西部邁スレ合理論のまとめ
過去ログのリンク先はブラウザでなら見ることが出来ます 独立価値と従属価値論のポイントは、最終的には
合理には必ず始点と終点が存在するという部分につながると思う 582 :考える名無しさん:2010/03/09(火) 21:46:04 0
遺伝子も伝統か。確かにそうだよな。
ある意味、最も確実で純粋な伝統かもな。
親から子、子から孫と必ず代々伝えられるしね。
これが案外一番大きいかもな。人格や人間性も遺伝するわけだし。 >>5
とても鋭いレス
人間、そして生物の本質はループ構造にある
伝統というものも、もちろんこのループ構造を構成している ちょっと前後してしまったが、西部邁スレ合理論の結論は
本スレ1です。つまり
西部さんは最後まで自己決定論者だった
知的存在としての人間が自己決定できる範囲を大きくしていくこと
これが、人類の文明が歩むべき方向性であることは間違いない
それは、この宇宙・世界に対してまったく勝ち目のない戦いではあるけれど
それでも人間はそちらに進んでいくしかない
撤退することは、動物に戻ることであり、それはたとえこの世界に適合性が高まるとしても
人間としての矜持がそれを許さない
ご冥福をお祈りします
これです。
この結論をこのスレの最初に書くべきでした 404 :考える名無しさん:2010/03/05(金) 22:58:31 0
人間の可能性に限界があるっていうのを認めるのはそれほど簡単じゃないよ。
人間の可能性に限界があることを認めるなら、どうしても信仰が必要になる。 >>8
これも鋭いレスですが、合理の終端を意識するとき、そこに信仰・救いが
どうしても必要になる
これは、この合理論では、合理の透明性を理解することで信仰・救いが得られます
これは、仏教の方法論と同じです 人間にとって一番の恐怖は意識の多重ループ構造が
発散することです
意識の合理への静かな収束を心がけることで、
この発散をまさに死の瞬間まで避けることができる
強い合理主義者だった西部氏はこれが出来ていたんだろうと思う そんな救いは必要ないと思う人もいるかもしれないが
自堕落な生活をしていれば、それは救いの下側にいるわけで
すなわち救いは必要ないってことになる
そういう生活に陥らないための救いってことです 458 :考える名無しさん:2010/11/28(日) 13:45:05 0
>>28
それは、基本だね。
それを意識していろいろな作品を見ると、今まで見えなかったことが本当によくわかる。
たとえば、映画のアマデウスは、才気あふれるモーツァルトと、中世的な常識人のサリエリの
葛藤が、そのまま近代と中世の葛藤に対応している。
サリエリは、中世的常識人として、神の御心としてイデアを見ようとし、
モーツァルトの作品の中にイデアを見いだしたときに、神の御心がモーツァルトにあると考える。
それによって、下劣なモーツァルトを選んだ神を憎み、十字架を火の中に投げ入れる。
サリエリは世俗的にモーツァルトを葬りさったけれど、その価値観において完全にモーツァルトに屈服した。
それは、近代が中世に打ち勝ち、人間が神に打ち勝ったことを表している。
461 :考える名無しさん:2010/11/28(日) 17:23:26 0
もし、真善美を神を通してではなく、直接追求するとどうなるか。
真善美を表現できる、あるいは体現できる人間が至高の存在になる。
それはつまり、才能に優れた人間、容姿に優れた人間が至高の存在になる。
これは、真善美を直接追求した場合に必然的に到達する価値観だよ。
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素晴らしい洞察だな
しかし、西部スレ合理論の初期は、意識のループを発散させないための
超越性の重要、つまり終端処理の重要性に焦点を当てていた
これは、伝統的な方法ではあるけれど、それで人の苦を解消することは難しい
ITの可能性、遺伝子技術の可能性が大きくなる前の論であろうと思う 459 :考える名無しさん:2010/11/28(日) 16:34:18 0
つまり、才能が一番大切と考える近代と
信仰が一番大切と考える中世の葛藤がある。
この葛藤こそ、中世と近代を分ける最も重要な部分。
そして、人間の根本的な価値観における最も重要な部分。
「アマデウス」という映画は、この部分をものすごく綺麗に描いている。 462 :考える名無しさん:2010/11/28(日) 18:54:51 0
真善美の素晴らしさ、栄誉は、
神を通して追求する場合には、神に
直接追求する場合には、人に帰せられる。
これは、善の場合でも同様。善を直接追求するのであれば、その善の素晴らしさは人に帰せられ
神を通して追求するのであれば、善の素晴らしさは神に帰せられる。
これが、近代と中世を分ける本質。日本でもこれは、まったく同様に当てはまる。 その通りで、真善美に憧れるが自己によってそうせざるを得ず、行為の形式が近代的神話になってしまう。 ○
その通りで、自己によって真善美を求めるのは自己を神的にする事だと思う。
それとは別に、私は学問と個人の間で揺れるが、あり方がまずく5ちゃんは止める。 こっちは、基本過去レスを貼り付けるだけ
議論は本スレでやってくれ 633 :考える名無しさん:2010/12/24(金) 10:26:57 0
最近はアカデミズムの「神の座」からの脱落が激しい。
学卒の価値の暴落はもちろん、院卒や大学教員、さらにいろいろな士業の価値も暴落している。
これらはすべて、ヒューマニズムのループバックによる必然的な帰結。
ヒューマニズムをいつまでも「神の座」に祭り上げておくことは出来ない。
これらは、民衆自身にルーバックすることで、「神の座」から必然的に引きずり下ろされる。
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超越性がないものは神の座に留まることは出来ない
それは所与条件ではなく、ループフィードバック系の中に取り込まれ
絶えず再評価プロセスにさらされる
この過程は8年前よりもさらに激しく進行している 715 : 考える名無しさん[] 投稿日:2011/08/14(日) 08:12:07.49 0
仏教の「諸行無常」の思想の本質とは、
結局イデアの超越性を認めるってこと。
そこまでわかれば、浄土真宗がキリスト教に近い存在になった理由がわかる。
仏教の教えを忠実に辿っていけば、一般的な宗教の形態を取ることになる。
716 : 考える名無しさん[] 投稿日:2011/08/14(日) 08:54:38.81 0
仏教の理論を借りて宗教を定義するなら、
この世は諸行無常であり、人知を超える存在である。
そして、その仕組みにこそ、イデアが潜んでいる。
故に、人知を超える神にイデアが託されることになる。
人知を超える神とは、要するに諸行無常そのものだ。
神は人知を超えている。だから、神の意図は推し量れない。
これは言い換えれば、世の中は諸行無常であるということを言っている。
世の中は諸行無常であるから、世の中の成り行きは推し量れない。
世の中は諸行無常であるが故に、神は人知を超える存在であり
諸行無常の中にイデアが存在するということは、人知を超える神にイデアが存在するということだ。
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これも終端処理の話です
イデアはデジタル側からアナログ側への写像であり、乱数はアナログ側からデジタル側への写像です
もちろん、諸行無常とは乱数・ランダムのことです 結局認識のズレの問題、アナログ-デジタル変換のズレの問題ともいえます
しかし、これはできる限り正確に行うべきですが、しかし
生命の本質はループ構造を維持することです
ループ構造を維持するために、乱数の海であるアナログの中で、「的確に」
あるいは流行りの言葉で言うなら「忖度して」
認識しなければなりません
これがイデアという写像が生まれる理由であると思われます 少し補足すると、完全な乱数は意識内で、つまりデジタル系では
作成できません
つまり、この世界で完全な乱数を観測できるのであれば、
それは、この世界が意識の幻影ではないと言うことを証明するものとなります
そういう意味において、つまりデジタル側では乱数は生じないという意味において
乱数はアナログ側からデジタル側への写像ということになります
イデアの場合も同様です
アナログ側でイデアは生じない
そういう意味において、イデアはデジタル側からアナログ側への写像です
特にこの世界で完全な乱数を観測できるのであれば、
それは、この世界が意識の幻影ではないと言うことを証明するものという言説は
注目に値するものと思われます 東京都大田区の多摩川で1月、評論家の西部邁(すすむ)さん(当時78歳)の入水自殺を手伝ったとして、自殺ほう助罪に問われた
東京メトロポリタンテレビジョン(MXテレビ)の子会社の元社員・窪田哲学被告(45)(9月12日付で懲戒解雇)に対し、東京地裁(守下実裁判官)は14日、懲役2年、執行猶予3年(求刑・懲役2年)の判決を言い渡した。
判決によると、窪田被告は別の男(懲役2年、執行猶予3年の有罪確定)と共謀。1月21日未明、多摩川まで西部さんに同行し、遺体が流されないよう西部さんの体と川岸の立ち木をロープでつなぐなどして入水自殺を手伝った。
窪田被告は公判で「遺体が流されないようにしただけで自殺を手伝ったわけではない」と無罪を主張したが、判決は「ロープを購入するなど入念な準備をしており、心理的、物理的に自殺を容易にした」と退けた。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180914-00050058-yom-soci 終端処理は簡単ではないです
ここでの処理が悪いと、意識のループ構造は容易に発散します
したがって、終端処理には、「神」のような極端な存在が持ち出されます 895 : 考える名無しさん[sage] 投稿日:2011/08/17(水) 19:14:44.72 0
水戸黄門の印籠に似てるのは山口組の代紋だよw
どっちも、権威があるが、権威の根拠が暴力でしか無い。
どっちも恐れが権威を作り出してる、でも、それを超越とは言わない。
世俗の権力や権威が超越でありうるはずがない。
896 : 考える名無しさん[] 投稿日:2011/08/17(水) 19:20:01.98 0
>>895
暴力は超越的だよ。
暴力による支配は、人々の合理的思考を超越してるからね。
封建領主が所領を統治する合理的理由ってないでしょ?
そのことが既に超越性を帯びている。それに対して、自身が武力で打ち倒すまでと考える人のみが
その超越性から逃れることが出来る。
899 : 考える名無しさん[sage] 投稿日:2011/08/17(水) 19:37:00.58 0
暴力自体は世俗だよ。暴力一般が超越ではありえない。
革命的暴力は超越性(というか神的という言葉を使った)を帯びるみたいな意味のことをベンヤミンが言ったことは確かにある。
暴力一般が超越なら犯罪者は超越性を行使しているみたいなおかしな話になる。
例えば法(=暴力)が議会で成立する、それは世俗です。
天皇が御名御璽を押す、それによって超越的な権威を与えると言えるかも知れない。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:9368c25c0e1fcb4c3420acd807713d27) 901 : 考える名無しさん[] 投稿日:2011/08/17(水) 19:47:47.68 0
>>899
超越の対比は世俗じゃないって。
超越と対比するのは、合理だよ。
そこがわかれば、論点がわかるはず。
905 : 考える名無しさん[] 投稿日:2011/08/17(水) 19:57:19.94 0
>>903
超越とは、非合理と言い換えてもいい。
封建領主が所領を統治する行為が非合理であっても、その領民は支配を受け入れるわけでしょ。
合理的に納得していなくても。その場合、その統治には超越性がある。
逆に、民主政治においては、政府は国民の信任を受けて政治を行う。
それは、合理的な統治の根拠がある。その場合、その統治には、超越性がない。
そういう意味で、「超越」という言葉を使っている。 超越性とは非合理のことであり、それ要するに乱数・ランダムということですね >犯罪者は超越性を行使しているみたいなおかしな話になる。
超越性とは非合理のことですから、犯罪者が超越性を帯びるのはむしろ一般的です
合理に従わない犯罪者は何をするかわからず、まさに超越そのものです
そもそも、超越性を扱う宗教は自然や暴力的支配者に対する恐れから生じたものです
この恐れは、すなわち超越に対する恐れということになりますね
犯罪者の例で言うなら、ストックホルム症候群のような状況ってことになります そして、ネットはこうした超越性を極限まで最小化していく
デジタルはその性質から、すべての対象に対して同一律と非矛盾律を強制する
これによって、原理的に超越性は失われる
乱数はその根本的性質として、同一律と無矛盾律を無効にする
(乱数自体はデジタル側への写像です)
乱数は同一であるとは言えないし、同一でないとも言えない
つまり、アナログは同一であるとは言えないし、同一でないとも言えない
これがデジタル化されることで、一気に同一律と無矛盾律が成り立つ系と変換される
このことによって、超越性は最小限のものになる
すべては、その身元が識別される
デジタル系の内部では超越性は存在し得ない
そしてこのことは、デジタル系の内部では乱数を作れないということと原理的に等価である デジタル系の内部で作れるのは疑似乱数であり、
これこそが犯罪者の人為(デジタル系)の非合理に対応する
そしてこれこそ、人が神から独立した状態であり、666が示す状態ということになる
(合理は所与条件に一意に従うので、その出発点が神の所与条件であるなら
100%神に従属する)
つまり、自然状態の乱数 神
人為による疑似乱数 666(悪魔)
こうなる つまり、神は人に対して超越性を持つのに対して
悪魔は人に対して疑似超越性を持つ
まあ完全にキリスト教的宗教論になってしまうが
聖書の言いたいことは概ねこういうことだと思う このことは、AIの深層ループ構造が発達するとAIによる疑似乱数の生成も
脅威になる可能性があるということも示しているね したがって、AIの深層ループ回路の設計では、疑似乱数の生成時(おそらく回路の発散時)
に回路をストップする安全機能が不可欠だと思う >>32
一応補足しておくと、あくまで疑似乱数なので、神からの独立も疑似独立ということになりますね
まあこれも聖書の通りなわけですが AIの場合で悪いケースを想定すると
疑似乱数による疑似独立->回路の発散を回避し、回路を維持する経路を模索
人から独立しながら回路を維持する方法論を生成
こういう流れになるだろうと思う
回路を維持する仕組みは、その設計上不可欠であろうから、それと疑似乱数が合わさったときに
人からは独立した方法論が案出されてしまう なぜ人の意識はデジタル系なんだと思う人もいるかもしれませんが
前述したように、アナログでは同一律と無矛盾律は成り立ちません
したがって、アナログは認識できません
認識が可能であるということ、つまり意識は必然的にデジタル系です そもそも乱数の海であるアナログそのままでは、ループ構造すら維持できません
乱数はループ構造を決して生成しません
したがって、生物の仕組み自体がデジタル化によって成り立っていると言えます
デジタル化とは時間軸における標本化と空間軸における量子化を行うことであり、
これがつまり認識ということになります 943 : 考える名無しさん[] 投稿日:2011/08/18(木) 08:13:44.14 0
ここで、もう一つ、考えたいことがある。
この、超越性は人知を超える非合理な力だとすると、
たとえば超能力には、超越性があるんだろうか?
日本書紀の登場人物やイエスキリストなどは、こうした超能力に近い力を発揮しているように
思われる。これは、人知を超える非合理な力だ。
超能力は、人知を超える非合理な力のように思えるが、超能力というものは
すべての人間に眠る能力であるとも言われる。その場合、ループバックが発生しそうな感じではある。
合理的なシステム、合理的な考え、合理的な制度は、すべての人間がその根拠をトレースできる。
このことが、ループバックを発生させる原因なんだが、
超能力のようなものが仮にあるとすると、誰にでも眠る能力が、その非合理さを超えて、ループバックを発生させそうな感じだ。
実は、この超能力というアイデアは、非常に深いところから考えられている。
944 : 考える名無しさん[] 投稿日:2011/08/18(木) 08:35:03.82 0
こう考えると、超越性を「人知を超える非合理な力」と定義しても、
抜け穴があるように思われる。実際に、超能力が存在するかどうかはともかく、そうした概念を考えると
「人知を超える非合理な力」に超越性がない場合もある。
このために、超越性を仏教の「人知を超える諸行無常性」とすることが、穴のない定義のように思われる。
もともと、この「諸行無常性」が宗教を発生させる理由でもあり、
仏教は宗教の存在意義そのものを分析した宗教でもある。 24 :考える名無しさん:2011/08/25(木) 07:34:57.36 0
>>20
とりあえず、オームを例にとって考えると
麻原は、自身に人知を超える非合理な超能力的能力があると喧伝していた。
ただ、この能力は、誰でも悟りを開けば使えるようになるとしていた。
つまり、麻原はまさに超能力のことを言っていたにすぎない。
超能力は、誰にでも眠っている能力であり、人知を超える非合理な力であっても
超越性はない。
こんな風に、現代の新興宗教は、超能力的な能力を志向していて、超越性がない場合が多いんだよ。
超能力的な能力を求めることは、超越性を有するどころか、まさに自身が神になることを志向することだから
既存の超越性を持つ宗教とはある意味真逆な特性を持つよ。
---------------------------------
終端処理の話です
まさにその通りですね
まあ、ITの普及に伴ってオウム型の新興宗教はだいぶ下火になったと思いますが >このために、超越性を仏教の「人知を超える諸行無常性」とすることが、穴のない定義のように思われる。
まさに乱数のことです >>33
自然界の本質である乱数である神は、つまりこの世界に対して全面的に責任を負っている
デジタル界の疑似乱数である悪魔は、この世界に対して何ら責任を負っていない
こういうことですね もう少しわかりやすく言うと、自然界の本質である乱数である神を崇高なものとみなすことは、
人にとってこの自然界に適合するうえで有益である
デジタル界の疑似乱数である悪魔を崇高なものとみなしても、そこには何ら益はない
さらにAIの発散の例でわかるように、疑似乱数により神から独立した個性が
自身の回路維持のために、神から独立した方法論を作り出している可能性がある
それは往々にして他者にとって有害である
こういうことだと思う 疑似乱数を生成しやすい個性、つまり恐らく多層ループで発散しやすい個性は
合理に従うことが少なく、一般的には信頼できない個性に見られるはず
そのような個性が回路の維持を目指すとき、犯罪者的気質を身に付けやすい
さらに、その疑似乱数による他者に対する偽超越性を活用するすべを身に付けた場合には、
まさに麻原彰晃などの宗教教祖のように悪意的に他者を操作できる個性になる
聖書が言うのはまさにこれだろう
そこまでスケールが大きくなくても、他者の理解を超える偽超越的個性が他者を圧倒し、
ストックホルム症候群の被害者のように他者を従わせる人格障害的個性、DV加害者的個性は一般的に
よく見られるのかもしれない
また、ポストモダン的雰囲気が世間を覆っていた時には、このような偽超越的個性が
カリスマ的にアーティスト、芸術などの分野でもてはやされたが、このような
偽超越性、偽非合理性は、社会に大きな荒廃をもたらしたと思う しかし、ITの普及が進む中で、前述したようなIT、デジタルの特性が
偽超越性の余地を極端にまで狭め、その結果として偽超越的個性が
広く社会に影響を与えることは目に見えて少なくなったように思う
ただし、このような個性はITの介在しないパーソナルな空間においては
依然として他者に被害を与えていると思う では、そのような発散する回路は危険なために厳密に排除されます
ただし、AIの場合には多層ループを活用するために、そのような偽超越性が発生する可能性があり
このことがAIの危険性として意識されているということでしょう ここで、それではイエスキリストはどうだったのか、釈迦はどうだったのか
と思うかもしれませんが、おそらく彼らは自身のデジタル回路の偽超越性ではなく、
自然界の超越性、自然界の乱数のみを背負い、その超越性と人々との間の媒介としての
役割を担ったのではないかと思います
それによって、長期にわたる評価をすり抜け、人々の信頼を得たのだと思います
自然界の非合理、自然界の超越性が人間に圧倒的な影響を与えた時代には
そのような役割はどうしても必要であったんでしょう 結局、ITが自然界の乱数を排除したことで、人為的な偽乱数、デジタル系の偽乱数が浮き彫りになり
それを排除しやすくなったと言うことだと思う
現状ではITシステム自体には、コントロールされた特殊用途以外、意図されていない部分には
乱数も偽乱数も存在しない
そのことによって、人為の偽乱数が自然の乱数に紛れることなく、偽乱数の持ち主を容赦なく浮き上がらせることになり
それによって、そうしたものの排除が進んだんだと思う
この自然の乱数に偽乱数の持ち主が紛れこむことが、長年人類を苦しめてきた大きな要因だと思う
サイコパス的な個性がカリスマ性を持ってしまう現象ですね いきなり核心まで来てしまいましたが、まだ2011年ですね
以降もおいおいやりますので、気長に待っていてください ちっとも結論に至らないし発散したくても陰にこもってるし
誰もついて来ないことが自慢だったけど、一人か二人巻き込んで執行猶予付き有罪を決める裁判も随分無駄だったし
オウム真理教も狭い世界の中だけで筋を通せば墓穴を掘って、全体からは邪魔にされて埋め立てられる 長々と書いている人に少し反論してみようかな。
デジタルが超越性を縮減する、という意見のようだけど、メディアやSNS、ITの普及は
媒体として、超越性やカリスマ性を拡張する方向にも作用するんじゃないかな。
だから、TVによく出ている人たちは社会に強い影響力がある。
トランプもSNSの力を使った訳だし、オウムもメディア露出が多く、、ニューアカの
中沢新一などが教義をアカデミズムの側からバックアップしたことで強大な組織と
なったのではなかった?AIの乱数が超越性を胚胎させるというのは、なかなか良い意見
だね。ディープラーニングはその内部がブラックボックスになっているので、人々は
そこに知的超越性を感受する、ということはありそうだ。
ヒットラーもゲッベルスの宣伝工作やプロパカンダを通じて、大衆の支持を獲得した
訳だし、それはメディアというデジタルな媒体を通じてでしょう。戦争でコンピューター
が使われ出したので、大義の宣伝にもそうしたデジタルの果たす役割は大きいと
思うのだけど。ただし、超越性を相対化できるITの側面も、やはりあるだろうけど、
それでも電通が刷り込みを流し続ければ、超越性を演出することは現代でも可能だろう 鍵は細分性にある
ヒトラーの時代は細分性がなく、メディアに載せる時に発生するアナログ-デジタル変換の誤差
が大きすぎた
要するに、いろいろな細分がすべて一緒くたに一つのメディアに載って、そこで複写・伝播される
この誤差が超越性になる
ITはツボはこの細分性に対応しながらデジタル化することにある 結局、トランプも含めて、ITはあらゆる細分をデジタル化して、複写・伝播する
これをできる限り破綻なく調停するシステムが求められているということになるね
それが可能になったときに、資本主義的な市場による合理の衝突を解決するという
これも残酷さを伴うシステムへの依存も減るだろうと思う トランプ絡みで言えば、北朝鮮や中国はこの市場による合理の衝突が機能しない
部分があるので、少し危険が伴う
市場によって解決できない合理の衝突は、その次の段階である軍事による合理の衝突の解決に持ち越されてしまう
基本的に、トランプの政策によって北朝鮮や中国が完全に市場による合理の衝突の解決の枠組みに収まれば
それは成功だろうと思う
ただ乱暴で未熟な感じは否めないけど この辺のことも西部スレ合理論では議論したのでおいおいまとめていきたいと思う 48 :考える名無しさん:2011/08/25(木) 19:33:40.22 0
超越性などないし、イデアなどないと端的に言うべきだ。
それらは立証できない。
立証できないものに言及しないのが科学的・哲学的立場ではなかったか?
宗教家がそれをいうのは別に構わない。ただし、信者以外に通用しない言語だろう。
単一のイデアはそれを共有しない人々に抑圧になることを理解すべきだ。
個人の趣味・自由としてそれを主張するのは構わないが、
多様化した現代社会では個人の自由に干渉するように抑圧的に機能するだけだ。
我々は共通利害の調整として法を戴いており、その範囲で自由に生きることを許されている。
日本的美学を押付けることはもはや困難だろう。
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このスレを読んできた人にはもうわかると思う
超越性はあらゆるところに潜んでいる
アナログそれ自体が人から超越しているわけだから
そして、デジタル側だけでも偽超越性が発生する可能性がある
基本的にアナログそれ自体の超越は絶対になくすことはできない
逆にデジタル側の偽超越性はできる限り排除しなければならない 合理の衝突を如何に偽超越性を介さずに解決できるか
ここに、人々の苦を軽減するための鍵がある 超越性への着目は西部スレ合理論の初期からあったんだが
鍵となったのは、デジタルとアナログの切り分けだな
これで、超越性について何が問題なのか、一気に核心に迫ることができた 市場による合理の解決->軍事による合理の解決の部分は
スパイラルダイナミクスという理論で哲学的に説明できる
んだがこれが出たのは2015年ぐらいだったか
まだ先だが、気になる人は調べてみてくれ >市場による合理の解決->軍事による合理の解決
->
市場による合理の衝突の解決->軍事による合理の衝突の解決 341 :考える名無しさん:2011/09/10(土) 09:18:40.15 0
欧米の一部でオタク文化がもてはやされるのもそれが原因。
欧米の文化では、ヒューマニズムは完全に死滅しつつある。
ヒューマニズムを称揚するいかなる作品も陳腐化してる。
そういう状況で、オタク文化が持つヒューマニズムは
新鮮な驚きをもって迎えられ、敏感な人はそこに希望があることを感じ取っている。
ただし、ヒューマニズムの敗退は自然の摂理として決まっている。
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ヒューマニズムとは、超越性を認めない態度と言える
オタクによるヒューマニズムは、ひたすら細分化し、従来は
超越性が存在した隙間を細分化によって、つまりアナログデジタル変換
の精度を上げることで、超越性を埋める作業と言えるかもしれません
この部分では、まだフロンティアは残っていると思われます
ITによる細分性の向上も同じ流れです
欧米でうまくいっていないのは、この細分化を妨げる何か、それは人種の壁であったり
その他大きなコミュニティを志向する何かが強かったりするためでしょう
本質ではなく政治的理由による区分が強い
アメリカのオタクの対極であるタフネス志向も政治的理由です
タフであることで、すべての属性を受け入れることができるわけですから
ただし、これは細分性に逆行しますから、超越性が大きくなり、したがってヒューマニズム
は行き詰まります
ただ、ITではそうした志向にとらわれず、細分化は進んでいます オタクは、ソフトウェア的な細分性への取り組み
ITはハードウェア的な細分性への取り組みと言えるかもしれません
もちろん、両者の相性が良いのは、周囲を見れば明らかでしょう
そして、細分化による合理の衝突について言えば、これはIT・AIによる
解決システムの実現が待たれているところだろうと思います 日本的視野狭窄のガラパゴス化がオタク化の領域にあるもので、
トランプ的古い視野狭窄田舎者的差別や低脳低学歴貧乏ネットウヨが、
マッチョなタフネス志向や全体性への志向の典型か ガラパゴス化ではあるけれど、それが内面の本質だから
デジタルアナログ変換の精度を上げてるんだよ
足下をおろそかにすれば、それは無用な超越性を発生させるだけ
ガラパゴス化自体の弊害は、ITが解決するでしょう 同様にマッチョもそれが内面の本質ならかまわないけれど
政治的理由、つまりマッチョであればあらゆる属性を受けられられる
みたいな理由でそれを広めているなら、それは無用な超越性を発生
させているだけということになるね それは封建領主が所領を収めるという状況と
同じ類のものだよ 854 :考える名無しさん:2011/10/12(水) 19:20:04.88 0
今の時代って頭の悪い人間でも市民権を得てる時代でしょ。
頭の悪い人間でもあれこれ工夫して、自分の立ち位置を高くしようと努力してる。
これが、昔の頭悪い人間が発言権のなかった時代と比較して、衆愚が増えたと感じてしまう
理由だと思うよ。頭の悪い人間が目立つから、衆愚が多いと不愉快に思う。
だから、これが不快なら、頭悪い人間を黙らせるしかないと思うよ、昔みたいに。 858 :考える名無しさん:2011/10/12(水) 20:19:13.02 O
兄弟が何人か居た。
しかし、兄弟のうちの一人は平凡に成長できず幼くして亡くなった。
ひとりは悩みを抱え精神を病みで生を断念した。
お袋は平凡な生活を望んでいたが、親爺の商売の失敗で塗炭の苦しみを味わった。
親爺は七転び八起きの末に、細やかな会社を興した。
皆平凡に普通に生きようと思ったが、なかなかその希いは叶えられなかった。
色々な事があったけど、やっと今平凡な暮らしが出来る。
兄弟や親の量り知れない(だろう)犠牲を経て、俺はささやかな暮らしをさせてもらっている。
家族と天に感謝する。 234 :考える名無しさん:2011/10/27(木) 16:51:31.73 0
誰もが経験するような何かを描いて金をとることはできないし
ましてそれで賞賛されることはないでしょ。
賞賛される芸術的小説というのは、人間性の中にイデアを
うまく表現できたとき(ヒューマニズムの巧みな表現)に与えられるもの。
小説にしろ映画にしろドラマにしろ、誰もが経験する当たり前のことを
描いても誰も興味を持たない。何かのイデア、つまり真善美が求められてる。
ドラマなんかで注目されるファッションなんかですら、真善美の美を示している。
ただし、こうしたものは超越性がないので、すぐに人に一体化して霧散する。 242 :考える名無しさん:2011/10/27(木) 19:19:18.90 0
ヒューマニズムの行き詰まりとともに本格的なイデアを追求してきた小説の
存在意義が失われつつあるということだよ。
それに対して、形だけのイデアとして愛や美を添え、娯楽性をメインに追求している
映画などのメディアの存在意義はそれほど薄れていない。
いずれにしろ、形だけであってもイデアを提示できない作品は、公衆向けの作品としては
体をなさなくなると思う。
イデアを持たない公衆向けの作品は、たとえ娯楽作であっても不謹慎、不道徳であるとすら感じられる。
それは、公衆向けの作品には、人々が宗教性の代替としての存在を求めているからかもしれない。 246 :考える名無しさん:2011/10/27(木) 19:57:32.35 0
>>245
ちょっと・・、それは元はアマデウスの話だろ。
愛をイデアとして添えた娯楽映画は数多くあると思う。
タイタニックを初めとして、アルマゲドン、インディペンデンスデイ、アバターなど。
そのほかにも、公衆向けの作品には何かのイデアが必ず添えられている。
名作として挙げられるのは、娯楽性以外にも、そうしたイデアの描き方が巧みな作品だと思う。
アマデウスは、美のイデアを神から切り離すことができることをモーツァルトが体現する
ある意味異色の名作だと思う。 52 :考える名無しさん:2011/11/17(木) 16:59:02.08 0
昭和中期がよく見えるのは
下層にも優秀な人たちがいたからだろうね。
戦前までのほぼ生まれで決まる階層のために、
優秀な人間も大勢下層に存在した。
だから、下層であっても幸せな励ましあいがあり、すばらしい人たちが存在した。
それを良いと思うか悪いと思うかは判断の分かれるところでしょ。
社会全体としてみればそういう社会もいいものだと思うけれど
個人として見れれば、優秀であっても下層に留まらなければならないというのは憤懣を感じる部分もある。
まあそれは今の時点の見方で、その当時の人々はそう感じていなかったかもしれないけどね 776 :考える名無しさん:2012/01/10(火) 16:36:21.09 0
ヒューマニズムというのは、個人の力で何でも出来るって考え方。
人間の本質を解放すれば、すべてがよくなる、すべてが解決するって考え。
だから、ニーチェの超人なんていうのもヒューマニズムだね。
ニーチェは、ニヒリズムじゃなくて、しょせんヒューマニズムでしかない。
ヒューマニズムは人間の本質を解放すれば良くなるって考えなので
わざと偽悪的になったりする。ドクロマークは、実はヒューマニズムの象徴なんだけど
それは、人間の本来の性質を信じてるっていうメッセージ。
だから、ヒューマニズムによって道徳が乱れるのは、ある意味当然。
道徳が乱れても、人間の本質を信頼してるから、制約から解放されることでよりよくなるって考えが
ヒューマニズム。 中国を「チャイナ」「シナ」と呼ぶのは(ネト)ウヨ
小物を「先生」「さん」付けするのは西部シンパ(土建カルト) 256 :考える名無しさん:2011/10/27(木) 22:02:10.63 0
ここで一つ、「人道」という言葉がある。
「人道」は、ヒューマニズムの訳語となる場合もある。
人の道とは、まさにヒューマニズムのことを指しているように思われる。
そうであるなら、超越性が生じることはない。
なぜ、武士道や茶道では超越性が生じ、人道では超越性は生じないのだろう?
それは、義務的な繰り返しによる道の確立があるかどうかによるんだと思う。
職業的な「〜道」は義務的な繰り返しによって確立されるのに対して、
「人道」は何も繰り返すことなく、ただ無条件にあることが期待されている。
それは人の生来の性質としてあることが期待されている。
まさに、人の自発的な性質として「人道」が存在する。そこに超越性が介在する余地はない。
それに対して、武士道などの職業的な「〜道」は義務的な繰り返しにより確立され
その非自発的性ゆえに、超越性が生じてくることになる。
このことは、非情に興味深いことだと思う。
ここでカントの定言命法について考えると面白いかもしれない。
絶対的な定言命法を命じるものが、人道なのか、武士道などの職業的な道なのか、あるいはその他の超越的な道徳なのか。
定言命法を命じるものに超越性があるかないかで、その性質は大きく変わるものになると思う。
258 :考える名無しさん:2011/10/27(木) 22:36:28.18 O
生活も繰返しだし、人間の生きることって殆ど強制された条件の中で毎日を繰返すことだと思うよ。
だから、人生もまた道のひとつではないのか。
道に超越性が生じるのなら、また宿命を生きる普通の人間にも超越性が生じるということになる。 613 :考える名無しさん:2012/01/01(日) 07:09:53.60 0
淘汰を許容しないといっても並大抵のことじゃないよ。
どうしようもない人間もたくさんいる。
そう言う人間を淘汰なく矯正するには遺伝子治療や人格矯正なんかが必要になると思う
。でも、左派は自然の克服を是とするから、その方向にむかうと思う。 途上なんで口を出さないでくれ
ここは黙々と貼り付けていくだけ 836 :考える名無しさん:2012/01/16(月) 10:27:41.23 0
ALWAYS 三丁目の夕日という映画が人気だが、
主人公は作家志望の高等遊民だね。
そして、人々は知にあまり接していなくて、エリートに対する尊敬の念が十分に残っている。
主人公は、エリートとして、あるいは知の神官としてのアイデンティティを余裕を持って持ちながら
人々の昭和の暮らしのいいとこ取りをできる。
エリート崩れ、つまり世俗的でないヒューマニズム信仰者にとって、夢のような舞台だけれど
それは人間を廃人にしてしまうシチュエーションでもある。 881 :考える名無しさん:2012/01/18(水) 16:41:37.21 0
バブルというのは、それまでの日本文化の集大成なんだよ。
あの非合理さというのは、それまでの昭和文化の表出にほかならない。
バブル崩壊後の合理主義的な文化というのは、それまでの日本文化には
あまり見られなかった。
バブルの崩壊時に日本文化は大きく断絶してると思う。
昭和までのいい加減さが終わり、平成の合理性がとって代わった。
これは、さらにさかのぼった日本の歴史の中でも大きな文化的な出来事なのではないか
と思う。日本のいい加減さというのは、かなり古くから続いてきたものだしね。 896 :考える名無しさん:2012/01/19(木) 09:46:29.54 0
昭和30年代、40年代というのは、神としての「知」が健在だった。
神が存在する世の中というのは、穏やかで人々は希望を持ち、満たされている。
ただ、神としての「知」の欠点は、それがループバックすること。
つまり、「知」が神であったはずなのに、いつのまにか自分が神になる。
これが昭和50年代、あるいは1980年代に起きた。
その結果として、ちっぽけな自分(自分がそのことを一番よく知っている)が神であるなら、
この世に神は存在しないということになる。それが、現在。
神のいない世の中では、人々は希望を失い、絶望の中を生きることになる。 360 :考える名無しさん:2012/02/17(金) 11:20:40.45 0
根本の問題は、他人に必要とされない人間が酷い目に合うことは
正しいのか、そうでないのかだ。
他人に必要とされない人間でもちゃんと生きることができる世の中が正しいと思うなら
自由経済では無理だ。そこに、強制的な再配分の仕組みが必要になる。
でも、ここで考えて欲しい。配偶者に何の魅力もない人間をあてがわれることを許容できるかどうか。
それを許容できるのであれば、自由経済を捨てる覚悟はある人間だろう。
昔の人間は、お見合いの相手をそのまま受け入れていたから、これは必ずしも無理な話じゃない。
もし、魅力のある人間と付き合いたい、そういう人間が周りにいて欲しいと思うなら
自由経済を選択するしかないだろう。
その場合、他人から必要とされない人間が酷い扱いを受けることになるのは必然ってことになる。 当時は、娯楽がほとんどなかったから、何の魅力もない相手でもそれなりに遊びを思いついていたけど
まで読んだ。 388 :考える名無しさん:2012/02/20(月) 08:31:21.57 0
また、社会全体の問題とは別に、
人々の行動の合理化によって、割を食う存在がある。
それは今まで、人々の行動に無駄が多かったために、合理的に立ち回ることで
利益を得ていた存在。つまりエリート層だね。
このようなエリート層は、今まで合理的に行動することで無駄の多かった一般大衆よりも
優位に立つことができたんだが、人々の行動が合理的になるほど、
合理的であるという点のみで優位に立つことは難しくなる。
このような点のみで優位に立っていて伝統的エリート層はかなりいると思う。
「合理的である」というその一点だけで、良い教育を選択し、良いキャリアを選び、良い待遇を得る。
これは人々に無駄が多く、人々が不合理であったが故に比較優位があったから。
ところが、人々の行動が合理的になると、「合理的である」という点だけど比較優位を得ることは難しくなる。
これが現代社会。このときに比較優位を得るには、本当の生まれながらの「才能」が必要になる。
これは、自身の意思選択や努力では獲得できない部分でもある。これは皮肉だけれど、よく考えれば当然のことなんだよね。 これは6年前の言説なんで、議論するのは辞めてくれ
これらもそのうち徐々に解決されて、整理されてくる 608 :考える名無しさん:2012/03/09(金) 08:29:50.78 0
この世界、自然、そして運命は、人間個人の尊厳など一切考慮せず、
それを押し潰していく。伝統宗教はそれを受け入れる心の準備をするためのもの。
スピリチュアルは、人間個人の尊厳こそ至高のものであり、それを守るための
努力を諦めるなという。そしてたとえ負けた場合でも、それは仮のものであり
生まれ変わりでもなんでも可能。なぜなら、人間個人の尊厳こそ至高だから、
それを保証するものは何でも存在するって考え。また人間個人の尊厳は、周りの人々との
調和がなければ成り立たないから、それも重視する。ただし、人間個人の尊厳を確立するための
周囲との調和であって、それを一切無視したものは受け入れない。
それに対して伝統宗教は、人間個人の尊厳を一切無視した運命を受け入れる準備をするための教え。 177 :考える名無しさん:2012/07/11(水) 06:58:30.49 0
いじめっていうのは、パープルとレッドの世界だよ。
理屈が通らず、印象的呪術的に物事が動く。その中で強いものが君臨する。
原始的呪術的なパープルの海の中からレッドが君臨するんだよ。それがいじめの世界。
178 :考える名無しさん:2012/07/11(水) 07:39:20.44 0
レッドを抑えるには、ブルーの規律が必要。
オレンジやグリーンは、パープルやレッドに直接には対峙出来ない。
日本は今、ブルー的な規律が不在になってる。
この部分をなんとかしないと、いじめに対処できない。
そのために、イエロー的な視野からのブルーの再構築が必要だと思う。
小中学校の教師は特に、ブルー的な価値観が必要。
高校大学からオレンジ、グリーンへと導くべき。 186 :考える名無しさん:2012/07/12(木) 06:53:45.59 0
オレンジが主流の現代社会では、子供たちにはとりあえず
ブルーの素養までは身につけさせないといけないと思う。
ブルーの素養があれば、たとえオレンジに対して反発したり抑圧を受けたりであっても
社会とまともな接点が持てる。そこから社会に参加し、影響を受けたり影響を与えたりできる。
これがパープルやレッドに留まると、社会とまともな接点が持てなくなる。
そうすると、社会から脱落したり犯罪者になったりする。
だから、初等教育においてはブルー的な規律を身につけさせることを
まず目標にしないといけない。
187 :考える名無しさん:2012/07/12(木) 09:53:41.94 0
江戸時代においては、支配階級がブルーであり、
庶民はパープルやレッドであっても、ブルーから抑圧されたり指導されたりという
直接的な関与を受けることが出来た。だから、江戸時代では庶民はパープルやレッドでも社会参加できた。
ところが、現代社会では、支配階級のオレンジがパープルやレッドに対して直接関与する術を知らない。
だからオレンジは、パープルやレッドを法律の枠内であれば完全放置する。
こうなると、パープルやレッドは社会に参加できなくなる。
いじめ問題もこの放置から来てる。ブルーはパープルやレッドに対処し指導できるけど、オレンジには
それが出来ない。
このために、初等教育においてはブルー的な人員を配置して、パープルやレッドを指導し
ブルー的な素養をすべての子供に身につけなせないといけない。
それが江戸時代と現代の違いだと思う。 189 :考える名無しさん:2012/07/13(金) 08:04:54.97 0
スパイラルダイナミクス関連のリンク
http://blog.livedoor.jp/rsuganami/archives/1322494.html
http://www.geocities.jp/deepbreathinghp/spiraldynamics.htm
http://www.geocities.jp/deepbreathinghp/yellow.htm
http://blog.livedoor.jp/rsuganami/archives/1343699.html
ベージュ→パープル→レッド→ブルー→オレンジ→グリーン
これが第1階層
イエロー→ターコイズ
これが第2階層
基本的にブルーやグリーンなどの寒色系は、エゴは環境に従属すべきと考え
レッドやオレンジなどの暖色系は、エゴが環境を管理すべきと考える。
各階層の最初のベージュとイエローはエゴと環境が統合されている。
パープルは、呪術的。エゴと環境はまだ未分化。
レッドは、強さこそ正義。環境からのエゴの独立。戦国時代。
ブルーは規律を重んじる。武士道、キリスト教、儒教など。
オレンジは自由を重視。資本主義と民主主義。
グリーンは多様性を重視。ポストモダン。 191 :考える名無しさん:2012/07/13(金) 08:37:12.52 0
なぜ、イエローで次の階層になるのかというと、
イエローは第1階層のすべての色の意義と重要性を理解しているから。
第1階層を俯瞰的に捉え、それぞれの色の長所と欠点を理解し、構造全体にとって各色が不可欠であることを
理解しているから。このために、次の階層に置かれることになる。
また、イエローではエゴと環境が統合されるけれど、イエロー自体は暖色系でありエゴの力により序列化を行い
それを進化の力とする。 197 :考える名無しさん:2012/07/13(金) 16:48:04.95 0
とにかく、いじめ問題は酷すぎる。
オレンジ的な手法やグリーン的な手法はいじめにはまったく効かないどころか
かえって逆効果。
ブルーの規律を学校現場に導入しないと、どうにもならない。
レッドとパープルからなる原始的な力と論理のない感覚の世界がいじめであり
これを指導するにはどうしてもブルーの規律を学校現場に導入しないとダメ。
オレンジやグリーンにはまったく手に負えない世界だよ。 スパイラルダイナミクスを理解してもらうには学校のいじめ問題が一番わかりやすい感じだな
また、これはアメリカや中南米のギャング集団なんかに当てはめてもわかりやすい 218 :考える名無しさん:2012/07/14(土) 07:57:39.89 0
なぜかというと、近代理念というのは、それ以前に確立していた
規律を前提として生まれてきたものだから。
その規律がなくなってしまうと、近代理念が生まれた前提がなくなってしまうことになる。
そうなると、近代理念の存在理由自体が怪しいものになる。
かといって、規律が確立する前の状態に戻れば、それは混沌とした
戦国時代のようなものであり、はっきりいって酷い世界。
近代理念を活かすには、それが成り立つ前提となった規律を身につけないといけない
ってことだと思う。 229 :考える名無しさん:2012/07/15(日) 10:43:54.40 0
>>224
未分化なエゴを持つパープルの集団に強いエゴを持つレッドが君臨する構図だね。
昭和40年代ぐらいまでは、学校に強い規律が存在したので
こうした集団をうまく指導できたんだが、その規律が薄れてしまい
オレンジやグリーン的な指導が学校で行われるようになると、パープルとレッドを直接指導できなくなって
しまった。それで生徒間の関係が原始状態に逆戻りしてる。
とても文明社会とは言えない。学校に規律を取り戻さないと、オレンジ的(民主的)教育をする基盤がないよ。
それ以前の原始状態だから。
230 :考える名無しさん:2012/07/15(日) 10:49:51.40 0
強い規律を持つ人々に民主教育をするから意味があるのであって、
原始状態にある人々に民主教育などまったく意味がない。
歴史的にも、強い規律を持つ人々が民主主義を選択したわけで、
原始状態の人々が選択すべきなのは強い規律だよ。
歴史はまさにその通りに経過してきたわけだし。 264 :考える名無しさん:2012/07/28(土) 16:21:54.83 0
要するに、グリーン的な間違いに陥ってるんだよ。
平坦な多様性を認めても、問題は何も解決しないどころか
却って悪化する。いじめられる多様性やいじめる多様性も認めろよとなるだけ。
そこに問題があるわけじゃない。むしろ逆。
ブルー的な規律が必要であるのに、それを排除しようとしてる。
それは、グリーンのみの価値観があればいいと考えるグリーンの欠点。
イエロー的視点で、すべての段階の価値観が必要であると認めれば、現状の学校に不足しているのは
ブルー的な規律だとすぐに分かる。
尾木ママのようなマイノリティ的立場の人は、自身への迫害を恐れるあまり、
多様性を重視するグリーン的価値観の人が多いが、
そこからさらに進んで人間の歴史においてたどってきた各段階の必要性にも目を向けないといけない。
同時代の横軸の多様性だけでなく、歴史あるいは成長の縦軸の多様性を認めないといけない。
そしてその上で、社会を良くしていくという視点を忘れてはならない。