つとむ
「弁証法はどういう科学か」三浦つとむ 特に鏡の論理、観念的な自己分裂の項
板倉聖宣氏に大きな影響を与えた言語学者であり、認識論の分野では業績があり、とくに観念的な自己分裂という概念の再発見は重要で、また「資本論」のマルクスが展開している認識論の重要性を指摘している。 「ビッグバンはなかった」ラーナー
ビッグバン学説を批判し、代案としてプラズマ宇宙論を提出している。無限宇宙論を主張しているが、プラズマが宇宙のほとんどを占めていることを指摘している。
この学説はエネルギー保存則、光速度一定の原理などを守り、わたしもまたこの説に説得力を感じます。
「精神の現象学」序論
ニュートン力学の認識論的基礎を指摘している。
ドイツ古典哲学がニュートン力学の衝撃から誕生していることがわかる書物。
「反デューリング論」エンゲルス
ライプニッツどうよう静止が運動の一形態であることを指摘している。
思想と学説の区別については、三浦つとむ氏の弟子筋である政治学者である滝村隆一氏が指摘していて、マルクスの方法で学問は展開しているが、思想自体は否定している。
彼はマルクス主義者である三浦つとむが展開した「制度論」を受けて、人間社会に制度が必要である限り共産主義は成立しがたいことを1972年の「北一輝」という書物の末尾に記している。
彼はマルクスの学的方法の重要さを指摘していて、マルクスの政治論文の完成度の高さに感嘆している。
「無限論の教室」野矢茂樹
不完全性定理について平易に解説している >954
>そりゃあな
>冪数に虚数を導入できることは自明ではないからだ
でも、オイラーの公式を暗記させて、ネイピア数と三角関数を結び付ける
時点で冪数に虚数を導入できることは自明とされるわけでしょ。その
時点で元に戻って、ネイピア数を導く計算に虚数の冪数を導入するのが
自然では? 新たに得られた知見から、元に戻って基礎を捉え直すことを明確に言語化する
ことを怠っているから、数学の説明はとても分かりにくいものになっている
と思う。元に戻って言語化するように捉え直す作業が哲学と呼ばれるものだ。 言語化
コンピュータで、何が出来るか。と言うと、言語化できるもの、言葉で表せる作業は、出来るそうです。
あとは、その言語化を、いかにして、論理化して、プログラムするかです。
自己学習という手法から、将棋、囲碁が、コンピュータの最強となったのも不思議ではありません。フィロソフィア的思考は、たぶん、出来ないでしょう。
そのひとつに、無意識は言語化出来ないだろうという予想がある。
こう考えると、無意識とは、我々の、人間存在のひとつの、優れた在り方かもしれない。 人間存在
人間存在は、無益な受難である
サルトル、存在と無
つまり、受難出来うる者は、人間存在、人だけである。機械、コンピュータは受難しない。 「対象をその否定で理解する」という過程さんのやり方自体は否定しないけど、そのせいでわかりにくくなっているとは思う。
整理すると過程さんの主張は、
1. 自然=万物 →○ 実在する
2. 光速度一定の原理 →○ 正しい
3. 2より絶対時間 →× =相対時間
4. 2より静止 →× すべては運動している
5. 絶対座標 →× 実在しない
6. 座標原点 →× 実在しない
7. 生物・無機物の分類 → 還元すればただの差異
8. 生物の生死 → 還元すればただの差異
9. 宇宙 → はじまりはなく無限=無限宇宙
10. 9よりビッグバン理論 → × プラズマ宇宙論
11. 10よりインフレーション理論 → × 否定する
12. 多は一、一は多 →すべてのものは一に還元できる、多は一の差異(のような感じ?)
13. 現代の科学 → 天動説のうようなもの?(よくわからん)
14. 0次元 →× 実在しない(次元自体が空間に広がりをあらわすただのベクトルなので、実在しないという表現自体が?なのだけれど)
当ってる? 文学
文学に就ては、何を言っても良いのだとデリダも言っていますが。蝉しぐれの、駄文が、つまり芭蕉の句の(一つの)意味である、と言う主張があり得ると言いたいのです。
実際、その句は様々に解釈されている。様々な解釈を生む出す句は、意味を持っている。 >>983
それと、実存主義は、今、生きてる時代を超越出来ない♪😃 現象学
実存論における事実は、受け取る実存者に於いて、現象学的に検証される。
エクリチュール、書かれた物
エクリチュールを、実存者は誤解する権利、権能を持つ。この権能を持つからこそその実存者は、そのエクリチュールを読める。 パロール、話された言葉
パロールは、その話された瞬間に、すでにあるメシア性を持っている。すべての言語の持つメシア性である。『語る事と行為とが同時に起こる約束と言う次元を含んでいない言葉はありません。デリダより』 >>986
「語り得ないものには、沈黙をしなければならない♪🎁」 世界は、暫定的である
世界は、事実より成りますが、それは暫定的な事実です。暫定的事実よりなる、世界は暫定的です。世界が確定する事は、ありません。完全に確定する事はありません、つまり、世界は確定しません。
実は、この世界の暫定性こそ、世界生成の、世界成立の理由でもあり、また原因です。 >>989
「世界」は「事象」ではなくて「概念」です。👰 ♪∧,,∧
♪∧,,∧・ ω・)
∧,,∧・ ω・) )っ メンヘラ糞美魔女♪
(・ ω・) )っ__フ メンヘラ糞美魔女♪
(っ )っ__フ(_/彡 メンヘラ糞美魔女♪
( __フ(_/彡
(_/彡♪ 光速度がすべての慣性系で変わらないのが証明できない原理ということ >>992
イチローとかほぼ毎日カレー食べるらしいですよ >>982
わかりにくいですか・・・
だいたい纏めてくれた感じで正しいような
ちと疲れていますので
けっこう歩き、階段も降りたりで
まだやることありますので、とりあえずです このスレッドは1000を超えました。
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