ハイデガーの著作を読み込むスレ
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
第一党は途中まで戦争大賞だったのに負けからだけ叩かれる。ナチの残党復帰 してくれた方がいいというよりメルケルはナチスだ。だいぶ勝ってるぞ。 負け組を世界で叩く世界はひ弱だろ? ナチス第一党は途中まで戦争大勝だったのに負けからだけ叩かれる。ナチの残党復帰 してくれた方がいいというよりメルケルはナチスだ。だいぶ勝ってるぞ。 戦争の負けを引き延ばして世界で叩く世界はひ弱だろ? 連合国側に宣戦布告だ。 ナチス第一党は途中まで戦争大勝だったのに負けからだけ叩かれる。ナチの残党復帰 してくれた方がいいというよりメルケルはナチスだ。だいぶ勝ってるぞ。 戦争の負けを引き延ばして世界で叩く世界はひ弱だろ? 連合国側に宣戦布告だ。 ナチス第一党は途中まで戦争大勝だったのに負けからだけ叩かれる。ナチの残党復帰 してくれた方がいいというよりメルケルはナチスだ。だいぶ勝ってるぞ。 戦争の負けを引き延ばして世界で叩く世界はひ弱だろ? 連合国側に宣戦布告だ。 ハーマンが言う「怪奇実在論」については、典型的な例としてはサルトルの『嘔吐』に置ける「マロニエの樹」の記述になるだろう。 井筒俊彦が言う本質脱落の姿である。 マロニエの樹とは公園によく植えられている巨大な根が複雑に絡み合った樹(セイヨウトチノキ)のことだが、 サルトルの記述によると、それは形容しがたい「黒々とした恐ろしい塊」である。 それはまさにエポケー後の現象学的な記述を意識しているのだが、ハーマンはラヴクラフトやポーの小説世界もこれと同じだと言う。 我々の見慣れた本質世界をエポケーした存在論的な世界を彼らは記述している。 そこでは、見知った隣人の存在が怪奇現象となるのである。 ある意味でそれは荒木飛呂彦の描き出す世界とも共通している。 荒木は何でもない町の住人の怪しく光った目の光や鈍く太陽を反射する液体が首筋を通過する様を記述することで、通常の世界が怪奇に巻き込まれていく様を記述している。 水木しげるも同様で「ホームレスのおじさん」を「ネズミ男」として作品世界に再構成しているのである。 そこにあるのは「セイヨウトチノキ」などではない、「黒々とした恐ろしい塊」である。 しかし「黒々とした恐ろしい塊」そのものは「実在する」としているのである。 確かにこれはピカソやブラックなどの芸術を理解する鍵ともなるだろう。 ピカソのギターを弾く男の絵はもはやギターや人間の形相は失われているが、形相が失われた何かとしての対象は存在しているのである。 ハーマンの四方構造論とハイデガーの四方界は殆んど関係ないように思える。 ハーマンのものは既存の学説を四分類したものに見える。それはそれで面白いとは思うが、ハイデガーの四方界とは別物として扱うべきじゃなかろうか。 「四方化」と言う考え方は面白いと思う。 例えば、現代経営学でも「経営の目的は顧客の創出である」とか「マネジメントの目標はイノベーションとマーケティング」と言う単純化や理念化をしがちだが、実際の経営や管理は、顧客、社会(従業員)、国家、資本家などの四方界の調整関係と言う側面がないだろうか? 我々は、物事を原理主義的に考える傾向がある。例えば、昭和の軍閥は天皇主義と国際協調主義、社会民主主義、無政府主義などの考え方が入り乱れて居たが、四者の中庸を取る事で、四方世界のエネルギーがポジティブな方向に向かったのではないかと思う。 職場に置ける四方界 目に見えぬもの(思弁的対象) 資本 社会 目に見えるもの(感覚的対象) 職員 顧客 資本(或いはゲシュテル)と職員はひとつのペアで、職員の背後には資本の動きが影響している。 社会(国家 市民 人間)と顧客も一つのペアで、顧客の背後には市民社会がある。 (職員の背後にも市民社会はあるのだが) 職場は基本的には職員と顧客だけが存在する世界である。 しかし、資本や社会が目に見えぬものとして(下部構造として)その動きに影響している。 感覚的実在の他に思弁的実在も考慮に入れる必要がある。 職場に置ける四方界 目に見えぬもの(思弁的対象) 資本 社会 目に見えるもの(感覚的対象) 職員 顧客 資本(或いはゲシュテル)と職員はひとつのペアで、職員の背後には資本の動きが影響している。 社会(国家 市民 人間)と顧客も一つのペアで、顧客の背後には市民社会がある。 (職員の背後にも市民社会はあるのだが) 職場は基本的には職員と顧客だけが存在する世界である。 しかし、資本や社会が目に見えぬものとして(下部構造として)その動きに影響している。 感覚的実在の他に思弁的実在も考慮に入れる必要がある。 職員や顧客の背後には資本や市民社会と言う目に見えぬ要素があり、その背後には大地や神々が取り囲んでいる。 人間社会には階層構造があるって言った方がすっきりするんじゃないかなって YouTubeで語られているハイデッガー Seyn フォレスト YouTube篇 1 ハイデッガー全集第65巻『哲学への寄与論稿』と現代日本社会 https://www.youtube.com/watch?v=zv1qISJhUqY& ;t=19s ハイデガー、ニーチェ、ナチス https//www.youtube.com/watch?v=.oVD.ggre.k ハイデガー、現存在、世界内存在、可愛い https://www.youtube.com/watch?v=DtFHYNctt5s YouTubeで語られるハイデガー 普通に読んだら意味不明【ハイデガー/存在と時間】 https://www.youtube.com/watch?v=3QhHpT5mckQ Seyn フォレスト YouTube篇 3 吉本隆明を説明するハイデッガー https://www.youtube.com/watch?v=vMMp2P06SXg なぜ何もないのではなく、何かがあるのか Why is something rather than nothing? https://www.youtube.com/watch?v=tLV4wYYIn9Q 「ハイデガーによれば、死の覚悟がある者だけが、「良心の呼び声」に応えること ができる。どうしてか。こう考えるとよい。永遠に生きるとしたら、今それをやる かどうかは重要なことではなくなる。いつかやればよいからだ。死がいつでも訪れ うるという状況の中で初めて、今それをなすべきかが切迫した倫理的な選択になる。 こう説く本書自体が良心の声である。お前は本来的に生きているのか。・・・」 「死」から人生をとらえ返す ハイデガー「存在と時間」(大澤真幸) https://book.asahi.com/article/11581488 「死」というものが頭でわかっているだけでは、「良心の呼び声」に応えることは 全くと言っていいほどできない。 死の覚悟が体でわかっている状態に置かれなければ、「良心の呼び声」に応えるこ とはできない。 Seyn フォレスト YouTube篇 9 三浦春馬さんの死から考える https://youtu.be/dvW4fx53MBA 三浦春馬さんの死にむけて、小林秀雄、ハイデガー、 吉本隆明のテキストから迫ります。 小林秀雄、ハイデガー、吉本隆明なんて古すぎないか?w あんな難関な文章を書いて、当時は自慢だったのであろうか? まあ哲学専攻する学生らには、お互いの解釈論議で時間を潰し続けるには格好なる書物ではあるわな 小学生からクラシック大好きだったけど、小林秀雄「モーツァルト」も結局は何が言いたかったんだ?www 大学入試問題でも、もう小林秀雄の文章を取り上げて問題作成し、自身で正答・誤答を採点者に指導する 教授もいないでしょうに。 国語問題作成など、個人の感性次第で、いくらでも答えは変わるんだからw Seyn フォレスト YouTube篇 1 ハイデッガー全集 第65巻『哲学への寄与論稿』と現代日本社会 https://youtu.be/zv1qISJhUqY ハイデッガー全集第65巻『哲学への寄与論稿』は いまだに謎のかたまりとしてわれわれに立ち塞がっている引きこもりの凶悪犯罪を解明する ツールとして『哲学への寄与論稿』を読む試み。 Seyn フォレスト YouTube篇 2 ハイデッガー全集第 65巻『哲学への寄与論稿』と現代日本社会 続 https://youtu.be/_vHZga_mjJA 日本の1990年代以降の特異な現象である引きこもりに よる凶悪犯罪。この難問を解きうるツールとして ハイデッガー『哲学への寄与論稿』を読む試み。1の続編。 手元的に存在しているものは、つねにすでに適材適所性の全体から理解されている。この適材適所の全体性を、主題的な解釈によって明示的に捉えている必要はない。 この適材適所の全体性にたいしてこうした主題的な解釈が行われたとしても、やがてはまた目立たない了解のうちにもどってゆくのである。 そしてこの目立たない様態のうちでこそ、こうした適材適所の全体性は日常の〈目配り〉のまなざしによる解釈のための本質的な基礎となっているのである。 こうした解釈は、そのおりおりに予持のうちに根拠づけられている。 解釈は、了解したことをみずからのものとして獲得することであるから、すでに理解された適材適所の全体性を理解しつつかかわる存在のうちで働いている。 ところで理解されてはいるものの、まだ覆われているものをみずからのものとして獲得するためには、 この〈覆いを取り除く〉必要があるが、そのためには理解された物をどのような観点から解釈すべきか定めるための〈眺めやるまなざし〉に常にみちびかれる必要がある。 すなわち解釈はそのつど、何らかの予視に基づいているのであり、この予視はすでに〈予持〉のうちに保持されているものに、 ある特定の解釈可能性を見越して「照準を合わせて」おくのである。 このように〈予持〉のうちに保持され「予視によって」照準を合わせられると、この理解された物ものは解釈によって把握できるものになる。 解釈する営みでは、解釈すべき存在者に属する概念装置をこうした存在者そのものから汲み取ることもあれば、ときにはこうした存在者の存在様式には適さない概念のうちに、その概念装置を押し込めてしまうこともある。 どちらにしても解釈は、最終的にはあるいは留保つきで、そのつどすでに特定の概念装置を採用することを決定してしまっているのである。 解釈は予握に基づいているのである。 理解の投企において、存在者はその可能性において開示されている。こうした可能性という性格は、そこで理解されている存在者の存在様式に、そのおりおりに対応したものとなっている。 世界内部的な存在者一般は、世界に向けて、すなわち有意義性の全体に向けて投企されている。そしてこの有意義性の指示関連のうちに、世界内存在としての[現存在の行う]配慮的な気遣いが、あらかじめ固定されているのである。 世界内部的な存在者が、現存在の存在とともに露呈されて、了解されるにいたるとき、それは意味をもつと言われる。 しかし厳密には、理解されたのはその意味ではなく、存在者であるか、あるいは存在である。 意味とは、あるものの了解可能性はそこで保たれているもののことである。 理解による開示のうちで分節することのできるもののことを、わたしたちは意味と呼ぶのである。 意味という概念は、理解する解釈が分節するものに必然的に属する形式的な枠組みを含むのである。 意味とは投企が目指していた〈その向かうところ〉であり、それは予持、予視、予握によって構造化されているのである。 この構造化された〈その向かうところ〉に基づいて、〈あるものとしてのあるもの〉が理解できるようになる。 理解と解釈は〈そこに現に〉の存在の実存論的な機構を構成するものなのだから、 意味とは、理解にそなわる開示性の形式的で実存論的な枠組みであると考える必要がある。 意味は現存在の実存カテゴリーであって、存在者に付着していて、存在者の「背後」にあったり、どこかの「あいだの領域」に漂っていたりする属性のようなものではない。 意味をもつのは現存在だけであり、それは世界内存在の開示性が、その開示性において露呈させることのできる存在者によって「充実させることができる」からである。 第一に、言明とは、第一義的には提示を意味する。この提示という意味において、アポファンシス(語り)としてのロゴスの根源的な意味が堅持されている。これは存在者をその存在者自身のほうから見えるようにすることである。 「このハンマーは重すぎる」という言明について考えると、ここで〈まなざし〉にたいして露呈されるのは「意味」のようなものではない。 ある存在者がその手元存在性のあり方において露呈されているのである。 この存在者が、すぐに手がとどき「目のとどく」近さに存在していないときにも、この提示はその存在者そのものを指し示しているのであり、それについてのたんなる表象を指し示すわけではない。 つまりそれは「たんなる表象されたもの」ではないし、これを言明した者の心的な状態、すなわちこの存在者についてそれを言明した者が表象する働きのようなものでもない。 Seyn フォレスト YouTube篇 1 ハイデッガー全集第65巻『哲学への寄与論稿』と現代日本社会 https://youtu.be/zv1qISJhUqY 全集第65巻『哲学への寄与論稿』を現代日本社会の 核心部で解読する。1997年神戸での中学2年 サカキバラセイトによる連続殺傷事件をとりあげ、 『哲学への寄与論稿』との関係を炙り出す試み。 Seyn フォレスト YouTube篇 2 ハイデッガー全集第65巻『哲学への寄与論稿』と現代日本社会 続 https://youtu.be/_vHZga_mjJA 前回お話しした問題。ハイデッガー『哲学への寄与論稿』 と現代日本社会の難問である引きこもりとその凶悪犯罪 について、さらに細かく詰めて行きます。 >癌は治る 個体を犠牲にして世代交代をすることによってね 哲学にも造詣がある田坂広志氏のいう、 命の「砂時計」、「平均寿命という妄想」。 この二つは、ハイデガーの「死への先駆」を可能にする。 脱構築研究会・ハイデガー研究会共催 デリダ『ハイデガー 存在の問いと歴史』〈白水社、2020年〉合評会 2020年12月26日〈土〉16:00〜19:00オンライン開催 思想史上の重要性はわかるが内容的には古臭い神学モデルに過ぎないというのは気のせいか? しかも有名どころは戦間期ドイツで書かれたものだからところどころ精神的にとち狂ってるし ハイデガーを叩き台にしてもっとまともなもの書いた方がましだろ Seyn フォレスト YouTube篇 13 芦田愛菜「信じるということ」への存在論的異論 https://youtu.be/2_aWp8Ti2wo ハイデッガー有論からみた芦田愛菜「信じるということ」 Seyn フォレスト YouTube篇 15 芦田愛菜「信じるということ」への存在論的異論−補足 https://youtu.be/THe15QdXysg 先にUPした動画への補足を試みる。芦田愛菜の存在 か、新自由主義への加担になるのではないか。という 試論。 ハイデッガー全集第65巻『哲学への寄与論稿』と神戸連続児童殺傷事件 https://youtu.be/zv1qISJhUqY ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.4.7 2024/03/31 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる