そこで、マルクスの議論においては、かつては専ら彼岸においてのみ解決される
宗教的な救済の対象として扱われた現世の苦しみ(Leid)に対して、現世において
実現可能であるとされる救済が示されることになる。

私は宗教哲学にあまり関心がないので、シモーヌ・ヴェイユの著作を読んだこと
はないが、ラジオ番組などでその思想を知る限りでは、ヴェイユのマルクスに
対する批判はまさに、マルクスの理論が、彼岸においてのみ解決される苦しみ
(Leid)に対して現世における救済が可能であるかのような幻想を人々に信じ
込ませようとしていることに向けられてているのだと理解している。

そこで逆に、ヴェイユはキリスト教信者の立場から、資本主義の生産関係に
おいて労働者が苦しむ(leiden)ことそのものに宗教的な価値を見出そうと
するわけだが、すると無論、今度は、宗教が資本主義的な統治の仕組みが
もたらす苦しみを正当化して、支配を強化する補完的な役割を担うことに
なることは避けられないだろう(そもそも、宗教は統治者によって常に
そのように用いられてきたわけだが)と思う。