時間とは何か、30
時間とは何か、と問う行為、すなわち時間とは何ですかと他者から問われる。または、自分自身にたいして時間とは何なのかと問うW行為Wの意味は何なのか。
それを問うべきだ。その問いに対する答え、満足な答え、あるほど満足な答え。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1545687347/
過去スレ、他のものは興味ある人は調べて下さい。
時間とは何か、29
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1571012605/ 時間が無くなるからこそ、翻って、時間は無限の延長として理念化される 後/跡(あと)にも先(さき)にも延びているように感じられるのは、時間が無くなることのひっくり返しなのだ。 だから、誰にとっても時間は、生前と生後に延長していて、死後には延長がない。 >歳去り歳来て聴けども変ぜず 言ふことなかれ秋の後に遂に空しくすることを
歳去歳来聴不変 莫言秋後遂為空 ― 紀
(出典 新潮日本古典集成、『和漢朗詠集』、p.79)
この蝉のこゑ(声)の「性質の同一性」が単位として数へられる理念化された時間である。 >>413
概念に存在する時間は時間の概念ですもちろん、概念化される時間は何かのはなしでは? 存在する時間は、理念であり、理念として無限であるが、数へられる時間は、実際であり、数へられる限りのものとして有限なのだ。
>ひと年(とせ)に ひと夜と思へど たなばたの あひ見む秋の 限りなきかな — 貫之
>年ごとに 逢ふとはすれど たなばたの 寝る夜の数(かず)ぞ すくなかりける — 躬恒
(出典 新潮日本古典集成、『和漢朗詠集』、pp.97-88) 一口に存在する時間といっても、どんな主観で口にされる時間かによって存在している時間の全容は異なる。
理念はなんであれ理念として存在する限りの有限だし数えられる時間も周期を数値化した有限の情報。 「時間」として過ごされる「秋の夜」は、「独りで保留された状態」/"being suspended alone"においては下垂れ尾(を(緒/乎))のように長々しく、むつ(睦)びの「むつ(睦)ましき状態」/"being intimate"においては、たちまちのうちに明ける。 >あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む — 人丸
>むつ言も まだ尽きなくに 明けにけり いづらは秋の 長しといふ夜は — 躬恒
(出典 新潮日本古典集成、『和漢朗詠集』、p.94) コンテンツロリコンは叩かれてリアルロリコンは黙認、ショタは無条件で黙認、コレが日本クオリティ 「あしひきの」を表現として解釈することを除外し、さらにまた、これらの歌がつひ(対)になっていることを無視したなら、いづれの歌の心もうまくつた(伝)はることがないだろう。 何か用件があって電話をしても、相手側から保留状態にされて待たされていると、その時間が長々と感じられるでしょう。
そういうことです。 誰が日本語の古語の表現を難解にしているのか
そのように難解にするのは、何のためなのか、誰に役立っているのか 現代の日本語においても「長たらしい」という表現がよく使はれるが、ここで、「長・たら・しい」の「たら」とは何かと聞かれても、すぐに応へられる人はそれほど多くないだろう。
しかし、このように見ると、「長たらしい」の「たら」は、「垂れ」の活用形であるという一つの明確な解釈が得られる。
ところで、ペンダントや振り子が下に垂れているのは、上から吊っている("being suspended")から、この上から吊られた状態を表現しているのが、「あしひきの」である。
また、新潮日本古典集成、『和漢朗詠集』の解説によると、これらの歌が詠まれた時代の時計は、水を「下垂らせ/したた(滴)らせ」て時間を計ったとのことである。 誤:吊っている("being suspended")から
正:吊っている("being suspended")からであり 現代でも、時間が止まったと感じられる様態は、重力の作用が一時停止したようなイメージで描かれることが多い。 時間=過去から未来に至る無限の継続。
時刻=人間の都合のために創られたもの。 ここで応用編である。
「たらひ(盥)」とは何だろうか。
検索してみると、
>たらひ 【盥】 手や顔を洗う、平たい器。 多くは左右に二本ずつ角のような取っ手が付いている。 「たあら(手洗)ひ」の変化した語。
たらひの意味 - 古文辞書 - Weblio古語辞典
という説明がヒットする。 さらに、「盥」という漢字についてWiktionaryを参照すると、
>盥
字源
会意。「𦥑」(両手)+「水」+「皿」、水で手を洗っているさまを象る。「手を洗う」を意味する漢語{盥 /*koons/}を表す字。
すると、「たらひ」という表現は、「手(た)・洗(あら)ひ」の短縮形であることにもはや何の疑ひもないように思へる。 さらに、英語版のWiktionaryでは、
>Ideogrammic compound (會意/会意): 𦥑 (“pair of hands”) + 水 (“water”) + 皿 (“vessel”) – hands holding water from a vessel.
とまで詳しく説明されている。要するに、この漢字は、「器に入れられた水を両手で掬い上げている様子」を表していることになる。
しかし、ここで奇妙なことに気づくはずだ。その奇妙さは、次のように問ふなら、誰でも気づくはずである。
「たらひ(盥)」が手を洗う目的で使はれたとしても、人が手を洗うとき、「たらひ(盥)に入れられた水」で手を洗うのだろうか。
例えば、洗面所で手を洗うとき、人は、洗面ボウルに水を入れて、その中で手を洗うのだろうか。
さらに、「盥」という漢字の訓読みは、「たらひ」以外にもあり、それは、「そそぐ」である。 私は、「盥」の漢字が当てられることになった「たらひ」という表現が、歴史的に「手(た)・洗(あら)ひ」という解釈をもたらしたことを否定しようとしているわけではない。
しかし、「手水盥」が、どのように使はれるものであるのか、手を水で浄める行為である「手水」がどのように行われるべきものとされるのかを考へてみるなら、「たらひ」は、洗濯桶の中で洗濯物を洗うようにその中で手を洗うための水を入れる容器ではないことに気づくはずである。 ネットで検索する限り、他のどこにもそのようには説明されていないので、「私個人の独断と偏見による断定」ということで私の解釈を提示しよう。
「たらひ」とは、それが歴史的に「手(た)・洗(あら)ひ」という解釈を生むことになったものの、これは所謂、民間語源説的な後付けの解釈、云はば、「歴史修正主義」の結果であって、語源的には、「たらひ」は、「た(垂)ら・ふ」の名詞化、つまり、手を洗うように上から注がれる水を「ひとつにまとめるように受ける受け皿」を意味していたと解釈する方が妥当である。 また、これは、日本語の表現法の一般性から導かれる解釈でもある。
例えば、「つがひ」という表現を考へてみるといい。
「つがひ」が、「つ(継/接)が・ふ」の名詞化であることは、フランス語の《les conjoints》(「夫婦」)という表現との対応関係を見れば、一目瞭然である。
なぜなら、「つ(継/接)が(≒joints)・ひ(≒con-)」であるからだ。
同様の解釈の例は、他にいくつも示してきたので、これは、日本語の表現法としてかつては一般的に通用するものであったことに気づくはずである。 このような、日本語を母語とする人であれば、本来、誰でも気づくはずであるようなことに私のような変わり者以外は誰も気づかなくなり、疑問にすら感じなくなることが、学校の教育により脳をきれいに洗いつづけてもらったことの成果である。 「たらひ(盥)」とは、下水道に通じる穴のない"Vessel Sink"である。 下水道に通じる穴のない"Vessel Sink"/「たらひ(盥)」に貯められた水の中で芋を洗うように脳を洗いつづけてもらったらどうなるだろうか?
脳は、何色かにきれいに染まるのではないか? 【千金之子坐不垂堂】センキンノコハサ゛シテト゛ウニスイセス゛
《故事》金持ちの子は身をたいせつにするので、落ちる危険のある堂のふちにはすわらない。〔史記・袁〕
学研漢和大字典 ページ 848 での【千金之子坐不垂堂】単語。 時(とき)は、どのように流れるのか
「チクタク」というのは、時(とき)が刻まれる様を伝へるものであり、時(とき)が流れる様を伝へるものではないだろう。 時(とき)が流れは、対比において経験される。
>秋の水漲り来りて船の去ること速かなり、
夜の雲収まり尽くして月の行くこと遅し、
秋水漲来船去速。夜雲収尽月行遅。
汴水東帰即事 郢展 そもそも時は流れてないんですよ
流れているように直感してしまうだけ 誤:時(とき)が流れは、
正:時(とき)の流れは、 時間は運動を直接とらえられないから
運動量にして理解している
一秒一年は存在する?
無いよ 時間は無い
運動量をある基準で理解する
時間はその換算 自ずと折り合ひがついているように感じられることが自然であり、折り合ひがつかないように感じられることが不自然である。 >>444
自然に在るのか無いのかわからない前提で考える中身はそもそも時間ではなく時間思想ですね。 >>447
? 時間思想の意味がわかりません
静止、生死は物理としてありませんよね
でもそれで物理を理解する
時間もまた物理としては無いのでは? アインシュタインが示したように、時間は局所的で、共通の時間はありません。
ですから共通にあるのは、「時間」ではなく「時間合わせ」です。
コミュニケーションにおいて時間を問題するときは、いつも「時間合わせ」を
念頭にする必要があります。 何億光年前の銀河系の姿を光は届ける
それはわたしたちの身の回りの物もまた
媒介の光自体は今〈ある〉
今は運動の異称 今、ここと指示すると今、ここは飛び去る
ヘーゲル、太宰治の指摘 対象はその否定で規定します
有は無で
次元は存在しない 規定は否定 スピノザ
運動は静止で
差異は否定で 生物非生物 静止 生死 終始
静止は運動の一形態
生死は物理状態 終始もまた