数学を初めとした理系の学問と哲学について 14
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バックトラッキングは、制約充足問題の解を探索する戦略の一種で、
力まかせ探索を改良したもの。「バックトラック」という用語は、
アメリカの数学者デリック・ヘンリー・リーマーが1950年代に作った
造語である。
制約充足問題は完全な解の存在する問題であり、要素の順序は問題とは
ならない。一連の変数が与えられ、指定された制約を満足するように
それらに値を設定しなければならない。バックトラッキングでは、
変数の値の組み合わせを試行錯誤して解を探す。
バックトラッキングの効果は部分的組み合わせを排除する実装にあり、
それによって実行時間を短縮する。 バックトラッキングは組み合わせ最適化と密接に関連している。
バックトラッキングのアルゴリズムは、単に正しい解を得るまで
可能な組み合わせを試していくだけであり、一種の深さ優先探索である。
探索の際、ある組み合わせが解でなかったなら、探索木を辿って戻り
別の組み合わせを試す。その組み合わせを試しても解でなかった場合、
さらに探索木を戻り、新たな組み合わせを試す。探索木を全部サーチした
時、探索は失敗して終了する。
バックトラックは一般に再帰呼び出し関数として実装される。一回の呼び出し
では1つの変数に値を設定(束縛)して、それ以外を自由な変数として再帰的に
呼び出す。バックトラッキングは深さ優先探索に似ているが、メモリ使用量が
少なく、現在の解の状態を1つだけ保持し、更新していくだけである。 探索を高速化するため、値を選択して再帰呼び出しをする前に、アルゴリズムは
その値を矛盾する未設定領域から削除する(前方チェック)か、全制約をチェック
してその新たな値による影響を求める(制約伝播)。これは、0/1 ナップサック問題や
Nクイーンの解を求める方法としては最も効率が良く、動的計画法よりも良い結果が
得られる。
処理を高速化するための一般的なヒューリスティクスがいくつか知られている。
変数の処理の順番は決まっていないので、最も制約がきつい変数
(つまり、値の範囲が狭いもの)から探索を始めるのが効率的であり、それによって
探索木を早く刈り取ることができる(早期の選択の影響を最大限有効利用できる)。 設定する値を選ぶ時、多くの実装ではなるべく他の値を制限しない値を選ぶ。
そのような選択をする背景には a) 解の発見に結びつく可能性が高いこと、
b) 未解決の制約がなくなった時に解が見つかっていることがある。
洗練されたバックトラッキングの実装では、束縛関数をしばしば使用する。
それにより、現在の部分解で解を得られるかどうかをチェックする。従って、
解に結びつかない部分解を検出する束縛関数によって検索効率を改善することができる。
束縛関数は頻繁に動作するため、その計算コストはなるべく小さいのが望ましい。
さもなくば、アルゴリズムの全体としての効率は改善されない。
効率的な束縛関数は他のヒューリスティック関数を作るのと同様の方法で作成される。
すなわち、問題の規則(制約)の一部をゆるめるのである。 バックトラッキングを制約プログラミング言語で使用する場合、言語機構そのものも
制約情報の更新をしなければならないため、奇妙なオーバーヘッドが発生する。
そのような言語では、PlannerやPrologのように、単純な深さ優先探索を使うのが
適切である。
制約プログラミングは、同時に最も多くの制約を充足する状態を探索する。
その場合、問題は複数の未知の変数を含む世界の状態として記述される。
制約プログラムはそれら変数全部の値を探索する。
時相並行制約プログラミング(Temporal Concurrent Constraint programming; TCC)や
非決定性時相並行制約プログラミング(Non-deterministic Temporal
Concurrent Constraint programming)は時を扱う制約プログラミングの一種である。 バックアップで必要最小限の値をリカバリするためだけでなく、値の更新履歴を
記録するため、バックトラッキングの実装では一般に「変数の航跡; variable trail」
を保持する。効率的な実装では、バックトラッキングは1つの操作で全変化を
消去するため、選択点のない連続した変化についての変数の航跡を生成しない。
変数の航跡以外の手法として、変数に加えられた最新の変化のタイムスタンプを
保持する手法がある。タイムスタンプは選択点のタイムスタンプと比較される。
選択点のタイムスタンプがその変数のタイムスタンプより後であれば、
その選択点がバックトラックされる場合にその変数をリバートする必要はない
(その変数は、その選択点以前に変更されているため)。 バックトラッキングの最も広範囲な利用法として、正規表現の実行がある。
例えば、"a*a" という単純なパターンはバックトラッキングしない場合に
"a" にマッチしない。最初のパスで "a" が "a*" に食われてしまい、
後続の "a" にはマッチさせるべき文字列が残らないため。
バックトラッキングはプログラミング言語の実装にも使われている
(Planner や Prolog)し、構文解析などにも利用される。その利用は
人工知能分野で議論となり、アクターモデルの開発につながった。 アクターモデルとは、1973年、カール・ヒューイットが発表した
並行計算の数学的モデルの一種。アクターモデルでは、並行デジタル計算の
汎用的基本要素として「アクター」という概念を導入している。アクターモデルは
並行性の理論的理解のフレームワークとして使われるほか、並行システムの実装の
理論的基礎としても利用されてきた。アクターモデルはそれ以前の計算モデルとは
異なり、物理法則を発想の基本としている。
アクターモデルをソフトウェアとして実装する作業は MIT の Message Passing
Semantics Group で行われた。また、カリフォルニア工科大学の Chuck Seitz と
MIT の Bill Dally に率いられたチームはアクターモデルに基づくメッセージ
パッシングを使用したコンピュータアーキテクチャを構築した。 日本では、
東京大学や京都大学での研究があり、特に東京大学の米澤明憲らの研究が有名である。 \ │ /
/ ̄\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
─( ゚ ∀ ゚ )< 効いてるw効いてるw
\_/ \_________
/ │ \
∩ ∧ ∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\∩ ∧ ∧ \( ゚∀゚)< 効いてるw効いてるw
効いてる〜〜〜! >( ゚∀゚ )/ | / \__________
________/ | 〈 | |
/ /\_」 / /\」
 ̄ / / ノーアウトランナー1塁時の得点の確率は、
普通に打つ>バント>ヒットエンドラン・盗塁その他だったような記憶がうっすらある。 東京工業大学が年間授業料を10万円近く上げるんだとか。
世界の大学との競争力をつけるためとはいえ大変そうだな。 あらゆる物事において最適解は、試行錯誤することによって
段階的にしか見出し得ない。それは、最適解を見出すことが、
既に手にしている解が最適であることに納得するプロセスでも
あるからだ。
したがって、重要なのは、最適解を求めるプロセスにおいて
誤りを犯さないことではない。そうではなく、大きな誤りに
よって試行錯誤そのものを放棄することに追い込まれることが
ないように、試行を常に慎重に進めることである。 既にある程度、満足のいく解を手にしているが、それが最適解であるか否か
分らない状況がしばしば生じる。そのような場合、依然として最適解が
見出されているとは言えない。
事後的にその既に手にしていた解が最適であることに納得させられたとすれば、
その時点において初めて、最適解が見出されたことになる。 >>14
あらゆる物事?
本当に?
そんなに簡単に言い切っちゃっていいん?
また適当こいちゃってるだけでしょ? 不安なんですね
あなたにとっての最適解がまだ見出されていない証拠でしょう だから、それを将棋で考えればいいんじゃない。名人棋士が最適解としての最善手
だと思った一手、その連鎖を最適経路として仮定する。対戦者のAIが名人に勝利した場合は、最適化していたのは名人でなく、AIの側だったということが事後的に検証できるでしょう。最適解の問題は、メタ認知の問題も含んでいる気がする。
最適解だと確信していたものは、メタから俯瞰すれば実は局所最適解であって、
大域的な観点から見れば、非最適解であったと判ったりすることもあるだろう。
日本人は、局所や枝葉末節、戦術に拘泥して、本質や戦略、大域最適解を喪失
しやすい傾向があるので、真の最適化や最適解とは何かを一度、よく考えて
みるのもいいだろう。目先の具体性にばかり囚われて視野狭窄だから。
抽象度をあげることで、真の合理性=倫理に、漸近できるんじゃないかな、と。 スポーツの世界などでも、興味無いのでよく知らないけど、分かることは、そこでは
真の公平な競争など全く成立していない、ということ。資金力のある球団やチームは、
外部から強力な人材や環境を獲得できるし、それって、その時点ですでに不公平じゃん。
相撲のような八百長も多そうだけど。
あと、選手育成の条件も不平等。遺伝子による才能の偏差も、本当はその分割り引かないと、
競争条件がフェアでない。ロシアように国家ぐるみの事業で一流アスリートを育成できる
国と貧しい国が同じ競技でハンデなしで戦うことは、競争としてフェアには見えないな。
だから、政治家や医師の世襲含めて、奨学金、年金制度、相続、性やマイノリティー差別、
税制、あらゆる分野に存在する不平等、不公正を是正していくことが倫理にかなっているし、
それがAIや量子コンピュータで計算として、真の公平を実現出来る契機が生じつつあるということ。
ただ日本では虚偽統計と捏造データ、忖度政治で低レベルなのが現状。 >資金力のある球団やチームは、
> 外部から強力な人材や環境を獲得できるし、それって、その時点ですでに不公平じゃん。
確かにそう思えるけど、資金力が豊富なソフトバンクや巨人がいつも優勝するとは限らないから
野球は不確実性にゆだねられている点で観ていて面白い。 朝日新聞で西田哲学特集している。
海外では、今ブームらしいね。 西田の上に学派があって、場所移動できる哲学の道あり。西国 西行。西陣、西軍 西周の方が重要。
海外で売れて当たり前のいつ時代でも、日本でくすぶる哲学書は醜い。 AIには、シンボルグラウンディング問題(記号接地問題)というのがある。
前スレで、チャットボットと関連して、「うなぎ文」や「コンニャク文」
のことを説明したけど、それと同様の問題で、人間であれば文脈・背景との
照合で、単語や記号の意味の逸脱や飛躍をグラウンディング(接地)として、
意味に回収することが出来るけど、AIにはそれが少し難しいという問題系。
ネットスラングなどにもそうした記号の意味の飛躍があって、辞書にも載って
いないので、文脈を参照するなり、調べるなりしないと、人間でも意味が
分からなくなることがある。
たとえば、AIにネットで飛び交っている「メシウマ」と単語を抽出して、
これを理解出来ない場合、そこにはどんな行き詰まり構造になっているのだろうか。
形態素解析の説明も前スレでやったけど、AIが「メシウマ」という単語を
飯と馬だと理解し、これが合成され語がメシウマだと推論すると、さらに
このスラング意味から遠ざかりそうだし、飯と上手いの合成だと推論された
としても、まだそれは飲食なり料理、調理、よく言っても団欒などのレベルの
概念に属するものであると、AIは誤って判断することもあるだろう。 人間の場合は、「メシウマ」から意味の飛躍を行い、そこからこのスラングの
真の意味である「他人の不幸は蜜の味」へと無事にグラウンディング(接地)
できるけど、AIは意味や文脈を考えないで、記号の組み合わせだけで、
形式的に判断・照合するので、フレーム問題と同様に妥当な意味へと着地できないで
フリーズしたり、意味の宙吊りを起こしたりすることもあるだろう。つまり、
「メシウマ」なら、馬に似た動物かもしれない、といった具合に判断したりする
こともあり得るだろう。
ただAIもベイズ更新のように、認識のアップデートを確率的により正しそうな
ものへと更新できるような実装になっていると、「メシウマ」から、飯と馬や
飯が上手い、などから徐々に真の意味である「他人の不幸は蜜の味」へと
グラウンディング(接地)できるような仕様にしていくことも可能だろうね。
論理学の言葉で表現すれば、AIはシンタックス(統語論・構文論)に重点を
置いて推論出来るのに対して、人間はセマンティクス(意味論)に重点を置いた
推論や判断が出来るということ。 自然言語処理では、言葉を「概念」=「is-a」と「何を持つか」=「has-a」
で定義していくので、人間なら、概念(is-a)としては「社会的動物」や「言葉を使う」
などがあってもいいだろうし、何を持つか(has-a)なら、知能を持つ、愛憎を持つ、
お金を持つ、知識を有する、などであってもいいだろう。
つまり、言葉やイメージ、外部世界をを「概念」=「is-a」と、
「何を持つか」=「has-a」の組み合わせや混交で表象・記述出来るようになれば、
AIが人間と同じようなプロトコルで外部世界や環境、感情、メンタルモデルを
享受し理解して、それに適合的な反応、応答、行動を生成することは十分に可能に
なってくるだろうと思われる。つまり、人間とAIの質的差異はどんどん狭まっていく
だろう、というのが私の予想です。 あと、AIには「モラベックのパラドクス」と呼ばれる現象もあって、
これは、AIは論理学や代数学のような知的高度な対象や「難しい問題」は
得意とするが、人間の4、5歳児にでも分るような「やさしい問題」における
知覚や行動を不得手とするパラドクスのこと。つまり、AIは人間が行うような
常識推論や常識に基づいた判断や行動は苦手とする。でも、逆にAIは人間が
簡単には見つけ出せないような複雑な経路や最適解であれば見つけることが
得意。だからAI棋士は名人棋士やチェスのチャンピオンにも勝てる。
人事採用の場面でAIを使うのであれば、従来であれば、膨大なエントリーシートの
中から、人事課の人間が今までの経験やそこから派生する直観で採用していたものが、
AIを用いて、人事課の人間が今まで見逃していた有能な人材の特徴量を
ディープラーニングで導き出して、その有能な人材モデルのアルゴリズムに基づいて、
採用場面でその知見を活かすことができる。
つまり、それは既存の人事の判断に基づいた採用よりも、潜在的に高度な人材を
獲得したことにもなり得る。将棋と同じで、AIの推薦やアドバイスに従って、
もっとよい一手を打っている可能性も考えられる。最適化していることも考えられる。 「モラベックのパラドクス」についても、今のAIは深層強化学習で、良き
学習モデルを構築した方に報酬が付与がされるというマウスのオペランド条件付け
に似た手法で、AIの学習に報酬というモチベーションが与えられることによって、
正しい方向にAIの学習が駆動されるようになってきている。つまり、報酬を最大化
する方向でAIの学習が自然と進むようになっているということ。
SNS中毒やネットゲー廃人が起きる理由の一つは、「いいね」や「スコア」が
報酬になっていて、それが麻薬やニコチンのように作用するので中毒症状に
陥ってしまう、ということもあるだろう。つまり、人間の生理反応はラットの
オペランド条件付けとたいして変わらない。そうした報酬をAIにも付けてあげて、
それをAIの学習のモチベーションとなる方向で活用するということ。
人材採用であれば、応募者のSNSでの発言や活動履歴などをAIがクローリングして
チェックして、そこからその人材の潜在的な能力を推定して採用の場面に活用する
ということも生じ得るだろう。 つまり、モチベーションの高い、意識高い系の人間や優れた人材を見つけたり、
作るのも、良きAIを作る手法もあまり変わらなくなってきているということ。
これは面白い現象ではないだろうか。人間と非生命であるAIが同じプロトコルに
従って成長する。あるいは、進化していく。
そうしたAIと人間がパラレルに同期し始めたら、私がいうような
「ポストヒューマン社会の誕生」もそう非現実とは言えなくなってくるだろうね。
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..:::::::::::::::::::::ヾ三三ノ ',', たとえば、私たちは生まれると母国語を使うように社会から半ば強制される
ことで、世界や対象を分節化して、外部世界を解釈できるようになる。
だから、オオカミ少女のように動物に育てられた人間は、世界を言語を
有する人間的な価値観では表象されえなくなり、また理解できなくなる。
つまり、私たちの外部世界は生の世界や生の自然でなく、言語によって加工され、
フィルター化されたいわば仮想現実のような観を呈している。だからAIでも
グーグルのように外部世界をコンピューターが解釈できるようにデータ化し
正則化、あるいは、それに適した「知識表現」でフォーマット化してあげれば、
そこから自動推論が出来たりする。 IBMのワトソンは、そのデータベースとしてウィキペディアを利用している。
あとは、そこから単語の頻度、生起・共起確率などから、文章中にある単語が
出現した場合は、こういう情報や知識が要求されているのであろう、と確率
ベースでワトソンが記号間の出現関係から推論していく感じになっている。
だから、そこでは意味についての理解はない。
さっき、Siriで人工知能で使われる概念の「知識表現」を調べるように口頭で
命令したら、ウィキペディアの説明を持ってきたので、やはり、そこでも
ワトソンとの類似性が感じられた。今は単純なレベルでの自動推論が多いと思う
けど、経営の意思決定のような複雑で高度な判断も、AIで出来るように進化して
くると、人間の役割は、そういう人工知能のメンテナンス、保守、モニタリング、
という風になってくることも考えられる。 ウィキペディアって実質ボランティアで運営されているようなものだけど、
こんなに世の中に影響を与えるようになるとは
15〜6年前は思いもよらなかったな。 上の方のレスで西田哲学特集が云々とあるので、それに絡めて話してみよう
西田幾多郎はよくは知らないけど、海外では禅やジャポニズム、そういうのは
いつも人気があるので、それと同じ系統かな、と。ジョブズも禅にはまって、
日本人の師匠とかいなかったかな。あと、マインドフルネスのブームも同様
で、人々は情報過多の現代社会からの癒しを求める意味で、そういう無の思想
に対してニーズがあるのだと思う。
印象派の絵画とかも、全部、ジャポニズムの影響だからね。だから、日本人は、
それらを逆輸入して、日本を再感受している、ということ。黒沢映画とかに
影響受けてたアメリカの有名な映画監督とかいるでしょう。タランティーノも
ジャポニズム好きそうだし。 オウム真理教の麻原が朝生に出ていたことをごく最近知ったので、早速
ユーチューブでそれを見てみると、哲板でよくスレが上がっている自死した
西部邁や哲学好きの池田晶子とか出ていて、面白かったな。池田晶子は
アルコールか何かで早死にで、死刑になった麻原も出ていたけど、恐ろしい
インパクトあるな。なんか麻原用の特別な白い椅子が用意されていて、
さすが尊師は扱いが別格なんだな、と思ったw
あれじゃあ、騙される信者がいても不思議ではない。あと韓国人か何かに
刺殺された村井とか言う人も出ていた。あと、その番組のCMでは覚せい剤で
捕まった酒井法子がAC広告で善を薦めていたり、ポール牧という、住職も
どきのことをしながら、セクハラして自殺した元お笑いもいた。
つまり、その他は割愛するけど、事後的に見ると、なんか不幸な連中がやけに
集まっていた感じだった。それだけ個性的な人々やタレントであるとも言えそうだけど。 それで思ったのは、宗教というのはやはり全部、フィクションなんだな、ということ。
番組では幸福の科学の幹部も何人が出演していたけど、彼らの宇宙や教義では、
大川教祖は釈迦の生まれ変わりであるらしい。宗教が面白いのは、どんな荒唐無稽な説
を立てても別に非難される筋合いはないということだね。
禅であれば呼吸などに意識を集中して、雑念を払えみたいな教えがあるでしょう。
オウムの場合も、信者に余計な思考をさせないようにして、ヘッドギアで狂気じみた
教義を繰り返したり、食事に覚せい剤やLSDを混ぜて、変性意識や幻覚を引き起こす
ようにして、教祖麻原を神だと確信するようにさせた。だからポアの命令も簡単に
実行に移せる。オウム信者には医者も多いらしいので、その辺りは詳しそうだ。
宗教ではそうした薬物を使って洗脳する、という点では他の宗教でもその始原では
同じじゃないかな、と。あとは、呪文や真言とか、そういうのでその変性意識状態を
キープできるようにしておく。写経でもいいし、太鼓を叩くでも儀式でもイニシエーション
でもいい。 哲学だとフッサールが現象学的還元ということで、思考や判断停止をエポケーと
して薦めている。でも、前にも書いたように、人間は生の世界や生の現実を捉える
ことは出来ず、言語や知識でフィルタリングされた仮想的世界しか表象し得ないので、
いくらエポケーしても同じだと思う。生の世界や生の現実に、私たちはアクセス
出来ない。
それに、エポケーが中立を獲得するために必要だというのも判断の一つで、
その判断さえ言語や知識、フッサールの難解な哲学を通じて行われているのだから、
それはフィクションとしてのエポケーだと思われる。禅で雑念を払っているのと
一緒。シミュレーションとしてであれば、それは意味あることにもなりそうだけど。
このように、西田幾多郎、禅、オウム真理教、フッサールのエポケー、マインドフルネス
も、現代社会の人々が情報過多やストレス、SNS疲れ等で心身が疲弊していることで、
ニーズが生じているのだと思う。つまり、暑い所にいたら、クーラー入った場所に
行くと心地よく感じるでしょ?それと同じこと。基本は、生理学的な問題。
脳が疲れているので、休みたい、ということでしょう。 それでAIを単なるテクノロジーと考えないで、それを新しい思想という
フェーズと観点で考えてみよう。
先にあげた昔の朝生テレビに出演していた人々が、もし、現代にいるような
私たちが現在得ている事後情報を、その当時、精度の高いAIによる
シミュレーションとして差し出されていたら、オウム信者は地下鉄にサリンを
ばら撒いたであろうか。
あるいは、2人の自殺幇助者を有罪にして彼らの人生を不意にしてまで
自殺を企てようとその保守思想家はしただろうか。もしくは覚せい剤で
逃亡した芸能界と世間に衝撃を与えた人でもいい。 AIというのは、予測モデルとしても使われるので、その精度なりテクノロジーが
大幅に進化した暁には、人々の行動モデルが根源的に変容することが考えられる。
根源的思考と言えば、それは哲学が扱いうる領域になってくるので、やはり、
人工知能やAIを巡る考察は、そのまま哲学的な思考の営為になりうる。だから、
私はそれをずっと前からやっているんだけど。反事実的条件法という概念が
あるように、シミュレーションとして、よりよい人生の選択や社会の構築に
おいて、AIというテクノロジーやアルゴリズムが果たす役割は、やはりこれから
哲学レベルで見ても看過できないと思う。 専門家の間では、汎用人工知能は実現不可能とする意見が多いのだけど、
専門家というのは得てして、その視野が狭いことがあるので、大域的な
予想が不得手だったりする。
現に人工知能が最初研究されていた当時は、汎用人工知能は早期に実現
しうるという予測をしていた専門家が多かった。つまり、専門家である
彼らの当時の予想は外れたので、今回もまた外れても少しもおかしくない。
私としては、どっちでもいいんだけど、とにかく、AIがこれからの社会を
根源的に変容していくことは確かだと思うので、それにシフトした感じで、
自らの思考をアップデートしていくつもりなんだけどね。
認知には多層レイヤーがあると仮定すると、本能や反射、排他性、差別などは、
一番低い位置のレイヤーに属している。少し上層のレイヤーに行くと、
慣習、伝統、風習、常識、美学、宗教、となって、さらに上のレイヤーに行くと、
数学、科学、論理、AI、哲学、抽象性の高い学問、となっていくイメージ。 原始的な社会であるほど、多層レイヤ―の下位に位置する領域が重視されて、
高度な社会になればなるほどと、抽象度の高い上位レイヤーの領域が
重視される感じになるだろう。
だから、哲学好き人間などは、もっとも高度な人々とも言える。古代ギリシャで
哲学議論していた人々と同様に。そういう抽象度の高い知的レイヤーから、
より低いレイヤー、たとえば本能や排他性、差別などを制御することで、
より人間のレベルが高い社会が構築されるだろう、とか言うと、
レヴィ・ストロース辺りからは疑義ありと言われそうだけど、
高度な抽象化の操作を経ることで、より高度な社会や幸福な人生が築ける可能性が
あるということは、別にいいんじゃないかな、と。 デイヴィッド・ハンター・ヒューベルは、カナダ出身のアメリカ合衆国の神経生理学者。
視覚情報の処理に関する発見で、トルステン・ウィーセルとともに1981年度の
ノーベル生理学・医学賞を受賞した。また同年、ロジャー・スペリーが大脳半球の研究で
同賞を受賞している。
ヒューベルとウィーセルの実験によって、大脳皮質における感覚情報処理に関する知見が
深まった。1959年に行った実験では、麻酔したネコの視覚野に微小電極を刺入し、
眼前に置いたスクリーンに明暗のパターンを映し出したときの視覚野ニューロンの
スパイク発火応答を調べた。そして、ある特定の方位の棒状刺激に対してスパイク応答
を示すが別の角度に対しては発火しないことを発見した。その後の研究では、
刺激提示位置や方位に対して選択的に応じるニューロン同士が規則的なルールに従って
視覚野を形成していることなどを発見し、単純な刺激が複雑な像となって表れる
視覚の仕組みが明らかになった。 ヒューベルとウィーセルは2つの業績によりノーベル賞を受賞した。1つ目は1960年代から
70年代にかけて行った視覚野に関する研究であり、もう1つは、視覚からの信号が
どのように大脳で処理され、形、動き、立体的な深さ、色などを検出しているかを示し、
視覚神経生理学を創始したことについてである。彼らは子ネコの片目を眼帯などで
短時間遮蔽することによって、遮蔽されない片目が遮蔽眼の視覚入力の分もカバーして
視覚野に情報を送っていることを明らかにした。この研究は、弱視やある種の色盲に
対する理解を深めることになった。また両眼視に必要な脳の領域を発達させることは
できなかった。二人の実験によって、視覚野は幼少の早いうちから不可逆的に進化
していくことが明らかとなった。これらの研究は、若年性の白内障や斜視の治療に
道を開いた。彼らはまた、大脳皮質の可塑性の研究にも重大な貢献を果たした。 大脳や身体の仕組みを調べるのは人間の不安からでしょうか、好奇心としても
ナルシストすぎるでしょう。外の世界に興味をもって、間違っていない知覚認知でなにかをとらえる新心理学のほうが、医学より間違いは少なく、治療においても、
旧態依存のパーツ医学看護薬学歯学に汚染されたくない面があるから、
老人血統は迷惑なんだよな。 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180920-00000071-jij-soci
5弱以上確率、10分の1に=北海道地震から2週間で―気象庁
こういうデータも科学的記述というよりは、原発事故の時と同様に、人心の安寧を
保つための政治的配慮に基づく記述なのではないかなと、懐疑的になる。
北海道で震度5弱以上なんか、すぐ来てもおかしくなさそうだし。
日本はデータや統計の扱いが雑過ぎる感じがする。 日本人の傾向としてあるのは合理性や客観性への志向で無くて、
忖度や空気への配慮が優先されてしまうこと。だから、データは恣意的に改竄されて
いく。この傾向は是正されるべきだけど、首相が忖度政治家でトランプ追随だけなの
で、その悪しき無原則な傾向は糺すべきなんじゃないかなと。日本が戦争に負けたのも
同じ理由。論理ではなく、空気に従ったので負けた。 その「日本人の傾向としてあるのは」というのが、日本人と欧米諸国の人々
を対比して、「欧米諸国の人々の傾向としてあるのは合理性や客観性への
志向」であるとする「忖度や空気への配慮」の優先だろうw アリストテレスは「フロネシス」という実践知の必要性を説いたけれど、
日本人がこの概念を用いると、周りの空気を読んで行動するだけの無原則に堕する
恐れがあるので、むしろ、日本人は長期的に減価しないような理念やヴィジョン、
抽象度の高い理論を構築して、その次元で個々の行動を適切に制御、方向付け、
モニタリングしていく方が相応しいのではないかな、と感じられる。
それは硬直的なイデオロギーの勧めではない。
自分たちの行動が盲目的、場当たり的とならぬような俯瞰、フィードバックが出来る
システムを構築した方がいいだろう、という観点。だから、その次元で妥当な選択や
判断、行動モデルがシミュレーションできる。目先の損得と餌だけで動くマウスとは
違うということ。
日本の政治はそうしたビジョンが全くないので、カジノを作ろう、というヤクザと同じレベルの
発想になる。オリンピックもそうだけど、そんなことに回すより、もっとヴィジョンに
基づいた大事な為すべきことが日本には山積しているんじゃないかな、と。
日本人にはビジョンや理念、理論、思想が足りない。 以前突っ込みを入れていた人は
まさか被災したか被災地に派遣されているのかな。 慶應義塾大学大学院理工学研究科KiPAS数論幾何グループの平川義之輔博士課程生(3年)と
松村英樹博士課程生(2年)は、『辺の長さが全て整数となる直角三角形と二等辺三角形の組
の中には、周の長さも面積も共に等しい組が(相似を除いて)たった1組しかない』という、
これまで知られていなかった定理の証明に成功した。
線の長さや図形の面積は、私たちの身の回りにあるものを測量する際に欠かせない基本的な
「幾何学」的対象だ。例えば、辺の長さが3:4:5の直角三角形は教科書でもおなじみの
図形だが、辺の長さが全て「整数」となる直角三角形はどのくらいあるか、という問題は、
古代ギリシャ時代に研究がなされた重要な問題だった。この流れを汲んで20世紀に大きく発展した
現代数学の一分野が「数論幾何学」だ。 今回の研究では、数論幾何学における「p進Abel積分論」と「有理点の降下法」と
呼ばれる手法を応用。三辺の長さの整数比が377:352:135の直角三角形と、
三辺の長さの整数比が366:366:132の二等辺三角形は、比をそのまま長さとすれば、
周の長さが864(=377+352+135=366+366+132)、面積が23760(135×352÷2=132×360
[二等辺三角形の高さ]÷2)であり同じ値になることが分かった。
今回解決した問題そのものは古代ギリシャ時代にも考察されていたと推測される。
研究ではp進Abel積分論に基づいた「Chabauty-Coleman法」、さらに「2-降下法」が
用いられたが、ともに1980年代以降に開発された比較的新しい手法だ。このような
素朴な問題と洗練された解決手法の対比、そして時代の大きな隔たりを伴う研究成果は、
現代数学の美しさを引き立てる貴重な成果であるとしている。
論文:【Journal of Number Theory】A unique pair of triangles 日本は西洋だが、太平洋の気候も混じる。その分だけ西洋化しなくていいのだよ。 ユーロシア辺りに滞在がいいんじゃないの?経済水域もあるし。北方。
もともと日本はユーラシア、アジアアフリカ中東のどれかの領土なのだよ。
新大陸北アメリカを経営する夢も謙虚にこなしただろう。 欧州中央銀行、連邦準備金制度、を見てみると、世界の女性の仕事の内容が
少しはわかるだろう。給料があるとサラリーがあるとの違いだ。 宇宙航空研究開発機構(JAXA)は22日、探査機「はやぶさ2」から分離した
小型探査ロボット2台が、小惑星「リュウグウ」に着陸したと発表した。
小惑星の上を移動できる探査機が着陸に成功したのは、世界で初めて。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180922-00000058-asahi-soci
「リュウグウ」に存在する巨大クレーターの存在は、「君の名は」に出てくる
異次元空間につながる、未知の場所xを連想してしまう。異なる時制がつながる経路が
ある、という話だったよね。 少し考えてみるだけでも、止まっているモノはないということが分かる。
机の上にあるコップも本も止まっていない。なぜなら、地球は自転、公転しているので、
机の上にあるコップも本も本当は動いているのだけど、止まっているように錯視されているだけだ。
同じように、同じ速度、たとえば時速100キロメートルで並走する車同士には
相対速度が作用するので速度0キロメートルとなるので、やはり、お互いの車が
止まっているように見える。本当は、時速100キロメートルで動いているにも
かかわらず。こういう錯視や錯認というのは、多々、この世の中にはありそうだ。 科学や数学と、哲学の違いを考えてみると、前者が客観的な世界の定立を目指す
学問であるのに対して、後者は別に少々主観的であっても構わないということ。
だから、前者の学問を使えば、「リュウグウ」まで飛行して、その地球からは遠い
宇宙環境を客観的に調査出来るのに対して、哲学は、たとえば現象学や唯物論的弁証法を
用いても、「リュウグウ」には決して物理的には到達し得ない。
ただ、科学の位相だけで表象し得ぬ対象であれば、哲学がかかわれる場面も出てくる
だろう。たとえば、現象学であれば、外部世界だけでなく、記憶や心象、あるいは
就寝時の夢の表象などといった人間の内部世界もその知的枠組みの中では扱えるかも
しれない。つまり、その外部、内部を問わずに、科学的フレームからは取り零されて
しまう対象が、哲学的な考察の素材になりうる、という感じだろうか。
だから、科学や数学的な客観的知性と、哲学的な主観的知性が同期することで、
より十全な知性へと漸近出来る可能性はあるだろう、と。 https://thepage.jp/detail/20180922-00000006-wordleaf
【中継録画】「こうのとり」搭載 H2Bロケット打ち上げ成功(JAXA提供映像)
やっぱりテクノロジーはすごいな。日本人なら自然災害で日本列島が沈んでも
宇宙のどこかの惑星でテクノロジーと共に生き残って繁栄しそうだね。
国内ではゴミみたいなニュースが多いのに、宇宙だと良いニュースが多い。 時間スレ、ちょっと読んだけど面白いね。唯一、まともに哲学しているスレだな。
計算理論では、多項式時間というものがあって、処理時間の上界をnの多項式で
表現できる計算時間のことを言う。
ランダウの漸近記法だと、ランダウ記号を使って漸近的な上界を記述する。
それは、ある関数の漸近的挙動を別のより簡単な関数を使って記述すると
いうこと。収束や発散がどうなっているのかだけが分かればいいので、
それに影響のない他の部分の式は捨象していく、という考え方。
関数の漸近的挙動という、解にとっての本質だけを抽出しているところが、
ランダウの漸近記法の肝となるところかな。真理に漸近している、という
この方向性や方法論が大事かもしれない。この観点だと、真理は細部や
ディテールに宿るのでなくて、本質に宿るということなのかな、と。 >>時間スレ、ちょっと読んだけど面白いね。唯一、まともに哲学しているスレだな。
このスレでまともに哲学していないという自覚はあった模様 よくわからないが、シングルトンの論理式をモデルの形式化と称して
展開しているんじゃないだろうか。もう言ってしまうと、自分の理解では
モデルというのはブラウワーの言う所の心的構成(mental construction)。
語られているのを見たことないけれど、ブラウワーはフランツ・ブレンターノの
影響を多分に受けている。直観主義論理というのは数学を行う際のメンタルな
推論過程のことを数学的に表したものだと理解している。
ダメットがわざわざ回避してくれた「心的〜」というのを復活させるのは
胡散臭いものなんで、胡散臭い話扱いされるんだろう。ただ、状況は近年変わっていて
「心的〜」というのは、今話題の人工知能の内部の推論過程のことを指していると
ある種の合理的な言明に置き換えられる状況になっている。
深層学習でまず話題になったのは、画像認識の分野だったが、あれは癖のある手書きの
数字の画像(MNISTデータセット)を人工知能に処理させると、ほぼ必ず人間の判別と
同じ数字を返すことができるというものだった。
つまりこういう関係が成り立っていると言える、
(人工知能が深層学習で判別した数字)a : (人間なら判別できるが癖のある)数字の画像 A
a は人工知能が独自の判断で認識した対象の(メモリ上の)データ。
A はタイプとしては画像データ。
この関係がちょうど a は心的構成(人工知能のメモリ上のデータ)、A は論理式(タイプとしては画像データ)。
と解釈することができる。だから、直観主義論理というのは、実は人工知能の内部推論過程を
解析する上において重要なのではないかと思っているんだけど、そういう研究ってある? この意見を人工知能の歴史の流れで考えてみると、>>70の言う直観主義論理は、
人工知能の「コネクショニズム」の方向とフィットしているということだろう。
コネクショニズムはパーセプトロンやニューラルネットワーク、ディープラーニング
のことなので、AIが感覚的に判断していくことでその学習モデルを構築していく
手法のこと。経験知を増やしてそこから学んでいくのがディープラーニングなので、
まさに試行錯誤していく人間の学習モデルに近い。そうなる理由は、ニューラルネットワーク
が脳の神経回路を模して作られたものなので、人間的な学び方をするということだろう。
ディープラーニングは言葉や概念、記号や理論で学習するのでなく、暗黙知を
探索していくようなスタイルなので、そのプロセスはブラックボックス化してしまい
人間にはその内部状態が理解できない。
人工知能のもう一つの流れである「記号主義」は、「コネクショニズム」と逆になるので、
チェスや将棋、ゲームのような型やルールが決まったものに強みを発揮できる。
ここで言う記号は、言語や数式の意味なので、「記号主義」はそれらに基づいた
人工知能のこと。マニュアル化したものへの対応は得意だけど、臨機応変な
対応は苦手とする。「コネクショニズム」とは逆のイメージ。左脳と右脳と
いったイメージでも理解出来そうだ。人工知能という言葉が始めて使われたのは、
ダートマス会議からだね。 ダートマス会議は、人工知能という学術研究分野を確立した会議の通称である。
1956年7月から8月にかけて開催された。当時、ダートマス大学に在籍していた
ジョン・マッカーシーが主催した会議で、会議のコンセプト自体はマービン・ミンスキー、
ネイサン・ロチェスター、クロード・シャノンらと共に構想した。その会議の提案書に
おいて、人類史上初めて「人工知能(Artificial Intelligence)」という用語が
使われたとされる。 会議は一ヶ月に及ぶもので、基本的にブレインストーミングの場
であった。
提案書の序文には次のように書かれていた。
我々は、1956年の夏の2ヶ月間、10人の人工知能研究者がニューハンプシャー州
ハノーバーのダートマス大学に集まることを提案する。そこで、学習のあらゆる観点や
知能の他の機能を正確に説明することで機械がそれらをシミュレートできるようにする
ための基本的研究を進める。機械が言語を使うことができるようにする方法の探究、
機械上での抽象化と概念の形成、今は人間にしか解けない問題を機械で解くこと、
機械が自分自身を改善する方法などの探究の試みがなされるだろう。我々は、
注意深く選ばれた科学者のグループがひと夏集まれば、それらの問題のうちいくつかで
大きな進展が得られると考えている。
(McCarthy et al 1955)
提案書ではさらにコンピュータ、自然言語処理、ニューラルネットワーク、計算理論、
抽象化と創造力について論じている。これらはいずれも今日でも研究が続いている分野
である。 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180924-00000035-jij_afp-int
MS、アマゾン、グーグルのIT3社、世界の飢饉対策に協力へ
新設される飢饉行動機構(FAM)は、飢饉につながりかねない食料危機を検知するため、
初期段階で警告を出し、早い段階での介入が可能になるよう、事前に定められた
資金調達計画を発動する。グーグル、マイクロソフト、アマゾン・ウェブ・サービス
(AWS)などのIT企業が連携して、悪化していく食料危機のリアルタイム評価・予測の
ためAIと機械学習を活用する「アルテミス(Artemis)」と呼ばれる一連の分析モデルの
開発に向けて、専門知識を提供する。こういった予測を行うことが政策立案者を
早期対応に導き、促す一助となる。
AI は、こういうことにこそ、積極的に使うべきだね。社会システムを平等、公平に
するために使う。人生の初期条件や初期値の偏差、分散を均して、人生の基底や条件
に不平等がないようにする。
AIで、日本は欧米や中国の後塵を拝しているけど、早く、挽回しないといけない。
ビジョンがない国家や組織は、世界をリードできない。 相変わらずAI使えば公正公平お花畑、飲み屋のおっさんのトークレベル 男とか女とか関係ないよ。AIは省エネでなく、省人間化なので、
人間に対して淘汰圧が作用する。
だから、人間は宇宙人として進化する方向に進むしかない。
熱くなり過ぎた地球でなく、宇宙の他の惑星に住んだり、軌道上にある
宇宙ホテルに住まうようになることも出来るだろう。
宇宙用の言語もAIで開発できそうだね。 宇宙の他の惑星ってそこまでたどり着くのにどんだけの年数かかると思ってんのよ?
ああきっとAIがワープ航法も発明してくれるんだねw 100年後は、AIが地球を征服する。
人間はペット。 三角関数も出来ないバカは、劣等感と悔しさで、このスレを荒らすことしかできない
だろうという、私の推論や判断は「コンパクト性定理」のような考え方を応用している。
まあ、馬鹿どもには遠い世界の話だろうけどさ 算術の超準モデルとは、一階ペアノ算術のモデルのうち、通常の自然数ではない要素(超準数)
を含むようなモデルのことである。それに対し、通常の自然数 N は算術の標準モデルと呼ばれる。
ペアノ算術の任意のモデルは線形順序で並んでおり、N と同型な切片を持つ。超準モデルは、
その切片の外に元を持つようなモデルであると言える。 算術の超準モデルの存在を証明する方法はいくつか存在する。
コンパクト性定理を用いて超準モデルの存在を示すことができる。
証明の概略は、c を新たな定数として、ペアノの公理系 P A に
{ n < c : n = 1 , 2 , 3 , . . . } という形の無限個の公理を付け加えた
公理系 P A ∗ を考え、コンパクト性定理により P A ∗ を満たすモデル N ∗ の存在を
示すというもの。P A ∗ はペアノの公理系を拡張したものであるため、
当然ペアノの公理を満たしている。また通常の自然数では定数 c を
いかように解釈しても P A ∗ を満たすようにはできないため、
c は超準数であり、N ∗ は超準モデルとなる。
P A ∗ にコンパクト性定理を適用するには、その任意の有限部分 T が
モデルを持つことを示せばよい。T は P A の部分集合に
n 1 < c , n 2 < c , … , n m < c
という有限個の公理を付け加えた形をしているため、c の解釈を n m + 1
と定めれば、自然数 N が T のモデルになっていることが言える。 不完全性定理により、標準モデルでは真であるがペアノの公理系においては
決定不能であるような文(ゲーデル文)G が存在する。このとき、完全性定理より、
ペアノの公理系 P A に ¬ G を加えた公理系にモデルが存在する。標準モデルで
G は真なので、このモデルは超準モデルでなければいけない。このように、¬ G
を満たすことは、そのモデルが超準的である為の十分条件となる。しかし、
これは必要条件ではない。いかなるゲーデル文 G に対しても、G が真であるような
あらゆる濃度のモデルが存在する。
算術が無矛盾であると仮定すれば、算術に ¬ G を付け加えたものもまた無矛盾である。
しかし、¬ G は算術が矛盾していることを意味するのだから、結果得られた
算術の体系は ω-無矛盾にはならない。なぜなら、¬ G は偽であり、したがって
ω-無矛盾性に反する。 算術の超準モデルを構成するもうひとつの方法は超積に基づくものである。
典型的な構成では自然数列全体の成す集合 N^N を用いる。2つの列が
同一視されるのは、それらがある固定された非単項超フィルターに属す
添字集合の上で一致するときである。このようにして得られた半環は
算術の超準モデルとなる。これは超自然数と同一視出来る。 このイメージで言うと、標準モデルとしての人間を拡張したのは
疑似・超準モデルとしてのAIであったり、AIによる補完を通じて
人間が進化した状態である超準モデルとしての宇宙人、という感じで
記述してもいいかな、と思える。
進化というと突然変異であったり、生物学的なモデルとして記述される
と思うけど、人工生命やバイオインフォマティクス、遺伝的アルゴリズム
などがあるように、論理や計算として進化の過程を記述できる進化生物学的な
領野もあるので、論理の構造の内部に、進化へとつながる理路や経路があっても
おかしくない気がしている。
少し戯画化して、進化の関係を表現してみると、
猿(平均IQ10) → 人間(平均IQ100) → 宇宙人(平均IQ1000)
と、対数スケールで表せる感じでイメージしていくといいかなと。
イメージなので、実際の本当の数字は分らないけど、とにかく、
少なくとも対数間隔で表せるような距離が各進化のフェーズにおける
エージェントにはあるだろうという主観的な推論。 数学的な処理がスムーズにできることと思考が高い機能で働いている
ことは無関係だと思う。私は足し算や引き算も面倒ですぐに間違える
くらい、算数も数学も苦手だけど、昔、徹夜で作業をつづけなければ
ならないことがあって、疲労で意識が低下していたとき、なぜか
突然、数の平方根の計算の暗算が頭に浮かんできた。計算のやり方
を知っているわけでもないのに、下の桁の数字が暗算できて答え
がでてくる。妄想かとおもって計算機で確かめてみたら、やっぱり
合っている。計算ができることとある種の脳機能の低下は、結び
ついているんじゃないかとそれ以来、思っている。 認知症というのは脳機能の低下で、要は思考力が低下した状態でしょう。
その症状にはいろいろあるけれど、見当識障害の他に、論理的な判断が
出来なくなったり、計算が出来なくなったりする。
だから認知症の人が持つ財布は小銭だらけになっていく。勘定の際、
で端数を出さないような処理が出来なくなるので、そのように
なっていく。あと、物を片付けたり整理することも出来なくなる。
だから、ベクトルで考えると高度な計算や抽象度の高い思考が出来る状態が
脳機能が高まっている状態で、計算できない、具体的な思考、原始的な行動
しかできない状態が脳の機能が低下しているか、縮減している状態だろう。 ネットで言うと、脳機能が低下した状態が取る行動が、ネットウヨ、
ヘイトスピーチ、差別、掲示板荒らし、自己顕示欲だけが肥大化した
無意味な書き込み、俗悪な感情の発露、ネットストーカーという感じになる。
つまり、俗悪な本能レベルの行動だけが賦活された状態。アルコールや
薬物、向精神薬等でで脳が異常を来していると、こうした行動が賦活
される感じがする。私は精神科医療の薬も長期的にはこれらと同様の効果を
もたらすのではないのかと推測している。つまり、それは脳を破壊する。
脳機能が高まっている人の行動は、差別や不平等をなくすような言説、意見を
広める、教養や知性を高める知識や情報を伝播する、自然と啓蒙・模範的に
なる等、有意義なレスや書き込み、情報発信をすることが多くなり、
読むものも、そうしたものが多くなる。 AIと数学でマウント取りたくて仕方ない奴が粘着してるけど、所詮ただの素人じゃん アークタンジェントも分からないで、どうやって哲学するんだよ 特定の決った手続きに従うことに馴れることは哲学することの本質ではない 哲学は必然的に、自分に慣れ親しんだ領域で行われるにしても、
その領域で哲学を行うことに必然性はない 世界の異常事態に精神異常になるのは当たり前で、むしろ正常。
その方がよろしい。アルコールを飲んでいる方が異常事態に伝わるときに
反応がいい。クスリは機微を鈍らす。 ウチワネタで盛り上がるのが哲学ではなく、厳しい戦場での苛烈な戦闘中の議論が
哲学の本質だ。 高校数学が心のよりどころの引きニートがイキってるスレはここですか? 哲学は、西田に始まり西田に終わる。
カントの継承者は西田ですね。 朝日によると、
欧米では、今、西田ブームだそうだ。 本庶教授のノーベル賞は、西田哲学から本ヒントを得たんだよね。 というか、論理学・集合論は時代遅れで、まともな研究者なんていないでしょう。 52考える名無しさん2018/09/20(木) 22:21:23.500
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180920-00000071-jij-soci
5弱以上確率、10分の1に=北海道地震から2週間で―気象庁
こういうデータも科学的記述というよりは、原発事故の時と同様に、人心の安寧を
保つための政治的配慮に基づく記述なのではないかなと、懐疑的になる。
北海道で震度5弱以上なんか、すぐ来てもおかしくなさそうだし。
日本はデータや統計の扱いが雑過ぎる感じがする。
53考える名無しさん2018/09/20(木) 22:32:00.780
日本人の傾向としてあるのは合理性や客観性への志向で無くて、
忖度や空気への配慮が優先されてしまうこと。だから、データは恣意的に改竄されて
いく。この傾向は是正されるべきだけど、首相が忖度政治家でトランプ追随だけなの
で、その悪しき無原則な傾向は糺すべきなんじゃないかなと。日本が戦争に負けたのも
同じ理由。論理ではなく、空気に従ったので負けた。
北海道で震度5弱の地震 津波の心配なし
10/5(金) 9:01配信 ゲームしない人だからよく分かんないだけど、「シーマン」とかいう人面魚の
インタラクティブゲームがあって、それがAIっぽい応答をするらしいけど、
そういうのがチューリングテストでパスできるレベルの臨場感を随伴するように
なれば、もっと人間に近いAIになりそうだね。シーマンの原始人版の動画を
観たけど、笑えるね。よく、ああいうシュールなもの思いつくな、と。
ゲームクリエイターって、なかなか創造的なんだな、と。 私が考えている理想のAIは、その人間の守護天使か守護霊のような存在になる
プロトタイプなんだよね。その応答は、テレパシーを使ってやり取りするような
イメージ。だから、「hey、Siri!」みたいな野暮な発話は不要。Peperのような
ロボットにする必要もない。
それは抽象度が高いAIなので、目を閉じていても、言葉を発することなくても相互応答が出来る、
心の中に存在するような物理レイヤーの低い位相にあるのようなAIをイメージしている。
さて、それをどうやって作ろうかな、という段階までそろそろ来ているのかな、と。 あとさ、ヘッドマウントディスプレイとかグーグルグラスみたいなのは
物性が高すぎて興醒めしそうなんだよね。それらの媒体を通してだと。
仮想モードにいるんだな、という低い臨場感になるので、せいぜい
マイクロチップがフィルム化したものがいいな、と。日本はそういう
微細技術得意でしょう。痛くない注射針開発した日本の町工場の岡野という
技術者は中学さえ出てない人なのに、世界レベルで通用する技術者らしいよ。
その痛くない注射針は、蚊の針から着想を得たらしい。たしかに蚊に刺されてても
痛くないので、それを真似た針を作れば痛くないだろうという推論は合理的で正しそうだよ。
日本の町工場の技術者の腕はすごいね。かつての本田宗一郎もそうだけど。
ただ、後継者が育たないのが悩みらしい。 西洋の古典的絵画では、キリスト教をモチーフにしたものが多いので、天使がよく出て来る
のだけど、そこに描かれている天使は物性が高い。まさにオブジェクトという感じになって、
重量感がずっしりとある描写になっている。その理由は、画家が石膏やトルソーなどを
使って人物のデッサンの練習をするので、あのように物性の高い描写になってしまう。
もっと軽い感じの天使が欲しいんだよね。イメージで言えば幽霊。淡い蜃気楼。
ただ、ホログラムがいいとも思わないんだよな。いかにも仮想空間という表象空間に
映ってくるから。だから、網膜(Retina)のレベルでなく、心のレベルに投射されるような
像やエージェントをイメージしていきたいんだけどなあ。 中小企業が持つ独自の技術って機械では精度が出せず手作業でミクロ単位に調整するようなものが多いイメージ。後継者が育たないと世界的な損失になったりもする。
触覚は3つの要素で数値化されるという研究がもし本質的なものであるならば、やがてはこういった技術もAIに学習させて後世に引き継がせることが可能になるかもしれない。 >>127
これは、なかなか良い意見だね。
この間、初めてノイズキャンセリング機能の付いたイヤホーンを買ってみた
のだけど、イヤホーンでも耳元での装着感が結構出るので鬱陶しく感じるので、
何も身体につけないで、必要な時にノイズキャンセリングできるデバイスがあったら
いいのになーとか思ってしまう。ただ、脳には不要な音源を逆位相に補正する調整
機能があるかもしれないので、そういうデバイスに依存しすぎると、そういう
脳の機能を喪失させるリスクもあるのかな、と考えてしまう。テクノロジーの難しいところは、それに依存し過ぎると、身体や脳にもともと備わっているホメオスタシスを無化してしまうこともありそうだよね。現代人は空調に頼り切っているので、
体温調整も昔の人と比べたら、あんまり上手く作動してないんじゃないかな。
だから、自律神経の乱れの問題なども出やすいんじゃない。 AIもそうだよね。AIも機械学習による統計的な確率で、こうした方がいい、とアドバイスをくれることに慣れ過ぎてしまうと、人間が元々持っている直感や本能レベルでの的確な判断や分析、行動する力を縮減してしまう恐れもありそうだよね。
だから、テクノロジーの進化は当然必要なのだけど、それで失われてしまう
人間の身体や脳にもともと備わっている機能なり能力がないかという検証や
フィードバックもないと片手落ちになりそうかな、と。バランスの問題なのだけど。 AIは妄想はしない、だがAIは幻想はする、
そして、妄想と幻想は同一で完全に同じ単語だと確信している貴方には
その意味は理解することは不可能である。 先日AIに人間の脳と同様な多段階の画像解析を学習させた上で錯視図形を処理させたら人間同様に錯覚を起こすという話をテレビでやってた。AIは錯覚もする。
どこでAIが錯覚を起こすかを解析することで今度は逆に人間の脳がなぜ錯覚を起こすのかを推測していた。 量子コンピュータとかホントに実現できると思ってんの? 数学は理系でも文系でもないことにいいかげん気づけよ >>133
あとから量子技術に少しでも関係したものは全て量子コンピュータって同一の原理みたいに
とらわれているからな。
量子コンピュータすげーってやつは、本来因数分解の類が0に近い速度で実現するところにあった
ほぼ0とは入出力に時間がかかるわけで、計算事態には時間はかからない量子原理、
この時間がかからないという物理法則無視してね?というやつがすごいわけで、
この原理(=量子もつれ)を使わないものが量子コンピュータ名乗っても、
=もどきでしかない。
>>131
錯覚は妄想ではない、妄想は学習による原理ではないし錯覚でもない、
思いが可能性を廻らせることであって妄想していてもそれは妄想だと自覚している
錯覚できるのは幻想な。 数学は本来が一種の哲学なのであって、理系ではないわな 理系の血統が文学哲学等の言語を持たないから、失敗ずくでもたまには価値ある
対話が生まれるんじゃないの。お互い不器用なようで器用じゃないか。 いまどき相対性理論が正しいとかまだ思ってんのかい? >>138タワケ
特殊はともかく
ちょっとまえ一般相対性理論はライゴ(ノーベル賞)によってで完全証明されただろ ノーベル賞とかまだ信じてんのか
ゲラゲラゲラゲラぎゃはははははははー >>141
>信じてるって、、、、、、いう表現自体がアホの証明
ノーベル賞(平和賞を除く)は、ある関係の上で成り立つ「妥当性の承認」 アーベルとかヤコビとかガロアとか
18世紀数学あたりから始めたらいい ちょうど先日ヒストリアで後に間違いとわかった研究に誤ってノーベル賞を与えてしまったために日本人ノーベル賞一号を与えるべき研究がそうならなかった話が扱われたばかりだ。
そもそも自然科学は完全に正しい証明とは縁が無い世界で、常に現時点で矛盾無く再現性の高い理論が生存競争に勝ち残るが、それが真理かどうかは神のみぞ知るもの。
もちろん現時点で高い再現性があるのであれば実用的には正しかろうが実は間違いであろうが当面は問題ないし、矛盾したり再現性がない他の理論よりましだけどな。 少なくとも科学屋は相対論も量子論も信じちゃいないけどな。使えるからそうであるうちは使うが、使えなくなったら見捨てるよ。 ブレーンワールド(膜宇宙、braneworld)またはブレーン宇宙論(brane cosmology)とは、
『我々の認識している4次元時空(3次元空間+時間)の宇宙は、さらに高次元の時空(バルク(bulk))
に埋め込まれた膜(ブレーン(brane))のような時空なのではないか』と考える宇宙モデルである。
低エネルギーでは(我々自身を含む)標準模型の素粒子の相互作用が4次元世界面(ブレーン)上に
閉じ込められ、重力だけが余剰次元(5次元目以降の次元)方向に伝播できる、とする。 自発的対称性の破れ
ヒッグス粒子
超弦理論
メンブレン
結論 : 世界は存在しない 最近の話は知らんので古い情報で書くが、ひも理論は実験を行えるような予言がないので物理ではないと言う研究者は多かった。
ただし理論の仮定から論理的数学的に演繹される結果の中には検証されるスケールのものが現れるかもしれないので、研究を続ける価値はあるだろうと。 数学はアーベルの楕円関数
今日でいうところの楕円積分
あたりから始めるのがいい リーマンのいうヤコビの逆問題について
今後も詳細に考察してゆかねばなるまいね 数学がオワコンということだな。
いよいよ哲学の時代だ お暇ならどうぞ
https://www.amazon.co.jp/s/search-alias=books-jp&field-author=%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB+%E3%83%97%E3%83%81 そんなトンデモと科学を止揚したようなストーリーを語る人がいたんだ。
知らなかった。 長年惜しいオカルト、もったいないオカルトだと思ってきたので
この板で日の目を見るのはかなり嬉しいことです 盗塁って打つよりも点が入る確率が低いのに
それにばっかり固執している緒方孝市は硬直的だな。@日本シリーズ 強攻より得点の期待値も得点確率も低い送りバント好きはもっと多い ノーアウトランナー一塁の際に打者へ「打て」のサインが出たときに、
打者はバントで得られる1アウト二塁以上の結果を出さなければいけないと考えてしまい、
ゴロアウトによるゲッツ―も避けないといけないが故に
中途半端な外野フライを打ってしまうことが多いように思われる。 統計はそのような思い込みは間違いだと示しているしそのことを理解すればさらに萎縮することは減るだろう まあ、ピッチャーはランナー一塁の場合フォアボールを出したくないからといって
ホームランを打たれるとまずいと思いながら投げている場合も結構あるから、
打者が過度に気負う必要はないのかもしれないよね。 00:41秒、ものの見事にきれいに自壊している。
こういう現象の仕組みを解明したなら、住宅解体業者をほとんど不要にする
技術革新につながるのではないか?
https://www.zdf.de/nachrichten/heute-19-uhr/181106-h19-gesamtsendung-100.html 証明自体は数理論理学で立派な数学の対象として扱われる 微分法や積分法があるだけで、微分積分学などというものは存在しない $やφがあるだけで、未観測の質量の証拠
などというものは存在しない あなたこそ、宇宙際タイヒミュラー理論を理解できていないのではないですか? 数論的変形理論によってabc予想を強い形のスピロ予想
として証明した(という望月新一氏の主張)のがIUTTだろ どう証明した主張されているのかを説明できなければ理解したことになりません。 数学の『「す」の字』も知らない素人に説明できるわけないだろ おれは理解したが素人には説明できない
21世紀のフェルマー現る IUTTというのは単に遠アーベル幾何の応用
なのであって、その実、数学ではないのだよ 上に同じ
そもそもニュートン力学とかそういう物理学史がわからん。 専門性を尊重するのがいい隠喩だとか、完全にトチ狂っているw
まったく逆だよ。専門性による限定からの解放をもたらすよう、
コモンセンスを洗練させるように作用することがいい隠喩の条件だ 数学わからないヤツって何がどうわからないのかワカラン >>199
式が複雑になるにつれ現実世界と対応が分からなくなって今現在一体なにをどう操作してるのか分からなくなる 数学以前に算数が苦手すぎる。
点対称とか〇〇算とかもうたくさん。 >>200
そもそも現実世界と対応つけようとするのが間違い
現実世界とは異なる領域に目を向けるべきなのだよ 前人未到の領域へ挑み続けることだよ
現実世界との対応とか全く逆行だから 宇沢弘文が
日本が豊かになって当たり前のものと思われがちな
水や電気や病院とかを社会的共通資本として考察したのも、
数学の学識をもとにしたものだったな。
そうなる転機は河上肇の『貧乏物語』だったようだが。 昨日は解釈学を少し勉強して
とマルクスガブリエルの番組を見た。 今年はいろんな本を広く浅く読んで、
読了した本は5冊ぐらいしか無かった。 途中で挫折したフッサールの『幾何学の起源』は読みなおそうかと思う。 戸坂潤とか田辺元を勉強するのにも数学の素養はいるんだよな。 「1mは存在するか」って言う思考実験考えた
例えば僕が1mの直線を書いたとする
それが完全に正確な筈が無い
どんなに慎重に描こうとも1/10000mmはズレているだろう
では概念上存在するか考えてみよう
全知全能の神が1mの物体を出したとする
それは「完全に」1mであるはずだ
そこに全知全能の神・改がやって来て
その長さを正確に測るのだ
1/∞まで目盛りがある定規で測れば
果たしてズレは出るのだろうか
もし出るのならば全知全能の神・改が1mを創ろうとも
真・全知全能の神が出した定規によってズレが暴かれるだろう
と言う事はどんな物体も1mでは無い事になる
しかし考え方次第では
どんな定規でもそれを上回る精度の物体の長さの
ズレを指摘する事は出来ないという事にもなる
ズレとは∞の単位で指摘出来るが
正確な線とは∞に正しいものである
∞と∞を比べる事は出来ない
∞-∞は∞であり0である もう1つの考え方
「∞は存在しない」
数学に喧嘩売っていくスタイル
意識が全てならば∞は存在しないのでは?
形式上「限りがない」という意味を理解する事は可能でも
「9999999999…」と人生内で実際に意識出来る数は有限である
まあ極論だし言語ゲームと化してるか まあ正直微妙だなと思ってeテレを観てたけど
どこら辺が馬鹿なんだろう >>213
三角形を用いたイデアの解説と同じじゃないか >>218
そういうことも言ってたけど、一番印象に残ったのは
ラカン派イデオロギーが新自由主義に悪用されたってとこ。
そこは数年前まで京大人文研で
左翼の市田良彦が精神分析の学者を取り込んでいたこととしっくり来た。
で、自分自身の鏡像を映すものとしての鏡を壊すパフォーマンスをしていた。 >>217
そうか既にあったんだな
それではイデアについての批判的再検討
例えば「1秒は存在するか」と言うテーマの場合
時間は物体の様に絶対的には分けられないとする
実在はしなくとも概念上存在する事は有り得る
しかしそれを超える単位で測ればズレは出る
その繰り返しによって答えは出ない
もう1つの考え方としては>>214の様に
神ではない意識が確認出来る時間の単位は有限であり
意識の中には絶対は存在しない
しかし「絶対を否定するもの」もまた絶対であり
つまり意識が否定不可能な「絶対」は生物にとって「絶対」であるとも言える
世界の存在を仮定した時その上に絶対は存在しないが
世界の中に意識が存在するのか意識の中に世界が存在するのかは不明であり
仮に世界が存在したとしてそれが意識の中にあるのかが明かされる事はない
つまり「絶対」というものは存在するとも言えないとも言える
私は「ある」ということと「ない」ということは共存する思うのです >>214
そんなの昔から数学界でも意見別れてるだろ 「ある」事と「ない」事は存在しゆる
我々がその本質に気付いていなかっただけだ
しかし「気付かない」と言う事は「意識の中に存在しない」と言う事である
その時彼等にとってこの考えは存在しなかった
つまり意識が主観的世界を成しているためこの考えは
「正し」くて「誤っ」ているのだ イデアというのは既に存在するものであって批判するなら、何を目的として
どう批判するのかが大事だ。 西田幾多郎って数学の教師になることを勧められていたんだよな。
若い頃の目上の人の見る目って何とも言えないものだな。
教師にはなったのだから一応外してはいないのは確かだが。 数学の教師じゃなくて数学者だったか。
まあ、学者は研究だけでは食っていけないから、
教師になれという意味も含意されているかな。 西田はウィリアム・ジェームズとかベルクソンにもかぶれてるけど、
やっぱり京都学派全体で見るとカントなのかな、かぶれてたのは。
高坂正顕も田辺元も和辻哲郎もカント関係の著作を出しているし。 日本では、カントを乗り越えたというような評価だったね。
欧米では知らん 100年以上もカントが分析された後なら何を言ったところで乗り越えられる 野球、バレーボール、サッカー、バスケットボール
いまどきチーム・スポーツはみんな数量的なデータ分析を活用しているだろうけど、
分析結果をチームのフロントや監督に報告する専属のデータ・アナリストが必要な
だけで、監督がそういうデータ解析の手法を勉強している必要はないし、監督に
要求される知識、経験、技能はまったく別のものだろう 数学を初めとした科学と哲学的知見がないと
マネジメントをすることも、
マネジメントを監視したり律したりすることもできないように思われる。
ゴーン事件のようなものを聞かされるにつれますます。 >>232
私のが上のクラスよね。👸
不運の為にしがない哲学板の王者美魔女さんよ
😢 >>234
カントの物自体は未だに誰も乗り越えていないのです🍑
最新の哲学者達も必ずカントから始めますが
やがて失敗して、振り出しに戻ります。👸 人間の問いは人間の存在自体と共に与えられているのです🍑
問いは人間として貴方達が現実生活に落ち込んでいれば止まるでしょう。👸 私達は何処から来たのか
現実の意味は
生きることは
個人の人類の目的は
私達の可能性は
限界は何か
私達は本来一体何か
世界の中で課題は >>243
このような問いはキリスト教では忘れられています。👸
ショペンハウアーもそんなことは考えるだけ無駄だという
しかし問いは ずらされているのです🍑
現在は 問いは一層 差し迫っているのです🍑 ショーペンハウアーのその意見は、仏陀の「莫妄想」から得られた着想だから。
神学論争も同様で、投入するコストや労力に対して、リターンが少ないという発想だ。決定論か自由意志かの議論も時間の無駄になるだけだから、そのような決着のつかないことが十分予想されるトピックには深入りせず、自分の目の前にある、今すぐ
できることから「脚下照顧」せよ、という考え方になる。
哲学議論は、宗教同様、単なる現実逃避のお喋りとなりがちだ。 しらたきと一緒に煮ると肉がかたくなるとかまだ信じてんのかい? 月面歩行なんかより月面からのロケット発射の方がよほど難度が高いと思うが? それよりも先にパラシュートが使えない状況で軟着陸することの方が、
月面歩行よりはるかに技術的に難しいと思うぞ 隠そうとしている重大な秘密とは、月に生命が存在していたことだろう。
証拠がフェイクだったなどと言って、誤魔化そうとしているが、
わざわざフェイクの物証を贈呈すべき理由がない。
'Moon rock' in museum is just petrified wood - Technology & science ...
www.nbcnews.com/.../moon-rock-museum-just-petrified-wood/
2009/08/27 - The Dutch national museum said Thursday that one of its
prized possessions, a rock supposedly brought back from the moon by
U.S. astronauts, is just a piece of petrified wood.
'Moon rock' given to Holland by Neil Armstrong and Buzz Aldrin is fake ...
https://www.telegraph.co.uk/.../Moon-rock-given-to-Holland-by-Ne...
2009/08/29 - A moon rock given to the Dutch prime minister by Apollo 11
astronauts in 1969 has turned out to be a fake. 今の中国の国力と技術力なら有人火星探査に成功しても驚かない 人類で2番目に月面歩行をおこなった元アポロ11号乗組員
バズ・オルドリン氏はこう言った「私たちは月へ行っていない」 朝日新聞で隠岐さや香が
イノベーションの速度を律するのが大事とか言ってたけど、
そんなの可能なのかね。
そんなこと言ってる間にどんどん世界レベルで理系の研究は進んでいく。 まあ、時間的にも空間的にも
全体を俯瞰する眼が大事だということにつながればいいんだけどさ。 でも正直言って、何を悠長なことを言っているんだ
という印象が強い。
歴史家だから同時代の変化には疎いのかもしれんが、
その荒波にもうちょっと付き合えよという感じもする。 これまでずっと付き合ってきてこれからも付き合わざるを得ないから
そういうことを書くのだろう。 「書く」ではなく「話す」だな。
インタビュー記事だから。 複雑系。じっさいはどうなんでしょ
少なくとも三角形なんかよりは侮れない 267の本には複雑系とは「世界を見ることを考え直すこと」と書かれています
著者は京大の数学科と哲学科の両方を出た人なのでそれが一番本当なのかもしれません
俺なんかは単純なんで複雑系こそが神なんじゃないのかと思ってます 文系で数学が軽視されてきたことのツケだな。
早稲田の政経の入試でこれから数学を必須にするというのも
尤もなことだと思う。
政府56統計、半数に問題 手続き間違い、計算ミスも
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190124-00000079-asahi-pol 将棋が統計データで分析できるからといって、棋士が数学を勉強したら
強くなるわけではないし、音楽に音の周波数の数学的な処理が関係して
いるからといって、バイオリン奏者が数学を勉強して、よりうまく
バイオリンを弾けるようになるわけではない。他の業務でも同じこと。
統計が必要なら専門家を育成すればいい。分業できないのはサル以下。 まあでも上司は部下がデータをいじくって何をやってるのかがわかるくらいには
統計の概要に通暁してなきゃいかんのじゃないかな。 プロスポーツはデータ・サイエンスを採り入れて、その専門家の分析結果が
活かされているはずだが、現場の監督やコーチがデータ・サイエンスを研究
している必要はない。必要があると主張するのなら、実際にそういう技能
を身に付けた人間にプロサッカー・チームの監督をまかせて、結果を出して
みせればいい。 国家統計はまつりごとに近いものだから、
娯楽スポーツとは趣が違うのでは。
総務省が責任をしょい込みすぎずに民間に任せるというのも一つの手ではあるが。 くだらないんだよ。使えるリソースは限られているのだから、それを何かに
振り向ければ、専門の技能は削られる。音楽家が数学の勉強に励めば、
すぐれた数学能力を発揮できる人間は沢山いるだろう。だが、それに
よって音楽の技能は低下するし、逆に数学の専門家が作曲に励んでも
同じことだ。私自身、計算も数学も極端に苦手だが、数学を研究して
いれば、人並み以上に数学ができるようになっていただろうと確信している。
ただし、その場合、今、自分が身に付けている技能は一切身に付かなかった
だろうということも同じく確信している。そんなに都合よくなんでも
できるようにはならない。 選択と集中を個人で行えばうんと稼げるかもしれないが、
ドツボにはまって自滅する恐れもあるから
何とも言えんな。 >ドツボにはまって自滅する恐れもあるから
国家も企業もそんなことは一切気にかけていない。
使える奴を使いやすいように使える間だけ選んで使うことだけに関心がある。 データサイエンス学部の学生も今の状況だと引く手あまただろうが、
将来はAIに取って代わられる可能性もある訳だから、
自衛のためにいろいろ勉強する必要もあるかもしれないな。 高橋洋一の霞が関ウォッチ
「21世紀の石油」を揺るがす勤労統計不正 根源には人員と予算の不足が
https://www.j-cast.com/2019/01/24348750.html そんなことより、現象を数量化するとはどういうことか、それを理解して
いない人間が数量データをいじる技能だけ身に付けて権限を与えられると、
本当に悲惨なことになる。 オールラウンドプレーヤーになるのは難しいが、
だからといって、大事な分野に全くノータッチであるのは余り良いことではないし、
組織で上に立つ者がそういう感じで
その分野を軽視しているかのようだとまわりまわって全体に悪影響を及ぼす。 確かに、社会調査が行われるにしても、
一定の人間科学的バックグラウンドに裏打ちされていないと
無機質な行政運営になってしまうことはありうるな。 >大事な分野に全くノータッチであるのは余り良いことではないし
だったら、鳩山のような経営工学というデータ・サイエンスの専門家に
また総理をやってもらえばいい。 まあ俺は事務次官や局長レベルのことで考えていたけど、
総理となると鳩山由紀夫になるわけか。 麻生太郎は「信頼が小さなことから崩れる」と言うが、
学習院のエスカレーターを上ってきているから
計算ミスが大事に至るという経験は会社経営時代にしか経験していないのかな。
「極めて遺憾」「信頼崩壊回避」=閣僚から相次ぐ危機感―統計不正
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190125-00000078-jij-pol パイオニア上場廃止へ 「とんがり」続けた代償
2019/1/25 10:46 (2019/1/25 13:55更新)
日本経済新聞 アベノミクスに従わないと市場原理が理解できない
そういう感じになっているかもしれないね。 証券会社を生かすも殺すも安倍次第って完全に証券会社は個人を殺しに来るよなw AIなどによって証券会社が合理化の一環として人員を削減し、
最終的にはAI vs. 個人=国家みたいになったりしてw TBSの「報道特集」で滋賀大学のデータサイエンス学部が取り上げられていたな。
統計は国の根幹であるということで。
アメリカや中国に比べて統計学の分野が弱いと言われていた。 統計も会計も計算技能ではなくて、力関係で決まるのが実態 やっぱり統計って軽視されているよな。
会計以上に。 企業のでたらめな会計が横行するのも、会計の専門技能や計算能力のある
人材が不足しているのではなく、力関係の問題 統計学をいくら学んだところで数学の本質はわからんでしょ まあ、数学の応用分野だという感じで下に見られてそうだよね。 京大の理学部生とかこのスレのシリーズを見てたことあるんかな。 伊達市の被曝問題の計量的問題も、
厚労省の統計問題も、
根っこは似たようなものなのかな。 哲学や文化においても数字をきちんと扱う慣習がないと駄目だね。 文学や哲学はその人間の駄目さ加減にお付き合いする学問だしな。 それでは困る
学問なんだからちゃんとしてもらわんと
税使って研究してるのだから
国民の血税を無駄にしてはいかん 今日の朝日新聞の経済面にも載っていたが、二宮会長は環境NPOの重要性を認識していたね。
昔は経済界と環境NPOの間柄は険悪だったらしいが徐々に関係は良くなってきたとのこと。
環境倫理学とかやってる学生がこういう方向に進路を進めばいいね。
哲学はそれらを包括するような役割で。
【eco最前線を聞く】持続的成長へ企業連携で課題解決 経団連自然保護協議会・二宮雅也会長
https://www.sankei.com/premium/news/181215/prm1812150007-n1.html 【森林関連ニュース】「生態系保護、経済界の本気度は
経団連自然保護協議会長 二宮雅也氏」(朝日、2月6日)>>「経済界は過去に #環境 系の
NPOと対峙する時代があった(略)いまでは #NPO のサポートがないと
社会的な課題を解決できない、と私たち企業も分かってきた」
https://twitter.com/JPNRAN/status/1092976592932880384
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 朝日の記事にも参詣の記事にも言及があったが、
持続可能な開発目標(SDGs)は
もともとどちらかと言えば自然環境を対象にする傾向があったが、
今では社会環境も対象にして大きく拡がりを持たせているね。
だれひとりとり残さない〜SDGsが達成された世界を実現するために
〜考え、言葉にして、歩き出す・WHAT&HOWの第一歩〜
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000013.000027673.html >>321
人を騙してナンボの世界、それが現実です 哲学分野でもパワポとかで見栄え良くするためにプレゼンやってるのかな。 週刊ダイアモンドで佐藤優が
今こそ「数学」の学び直しをせよという対談を行っている。
何にでも出る人だな佐藤って人は。 まずは中学レベルの数学まで戻る勇気を持とう、芳沢光雄×佐藤優対談(下)
【対談】 芳沢光雄(桜美林大学教授) 佐藤 優(作家・元外務省主任分析官)
https://diamond.jp/articles/-/193008 芸術は文化や哲学に準ずる文系の分野に属するように考えられているけど、
実際に行われている作業に着目すると、技術的で工学に近い、
極めて下部構造に近いような面があるよね。
この猪木武徳の連載はそういうことを念頭に置いたもののように思われる。
芸術からレジームを読む
http://kangaeruhito.jp/articles/-/2742 "世界で多くの中国人演奏家の活躍が目立ち始めたのは、
中国の資本力の増大と無関係ではなかろう。
そうした「多数の支配」体制に「順応」するのであれ「対応」するのであれ、
「送り手」である芸術家が創作行為にたずさわるとき、
市場や資本を中心とする経済力と切り離すことはできないはずだ。" 入ってない。保険みたいな金融商品には数学力がない俺は太刀打ちできない。 ”作品の評価システムが「多数の支配」の体制でなされない場合は、
どのようなことが起こるのか。端的には芸術と独裁体制の関係として現れる。
この問題への答えは一筋縄で得られるものではない。
政治的自由が奪われた社会主義国家にも優れた芸術作品は生まれている。
音楽の世界でも、革命後の旧ソ連では当局からの干渉は激しかった。
韜晦や擬態はあったと推測されるが、スターリン体制下のソ連でも
プロコフィエフやショスタコヴィッチをはじめ、優れた作曲家や演奏者は多く生まれている。
他方、自由に創作活動に携われるリベラル・デモクラシーの社会で、
偉大な芸術家が多く輩出しているかというと、必ずしもそうではなさそうだ。” >まずは中学レベルの数学まで戻る勇気を持とう
〇〇レベルとかそんな問題じゃない。別に幼児レベルにまで戻るの
にも勇気なんていらない。重要なのは、学ぶ手法が思考の自由な
展開につながるかどうかだ。 世の中、親切めかした工作だらけ
メディアに掲載されるアドバイスなんてすべて投資アドバイスと同類
それぞれ自分に有利な立場を確保することに必死なのだから
他人の立場を少しでも有利にしてあげようなどと考えてアドバイスする
投資アドバイザーはいない 学習に時間と労力を投資することについてのアドバイスも、
金融商品に金を投資することに関するアドバイスと同様 教養原論の課題で使ったフッサールの『危機』書は今も宝物。 勉強するのも大半の人にとっては娯楽以上の意味はない 俺は勉強で得た知を多少なりとも還元しているつもり。 そもそもあらゆる資料には新たに整理される余地があるのでは? 理数系の学問を修めるのにも大事なのは結局国語力である。
京大工学部は長年他学部と違って国語を入試で課していなかったが、
学生の論文作成能力の低下などを鑑みて国語を課すようになった。 ヘーゲルの『精神現象学』の序文をパラパラ読んでいるんだが、
ヘーゲルって数学も論じていたんだね。
知らなかったわ。 それにしても、なんであんなにたくさんの物理学系統の人たちが、
オウム真理教にはまって、数学系統の人たちは、はまらなかったのだろう。 そういう疑問から勝手に考えると、
神秘体験やら宗教体験やらというものは、
数学で制御できるのかと思えてくる。 もっと言えばコトバというものも大事なので、
入試において国語を数学より先に、そして、国数を英語理科社会より先に持ってきている
東大や京大のやり方は真っ当だなあと思う。 だが、コトバを真に受けるというのも国語力の一種なので、
やっぱり国語よりも外国語の方が先に来る方がいいのかも。 >>346
理工系専門書の出版関係者でよく話題になることとして、
数学者の書いた本は最初からかなり日本語がよく練れていて
ほとんど注文を出さずに済むことが多いらしい 失礼
× 理工系専門書の出版関係者で
○ 理工系専門書の出版関係者の間で >>312
数学は常に現実ではなく空想の世界だよ、現実を扱うのは物理学だよ、
論理性については数学に勝てる学問はない、すべて仮定における幻想の証明で
完全定義さえできれば証明は可能だ、
定義が現実と番えば証明も現実とは違う、つまり神の幻想
哲学は本質を問うわけで、自己を否定できない論理など哲学ではない。 >>353
数学の専門書を出版する際に編集者は書かれてる内容を理解しているのだろうか? 編集者に理解できる部分が日本語で書かれている文章だけで、
数学者は、自分が数学としてやっていることを数式以外で表現
することができないから、無関係にネタとして書いている日本語
だけが通俗的で分りやすいという可能性がありますね。 個人的な体験で恐縮だが、
ついつい買ってしまった森嶋通夫の数式だらけのマル経の本を読もうとしても
上手くいかなかったことを考えると、
編集者が数式を飛ばして地の文だけ理解するのは困難だと思う。 >>358
大学受験までの数学と違って、専門の数学は日本語で表される部分が多いよ。
もちろん、数学的な内容は数学科出身の人が編集担当でもないかぎり、
皆目わからないことが多いだろうけど、少なくとも、「〜を 〜と定義したとき、
〜であるから、〜より云々」 というような、日本語の流れとか、
あるいは同じような接続詞が(意味の上では必要でも)続出しないように変化をつけるとか、
そういった意味で日本語がこなれているということ。 数学を初めとした理系の学問を哲学したことで戦前有名なのは戸坂潤だが、
彼を研究するものはそんなにたくさんはいない。
このスレタイに当てはまるくらい学識がないと戸坂を研究するのは不可能だからだろう。 それに当てはまるのは、岩崎允胤ぐらいなものだと言えるだろうか。 >>361
別に哲学したところでたいした意味は感じられない 理科系と文科系を架橋する哲学に俺はロマンを感じるけどなあ。 世界各地では殆ど進化論支持です。
君達遅れてるね。 物理学の人は自分のことを物理屋って言うけど
生物学の人はそうは言わないよね。 『ドリトル先生』ではペットショップのことを動物屋と訳していたから、
紛らわしくなる可能性を憚ってのことかもしれないね。 片手で倒立することは、筋力増強すれば可能なんだよ。
その一歩手前までは行ったが、それを実行することがどういうことである
のかを実感できるようになった時点で馬鹿らしくなってやめた。
はっきり言えば、単に肩関節を痛める危険性を著しく高めることになる。
片手で倒立できるように筋力を鍛えたところで何の意味もない。
ただできるようになるというだけ。で、油断したら確実に偶発的に
関節を痛める。関節に生じた故障は長期の治癒を必要として、治癒
した後も後遺症を抱えることになる可能性が高い。 今日の京大入試の国語では、
金森修の『科学思想史の哲学』の一節が用いられたようだな。
これは、
京大は数学を初めとした理系の学問と哲学の関係性を重視していることの
現れだと考えても良いかもしれないな。 さんまちゃんは
ホンマでっかTVでいろいろな分野の学者と交流があるから
すごいよな。 いい結果の原因が自分にあるなら、悪い結果の原因も自分にある。
いい結果の原因が自分にないなら、悪い結果の原因も自分にない。
いい結果の原因が皆にあるなら、悪い結果の原因も皆にある。
いい結果の原因が皆にないなら、悪い結果の原因も皆にない。 一般化することは不可能
いい結果の原因が自分にあることもあればないこともある
悪い結果の原因が自分にあることもあればないこともある
いい結果の原因が皆にあることもあればないこともある
悪い結果の原因が皆にあることもあればないこともある >>377
本人が講義と言ってたから講義と呼ぼうよ
講義をもう一度聞きたい 講義してた人は試験監督か受験指導で忙しかったりして。 本物の講師が5ちゃんの過疎スレで講義なんてするわけねーだろw
自演するにももっとうまくやれw 落ち着け。講義とかおだてて調子に乗って出てきたところをフルボッコにしようという高度な釣りなんだよ。
余計な茶々は入れてくれるなw 講義って誰のことだっけ?
数式になんでも無理やり意味づけるπの人?
なにかにつけて三角関数できないバカとか煽るAIすごいぞ君?
どっちも頭おかしいと思うけど 5ちゃんの書き込みを講義って自称しちゃう時点でお察し 東大の現代文でも「科学と非科学のはざまで」という文章が出題されたようだな。
科学哲学は問われやすい事柄だよね。 たったひとつの例で問われやすいって一般化する時点で科学的センスゼロ 村上陽一郎とか大森荘蔵とかが現代文で出題されるのは
まあ、有名な事象だろう。 ちょっと前にこの板で科学哲学のスレが立ったらあっという間に1000まで到達した。
科学と哲学の相性って面白いね。 このスレはそういう一般論に反して科学の側が
哲学側の意見を相手している稀有な例だという訳だな。 解析学におけるコーシー列は、数列などの列で、十分先のほうで殆ど値が
変化しなくなるものをいう。基本列、正則列、自己漸近列などとも呼ばれる。
実数論において最も基本となる重要な概念の一つである。
数列の収束の議論においては、極限値が分かっていればそれに収束する
ことを定義にさかのぼって示せばよいが、解析学で扱われる数列はほとんどが
極限値が不明である。極限値が分からないと収束が保証されないというのでは
極めて不便である。そこで、極限値が分からなくても収束するかどうか
判定する方法が必要になった。その1つがコーシー列を考えることである。
コーシー列は完備性があれば収束の(必要)十分条件を与えるが、これは
極限値を与えていないことに注意しよう。 等差数列や等比数列みたいなのが数V以降では例外的なわけね。 「講義」を聞きたい()という自演、いや要望に応えて先生ご登場!
前後の脈絡まったく無くコーシー列はって言われてもハァ?だから何?としか言えませんが、とりあえずおなじみ「三角関数も出来ない猿」も待ってますよ先生() 未来がどうなるのかは誰にも分からないので、完全な論理を構築するためには、
未来のある時点Xに、ある現象Yが生起するか否かは不明なため、可能性を含んだ
未来の命題には、真(T)とも偽(F)とも言えない(Φ)が存在することになる。
そのため「待ってますよ〜」という、ある特定の未来を期する無能(猿)の呼びかけは、
アリストテレスのいう「未来偶然命題」の中へと回収されるものとなるだろう。
それは、ヤン・ウカシェヴィッチの言うところのOn 3-valued logicとして
表現されるもので、主体的にイエス、ノーをはっきりさせる二値論理学的な思考を
持ちやすい欧米文化に対して、曖昧さと責任回避志向を持つ日本文化は、もともと
多値論理学的な思考を持つと言えることだろう。
ある自然言語Lが完全であるとは、この言語の中に完全で分かりやすい理論が
存在することにある。つまり、理論Tが分かりやすくなることが必要になる。
理論Tが分かりやすいとは、計算可能な公理系と分かりやすい論理を用いて、
その理論が整理・体系化できること(wff;整論理式)にある。つまり、論理が
分かりやすいとは、まず、計算可能な推論規則が存在して、その論理のすべての推論が、
その推論規則系内の推論規則を何回か適用して得られることによる。
そのため言語Lが不完全であるとは、理論Tが分かりやすくないことを意味している。 せっかくリクエストに応えて「講義」再開して下さっだのに、おまえらノーリアクションなのか
講義の内容をうけて議論したり質問してりしないの?() >>未来がどうなるのかは誰にも分からないので、完全な論理を構築するためには、
しょっぱなから支離滅裂なのがワロス >>つまり、論理が
分かりやすいとは、まず、計算可能な推論規則が存在して、その論理のすべての推論が、
その推論規則系内の推論規則を何回か適用して得られることによる。
日本語になってねえし 季節の変わり目はキチガイが活動始めるからなー。
もろキチガイの文章だし。 核開発と神話
“核兵器には、宗教的な暗示も常にまとわりついてきた。
その先鞭をつけたのは原爆開発を指揮したロバート・オッペンハイマーで、
一九四五年に行われた世界初の核実験を見て、ヒンドゥー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節
「いまやわれは死となり、世界の破壊者となった(*11章32節)」を引用した。”
― 『暴力の人類史(上)』 スティーブン・ピンカー、青土社 (2015)
“神よ…全世界の主よ。(15-16)
一切の方角に輝きわたる光輝の塊であるあなたを見る。(17)
無限の力を持ち、無限の腕を持ち、月と太陽を眼とし、燃火を口とし、自らの光輝によりこの全世界を熱しているあなたを私は見る。(19)
あなたのこの稀有で恐ろしい姿を見て、三界は戦慄(おのの)いている。(20)
蛾が大急ぎで燃火に入って身を滅ぼすように、諸世界は大急ぎであなたの口に入って滅亡する。(29)
あなたは全世界を遍く呑み込みつつ、燃え上る口で舐めつくす。(30)”
― 『バガヴァッド・ギーター』 上村勝彦訳、岩波文庫 (1992) 11章 300年来の超難問証明に貢献、志村五郎氏死去
志村五郎氏 89歳(しむら・ごろう=米プリンストン大名誉教授)プリンストン大によると、
3日死去。
世界的な数学者で、楕円曲線の特殊な性質を示した「谷山・志村予想」を提唱。300年以上
解かれなかった数学の超難問「フェルマーの最終定理」の証明にも役立てられた。
1964〜99年にプリンストン大教授を務め、数々の国際的な賞を受賞した 数学の難問は脳を同時に二つの状態(精密な思考と抽象的な思考)におかなければ解法を得られないとのこと。
それが故に最高の頭脳の持ち主しか携われないのが数学の世界。
谷山先生を始め天才と言われた数学者達は、不幸な人生を送ったことが多いが、
志村先生はアメリカで大往生だったようなので何よりでした。
御冥福をお祈り致します。 哲学者ヘーゲル
「主観と客観の対立を統一にもたらすという課題は、主観的統一と客観的統一を絶対的に統一するという形式では果たされない。
主観と客観という二元論の枠組みが存在する限りでは、統一の次元をどれだけ高めても、対立が残る。
対立と統一が無限背進を生み出すからである。
したがって、対立を真に超えるものは、同時に対立構造そのものをも超えるものでなくてはならない。
対立構造の枠組みをそのままに残したままで、対立する両者のうえにたつものを樹立すればよいというのではない。
対立の枠組みそのものが見かけ倒しで、仮象であることを明らかにし、その枠を否定するのでなければならない。
それが「無限性」という形式である。
自我そのものの内部にある「自己意識」の構造を考えると、そこでは「見る自分」は「見られる自分」と同一であり、
同一であることを知っている。
ゆえに「見る自分」と「見られる自分」との区別は、区別でありながら同一を含んでいる。この「区別ではない区別」という構造は、
主観と客観の対立という構造が成り立つための不可欠の前提であるが、
しかしその前提を認めればもはや主客の単純な対立は消えてしまう。
すなわち主観と客観の二元論は、本当は「区別でない区別」を前提するから成り立つのであるが、
しかし同時に、この無限性の関係を度外視するから成り立つのである。」
電子の場合は同一な電子が複数あるので 同一律が成立してない
同一律が成立しない原因は自己相互作用と他との相互作用が区別がつかないことによる
電子が2個あった場合 互いに相互作用を及ぼすが電子は自分自身でも自己相互作用をおこし
他からの相互作用で自身が変化したのか自己相互作用で自身が変化したかの区別がつかず
これが自分と他の区別がつかない原因になっている 統一するから現実逃避の哲学じゃないの?軋轢がある統一の方がもしくはいい。
オカマや芸やレズの色気や精度造形がいいと二つの自己が溶け合い反転する。 999ってスリーナインだよなァ。ヴィッパーセレブのノリもすごいよな 万感おもいをこ込めて記者が行くのとか いつか君と出会うさ町のほとりでとか
感動屋さんでシブい詩人だよね。メーテルは。 熊田洋子さんはおっぱいが4らしい文体から主観客観哲学で生活している出来過ぎた方。
5チャンネルの資本は乳首が五つのインドバングラ人ですよ。
そんなつるみもあるさ。 やっぱりマルクスが数学とか算数が苦手だったのが、
のちのマルクス主義のこじれ方の遠因になってるのかな。 ないものを女が愛しあるものに男が愛されるということは男女平等でなく
崇高で深遠なテーマだね。 科学技術の発達に哲学はキャッチアップしていけるのだろうか。
人造人間を作りたいというような欲望に哲学はどのようにして向き合えるのだろうか。
マルクス・ガブリエルはカントを持ち出して「人間の尊厳」を言うことで
対応していたが、やはりこういうやり方が従来の哲学の無難なものなのだろうか。 大学などの研究機関では当然守られるべき研究倫理があって、
風土的に功利主義の傾向が強いところでは
そういう倫理を厳しくしておかなければいけない場合もあるだろう。 >>423
哲学というか倫理の問題だよね
哲学は関係ないような 人間の尊厳が語られる『道徳形而上学原論』や
『実践理性批判』はまだ読んでないけれども、
倫理学の分野で語られるよね。(道徳哲学とも言われるが)
これを書いたカントはざっくり哲学者と認識されるが。 まあ、
現代の文献学っぽい哲学と、
カントの時代のような真:哲学、善:倫理学、美:美学を包摂していた哲学
これらの区別をしなければならないという声もありそうだけれども。 カント自身と対者であってそれは哲学ではないよ。古典文献学のニーチェの影響だよな。
しかし哲学はソクラテスが議論に負けている面が少しあってそれで発達してきたと思う。 ソクラテスのことを知るにはプラトンの本を読まないといけないから
そして、プラトンは幾何学を重視していたから
哲学をするにも数学との関係は切っても切れないのよな。 大学で学際系の学部ができるのが当たり前になってるから、
文理融合がポスト現代思想のトレンドだと思って理系スレをピックアップして足した。 >>432
理系スレをピックアップして足すことは、事前に提案をしたり同意を得たのか?
結果、政治や時事問題など、スレタイとは関係ない話を銘々勝手にするようになり、
>>430のスレがやってきたことと全く違うものになってしまっている。
>>430のスレは課題に挙げた本の読解を中心にやっているスレで、
・数学を初めとした理系の学問と哲学について 14
・最近はプログラミング関係の用語が流行ってるな
の様におしゃべりをするスレではないんだ。
政治思想やポスト現代思想をネタにおしゃべりをしたいのなら、
スレタイとテンプレは自分で考えて、別スレを作ってくれないかな? 英語やプログラミングが21世紀の読み書き算盤として指定されるならば、
英語が第2外国語として指定されるように、数学も一種の共通語として
強化されることになるのだろうか。 哲学の基礎も知らないような数学土人共は
人の迷惑にならないところで数独でもやってろ 数独ってはまってる人多いよねえ。
電車の中でよく見る。 むしろ数学を知らん奴が哲学やろうって方がどうかしてるだろ? 哲学しかわからない民族と数学しかわからない民族が昔であっただけだ。
対立軸というわけでない、お互い相手の学問にたいする敬意が欠けている
しかし哲学者は数学をやるが数学者は理解を示さず哲学が難しいのもあってできないと
立場は違っている。 相手の知らない学問で優位に立とうとしたり学問が出来ない人をかもったりするのは
言論の強姦だ。過去もよく調べろ。犯罪として立件する。 学問は学問が出来ない人をついていくような構成構造にはない。 学問ができることをひけらかす輩がいるがそれは学問の実効や目的と違っている。
<`ヽ <ヽ<ヽ >` 、 ヽ`ー-、
,、___/ レ'`, `" ` _ / /_ 、"、 ,.‐`-‐'´
ヽ- ,┌‐'ニ-‐'_"`, ヽ_ニ=, ,‐、 ヽ 丶`、 } }
/ / "~'_,"´~ / / } } _.,」 .}. ノ { -='"ニ、ヽ
. / / ,"、 / /_ / / ` `ー' {、_‐'´ ) .)
/ / '.、`ー─'` {´ ノ `、`' /、 _ノ ノ
`´  ̄ ̄"´ ~ `~ -='-‐'´
_
`,`ヽ _ _-'"´~`゙-、
,、_ -' '‐'ヽ`ニ .ヽ、 ゝ`, ,、 _____ .,、 / ,'"´~`ヽ ヽ
`ーフ /'"~´ 「',- 、_' / / `ー, , -‐'" '−' _ノ .ノ
/ / .i i { { , " .'´.-'"
. / / _ =-' L_ i レ'/ ,、 i.,...i
`´ { (ニ; ,へ`ゝ i / ',`、_____. ,、 . ,-‐、
`ー‐'" `´ ヽ_', `ー---‐" . `ー"
ある学問ができるからといって偉そうにするなってことなのかな。 まわりに政治や哲学について議論できる友達がいないんだろうか 今時、プログラミング数学もできないで哲学とか、お笑いの世界だからなw
スレで劣等感を刺激されたのであれば、ルサンチマンに駆られてスレを荒らすの
でなく、己の無能認めて、謙虚に学ぶことだな。 時間論ひとつ取っても、量子論、ハミルトニアン、シュレーディンガー方程式、
確率論、プランク単位系、ブラックホール、いろんな概念が必要になってくるので、
まあ、馬鹿は、馬鹿にでも出来る政治の床屋談義でもしているのがいいかもなw 哲学対物理学の争いみたいに一部でなってるみたいだけど、
twitterなんかより5chの方がよっぽどそういう争い向きにできてる気がするんだよな。 全然議論の中身は追っていないけど、こんなまとめがあった。
NGワードになるからリンクは貼れません。
<哲学者は物理学者の本気の拳をどう受け止めるか…谷村省吾「一物理学者が観た哲学」を読んで> 物理学者は物理学の成果で高らかと拳を上げてこそ本気の拳でしょ
哲学者に向けてる時点でまやかし まあ、工学部出身で、情報学部という学際系の学部に属している
という属性がそうさせるのかもしれないけど、
物理学のディシプリンで極めて初めてそういう他流試合をしろという意見は
理解できなくもない。 谷村の補足ノート読んでるけど、
青山は『現象』という言葉を、説明なしに使ったみたいだ。
哲学の現象と、物理の現象は、数学の位相と、物理の位相くらい違う、全く別の意味の言葉です。
それから、メアリーの部屋の思考実験を提示しなかったのは落ち度がある。心と脳の相関関係の話はここから始まっているわけで、問いの共有がなされるはずがないだろう。 あのねえ、一線級、新進気鋭の理論物理学者が哲学に絡んできたんですよ、
またとない機会なんですよね そういうのを好む哲学者がいれば相手して貰えるだろうけどいない気がする。 ポストポストとか言ってないで、物理学者と哲学者が組んで考えればいいんですよ、問いの共有がなされなればそもそもその可能性がないけれど、
議論という形式にもメリットはあるはずだが、お互いの相違点が明らかになるまでで、本題まで踏み込めない状況なんだな 協力なんてあり得るのかな?お互いに役に立つことなんて想像できない >>467
協力しなければならない問題がないからね、物理学者がクオリアだの質感だのに興味持ったところで
なんの足しにもならないし、哲学も論理的な時間理論を持っていないのに、現実を問題にしてる
物理学者に協力できる材料がなんもないわけだから >>468
例えば、物理学側からは観測問題、哲学側からは心脳問題を提示するとかね
ライプニッツが、易経から発想を得て二進法を考え出したっていう話もあるし、哲学の思想が物理を発展させることもあるんじゃない? けど物理学的に観測問題は一応、波動と粒子の二重性で片付いている
それに引き換え哲学は心脳問題を解決してるわけでもないからなぁ
異なる観点から理論が形成された共通する議題がないんだよね。 まあ、そもそもなんで哲学と物理学、別々にやってるのかって言ったら、物理の内部で整合性が完結するように、また、姿勢を崩さないようにするためだろうから、哲学と物理を対等に扱うっていうのも、無理というか、危うさがある
それでも、物理の観測問題は哲学ではこう解決される、哲学の心脳問題は物理ではこう解決される、と言う論法なら可能だし、問題を共有するだけでも価値があると思う、もっと踏み込んだっていいし、
(というより、1つの体系であらゆることが説明され得るのか、というのは個人的疑問としてある。さらに、少なくとも2つの体系が必要なら、その2つにはどのような関係があるのかという話にもなる。)
同じ問題について、哲学の理論と物理学の理論がそれぞれ存在するような、共通の議題ってのは難しいな、分析哲学や現象学だったら、意味論とか存在論とか?
まあ僕個人が思いつかない議題もあるだろう 意味論は分析哲学に含まれないか、フレーゲがすごいらしい、よくわかんね、
まあそれで、意味は情報でしょうか?とか、存在はエネルギーでしょうか?とか、真偽はともかくまあ話は尽きないでしょう 情報というより情報量?意味は情報量ってなんか違和感あるなあ、意味は質であって量でない気がする。物理学でquantityじゃなくて、qualityって認められるんだろうか、わかんね、 >>453
プログラミングは中学からやっているし、外国語もプログラム言語も複数やってる。
今時、プログラミングぐらいで大威張りしていることの意味が分からない。 >>454
哲学観は思春期並み
政治議論は中高生並み
哲学書読ませればチンパンジー並み
の奴が偉そうに。 飴と鞭の関係なんだよな、物理は正解(飴)を与え哲学は正当(鞭)を振るう。
物理学者の看板下ろして哲学を物理的に研究するというなら凄いけどね。
二対立だと相違点が論理的な争点になってああいう空回りになる。
物理学と矛盾しない哲学的な問題提起を持つ哲学者が検証のために
物理学や科学に愛の鞭を振うには、まだ機が熟していない。 いくら数学を研究しても、集合論では自他の区別すらできないんですよ? 2020年にローソンがスマホや顔認証で決済の無人店舗「ローソン・ゴー」を
始めるようだから、区別ついているんじゃないの。集合論はクラスタリングだからね 物理や数学は哲学を切り崩そうと言論暴力があったよな。
双方まとまって結婚なんてめったにないのにそのハラスメント性は問題だ。 役に立っているのは、実は集合論とかの数学ではなくて、数学を
利用することを可能にしている哲学の方だということかな。 集合論に「自」がないとすれば、それは、とりもなおさず、集合論には、
数学操作を「行為」として記述する言語が欠けているということでしょう。 「自」は、「自〜至〜」のように「〜から」という始点ではあるけれど、
「〜から」という始点は、動きがあり、その動きを振り返って初めて
現れる。動く前から「〜から」が存在するように感じられるとしても、
その「自」もやはり、「動いたとしたら、ここが始点になる」として、
仮想的に振り返ることによって現れる仮設でしょう。さらに、始点
には戻ることができるように感じられるけれども、決して「いまここ」
に再び戻ってくることができないことから分るとおり、「純粋な始点」
というのもやはり、「動くことをしなければ」という想定、つまり、
動き出す前に「動きの取り止め/キャンセル」を想定した仮設として
しか現れ得ない。つまり、「自」は、経験において仮設として現れる
デフォルトの0なのであり、存在するものは、そのデフォルトの0に
対して現れていることになる。したがって、「自」が「ひと(人/一)」
として現れるなら、つまり、対等であるものとして現れるなら、
その「ひと(人/一)」に値する「自」は、必然的に反復における
1/2でしょう。 フォン・ノイマン環(von Neumann algebra)とは、ヒルベルト空間上の有界線型作用素たちの
なす C*-環のうちで恒等作用素を含み作用素の弱収束位相について閉じているもののことである。
一般の C*-環と並ぶ作用素環論の主要な研究対象であり、理論の創始者の一人ジョン・フォン・ノイマンに
ちなんでこの名前がついている。可換なフォン・ノイマン環の重要な例として、
σ-有限な測度空間 X 上の L∞ 級関数全体のなす環があげられる。 量子力学おける量子変数は、非可換な性質を持つようだ。
観察する量子や電子の順序が、位置→速度とする場合(aと、速度→位置とする場合(bとでは
粒子の状態が異なり変わってしまう、すなわち非可換となってしまう。
これが量子的なミクロの世界の曖昧さ、揺らぎ、不確定性を生み出している。 人工知能でもやっていることはclassificationなので、要素やデータを
集合的な観点でクラスタリングしていると言えるだろうね。
半群、モノイド、群、アーベル群(可換群)、加法群、乗法群、有限群、無限群
という元のクラスタリングであれば、演算について、結合律があり、単位元や
逆元が存在するか否かで、元がそれぞれの群に篩にかけられていく。
ある一定の演算と属性で閉じている元同士を同一クループとして考えていく。
その点では剰余演算と同じ。
人工知能であれば、新卒の内定を受諾する者のグループと、後に辞退する
であろう者のグループの特徴量のベクトルを作っていき、内定者をこの2つの
グループにクラスタリングする。面接の時のアイトラッキングや表情、
発話の内容、声のトーン、姿勢を特徴量にしてもいいだろうし、単に書類や
アンケートからでも統計的確率で区分できそうだ。
正常メールと迷惑メールのフィルタリングもそうだし、顔認証システムも
そうだろう。 現実の世界や社会は、不純で汚染されているもの、と言えるだろう。
「桜を見る会」でもいいけど、恣意的な選考がされている。
だいたい常に不純で濁っている、もしくは、腐敗している。
数学や論理の世界は、純粋なコスモスだと言える。現実的な汚染に対しては
カプセル化されて守られている。世の中の出鱈目さと不条理にうんざりする者は、
純粋な数学や論理の世界で遊ぶのがよいだろう。厭離穢土の実行にもなるだろうし。
おい、ネットに落ちてる試供品シャンプーみたいな、しょっぼいフラクタル生成コードで
「仏教を超えた」とか「我が宇宙」とか、チンパンジーが大騒ぎしている糞スレはここですか?
>>487
君、日本語も読めないの?>>237には、そのコードを実際動かしてみてどう感じるかを
訊ねているんだよ。そのコード入ったファイルを見つけてこい、なんて書いてないよ。
そんな低スキルのことなら>>488の猿以下の知的障害者の奴でもできるぞ。
アニメーションの静止画像をいくら凝視していても意味ないから >>490
お前より低次元な奴、この世にいないだろw ストークスの定理(Stokes' theorem)は、ベクトル解析の定理のひとつで
ある。3次元ベクトル場の回転を閉曲線を境界とする曲面上で面積分したものが、
元のベクトル場を曲面の境界である閉曲線上で線積分したものと一致することを
述べる。定理の名はイギリスの物理学者ジョージ・ガブリエル・ストークスに因む。
ベクトル解析におけるグリーン・ガウス・ストークスの定理を、より一般的な
向きづけられた多様体上に拡張したものも、同様にストークスの定理と
呼ばれる。微分積分学の基本定理の多様体への拡張であるともいえる。
ベクトル解析におけるストークスの定理は、ベクトル場の回転を曲面上で
面積分したものが、元のベクトル場を曲面の境界で線積分したものに
一致することを述べたものであり、以下のように記述される。
∬[s] ∇ × A ⋅ ds = ∬[s] rot A ⋅ d[s] = ∫[c] A・dl
ここでs は積分範囲の面、c はその境界の曲線である。ストークスの定理を
用いることで、電磁気学ではマクスウェルの方程式からアンペールの法則などを
導くことができる。 自他の区別もつけられないような振舞いは、
無私の善行などではなく、無反省な悪行なのです。 おまえらの言っている数学とは、まったく具体的な捉え方であって
それは数学ではなく算数でしかない。
算数は具体性、数学の入り口を暗記やら青チャートで育ってきたやつは何をやっても駄目なのよ。
高尚な抽象概念をイメージできないのは覚えることで習得してきたやり方に原因がある、
暗記した語句を並べ暗記した数式を並べ、それが凄いと思うの?
糞すぎる、おまえのは数学じゃなくて算数だ。何もわかっていないから妬みやら
恨みやらという底辺の感情で行動する、他者からの上から目線とかいう感情をもった時点で
おまえのそれはお前自身が底辺を実証している。 でもさ自然が現実に適応しているのも驚きだけど、現実と数学が違っていることが
自分なりの数学のキモでそういうことをコツコツ解き明かすことが、プラトン以来の
形而上学につながっている。 >>494
実は算数すらおぼつかない文系が、実は哲学のフリした似非学問に逃げ込んでいる典型的な例w 論理が覚束ないと数学から遠ざかり、数学が覚束ないと論理から遠ざかるだけでじゃない >>494
チンパンジーくん、そろそろ檻に戻る時間だよ。飼育係のおじさんが
キミの餌の用意をして待っているようだから、早く、帰ってあげたら?
オイラーの公式さえ覚えられないチンパンジーくんには複素数も永久に扱えまい。
チンパンジーくんにとっては、毛むくじゃらの指でリンゴやバナナを数えるのが
高尚な抽象概念を扱う数学なんだろうからなw 数学は時空の抽象性を物理的な定理で識別できるけど形而上的に抽象概念を扱うのは無理だよ>>498 数学や論理は抽象的な構造全般を扱えるので、形而上学にでも当然、敷衍できるもの
だろう。レトリックポエマー似非哲学には、数学や論理は全く不要だろうが どっかのスレで誰かかがデリダを評して、かの哲学者のしていることは、
対象を恣意的に抽出・加工して、その中で神経症的に厳密な身振りで二項対立を措定したり、
その脱構築をしている、つまり、デリダは厳密どころか、その入り口や対象の抽出段階で
すでに間違えている、といった感じの意見を述べていたが、俺もデリダにはそれと同じ印象があるな。
つまり、デリダはポエマー郵便誤配文系哲学者w デリダはフッサールの『幾何学の起源』に長い序文を寄せているけど、
それに関しても眉に唾して読まなきゃいけないってことね。 >>494
必要に応じて具体的な対象と抽象概念とを自在に行き来できないと
ただのトンデモ扱いされますよ たとえば、物理で質点という概念があるけど、質点は「大きさのない質量の塊」と
されている。こうした抽象的な質点というモデルを使って、振動方程式や運動方程式、
振動解析、復元力、減衰など使って、地震にも耐えうる安全な建築物が実際に建築
されている。
つまりファンタジーに堕さない、抽象的な構築物を構築したいのであれば、
そこでは数学や論理は必須となるのではないかな。 杜玖椀や堵愚慧螺に興味を持つだろ、それが高校生くらい
遅い人は大学生くらいか、いわば理系のマルクス主義みたいなもの
関係する仕事に就きたくて最先端を調べるだろ
すると人間椀椀構造主義や、ツノガライクリや、苧疾呼玖差亥苧饅湖の分野になる
なんか違うなと思った人はアベチンコ最高論みたいなオカルトに進んでいく
中には最初から下痢便カツカレー理論しか勉強しなくてオカルトだけの人もいる >>504
ですね
もちろん既存の数学に含まれない、それでいて堅牢な体系を構築できるならそれはそれで結構な話だけど、
なかなかそんな才能を持つ人間はいないようです 数学って非日常の体系だから、中高生がそれを理解するためには
まず、教科書に書かれてあることを暗記して理解するしかないんだよな。
それもままならいにもかかわらず、
青チャートなどの参考書の例題を自力で解きもせずに暗記したりしているのを批判するのは理解できるけど。 数学自体はどんなに初歩的なものであっても日常的な体験から得られる直観とは独立した体系であることは当然だが、
中高生が学ぶ数学はほとんどが直観に根差した理解が可能なものばかりでしょう。 直観で理解できたつもりでもいざ入試となるとしくじったりするのは、
理解が足りなかったからなのだろうなと思ったりする。
複素数とかベクトルとかが文系の生徒の学ぶ範囲外に追いやられているのは、
直観が働かなくなっているという問題、実は哲学的な問題なのかな。 何かで見た話だが、タワーマンションとかで暮らしている小学生は、
日常生活が希薄になっているせいで、算数の問題を理解するのに必要な
想像力が欠けている傾向があるらしい。
こういう数学教育、算数教育の問題も実に哲学的問題のようにも思えてくる。 本当の理系純粋理系といおうかは哲学などを解釈ソルブするときに数式やある種の記号しか持たないわけだ。
教養に学歴や塾に通ってる奴らと訳が違う。
そいつらは素質や出来方が違っていてそういうやつらしかその世界では生き残れない。
哲学は数学に圧倒されたから哲学者は数学理系を哲学の中に取り込み、
子を宿したんだが、哲学も数学も老練で熟練していて素人を受け付けなさはあるから、
むしろ子育てしながら、
子供たちの発想の中に哲学上の難問や数学上の謎などを見出すことで、進みすぎてしまったことからの後悔回想などで反省してみるとよいだろう。
数学理系はまさに狂気の刀で子供という哲学取り込むことは下手な方だからケアがいる。 抽象はある種の対決から生まれた現実逃避なんだけど、自由な空間だから
不思議なものだと思うとよい。 アイデアというのがイデアならアイデンティティーになっている。 まさにあらわれざる敵のあらわれに対して解いているという
切っ先の勝負の快感が数学にはあるな。 僕は哲学擁護はしないけど哲学に無敗を押し付けるのはどうかな、
議論で無敗の期間は有名だけど、
あらを取って分析してみればそんなことはないし敗北からはぐくむ愛も美しい。
数学にも言えることだけど。無敗に勝ったから哲学に勝ちというのはバラスの悪い誇大と現実味のない堕落ゲームだ。一番賢い人という神託まで上がっていくテンションと等しいかそれと等しいかそれ以上の
体験がない数学もどうかと思うな。 僕は哲学擁護はしないけど哲学に無敗を押し付けるのはどうかな、
議論で無敗の期間は有名だけど、
あらを取って分析してみればそんなことはないし敗北からはぐくむ愛も美しい。
数学にも言えることだけど。無敗に勝ったから哲学に勝ちというのはバランスの悪い誇大と現実味のない堕落ゲームだ。一番賢い人という神託まで上がっていくテンションと等しいかそれと等しいかそれ以上の
体験がない数学もどうかと思うな。 理解してくれる人が一億年後以降に現れる方が幸せだろう。 謎解きのほうが哲学や数学より大人向け。神のゲームに講じるもよし。 僕は哲学者や数学者が残した生きた残りかすである知恵や理を使って文学で哲学者や数学者のしたようなというか燃え上がる体験をするにいたっている。 哲学者と数学者の激戦で残ったものが論理だ。まさに落し子のようなものを僕らは
享受するんだ。 哲学板に数学の話題が出てる時には純粋哲学純粋数学というより純粋論理学に
近い傾向があるが、それではまだ若いだろう。 アリストテレスヴィトゲンシュタインなどをその視点から読むとよいぞ。 日本は禅宗が主流で数秘術のような魔術的な数学や、哲学の大地裂ける音など
体験はできないだろうからそれらを内包するままさすらえばいい。 数学の弱点は解法をみんなが同じカリキュラムではないから学んでいないのに優劣をつけるとか、
受験凡才に暗記の公式やカンニングのような悩まない解放が本人の性質にそぐわずなぜか教育で与えられるといったところにある。
哲学にそんな悩みはないなあ。
それもそうだし問いも立てることが多い哲学と、解くだけに終わってしまう数学とでは総じて優劣の差はいうまでもない。 天体次元のあらゆる学問の中で哲学の単勝が万人券だったとしても
哲学の本命の人券はかたいね。数学は理性を使い感情を押し殺した単勝1.0倍
のような面白みのない人券だ。
それは哲学の勝利で世界が明るく盛り上がることでしか全ては解決がつかない。 哲学の行動性と意識/無意識の十全性は数学を超えるだろう。 地味な光の当たらない学問を宇宙のスーパースターにするぐらいが
(暦)学者としての当たり前のしごとだよ。
|:::::| \ / {{ ヽ.__ ____
|ヽ_\_ ≧=´ ヽ ハ/ / 二二二二  ̄ ̄ヽ / ' ´ ` </ /
| ` _,イハ { // / 二 -―‐'´ ̄ ̄ \ ,. '´ ヽ /
| _,. '´ || ト、. / / / ヽ― ' \/
|‐ ' ´ !八 // /.;:::.. '. V
/ || 7 .// :ゞ': V
/ -》' / /'. , ヽ._ |
_,. -=ニ三 ̄〈 / / `、 ,.'  ̄ Y´ |
ヽ {イ ` ´ | |
`┤ | _,. -=ニ二二ニミ.、ノ
| 、._ ` ー ' ´ -‐、 _,.| //´ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄i》
r、 __,. イ ≧=--=====- 、.___,. '´ | //_,. -=≦ ̄ ̄ ̄ `{
´ | / -=≦二二二二≧=-`ヽ
! // ̄二ニ=―=ニヲ《 ̄Y
r'/ / / ̄ ̄ ̄ ̄ `7,)
《_,-=≦ / ,'
《_> ―| ,' 哲学というとフィロソフィーとは全く違うものになるけどな。哲学が伝わった
直訳なんて役にたたないから、哲学書あさりもほどほどに。そういう無能を何度も
拝見したが。 bingでスレタイの初めの方を入れて検索するとスレタイが出てくるんだよな。
複数人bingで頻繁にこのスレのシリーズを気にして調べている人がいるってことだな。 ふと思い出したんだけどさ、
円周率を表すπの数値は有理数ではないから、分数で近似しようとすると、
近似の精度を高めれば高めるほど、分数の分母も分子も大きくなっていく
んだよね。でも、ただ単に分母も分子も大きくなるわけではなく、そこに
はパターンが現れるわけでしょう。そのパターンは、数学的にはどのように
どのように解釈されている(メタ言語において理解されている)のですか? 例えば、これは、この板で以前にプログラミングのできる人に計算してもらって、
提示してもらった円周率πの値の分数による近似で、使われたアルゴリズムに
ついて私はよく知らないんだけど、結果は以下のとおり。
n=40,
π≒2258601801834136133882621891503456256/
718935282476328405580165727291362725
これを因数分解のサイトで計算させると、
π≒(2^38)×4001×2053 672953 944449 893049/
(3^3)×(5^2)×7×11×13×17×19×23×29×31×37
×41×577×9 479941×19199 718833 さらに近似の精度を高めた場合の提示してもらった分数は次のとおり
(桁数が大きすぎるので途中で適当に改行して書き込みます)
n=100,
π≒230472573934774707842404216444096156856954356
127677523896716863794721544322478959628646350848/
733616987776634178235090119578885739509523057452
41626687452984196759740688178926126151382145
これを同じく因数分解のサイトで計算させると、
π≒(2^96)×2908 972852 844847 146606 115843 387178
430487 374844 958853 444298 069943/
(3^4)×5×(7^2)×11×13×17×19×23×29×31×37×41×43
×47×53×59×61×67×71×73×79×83×89×97×101×2671
×4643×52313×85639×3 230543
×18574 150350 467286 699586 359991 ここに表れてきているパターンは明白であるように見えます。
円周率πを分数で近似する精度を上げるほど、分母も分子も当然、
大きくなっていきますが、その数値を因数分解させてみると、
分子の数値には、ますます大きくなる2の累乗に大きい素数を
掛けた数値が現れ、分母の数値には、素数が並んでいく。
このパターンは、数学的にどのように解釈(メタ言語において理解)
されるのでしょうか、それをご教示ください。
ブラウンカーのπの連分数による近似の場合は、4/(4/π)を
近似するような計算になっているのですよね? より大雑把にいい加減な質問の仕方をしてみましょう
円周率というのは、結局のところ、2の累乗と素数の並びの対比という
意味合いを帯びているのでしょうか? >>536-537
数学の約束事を無視した数式の表記になってしまい済みません。
因数分解で表して表現の方は、もちろん、"/"の左側が分子
として括弧に括られ、右側が分母として括弧に括られるべき
ものです。 >>535
ここは考える人が自己に問うところで、他者に質問するところではない
正解にたどり着くことこそ哲学的には愚考というものである。
そんなものどこかの専門の先生にでも教えてもらえ。
所詮掲示板にいた先生でも態度がでかいとか説明が下手だとかで拒絶しているだけだろうに 掲示板にいた先生に拒絶されたのかと自己に問い、535を拒絶して
正解にたどり着けない愚考を晒す感じ? >考える人が自己に問うところで、他者に質問するところではない
考える人が自己に問うことは、他者に問うことなのですよ? そのことにこそ、「ひと(人/一)」 であろうとする自己と、他者との関係が
現れているのです。 他者 が先に知覚するから自己にはたどり着かないよ。他者を見るのが自己ではないわけ。自己は自分の血族ぐらいの広がりに於いていえば。 そのこと の大分後ろが自己なのでは。簡略化しすぎる短い論説ではなあ。 >>543
あたま悪いの?哲学とは何かすら理解できていないのか >>487
こういう問題に関心がある人は、
井筒俊彦の『意識と本質』(1983)を読んでみるといい。
古代ギリシャ、中世スコラ学、聖書学、神秘主義、
現象学、存在論、リルケ/マラルメ/芭蕉の詩論、
ユダヤ教、キリスト教、イスラム、インド、中国、仏教、密教、
東洋のシャマニズムなどを概観。
その内のカバラやマンダラや易のほか、
詩的、あるいは神話形成的想像力に見られる
深層次元の元型的世界を比較するなどして、
東洋哲学を構造化した。 良いことがつづくと「我を忘れ」、悪しきことがつづくと「我を見失う」。
良いことばかりあると、「自分にも運が向いてきた」と感じ、
悪いことばかりがつづくと、「自分は運に見放されている」と思う。
「運」は、中国語では、「运(運)ピンインyùn」であり、"to move"、
"to revolve"を意味するように用いられるので、語源的には、
「圆 ピンインyuán」に関連していると考えられている。
「運」とは「巡り合わせ」であり、"the wheel of Fortune"だ。
そう考えるなら、"a given circumstance"としての「缘
ピンインyuán、つまり、日本語の「縁(えん)」も運がもたらす
ものだろう。 ところで、「良いこと」も、「悪しきこと」も自分に「起きる」。
普段の生活においては、自分や身内に何も「悪しきこと」≒
"mishaps/misfortune"が「起きない」こと、つまり、自分や身内
が「無事に」過ごせることが「良いこと」であると捉えている。
しかし、「何も起きない」ことほど退屈なことはないだろう。
人は身勝手なもので、自分や身内が無事に過ごせることが
当たり前になればなるほど、「何も良いことがない」と感じる
ようになる。 もちろん、「良いこと」や「悪しきこと」は他人にも起き、より
一般的には、他者にも起きる。しかし、それは、自分にも起きる
可能性がある/あったものとして他者に起きるのであり、
言い換えるなら、「良いこと」も「悪いこと」も、人に
起きるのである。何が起きようと、人に起きる可能性のない
ことは、「良いこと」でも、「悪しきこと」でもない。
落石は、それが自分の頭に向かって落ちてくるなら、
「悪しきこと」であり、それが他人に向かうなら、その
他人と自分との関係により、「悪しきこと」であったり、
「良いこと」であったりする(その他人が自分を殺害しようと
企てている場合を考えてみるといい)が、単に石が落ちる
という出来事は、良いことでも、悪いことでもない。 では、良いことがつづくと「我を忘れ」、悪しきことがつづくと
「我を見失う」のはなぜだろうか?これは、「自己とはどのように
存在しているのか」という問題とつながっている。 簡単に答えるなら、それは、「自己」として捉えられる始点として
の「自」が、動きを振り返ってみることによって現れる「仮設」
であることに関係しているだろう。人は、良いことも悪いことも
自分を中心にして起きると、すぐに思い込みがちだが、自己中心
的に己の利益だけを追求する人にとってさえ、良い出来事も、
悪い出来事も、それが生じる限りにおいて、自己をそのままにして
おくことはないのである。 You are bigger than yourself 運は受け入れるものであって、従うべきものではない
運に身を任せようとするとき、人は、しばしば、
考えてもみなかったような大きな過ちを犯す
それは、運に身を任せているつもりが、運を
信じ込ませようとしている意図的な誘導に
乗せられるだけのことになるからだ 哲学の研究者によって「運」について書かれた新書が出ている
ことに気づいて、地元の図書館で古田徹也著、『不道徳的
倫理学講義: 人生にとって運とは何か』を借りてきた。
まだ最後の数ページと最初の方の数ページと、索引と
文献表しか見ていないけど、個人的には、「人生にとって運
とは何か」 という副題を付けているにのに、ディドロの
『運命論者ジャックとその主人』への言及が全くない時点
で評価ガタ落ちだな。もっと詳細に目を通せば、印象が
変わる可能性もあるが。 それにしても何だろう、この価格は?w
私も日本語訳は持っていないが
>運命論者ジャックとその主人
>ドニ ディドロ , Denis Diderot他 | 2006/12/1
>¥9,000 (3点の中古品) まあ、安直なレトリックで誤魔化さないで、まともに数学をやった方がいいと思うな。
せっかく数学や論理で真理の一端に触れられるのに、子供のポエムにしてしまうのは、
流石に惜しいだろう。sinθやcosθをそれぞれ一周期(2Π)で積分すると、0になることだって、
簡単に見えて、意外と奥が深いものがあるかもしれないよ。ノイキャンイヤホンみたいだし。 Πの一周期の積分でsiin値やcos値がキャンセルされて0になるのは面白いよね。
その部分の値は0だから積分区間が0から2Πの時は、式の中にそれらが出てきたら、
わざわざその部分を計算しなくていいのだから。
それを運に置き換えると、沢尻エリカは女優として才能もあって、成功して、
容姿もそこそこ良くて、お金もあって、相当なプラスの運を持っているように
思える。だが、今回のような薬物事件が田代のように再発すると、
マイナスの運が連鎖的に発生して、トータルでその一生を振り返ると、
±0の、つまり、一般人レベルの運の持ち主であった、とかなるかもしれないよ。 線分 y = x (0 ≤ x ≤ 1)をCとする。
2変数関数 Φ(x,y) = 2 - x - y に対して、このCに沿う線積分
∫_[c]Φds
をCの向きが原点から遠ざかる向きを正として計算せよ 線分C上にある点P(x,y)は、原点Oを起点とする弧長を用いて、
以下のように表現できる
x = s/√2 , y = s/√2 (0 ≤ s ≤ √2)
Φ(x,y) = 2 - s/√2 - s/√2 = 2 - (√2)s 線積分の定義式から、
∫_[c]Φds = ∫[0→√2] (2 - (√2)s)ds = [2s - ((1/2)*(√2))s^2][0→√2]
= √2 [解]
三角錐を真っ二つに切った時にできる断面積がこの解の√2となる。
関数の線積分は、曲線Cに沿う関数のグラフとxy平面とが作り出す
切り口の面積となる。 sinθの0から2πの積分が0グラフから明らかでは、sinθの積分がcosθになる理由なあ、高校数学の美しい物語ってサイトで証明見たけど、図形のやつでまあ、納得したっちゃしたけど、なんかなぁって感じ、マクローリン展開しても意味なさそうだし、
勝手にイメージしてんのは、積分の逆演算が微分なんで、それ考えると、cosθの増加率がsinθになってて、グラフはπ/2平行移動している、砕いていえば、三角関数は、微分しても平行移動して、形を保つような特別な性質を持ってるってこと、
その必然性を問うなら、三角関数みたいな自然な定義の関数が美しい性質を持ってるのはありだな、くらいの認識だなあ 連分数の話だったけど、 πを級数で表す方法はいろいろある、
1-(1/3)+(1/5)-・・・=π/4とか、
証明は、|x|=1のときの、初項1、公比-x^2の無限等比級数の和、
1-x^2+x^4-・・・=1/(1+x^2)
を考えて、
両辺を0から1まで積分する。
1/(1+x^2)の積分はArctanxになるという公式があって、
1-(1/3)+(1/5)-・・・=(Arctan1)-(Arctan0)=π/4
となる。
あとは、有名なのは、バーゼル問題とか、
級数じゃないけど、ガウス積分とかも面白いね >>567
> sinθの積分がcosθになる理由なあ
また符号が逆になってますよ
∫sinx dx = −cosx + C
> sinθの積分は、-cosθが正解 ていせい、
>>567
> sinθの0から2πの積分が0になるのは、グラフから明らかでは、それで、sinθの積分が-cosθになる理由なあ、高校数学の美しい物語ってサイトで証明見たけど、図形のやつでまあ、納得したっちゃしたけど、なんかなぁって感じ、マクローリン展開しても意味なさそうだし、
> 勝手にイメージしてんのは、積分の逆演算が微分なんで、それ考えると、-cosθの増加率がsinθになってて、グラフはπ/2平行移動している、砕いていえば、三角関数は、微分しても平行移動して、形を保つような特別な性質を持ってるってこと、 複素関数の線積分が、ジョルダン閉曲線だと0になるとかね、面白いっすよね、 複素平面上での、ジョルダン閉曲線の断面積というべきだったかも、ほんと数学ピヨピヨ ちょっとまって、混乱してる、断面積ってなんやし、
まあ、
ざっくりいうと、ジョルダン閉曲線ってのは、重なってないわっかになった線なんですよ、複素平面上で複素関数を考えるってのは、複素平面上の座標が、引数になってるんですわ、
コーシーの定理ってやつがあって、複素関数を、ジョルダン閉曲線に沿ってて線積分すると、値が0になるってやつなんすよ これですね。ご教示ありがとうございます。
これを見ると、専門性の凄さというのは分るのですが、
これがしっかりと分るようになるまで勉強しても身に付くのは、
数学の技法の専門性であって、哲学ではないのですよ。
哲学として求めているのはやはり、こういう技法についても
日常言語における表現とつながるようにしようとすることなのです。
https://en.wikipedia.org/wiki/Gauss%27s_continued_fraction
The series 2F1
arctan z そのようなつながりを考えるという意味では、こちらが役立ちそうですね。
https://univ-study.net/arctan/ >沢尻エリカは ―中略― 相当なプラスの運を持っているように
哲学をするのにそのような具体例で考えてみることは、私も
大いに役立つと思います。この例については、また時間のあるときに
より詳しく考察してみましょう。今回、薬物事件で逮捕された
ことは、「運」が悪かったのか?政権の陰謀だと騒いでいる
人たちもいますね。陰謀のせいで逮捕されたのなら、「運」
が悪かった?でも、多くの人々がそのような疑惑をもつなら、
むしろ「運」がよかったことになる可能性もありますねw 陰謀レベルの話になれば、そもそも誰が芸能界にドラッグを流通させて
いるのか?という話になるでしょう。 便利に利用できるものなら、いつでも便利に利用できるように
あらかじめ用意しておくというのが一般的な考え方ですよね?
必要なときに手元になかったら、役に立たないじゃないですか? ジョルズ ルースの ウイスキーの小瓶。インスタイル レーション >>574
形式論の数理は自然科学の物理的要請を規定する手段で
自然法則ではないという原則が頭にない数学徒に哲学は無理だよね >沢尻容疑者は17日までに担当弁護士と接見。押収されたMDMAに
ついて「自分は使っていない」と説明していることが分かった。
MDMAの粉末入りカプセルについては「交際中の男性から預かった
ものを自分が持っていた」と話しているという。<
この話が本当だったとして、そういう男性との「縁」を
もたらしたのは「運」だったのでしょうか? いや、>>584に引用した主張が本当だったとして、その男性の相手
が無名の一般人だったら、まったく同じ状況でもニュースにすら
ならなかったでしょう。女性側が注目を浴びる有名な沢尻エリカ
という人だったからこそ大きなニュースとなった。
そこに「巡り合わせ」があると言うことができるけれど、
その「巡り合わせ」は「運」だったのか? 曖昧な表現になったので、訂正します。
× その男性の相手が
○ その男性が交際する女性が >>574
いや、これじゃなくて、ガウス積分
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ガウス積分
無限に続く連分数が、ガウスの名前ついてるの知らなかった
ガウスはいろんな仕事してるからなあ、
無限に続く連分数を漸化式で定義してるって話やな いや、私が問題にしているのは、円周率πを近似する連分数の形式の
計算の方ですよ。>>574のガウスのarctan zの連分数表現において、
z=1とした場合に、私が引用したブラウンカーの連分数計算の場合
には、π/4をπにするための一番上のzが4倍にされていることを
除けば、そのまま同じであるということ。いずれにしても、
arctanでは、三角形の二辺の比が1:1になったときに弧の値が
π/4として表されるわけでしょう。すると、π/4という値は、
1という規定された値に対して計算されるというよりも、等しさ
(の近似)に対して算出されていると表現できるのではないですか?
連分数の表現と三角関数がどのような関係にあるのか、数学
をまったく勉強してこなかった私には分りませんが。 ガウスほど数学の技法に長けた人でも、哲学的な論考を残すことは
まったくなかったわけでしょう。どれほど数学の技法を研究しても、
そのこと自体からは、哲学的な思考が展開され得るわけではないことを
ガウスのような人物の業績が如実に示しているのではないですか。 >>589
πを連分数で表すことにこだわってるけど、なんでやねんと、
連分数に限らず、様々な公式のによって、πは数の性質と結びついているってことが見て取れる。
それで、その必然性が疑問というのはわかるが、円周率と数の性質が結びつかないことの方が、考えにくいというか、
ブラウンカーの公式を知らなかったけど、さっき
調べてたらなんか、紹介した1-(1/3)+(1/5)-・・・=π/4
と同等だと書いてあるサイトがあった。
ていうか、恒等式は全部同等なんだけど、
1-(1/3)+(1/5)-・・・=π/4
⇔
(ブラウンカーの公式の連分数展開の式)=4/π
を示せばいいんじゃない?
以下、ぐだぐだした説明
1-(1/3) +(1/5)-・・・=π/4を仮定して、仮定が成り立つならば、(ブラウンカーの公式の連分数展開の式)=4/πが成り立つことを示して、
逆に(ブラウンカーの公式の連分数展開の式)=4/πを仮定して、仮定が成り立つならば、1-(1/3) +(1/5)-・・・=π/4が成り立つことを示せばいい。
あるいは、片方の式から片方の式を等号で結んで式変形できれば、同等であることを示せるね
証明の方針として、1-(1/3) +(1/5)-・・・=π/4の右辺が、ブラウンカーの公式の右辺の逆数になってるんで、左辺の逆数とって普通に通分すれば、ブラウンカーの公式の左辺になりそうな気がするけど、どうなんだろ、 私は数学的な証明の方法を求めているわけではありませんよ? >>586
定めだから結果を招いた
定めじゃなければ結果は招かなかった >>589
> arctanでは、三角形の二辺の比が1:1になったときに弧の値が
> π/4として表されるわけでしょう。
これは逆で、arctanはtanの逆関数だから、arctan1=π/4
> すると、π/4という値は、
> 1という規定された値に対して計算されるというよりも、等しさ
> (の近似)に対して算出されていると表現できるのではないですか?
弧度法のことを言ってるんだと思うけど、単位円の弧の長さが決まれば、角度も一意に決まるので、単位円の弧の長さを角度としましょう、という定義。近似は関係ない。
> 連分数の表現と三角関数がどのような関係にあるのか、数学
> をまったく勉強してこなかった私には分りませんが。
ブラウンカーの公式を紹介した式に帰着できれば、あとは1/(1+x^2)の積分がArctanxになるのはなぜかという問題になって、関係がわかるんじゃないの >>595
数学の手順としてはそれで済ませられるのかも知れませんが、
哲学としては、それでは考え方の順序が正当化されないだろう
と言っているのです。 お! おもしろいことやってるなぁ。
おれもちょいと勉強して参戦しよっと。てか幻想のほうで忙しいが。
数学の哲学ってなかなか深い。
数学って、読み方を間違えると雑音と熱がいっぱいでうるさくてやってられない。
かといって静的な読み方をしてしまうと動かないのでつまらない。
一関博物館まで行って一日ぼーっとしてようと思ってたのに冬になっちゃった。 話をまとめると、
級数や連分数で、πを近似する。
無限級数や無限連分数の極限として、πを表わす。
πを級数展開、連分数展開する。
すると、
なぜ、自然数列や奇数列がそこに出てくるのか、という疑問が出てくる。
証明を理解しても、πと、自然数列や奇数列に関係があることの必然性への疑問が解せない。
ということです。 単純に、自然数列や奇数列を使ったアプローチだからでないの?
そこに必然性は「ない」。
これを自然数列や奇数列によるそれぞれの宇宙だとすれば、
「宇宙際」。
これを物理的にみるなら、スピンであり、スピンネットワークによるπの近似なのだと考えると、けっこうぶっとべるw
このぶっとんだイメージを簡単に説明するなら、
つながっていって変化することでネットワークがπの「形」になる。
ただし、無限回の操作が必要なるのが難点で、そのへんはそのうち解決されるだろう。
虎がぐるぐるまわってバターになる。トラバタ理論とでも呼んでおこう。
もしくはホットケーキ理論。
宇宙際タイヒミュラー理論+超弦理論でなんとかなるんでないかと思って考え中。 角を取って丸くする方法である。
最初から角などないのだ、と「繰り込み」的に考える。 ふふふ。かなりおもしろい構造がみえてきた。
スピンネットワークによるAIがつくれるんじゃないかと考え中。
連分数の中に高次元のスピノルがみえません?
準結晶構造でもいいけど。
近似式ってバカにしてたけど、高次元での回転とみなすととてもおもしろい。 ライプニッツの公式
1-(1/3)+(1/5)-(1/7)+・・・=π/4
ブラウンカーの公式
1/1^2/(2+3^2/(2+5^2/(2+7^2/2+・・・)=4/π
2つが同値であることを証明しようとしたけど、無理だった。
ライプニッツの公式の証明で問題の、1/(1+x^2)の積分はArctanxになるという公式だけど、証明は以下のサイトにあった。
http://w3e.kanazawa-it.ac.jp/math/category/bibun/keisan/henkan-tex.cgi?target=/math/category/bibun/keisan/diff-arctan.html Wolframに具体的に計算してもらった方が分りやすいな。
https://www.wolframalpha.com/input/
?i=lim(x→(1%2F(√3)))6x%2F(1%2B((1x)^2)%2F(3%2B((2x)^2)%2F(5%2B((3x)^2)%2F(7%2B((4x)^2)%2F(9%2B((5x)^2)%2F(11%2B((6x)^2)%2F(13%2B((7x)^2)%2F(15%2B((8x)^2)%2F(17%2B((9x)^2)%2F19))))))))) 有限の連分数で近似させようとした場合、arctan xのx=1/(√3)とか、
x=1とか代入した場合には、当然、うまく行くんだけど、x=∞
にすると、∞になってしまうね。 それで、証明を完全に理解したから、ライプニッツの公式の必然性がわかったかというと、微妙。
なんで証明にArctanが出てくんのか?まあ三角関数は円と関係してるし、ありっちゃありかな、みたいな
てか、なんでこの証明でうまくいったのか、って結局わかるんかねえ、完全にわからないってことは少ない、
勝手な想像だけど、多分リーマン予想が証明されたら、なんでこの証明でうまくいったのかってのが全くわからないと思う >>601
> 単純に、自然数列や奇数列を使ったアプローチだからでないの?
ラマヌジャンのπの公式とかエロいよね
モジュラー形式の考えを使ったとかwikiにあるけど、証明を知らん
てなわけで、自然数列や奇数列を使わなくてもπは表せる
> そこに必然性は「ない」。
勝手なイメージだけど、数の性質を大局的に予想出来ても、局所的に数の性質を予想することは難しい。
x以下の素数の個数が、x/logxで近似できるって話は、大局的な予想で、何番目に完全数が来るのか、とかは局所的な予想。
ようするに、まったく必然性は「ない」。とは言えない。ゆるやかに必然から偶然にわたって予想は広がっている 具体的に代入してみると、πの連分数の計算においてsinθ/cosθという比の
値がどこにどうかかわっているのかはっきりと見えて興味深いね。
全体として、この連分数の近似計算をどのような視覚的イメージで捉えたら
いいのか、まだ私にはよく分らないけれど。 >>607
誤:x=∞にすると、∞になってしまうね。
正:x=∞にすると、0か∞になってしまうね。 こういう問題を考えるときに、数学と哲学では関心の持ち方が違うんですよ。
物理学者のファインマンが、自分が好きなのはギリシアの数学、つまり、
数学としての数学の技法ではなく、バビロニアの数学、要するに、
エンジニアリングにおける数学であるというようなことを言っていたと
思うけど、数学と工学でもアプローチは違う。数学者の数学では、
πの連分数の計算でも、まずは無限に計算が行われたと想定したうえで、
それが他のどのような数学表現と等しいのかを証明しようとする。
工学の立場では、そのような研究結果を前提として受入れ、それ
をどのように実装できるのか、どの程度の精度で実現できるのか、
その手段を追求する。哲学では、そのような無限の計算が行われた
とする理想化された想定をまず受け入れるのではなく、数えるという
行為に「連れて」そのような関係が、どのように理想化されて
現れるのか、その「どのように」を、数学の技法としての有用性
とは関係なく、工学的な実装のために役に立つのかどうかという
関心も脇において、初歩的に/基本的に言葉として表現する途を探る。 そういうアプローチの違いから、人生における「運」についてどう見るか
も、数学者と工学者と哲学者では、違いが出てくるのではないでしょうか? 工学者が実装したAI占いに騙される数学者はいるかもしれなし、
別に騙されたところで、数学者としての能力の評価には何の影響も
ないけど、そんなものに騙されるようでは、哲学をする者としては
完全に失格なのです。 調理済みのおいしい料理を食べるのではなく、味わうという行為に連れてそのような関係が
どのように理想化されて現れるのか、その「どのように」を調理の技法としての有用性とは関係なく
工学的な材料実装のために役立つのかとどうかという関心も脇において
初歩的に/基本的に言葉として表現する途を
探るのが哲学と置き換えると、哲学とはなにか空想した事が言葉に表現される。 >ラマヌジャンのπの公式とかエロいよね
ラマヌジャンが見出したものとして公表されている様々な数式
の実際の考案者として、ラマヌジャンという人物が本当に存在
したのかどうか、私にはとても疑わしく思える。英国における
数学研究の副産物として見出された、そのままでは論文になら
ないような発見を「ラマヌジャン」というハンドル名で公表
したのではないかとさえ思える。 「料理する」とはどのようなことか? を考えると、
ときとして、調理する必要性がないことに気づく。
調理しないままの方が、または簡単に熱を少し
通す程度の方が、むしろ、素材の味が活かされて
おいしかったりする。 >>619
かっこつけて言うと、ラマヌジャンでなくては思いつくはずのない公式群があることで、ラマヌジャンは歴史の中でかなりの確度で存在している
存在しないなら、その公式群はオーパツ的な何かだよ ラマヌジャンでなくては思いつくはずのない公式群 ×
ラマヌジャンの名義でしか公表されるはずのない公式群 ○ ラマヌジャンの実在にこだわりたいわけじゃないんだけど、
え、だって、その時代には存在しない理論を用いなければ見つからない公式をバンバン見つけてたんだから、あれやろ
悪魔の証明だけど、ラマヌジャンがいたと考えたほうが必然的だと思うけどね
ラマヌジャンが奇想天外であったから、ラマヌジャンであることが確かめられる
一方で、奇想天外であったのがラマヌジャンだったのはなぜか、というのは確かめられない 結局数学の必然性のなさをラマヌジャンの名義にこじつけてでも数学に価値をみいだしたいだけなんだろうな ラマヌジャンの思考回路を分析出来たら、
現代でも新しい公式をジャカジャカ出せるんだろうか? 例えば、モーツァルトの自筆で楽譜が採譜されていたとしても、
その曲を天才作曲家としての少年モーツァルト自身が作曲した
かどうかは確かめられない。しかも、少年モーツァルトが作曲
したことにすれば、大々的な注目を集めて、巨額の収入が得ら
れるという動機が働いていた。
フランスの詩人ポール・ヴァレリーは、金に困って自分が
既に出版した自著をもとに、金に変えるための自筆の
「原稿」を自らの自筆で偽造していたことが発覚している。 2次のオイラー積か、
名義だろうがなんだろうが、現代数学におけるラマヌジャンの寄与は大きいんじゃない?
数学の価値をいいたいんじゃなくて、ベートーベンでもいいけど、ようするに、個人の性質、個性ってのは、数の性質と一緒で、大局的には確かめられても、局所的には確かめられないってことなんだよ、もっと明示したいんだけど モーツァルトの曲はモーツァルトにしか書けないんとちゃうの? >ABC予想と最後の審判
で、結局どうなったんですか? 誰でも、普通、物事は「自分の思いどおり」になった方が「良い」と
感じている。しかし、物事がすべて「『自分の思いどおり』に運ぶ」
ことが、すなわち、「運が良い」ことにはならない。なぜなら、
「運が良い」とは、「思いもかけず」良いことが相次いで起きること
だからだ。「運が良い」≒"fortunate"とは、そういうことである。 「思いもかけず」良いことが相次いで起きるので「我を忘れる」。 「思いもかけず」自分が望まないことが起きることさえ、「運が悪い」
ことであるとは限らない。 以前、賃貸の部屋で暮らしていたとき、その部屋のトイレは、
水が、見かけ上はとても勢いよく流れるのに、トイレット・
ペーパーすらまともに流れないようなものだった。そんな
トイレを使って日常生活を送りたいと思う人はいないだろう。
どうすればきれいに流れるか工夫して、うまく流れるように
する方法を見出すまでに一ヶ月はかかっただろう。これは、
「運が悪かった」のか?しかし、そのときの経験のお陰で、
普通に流れるトイレでも、その工夫をそのまま利用して、
トイレをきれいに流す習慣が身に付いた。すると、トイレ
掃除がほとんど必要ない。「思いどおりにならない」経験
がなければ、習慣を改良する必要性に迫られることはなく、
今後ずっと、トイレ掃除の手間が省けるようなアイディア
を実験的に身に付けることはできなかっただろう。その
意味では、「思いどおりにならなかった」経験をしたこと
は、「運が良かった」とさえ言える。 πの近似が、自然数列や奇数列でなければならない必然性は「ない」。
必然性とは、限界状況にあらわれる。
なんらかの限界が設定されていなければ必然性はでてこない。
もっとも単純なモデルとしてスピンネットワークによる限界状況の設定を考える。
この状況によって「必然性」があらわれる。
ま、ペンローズが放棄してしまったスピンネットワークの再利用w
「つながっていて変化している」ということを限界状況のモデルとする。 ま、「円」を「直線(線分)」の集まりで近似しようとすると、
自然に、自然数列やら奇数列やら、なんやらの数列になったりする。
乱数によって取り尽くしてもよいのだが、統計的には規則性(数列)のようなものがみえてくる。 数学知らないから、まともな数学の手続きを無視してちょっと遊んでみた。
まあ、なんとなく辻褄はあっているような気もするw
そのままでは規制されて書き込めないので改行してるけど、
改行は無視してください。
https://www.wolframalpha.com/input/
?i=x*tan(π%2Fx)%2F(1%2B((1tan(π%2Fx))^2)%2F
(3%2B((2tan(π%2Fx))^2)%2F(5%2B((3tan(π%2Fx))^2)
%2F(7%2B((4tan(π%2Fx))^2)%2F(9%2B((5tan(π%2Fx))^2)
%2F(11%2B((6tan(π%2Fx))^2)%2F(13%2B((7tan(π%2Fx))^2)
%2F(15%2B((8tan(π%2Fx))^2)%2F(17%2B((9tan(π%2Fx))^2)%2F19))))))))) >>639
試しにx=4、つまり、tan(π/4)にして計算させてみると、
当たり前だけど、きちんとπの近似値が計算される。
4*tan(π/4)/(1+((1tan(π/4))^2)/(3+((2tan(π/4))^2)/(5+((3tan(π/4))^2)/
(7+((4tan(π/4))^2)/(9+((5tan(π/4))^2)/(11+((6tan(π/4))^2)/
(13+((7tan(π/4))^2)/(15+((8tan(π/4))^2)/(17+((9tan(π/4))^2)/19)))))))))
≒3.141592540446539988139804779731435702098090363045669027791... >>639-640は、運とか連分数とかについて書き込んでいる私だけど、
>>637-638は私の知らない別の人なので誤解のないようw πのより正確な近似値は、3.1415926535 8979323846...だから
>>640の、x=4を代入した場合は、3.141592までしか合っていない
けど、代入するxの値を大きくすると、算出される精度が高まるんだね
(ただし、10以上にすると数式を認識してもらえないみたい)。
ちなみに、x=9で計算させた結果は、
3.1415926535 89789...辺りまで合致している。 ライプニッツの公式とブラウンカーの公式組み合わせたのかしら、
僕も式変形でなんか出てきたから、自慢しようかな
4/π=1+Σ[n→∞]((4n-3)/(4n+1))=1+(1/5)+(5/9)+(9/13)・・・ >>644
lim(x→∞) x*tan(π/x)/(1+((1tan(π/x))^2)/3)=π 朝目が覚めたときに思いついていたから、
やっぱり私は睡眠中の方が頭が働くようだw 結局は、ブラウンカーのπの連分数計算も、数量的には、直角三角形
の二辺の比を利用した微分積分になっているという理解でいいのでしょうか? ブラウンカーのπの連分数計算と
tanの加法定理がどのような関係にあるのか説明してください πであれ、1であれ、まず値(あたひ)が存在すると考えるべきではないだろう。
そうではなく、円運動において比が現れることによって、翻って、その比
との関係性において円軌道の大きさが見積もられると考えるべきだろう。 連分数と互除法の関係から考えるなら、互除法において反復的に比べられる
2つの大きさには、0<θ<2πの間のtan θによって表されるいずれかの
直角三角形の2辺の比が対応することになって、そのθに対応する弧の
大きさが現れるということかな。私は、小学校、中学校時代からすら
算数も数学も、ほぼ完全に勉強を放棄していたので、こうやって数学の
用語で表現しようとすると、参照すべき適切なメタ言語がないために
自分のあやふやなイメージに頼るだけになってしまうが。 >>650
Your life is full of excuses, right? 私は数学については、一般の人と比べても、知識も技能も劣るので、
数学用語による私の表現を何か専門的な技能を反映させようとした
ものであるかのように誤解されないように、注意を喚起している
だけですよ。
数学の表現については、私にはそれについて適切に語ることができる
メタ言語がない。日本語の表現については、いくらいい加減なことを
言ったところで、まがりなりにも私は日常的に4つか、5つくらいの
外国語の表現に触れているので、メタ言語による統制が働いている。 π進法をつかえば、円周率はπであり、
直径は1/πになる。
π進法をつかえば近似式など必要にはならないw >>653
>メタ言語がない。
無いんじゃない、作らないのが正解だ、
つくって何になるとか思っているんだろう、
始まりがなければ何も始まらない、失敗で成功しないから関係ないとか思っているだろ?
意思というのは誰かの失敗をみて俺ならできるかもしれないという基準にもなりえる、
物事を主体からみる思考でしか捉えられないからそうなる。 こうやって見ていくと、円周率のπの連分数計算による表現は、私には
それを数学の技法としてきちんと証明して示す能力はないけれど、
数を数えることに連れて線分を切断したと想定した場合に現れる
「実数の連続性」と直接につながっているのでしょう。互除法に
おいて、線分を切断したと想定する場合、規定する側の線分と
規定される側の線分の関係が交互しながら現れるけれども、
その2つの線分の大きさの関係はつねに「比」として近似されて
現れる。円周率πの連分数計算において、数を順に数えるにつれて、
πの近似値の精度が無限定に高まることも、そのように分割
されて対比される線分の比と、tan θにおいて想定される
直角三角形の2辺の比を通して結びついているのでしょう。
私が数学者に期待しているのは、そのような関係を単に数学の技法
としてではなく、日常言語に依拠したメタ言語によって、私の
ような素人によるいい加減なイメージの繋ぎ合わせではなく、
より適確に、数学の技法と結び付けられるように説明して
もらえることなのです。 そのようなメタ言語による記述の試みが丁寧に行われることによって
初めて、思想や哲学の研究者による自らの主張を権威付けしようとする
だけの動機による数学の技法の濫用や、数学者による哲学的な省察を
欠いた存在についての奇妙な形而上学な言説に健全な自浄作用が働く
ことになるのではないでしょうか。 数学はひよっこだけど、一度記号に慣れると便利なんだよね、権威づけとかじゃなくて、
それからあなたが期待するような哲学的考察が行われないのは、演繹で導けることでないと、数学ではなくて、演繹で導けることは前提となる定義にもよるけど、哲学からみれば限られているからなんだな >演繹で導けることでないと、数学ではなくて
その考え方が数学を哲学的に貧しくして、数学者の間に奇妙で稚拙な
形而上学的な存在論への信仰をはびこらせることになっているの
ではないですか? 少なくともポアンカレのような数学者は、数学をそのようには捉えて
いなかったのではないでしょうか? π進法で考える。
直径をπとすれば円周はπ^2である。
π^1 -> π^2
直径を1、すなわちπ^0とすれば
π^0 -> π^1
ここでおもしろいのは、円周がπ^2のとき、
直径と円周がともに負の場合もありうる。
円周を直径に変換するとき、2つの世界が生じるのである。 >>662
2つの世界じゃなくて二通りに理解してるだけだから
数学馬鹿ってどうしようもないな >>662
球の表面積が、素直にπ^3になったら面白いけどそうはならないな rをπとすると
球の表面積は4π^3
球の体積は(4π^4)/3ですぜ。 あ、違った、2rが直径だた。2r=πとすると、
ええっと、2π^3と(2π^4)/3か。 1次元の世界しか知らなかったとしたら、πの存在を見つけることは出来るだろうか
1次元には円はない、1次元の世界の住人からみて、π^0として、πは隠れている、というアイディアはいいかもしれない
ということは、
隠れた超越数、
3次元の球、4次元の球、と一般化できるが、
πの別に、3次元の世界にも、知られていない隠れた超越数があるということも考えられないか 2がでてくるってことは、やっぱ2つの世界w
/3ってのは...体積もまじめに考えてみるっか。
体積だと、3つの世界がひとつになってるってことかも。とても素直なイメージ。 >>665
4πr^2、r=π/2だから、π^3になるやん、すまん、 というか、4次球への一体化ってどうすんねん、
https://mathtrain.jp/ndimball
ガンマ関数でてくるんかーい 3次元の世界の隠れた超越数って...
そこがそうは問屋は卸してくれない。
4次元多様体の微分トポロジーによれば無限の微分構造を持ってしまう。
だからこそ豊穣な3次元+時間世界がある(のかもしれない)。 πというかπ/2こそが物理(数学)におけるなにかしれとんでもない基本的な「数学的対象」なのかもしれない。 >>668
4次球の表面積は2(π^2)(r^3)らしいから、(π^5)/4になるなあ、
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/超球面
>>671
微分トポロジーわからん、物理の隠れた変数理論は、個人的には無いかなって思ってる 直径と円周の比、τ=2πとした方がいろいろいいっていう話もあるね むしろ重要なのは、1である性質、すなわち、「等しさ」が
1=tan(π/4)において現れることではないのですか? 比における等さとしての1の方がより基本的なのに、
算数や数学の初歩において、あたかも値としての
1が存在するかのような教え方をするから、理解に
大きな混乱が生じる。三角関数を説明するのに
通常、半径1の単位円が例として用いられるの
だからが、1=tan(π/4)との間で理解に混乱が
生じるのは、むしろ、当然のことだろう。 誤:あたかも値としての1が存在するかのような
正:あたかも値としての1が先に存在するかのような 比における等さと、数えることと、実数の連続性と、πの近似計算の
関係をばらばらに切り離して考えるべきではないのでしょう。
lim(x→∞) x*(sin(π/x)/cos(π/x))=π
lim(x→∞) sin(π/x)=0
lim(x→∞) cos(π/x))=1
lim(x→∞) x*sin(π/x)=π 計算関係が成立する無限という捉え方は、数式を簡略化して合理化する間違いを犯す
∞値と∞値を足せば2倍の値になる。
これが数学だ、決して計れない計算できないものではないということだ、
だが∞値に∞倍をして、それが同じ∞値と数式を表すなら、
それは既に合理化された四捨五入と同じだ、
円周率を3.14からさらに3と割り切った「ゆとり」教育のようなもの
暗記をベースに知識を得たものは自分では考えずもとの本質やら定義を無視し
どのように説明されたものを丁寧に繰り返すだけの科学、知の複写の時点で
大きな過ちを犯している、値というのは実知であって存在することを意味し
存在しない値でもない観念や概念を示すわけではない、これらを区別できない
低知能はその辺のテンプレートになる説明の形式部分だけを捉えて正しいとしてしまう。 >>682
∞値?
∞は値ではないでしょう。イミフですよ? >>683
値として計算している馬鹿に言われたくないな
値を持たないものを計算できるとか思っている馬鹿は自分が意味不明なことを理解できていない >値として計算している馬鹿に言われたくないな
値として計算していると思っているのは、あなたの解釈に過ぎませんよ 私は近似が行為としてどのように行われているのかを例示しようとしてるだけです そもそも、私はWolframのアルゴリズムを利用させてもらっている
だけなのだから、私が∞を値として与えたとして、それをそのまま
Wolframのアルゴリズムが値として認識して計算していたとしたら、
アルゴリズムの方のバグということになりますねw >∞値と∞値を足せば2倍の値になる。
あなたがそう主張するように、このアルゴリズムが∞をそのような
値として扱っているかどうかは、このサイトで「∞+∞=」を計算
させてみれば、簡単に確かめることができますよ? ま、「無限」についてはいろいろ考え方があるしねぇ。
おれもこないだ±∞を扱うアイデアを思いついて、
その数学的構造を探求中。すべてをπで考えるとおもしろい。
円周というか、リーマン面で考えるとなかなか深い。
0と∞は真逆のようでも同じような性質を持っている。
この2つをつなぐものとしてπを考えると、おもしろい世界がみえる。 javaのDoubleだけみても
static double NaN
static double NEGATIVE_INFINITY
static double POSITIVE_INFINITY
などがあって、それなりに有用な「値」である。
(あくまでもプログラム上でのことであり、数学そのものではない) >>681
或る大きさがますます小さくなるものとの対比において∞として
現れるなら、或る大きさにますます近づくものとの対比において
現れる0が表しているのは、不在ではなくて、無視だろう。
日本語の普通の表現を用いるなら、「数ならぬもの」である。 数ならぬものは、不在なのではなく、無数にあり、
数えきれないだけである。 比において弧が近似されることに実際に数えられること、すなわち、
実数の連続性があるのでしょう なめらかな多様体として数(というか「体」か?)を考えるのがおもしろい。
エキゾチックな数(または球面)。なめらかさは奥が深い。 この板で誰かが、「数(かぞ)へる」という表現が意味しているのは、
「仮(か)添(そ)へる」だと指摘していたが、名言だな。 0や∞はタイヒミュラー空間なのかもしれない。
とてもおもしろい。 実数の連続性とは、比により円弧に沿(そ)ふように「仮(か)添/沿(そ)へる」
ことであると言うことができるのではないか? 比率とはなにか、といえば、そこにはなんらかの対称性の構造がある。
連続性については、単純にいえば内包による集合であり、
それはパートナーとなる外延による集合との間に超対称性を持っている。
そう考えるとおもしろい。 数学的にどう解釈すべきなのか私には分らないけれど、ブラウンカー
のπの連分数計算の表現を4/xと書き表した場合、xの部分は、
1+1/(3+(1+3)/(5+(1+3+5)/(7+(1+3+5+7)/
(9+(1+3+5+7+9)/(11+...のように書き換えることが
でき、分子/(分母...の並びが、ちょうど
https://www.ndl.go.jp/math/images/F/column6-3.gif
のようになって、内に包まれるものと外から包むものの関係の
ように見えることが面白いですね。 π(この場合円周と考える)というなめらかな宇宙と、
連分数というなめらかさに近づこうとする宇宙。
そこに宇宙際タイヒミュラー空間があるとすれば、
πという高次元空間から連分数という並進対称性へ写像するのか、
πと連分数があって、それらより高次元の構造からの写像のしかたの違いなのか。
なめらかさとはいったいなんなのか。
それは「美しさ」である。
異なる宇宙間の「美しさ」をつなぐもの。それがタイヒミュラー空間であるとすれば、
数学とはタイヒミュラー空間の物語である。数学という物語空間。 数学を初めとした理系の学問と哲学について 15
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1574483882/
文系や政治の話なども
めいめいが好きなように話題を提供して
ゆるい議論をしよう >>699
何が変数のxになってて、どう書き換えればそうなるのかわからん、こちとら、数値計算に弱いんだ
>>700
宇宙際タイヒミュラー空間ってなんだし、望月のabc予想の論文で出てくるらしいけど、やんわりとでいいから教えてほしい 数えられるってのは、自然数と一対一対応することだ。
素数を数えるなら、素数と自然数の組み
(1,2)(2,3)(3,5)(4,7)(5,11)・・・
を見つけることを続けることになる。
リーマンゼータ関数のディリクレ級数表示とオイラー積は、自然数と素数が完全に一対一対応していない。
(ディリクレ級数表示とオイラー積は、無限和と無限積で、ディリクレ級数は絶対収束して、和も積も可換だから)
素数を自然数でナンバリングするというのは一般的に難しいと言われていて、順序を無視することで、等式が成り立っていると思われる。
ディリクレ級数表示とオイラー積を途中で打ち切ったら、近似式になるけど、その差の振る舞いはどうなるんだろう
N番目の自然数とN番目の素数で無限和と無限積を打ち切るわけだから、
N×N通りの自然数と素数の組みを考えることになって、N対N対応することになる 自然数と素数の個数の近似式の関係はあって、
x以下の素数の個数をπ(x)とすると、
π(x)〜(logx)/x
になる。
(素数定理ってやつで、オイラー積の絶対収束域をRe(s)≠1から、Re(s)=1かつs≠1に改善したことで得られたらしい。)
素数の個数だからなあ、xが大きくなれば、素数と自然数の一対一対応はなくなっていくよね、 自然数と素数の個数の関係の明示式、リーマンの明示公式ってのがある
https://en.m.wikipedia.org/wiki/Prime-counting_function
フーリエ変換使ってるらしいから、非自明零点と素数には双対性がたぶんある
もっとがんばれよ、俺、 リーマンの明示公式の最初の項に素数定理の(logx)/x出てくるんで、零点が求められれば、素数定理の誤差を求められるということですわ、
ディリクレ級数表示とオイラー積を途中で打ち切ったときの差は、多分こいつに帰着されるし、考えても仕方なさそう タイヒミュラー空間についてはタイヒミュラー空間論の本を借りてこないとまともな説明はできないw
わたしが扱うは、異なるクラス間の変換函数としての現実的なタイヒミュラー空間である。
まあ、タイヒミュラー空間とはリーマン面の小分類である。
あるリーマン面と同相なものはなにか、向き付可能なベクトル空間との対応において、
たしかどっちかが複数あって、一対一ではない。(うろおぼえ)
望月の場合は、数学のある議論領域という宇宙と、他の議論領域との宇宙の間での対応付としてタイヒミュラー空間のようなものを想定している。
わたしの場合は、クラス間でのcastを行うconstructorの集合として広義のタイヒミュラー空間を実装しているw
AIへの応用だが、可逆であるように情報を保存させる。
そうするとその保存量が物理量のように振る舞うのだw(いや、振る舞わせるのだ)
直交補空間化によってあらたな次元がうまれる。π/2にこだわるのはそれが直交だからだ。 ちょいとボジョレーヌーボーのんで酔っているのでちょっとおかしな説明ですけどね。
いいかげんな説明ではなく、正しい概念を得るには
今吉 洋一, 谷口 雅彦のタイヒミュラー空間論を読んでください。 たぶんとらしいが多すぎてがんばれ俺なんだけど、
素数と自然数は一対一対応をきらっている、
例えば、n番目の素数をnを引数として求める関数とかね、あったとしても、複雑になったり、偶然になったりしそう
心脳問題も、素数と自然数の関係に似てると思うんだよな
例えば、赤いというクオリアと赤というクオリアを作り出す物理的状態が一対一対応するとする
じゃあ次に、青というクオリアがどのような物理的状態で生まれるのかというのを予想することは出来るだろうか?
単にデータが少ないから出来ないというわけではなくて、色相環全部のクオリアの物理的状態を調べられたとしても、本質的に、色という現象と脳における現象の関係を一般化することは難しいだろうということなんですよ
素数がたくさん求まっても、素数と自然数を一対一対応させる機能が見つけられないように、現象学における現象と物理学における現象の関係を見つけるのは難しいのではないかと >>708
ありがとう、
リーマン面に含まれるような、空間なんだろうな
隠れた超越数の話ぶり返すけど
ていうか、メビウスの輪とか、クラインの壺とか、πじゃない超越数がありそうな気がするんだけど、
自然数と素数と円周率と自然対数の底が、リーマンの明示公式に全部出てくるのすごすぎなんだけど、
なんか別の意味のある超越数があったら、なんかやだよな、数式がよりシンプルになったら、えっちだけど メビウスの輪の半径?と表面積?を求める定数が、未知の超越数になってないか、ということだな そもそもクラインの壺の図形は何を意味する位相モデルなの? メビウスの輪は向き付不可能だが、この世界も向き付不可能なのかもしれない。
相対論からいってそうなのかもしれない。
円周でもそうなのだが、円周上には不変量がない。
一旦、円周からはなれないと不変量をみいだせない。
その意味では、無秩序でもあり秩序でもあり、どちらでもない。
まさか、これが一般不完全定理か?
つまり完全であるということが不完全でもあり、どちらでもない。
むむむ。太極図か。酔っているので責任は持ちません。 >>712
そもそも球は何を意味する位相モデルなのか クラインの壺の前に、球がなにを意味するのか、球がなんたるか、球の本質は何か、ということも結構問題っていうことだな 境界も表裏の区別も持たない(2次元)曲面の一種ですな。wikipediaより。
メビウスの帯から、さらに境界も貼り合わせてなくしたもの。 浅田彰の『構造と力』では、
「近代」を意味するとか書かれていたような。 浅田彰の本にはとてもマヌケなクラインの壺のようなものが描かれていてネタにされていたなぁ。 >>702
>>574のWikipediaの記述で
>The continued fraction of Gauss can be applied to this identity,
>yielding the expansion
と書かれているところを参照してみてください。
私がπを近似するブラウンカーの連分数計算として引用した表現と
違うのは、ブラウンカーの連分数の場合、一番上の分子がzではなく、
4となっているだけですよね? すると、ブラウンカーの式の場合には、
その一番上の分子は、4*tan(π/4)に相当すると考えることができる。
実際、Wikipediaにガウスの連分数として記載される式は、
arctan(z)=....なのだから、z=1を挿入するなら、arctan(1)=π/4
になって辻褄があっているでしょう? ここで、ブラウンカーの式の一番上の分子の4は、4*tan(π/4)を表している
と考えたのだから、z=tan(π/4)=1と考えていることになる。すると、
ブラウンカーの連分数は、ガウスの連分数の式において、arctan(1)=π/4
を計算する代わりに、4*arctan(1)=4*(π/4)=πを計算していること
になりますよね? すると、z=tan(π/4)=1なのだから、ガウスの
連分数において、分母に現れるz=1は、(1z)^2だろうと、(4z^2)
だろうと、計算する必要がないでしょう? だから、そのように考えて
ブラウンカーの連分数計算を4/xと表記したわけです。 さて、すると、4/xのxの部分の分数の分子には、1^2、2^2、3^2、4^2...と
並んでいる。そこで、1=1、2^2=4=1+3、3^2=9=1+3+5、
4^2=16=1+3+5+7...のように書き換えただけです。 >>721
Applicationsの最後の方に書いてあるね
Arctanの連分数展開知らなかったけど、これなのね
言いたいのは逆関数f^(-1)ともとの関数fを合成したら、xになるからな、
Arctan(tanx)=xで、x=π/4のときを考えてるって話になる
まあそもそも、素直にArctan1を考えれば、ブラウンカーの公式になるね 訂正
素直にArctan1のときを考えても、ブラウンカーの公式にはならねえ、 そこで、ブラウンカーの連分数においても、ガウスの式のzを端折らずに
書いてみたのが、>>640に記載した
4*tan(π/4)/(1+((1tan(π/4))^2)/(3+...という式です。これをアルゴリズム
に計算させれば、当たり前のことながら、πの近似値が算出される。
そこでさらに、4*tan(π/4)における「4*」と「/4」を、代わりに、より
大きい値、例えば、「9*」と「/9」にしても、やはり、πの近似値が
算出されるだけでなく、同じ有限の計算に当てはめても、>>642に
具体的に計算結果を示すとおり、はるかに精度の高いπの近似値が計算される。 奇数列(2n-1,n=1,2,3,・・・)の和はn^2になるからねえ、
綺麗ですねえ
奇数列
1,3,5,7,・・・
は、4n-3,4n-1,4n+1,4n+3 ,n=1,2,3・・・
って書けるけど、
(3,5),(7,9),(11,13),・・・の組みを考えると、
(4n-1),(4n+1) ,n=1,2,3・・・
と書けるんで、隣り合う奇数同士の積は((4n)^2)-1になる
(1,3),(5,7),(9,11)・・・
と書くと、
(4n-1),(4n+1) ,n=(1/2),(3/2),(5/2)・・・
となって、nが自然数にはならず、正の半整数をわたることになる
なんでこんな話したかというと、半整数をわたらせるってのに、勝手にロマンを抱いてて、
1+1+1+・・・=-(1/2)っていうまあ調べれば出てくる嘘の式なんだけど、これと関係してるかなって >>728
一般に関数fとf^(-1)の合成、f⚪︎f^(-1)は、恒等写像になって、
f⚪︎f^(-1)(x)=xになるんだな
まあ、Arctanx=(なんとか分のπ)になるときは、t=tanxのx=(なんとか分のπ)になってないといけないからねえ、 つまり、z=tan θにおいて、ブラウンカーの場合のようにtan θ=tan (π/4)
ではなく、tan θ=tan (π/x)として、xの値を増大させるなら、同じ有限
の計算で算出させても、xの値の増大に応じてπの近似精度が高まることが
分る。そこで、さらに一般化して、連分数の分母の箇所を極端に限定して
計算させてみたのが、>>644の
lim(x→∞)x*tan(π/x)/(1+((1tan(π/x))^2)/3)
です。この式で、計算上、分母に現れるtan(π/x)は、xが大きく
なるにつれ、次第に0に近づくのだから無視されることになり、
結局は、lim(x→∞) x*tan(π/x)だけを計算していることになる。
ところが、x*tan(π/x)=x*sin(π/x)/cos(π/x)なのだから、
cos(π/x)は、xが大きくなるにつれ、1に近づき、計算に
残るのは、lim(x→∞) x*sin(π/x)だけとなる。そこで、
lim(x→∞) x*sin(π/x)をアルゴリズムに計算させると、
lim(x→∞) x*sin(π/x)=πということになるわけです。
lim(x→∞) sin(π/x)=0なのだから、面白いですよね。 1をずっと足してくと、半整数ずれて、戻ってくるというロマン、自然数環というロマンがあるねえ
ていうか、嘘の式、ζ(0)=1+1+1+・・・
について、
完備ゼータの関数等式、Z(1-s)=Z(s)ってのがあって、
1-sとsの組みがあるけど、ζ(1)だけは発散して値を持たないから、s=0には、相方がいないんだよな >>730
Arctanxじゃなくて、Arctantね お褒めいただき、恐縮です。
でも、小学校の頃から算数が苦手で、中学校のときから既に数学を
まったく勉強せず、高校のときは完全に勉強を放棄していたので、
数学では赤点以外にとったことがないw 数学を日常言語化するのは遠回りだと思うが、時を経て一部でも日常言語化することが上手くいくと、遠回りした分だけかえって見通しがよくなるのかもな、そういう打ち方もあるっていうことだな 他者論でもやろうか
【己の欲せざる所、人に施すこと勿れ】
『論語』衛霊公 第十五
子貢が、人として一生涯貫き通すべき一語があれば教えて下さい、と聞きました。
子日わく、其れ恕(ジョ)か。
孔子が言うには、それは恕(つまり相手の身になって思い・語り・行動することだ)と答えたが、
(子貢には難しいと思ったのか言葉を継いで)
己の欲せざる所、人に施すこと勿れ。
自分が嫌なことは人にするな、と言いました。 ケルトであれスラヴであれ精髄なんだけどな。あとのど自慢。 罪罰拮抗で円転回転してるのが僕ですわ
どちらかというと罪優勢、
いわば邪推なので、人生論には向いてない 数学を初めとした理系の学問と哲学について 15
新スレ(本家)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1574515806/
馬鹿が糞テンプレ付きで建ててしまったので、不本意ながら早目に建てます x*arctan(tan(π/x))=
WolframAlphaにプロットを描いてもらうとこうなる。
https://www.wolframalpha.com/input/?i=x*arctan%28tan%28%CF%80%2Fx%29%29
2番目のプロットでx軸と並行にπの近似値を表す線が描かれていることが分る。 x*arctan(tan(π/x))とx*sin(π/x)の関係がどうプロットされるか、
x*arctan(tan(π/x))=x*sin(π/x)と入力しても都合のいい範囲で
描いてくれないので、xの代わりに適当にx^1024に変えて入力して
描いてもらった結果がこちら。
x^1024*arctan(tan(π/x^1024))=x^1024*sin(π/x^1024)
https://www.wolframalpha.com/input/?i=x^1024*arctan(tan(π%2Fx^1024))%3Dx^1024*sin(π%2Fx^1024) >>743-744
以下の計算は、いずれも0を返す。
lim x→∞ arctan(tan(π/x))=0
lim x→∞ tan(π/x)=0
lim x→∞ sin(π/x)=0
にもかかわらず、その0を返す計算に∞という
性質を帯びさせるなら、つまり、以下を計算させるなら、
いずれもπを返す。
lim x→∞ x*arctan(tan(π/x))=π
lim x→∞ x*tan(π/x)=π
lim x→∞ X*sin(π/x)=π
ここに現れているのは、無論、微分積分の考え方である。
上段の=0を返す式において、0は、確かに「数の不在」
または「値(あたひ)の不在」を表していると言えるだろう。
しかし、「数の不在」や「値(あたひ)の不在」は、
「あらゆるものの不在」、つまり、「無」を表して
いるのではない。そうではなく、「『特定の単位』の不在」、
すなわち、「数えきれないこと」、「『無数に』あること」
を表しており、そのために「無視されること」を表して
いるのだ。だからこそ、「無限に数えること」を表す∞
とペアになっているのである。 数学の理解に大きな困難をもたらし、義務教育レベルの数学においても、
私のような落ちこぼれを多く生み出す重大な要因となっているのが、
数学を説明するメタ言語の混乱である。メタ言語に混乱がないなら、
むしろ、0と∞とπと実数の連続性と微分積分法と三角関数とは、
スムーズにつながって理解されることになるだろう。
数学の理解に最も大きな困難をもたらしているのが、
「数えられる/たもの」として数や値を、まず先に存在するものと
して扱う説明である。そのような説明においては、「数/値の不在」
、「『数えられる/たもの』の不在」を表す0まで、比における
∞との関係から切り離されて、当然であるかのように数や値として
説明される。0は、一旦、∞との関係から切り離されて、数や値
として存在するかのように、あるいは存在しない「無として」
理解されてしまうのだから、その後から、実数の連続性や
三角関数や微分積分法を教えても、理解に大きな妨げが生じて
しまうのは、むしろ、自然なことだろう。さらに、πや素数に
ついての数学者による神秘主義的な言説が上乗せされるなら、
なおさらのことである。 を、おれとだいたい同じ考えだ。
0と∞はパートナーの関係にあり、その間をπがつなぐ。 極限って高校では限りなく近づくって教わる
πは神秘っちゃあ神秘なんじゃないですか
その先はやはり哲学になる、数学に落とし込めるかはわからない 神秘的に感じるのは自由だが、数学操作の説明に神秘主義的な言説は不要
であり、有害である。奇妙な形而上学的な存在論と結び付けられるなら
なおさらのことだ。 なにをいっているのですか、
哲学にとって「数学」は神秘主義ですよw しまった、
× 哲学
○ 文系哲学
文系哲学にしないと意味をなさないw 実数の連続性の理解を困難にしているのは、連続性を示すための
数学的な操作の手続きではなく、その操作を説明する数学における
メタ言語において用いられる存在論的な詭弁なのだ。 >>748
コンピューターになら落としこめるのかも >>751
理系哲学にとって数学は落とし所だからね パターンとしては、数学操作を説明するメタ言語がまったく筋の通らない
ものであることを、人文系の研究者が批判し、その批判に対して、数学
の研究者の方は、人文系の研究者には数学の操作がまったく理解できない
のだと、数学の素養のない文系の人々を見下し、見下された文系の人々
の方は、(場合により、劣等感に動機づけられて?)自分にも数学の操作が
できることを示そうとして、数式によって数学の研究者による数学の
操作に欠陥があることを示そうとする無理筋なことをして、さらに
見下され、結局、どこにどのような問題があるのか双方が理解しない
まま、亀裂だけが深まるという状況が生じることでしょう。 そうやって深まった亀裂を前提条件として、数学者の側が稚拙な形而上学的な
存在論に対する信仰によって数学神秘主義の言説を自由に吹聴することが
できる楽園が出現する。 そして、著名な数学者や理系の研究者による数学神秘主義の言説を自らの
権威付けのために利用しようとする人文系の知識人が数多く登場するので、
状況はますます混沌とする。 ここにもやはり、Divide, Isolate and Controlという基本原則/導きの糸による
誘導が働いているのでしょうw クラインの壷なんかも、数学的に何の知識になるのか意味不明だから
あとは哲学が引き受けるしかないんだろうな >>759
まさか、トポロジーも知らないの?
コーヒカップとドーナツは、トポロジーでは同一で、「位相同型」だよ コーヒーカップやドーナツがクラインの壷と幾何学的に同相の写像だって数学の認知が
哲学的にどういう意味をもつのか、数学の知識では意味不明だって話なのはわかってる? 別に数学の知識で意味不明じゃないけど。だから、トポロジーの方法論が
量子デバイスの構築や電力消費の少ないトポロジー的な多彩な物性を利用した
エレクトロニクスや工学的応用に研究されているわけで、別にそこに
哲学的な意味付け無理に付与する必要はないだろう。別にやってもいいがねw
トポロジーは、相似や同型、位相、同値、全部、数学や幾何学の体系の中で完結しているので、そこに哲学的な意味を付加したがるのは、キミの特殊なニーズだから CRDS から、「トポロジカル量子戦略」を推進していく方向性として、以下の 3 点の仮 説について示し、
事前アンケート形式で招聘者の意見を聴取した結果、おおむね賛同の意 が得られた。
• トポロジカル物質はこれまで科研費などを中心に公的資金の支援がなされてきたが、
今後はそれを越えた目的基礎研究のステージでの研究開発を推進すべきである
• トポロジーや位相の概念を用いて飛躍的な性能向上を期待できる応用領域として、
量 子コンピューティング、スピントロニクス、フォトニクスが有望である
• 上記の仮説を実現するためには、物質科学のみならず、数学、素粒子物理学、工学との
協働により、基礎学術面の更なる深化・拡張および新物質探索の加速が必要である
トポロジカル物質における研究の現状と将来展望としては、現在、科研費新学術領域研究を
中心に基礎研究が進展しており、理論や超伝導・強相関系などの物質開発には強みを有する
ものの、弱相関系の物質開発においては米国や中国の人海戦術に圧倒されつつある こと、
また超低消費電力デバイス候補としてスキルミオンへの期待が大きく、欧州では複数の
研究プロジェクトが推進されている中でわが国は立ち遅れ気味であること等の懸念 点、
および戦略的な取り組みの重要性についての指摘があった。
さらに、トポロジカル量子ビット実現のためにはマヨラナ粒子の制御が必須であるが、
まだ最適な物質系が確立されていないこと、新しいトポロジカル物質を発見するためには、
理論提唱と物質開発の有機的な連携が必須であり、分野を超えた研究体制の構築が重要で
あることが確認された。 数学、素粒子物理から見たトポロジカル物質の理解としては、数学において発展してきた
K 理論や非可換幾何学などを用いると、秩序系のみならず、アモルファスなどの無秩序系の
トポロジカル相への展開が可能であること、素粒子物理と物性物理の共通言語である場の
量子論を用いることで、マヨラナ粒子などの非可換エニオンの存在条件や新しい種 類の
トポロジカル表面状態などを提唱することが可能になる。一方で、実際にどのような 物質系で
実現されるのかまでは素粒子物理だけでは提案できないため、物質研究者との共同研究が
必須であること等の指摘があった。
さらに、かつて素粒子物理と物性物理が互いに刺激しあって発展してきたように、
トポロジカル物質の研究に対しても、素粒子物理の アイデアが物性物理における
普遍的な枠組みを与え、また物性物理のテクニックを用いて 素粒子物理のアイデアを
テストできる可能性があることなど、互いに win-win の関係を 築ける可能性があることが確認された。 3 つの応用領域(量子コンピューティング、スピントロニクス、フォトニクス)への展 開に
ついては、まず量子コンピューティングに関して、量子誤り訂正技術を用いる量子情報的
アプローチとトポロジカル秩序を用いる物性的アプローチは共に背景にある数学的な構造は
同じであり相補的に推進していくことが望ましいことや、トポロジカル秩序においても
マヨラナ粒子を制御することで万事うまくいくわけではなく、熱的安定性などの検証が
必要であること等について指摘があった。また、上述のとおり、マヨラナ粒子に対しては
最適な物質系が未だ確立しているわけではないため、更に物質開発を推進していく必要が
あることが確認された。
スピントロニクスに関しては、今考えられているスピントロニ クス機能のほぼ全てが
トポロジカル物質で実現できる可能性がある点、トポロジカル反強 磁性体がもつ
仮想磁場を起因とする巨大異常ホール効果を活用することで、MRAM や熱 電素子に
ブレークスルーを起こせる可能性がある点、スピン軌道相互作用を用いたデバイ ス開発が
実用可能な範疇にある点等について報告された。フォトニクスに関しては、時間反転対称性が
保持されたトポロジカルフォトニクス、時間反転対称性が破れたトポロジカ ルフォトニクス
両方の現状が報告され、特に今後必要な取り組みとして、レーザや大角度偏光などの
アクティブ素子への展開が重要であること等の指摘があった。 K-理論(K-theory)は、大まかには、大きな行列を用いて定まる空間の不変量についての
理論である。位相空間やスキーム上で定義されたベクトル束で生成される環の研究に端を
発する。代数トポロジーにおける K-理論は、位相的 K-理論と呼ばれる一種の超常コホモロジー論
である。代数学や代数幾何学における K-理論は代数的 K-理論と呼ばれる。また、K-理論は
作用素環論においても基本的な道具である。 K-理論は、位相空間やスキームに対して環を対応させる K-函手の族を構成する。
これらの環は、元の空間やスキームの構造のいくつかの側面を反映している。
代数トポロジーにおいてホモロジーやコホモロジーといった群への函手を考えるのと
同様に、元の空間やスキームを直接調べるよりもこのような環の方が容易に種々の性質を
しらべることができる。K-理論のアプローチから得られる結果の例としては、ボットの周期性
(Bott periodicity)やアティヤ=シンガーの指数定理やアダムズ作用素(Adams operation)がある。 高エネルギー物理学では、K-理論、特にツイストした K-理論(twisted K-theory)は、
II-型弦理論に現れる。そこでは、K-理論が、Dブレーンやラモン-ラモン場(Ramond–Ramond field)の強さ、
一般化された複素多様体上のスピノルを分類すると予想されている。物性物理学では、
K-理論は、トポロジカル絶縁体、超伝導や安定フェルミ面を分類することに使われる。 比よりも先にまず値が存在するかのような説明の仕方をするから、
誰にでも直観的に納得できるはずのことも、とても分かりにくくなる。
円周率πを近似の精度を高めることも、固定された大きさの円を
まず想定するのではなく、測られる円の方がどんどん大きく
なっていくことをイメージするなら、数えることが増大するにつれ、
近似の精度が高まることが直観的に捉えられるはずであり、
直線上で数を数えるイメージと、円弧の大きさを測るイメージ
が一体化するように近づくことを無理なく理解することができる。
今では誰でも自分たちが丸い地球の上で暮らしていることを
知っており、それでも、その一方で平面上で暮らしていることを
実感しているのだから。 円が大きくなればなるほど、その円の円弧は、直線と区別が
つきにくくなる。ここまでは、誰にでも直観的に理解できる
だろう。すると、直線は、極めて大きい円の円弧を近似する
ことができると考えることができ、実際、円周率の値(あたひ)
を有限の精度で近似するとは、「相対的に考えるなら」
そういうことだろう。しかし、ここで思考の歩みを止めて
しまうとしたら、数学的にも、哲学的にも中途半端で
文字通りつまらない。 ライプニッツの公式であれ、ブラウンカーの連分数計算であれ、
それがどのように表現されるにせよ、円周率πを求める計算には
無限の手続きが関わっている。したがって、円周率の近似値の
精度を高めることを、測るために用いる直線の物差しに対して
円がますます大きくなっていくこととしてイメージするなら、
その円は、物差しに対して極めて大きいものであるとしても、
円周率が特定の近似値までに限定されて求められる限りで、
「円としての形」を有する。しかし、円周率を求める計算は、
「理想的」には無限に続けられ、無限大は値ではないので、
「理想的な円」は、円としての形を有し得ないことになる。
これが、よく聞く「完全な円は存在しない」という表現が
伝えようとしていることだろう。だが、この常套句を繰り返す
ことで満足するなら、思考の歩みはそこで止まってしまう。 バーゼル問題
(π^2)/6=1/(1^2)+1/(2^2)+1/(3^3)+・・・
の直観的証明
無限大の半径を持つ円が出てくる
https://m.youtube.com/watch?v=d-o3eB9sfls
ほんとは無限和の順番、勝手に入れ替えちゃいけないんだけど
URLがNGになってて貼れないけど、日本語の説明はバーゼルむかしばなしというタイトルのブログにある >>777
完全な円は存在しないってのは、コンパス使っても、パソコンで表示させても、完全な円にはならないってことだね 無限大は値ではないので、無限大の円は、「理想的」にも存在し得ない。
その一方で、「相対的」には、物差しに対して円が大きくなればなる
ほど、円弧は直線と区別がつかなくなる。
ところで、円とはどのようなものであり、直線とはどのようなもの
だろうか。円が円として認められるのは、始点から一方向に進んで
いるのに、進んでいるうちに始点に戻ってしまうことによってであり、
直線が直線として認められるのは、一方向に進んでいる、つまり、
方向転換したり、逆方向に戻ったりしない限り、いつまで進んでも
決して同じところを通ることがないことによってである。 無限大の円が存在し得ず、その一方で、円が大きくなるにつれ、円弧は
相対的には直線に近づくのだから、無限に続けられる円周率の計算に
おいて追い求められる「理想としての円」の円弧は、理想的には直線
であることになるだろう。これは、特定の大きさを有する円を想定して、
その円弧を「局所的に見れば直線に見える」というのとは似て非なる
ことである。むしろ、あらゆる特定の大きさの円が直線に解消される
こと、つまり、あらゆる反復が非反復へと解消されること、そこに
こそ無限に追求される円周率の理想の姿があるのではないか。 だから、円だろうが、三角形だろうが、林檎だろうが、ネイピア数eや
無限大、あるいは、自己でさえ、実体として存在するのでなく、
プラトン的なイデアとして存在している、と考えると納得しやすいんじゃないかな。
林檎っていっても、形も大きさも味も値段も色合いも熟度にも偏差があって、これが
完璧な林檎、なんていうものは世界のどこにもない。あくまで、イデア的に想定される
完璧な林檎の近似として、現実の個々の林檎を表象できるだけだ。
自己という概念もそうだよ。昨日のΠΠくんと、今日のΠΠくんと、明日のΠΠくんは、
細胞レベルでみても少し違うだろうし、脳に入力されている情報も異なることだろう。
俺が書いたこの書き込みで、ΠΠくんの思考にごくわずかでも変化が出れば、
同じ自己ではないと言える。つまり、そこには差異が混入している。
「ヘラクレイトスの川」もそうで、同じ川には2度と入れない。
つまり、完全なものは全部、イデアの中にあるということだよ。 たとえば、極限で有名な公式のひとつに、
lim(x→0)(1+x)^1/x = e
というのがあるけど、これも実際に極限の0近くまで誰かが順を追って実数で計算し続けたわけではないが、
それでも近似としては、十分、eに収束するということだろう。それにネイピア数自体が無理数なの
だから、完璧な計算などは、永遠にできないことは自明だろう。
だって、極限としての無限大や0を計算し続けて、それを完璧に確実なものにするには、
無限大の時間と空間が必要になるので、それだと永遠に到達不可、かつ、計算不能になってしまうから。
だから、無限大やΠ、ネイピア数、三角形、極限を実体として捉えないで、イデアとして捉えれば
論理的に整合しやすいし、また、納得しやすくなるのではないかな。たしかゲーデルも数学イデア論だった
と思うよ。俺も一応、その立場かな、と。 いや、別にイデアとして追求するのは別にいいんですよ。
ところが、数学のメタ言語では、そのイデアとして算術において追及する
行為が、イデアとしてあらかじめ存在することにすり替えられてしまう。 誤:別にイデアとして追求するのは別にいいんですよ。
正:イデアとして追求するのは別にいいんですよ。 その反転はちょうど、人々の平等で自律的な関係を求めて公平な取引き
の実現をその都度、理想として追求しようとする行為が、共産主義の理想が
既に実現されているものと想定して、定義により、現実の人々の関係
が必然的に平等で自律的であるはずのものと規定する行為にすり替えられて
しまうようなものだ。 そのすり替えにより、平等の理想を完全に理解している共産/自由主義エリート
が、それを不完全にしか理解していない人々、またはそれに反する破壊的な
行為をする人々に理想への適応を強制することが正当化されるという思想が生まれる。 lim x→∞ x*arctan(tan(π/x))=lim x→∞ x*sin(π/x)
https://www.wolframalpha.com/input/?i=lim+x→∞+x*arctan(tan(π%2Fx))%3Dlim+x→∞+x*sin(π%2Fx) 数学的な思考の肝の一つは、直観と論理が異なることに対して明示的に
なるということだろう。たとえば、人間の直観から判断すると、
1 = 0.999999999.........
という等号の関係は、間違っているように見える。が、これを
数学・論理的に変換して記述してみると、たとえば、
s = 0.999999999......... と置くと、
10s = 9.99999999.........
10s - s = 9s = 9
よって s = 1 となるので、1 = 0.999999999......... となる。
別の方法だと、
1/3 = 0.333333333......... この両辺を3倍すると
1 = 0.999999999......... となって、上記の場合と同様の結果となる。 そりゃあ、・・・、の意味を知らないから、
・・・とは、ずっと続けていく、続けていくことができる操作のこと。(僕は可能無限派)
0.999・・・は、初項0.9、公比0.1の等比数列の無限和だから、
0.999・・・
=0.9+0.09+0.009+・・・
=Σ[n=1→∞]0.9×(0.1)^(n-1) ※無限和で書いた
=lim[n→∞](0.9(1-(0.1)^n))/(1-0.1) ※無限等比数列の和の公式
=1
となるね。
こう書くと、実無限派に見えそうだけど、最後の=は他の=と違うと思ってる
無限大の半径を持つ円とか言ったけど、本当は、円の半径を限りなく大きくしていくことができる、ということだな 「実無限」と「可能無限」は、「円周率(π)」を使った説明が理解しやすいだろう。
「実無限派」は、「πのすべての桁の数字は決まっているのだが、人間がまだ計算
できていないだけだ」と考える。つまり、「無限を実体のあるものとして捉える」と
いう立場だ。しかし「可能無限派」は違う。彼らは、「πは、人類が計算できた桁までは
存在するが、その先の桁については分からない。しかし、その先の桁も計算できる
という可能性は無限である」と考える。つまり、「存在するのは、可能性としての無限だけである」
という立場なのだ。 「選択公理」における問題でよく遡上に載るのが、「無限回の選択」を行うという
操作が、そもそも可能なのか、ということだったよね。1回の選択に、ごく僅かでも、
たとえば、ナノ秒単位以下でも時間を要するであれば、無限回の選択に要する時間は
無限大の時間、すなわち永遠となって、「選択公理」自体に破綻やバグがある、という問題系。
だから、極限や無理数を扱う場合も、基本は近似として想定しておけばよいと思う。
つまり、「可能無限」と考えておいて現実的に数学を扱う分には問題ない。
純粋なイデアの世界であれば「実無限」を想定してもいいだろう。
プログラミングで計算したって丸め誤差があったり、言語の仕様の違いで値が
若干異なることもあるので、特定の公理系やある計算言語や論理の体系内部で
整合していればよい、と考えておけばいいんじゃないかな。 >そりゃあ、・・・、の意味を知らないから、
・・・とは、ずっと続けていく、続けていくことができる操作のこと。
無限等比級数の和の公式を使っても事情は>>789同じでしょう。
∞までの項なんて、実際には誰も計算したことはない。公比のrがr<1
の時は、n乗のnが∞になる場合、0に収束するという性質を仮構することで
計算を大幅にショートカットして、無限等比級数の和の解を示しているだけで、
実際は、∞の項の等比級数の和を枚挙的に数え上げて計算したわけではない
もし、無限大の項まで枚挙していけば、時空は無限に必要になって、記述不可能になる。
だからゲーデルは未知のものも含めた全数学体系Wに対して、そこからかなりを割り引いた、
人間にとって記述可能な数学体系である構築可能集合Lを考えた。この人間にとって
記述可能な構築可能集合Lの中で無矛盾になるように、選択公理を使用すれば問題が
発生しない、ということにしたのだろう。 宇宙は局所的事象である、と、思いついてから、
可能無限も実無限も、ひとつではないのか、と考えている。
可能無限と実無限は相互排他的な概念ではないのだろう。 たとえば、極限の操作でnを無限大にまで近づけると、その極限値が0となる
式があるとしよう。上にある式の中だと、(0.1)^n の極限値が0に収束するけど、
そもそも収束した値0と、通常の値がキャンセルされた値0とは量が違うし、
等価ではないだろう。
収束した値0は、あくまで0へと限りなく近づいていく時の値であって、厳密に
言うと0ではない。だから、ここにごく微量の誤差のようなものを認識できるわけで、
それでも、その誤差は無視しても構わないというルールになっていて、ここに一種の論理的な
ジャンプがごく微量ながらあるのではないだろうか。ε-δ 論法もそうで、εは無限小ではないので、
どこまでもより小さな値ε‘を取ることが出来て、この無限に続けられる一連の操作には果てと
終わりがないはずなのに、数学の体系では有限な範囲で記述可能、計算可能としておく。 あと、無限大という概念に対応する現実の存在物が全く見当たらない、というのも
この辺りの論理を不明瞭にしている感じがする。
1個のリンゴであれば、見ることも、触ることも、イメージできても、
無限個のリンゴは、見ることも、触れることも、イメージも出来ない。
宇宙に果てがなければ、それが唯一の無限の現実的対応物になりそうだけど、
そんなものは、たとえあったとしても、実地で確認しようがないので、
やはり、無限大というのは、かなりフィクショナルな抽象的存在だと言えるの
ではないかな。でも、無限大の概念を取り入れて整合する論理が見られるので、
それを使っているのだから、全くの架空の無意味で非現実的な存在というわけでも
なさそうだ。 >収束した値0は
∞が値ではないように、∞に対する比として現れる0も値ではないだろう どこから始めてもしま(仕舞/終)ひには始めに戻ること、すなわち、
反復することによって認められる円という形が、絶対的に理念化
された場合、決して反復することのないこととして認められる
直線と合致することの哲学的な意味は極めて重要だろう。
いかなる意味も相対的な反復(数学を隠喩として用いるなら、
相対的な大きさの認められる円)によって構成されるので、
あらゆる意味は、その絶対的な理念化において、無意味へ
と解消される。例えば、時間は、相対的な反復としてのみ
意味を有し、「絶対的時間」として直線と合致するものと
見做されるなら、意味を失うことを考えてみるといい。 理念的な円は、素数によって構成されるというより、反復しない素数に解消される
のだろう。 言い換えるなら、いかなる意味も、反復しないこと、すなわち、
無意味を背景として、相対的な反復としてのみ現れる。 自らが有意義な人生を送っていると感じられているなら、カルマなど必要ないのである 出来事は相対的な反復に対する干渉として現れる。
言い換えるなら、干渉される側の反復において意味づけられない
からこそ、出来事として出現すると言える。その出来事が
出現した意味を、相対的により大きな反復において特定
しようとすることが、出来事の因果関係を見出そうとする
ことだろう。 メタ言語によって適確に記述する必要があるのは、錯覚による取り違え
を利用した詐欺/誤誘導に騙されないようにするためなんですね 有意義な人生を送るとは、自らが生きることに何らかの特定の意味を見出す
ことではなく、生きることの意味を求める必要性を感じないことだろう。 再現性(reproducibility)とは、同一の特性が同一の手法[注釈 1]により発現するとき、
その結果の一致の近さのことである。 例えば、同一の手法を測定条件の変化した状況に
対して適用することで、結果が測定に由来する人工産物でなく、再現性があると確認できる。
関連する概念は複製可能性 (replication) であり、サンプル・研究手順・データ分析手法に
違いがあるとき、少なくとも類似しているが同一でない結果を、独立して達成する能力を
意味する。
再現性と複製可能性は共に「科学的手法」の主要な信念である。再現された測定値は、
研究者によって提供された生データやコンピュータ・プログラムに基づいていてもよい。
再現性の研究は、メタサイエンスにおいて、重要なテーマである。対立概念は、
事象が再現しないことであり「一回性」「再現不可能性」などと呼ばれる。 異なる実験から得られた値が、同様の再現性のある実験の説明と手順にしたがって
得られたとき、「commensurate(相応する])」という。特定の実験的値は、
異なる場所・異なる人物により複製された標本で測定された値または観測値に
高い一致度がある場合、すなわち、実験値が高い精度を持つと判断できる場合に、
「再現性がある」と言う。どちらも再現性の重要な特徴である。 再現性は、科学実験に限定すれば、「実験を繰り返したときに一貫した結果が得られる程度」
とされる。 例えば、ある科学雑誌Nに、科学者Pによって発表された ある科学論文に
「対象XをxグラムおよびYをyグラム用意して、Cという条件や手法を用いてaという
温度まで加熱するという実験を行ったら、Mという物質がmグラム生成した。」などと
書かれていた場合に、別の実験者QがXやYを同量用意し、Cやaを当該論文と全く同一に
なるようにして実験を行った場合に、Mという物質がmグラム生成する結果が得られたのは、
何回中何回なのか(100回中96回なのか、100回中10回なのか、100回中0回
(1回も再現しなかった)なのか、という程度を示す概念である。
また、Mという物質がmグラムでなく、nグラム生成し、論文とは何パーセント異なる量で
生成したのか、何割程度異なる量でしか生成しなかった、というような程度も指しうる 「狂気とは即ち、同じことを繰り返し行い、違う結果を期待すること
(The definition of insanity is doing the same thing over and over and expecting different results)」
アインシュタイン 私や意識は、一回性の魔法なので、科学的な手法では扱えないのかも 斉一性の対立概念として、破局性というのを導入したい
なんか哲学っぽいね
ペアノの公理による自然数の定義は斉一性があると言ってもいいけど、
破局性による自然数の定義もあっていいと思うんだ、 ある七面鳥が毎日9時に餌を与えられていた。それは、あたたかな日にも寒い日にも
雨の日にも晴れの日にも9時であることが観察された。そこでこの七面鳥はついに
それを一般化し、餌は9時になると出てくるという法則を確立した。
そして、クリスマスの前日、9時が近くなった時、七面鳥は餌が出てくると思い喜んだが、
餌を与えられることはなく、かわりに首を切られてしまった。
ラッセルの七面鳥の寓話 帰納の欠点は、下記の3つである。
・事実の理論負荷性。ノーウッド・ラッセル・ハンソンによって提示された。
その事実の成立を可能とする理論的文脈や社会的背景なしに、事実は存在し得ない。
・「思い込みや先入観のない事実」は存在しない、絶対的客観性はあり得ない、ということである。
帰納の前提となる事実は、完全には信頼できないものである。帰納の飛躍。
ジョン・スチュワート・ミルによって提示された。どれだけデータ(事実)を集めても
その数は有限であり、無限の事柄を言い当てる全称命題は導出できない。帰納には、
有限から無限への無理な飛躍がある。
・簡潔性原理の前提。「自然法則は簡潔な構造を持つ」ということを前提にしなければ、
帰納は集められたデータから一意的な決定ができない。複数の法則に帰結するようで
あれば帰納は意味をなさないが、実際は多様性につきまとわれる。そのために、
簡潔な法則を選択するという前提があるのだが、その原理自体を帰納では証明できない。 数学のメタ言語は、最初の一歩から歩を誤っているのだろう。
1をまず数と見なすべきではなく、まず等さが認められて、
その等さという性質が1として数えられると考えるべきだろう。 等さがまず認められて、等しいもののうちの1つとして数えられるから、
等しい2つのものに対してさらに別の1つとして3が数えられることが
可能なのだろう。 寓話的に数だけでできた世界を考えるとしても、1そのものは
何も現れていない状態であると言わざるを得ないだろう。
1/2または2/1として現れて初めて、1が数えられたと言える。
0は、何も存在しない無ではなく、その数えられた数の不在
として姿を現す。 哲学的な言説においても、しばしば、1が存在することを表すものと
見做され、0が存在しないこと、さらには何も存在しないこと、つまり
無を表すものと見做されるが、そのような捉え方が生じるのは、
既に、何かが数えられるものとして存在することを前提として
いるからである。しかし、数だけでできた世界を寓話として用いて
考えてみても分るとおり、特定の数は、比において、それがどの
ようなものであれ、分子と分母において互いに等しいものが
約分された結果として1となって、つまり、「×1」として
姿を消して現れているのだから、何かが存在者として現れて
いる背景の無も、何も存在者が現れていない状態の無も、
不特定の等しさとしての1によって表されるものと考える
べきだろう。その場合、「×0」は、「無視する」こと、
"qualify as negligible"を表していると考えることができる。 反復される等さを厳密に単位として特定しようと追いかけると、
反復されないものとしてπが姿を現す、と言えるのではないか。 "all other conditions being equal ..."
無論、目に見えて変化する条件は、変化しないようにコントロールするが、
変化しない他の条件については不可知である。この"being equal"が
背景としての1であり、無である。 https://www.youtube.com/watch?v=DH0Mb2Gda9I
multiplicate por 0
「お前自身にゼロを掛けろ!」というのは、
「失せろ!」ということになる。 r=1 の単位円の方が分かりやすいと思うのだけど
たとえば、1の3乗根だと、解が3つになるので、座標(1,0)を2/3Πずつ移動させた
地点の座標になって、それは、半径1の円周上に存在する座標にあるので、
イメージがしやすい。半径1の円周上の [ 1, (-1±√3i)/2] の3地点が1の3乗根の解 既に単位が存在することを前提とする時点で哲学ではない 哲学的には、むしろ、こう考えた方が面白いんじゃないかな。
人は、日常的には、近似された比としてのsin(π/x)/cos(π/x)=tan(π/x)
の世界で生きている。つまり、cos(π/x)、sin(π/x)を近似として確定した数え
られた数として扱う比としての、有理数として近似されたtan(π/x)の世界に
生きている。その一方で、理念的には、cos(π/x)、sin(π/x)の数値は、
より細かく数えることによっていくらでも近似として精度を高めること
が可能であり、理念的な実数の連続性の世界として見た場合、
lim x→∞ x*tan(π/x)=lim x→∞ x*arctan(tan(π/x))として、
有理数による近似の世界、つまり、直線的な世界が、有理数の世界に
おいては、円として表象されて現れる実数の連続性の世界と合致する。
https://www.wolframalpha.com/input/?i=lim+x→∞+x*tan(π%2Fx)%3Dlim+x→∞+x*arctan(tan(π%2Fx)) さらに、この考え方は、人/1、つまり、sin(π/4)/cos(π/4)=tan(π/4)=1
の秩序を4という数を代表する正方形によって表し、人から見た天の秩序を
円、lim x→∞ x*tan(π/x)=lim x→∞ x*arctan(tan(π/x))=πによって
表す、きわめて広く見られるコスモロジーとも合致するのではないでしょうか。 円弧によって描かれるものとして円形が現れるのは、人が、有限の近似された
比の世界、つまり、相対的な世界に生きているからであると言えるのではないか。 逆に言えば、哲学的には、単位円がまず存在するなどという想定から思考の歩み
を始めてはならないのだ。 地球は丸い。地球は回っている。
科学的な知見としてならそれでいいだろう。
しかし、哲学であれば、なぜ丸いものは丸いものとして現象するのか、
丸いとはどのようなことか、回るとはどのようなことかを問い直さなければならない。
そうするのは、別に、哲学が科学的な知見を否定して、地球は平らである、
地球は不動であるなどと主張するためではない。 暗黙の根拠を問い直すことを、その根拠による主張の否認と
同一視して、二項対立的な反目を煽るのは誰か?
そのような煽りには、どのような動機づけが働いているのか?
それを問わなければならないだろう。 そんな観点を問題視しているちっぽけな自分から問いたださねばならないということだなw >>829
実際、日本語の「天(あま)」は、「あ(far)+ま(round)」と解釈する
ことができ、古代日本のに多大な影響を及ぼしたであろう中国の
コスモロジーにおいても、天は○によって、人の住む地上は□に
よって表象されたのだから、日本の古代の前方後円墳もその天
と地の関係を平面に移し変えて表している可能性が考えるだろう。
そのような○/□の関係で見たとき、前方後円墳は、π/4を表象
しているようにさえ思えてくるw 「町」という漢字を見ると、この漢字は、面積の単位を表すのに用いられ、
「田」と「丁」から構成されている。「田」の形を見ると、正方形が
4つに区分されている。「丁」という漢字は、賭博の「丁半」において
偶数を表すのに用いられるが、「zhēng」という中国語の発音において
は直角を表すのに用いられる「正」と共通であり、甲骨文字においては、
「□」によって表されているとされ、実際、中国語辞典には、
以下のような用例が記載されている。
(〜儿)肉・野菜などをさいの目に切ったもの.⇒肉丁 ròudīng .
用例 肉丁儿=賽の目に切った肉.
黄瓜丁儿=さいの目に切ったキュウリ. >>825にある1の3乗根だけでなく、複素平面上で動くオイラーの公式をイメージする
際にも、半径rが1の単位円である方が容易にそれをイメージしやすいだろう。
e^(i Θ) = cosΘ + isinΘ <オイラーの公式>
Θがπ/2の時は、e^(i (π /2))= i
Θがπの時は、e^(i π )= -1
Θが3π/2の時は、e^(i (3π /2))=- i
Θが2πの時は、e^(i (2π))=1
こんな感じで、オイラーの公式でも、半径rが1の単位円にある円周上で
複素数を考えた方が、その値が円周上で綺麗に得られるので、数学的に
エレガントになって美しいのではないかな。 オイラーの公式は複素解析をはじめとする純粋数学の様々な分野や、電気工学・物理学などで
現れる微分方程式の解析において重要な役割を演じる。物理学者のリチャード・ファインマンは
この公式を評して「我々の至宝」かつ「すべての数学の中で最も素晴らしい公式」だと述べている。 lim x→0 (sin(x)/x) = 1
これも極限で有名な公式で、1に収束する 初項a, 公比をr とする無限等比級数の公式は、
a/(1-r) [ただし、|r|< 1 ] 無限等比級数 1 - 0.1 + 0.01 - 0.001 + 0.0001 ・・・・・・ の和を求める場合、
公比rは、r = - 0.1
>>841の公式から
S = 1 / (1 - (- 0.1) )
= 10 / 11 (解)
10/11は、0.909090・・・と続く循環小数になるので、連分数で
既約分数として構成できる値となる。シンプルで、かつ、エレガントな公式 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191128-01623145-sspa-soci
「落第はかわいそう」という思想が子供にとって一番の不幸/ひろゆき
俺、ひろゆきのことは好きだけど、この意見には少し反対かな。出来る人は、
放っておいても出来るので、別にそんなに過剰に配慮しなくてもいいんじゃない。
底上げの方が大事なので、出来る人は、出来ない人に分かりやすく教えて上げれば
いいと思う。苫米地英人のようにアメリカの大学へ数学だけで飛び級で進んだ人も
いるけど、今はコーチングとか、下らない、怪しいことやっているだけでしょう。
その能力で、周りの人間にやさしく数学を教えてあげた方が、どれほど社会全体に
とってメリットがあることか、ということで、格差を広げるような飛び級は、
少なくとも日本人向きの教育システムではないだろう。
飛び級で学力の格差を広げるのでなく、習熟度別のカリキュラム(補習)なども活用しつつも、
全体の底上げする方が利点があるように感じる。出来ない人がなぜ出来ないのかを考えることで、
教授法などに問題があって、それが一部の人間に理解を阻むことになっていることなどが判明する
かもしれないし。出来ない人間を切り捨てる発想でなく、なるべく掬い上げる発想の方が
社会全体の幸福度も上がるんじゃないかな。 数学ポエマーの人が1は等しさを表すとポエム的に言っていたから、
代わりに1に関連した数学的なまともなことを提示してくれてるんじゃないの? 実数の連続性の理念は、決して実現され得ない。微分積分を用いたところで、
実際に数値として算出されて実現されるのは、近似である。実現されるもの
は、それが何であれ、理念を前にして常に不完全である。
では、そのように不完全に実現されるものが、突きつけれれている「現実」
であり、理念は、仮想に過ぎないのか。しかし、それでも、それなりに
うまく実現された近似は、理念に「現実に導かれている」のではないか。
そうでなければ、実現された近似を「近似」と呼ぶことはできないだろう。
すると、理念の方が、決して実現されることはないものの、まず先に
「存在する」はずの「真実」であり、実現される近似の方が、その似姿、
いわば、「真実の影」である、というのが、よく見られる数学者が考え、
信じるところの「プラトン主義的存在論」だろう。 確かに、実現される近似は、理念に導かれている。しかし、それは、
実数の連続性と微分積分の計算の場合もそうであるように、実数の
連続体がまず存在し、その連続体に実数が数として実在すること
によって、それを近似する計算が成立しているのではない。
そうではなく逆に、近似する行為が、現実にそれなりにうまく
いくことを通して、理念の「正(ただ)しさ」、つまり、理念と
されるものに「触れている」という感覚が立ち現れてくるので
あり、そのような感覚を生じない近似の試みは、近似ではないもの
として棄却されるのだ。言い換えるなら、実現される近似、
それを「現実」とするなら、現実は、仮説/設によって理念
に触れるのであり、その仮説/設的に触れることによって理念
が立ち現れてくるのである。したがって、近似が理念によって
導かれているとするなら、理念も、仮説/設的な試みを基礎
とする実現された近似、すなわち、「現実」によって導かれ、
形づくられていると言わなければならないだろう。 連続か離散か。どちらも実在ではない。
連続は離散の一形態であり、離散は連続の一形態である。
連続と離散をひとつにしたものが本来の数である。
実在するかどうかなどさておいて、これを哲学的数としようw
この哲学的な数対象を語る方法には、とりあえず、
文系哲学的なものと理系哲学的なものとの、2つのアプローチがある。
2つのアプローチの大きな違いは、「本質」の取り扱いかたの違いである。
本質にたどり着こうとするか、本質にはたどり着けないとするか。 経済数学と物理生物化学地学天文学気象学のカリキュラム作成なんて哲学者じゃ無理だ。理系を孤立させないで雇い入れる方がいい。 数学はどこまで行っても形式論理でしかないと認めざるを得ないね。 数式が象徴やら暗号コードなら形象とかはあると思う。 関数の次元的図形象なんて面白いテーマだ。当たり前だ普通だが飽きずに面白い。 >>840
教科書をコピペしただけでは、面白くもなんともないだろう。
こう書き換えたほうがずっと面白い。
lim x→0 sin(x)/x=
lim x→0 arctan(x)/tan(x)=
lim x→∞ arctan(π/x)/tan(π/x)=
lim x→∞ tan(π/x)/arctan(π/x)=1 あ、lim x→0 sin(x)/x=の後に
lim x→0 tan(x)/ arctan(x)=
を入れたほうが良かったな。 あ、間違えたのやり直し。
lim x→0 sin(x)/x=
lim x→0 tan(x)/ arctan(tan(x))=
lim x→0 arctan(tan(x))/tan(x)=
lim x→∞ arctan(tan(π/x))/tan(π/x)=
lim x→∞ tan(π/x)/arctan(tan(π/x))=1 数式が何を表現することを意図しているのかを理解したなら、
それを書き換えることは容易だ。その意味では、
lim x→0 sin(x)/x=1
は、簡単な表現に見えるものの分りにくく、不親切だろう。
それを
lim x→∞ arctan(tan(π/x))/tan(π/x)=
lim x→∞ tan(π/x)/arctan(tan(π/x))=1
と書き換えて見れば、やはり、1が表しているのは等しさである
ことが容易に見て取れる。 数学関係のTwitterの書き込みを見ると、学校の算数で掛け算を教える
ときに、数学的にまったく根拠がなく、正当化されない掛け算の順序の
固定が強制されていることが批判されているのをよく見かける。
理屈の通らないことを強制することは、数学を技能として身に付け
させるという目的に照らして合理的に考えるなら、批判されてしかる
べきことだが、よくもまあこれだけ下らない議論をしているな、
という印象を拭えない。さらに言えば、数学を専門とする人々が、
数学の技法を伝えるのに適切なメタ言語による表現を見出すための
取組みを怠ってきたのだから、自業自得だろうとさえ思う。
理屈の通らない指示に従うことを、賞罰という動機付けのみによって
強制することが、指示を受ける側の自主性を破壊することは論を
俟たない。しかし、数学の技法を教えるのに、それをメタ言語に
よって適切に説明することのないまま、操作の反復訓練だけを
させるのも、意味不明な指示に従うことを、賞罰という動機付け
のみによって強制することになり、やはり同様に、指示を受ける
側の自主性を破壊する。そのうえ、数学者による数学の解説書
などには、掛け算の順序の固定と同様に根拠の不明な、形而上学
的な数の存在論を前提とした言説が当たり前のように繰り広げ
られているのだから、なおさらのことである。 哲学的に見れば、掛け算の順序の固定において、数量単位の決まった事物×数
を強制するのも、数える前から数が存在するという形而上学的な信仰を押し
付けるのも五十歩百歩だろう。「五十歩百歩」というのは、既に数えられた
ものは、「数」としては違っても「質」としては同じだ、という表現である。 lim x→0 sin(x)/x=1 は、直観的にはイメージしづらからこそ、公式のようなものと考えて、
それを覚えておけば、あとで再利用出来るのだよ。加法定理にしても、オイラーの公式に
してもそうだ。数学はイメージしづらい関係を公式や方程式の形に落とし込んで保存しておき、
それを鍵とすることで、より複雑な式の解を求めるにあたって、その鍵をいくつか利用する。
だから、基礎となる鍵や鍵の意味が分かってなければ、式を変換できないので、いくら考えていても
数学の問題は解けないし、答えも合わない。公開鍵を使って、暗号読解するのが
数学のやっていることの一つだ。 だから、数学に取り組む時には卑小な我を立てて尊大に問う(中二病患者)のでなく、
我を折る、つまり、無我(大人)になって、数学宇宙の純粋なプロセスに身を任せていく
ようにした方が、その世界と調和しやすくなるだろう。論理と機械的なプロセスの流れ、
あのように複雑に見える対象間の数学的な整合性がなぜ、得られるのか、などを考えて
みる方が、中二病的な反感や反論よりも、よほど有意義な問いにもなるだろう。 いくらレトリック駆使しても、地球の裏側や月まで行けないのに対して、
数学や物理学を正しく用いれば、ロケットで月や地球から約3億2000万kmの距離の
離れた小惑星イトカワまで到達できる。 レトリックを駆使すれば、月面に軟着陸ができたり、大規模なロケット発射台
なしに月面からロケットを発射できるのかと思ったw たとえば、関数 y = f(μ) , μ = g(x) で表される時、f(g(x))は2つの関数f,gの合成関数となる。
f(μ)とg(x)がそれぞれ微分可能な時、この導関数は連鎖律として以下のような合成関数の
微分公式で求められる
∂y/∂x = (∂y/∂μ)(∂μ/∂x)
このように、微分計算が分数のように約分できるのは、無限小の世界では曲線が直線とみなせる
ことから生じる性質による。つまり曲線の関数f(x)が導関数(f‘(x))である接線の傾き、
すなわち直線で表せるために、分数のように∂x,∂y,∂μ を計算できる。
では、∞だとどうか。このスレで誰かが無限大の、あるいは無限大に近づく円周は直線の
ようなものと表象されると述べていたが、実際には ∞/∞ は NULL すなわち計算不能となるので、
微分計算の無限小の時のような約分や分数計算が出来ないことが分かる。すなわち、上記の意味では、
∞の円周は直線とはみなせない、とするのが正当な理解ではないだろうか。仮に∞/∞ が1として表せれば、
そこに直線のような関係や構造を有する円周をそこに想定してもいいが、実際には∞/∞には、
無限のパターンが想定されるので、NULL、すなわち計算不能という扱いになるのだ。 >>866
詭弁だな。例示した計算において∞/∞のような関係は一切、用いていないのだから。
教科書のコピペしかやっていないから、例示した表現の意図を理解することが
できない。 >数学に取り組む時には卑小な我を立てて尊大に問う(中二病患者)のでなく、
>我を折る、つまり、無我(大人)になって
数量化して考えて見れば、「我を折る」ことを、「無我(大人)になる」
ことと見做すような捉え方が、「卑小な我を立てて尊大に問う」こと
であることがすぐに理解できるはずだろうw 「我を折る」という表現において、「折る」を英語にすれば、"to give in"
だろう。誰に対して「折る」のかと言えば、「人」に対してであり、
"to give in to others"ということになる。ここで、英語では"others"
という複数形で表現されるが、この複数形は、不特定性を表している
のであって、単数 vs 複数の関係性を表しているわけではない。
したがって、「我を折る」を日本語に戻して数学記号を利用して表現
するなら、「『我<人』であることを認める」と言い換えることが
できる。ところで、日本語で「我」は既に「大人(うし)/主(ぬし)」
との対比において、"minor" vs "major"の関係にある表現である
だけでなく、対等性を表すものとされる「人」に対しても引け目の
ある存在、"less than one" vs "one"の関係にあるものとされる。 人(ひと)は、「等しさ/1」(語源的には中国語の「匹」に由来するだろう)
を表す表現なので、「人」=1と考え、同様に「我」も数量化して(quantify)
考えた場合、「人」=1=e^0とするなら、「我」=e^log(我)と表現する
ことができ、ここで、我<人の関係にあるのだから、log(我)<0、すなわち、
log(我)は、負の値となることが分る。 では、どのようにして、当初より卑小な存在である「我」が、
「我を折る」ことによって「無我(大人)」になることが可能なのだろう。
「無我(大人)」と表現されているが、「無我」と「大人(つまり、
人より大きいこと)」は矛盾しないのか。この一見したところの矛盾
はどのように解消されるのか。それを、やはり、数量化して考えて
見るなら、それは、まさしく、「卑小な我を立てて尊大に問う」
ことによってであることが分るはずである。 まず、「我を折る」、つまり、我<人によって無我になる関係を考えて
みよう。我と人との対比は、e^log(我)/e^0と表現することができ、
ここで、我=e^log(我)が無になるとされるのであれば、その表現に
おいて意図されているのは、負の値であるlog(我)を-xと置き換えると、
im x→∞ e^(-x)/e^0=0ということになるだろう。 では、なぜ、そのように無我になることが、「大人(つまり、人より大きい存在)」
になるのか。無我=0<1=人なのだから、人=1<0=無我=大人というのはあり
得ないのではないか、という疑問が生じる。そのあり得ないはずのことがなぜ
可能になっているのかを解く鍵は、「数学宇宙の純粋なプロセスに身を任せていく」
という表現にあるだろう。ここで反転が生じているのである。
「数学宇宙の純粋なプロセス」がどのようなものか不明だが、それが、
e^log(数学宇宙の純粋なプロセス)=e^log(α)と表現されるとしよう。
すると、lim x→∞ e^(-x)/e^0=0を反転させて、さらに、e^0
の代わりにe^log(α)を入れると、「数学宇宙の純粋なプロセス」
=αがどのようなものであれ、lim x→∞ e^log(α)/e^(-x)=∞
ということになる。 まずは、中二病患者的な我(≒オタ芸or場末の酒場にいる窓際リーマンの薀蓄)を折って
大人へと人間的に成熟することから、純粋な数学宇宙への旅は始まると思う。
入り口で脇道やポエムに逸れていては駄目だ。ファンタジーの銀河鉄道999でさえ、
助走用の軌道をちゃんと用いているだろう。いきなり広大な数学宇宙に旅立てると
考えてはならない。中二病的な甘えを断つことから始めよう。 さて、ここで、無我がlim x→∞ e^(-x)=0として捉えられているのは、
「数学宇宙の純粋なプロセス」に対してであって、既に「人」に対してでは
なくなっていることに注目する必要がある。さらに、log(我)=-xは、
負の値であるが、我=e^log(我)=e^(-x)は、正の値であり、さらに、
我は、「無我」になって、それにより「大人」になっているのだから、
人=1=e^0<e^log(無我)=大人、ということになるだろう。 物事にはルールと規則というものがあって、数学の宇宙では
> 無我=0<1=人
のような式は、はなから存在し得ない。それは狂人や精神病患者、ファンタジスト、
中二病患者とポエマー、薬物ジャンキーだけにあるような特殊な個人的な宇宙だろう。
サッカーの試合をやっている際、そこに一人の基地外バスケのルールを恣意的に挿入して、
手でサッカーゴールへシュートし始めたら、サッカーの世界がゲームとして破綻するように、
その宇宙で許されていないことを恣意的に持ち込んでしまうのは禁忌なのだ。
数学の宇宙では、ゼロ徐算でさえ禁止されている。だからプログラムで誤ってゼロ徐算を
使ったことで甚大なバグとなった事件もあった。
ポエムであれば > 無我=0<1=人 のような表現は許されるであろうが、
数学ポエムの宇宙と純粋な数学宇宙では、金メッキと純金くらいの質的差異があるのだ。 だが、これでは、「数学宇宙の純粋なプロセス」 と「無我/大人」と「人」
の関係において、数量化として筋が通らない。そこで、それをあたかも筋が
通るかのように思い込ませるトリックが必要である。それが、「無我」、
つまり、lim x→∞ e^(-x)=0とした我が身を、「数学宇宙の純粋なプロセス
に身を任せていく」ことのできる「人」と捉え直すことによって、それが
できないと自分が見做す他者を見下す「尊大な」立場をとることである。
つまり、e^log(無我)=0ではなく、log(無我)=0、すなわち、
e^log(無我)=e^0=1=人とする置き換えだ。それにより、他者を
e^log(他者)と表現するなら、log(他者)<0とされ、
e^log(他者)<人=e^log(無我)という関係において、「数ならぬ者」
として自分が尊大に見下す人々に対して、自分が「相対的」に「大人」
であるとされるのである。 理系の天才のダ・ヴィンチを考えてみても分かる通り、
数学的な整合的宇宙と美の宇宙は、つながっている要素がある感じ
がする。黄金比でもいいがね。だから、あえてポエム的にそれを
表現すれば、「エレガントな数学は、美そのものである」とも言えそうだ。
ダ・ヴィンチの展覧会とかたまにやっているけど、そこで展示されている
オブジェや絵画、ギミックは、数学やそこから作り出された設計図そのもだよ。 私は、>>863の書き込んだポエムに関して、どのような数量化の隠喩が
働いているのかを推察しているだけですが? もとより、私は、「無我になる」とは、ここで用いた数量化の隠喩を敷衍
するなら、自分をゼロにすることではなく、その都度、与えられた状況に
おいて、自らが、人、すなわち、e^0=1であろうとすることだろうと
思っています。1であることにおいて、現象するプロセスからは姿を消す。 自らは1だと思い込んで現象するプロセスから姿を消せているつもりの中二病だと認めたくないんだろう この数学スレでは、等しさを表すものとしての1にこだわっている者が
いたから、俺は0に少し触れてみようか。
0から連想するものは何か。たとえば、空集合Φであれば、要素を1つも
持たない集合のことになるので、それは0に近い無の内容を持つことだろう。
絶対零度であれば、セルシウス度の−273.15 度のことで、それは絶対温度の
下限として、理想気体のエントロピーとエンタルピーが最低値である状態
を示す。デカルト座標の(0,0)なら原点Oを表す。ニュートラルも0として
表わせそうだ。「タブラ・ラサ」であれば、それは「白紙」となるので、
0に近いイメージを持てよう。つまり、物事や座標の基準線・基準点となる
表象のことを0と考えてもいいだろう。 この観点で考えると、0を欠いた宇宙というのは、原点の欠けた座標や
基準のない評価系のようなものになって、その世界像や宇宙像は、どこか
統失患者が示すような表象のバラバラになった不安定な外界の描像になる
のではないだろうか。そうした疾患は、たとえば形態のセンス・データで
とらえるべき対象を音で感受したり、触感や嗅覚で感受する香りとして
感覚したりするのかもしれない。
つまり、原点としての0が喪失しているので、客観的な座標系が揺らぎ、
そこに表象の揺れや外界の表記の揺れが生じているのではないだろうか。
この状態を美術的に昇華できれば、それは草間彌生のようなアートになる
のかもしれない。
正常な感覚モダリティの分岐が乱れたり、そこに捻じれや錯綜、エラーが
生じることで、幻覚的な表象がそこに生み出されるのだろう。霊が見える
人も、通常の感覚モダリティとは異なる状態で外界を捉えている可能性が
ありそうだ。大麻や薬物もそうした非正常系の表象を誘発するのだろう。 そして、多忙な表象・ノイズ過剰な現代社会に欠いているのが
こうしたゼロであり、何もない空間であり、静けさであり、空白なのだ。
人々は一日中SNSの通知や応答で気を散らされ続ける。洪水のように
一方的に大量の情報が流れ込んできて、人々は落ち着いて物事を考える暇も
ない。そのため、入力された情報に自動的に反射するだけだ。
グーグルでは社員の創造性を喚起するために、勤務時間の2割を自由時間に
割り当てているそうだ。その2割の時間であれば、寝ていても文句は言われない。
日本人がよく行うような過密スケジュールや長時間労働では、創造性のある
仕事は出来ない、というのがグーグルの観点なのだろう。
つまり、グーグルはそうした空やゼロを戦略的にエンジニアリングに取り入れている。
グーグルの社員たちは、一年中一日中デジタル環境に触れているようなイメージ
も浮かぶが、実態は逆で、デジタル・デトックスできる時空にいられるようになっている。
つまり、スマホもPCもない環境に定期的に身をおき、あえてデジタル的な
世界からは距離を取ることで、逆説的にクリエイティブなデジタルシステムを
構築しているようだ。それはデジタル・デトックスと呼ばれる。
グーグルの研修でマインドフルネスが活用されていることなども、その好例
だろう。つまり、意図的に、ゼロや空を挿入することで、ネットの宇宙を
豊穣なものに変換しているのだろう。 だから、ニュートラル、原点としてのOを持つことが、自己にとっての
物事のプライオリティや己が進むべき方向、座標を正しく見極めるためにも、
時には過剰なノイズや表象、情報を絶ち、静かに己にとっての原点やゼロは
何であるかについて沈思、考究していくことが、この表象過剰な現代に
おいて、逆説的に重要になってくると思われる。
仏像が半眼として描かれているのも、そうした余計な表象やノイズ、
妄想を捨象して絶つという意匠がそこに込められている。瞑想的な半眼と
いう状態で、外界や内界を適切にフィルタリングして、己にとって真に
重要な事柄に沈思を向けて、集中させているのだろう。
こうした観点に立っていれば、0の重要さが少しは分かりそうだ。 今度は、「0は∞へのポテンシャルを潜勢させている」、と仮定してみよう。
0はブール論理では偽になるが、0を命題と捉えてみれば何とかなりそうだ。
「0は極限で使われる数学的概念である」を命題Pと置き、
「∞は極限で使われる数学的概念である」を命題Qと置けば、
P∧Q = 1 となって、共に真となる命題になるだろう。
lim x → 0 (1/x) は、±∞に発散する
lim x → ∞ (1/x)は、0に収束する
このことからも、ヘーゲル弁証法的なイメージで、0と∞という対概念が
互いに反転しあう、もしくは、互いを無化しあう動的な関係や構造を
そこに洞察できるかもしれない。 0と∞という数学的な概念に、このような反転構造や反転関係があるのであれば、
±という記号があるように、0と∞の記号を十字架のように重ねて、一つの記号
として用いてみたら便利ではないだろうか。
その場合、たとえば、その∞と0のクロス記号は俺が今想像で作った
数学宇宙には存在しない架空の数学記号なので、0と∞を併記的に表現すると、
lim n→0,∞ x^n , x >1 (この箇所はxの条件を指す)
極限値1と∞への発散を得る。つまり、ここでは極限値が2つ得られる
lim x→0,∞ sin(x)/x とすれば、
極限値はそれぞれ1,0に収束するので、ここに0と∞がたがいに反転しうる
ような構造や関係を潜勢させていることが一部、認められるかもしれない。
実際には1も入ってきてますが。
では、最初のお題である「0は∞へのポテンシャルを潜勢させている」と仮定してみよう
を少し拡張してみると、「0は1と∞へのポテンシャルを潜勢させている」と仮定してみよう
となり、ここで0,1,∞の相容れぬ3項が、項を3つ有する拡張弁証法のような構造や
関係を有しているかもしれないと仮定して、この思考実験をここで一旦、ペンディングに
しておこう。 >>863のような捉え方は、肥大化した自我を見せ掛けの謙遜によって
偽装するレトリックとして極めてよく使われるもので、その要は、
本来、「引け目」があるものである「我」を、「「数学宇宙の純粋なプロセス」
との対比において、「無視され得るもの」として「割り引く度合」、すなわち、
最初から負の値である「log(我)」=-xを負の方向に極大化して、つまり、
lim x→∞ e^-x=0として、そのようものとして「無視され得るもの」と
した我を、今度は、「無視され得る」ために他者に対して「引け目がない」
ものと捉え直して、つまり、e^log(我)=0(無視され得る)としたはず
なのに、それを、「引け目がない」存在、log(我)=0にすり替えること
により、「我」が、「引け目のある他者」よりも「相対的」に大きい
人=e^0であると、自分自身にも、他者にも思い込ませようとするのだ。 「数量化」の隠喩を逆手にとるなら、何らかの「質」を有して
現象すること、e^xの零度、それが、e^0=1であると言えるのではないか。 何らかを有する「質」を「1」に、現象することを「e^x」に置き換え「=」で数式化した
形式論理であるとしか論理的には言えていない・・・ 現れるすべての事物および事象において、現れないことによって
遍在しているのが、等しさ/同一性である。 ×解釈を完全に誤っていますよ?
○完全に違う解釈をされてしまった e^0=1
e^(2πi)=1
だからなんだって話だけど 課題は、日常言語との対応関係を模索することでしょう 教科書に記載される公式のコピペを繰り返しても無意味でしょう 何も現れていないことは、0にではなく、1に対応し、引け目を感じる
ことは、単純に負の値に対応するのではなく、α<βの関係において、
log(α)−log(β)<0であることに対応すると考えられる。
このような対応関係は、単純に日常的な言葉の枠組みだけで哲学
をしているだけでも、数学を単に数学の枠組みで考えているだけ
でも出てこないでしょう。別にこれが絶対的に正しい記述である
などと主張しているわけではなく、より適切な記述が考えられる
なら、それを試行錯誤しながら、模索する必要があるだろうと
言っているのです。哲学板なのですから。 数学や言語を使ってモデル哲学を指し示すだけなら趣味哲学にしかならないからね 数学の技法を説明する適切なメタ言語を探るのに、数学の記号操作から
対応する日常言語の表現を見出そうとするのは無理があるでしょう。
しかし、その逆に日常言語においても、その表現の論理において、
数学的な思考が裏で働いているとするなら、日常言語の表現が
数学操作にどのように対応しているのかを考えるのは、有意義な
ことではないでしょうか。 「嘘つきのパラドックス」とかをいくら数学や論理学の立場から議論しても、
現実の詐欺師が虚偽の言動で人をどのように騙すのかを記述するのに、
何の役にも立たないのではないですか。それでも、詐欺師の虚偽の
言動に、数学的な思考や、それを利用したトリックが働いていないとは
限らない。虚偽の言動が、経済や投資活動など、数字を扱うような
ものであれば、なおさらのことです。 「嘘つきのパラドックス」について議論することが、人が嘘をつく行為に
ついて記述することに寄与するかのように見せかけること自体が、
詐欺の一種でしょうw まあ、主観的な数学ポエムなんてやってても、きちがいになっていくだけで、
何の利点もないだろうな。無論、哲学的な営為においても無意味な行為だろう なんの進歩もない状態(馬鹿)のままで生きてて人生楽しいのかねw 知識を広げるだけでなんか進歩してると思える馬鹿だから楽しんで生きられるんだろうw 深い森に分け入り、隠された宝物を探し出す。数学は、わくわくする
ゲームだ。知力を競い、最強の解法を目指す。数学は、どきどきするバトルだ
数式を読みながら、古の数学者が感じた感動を、僕も味わう。たとえ、
数百年前に証明済みでもかまわない。いま、論理をたどりながら抱く思いは、
間違いなく僕のものだ
結城浩 数学は「論理的思考力」を鍛えられます。
論理的思考力とは、論理的に思考する力。そのままですね。
では論理的ってどういうことでしょうか?
国語辞典で調べてみると、「きちんと筋道を立てて考えるさま」と
書いてあります。
数学の場合は、「問題文に出ている仮定、前提」を見て分析、状況を把握を
し、「定義(公式・公理)」などを用い道筋を立て、最終的な答えに至ります。
これが数学における解法の基本であり、論理的思考そのものです。
数学の世界は定義(公式・公理)以外の知識がいらないという部分が
他の科目と異なっており、論理でできている世界なのです。
数学は定義といういわばルールを最初に設定することによって、それだけで
最終的な結論・答えまでもっていけるのです。逆にそれ以外の部分が
かかわる要素が関わることは基本ありえません。それゆえに数学が
美しいという人もいます。
つまり数学の実力があるということは、論理的思考力がある事とほぼ同じなのです。 類似は、あらかじめ与えられた定義による特徴の共通性ではないんだよ? ムハンマド(マホメット)みたいに宗教戦争で攻めないと数学広まらないし
ベドウインみたいにさすらわないと子供宗派の人が授かれないけど。 >>914
論理で定義された問題から定理、公式を導いたものが数学の形式論理でして
論理には人間の具体的な価値概念の真理を論理的に論証する理論が求められる
一方形式論理は人間の具体的な価値概念の理論は論理的に扱えないということ。
空間という抽象問題を図形や数量で扱う筋道を公式化して認識した、定理で解答するのが
数学の原理原則です。
数学の実力の有無にかかわらず、定義、定理、公式を混同しているため
論理的思考力を欠いてしまっていますよ。 その逆に"evenly odd"な様態を考えてみたけど、"evenly odd"という
表現は、ユークリッドの英訳で別の意味で既に使われているんだな。
でも、日常言語の表現から考えてみるなら、"evenly odd"である様態
とは、偶然(そろふ様態)が重なる度合が高い事象ほど、それが奇なる
ことである度合も高まることだろう。それが、デフォルトとされる
自然の状態とされ、そこに奇妙にそろふ、"oddly even"な様態が
認められることによって何らかの特性が立ち現れる。 くだらない数学ポエムをやっていると、通常の数学理解が混乱すると思われるw 数学が形状を扱うのであれば、子供の顔立ちが亡くなった祖父の
顔立ちに似ているという認識さえ、数学と無関係ではないでしょう。 解像度、明度など、数量的な計算で
実物をモデル化させた形式的な図形が
アナログの認識状態と遜色ないだけで
遺伝的な顔立ちに数学が自主的にw関与して
寄せてるわけじゃないんだからさ
無理やりこじつけるほど、頭悪い印象しか与えない 別に顔立ちではなくても、地形のパターンの認識だっていいだろう。 パターンの認識の話をしているのに、どうして遺伝関係の問題に
すり替えようとするのか?遺伝学について何も知らなくても、
祖先と子孫の特徴がパターンとして似通っているという認識は
成立するだろ。 >>927
パターンを認識するとは
どのようなことですかって話だったわけで
数学で再現できる視覚モデルと
数学で再現不能な遺伝モデルじゃ
形状の認識パターンが物理的に異なるでしょ
それを無視して短絡的に包含することで
どのようなことかを解明するどころか
適当に丸め込もうっていうんじゃ話しにならないよね パターンは、トランプのカードの配列で考えればいいよ。
52枚の普通のトランプカードをよく切って、4人の人間に順番に配った。
それを展開してみたら、それぞれの人間に、マークの種類だけが異なる
すべて同じカードが配られていたら、そこに奇異や作為性を感じることだろう。
もしくは手品のような仕掛けがそこにあることを想像するだろう。
あるいは、2人に配ったものが、カードをよく切ってあるにもかかわらず
片方には偶数のみが配られて、片方には奇数のみが配られても事情は同様だろう。
パターンとはトランプの手札に規則性が認められる、特殊な配列と同じこと。 配られたトランプの手札に視覚的な規則性が認められれば数や図柄で類型であると
単純思考型のワンパターンだとそうとしか考えられないわな
認識問題を数学に限るなら数学板でやってろよ哲板でやることじゃないから。 人間が考えてる数学と、他の宇宙人がいて数学考えていたら似たようなものなのだろうか?
数学が真理なら似たようになるはずだよね 数学における安定的な部品を使って物事を対処していくことは、実社会に存在する
不安定な部品への対処方法をも学んでいることになります。
数学ではわからないものを仮にxとおいたりしますよね?
これによって安定な部品に不安定さが与えられます。
よって、不安定な部品は安定な部品の延長上にあるので、実は安定な部品と不安定な
部品の基本的な扱い方は同じになります。
そしてそれに気づけたら、数学の問題を解くのと同じように実社会の問題を
解決していけるようになるでしょう。 「数字を見るのが嫌だ」とか「計算ばかりでつまらない」、「できなくても生きていける」
などと思っている(言っている)のでしょう。
ただ、それは拒絶反応を起こし、自分への言い訳を作っているだけなのです。
例えて言うならば容姿の良くないという自覚のある、とある男性がいたとします。
男性はこう言います。
「僕は別にイケメンじゃなくて困ったことはないし?(動揺)」
これと一緒です。
・そしてもはやそれは勉強そのものを全否定することと同義です。
教養として最低限は必要ですし、学問も同様です。数学だけ特別扱いする必要は
ありません。学問とは問を立てて、答えを追求すること。未来を俯瞰し、自分の
あり方を先人の考えたことから、問を立てて解決しようと試みる。その経験が今後、
自分にとって納得できる道を選択するのに好影響を与えることは自明です。
人生は悩んで、考えてばかりです。そしてこの変化が激しい世界では普遍的な知識、
考えを有している人間は圧倒的に有利なのは間違いありません。
だから教養が大事です。どの学問も必要です。だから学校にはいろいろな教科が
あるのです。 また、理性が何かを解決する道具、道具的理性になってはいけません。
(例えば、何の役に立つかを考え、そのために学問が存在すると思うこと)
主体的な、学問自体が目的であるべきです。道具として扱うことは二の次です。
少し哲学的な話です。そういえば数学やその他学問は古代ギリシャ哲学から生まれたんでしたね。
「文系だし言葉のセンスがあれば大丈夫」という方もいらっしゃるかも。
しかし、経済学、政治学、地理学、経営学、商学など様々な学問でも数学はバリバリ使います。
数学では数式の扱い方が重視されがちですが、言葉の扱い方もとても大切です。
特にパズルを解くときのような賢さ、論理的思考力では言葉をうまく扱えるかが鍵になります。 数学を好きになる、得意になるためには粘って粘って粘りまくるのが一番早いです。
兎に角、わからないことに出会い、解決して不快感をなくすためじっくりと考える
ことです。したがってしばしばわかりやすい授業、教え方というのは思考力、
数学の本質を身につける機会を奪います。特に小学校ではそうです。わかりやすい
授業は児童のためにはなりません。考えさせる授業をするべきです。
この理不尽な社会では生きるために忍耐が、持久力が続けられると強いです。
だから数学をきっかり学んで、楽しさを知っている人は問題解決能力が高く、
いろいろな職場で活躍できること間違いありません。
ところで一般的に理系人には所謂オタクが多いと言われていますが、これは確かに
事実です。そのような傾向はあります。なぜなら
オタク→一つのことに熱中できる→数学や他のことにも一点集中できる→数学が
得意になる→理系に進むという構造があるからですね。 数学より化学や生物、地学、心理学が伸びる方がいいんじゃないの?
数学は中二だしね。 経済学は数学の知識計算力じゃ太刀打ちできない。経営学はもっと上 医学看護学薬学もなめちゃいけないけど、栄養学ほどの人気と難易度でもない。 >>935
ポスト現代思想、ポスト・ポスト構造主義総合スレ5
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1574256963/
改竄して略奪したスレの次スレのタイトルを「不安定なx」として適切な解を考え、実社会の問題を解決してみましょう。
人のつくったプラットホームを改竄して略奪することは簡単ですが、児童のためにはなりません。
じっくりと考え、パズルを解くときのような賢さ、論理的思考力でもって、主体的に議論を起こせるようになるかが鍵になります。
人の考えたタイトル「ポスト現代思想、ポスト・ポスト構造主義総合スレ」やそのテンプレは使ってはいけません。 栄養は、それによって栄え、養われるから栄養とされるのですよね?
では、今の日本の経済は栄えていると言えるのでしょうか?
栄えていないとすると、どのような栄養が足りないのでしょう?
社会が栄えるための栄養に相当するのはどのようなものなのでしょう? 栄養が東京に偏っているのが原因でしょう。
東京一極集中は首都直下地震でも起こらない限り
是正されないでしょうね。 社会を駆動させるような栄養みたいなものは、
人の思考を駆動させ、行動に結びつくようなものだろうな。
本だとか映画だとか音楽だとかシンポジウムのような、
知的媒体、集まりがそうだと思う。 >>935-938
スレをパクって、人の褌で相撲を取ってる奴が、どの口でこんな偉そうなことを言っているのか?
キレイごとを並べるのは簡単だが、現実的には自分一人でスレ一つ立てられないだろ。 東京まで輸送保冷可能かどうかわからないから東京一極は虚像。人いねえよ首都圏。地方⇔東京がいいね。 ベインジアンフィルターのように、ゴミを識別して排除するのはよいことだ https://www.youtube.com/watch?v=9IWoMqFIXjA
【なぜ数学を学ぶのか?】(前編)〜数学を勉強する意味とは!?
https://www.youtube.com/watch?v=52O2nfKEQh8
【なぜ数学を学ぶのか?】(後編)〜数学を勉強する意味とは!?
この動画にあった内容で印象的なのは、数学を学ぶことは筋トレに
近いということと、学問の汎用性という観点、あと、数学的な思考の
活用方法などが良かったね。あとは、この人のルックスがいいと思う。
本田先生なのかな。 >>955の動画で、数学を学ぶことで、リソースをどうすれば有効配分できるか、
みたいなことにも応用できると言ってたけど、この観点が大事だと思う。
環境問題で活躍しているグレタさんのこともそうだけど、現代の資本主義はリソースの
配分や使い方が狂っているので、地球環境を破壊するレベルまで瀕するようになってしまった。
人々が数学的・論理的な思考力を持つことで、環境問題や格差社会など現代社会が
抱える歪さや偏差を全般的に見直す契機にすればよいだろう。学びというのは、
自分たちが投げ込まれた社会環境のコードを自明視することではなく、それを良き方向へと
脱コード化して、即自的な現状(隷属)から対自的な望ましい状態(自由)へと投企していく
試行が必要になってくるだろう。そうした試行においても確率が要求される。 悪しき習慣や好ましくない状態も「ナッシュ均衡」に陥ってしまうことがあるようだ 「自然は数学の言葉で書かれている」 ガリレオ・ガリレイ 自然が数学の言葉で書かれているのなら、それを人の言葉に翻訳することは重要でしょう >>963
数学の論文がチンカスだらけなのは、人の言葉がそれだけチンカスであり
数学ができると思っている自尊心は、他者を妬み他者を恨み、
常に世界と自分の関係ばかりきにするようになる。 まあまあ。数学ができないということをそれほど卑下なさらずともよろしいのではないかと。 >それを人の言葉にしたのが数学の論文でしょ
人の言葉で書かれている宇宙際タイヒミュラー理論を理解できる人がいないのはなぜですか? おそらくはスナインコッコスマナラコッサーラ長老の陰謀なのでしょう >>966
それについて私は知らないけど、
論文は複数の専門家が査読して掲載が決まります
専門家が理解してないのに査読を通すはずがない
だから理解している人はいる
あるいは、それが論文になってないのか
どちらかでしょう 数学において行われている日常言語をメタ言語として用いた説明は、
徹底的に不正直であり、不誠実だと思いますね。
で、そのことを指摘されると、「数学は日常言語とは無関係なのだ」
と開き直る。 開き直るのではなく、きちんと向き合うように向き直りましょうね >>969
まああれはデータが再現できないということだから別の話
理解できないわけじゃない >>970
別に一般人が理解できなくても数学者の間で理解できているのだから何の問題もなかろう
一般人が数学の論文を読む必要もあるまい 数学者の間で理解できているというエビデンスが欠けてますね
理解できているなら、技法が適用されて、ABCだか何だかよく知りませんが、
それによってどう予想が解かれるのかが少なくとも数学者の間で
共通理解となっているでしょう。 でもここは数学者ではなく似非数学者が、似非哲学をやっているところだから、
あまり関係ないんじゃね?
数学的妄想に、エビデンスなんて不要よ、数学のように表面を飾っても、
それ似非だから、だから哲学板で発言しているのよ、完全なる証拠 >>975
自分が理解できなかったら数学者にも理解できないという論法か?
数学のメジャーな専門誌に変な論文が掲載されていたら、数学者から指摘されるよ 数学を学んだ人に出会いたいなら、数学板に行った方が手っ取り早いと思うが 大学で最初に数学の授業を受けたときの衝撃は凄かった
当たり前と思ってたことが全然当たり前じゃなかった
ここまで厳密に考えるのか!と驚いた 数えられた単位としての数を指数におけるπとの比において数量化すること 哲学とは、抽象的な構造を扱ったり考究するものなので、もともと科学や数学、
工学の意匠とは親和性が高いはずなのに、特に文理で教育が区別される日本では
そうならない傾向にあるようで、哲学がメタ文学くらいのところで終わっている感じがする。
なので、こうした文理で教育を安易に区別する発想は修正した方がいいだろう。 哲学はどちらかというと芸術に近いだろう
その人が考えた世界のオリジナリティが重要だから
創作に近い
理詰めで誰でも同じ答えに到達する理系の学問とは違う 理詰めで誰でも同じ答えに到達するなら、機械にやらせとけばいいんですよ 18 :サマリアちゃん :2019/12/26(木) 12:04:52.16 ID:1uqNJ/42
>>14
女の紐?
19 :ミルちゃん君 :2019/12/26(木) 12:06:33.43 ID:dMrAR+rL
>>18
あ、はいw
26 :サマリアちゃん :2019/12/26(木) 12:47:30.15 ID:1uqNJ/42
>>19
なら精力つけないとね(ww
27 :サマリアちゃん :2019/12/26(木) 12:48:31.85 ID:1uqNJ/42
男は体で払うの(ww >>984
科学、物理、数学は生活必需品、消耗品として問題を解決せねばならず、
リサイクルされる意味がある学問、巡ってるだけで通用せず、順次発展していかなければならない。
哲学は個々人の人生経験に合わせて咀嚼していける度合いが違い、人口が入れ替わる都度
個々人に適応されていくという意味で発展途上の文学として、永遠に巡っているべき学問だから
メタ文学ぐらいのところで結論を出さず問われ続けることにも意義が十分ある。 科学は実験したり考察した結果が重要だけど
哲学は考えること自体が重要 いかにして考えないか、東洋哲学は、こちらの側面もある。 実用性という意味では、科学に道を譲って、哲学は、もはや意味を失ってると思う 哲学は心理操作や人間関係でのバトル、計略で力を発揮する見えざる知恵。
人間が存在する限り哲学の知恵も力を失うことはない、馬鹿と鋏はなんとか・・・ 講壇哲学とは違うように見えるわな。
まあでも哲学界においては色々過去にあっただろうしな。 哲学は智を愛する学問、生き抜く知恵はすべからず学を問われているのだよ 哲学の学会あるでしょ
そういうところには出てこないよね
あと哲学が厄介なのは、意味が二つあって
学問としての哲学と人生論的な意味で使われることがある
むしろ哲学というと「私の哲学は...」という使い方みたいに人生論の場合が多い 中国軍師の権謀術数と哲学がやるとかそんなほうが盛り上がるしなあ。 >>993
学ぶことではなく、問うことである、だが問うには学ばないと問えない。
故に学習、学術、技術、知識でもないが、学問の一部である。 このスレッドは1000を超えました。
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