ポスト現代思想、ポスト・ポスト構造主義2
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意図をどう扱うかという問題でしょう
意図が扱いにくいからといって、「恣意性の排除」によって、
あらかじめ意図を排除してしまうなら、
すべては、既に与えられている分類の構造に還元されることになる 構造主義が意図を排除しようとすること自体が、恣意性によって構造が
乱されることが意識されている証拠でしょう。機械的/自動的/無意識の
構造を見出そうとするのに、意図によって構造が改変されてしまうことを
認めるのは都合が悪い。それを認めると、分析する側が、コントロールする
手立てを失ってしまうことになる。だから、意図はなかったことにしましょう、
意図は、実は、裏から、意図しない与えられた構造によって規定されている
ことにしましょう、ということになる。しかし、意図は、構造的でも、
非構造的でもなく、構造化そのものなのです。 そこで、哲学は、いつでも「遅れてやって来て」、メタ言語的に表現の
妥当性を問い直すことになる。そこで問題にされているのは、意図が
どのように経験を構造化しているかでしょう。哲学的な言説によって
であれ、経験が、既存の表現によってうまく記述され尽くしていると
感じられる限り、哲学は必要ないが、そのような記述には、新たな経験
は、まったくかかわっていない。 《Que sais-je? 〔Que sçay-je?〕》「私に何が分るのか?」
そう自問することを忘れるべきではない。 ブラシエやメイヤスーの「絶滅」論も、
人間存在を超えるものや、世界に対する絶対的な畏怖という、
西洋の伝統の延長線上にあるものなんだろうと思う。 別に一人で延々書くのもいいんだけど、ひとりごと調じゃなくて連続性のある講義調とかメモとかにしてほしい
断片的に考察が並んでるのが謎すぎる 中沢大好きおじさんはもう中沢には言及しないの?
東洋も二元論だって論破されたから話題逸らししてるの? 二項対立については、いつでも「思想」に落とし込まれてしまい、哲学的に
十分に考察されないから混乱している。 >>955は、誤爆だが、構造主義の重要な問題の核心に触れることになっている。
構造主義やポスト構造主義が流行したとき、「言語には差異しかない」という
ソシュールの引用が流行ったが、それにより、哲学的に考察することなしに、
つまり、メタ言語のレベルにおいて十分に表現の妥当性を検討することなしに、
二項対立の存在について語ることが構造主義やポスト構造主義を論じることに
なるという一般的な認識が定着してしまった。 だが、実のところ、問題は簡単だ。ここで言う「差異」とは、弁別的特徴の
ことであり、例えば、フランス語を知っているというのは、フランス語と
される言葉の表現において用いられる弁別的特徴が分り、使うことができる
ことである。それができなければ、たとえフランス語の辞書を丸暗記して
いて、発音や文法の記述を詳しく述べることができたとしても、フランス語
について豊富な知識を暗記していることにはなり、フランス語について
よく知っていることにはなるが、フランス語を知っていること、つまり、
フランス語が分ることにはならない。これは、ちょうど、或る人が、
いくらワインについて博識になっても、ブルゴーニュ産のワインと
オーストラリア産のワインを試飲して、その違いを判別することが
できないなら、その人はワインについてよく知っている人ではあっても、
「ワインを知る人(connaisseur)」であることにはならないのと同じ
ことだ。 「言葉の意味とはその用法である」と一般に言われるが、「言葉を使う」とは、
「弁別的特徴を構造化することができる」ことである。それができなければ、
いくら大きな声で盛んに音声を発していたとしても、その声は「意味を成さない」
のである。だから、日本の古典文学においても、下衆の発する音声は、
しばしば、「言葉」としてではなく、「さえづり」として認識されている。 構造主義やポスト構造主義として「二項対立の存在について語ること」は、
「意味を成している」のか? 「違いが分る」ようになるために必要なのは、「身をもって知る」ことであり、
つまりは、経験することである。経験するとは、自らの振舞ひの効果が感じられる
ような状況に自らを置くことだ。それなしに、いくら知識を蓄積したところで、
「違いが分る」ようにはならない。 学校教育は、豊かな経験の可能性を提供する場となっているのか。
むしろ、家畜として生きることを「身をもって知る」場となっているのではないか。 >>963
> >>955は、誤爆だが
『エセー』なんて手に取ったことあるのかい? “わたしはなにを知っているのか?(ク・セ・ジュ)”
“もっとも知られていないものこそが、神々の列に加えられるのにはもっとも適している”
― モンテーニュ 『エセー』 検索してみた
http://new.gisc.org/gestaltreview/documents/MontaigneKnowingandGestalt.pdf
In 1576, the French essayist, Michel de Montaigne chose as his
maxim of skepticism1 the question “Que sçay-je?” [What do I know?],
which he had set on a personal medallion together with the Greek word
epokhe [I hold back, or I reserve judgment], How does he [Man] know, by the force of his intelligence,
the secret internal stirrings of animals? By what comparison between
them and us does he infer the stupidity that he attributes
to them? When I play with my cat who knows if I am not a pastime
to her more than she is to me? We entertain each other with
reciprocal monkey tricks. If I have my time to begin or to refuse,
so has she hers. (Book II, chap. 12, p. 401) >『エセー』なんて手に取ったことあるのかい?
手に取ってみて、適当に開いてみました。なにか関係しそうなことが
書いてあるようです。何を言おうとしているのでしょうか?
Tout ce qui se cognoist, il se cognoist sans doubte par la faculte du
cognoissant: [...] Or toute cognoissance s'achemine en nous par
les sens, ce sont nos maitres: [...] La science commence par eux,
et resout en eux. p.624 誤:et resout en eux
正:et se resout en eux 社会で真っ当な人物として暮らしたかったら、作中の登場人物に対しては、
終始違和感しか感じない筈だが、これが常人から並外れて論理的な向きである場合は、
それほど間違っていないというようなことなのかな? あなたの言葉を聞いていると、脳がすっきりときれいに洗われる気がします >>971
こう問い直してみてもいいのではないでしょうか。
モンテーニュは、 “Que sçay-je?”という言葉を、自分の知識の量が
不足していると感じていたので、《Je demeure incertain.》という意味の
ギリシア語と一緒に記して、座右の銘としたのでしょうか。 懐疑主義とは、実際には疑ってもいないことを疑っているふりをして
みせることではない。「不確かさに留まる」ことは、分っているのに
分らないふりをすることではない。
分ろうとする意志が働くためには、まずは、現状で自分には分って
いないことに気付くことができなければならないのである。
ところが、いくら思いを巡らせてみても、自分にどのようなことが
分っていないのか気付くことはできない。分っていないことに
気付かせてくれるのは、経験だけなのである。 経験によって、現状では自分には分っていないことに気付き、その状況
を受け入れることによって初めて、分ろうとすることになる。
しかし、乏しい知識に劣等感を抱いている人々も、逆に自らの豊富な知識
を誇りに思っている人々も、その多くは、分らないという状況を受け入れる
ことができない。なぜなら、それらの人々にとって、世界は、知っている
ことと、知らないことだけから成立しており、分らないことは、たとえ、
他人には関係している可能性があるとしても、自分には無関係のことである
と即断するからである。自分に知らないことがあることは、自らの知識
の量を誇りに思っている人々でも知っているが、分らないという状況を
受け入れたままでいることは、それが自分の知性が劣っていることを
示しているように感じられて、耐えることができないのである。
だが、愚かさとは、まさに、そのように、自分には分らない状況に
耐えることができず、分らないものは自分には無関係であるとする即断
にある。知性は、分らない現状を自覚して判断を保留しながら、
分ろうとして手がかりを求めることを続けることによって磨かれる。
それが「不確かさに留まりつづけること」であり、そうすること
によってしか、知性を磨く機会は得られないのだ。 技能を身に付けさせる訓練をするのに、訓練を受ける側は、「まだ何も分らない
のだから黙って言われたことに従え」というのは、それが、既に技能を身に付けた
指導者のまねをするように導かれる限りで正しい。訓練を受ける側は、まねを
しようとしてもうまくいかない経験を繰り返し、なぜうまく行かないのか、
うまく行く人のやり方とどこに違いがあり、どうすればうまく行くようになる
のかを自ら探究することになるからだ。しかし、指導する側が、模倣されるべき
技能の実践的な効果を示すことができず、ただ単に指示に忠実に従うことが
評価され、指示に従わないことが罰せられるだけなら、それは、それが
どのような名目/建前で行われるにせよ、技能を身に付けさせるための訓練
ではなく、服従のための訓練となる。 階層化した社会においてのみ成立し、運営されてきた学校という教育制度
で実際に行われているのは、生きるのに必要な技能を身に付けさせるための
教育なのか?「教(をし)ふ」という表現が意味するのは、声によって導く
ことであるはずだが、命令と禁止と褒美と罰によって服従する習慣を身に
付けさせることは、躾(しつけ)であって、技能を教えることではない。
調教された馬や犬やイルカなどの動物は芸をやってみせるが、芸を仕込ま
れた動物は、調教する人によって技能を教えてもらっているわけではなく、
自ら発達させることのできる技能を服従において発揮しているだけである。
ヒト以外の動物を見ても、生きる技能は、取り残されないように親について
いこうとすること、親が餌を獲るのを真似すること、子供同士で遊ぶこと
などで身に付けている。生殖のパートナーを獲得しようとする競い合いで
技能を磨き、高める場合もあるだろう。しかし、命令や禁止に服従すること
で自らが生きるための技能を磨くような動物種が存在するだろうか?
従順に服従する習慣を身に付けることが、人と人に飼われる動物の場合
においてのみ、生きる技能を身に付けるための「教育」と見なされると
するなら、これはとても奇妙なことではないだろうか。 『モンテーニュとエセー(文庫クセジュ)』 ロベール・オーロット (1992) どこらか読んでもいい随筆集なのだから、どの巻からでも(または1巻本の
場合には、どのページからでも)直接に読めばいいのでは。前提として
何か専門知識を要求するような本ではない。 意味は既にあってそれを解読するという作者中心の読み方から意味が主体の中で生成されていく読み方(作者の死)に変わっていく
文化を言語的構造とパラレルに捉え文化を言語学的方法によって分析する
そうすることで文化はロゴスとして順序立てられたものとして秩序立ったものとして捉えられる
そこでは主体は秩序を再生産する一部品に成り下がり主体としての地位を失う
しかし文化も言語もロゴスではないし秩序立てることはできない
つまり文化や言語それ自体がそして文化や言語に隷属していると思われる主体がロゴスを秩序を破壊し新たなものを生み出していく力を内包している
では文化を言語的に捉えることができないのであればいかに捉えるべきか
そこで身体性が出てくる
しかし身体性は概念である
そして身体性の痕跡を表すには言語を用いなければならない
身体性によっては言語から逃れることができない
言語は順序立てられていなければつまりロゴスでなければ理解ができない 宗教
過去(創造と歴史)と未来(終末や来世)とのつながりから現在を理解しようとする
科学
過去(原因)とのつながりから現在(結果)を理解しようとする
科学に未来を組み込むことは可能だろうか >>989
とりあえず、ハイデガーでも読んでみればいいんじゃない? 言語以外の記号の分析というのもあるよ。
身体性ということであれば、
ロラン・バルトのファッションや、内田樹の武道とか。 (1)言語の意味作用を中心としたソシュールの記号学
(2)言語以外の意味作用も対象にしたパースの記号論
ドゥルーズ=ガタリからメイヤスーにかけての流れの中で注力されているのは、1から2への転換だね(>>225)。 >>272の中で分けられている「自然と文化(脳内過程、象徴過程)」というのは、
人類学というより記号論的な問題系。
言語以前の動物の生命過程や生物過程にも、記号過程(動物の体の模様や>>544のようなこと)はある。
敷衍して、生物記号論や地球環境記号論という話にまで発展した。 スマホのインターフェイスなんかはアフォーダンス(生態心理学と情報科学)の具体的な成功例。 >>733は、
デジタルメディアを通して展開される東のデリダ論と、石田のメディオロジー論。
心理学、現象学、記号論などに残された課題をアップデートし切っている。 メディオロジー関連
・レジス・ドブレ 『レジス・ドブレ著作選 1-3』 NTT出版 (1999-2001)
・ダニエル・ブーニュー 『コミュニケーション学講義 メディオロジーから情報社会』 書籍工房早山 (2010)
解説
・『現代思想2000年7月号 特集=メディオロジー』
・『フランス現代思想史 - 構造主義からデリダ以後へ』 岡本裕一朗、中公新書 (2015) メディオロジーは、キリスト教やマルクス主義の言説分析なども対象にしている。
“私はつまり、高度な社会的機能を伝達作用の技術的構造とのかかわりにおいて扱う学問を「メディオロジー」と呼んでいるのだ。
人間集団(宗教、イデオロギー、文学、芸術など)の象徴活動と、その組織形態、そして痕跡を捉え、保管し、流通させるその様態との間に、できるならば検証可能な相関関係をケース・バイ・ケースで論証すること、それを私は「メディオロジー的方法」と呼んでいる。”
― レジス・ドブレ 『レジス・ドブレ著作選 1 メディオロジー宣言』 NTT出版 (1999) この辺りが、ポスト構造主義からポスト・ポスト構造主義への過渡期。 せっかく目を閉じていてあげたのに
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