論理哲学論考について
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みんなの方が詳しいかもしれんがワイの解釈を
書いてくわ 本文は大雑把に三つに分けられるな
前半、中盤、後半や
具体的にどこで区切れるかは書かない
あくまで大雑把だからや 後半で語り得ぬものについて主に考察してる
前半、中盤は語りうるものについてやな
特に前半はあくまで論理空間の御膳たて 中盤でいよいよ中身が濃くなっていく
フレーゲ、ラッセル批判やな 後半は、倫理、幸福、科学、について考察している
このあたりから、語り得ぬものについての話が始まってくる感じかな とりあえずこんなもんや
あとは集まるまで適当にスマホいじったり、夕飯食べたるするわ とりあえずヴィトゲンシタインは暴行した児童に謝った方がいいと思うよ 論理哲学論考を間違いだと認めて、後に哲学探究を執筆したのはすごいと思いました。こなみ 家族的類似性と言語ゲームの
2大業績以外は中二病みたいな哲学
逆にいうとその2つは偉大 言葉遊びの方が面白いよ。沈黙語りえぬといっても、よくわからないよ。
本人が盛り上がってるだけで。 ソシュール時代の方が言語の分析なんてなめてらあな。 論理哲学考?ま時代としてはよかったかもしれないけど、ハイパー古典価値があるかというと
既に乗り越えられてる。数学が苦手な人向きだね。数学を疑うのもいいが
検算過程でよい誤答を選び得られてないよ。 足「しげ」く通う
「しげしげ」と見る
「しげ」みに隠れる
thick、dense(英)
spissus(羅)
「しげみ」、"thicket"
「しげしげ」と見る、"have a close look at 〜"
「しげ」、"(as) thick (as thieves)" 「しがない」という表現において、「しが」が何を意味していたのか
今では不明になっており、どのように「しがない」という表現が
生じたのか語源的にもよく分っていない。それでも、明確な意味が
曖昧なままに用いられながら、「しがない」の「しが」と
「人しげ(繁)し」のような表現における「しげ」との間で
暗黙のうちに類推が働いていたとのではないか、つまり、
「しがない」≒「しげくない」のように理解されていたのではないか
と考えることには、それほど無理がないように私には感じられる。 つまり、「しがない(老人)」≒「(人)しげくない(老人)」≒「誰にも相手にされない
ような老人」というような暗黙の解釈である。ただし、そのように類推が働いた
のではないかということは、「しがない」という表現が語源的にそのような
用法として生じたのだろうということではない。 事物を目の前/手前(vorhanden)にあるものとして見るように強制しようと
している、つまり、様々な様態で手頃(zuhanden)にあり得るものとして
見ることを禁じようとしているんですよ。なぜなら、事物が目の前/手前
にあるだけなら、それを扱うことができるようにするためには、どの
ように扱うか、つまり、事物がどのような様態で手頃となるのかについて
指示を与えられるのを待つことが必要となり、事物が、その可能性において、
様々な様態で「勝手に」手頃に扱われるのを防ぐことができるからです。
すると、事物は目の前/手前にあるだけであることになり、それをどう扱う
べきかは、「その都度」、指示(ディクテート)されることになるのだから、
暗黙の独裁制(ディクテーターシップ)が確立される。 「しげない」という表現はあったんだな。
しげ‐な・いの意味
出典:デジタル大辞泉(小学館)
[形]《中世・近世語》よくない。つまらない。
「―・いたはむれは、せぬ事ぢゃ」〈虎明狂・若菜〉 >>23
この用法だと、「しげない」は、「仕様もない」に類比するものと考える
ことができ、「しげ」の「〜げ」を、「楽しげ」や「悲しげ」などの様子
を表すものと推定するなら、「しげない」は、そのまま「どう(する)様にも
ならない」を意味していると解釈することもできる。「しげ」が何を
表していたか忘れられて、「『しが』ない」と言い換えられるようになった
可能性も考えられるだろう。 表現の解釈が、語源によって規定されるのではなく、ネットワークを形成する
と感じられる一連の表現の解釈の整合性によって語源が遡及的に求められる。 徳田秋声全集 - 276 ページ - Google ブック検索結果
https://books.google.co.jp/books?isbn=4840697019
徳田秋声, 徳田秋聲 - 1997
此頃再び旧交を尋め得て、昔のやうには繁からねど、
どうもやはり私には、「しがない」という表現は、「しげ(繁)からぬ」の
異形として生じたのではないかと感じられる。 また、北野の、神にならせたまひて、いと恐ろしく神鳴りひらめき、
清涼殿に落ちかかりぬと見えけるが、本院の大臣、太刀を抜きさけて、
「生きてもわが次にこそものしたまひしか。今日、神となりたまへりとも、
この世には、われに所置きたまふべし。いかでかさらではあるべきぞ」
とにらみやりてのたまひける。一度は鎮まらせたまへけりとぞ、
世の人、申しはべりし。 ― 大鏡 >太刀を抜きさけて
例のごとく、「抜きさけて」という表現は、どの解説を見ても
「抜き放(はな)って」という意味であると解釈されていて、「抜き放(さ)けて」
とわざわざ漢字が当てられている場合さえあるのだが、その解釈が
いつ生じたにせよ、私には、この解釈は改竄されたものにしか見えない。
やはりこの場合も、雷がまさに落ちようとするその「瞬間に」刀を
抜いているのであり、「抜きさけて」の「さけ」はその瞬間的な
(行為/動作/作用の)様態を表しているように思える。 「さく」が離れるというイメージで用いられる場合というのは、現代語で
言えば、「遠ざかる」とか、「仲を引きさ(裂)く」とか、「さ(避)けて
通る」とかでしょ。そのような場合にもやはり、「引き離す(/離れる)ように」
という「さく」のイメージのインデックス性が利用されている、または
少なくともそのようなイメージと矛盾しないような用法で使われていると
考えるのが妥当ではないのか、と私は思う。で、問題は、一律に「離れる/
放つ」などと解釈されている、古語における「〜さく」が一律にそのように
用いられていると考えられるのか、ということだ。 788 :神も仏も名無しさん :2018/12/04(火) 05:06:42.70 ID:9iUKMS+5
サティは善いことをたくさん語るが、それをやらない。
サティは悪いことをたくさんやるが、それを語らない。
『サティの論理哲学論考』
七. 悪いことについては、語らず只やる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています