ハイデガーはニーチェをどう読んだか
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@ ハイデガーはニーチェをどう読んだか A ハイデガーのニーチェ解釈に関連して、自分はニーチェをどう読むか . ニーチェは永劫回帰説を、物理学的な世界観として述べたのではなくて、信じる、信じない の世界観として述べたのだと思う。 輪廻転生を信じる人がその物理学的実証を必要としないように、ニーチェの永劫回帰説は 物理学的実証を必要としない。 ハイデガーの『ニーチェ』の第二講「同一物の永劫回帰」の中にある「回帰説の成立」と「悲 劇ガ始マル」の章を読んでから、上記のようなことを思いついた。その後、第二講「同一物 の永劫回帰」を飛ばし読みしていると、永劫回帰説の論証に物理学的数学的論証を求め ることが「いかに的外れであるか」ということをハイデガーが言っている箇所が出てくる。 そしてハイデガーは、同講のその後の章「信仰としての回帰思想」のなかで、ニーチェの 遺稿集のなかで永劫回帰説をニーチェが自ら「信仰」と呼んだり、永劫回帰説を「信じな い人」という記述などがある箇所などを6ヵ所ほど引用し、次のように述べている。 「所詮、この思想の思惟は、ニーチェがそれをひとつの「信仰」と呼びうるような、そして呼 びうるばかりでなく呼ばざるをえないような類いのものなのである。」 ただし、ハイデガーはこの「信仰」という言葉に但し書きを付けており、次のように述べて いる。 『ニーチェは、次のような言葉で信仰の本質を特徴づけている。 「信仰とは何か? それはいかに生じるか? 信仰とはすべて、ひとつの真−と−見なす ことである。」(『意志』 第15番, 1887)』 もしも時間が無限で、もしも物質が有限であれば 同じ出来事は無数回反復される >>2 のつづき ■ 永遠を求める情欲、永劫回帰の環を求める情欲 ハイデガーの『ニーチェ』の第二講「同一物の永劫回帰」の「回帰説の成立」の章から―― (抜粋開始) 「おお、どうして私は、永遠を求める情欲に、環のなかの環たる婚姻の指環――永劫回帰 の環を求める情欲に燃えないでおられようか。」(『ツァラトゥストラ』第三部「第七の封印」) 永劫回帰説の叙述について書かれた最初期の草案の一つには、 「・・・<<永遠ノ環>>。一切をもう一度、 そして永遠に繰り返し体験することへの欲望。」 (抜粋終了) 永劫回帰は不死の思想だ。不死を求める思想だ。ハイデガーは「回帰説の成立」の章で、 ニーチェが「永遠」というものを強く求めている部分に触れている。ニーチェは「永遠の生」と いうものを強く願望していたと思う。 おそらくニーチェは、「生」を「一回切り」で終わるもの、あとは永遠に無となってしまうものと 考えることが、耐え難くて仕方なかったのだろう。死後の世界での「生」や輪廻転生(直線 的時間)を否定し、拒絶したニーチェにとって、生を「永遠化」するために残された方法は、 時間を円環と「見なす」以外になかった。 時間を円環と見なせば自分の「生」は永遠化され、「永遠を求める情欲」は満たされる。死 後の世界での「生」や輪廻転生を自分の思想とすることは、今の「生」からそれだけ逃げ、 今の「生」をそれだけ粗末にし、今の「生」の価値を下げ、その人のもつ「力への意志」もそ れだけ弱まるとニーチェは考えていたのかもしれない。時間を円環と見なせば「生」は永遠 化され、ニーチェの「永遠を求める情欲」は満たされる。 そこで次に求められることは、ニーチェにとって、永遠化されるに値する「生」はどのように つくられるか、そしてどのような態度で「生」を生きれば、永遠化されるに値する「生」となる かだ。ニーチェの心に永劫回帰説が襲来するまでに、それらのところをニーチェがどう考え ていたか・・・ 永遠と無になる 生きているものがそんなことありえないけど、病気や怪我で 無を意識したものも多いだろう。言わんや戦争を。 しかし一度始まったものことが終わることは非効率でありえない不自然なことです。 希望を捨てずに、死んだ後の時間が止まっているということはないのですよ。 「もし『存在と時間』の下巻が書かれていたら、そこには案外ニーチェ由来の概念が溢れたか もしれないのである。」 (『ハイデガーの思想』 P.130 木田元著) >>3 確かに、そう思うのだ。・・けれど科学者は、宇宙は「ビッグバン」で「始まった」とかいう。 じゃあ、その前は?という問いは当然くる。 科学者は、答えられない。 また宇宙は「膨張」してるなどという。それなら、「膨張」の外の力があるということになる。 無ければ、「膨張」といわずに「宇宙は大きくなっていると」言えばいい。でもそうすると、大きくなる空間が 宇宙の外にあると思うのだが。 永劫回帰説は、存在の仕方をどのように考えたら、最も「力への意志」の躍動を満足させ ることができるかの、ニーチェ自身の回答であったと思う。 (永劫回帰説の思想が固まった時期には、まだ「力への意志」の思想は明確に体系化さ れていなかった) ハイデガーは第二の主著『ニーチェ』の中で永劫回帰の解説として、 「一存在者として力への意志の根本性格を帯びている存在者が、全体としてはただ同一 物の永劫回帰でのみありうる」 「同一物の永劫回帰は、力への意志を前提とする」 と述べている(第6講第3章「同一物の永劫回帰」)。 時間を直線的なものとして考え生きること―例えば死後の世界での「生」や輪廻転生(非 同一性の生)を自分の思想とすることは、今の「生」からそれだけ逃げ、今の「生」をそれ だけ粗末(蔑ろ)にし、今の「生」の価値を下げ、その人のもつ「力への意志」もそれだけ弱 まるとニーチェは考えていたのかもしれない。 【追記】 >>9 >永劫回帰説は、存在の仕方をどのように考えたら、最も「力への意志」の躍動を満足さ せることができるかの、ニーチェ自身の回答であったと思う。 最も「力への意志」を高め増大させるものが、ニーチェにとっての真理なのだから。 >>9 >>10 「力への意志」を永遠化しようと熱望すると、「永劫回帰」になるのか。 時間を円環と見なせば自己の「生」は永遠化され、自己の「力への意志」も永遠化される。 永劫回帰説の叙述について(ニーチェにより)書かれた最初期の草案の一つには、 「・・・<<永遠ノ環>>。一切をもう一度、 そして永遠に繰り返し体験することへの欲望。」(ハイ デガーの『ニーチェ』の第二講「同一物の永劫回帰」の「回帰説の成立」の章から) 今は仏教を学んでいる身なので、うろ覚えながら、かつて読んだニーチェについて書いてみる。 力への意志も、永劫回帰も、プラトニズム-キリスト教的な〈二世界論〉に対するアンチテーゼとして見ると、分かりやすくなると私は思う。 『偶像の黄昏』の中の「いかにして真の世界がついに寓話になったか」に書かれているように、ニーチェは、プラトンに始まり、キリスト教、 カント…と続く西洋思想の歴史を、「真の世界」と「仮象の世界」という二つの世界を想定する二世界論として見ている。 その中でもキリスト教をニーチェが最も批判している理由は、キリスト教において現実世界が「仮象の世界」として最も貶められているとニーチェが考えているからだと思う。 (ニーチェは、キリスト教世界においては現実世界が「去勢」されているというような言い方をよくする) そして「いかにして真の世界がついに寓話になったか」の最後には、「真の世界とともに私たちは仮象の世界をも廃棄してしまったのである」とあり、これがニーチェ自身の立場を示している。 つまり、もし「真の世界(イデア、天国、物自体…)」というものが、もともと存在しないとのだとすれば、現実世界からは「仮象の世界」というネガティブな意味合いが失われ、 現実世界は、二世界論に陥る以前の〈生成の無垢〉を回復するということだ。 しかし〈生成の無垢〉の再興は、もとのフラットな状態に戻ることだけを意味しているので、それがニーチェ自身の立場ではない。 〈生成の無垢〉から、再び〈二世界論〉に陥らないための「新たな世界構想」がニーチェには必要だった。 その「新たな世界構想」が、「力への意志」説であり、「永劫回帰」説だった・・・(続く) 疲れたので今日はこれまで。 とくに重要だと思われる関連事項は、《ニヒリズムの自己克服》、そして《創造(三様の変化における幼子)》。 そして、「力への意志」と「永劫回帰」をつないでいるのが《運命愛》だと思う。 ハイデガーとニーチェ? もう文学の世界なんだから哲学の話題じゃないな Von allem Geschriebenen liebe ich nur das, was einer mit seinem Blute schreibt. Schreibe mit Blut: und du wirst erfahren, dass Blut Geist ist. >>16 血で書いているかと言われても困りますが、大事な事ですね ニーチェ研究の専門家である氷上英廣氏(東大名誉教授 1911年生れ)は、『ニーチェの 顔』(岩波新書)という論文集で、『悲劇の誕生』で登場し、進行性麻痺症を発病する数年 前に再び著作に姿を現わせるディオニュソスというギリシアの神を例にあげ、次のように 述べている。 「(ニーチェは)疑いもなくアンチクリストではあるが、一義的な(根本的な)無神論者ではな いようである。」 「ニーチェの遺稿を見ると、・・・『ほんとうは、たんに道徳的な神が否定されたにすぎない (※)』といった言葉が見え、・・・」(※注-ナウマン社 ニーチェ全集遺稿第13巻) 「(ニーチェは)神一般を否定したとはいえないように思える」 また遺稿第16巻ではニーチェが、自身の「宗教的本能」や「多くの新しい神々」への指向性 を告白していることを述べ、次のようなニーチェの言葉を引用している。 「そして、どんなに多くの新しい神々がなおも可能なことだろう!」 「多くの神々のあることを、わたしは疑うことができない」 (コメント)我が国の、ニーチェ研究の専門家であった氷上英廣氏と同様、ハイデガーもニー チェの遺稿集をよく読み込んでいるようだが、上述した氷上氏の指摘をもとにニーチェ解釈 論を組み立てた場合、ハイデガーのニーチェ論は、基本的なところで―例えばプラトニズム の扱いの重要テーマで―「間違い」を露呈してくるのではないだろうか。 >>13 かといって記号操作が哲学かというとそれも ハイデガーは時代遅れの理解不能論文となり、ニーチェは読み継がれるだけの魅力があるのは事実。 ニーチェは啓発本として喜ばれ分かりやすいからいつの時代も受け入れられる 哲学は単なる記号操作じゃないよ この世の中はどういう仕組みなのか、人間はどうやったらそれを正しく認識できるのか、ってのを 真剣に追求してきたんだよ。だけどハイデガーにはそれがない。 ハイデガーは、「存在者の根本性格は悲劇的性格である」と述べているが、どうであろうか? (『ニーチェ』 第二講「同一物の永劫回帰」 第4章「悲劇ガ始マル」) 神秘体験などを絵や動画にして伝えればいいだろうね。 宗教芸術は神と人間を媒介するだろう。 悲劇の誕生は学位論文だな。アンチキリストなどがよいように思う。 ニーチェが赤道近くの熱帯で暮らしていれば、「大いなる正午」なんて ことは決して言いだすことがなかったんじゃないかな。 >>18 ディオニュソスというギリシアの神を崇拝していたニーチェは、実は有神論者であった。それ ゆえ「力への意志」は、有神論者が欲するディオニュソス的な、力動的、爆発的な意志・エネ ルギーであった。ニーチェはディオニュソスを陶酔的・激情的芸術を象徴する神として捉えた が、ハイデガーは「力への意志」を「激情」であると言っている。 >>4 >ニーチェは「永遠の生」というものを強く願望していた 「永遠の生」、「生の永遠回帰」・・・ ニーチェは、古代ギリシア人のディオニュソス的密儀(秘儀)・芸術のなかで、「生の永遠性 へ本能」を強調している。(『偶像の黄昏』 理想社全集 P.132-135) ハイデガーは、永遠回帰説を解明するなかで、「最高の芸術は悲劇的芸術である」といっ ているが(『ニーチェ』 第二講「同一物の永劫回帰」)、西章氏によれば、ニーチェ思想全体 において芸術は主要な位置を占めており、彼の芸術論は、「学問を芸術家の観点におい て、芸術を生の観点から見る」ことを「根本課題」としていた。 「ディオニュソス的なもの」と「芸術の声への傾聴 」 file:///C:/Users/寛/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/EE3ZR0WT/038-03.pdf >>27 それただの多神論者だろ ガチガチ一神教から見りゃ多神教など気が触れているとしか思われない つまり異物であり排除すべき悪くくりで無神論者と同じ扱いになるだけだ >>18 >「そして、どんなに多くの新しい神々がなおも可能なことだろう!」 >「多くの神々のあることを、わたしは疑うことができない」 この二つの言葉は、『権力への意志』 第1038番のなかにある。 >>35 無神論 (ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E7%A5%9E%E8%AB%96 神の観念は実に多様であるため、神の定義如何によってどんな考え方も無神論とみなし うるし、その逆も成り立つ。故に一部の一神教徒が汎神論宗教や仏教を「無神論」とする ことがあり、逆に一部の多神教徒が一神教徒を「無神論」とすることもある。そのため無神 論にはいくつかの定義が存在する。 ・広義には、また歴史的には「一神教におけるような唯一絶対の造物主を認めない立場」 を指す。 ・狭義には、「神もしくはその他の類似の名前の付いた、人間や自然を超えた存在すべて を認めない立場」を指して無神論と呼ぶ。 広義の定義に当てはめれば、仏教や儒教は無神論的宗教であるが、狭義の定義に当て はめれば有神論的宗教とみなされる。現在のキリスト教的世界観では広義の定義が定着 していると言えるが、多神教的世界観では狭義の定義が一般的な無神論の定義として扱 われることが多い。 >>24 >ハイデガーは、「存在者の根本性格は悲劇的性格である」と述べているが、どうであろ うか? > (『ニーチェ』 第二講「同一物の永劫回帰」 第4章「悲劇ガ始マル」) >>33 >「最高の芸術とは悲劇的芸術である」 (『ニーチェ』 同上) ニーチェ哲学やハイデガーの『ニーチェ』において、「芸術」や「悲劇的」という言葉は、今 日的な狭義の意味とは違う。 「悲劇」について、ギリシャ悲劇研究家の山形治江氏はこう述べている。 「ギリシャ悲劇というのは、「オレは何でこんな不幸な目に遭わなければならないんだ」と いう救いようのない理不尽さの物語だと思うのです。だから神が出てきて勝手なことを 言って終わるのは、確かに不合理なんだけど、もともとそれがこの世というものだ、という ことになるんでしょう。その理不尽さや不合理さそのものが悲劇なのだと思います。」 https://performingarts.jp/J/art_interview/0612/3.html >>37 ハイデガーは、永劫回帰を「悲劇」として捉えている。(『ニーチェ』 第二講「同一物の永劫 回帰」 第4章「悲劇ガ始マル」) ハイデガーはこうも述べている。 「芸術は、新しい価値設定の原理を根拠づけるという課題にとって、決定的な意味をもつ。」 (同書 第一講 芸術としての力への意志>第12章 芸術についての五つの命題) . ■ 永劫回帰を生きるための心的特性について >>39 >ハイデガーは、永劫回帰を「悲劇」として捉えている。 ハイデガーは、永劫回帰説の解明のなかで、次の二つのニーチェの言葉を取り上げてい る(『ニーチェ』 第二講「同一物の永劫回帰」 第4章「悲劇ガ始マル」)。 「英雄的であることとは、最高の苦悩と最高の希望を同時にめざして進むことである」 (『楽 しい知識』第268番) 「悲劇のなかでの快感は、強い性格の目印であり・・・英雄的精神は、苦悩をも快として感 受するほど充分堅固であるからである」 (『権力への意志』第852番) >>40 アリストテレス曰く、「悲劇とは、一定の大きさをそなえ完結した高貴な行為、の再現」 眼前存在者にとっては<自分が存在すること>は「どうでもよいこと」である。 正確に言えば、こうした眼前存在者にとっては、存在することなどはどうでもよいことでも、どうでもよくないことでもありうるというのが、 その存在の仕方なのである。 『存在と時間』 ハイデガーの宗教的雰囲気の、その質と構造を現わしたヘルダーリン研究が、後年の大著 『ニーチェ』を見ると、微塵も無くなっていると言えようか。 目だたなさにおいて、構造が形成されるんだよ、理数系のあたまのひとにはよくわからんだろうが。 奇形や特殊な人たちが哲学をしても解が出ないなどの難点があるだろう。 「力への意志とは何であるのか。それは「存在のもっとも内奥の本質」 (『意志』第693番)である。」 ハイデガーはニーチェ講義録のなかで、よくこの言葉を引用している。 227 :名無しさん@ピンキー :2020/09/06(日) 19:30:56.59 ID:y3H3xHfe 学生のころ、付き合い始めた彼女とのセックスはフェラもさせなかったし、マンコも舐めなかった。 半年くらいしたら、何故マンコを舐めてくれないのかって延々問い詰められたことあるのを思い出した。 結局、当時は拒否したけど。 あんなもん舐められるわけねーだろ。AVの見過ぎだと思う。 今も嫁のマンコは舐めたくないかな。 ハイデガーの主著が「存在と時間」なのは自他ともに認めるところだが、それに次ぐのは「ニーチェ講義録」 「同じものの永遠なる回帰」とは何か? 何が「永遠に回帰」しているのか? それは「同じ力への意志」 ニーチェを読むより、ハイデガーの「ニーチェ」を読んだ方が良い ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.4.6 2024/03/23 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる