時間とは何か 23
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以下の表現は、数学では認められていない。
cos(2tπ/(2iπ))+isin(2tπ/(2iπ))=(cos(2π)+isin(2π))^(t/(2iπ))=e^t
それでも、おそらく、時間は、この関係を成立させるような想定として捉えられているのだろう。
それは、この1時間と次の1時間、今日1日と明日1日がまったく違うものであることを
知りながらも、それを同じものの繰り返しとして捉える、矛盾を排除するわけでも、
解消するわけでもない想定である。 >>722
教育なんて、ダメダメだと思っていますけどね
人間の能力の可能性を切り拓くどころか、摘んでいるのが現在でしょう
科学にしても、混乱状態というのがわたしの理解
上手くいえないけど、こういう物理条件でこういう物理存在はこうなるというのは
予想できないのが多いし、逆にいえばある意味沃野だと まあ、漠たる予感ですが
科学の終焉を読んだ時に、ホーガンさんご冗談をという感想しかなかった
その後ブリゴジンが同じことを言っていたので意を強くしました 理由があるという理由がない。
理由がないという(メタ的)理由もない。
裸の無は理由がないということであり、
空とは理由そのものである。
主体としての「わたし」は「理由」である。
理由がないということが理由をうみだしてしまうとしたら、そのメカニズムはどういったものなのか。
「無い」ということが「有る」ということをうみだしてしまう。
保存則もみたしており、理由もうみだす。
ここでうみだされた「わたし」が真の「わたし」であって、「あなた」は真の「わたし」の遺伝的コピーである。
しまたー。神の存在証明だ。 おそらくこれが、ゲーデルのやりそこなった神の存在証明である。
不完全性定理は、あと一歩足りないのだ、という予想。 「無い」ということがさらに「無い」ということを「有る」と考えるか、より深い「無」であると考えるか。
「有る」ということがさらに「有る」ということを「無い」と考えるか、より深い「有」であると考えるか。
ネーターの定理から考えると対称性があるべきだ。
対称性とは「波」である。途中をすっとばして考えれば保存則とは「波」のことである。
ここで「理由がない」という問題に戻れば、
「波」でない理由はないということである。
かなり強引だw
「無」とはBLACKではなくWHITEである。
「無」には、可能なすべての波が「ある」。
このシナリオなら「無」から「自発的」に「存在=自己同一性」がつくることができる。
遺伝的ということも「波」であると解釈できる。
時空間の中に「波」があるのではなく、「波」が時空間と認識されるなにかをつくりだす。
非時空間的な「波」を真のモナドとして想像できるかどうか。そこが問題だ。
「語るものの正体」としての「波」。物理的な概念の波ではない。 濃淡の海ではないけれど、タレスは万物の根源は水と考えてたね
重力からフリーの液体って球状になるけど(無限とはいえ)濃淡の海の形やいかに
勿論海っていうのは比喩でしょうが 2 絶対座標の否定が示すこと
光速度一定の原理は不思議ですが、ここで注目されなければならないのは、絶対座標が実在しないということです。
地動説もそうですが、わたしたちは対象の運動を理解する場合には座標原点、運動量ゼロを適当に設けます。
絶対座標を探求することは、自然における始点の探求でもありますが、それはこの原理によって否定されたわけです。
座標原点はゼロ次元ですが、数学に拠れば数は部分を持ちません。その数をたとえ無限に集めたとしても0が部分を、つまり大きさをもつわけではありません。0×∞=0です。
このことは次元の実在が否定されたことを意味しますが、それは後ほど論じることにします。
この原理は静止の実在を否定していることを示しています。
つまり自然の存在形態は運動ということになり、量子力学の自然観である、運動するエネルギーの濃淡の海という理解を導くことが出来ます。
なぜなら運動を前提に有と無という否定関係が成立することはないからです。 いわゆるエーテルという光速度を変えるような物理存在は無いのですが、運動の普遍性を示していますから、物理存在そのものは否定できませんし、ディラックの海はそのことを裏付けていると言ってよいのです。
いわゆる真空はエネルギーの基底状態として理解すべきであり、何も無いわけではないということです。
ここから観測問題である対立する波と粒子と理解されている現象は実は波が渦の状態を呈していると考えれば対立、否定関係は解消されます。 自然は運動するエネルギーの濃淡の海ですからすべては波ということです。
(この理解はなんら突飛ではなく、現在でもブリゴジン学派の科学者たちはその予想で研究していますし、十九世紀の英国学者はそのように理解していますし、また古代ギリシャ哲学の一派は粒子は波の一形態だと述べています。
「ビッグバンはなかった」の著者であるラーナーはこの説に言及していますが、銀河系の渦状態を示す方程式との関係で面白い指摘をしています。)
重力は加速に必要なエネルギー量、諸力はある物理的状態から違う物理的状態、つまり渦の状態である粒子をさらに小さい渦状態に生成するのに必要なエネルギー量と定義すればよいわけです。
この理解において重力、諸力はエネルギー量に還元できるわけです。つまり力は実在しないのです。
重力は加速に必要なエネルギー量であり他の諸力は運動する自然の物理状態の生成過程に必要なエネルギー量という違う側面であることになります。
いわゆる最小単位問題は、ある物理条件が設定可能ならばいくらでも小さくできる、実際には渦の状態である粒子をより小さい渦状態にすること、つまり最小単位は実在しないことになります。
つまりすべては運動するエネルギーの多様な在り方ということです。
光速度一定の原理が示す無矛盾な自然観から、観測問題と最小単位問題の一つの解決案を出すことができましたが、不確定性原理は違う問題ですので次章以降で解決案を出すことにします。 フィロソフィアと、一般的な日常
フィロソフィア的な問題。そしてそれは人はなぜ問うのかと言う、問いにさえ至る。
何かの回答が、あるのか無いのかも良く分からない。
で、最初に哲学とは何か、の問いへの答え、を書きました。フィロソフィアは人に必要であると。ヨーロッパなどでは、何かの拍子に、貴方の哲学はなんですかと聞かれ、そんなものは考えてない、みたいな答えをすると怪訝な顔で見られると言います。
人であるなら、フィロソフィア的な問題は避けられないと、考えます。証明の様なものも出来るかも知れません。 >>701
追加発言
意識下の問題
これは、つじつまが合う、と言う発言への思い付きです。
辻褄があう、と言う実存的事象の説明の試みで、それは、人間はつまり現存在は、意識下でも物事を考えているからではないか。
人は意識下でも、物事に対する判断を行なっています。つまり、意識下でも思考しています。
また、意識下でも、つまりはっきり意識していないでも、何事かを認識している状態があります。 ビッグバンがないと宇宙の一部の途中からの説明がなりたたない。 わからないことというのは否定の根拠にはならない
大構造の年月はたしか六百億年前後だったかな
いまでも解決試みているけど、三十年くらいダメでしょう
他の仮説も説明できないのはいろいろあるけど
ガリレオはなぜ地球の裏側の人たちは落ちないんだと言われて
それは後世の人が解決してくれると言った
それはどの仮説も同じだけど、個人的には保存則破らない、光速度一定の原理を否定しない
プラズマ仮説が納得できる わたしの理解だと自然はただ運動変化しているだけで、時間も含めて次元はそれを説明する自然を抽象した観念的存在
実在しない有限で無限を理解している
ニュートン、ポーは無限宇宙論では重力で潰れてしまうと否定したが
有限が無限に集まって無限と理解している
実在しない有限が幾ら集まっても実在することにならない カントの二律背反は自然が無限であり論理が有限だとしないと解決できない
何より基本法則否定したらわたしには理解できない 自然科学は自然が矛盾したら理解できないでしょう
「現代」科学は大前提を忘れている >>736
やれやれ、次元は数だと思ってるみたいだね。違うよ。
端的に言うと次元とは方向かな?
0×∞=0
これで次元の実在が否定できる?
こんな掛け算が何を実証してるの?
基礎をちゃんとやらないと、こんなんなっちゃうんだろうね。 エネルギー保存則は何も生まれない、無くならないということ
光速度意一定の原理も静止する何も実在しないということ
つまり自然が無矛盾であることを証明した基本法則
これを破るような自然理解は誤りでしょう 「ある」ということを考える。「存在」ではない。
1があるとすれば、それが保存されるということは変化が無い。変化する理由がみあたらない。
2があるとすれば、2つの「もの?」の間に関係があり、関係が変化しても2は保存される。
関係がないという理由がみあたらない。関係がなければ2ではなく別個の1である。
1-1であり、1は変化しないのだから変化するのは「関係」である。
主体としての外部の認識者は必要ない。
この1が外延性の公理からただひとつであるとするならば、関係は自己射である。
ひとつになった1は消滅し、自己射だけがチェシャ猫のニヤニヤ笑いのように残る。
それは存在でないのにかかわらず「存在」である。
1と1は自己射に保存される。
振動しているのは「関係」であり、「波」とは「関係」の「波」なのだろう。
電磁波というものを考察しなおす必要がありそうだ。そこにヒントがある。
「関係」が「変化」するということ、それが「時間」という概念を生む。
「関係」が自己射を持つならば「存在」であり、そこだけを考えれば変化をみいだせない。
しかし、自己射を持たない「関係」は「関係」として「ある」にもかかわらず変化しないという理由をみいだせない。
「存在」を集合に限定されたクラス、
「ある」を真のクラスを含みうるクラスと考える。
「真の『ある』」が、変化そのものでもある。 「関係」が「変化」をもたらす「理由」としての「理由のないこと」がやっとみえてきた。
1対1の関係では「変化」にまでいたらない。
やはり3つ必要なのだ。
関係とは2であり、それが3の関係であれば2-3オートマトンが形成できる。 2*3=6。
6本のルールはアインシュタイン方程式における6本の運動方程式である。
さらに4本の方程式は2つの保存則である。
2-3オートマトンの2と3、状態と色で2つ。これほ保存則と考えれば、
4つの方程式から成り立っているはず。
状態が運動の保存則であり、色がエネルギーの保存則。(逆でもつじつまがあっていればよいw)
とりあえずアインシュタイン方程式につながる道がみえてきた。 古典的にデカルト座標で考えるなら、
2-3オートマトンは、回転と並進の2つと3つの座標から6つの自由度を持つのだとされるだろう。
2-3オートマトンにおける6つのルールは自由度だと考えられる。
これはxyzあるいはxyiオートマトンとでも呼ぶべきものかもしれない。
古典的には三次元空間上で展開されるはずだ。まずここをしっかりとおさえておかないと、
次のステップである量子論的描像にたどりつけない。 時間とは何か、の問い
実は、個人的には、このスレッドを立てた人に、好感は持てませんでした。
本気なのか? と言う気持ちが、先になったからです。
しかし、たとえ不完全でも、ハイデガーが、存在とは何か、に答えているとしたら、時間とは何か、にも答えはあるかも知れません。
そして、そこに、問いがある以上、研究する、考えてみるしかない。
この、問いがあるからと言う事情は、何故か、禅問答みたいですが。 存在者が時間的に存在することが現存在を映し出しているのです >>749
変形や変質し続けているさなかですが
保存則が尽きる可能性は絶対にない? 何も生まれませんし、無くなりませんから
身の周りでもそんなことは起きませんし
何よりも時間は実在せず、自然はたんに運動変化しているだけです
今、一瞬が永遠に自然の存在形態として在るだけです
今の正体は運動です 人生暇つぶし。退屈死しないように、時間があったりなかったりする。 説明と了解
我々は、現存在は、了解して何かでいます。
そして、その了解は、ある説明によって構成されています。
明日、会社に出て行く者は、その事情を了解しています。あるいは、了解させられています。
ある現存在が、何かボーとして今日を過ごすとしても、その者は、ある了解の中で今日を過ごしました。
ある人が、今日、何かをしているのも、そして何かをしないでいるのも、了解してなのです。
我々の実存は、ある了解の中にあります。
その了解が、不十分だとしたら、より充分にしたいのです。
我々の実存の、了解に向けた説明の中に、時間とは何かの問いがあります。その問いは、問い続けられます。 >>711
わかるけど俺としてはそれは能力がどうというよりはその発想をその時たまたま持っていたかどうかだと思う
もちろん能力が高い方がそういう発想をいくつも同時に抱えたり新たに気付いたりできるんだけど
天才が全くの無から思い付いてるように見えても、それは彼らがその裏にある理論を言語化できないだけで
彼らなりの思考の道筋というものはあるはず。裏に思考がないならたまたま当たることはあっても当て続けることは不可能でしょ >>763
イマイチ理解できなかったんで、展開期待したりします お前に俺の気持ちが分かるかよ。
まだ私欲で行動するのかよ。 中学生でも扱えるような簡素な放物線を使ったテレビゲームばっかり作りやがって 「裸の無」は保存則に従えない。それが保存してしまうと「空」になってしまうからだ。
「空」は保存則に従い、保存則自身でもある。
そして「主体」であり、「主体」であるがゆえに「空」は「空の『宇宙』」を持つ。
保存則が尽きると考えるならば、それは「空」の消滅である。
「空」の消滅とは「裸の無」になるということだが、「裸の無」は「無」であるがゆえに「ない」。
よって、保存則は尽きない。
すべては「空」の遺伝的発展である。
「空」とは「仏性」であり「神」でもある。
「神の存在証明」ではなく、「仏性の存在証明」である。「仏性」は尽きない。すべてのものごとは「仏性」の遺伝的発展である。 気を付けなくてはならないのは「遺伝的発展」という「煩悩」だろう。
「保存則」が「煩悩」をうみだしてしまう。
「保存則」こそが「煩悩」の元となる「愛」なのだ。
「空」は常に「可能性」をうみだしている。「可能性」とはなにか。それが問題だ。
「保存則」とは「自己射」であり、「対象」である。
「空」は対象としての自分自身を取り込もうとする。
ラッセルのパラドックスである。
パラドックスが矛盾にならないように「可能性」がうみだされる。
この「可能性」を「希望」であるとみなして、可能性をうみだす機構をパンドラ構造体と仮に名付けてみたわけだ。
矛盾+可能性=無矛盾
これが「変化」や「時空間」となるものの正体であろう。 パンドラ構造体、パンドラ機構への言及は先送りしてモナドを考える。
ライプニッツのモナドはモナドではない。
真のモナドは「空」であり、ただひとつである。
ライプニッツのモナドは「真のモナド」の遺伝的発展であり、やはり、モナドの定義から外れる。 時間には展望(prospect)と回顧(retrospect)があるんだよ。展望と回顧は、
対称的な関係にはない。なぜなら、回顧は既に起きたことの回顧であり、
個別の事象にかかわるが、展望は、これまでに生じたことの反復または
展開として見通されるのだから。 >>759
運動が継続している間、何も生まれないしなくならないのは理解できますが
身の周りでそんなことが起きないのは継続しているからではありませんか?
自然の存在形態そのものが停止する事態が起きる可能性がないと
人間が言い切ることはできないのではないかと思う。 光速より速いものはない
「今」のvelocityは光速
こんなに宇宙は広いのに遍く光速で同期
普く同時に訪れる未来
velo velo ばー 僕は理系の人達の方が好き。
だから、このスレは割と好き。 2 絶対座標の否定が示すこと
光速度一定の原理は不思議ですが、ここで注目されなければならないのは、絶対座標が実在しないということです。
地動説もそうですが、わたしたちは対象の運動を理解する場合には座標原点、運動量ゼロを適当に設けます。
光速度一定の原理は、自然における絶対座標、つまり自然における始点を実験で否定したものです。
座標原点はゼロ次元ですが、数学に拠れば数は部分を持ちません。その数をたとえ無限に集めたとしても0が部分を、つまり大きさをもつわけではありません。0×∞=0です。
このことは次元の実在が否定されたことを意味しますが、それは後ほど論じることにします。 この原理は静止が自然のどこにも存在していないことを示しています。
つまり自然の存在形態は運動ということになり、量子力学の自然観である、運動するエネルギーの濃淡の海という理解を導くことが出来ます。
なぜなら運動を前提に有と無という否定関係が成立することはないからです。
いわゆるエーテルという光速度を変えるような物理存在は無いのですが、運動の普遍性を示していますから、物理存在そのものは否定できませんし、ディラックの海はそのことを裏付けていると言ってよいのです。
いわゆる真空はエネルギーの基底状態として理解すべきであり、何も無いわけではないということです。
ここから観測問題である対立する波と粒子と理解されている現象は実は波が渦の状態を呈していると考えれば対立、否定関係は解消されます。
自然は運動するエネルギーの濃淡の海ですからすべては波ということです。
(この理解はなんら突飛ではなく、現在でもブリゴジン学派の科学者たちはその予想で研究していますし、十九世紀の英国学者はそのように理解していますし、また古代ギリシャ哲学の一派は粒子は波の一形態だと述べています。
「ビッグバンはなかった」の著者であるラーナーはこの説に言及していますが、銀河系の渦状態を示す方程式との関係で面白い指摘をしています。) 重力は加速に必要なエネルギー量、諸力はある物理的状態から違う物理的状態、つまり渦の状態である粒子をさらに小さい渦状態に生成するのに必要なエネルギー量と定義すればよいわけです。
この理解において重力、諸力はエネルギー量に還元できるわけです。つまり力は実在しないのです。
重力は加速に必要なエネルギー量であり他の諸力は運動する自然の物理状態の生成過程に必要なエネルギー量という違う側面であることになります。
いわゆる最小単位問題は、ある物理条件が設定可能ならばいくらでも小さくできる、実際には渦の状態である粒子をより小さい渦状態にすること、つまり最小単位は実在しないことになります。
つまりすべては運動するエネルギーの多様な在り方ということです。
光速度一定の原理が示す無矛盾な自然観から、観測問題と最小単位問題の一つの解決案を出すことができましたが、不確定性原理は違う問題ですので次章以降で解決案を出すことにします。 二時間前に書き飛ばしたので推敲はあまりしていませんが
ここで簡単に自己言及について考察したいと思います
三浦つとむ氏は、言語を対象ー認識ー表現という構造を持つとしました。
スポーツの実況中継はそれがよくわかります。
わたしという言語表現の場合、自己言及ですが、対象と認識主体が同一です。
この「わたし」という言語表現の認識構造を考えてみることにします。
わたしたちが地図を描く場合には、頭の中で街の空の上に自己がいるものとして描きます。
日本地図、地球、太陽系などそれまでの知識が元になって描くわけです。
またわたしたちは赤ん坊を見て自分の過去、年上の人たちを見て自分の将来をそれぞれ想像します。
テレビドラマを見たり、小説を読んだり、映画を観たりして頭の中で過去や未来、現在、他の天体に行ったり、宇宙人が来たり、またそれらの中の主人公とか空想上の、また歴史上の人物などになったりします。
わたしたちにはこういう能力があり、それは三浦つとむ氏は観念的な自己分裂と名付けました。 わたし、という言語表現も、頭の中で自己自身を対象として、認識し表現するわけです。
それを直接示すのが、鏡です。鏡を見てわたしたちは服装が似合っているかとかいろいろ観察します。
この場合、実は頭の中では鏡に映った自分が現実の自分を認識することになります。
この場合、鏡の中の自己が認識主体ということになり、現実の自己は認識対象であり、それが「わたし」という表現となります。
これまでが三浦つとむ氏が「日本語はどういう言語か」、「弁証法はどういう科学か」で展開された観念的な自己分裂という用語のわたしの理解した説明です。 わたしは、ただ一点この説明に疑念を抱いています。
それは表現された「わたし」は鏡の中の「わたし」が現実の「わたし」という理解です。
実はここにも「クレタ人の逆説」の本質である決定不能という命題が潜んでいるのではないのか、ということです。
認識対象である現実の自己と認識主体である観念としての自己は対立関係で、互に他者としての自己です。
つまり現実の自己、わたしは鏡の中の自己にとっては他者でもありますし、また鏡の中の自己は現実のわたしには他者なのです。
「わたし」という表現にはこの決定不能というクレタ人の逆説が潜んでいるのではないか、というのがわたしの疑念です。
認識対象と認識主体という対立、否定関係がもたらす決定不能ではないかという疑念です。 表現としての「わたし」という自己言及は認識主体と認識対象という対立が本質としてありますので、このような決定不能の命題を抱えます。
運動を理解するには静止という運動の否定で理解しますが、運動とは何かと定義することは、そのことの自己言及です。
数学では有限を無限で理解しますから、これも否定関係ですし、不完全性定理はこのことの自己言及です。
自然科学という学問は自然が生成した人間の脳が自然を理解しますから、その本質として自己言及であることに成ります。
意識が薬で変容することは知られますし、睡眠薬は意識を一時的に無くしたりできますし、また脳を無くせば意識もまた失われます。
このことは意識は物理存在のある状態の付随現象と理解されるべきことを示しています。
未完 (全て私見ですので(当たり前)、以降、断りません)
世界とは何かの問題
世界は、意味的に世界である。世界が、どういうものか、が説明される必要があるでしょう。
世界は、意味的に世界である、と言う言明は、また、主張でもあり、他者の同意を求めるものです。
意味の個別性
蕎麦の場合を、考えてみます。蕎麦は食べもので、如何の斯うのと辞書によって説明されます。しかし、蕎麦アレルギーの人にとって、それは食べものではありません。
意味は、個人的、個別的なあり方をしています。
個別的なあり方の意味から、世界を捉え、説明する試みは、他者との共通世界の成立を、またそこから、説明しなければなりません。
意味は、行為にある
意味は行為にあります。わたし、という言辞の意味は、その発言行為にあります。誰かに対しての、発言行為にあります。
人が、わたし、という言辞について思考する時、既に、その思考は言語行為の前提の中にあります。
前提が、仮定されています。そうでなければ、その言語は、発音されず、書かれてもいないので、それこそ、何の意味もありません。持ち得ません。書かれた言葉は、誰かに読まれることを前提してあります。すなわち、無言の中で、表象される(読まれる)、行為を前提して
あります。
(全て、説明不足ですが、とりあえずの
概略にはなるでしょう) たかが「自然」世界の理解をするための部位でしかないということで 『神との対話』シリーズの神。
どこか特定の宗教だけの神ではなく、
世の多くの宗教にインスピレーションを与えてきた普遍的な唯一の神。
思索的な哲学書として読んでも面白い書物だと思います。
イエスの事も「イエスは最高のマスター(師)の例だが、イエスだけが聖者・マスターではない」と。
今回は宗教や格式を超えて、愛を持って気さくな形で人類に語りかけてきてくれた。
この愛の神を本当に信じ、心に受け入れれば、本当に世界の観方と経験が変わると思います。
《10分ほどで読めて分かる『神との対話』》
https://conversationswithgod.wixsite.com/kamitonotaiwa-matome
意味は行為に
意味は行為にあるので、実行出来ないなら意味がない、と人は日常的に発言します。
そして、必ずしも実行可能性の見通せない物事について思考する(思考を繰り返す)事態が、人の実存が、サルトルの言うように、言わば、(即自存在と対自存在に、)分裂してあるかの様に捉えられる原因です。 共通世界
個人的、個別的な意味から捉えられた、言わば一次的な意味世界より、他者との協力共同する共通意味世界の、獲得、説明が、諸社会科学の基礎になります。 時間は実在する
すべての存在は変化(生成・消滅・動)する
変化は少なくとも二つ以上の物が存在しなければ変化はない
一つの物しかなければ何物にも変化しえない
変化とは物と物との関係性が本体と言える
しかし関係性それ自体はただの事実で現実的には何も動かすことはできない
物と物とを動かす別の力を必要とし、それは必ず継続的でなければならない
そのようなものは時間しかなく、時間は実在すると言わざるをえない 翻って獲得される世界
人は、ある社会のなかに、既にあり、その社会のなかに流通する意味を受け取り、社会を(世界を)受け取り、その中の自己を了解し生活を始めます。
しかし、いつかフィロソフィア的思考を始める時、翻って意味とは、世界とは、自己とはと、思考し、そして個別的な意味世界を獲得します。意味世界は翻って獲得されます。そしてその個別的意味世界から、他者との共通意味世界が
獲得、構築されます。様々な、制約や条件付きだったとしても。
その制約や条件のあり方が、その時代と呼ばれます。 科学が示す事実として世界は一である
すべては差異としてあることもまた示している
差異としての関係性というだけ
一つのものの存在形態が運動であり、その濃淡、差異が多として減少しているだけ
科学は次元そのものの実在を否定している
ここから出発しなければならない >一つのものの存在形態が運動であり、その濃淡、差異が多として減少しているだけ
一つのものの存在形態が運動であり、その濃淡、差異が多として:現象しているだけ 否定関係で理解しているだけ
生物分類はそのことを示している
ウィルスは生物もまた物理存在としてということを示している
生物は物理存在の差異でしかない わたしたちは時間とは何かを自然が示す事実から理解すべきであり、それ以外ではない 過程さんの「時間」は死体にとっての時間って感じなんだよなぁ
素の宇宙は死体か 理解とは
1足す1は、2ですね。数学者は、これを厳密な科学と言います。
しかし、実際1足す1は、2にはならないといった方が正しいのです。
まず、1リットルの水を正確に取る事が容易ではありません。更にもう一つ1リットルの水をとったとして、それを合わせると2リットルの水になりますか。
容器に張り付いて、移動しない水を考慮しただけで、それは出来ない事が明らかです。
更に、2リットルの水があったとして、それを1リットルと、1リットルの水に分ける事が出来ないなら、初めにあったのは、2リットルの水であると主張する行為は、どれほどの意味があるでしょうか。あるいは、あったのでしょうか。
我々は、人は、理解させられているのであって、それ以外ではありません。あるいは、それを越えて、理解していると言う者は理解の伝道者か、何かの諦めを呑み込んだ存在者でしょう。 理解とは
実存者の理解とは、理解させられていると言う、一つの現象である。社会内存在の現象である。
理解しょうとする行為が、悟りとか、何かの諦めに行きつくのてはないか。
(前項、最後は少し言い過ぎ) 宇宙を完全解明した人間はいない
実際に示している自然の運動から宇宙を理解しようとするのは認識学で
科学は認識を証明できなくても、自然法則から宇宙世界の構造を考えるのが哲学だな
> 何も生まれない、無くならないのが宇宙
何も生まれないし無くならないのが自然だったものから宇宙という世界まで通用するかどうかが
自然を理解しただけでは不完全だろう 理解とは
水の件、の他に、二個のリンゴを検討してみます。街で美味しいそうなリンゴを見かけたので同じような大きさ、形、色の物を選んで二個のリンゴを買って帰ります。
二人の兄弟が、そろってリンゴが好きだからです。二個のリンゴは、一個と一個のリンゴに分けられるはずで、問題は無さそうですが、そうはなりません。
一方が、こちらが欲しいと言い、もう一人もそれが欲しいと言えば、事件の発生です。
最初にあった二個のリンゴは、リンゴ花(固有名詞)と、リンゴ雪だったのです。 自然を(傍観者的に)理解するということがそもそもの間違い。
ホイラー的見解では「理解」は「傍観」ではなく「参加」である。
参加型の理解でなくてはならない。
(ま、わたしの場合は、参加を通り越してメソッド哲学(c)なわけだが) 時間了解
ハイデガー風に言えば、我々は日々、時間のなかに居て、時間に対応して生活している。それでありながら、時間とは何かと問われると答えられない。
つまり、ある時間了解のなかに居る。
その了解は、意味的である。 傍観者では意味がとれない。
参加者であるからこそ「意味」があるのだ、と考えるとおもしろい。
哲学と量子論は同じものだなやはり。 時間とはマンコだよ
オ マ ン コ を哲学する。A [無断転載禁止]©5ch.net
1 名前:考える名無しさん 2017/04/06(木) 00:37:12.63 0
おまたせ
シーズン2だよ。 自然科学が示した事実でそれ以外ではないし
そこからが出発点だろう e^t(cos(t)+isin(t))=(-1)^((1-i)t/(π))=(cos(π)+isin(π))^(2t/(2π)+2t/(2iπ)) 余計な括弧が入っていたから訂正
e^t(cos(t)+isin(t))=(-1)^((1-i)t/π)=(cos(π)+isin(π))^(2t/(2π)+2t/(2iπ)) 付随現象としての意識は、うまれて、なくなる
から保存則的にはチャラですか?
そも無関係? 出発する時が訪れる。訪れた時を振り返って見ると、そこに出発してからの時間がある。 >>812
この辺は説明が難しいなあ
物理状態は恒常として在るのですが、それはであって、ではない、ということが、です。
対象は、で在って、ではないという決定不能です 存在者の現れというのは、回顧的(retrospective)な反復の写し(double)である
と言うことができるのかもしれません。 物理存在としては何もなくならない、生まれない
物理存在の運動変化による状態は、であって、ではないということ
このことは無くならない
○○であって、○○ではないというのは不同一を同一として捉えるからです
運動変化の過程で差異としての物理状態に生成されていく
物理としては何も無くならない、生まれない
やはり理解の在り方が生死という認識になるわけですが
なんか手懸りが掴めそうなんですが
やはり同一という理解の在り方の問題だとは思います
挟雑物が何か、ということが判れば >>811
この表現は、よく耳にすることのあるフーリエ変換と呼ばれるものと
関係しているようですね。私には、数学的な説明はさっぱり分らない
けれど、存在者として認識されたものの時間的変化を現存在との
かかわりで考えて言語化するためのヒントになりそうだと感じられる。
数学を専門とする人にそんなことについて尋ねても、無関係だと思うと
即答されるだけだとは思うけどね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています