感覚と似通っている。ロシアの映画監督のタルコフスキーは、日本でも
「ノスタルジア」という題名で知られる自らの映画作品について、
「『ノスタルジア』と呼ばないでほしい。ロシア語の『ノスタルギア』
とつづり、そう発音してほしい」といったそうである(山田和夫
「なぜノスタルギアと呼ばせたか?」の記述によ)。
「いとおしさ」であれ、ノスタルジア/ノスタルギアであれ、サウダージ
であれ、人は、そのような感覚を、他人には理解されない、自らに
(その「自ら」がどのように捉えられるにせよ)固有のものであると感じる。
他人には、その切実さは分らないと感じるのである。
しかし、人であろうとするなら、「いとおしさ」や、「いた(傷/痛/悼)み」や、
「かな(悲/哀)しさ」といった感覚こそ、それが自らのものであれ、
他者のものであれ、それが固有であることを特権化してはならないのである。