数学を初めとした理系の学問と哲学について 10
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https://www.zakzak.co.jp/soc/news/180417/soc1804170006-n1.html
前川喜平氏が説く「数学必修廃止論」に疑問 出会い系バーでの
「貧困調査」の具体的な成果なぜ示さないのか
高橋洋一 日本の解き方 ]
前川喜平・前文部科学事務次官が週刊東洋経済4月14日号で、
貧困対策の一つとして、「高校中退をなくすには数学の必修を廃止するのがいい」
と発言している。
↑これが日本の文系官僚のレベル。下手すると、哲板の連中とあまり変わらなそうで怖いな
こんな馬鹿がトップに君臨できる日本の教育界。 >>234
NHKで、つーちゃんが出演した哲学番組を観た。内容は、全般的に良かったね。
初めてTVで益若つばさを観たけど、小柄でやはり可愛い。あれで、バツイチ10歳の子供が
いるなんて、さすが芸能人だ。自分のブランドEat Meでファッション系のビジネスも展開しているから、
頭もいいのだろう。だから、こういう番組にも出演する。 それで番組では「自由」がテーマで、サルトルの実存主義が取り上げられていたけれど、
自分がいつも感じるのは、人間や生命、存在全体は不自由である、ということ。
物理であればプランク定数が決まっているし、それをもとにこの宇宙が構成されている。
プランク定数を自分好みに変えて新しい宇宙を創造してみたいな、と思っても無理でしょう。
だから、基本的にはサルトルと逆の見解で、どちらかと言えば構造主義的にモノを観てしまうし、
大半の現代人がそんな感じじゃないかな。
ただ面白いのは、サルトルって、マルクス主義者でもあったと思うのだけど、にもかかわらず、
そうした構造主義的な思想とは違った自由の哲学を実存主義として確立したこと。 構造主義的な思想は、主体側に自由があるのではなくて、主体は構造よって形成・生成される、
というように環境や社会側に主体性や主軸を置く発想だから、いわゆる個人に責任を帰属させる
自民党(保守)的な自己責任論とは逆の発想になる。環境や社会が鋳型で、主体はパン生地みたいなもの。
鋳型が変だったら、焼きあがるパンも変な形になる。
おかしな人がいたら、それは、おかしな人本人の責任ではなくて、社会がそういうおかしな人を
作ったと構造主義者なら考える。親の栄養状態や食生活、私生活、環境が悪くて、
その子供の遺伝子や脳にダメージを与えた、という風に考える。麻薬やドラッグを容易に
手に入れやすい社会の方が問題だ、と考える。ギャンブル依存症についても同じ。
公害や環境汚染の影響などもあるかもしれないし、隔世遺伝ということもあり得る。 だから、兎に角、いくら、おかしい人がいても、それは環境が作ったと考えるのが構造主義。
メンタルやストレスに弱い人がいても、それも本人が弱いから悪いのでなく、弱くなるような
人格形成がなされる環境が幼少から与えられたから、と構造主義者なら考える。
過保護に育てられて、圧に弱い人格が形成されてしまえば、上司に怒鳴られただけで
会社に行かなくなるかもしれないし。逆に、環境が悪すぎて、人格が歪んだり、
耐性がなくなることもあるだろう。
ただ、この考えは犯罪者の存在をも環境や社会が作ったのだから仕方ないと無責任を
肯定してしまうし、甘えを増長させたり、自分のだらしなさのいい訳にもなり得るので、
サルトル的な自由もやはり一部は今でも必要なんだろうね。 つーちゃん出演の哲学番組の前にNHKでファッションのバイヤーのドキュメンタリーも少し観たけど、
それも面白かった。そのバイヤー女性の話では、日本はどこもかしこも一律に綺麗で面白くない
のだと。アメリカだと、襞や起伏、スラム街のような汚く危ない所もあって、面白いということだった。
これを逆に考えると、アメリカではそうした起伏が平常運転なので、日本に来たら、逆にジャポニズム的な
調和の美を感じるかもしれない。 現に欧米人は礼儀正しい日本人など、そんな風に日本を受容していた感じもする。
並ぶことは日本人にとって普通でも、外国人にとってはそうでもない。まあ、日本だって、
汚いとこや危険なところ一杯ありそうだけどね。番組はビンテージファッションのことが
取り上げられていて、その良さは再現性のない、その時代にだけあったハンドメイドの一品物
であるがゆえに、それらのビンテージのファッションには花があるという話だった。
逆に言うと、ユニクロ的な大量生産品にはあまり花がない、ということだろう。戦時中の軍用の
茶色の防護服が退色して、今ではお洒落な薄いピンク色になっていて、ビンテージファッション
となったものが紹介されていたけど、そういう由来のあるものに、代替負可能性の良さを感じられるということだ。 人間もそうだよね。高度成長期の工場労働者やホワイトカラーが過剰に社会に適応的になろう
とすれば、個性を押し殺した機械のような人間でいる方が良かっただろうし、それ故に、
個人としては面白みのない退屈な会社人間が増えたのかもしれないし。だから教育も一律型
の方にシフトする。機械のように正確に動く人材が要請されていたから、自由な創造性などはどうでもいい。
ここにも、ベルクソンの「純粋持続」につながるものがあるのかもしれない。ヴィンテージファッションが
魅力的なのは、そこに代替可能性がなく唯一性の光やそのモノや人独自の由来なり歴史・履歴、トラウマが
あるので、その輝きがいつまでも埋没することなく、失せないのだろう。
自分の中で持続しているものは何なのだろうか。果たして、そんなものがあるのだろうか。 だからポイントは、単なる量化には照応しない、質的異質性や質的多様性というものがあり、
それを不要として捨象してしまいがちなのが、現段階レベルでのデータサイエンスであり、
その盲点でもあるということ。まあ、私の予想では、もっとAIやデータサイエンスの精細度の
レベルは今後、上がってくると思うけどね。多元的な価値観さえ一部、実装することだろう。
ただ、単なる定量性に還元できない存在の残滓や剰余、そういう存在(ダークマター・不可視、
不可知なるもの)に照射していくのは哲学らしいアプローチがするので、科学の盲点やバグを
補完する哲学の存在理由や役割というのは常にありそうだね。
>>243 そうなんだ。よく判らないけど 分裂病改め統合失調症のように生命って言葉は
そろそろ固体の総活動量とか概念の変化と共に
改名したほうがよさそう
生命・・・せいめい?
生まれた命?なにそれ?というより生きろという使命?
はぁ?神目線?みたいなね。 現代社会や現代人は、物事を量のみに還元して、質への視点を喪失させやすい構造がある
と思う。資本主義であれば、対象や商品を一元的な物差しである「貨幣」に還元する。
そこでは資本の最適化ばかりを追求し、価値の最大化を目指さない。また企業価値も
資本の多寡にのみ還元されてしまう。
最近、ブランドの化粧品や口紅などを途中まで使って、メルカリで転売して利用している、と
記事を読んだけど、それも貨幣的にその方が得だからという量への視点だけが
クローズアップされていて、衛生面などの質への視点が蔑ろにされている。確かに、
化粧品など途中で飽きがくるであろうから、高価なブランド品の使用済み化粧品をメルカリで
売買した方が合理的かもしれないけど、そこには品質低下や衛生面への意識が低くなって
いる。 これはAI化する今後の社会にも言えることで、資本主義的・貨幣的・量的な視点だけで考えたら、
大量な人員を自動化処理に置き換えた方が合理的で得であろう。ただ、そこで失われている
質的な要素がないかを経営陣は戦略的によく考える必要がある。
人間には多様性があり、ノイズがあり、各々違った経験やバックグラウンドがあって、一律で
ないという単なる部品の寄せ集めである機械とは違ったメリットと比較優位がある。
その意味は、組織に環境変化に対する柔軟性やロバスト性をもたらすかもしれない。 資本主義は、目先の株主利益のために、よく考え抜かれていない一時的な合理化や人員削減を
実行しがちであるけど、それは量と貨幣への配慮だけで、質といものが全く考慮されていないのだ。
企業や組織にも質というものがあって、単なる量の最適化ばかりを追求する企業体は、
組織としても尊敬されないし、質的な価値が低いと言わざるを言えないだろう。
ソーシャルメディアでもその価値が量に還元されやすい。そこでは、フォローワー数や登録・視聴者
の多い著名人や文化人が善で正しく、あるいは、賢く、そうでないものは、価値がないとみなされやすい。 著作であれば、ベストセラーになるものが良いもので、映画でもドラマでも興行成績と視聴率が
作品の価値の目安にされてしまう。すべては、このように量に還元された発想で価値を計って
いることが判る。政治であれば、得票を一番獲得できる与党の自民党こそが正しく、その他の
政党は無価値であるという認知上のショートカットが行われる。
この意味は、別に多数派が愚かな衆愚で間違っている、という意味ではない。そうではなく、
量の多寡でだけ価値を計るような世界観のモデルが片手落ちなのではないか、と述べているのだ。
量と貨幣にだけすべてを還元する資本主義モデルに対して、別のオルタナティブな価値観が
あってもいいだろうし、それは、一元的な方向のみに価値を収束させるよりも、むしろ、
人間的で健全なあり方なのではないだろうか。 長くて読む気しないけど
AIが完璧であるならば
人類は資源配分をAIに委ね
それにより世界は計画経済に移行するから
資本主義は終わる >>253
その仕事をAIがこなせたら平和になるな 万引きで捕まった女性が、その犯行を企てたのは自分ではなく、別人格のユズキが
やったことで無罪になったでしょ?解離性同一性障害。自分の中に住む他者。
多島斗志之さんの『症例A』は傑作だったな。まさか、あんな異様な帰結だったとは。またいつか、電子書籍の方で読む機会あるのかな あー、今、気づいたけど、多島で、著者名に「多」が付いてた!
だから、このような傑作が出来たのか。読んだ時には、全く
そのことに気付かなかった。 >>257
一概には言えないんじゃない
秩序だった画一性に埋没した方が楽だし。 >>260
長文の要約だよ。
それに、埋没して楽なのは有限単位。
同じ方向になびかない者の方が、多数だし。 進化においては、1系統よりも多系統ある方が、適応的となり、
種の保存や生存にとって有利になるからだよ。
自然や世界、社会システムは複雑なので、単純なモデルや1系統の方法論では対応しきれない。
そのため複合的に物事を観たり、多視点を導入して対処していく必要がある。
文化が1系統でなく、分岐(数多)として現れるのも、そうした種としての
適応上の理由もありそうだね。 >>262
だから
AIが完璧であるならば
と留保をつけた
そもそもAIに処理しきれないものを人間が処理できるとは思えないが 全知全能でない人間に全知全能のAIをつくることができるのか 「全知全能のAI」。いいですねー。いただきました。
Kobayashi Maruとして使えますね。a no-win scinarioなわけです。
そこでAIのテストとしてKobayashi Maru Testを提案したい。
このscenarioを克服できるAIのみが真のAIであると。
それはそのテストがno-winであればよい。
Neutral Zoneであるという縛りは必要かもしれない。 獲物を捕らえ食って生きていた犬が、人に餌を与えられて野生本能を虚勢された代わりに買主の都合で可愛がられたり始末されたりするように
人には及ばない速度でAIに仕事をさせ、人は安穏と生活し脳性能はますます弱体化し、ハングリー精神や向上心を失墜させ人工知能の価値に
依存していく。姉妹にはAI機能なしには生きられない怠惰でストレス満載な世界は人間をどう変化させるか見ものだなぁ AI姉妹いいですねー。ぜひともラノベにしてアニメ化も。 上司がAI
ヘルパーがAI
教師がAI
保育役がAI 上司が逃走
ヘルパーが党争
教師が闘争
保育役が逃走 不完全性定理と聞くとそれを理解しているか確認したくなってしまうよね 不可能、不確定、不完全
「できない」を証明する数学の力 不完全性定理は論理学とか集合論の話だから直接数学とは関係ないんだよ 人間が証明できる範囲を越えたものを信じること
これを宗教という
時々寄せられる質問や命題、主張に違和感を覚えるのは、人間が証明できる範囲を越えていると判断したからだ。
そして同時に「私が人間が証明できる範囲を越えていると判断したところでそれを証明できない」ということが分かり、フラストレーションがたまる。 だからこそ人間が証明できる範囲は何らかの方法で統一されるべきであり、そのための有力な道具として数学、論理学がある。 論理学は論理学、集合論は集合論、
数学は数学だから直接関係ないんだよ だから、それを探求するのが数学なのだよ
それは隠された秘密で私だけが知っている 集合論が数学と直接的に関係ないってことに気がついたとしても、それを人間が理解できる形で証明できなければ意味がない >>282
何で宇宙が生まれたのかまだ証明できんが、お前宇宙の存在を信じないんか? >>287
いや、それに気づけたというだけでも意味は大有りだと思うよ 現代数学は集合論を包摂しているし
証明は論理学を前提に成立する >>288
それに宇宙が生まれているという事実は観測的に証明されてるんじゃないかな? 宇宙は在って、変化している。
生まれた、は後付け。人間が想定した。 ゲーデル解(Gödel solution)は、一般相対性理論のアインシュタイン方程式の厳密解の
一つ。クルト・ゲーデルが1949年に発表した。この解は、宇宙項の大きさをダスト粒子
の密度によって再定義するなど多分に人工的なものであるが、解としてはさまざまな
奇妙な振る舞いをするため、アインシュタイン方程式そのものに内在する困難さを
代表するものとして、よく登場する。
光円錐、回転する宇宙、カントの時空論、相対性の時空論。ゲーデル宇宙論。 数学って、よく考えるとかなり仮想的な構築物だよね。
本当の0って、どこにあるのか。誰も実際にはゼロ、無を見たことがない。
無限大もそうだ。たとえば、宇宙空間が指数関数的に膨張し続ける無限大だと
しても、誰も、宇宙には境界が無いことを実証出来ない。それを確認する
のに無限大の時間を要するから無理だろう。だから、無限大も観念や記号
としてのみ存在しうる。
山形県産のラフランスが1個280円としよう。これは数学的に厳密に正しいか
は疑問だ。個々のラフランスは形も重量も、味も微妙にそれぞれ異なるからだ。
これをすべて、同じ等価物として1個で扱い、値段も同じにしてしまう。 そして、もし宇宙空間が有限でどこかに境界や果てがあるとすると、事態はもっと
仮想的になる。無限大という、この宇宙空間にその実例となる対応物が無いものを
数学は仮構して頻繁に用いているのだから。つまり、その場合は、無限大は脳内だけに
存在する抽象物だと言える。 ゲーデルの「不完全性定理」の洞察の素晴らしさは、客観的とされる数学の公理系にも
無矛盾性を証明できない要素やバグがあることを明示的に明かしたことだ。
完全なるものが、この世界には何一つ存在しないという認識は、哲学においても
重要なことではないかな。絶対的な真理はあり得ず、人は文脈依存の相対的な真理に
漸近出来るのみ。 公理はいくつもあって公理を構成する命題は相補的に成立する
マクロな視点で見たらそのシステムは公理系となり真理っぽく見えるけど、近づいてみてみると論理の網が張り巡らされている なぜ無矛盾性を証明できないのか。
それを解明することが大事だと思う。 >>301
バグの意味をどういう意味で使ってるの? 再帰的計算にて解決しようとしても、
計算すればするほど、足りなくなるのさ。 曖昧な言葉に終始してるあたりが、三角関数も出来ない哲学板住人の限界かな グーグルのような先進企業の凄いところは、組織にあえて、不完全性やバグを
意図的に埋め込んでいること。つまり、窓際族となりそうな人材をあえて、一部、
採用しておく。そのことで企業を取り巻く環境が急変しても、そうした多様な人材に
よって対処できたり、イノベーションの契機にもなる得ると、合理的に計算している
からだ。
だから、三角関数も出来ないで哲学とか言っている連中は、確かに馬鹿だとは
思うのだけど、あえて、そうした非知的層を捨象せず一部、包摂しておくことで、
創発なり、異質発生、場合によっては進化さえもたらされる可能性があるということだ。 時としては何かを対象にして(例えば三角関数)勝つための議論を展開することも大切だよね
その議論は必要ないだとか不十分だとか関係ないだとかいう主張を相手に理解させたい場合なんかはそう
ただ、弊害があって
勝つための議論は客観主義的な思考になりがちで、その場合論者の多くは非協力的だ
この非協力性や極度な客観性は「相対的に論ずるべきか客観的に論ずるべきか判断しにくい」命題に対して特に悪い影響を及ぼす
答えがある、もしくは必ず一つの真実があると仮定して思考してしまうからだ >>315
たとえば第一不完全性定理から>>301のように
> 完全なるものが、この世界には何一つ存在しない
などという認識を導く過ちを防ぐことかな 数学で用いられる記号は
「動詞」として機能しているか
「形容詞」として機能しているか
「動詞と形容詞を両方含む」か
のどれかだ
「副詞」に相当する記号は無い
よね。あったら教えて >>322
それなら具体的に、この世界にある、完全の無矛盾で誤謬のないものや対象、存在を列挙してみて。
ちなみに、> 完全なるものが、この世界には何一つ存在しない
という意見や命題が偽だと仮定してみよう。すると、これは無矛盾になるのだ。
なぜなら、この命題は、完全なるものなど何もないと、措定、定義しているので、
仮に、ここで間違った推論をしても、かえって、それゆえに命題と整合的になるからね。 後出しおつ
完全としか書いてなかったのに条件を後から増やすな とにかく、数学でなくても、無謬性や完全性を期待する発想は、あまりスマートには映らないし、
非現実的でもある。
最近、大きなスタンドミラーを倒して、鏡を割ったけれど、その破片が飛び散るような
ことはなかった。なぜなら、怪我をしないようにと、飛散防止フィルムが施されている
からだ。物は壊れる、ガラスや鏡は割れる、という物の不完全性を織り込んでおけば、
そうした仕様が可能になる。今の製品は、廃棄、リサイクルしやすい仕様で作られる
にもなってきているだろう。
人間の認知など、盲点がいくつもあるし、だから専門職でも、患者の取り違えによる
医療事故等の重大なインシデントも起こる。だから、無謬性を期するのでなく、
誤謬への傾向性やパターンを掴んで、それを最小化する取り組みが必要になる。
完全性は、観念論的な世界にだけある、想像的な産物ではないだろうか。
だから、宗教もそうだろう。完全だと盲信する者の間では、戦争が起こる。 >>324
自分が論理的思考力が欠如していることをアピールしてどうしたいの? 4月27日
哲学の日
紀元前399年のこの日、ギリシアの哲学者・ソクラテスが、時の権力者から死刑宣告を受けて、
刑の執行として獄中で毒を飲んで亡くなった。
アテナイ(現在のアテネ)で活動し、対話的問答を通じて相手にその無知(無知の知)を
自覚させようとしたが、アテナイ市民には受け入れられず、告発され死刑判決が下された。
弟子たちは脱獄を勧めたが、「悪法も法」だと言って毒杯を煽ったのだった。 不完全定理の無理解の例としては典型的だな
301 考える名無しさん age 2018/04/25(水) 20:34:13.19 0
ゲーデルの「不完全性定理」の洞察の素晴らしさは、客観的とされる数学の公理系にも
無矛盾性を証明できない要素やバグがあることを明示的に明かしたことだ。
完全なるものが、この世界には何一つ存在しないという認識は、哲学においても
重要なことではないかな。絶対的な真理はあり得ず、人は文脈依存の相対的な真理に
漸近出来るのみ。 数学は自身のシステムの限界の一部を(証明不可能な命題が存在するという観点において)内部論理だけで説明できる事が現時点で分かっているわけだ 数学は、な
それを一足飛びに世界とかに当てはめちゃうやつは論理的思考力が足りてない 数学で与えられるのは数学の世界だけだもん
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