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歴史とは何か?【歴史を哲学する】【歴史哲学】
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0001考える名無しさん
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2020/11/11(水) 18:54:43.870
マルクス、三木清、渡邊二郎、ヴィンデンバルト、E. H. カー、野家啓一らを意識しつつ、
色々みんなで考えて行こう。
0002考える名無しさん
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2020/11/11(水) 19:05:01.600
手に入れやすいのは
カーの『歴史とは何か』、マルクスの『ドイツ・イデオロギー』・『経済学批判』かな。
0003考える名無しさん
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2020/11/11(水) 19:19:13.880
渡邊二郎と野家啓一の歴史に関する著作は、
Amazonレビューでけちょんけちょんに言われているな。
0004考える名無しさん
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2020/11/11(水) 19:30:54.230
そういう時はbooklogでの評価も見たりするんだが、
渡邊二郎のはレビューがなくて、
野家啓一のに関しては全て好評だな。
0005考える名無しさん
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2020/11/11(水) 19:34:22.090
>>1
ヴィンデルバントだな。
0006考える名無しさん
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2020/11/11(水) 19:47:17.660
ヘーゲルの歴史哲学も歴史を考える上で忘れちゃいかんな。
0008考える名無しさん
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2020/11/11(水) 20:17:32.380
>>7
んなこと言わずに考えを巡らせようぜ。
情報提供はしたからさ。
0009考える名無しさん
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2020/11/11(水) 20:20:46.900
渡邊二郎は三木清にかなり影響を受けている。
そんなに左翼的な学者だとは思えないが、
やはりそうした立場を超えて、戦前に弾圧された三木の『歴史哲学』を
高評価していると言えるだろう。
0010考える名無しさん
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2020/11/11(水) 20:38:14.320
右翼とみなされやすいクローチェもまた重要だな。
0011考える名無しさん
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2020/11/11(水) 20:41:35.560
国学と歴史学で分けて整理すれば終わる話では?
分け切れない部分はもちろんあるが
0012考える名無しさん
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2020/11/11(水) 20:45:58.290
大学の組織・カリキュラムの視点ね。
国史学科とか昔は言われていたよね。
日本史学者の坂野潤治ははっきり言って左翼的視点から本を書いていたが、
東大の国史学科卒なんだよな。愛国的左翼なんだという理解の仕方もあるだろうけど。
0013考える名無しさん
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2020/11/11(水) 20:51:38.010
まあでも坂野潤治は近代日本政治史を専門としていたから、
日本のアカデミアで研究している限り、国史でも違和感はそんなにないんだよな。
生活史、社会史、民衆史だと印象がちょっと違って来るが。
民衆思想の安丸良夫は京都大学国史学専攻卒ってのが時代の違いを考えさせられる。
0014考える名無しさん
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2020/11/11(水) 21:02:30.490
網野善彦も民衆に着目して有名になったが、
日本という国家単位について考える人でもあった訳で、
やはり国史学専攻卒だけあるなと思わされる。
0015考える名無しさん
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2020/11/11(水) 21:07:15.960
現代思想は左翼かリベラル、せいぜい共和主義者の中でアカデミアが完結し、
分析哲学はせいぜいデモクラシー忘れんなよ程度の政治性しかないのと対照的に、
歴史分野は左右、リベラル・保守といった両極を引き寄せる磁場があるように思える。
0016考える名無しさん
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2020/11/11(水) 21:35:02.450
たんに歴史という分野の裾野が広いだけだろ
どんなに勉強と無縁でも思い入れのある歴史は熱く語れる
0017考える名無しさん
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2020/11/11(水) 21:38:17.530
そう言われてみると、
ひと頃に比べると熱気は冷めているのが色んな意味で幸いかな
と思われる。
0018考える名無しさん
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2020/11/11(水) 21:47:21.310
抽象的な現代哲学は左翼しかやらない、と表すか
右翼は抽象的な現代哲学に手も出せない、と表すか
それもまた視点(哲学史観?)次第

手堅い名前が多く挙がってるけど
ウォーラーステイン、ベンヤミン、フーコーも出すだけ出しとこうか
0019考える名無しさん
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2020/11/11(水) 22:10:56.970
ベンヤミンには『歴史の概念について』という著作があったのか・・
知らなかった。。
0020考える名無しさん
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2020/11/11(水) 23:05:01.570
要約すると高位の産業が出現するほど、下位の産業では理解できない
奇抜な行動に出る奴らが増えるというような話だが、実際のところ
お前は現状に混乱しているのか?どうなんだ?
0021考える名無しさん
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2020/11/11(水) 23:13:47.930
無謀さに憧れる。大学院に通いながら向精神薬を貪り食らう
そのエキセントリックさに投資する。って事じゃないの?大学
0022考える名無しさん
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2020/11/11(水) 23:15:36.100
世知辛い世の中だなあと痛感して今の自分の境遇に感謝している。
0023考える名無しさん
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2020/11/11(水) 23:26:32.990
要約すると、ヤツは俺よりも低位の産業形態に位置しているという、
そっちの件に対して危機感を抱いているという事だろう。
じゃあまさに、修士貴様とは暮らす次元が違うというようなことだな。
0024考える名無しさん
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2020/11/11(水) 23:30:21.140
まぁ物事を多面的に捉えたら哲学じゃないからな。
0025考える名無しさん
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2020/11/11(水) 23:30:53.530
まあなるようになるさ
0027考える名無しさん
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2020/11/11(水) 23:50:19.290
相対主義みたいなもんか?
0028考える名無しさん
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2020/11/12(木) 00:02:54.250
その一語で済ますのはどうだろうかとも思うが…

ニーチェは歴史論があるし、ちょっとは齧っておこう
渡邊二郎→ハイデガー→ニーチェ といずれ遡ることになる
相対主義といえばむしろ19c以来の歴史主義の話かな
0029考える名無しさん
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2020/11/12(木) 01:08:22.960
>>27
波平の記憶のこと
0031考える名無しさん
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2020/11/12(木) 13:53:34.310
マルクス主義的歴史観はともかく、
唯物史観自体は有効なものだと思う。
0033考える名無しさん
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2020/11/12(木) 14:02:09.680
唯物史観とは、マルクス主義的な歴史観のことだ

一体、何の話だと思ってるのか?
0034考える名無しさん
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2020/11/12(木) 14:04:04.650
輿



0035考える名無しさん
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2020/11/12(木) 14:05:15.350
>>32
マルクス主義的歴史観は、イギリスと同じように他の西欧諸国でも
封建制が解体されて資本主義的生産様式が定着し、そして資本主義の矛盾から
革命が起こるみたいな感じ。

唯物史観は物質が人間の意識を規定する。経済が政治文化法律を規定する。
生産力の変化が新しい生産様式を求めるようになる。という感じ。
0036考える名無しさん
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2020/11/12(木) 14:07:14.530
唯物史観はもちろんマルクスの主張の影響を受けているのだが、
日本ではマルクスを受容した三木清とかによって
「事実が意識を規定する」などと応用されている。
0037考える名無しさん
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2020/11/12(木) 14:16:32.370
>>35
> 唯物史観は物質が人間の意識を規定する。経済が政治文化法律を規定する。
> 生産力の変化が新しい生産様式を求めるようになる。という感じ。

それがマルクス理論のエッセンス

マルクス主義の歴史観そのものだ
0038考える名無しさん
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2020/11/12(木) 14:18:43.040
>>36

> 唯物史観はもちろんマルクスの主張の影響を受けているのだが、

それは、「仏教は釈迦の影響を受けている」というようなものだ
0039考える名無しさん
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2020/11/12(木) 15:09:08.890
唯物論自体はマルクスより前からあるけど、
唯物史観はマルクスのオリジナルだもんな・・
0040考える名無しさん
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2020/11/12(木) 15:17:31.010
渡邊二郎が『歴史の哲学』で三木清の『歴史哲学』を引用しているから
三木清の同書を古本の全集第6巻で手に入れて1章読んだ訳だが、
『歴史とは何か』の脚注をよ〜く見ると原著で引用していた。
0041考える名無しさん
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2020/11/12(木) 16:51:22.260
まあだから三木の本を精読する機会を与えられたと思うようにしよう。
0042考える名無しさん
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2020/11/12(木) 17:26:29.730
「原‐『日本語』」は、中国大陸、朝鮮半島、日本列島にわたる広域の水路で
交易のために中国語を流用することによって形成されたピジン言語であるという
想定は、合理的であるとともにとても魅力的だ。人々が統治のために管理する
境界は、勢力関係に応じて時とともに大きく変動する。中国大陸、朝鮮半島、
日本列島の関係を考えるとき、現在において、または歴史的資料から知られる
統治体制の境界を暗黙の前提としてしまう偏見に強く縛られるが、時代錯誤に
陥らないために最も重視しなければならないのは、統治体制を確立しようとする
ことを含めた、人々の活動である。
0043考える名無しさん
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2020/11/12(木) 17:26:41.060
historische Materialismusと
historische Dialektikが違うとかいう話になるとよく分かんね
0044考える名無しさん
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2020/11/12(木) 17:37:40.550
唯物論と弁証法は全然違うものでしょう。
物質が意識を規定するとする見方の唯物論はカントにも批判されていた。
弁証法はある議論と別の議論が双方を打ち消しあうようにして結合して
新たな議論を作り出すという議論のあり方。
0045考える名無しさん
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2020/11/12(木) 17:39:54.450
>>42
我々が日本史を作る主体なんだよな。
0046考える名無しさん
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2020/11/12(木) 18:10:40.780
>>45
評論や解釈はそれでいい、でも、事実と異物を捏造し、
偶像的な標識や定義や看板や銅像や異物を作り出し
流れを作り出そうとする嘘つきの技術こそ
滅ぼす必要があります。
事実は常に解釈する側の何かであっても、誰かが説明する
主体思想ではないのです。
0047考える名無しさん
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2020/11/12(木) 18:11:23.660
>>44
議論が正しく成立する方法を学んでください、その条件すらしらないなら
自分をのろったほうがいいです。
0048考える名無しさん
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2020/11/12(木) 18:17:58.060
>>46
事実は誰かに主体的に作られるものなんじゃないの

>>47
まだまだ議論とかする段階じゃないでしょ。
資料集めで精一杯。
と言うか、議論が成立するなどということは
僥倖そのものなのでは。
0049考える名無しさん
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2020/11/12(木) 19:57:17.000
唯物史観に則って書かれた歴史書の方が
実証主義的に書かれた歴史書よりも読みやすい。
0050考える名無しさん
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2020/11/12(木) 20:05:55.770
例)
前者:永原慶二
後者:石井進
0051考える名無しさん
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2020/11/12(木) 20:09:47.910
イデオロギーや思想が入った文章は嫌だという向きも多いが、
いやいやどうして、そういうものは文章を読み進めるのに必要な潤滑油のように思える。

以前網野善彦の処女作を京都の古本屋で立ち読みしたことがあるが、
石井進のような感じの本だった。それが時代が下って、被差別民や都市住民に
焦点を当てるような思想の本を書くようになって、良くも悪くも売れっ子になった。
0052考える名無しさん
垢版 |
2020/11/12(木) 21:38:09.920
もちろん、網野善彦は実証主義を捨てた訳ではなく、
『中世再考』という本では石井進の著作を引用している。
0053考える名無しさん
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2020/11/12(木) 21:45:11.990
イデオロギーや思想で脚色されて、資料の提示と解釈が軽視されるから、
良くも悪くも、映画やテレビドラマのシナリオが面白いかどうかというのと
同じような評価しかできない。
0054考える名無しさん
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2020/11/12(木) 21:49:19.260
確かに、
歴史学が客観的妥当性を目標とはしていても、
歴史学者が記述する訳だから記述としての歴史が主観的であり、
出来事としての歴史が客観的だとされるのはそういう所にあるだろうね。
0055考える名無しさん
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2020/11/12(木) 21:57:57.200
「被差別民」については、歴史的な資料がほとんど公開されていない、
もしくはよほどの専門家以外は容易にアクセスできない状態にあるのに、
「超歴史的」に誰もが知っている自明の存在であると見なすように
誘導されている。そのため、「被差別民」問題にはすべての人が
配慮すべきである、とされながら、その具体的な問題自体は、
得体の知れないものとなっている。
0057考える名無しさん
垢版 |
2020/11/12(木) 22:08:46.530
一般認識として「被差別民」が従事していた職業や職能とされるものに
携わっていたのに、まったく「被差別民」と見なされていない人々も
いれば、同じ村のなかで、明らかにされていない何らかの歴史的な
理由により、被差別民とされることになった人々とそうでない人々が
分かれていたりする。それでも、それがどのような歴史的な経緯による
のかを知ろうとすること自体が、「無用で有害な詮索」と見なされ、
道徳/倫理的に忌避すべきこととされるので、結局、「被差別」
というのがどのようなものであるのか不明のまま、「被差別民
を差別するな」という訳の分からないスローガンだけが独り歩きする。
0058◆P1F.MDbmTg
垢版 |
2020/11/12(木) 22:32:12.190
被差別部落には、江戸時代や明治時代、専売特許である職業を生業としてきたことで差別された部落と、もう一つ犯罪を犯したり、
非人道的なおこないをした人間の隔離スペースであった地域という非難の部落がある。

後者の人間の集まりは、やはり非道な行いをする人間も結構いる。
0059◆P1F.MDbmTg
垢版 |
2020/11/12(木) 22:32:36.010
非人の部落
0060考える名無しさん
垢版 |
2020/11/12(木) 22:53:00.140
比較的オープンに被差別部落の歴史的題材を扱った文献の抜き書きが投下されているスレは
こちらになります。

【藤内】富山県の部落問題2
https://toki.5ch.net/test/read.cgi/rights/1249652142/
0061考える名無しさん
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2020/11/12(木) 22:54:48.260
差別する側がまず超歴史的で自明なものとして差別を行ってるし
反差別はそれに対して社会的マナーを唱えてるだけやぞ
0062考える名無しさん
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2020/11/12(木) 22:56:49.600
>>43
イルカとサメの違いやな
正直全然別もんだけどフォーカスポイントが一緒なんで結論は似てくる
物資ベースの歴史と政権交代ベースの歴史なんてどっちも最後に描き出すのは闘争史や
0063◆P1F.MDbmTg
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2020/11/12(木) 23:07:01.900
ちなみに東北地方には被差別部落はないとされているが、ファクトなのか?
0064◆P1F.MDbmTg
垢版 |
2020/11/12(木) 23:11:40.410
掛川市に他の市町村では名門である「柳沢」と「伊東」が差別を被っていると聞いたが、柳沢は徳川幕府の旗本だし、伊東は全国的には華族が多い。
つまり、ある地域では名門で、地方のとある地域では差別を受けたという苗字があるということ。
0065考える名無しさん
垢版 |
2020/11/13(金) 03:26:25.910
ちな高卒者7割構成の日本で
日本は学歴社会だとか修士が云々だとか、ごく一部の人達のみで盛り上がってたけど
あの後どうなったん?消息は?
0066◆P1F.MDbmTg
垢版 |
2020/11/13(金) 03:43:44.960
どうなったって、ふじみ野の駅をアテもなく彷徨ったが
0067考える名無しさん
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2020/11/13(金) 03:44:31.660
正確には大学を卒業してない人が7割だが、確かにお前の言う通りだ。
他の人達は、走り屋やらデスコやらライブやら女子高生やらなんやらそれぞれで、
学歴修士と騒いでいるマイノリティを全く相手にしていなかった感は否めない。
0068考える名無しさん
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2020/11/13(金) 03:48:32.600
ほとんど相手にされてないのにマイノリティ趣味喋り続けるとかやばいよな。
事実上のシカトかな?
0069考える名無しさん
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2020/11/13(金) 03:59:57.450
だからようは近頃○○が流行っているってのは、ようは心理ケアの分野の話題で、
人数配分についてはしっかりと現実のほうを見て、冷静に考えて下さいってことよ?
通常ではあり得ないほど気が大きくなる精神の病気でも無い限り、流石にわかるよな?
0070考える名無しさん
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2020/11/13(金) 04:03:31.740
病的に気が大きくなるやつらは闘争史や!いかにもそれっぽいやろ!
0072◆P1F.MDbmTg
垢版 |
2020/11/13(金) 06:44:58.250
https://youtu.be/FwmsOFDMU3A

爵位についての話もしておこう。
動画でもあるようにイギリスでは14〜15世紀に爵位の身分制度が定まった。
日本は江戸時代には独自の身分制度があったが、明治時代に至り、西洋文化に習って天皇が各家柄に爵位を与えて日本近代国家の礎となる人材を家から出した。

公・候・伯・子・男。
それぞれ公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の身分となる。この身分は天皇から与えられ、勝手に名乗ることはできなかった。
0073◆P1F.MDbmTg
垢版 |
2020/11/13(金) 06:58:18.320
しの家にこのような本がある。

「華族 歴史大事典」新人物往来社より

日本の明治政府は主に、貴族院と衆議院で構成されており、貴族院は華族のような爵位を持った者があり、庶民の代表者(代議士)は平民から普通選挙で選ばれた。
いわゆる公爵とは、天皇家の側近に近い人たちに主に与えられた爵位だ。
主に皇族と摂関家をはじめとした公家、そして武家からは徳川宗家のみが選ばれた。
他に、幕末、国家に勲功ある者たちに与えられた。
1.三条実美や岩倉具視など身分の低い公家だが、その資格を持つ者や、島津氏や毛利氏など所謂、薩長の藩主たちだな。

2. 本家がすでに公爵となっているにも関わらず、その人物の特別な功績が認められて別に家を立てることを許され、さらに公爵位を授けられたグループがある。

3. 家系によらず、初代の勲功によって公爵となったグループ。伊藤博文の伊藤家、大山巌の大山家、山縣有朋の山縣家、松方正義の松方家、桂太郎の桂家の五家である。
0074◆P1F.MDbmTg
垢版 |
2020/11/13(金) 07:07:58.660
ちなみに公家で公爵になれたのは、所謂、藤原北家の家柄である五摂家が主に与えられた。藤原五摂家とは一条家、二条家、九条家、近衛家、鷹司家の家柄であり、
現代の藤原姓はのちに付けられた苗字である。
古来より、この五摂家が太政大臣や関白、大納言などを代々世襲しており、豊臣秀吉は近衛家の養子になったことで与えられた。
0075◆P1F.MDbmTg
垢版 |
2020/11/13(金) 07:18:41.830
花より団子とか、ああいう少女漫画に出てくる財閥や公家の子息を指していると思われ、日本では公爵と侯爵との身分の間には払われた金額のちがいがあり、
第一位の公爵はかなりの財を成していたのに対して、第二位の侯爵から下の華族は貧乏な家が多かったらしい。

夏目漱石の小説によく「下女」とか「下男」とか「方向人」とか、「書生」とか出てくるが、夏目漱石小説の家柄もかなり格式高く、
親戚に男爵がいるとか、親兄弟が財を成しているとかよく出でくる。ちなみに「下女」などの下手人や番頭は、位の高い家に平民がお手伝い生業として奉公していた者を指す。

あとは江戸時代の越後屋などの三井財閥などだが、所謂、日本経済を動かすほどの財を成した四大財閥(三井財閥、三菱財閥、住友財閥、安田財閥)なども下の方の爵位を持っていた。
しかし、下の爵位ではあったが、何せ財産が巨額すぎて、経済立国となった日本では他の爵位を持った者よりも権威があったといっても過言ではないだろう。
0076考える名無しさん
垢版 |
2020/11/13(金) 07:27:21.360
などと書いている人達を全く相手にしていなかった感は否めない。
0077◆P1F.MDbmTg
垢版 |
2020/11/13(金) 07:27:27.990
批判の矢面に立たされている秋篠宮眞子内親王のフィアンセであるKさんであるが、宮内庁もはじめによくよく調査も行わずに、記者会見を開いたということは、
まあ、結構、皇族に対する自由恋愛も認められているのかもしれない。明治や大正であれば、一般人と皇族は結婚はできなかったし、
上皇后美智子様の時代だって、かなり身分については調査されたと聞く。それが現代、記者会見が終わって少し経ってから問題が噴出したのは、かなり宮内庁も緩くなったいることの現れなのかもしれない。
0079考える名無しさん
垢版 |
2020/11/13(金) 07:34:39.010
       彡川川川三三三ミ〜
      川|川 / 臭 \|〜
      川川  ◎---◎|〜... / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
      川川     3  ヽ〜< おちんちん洗わずに今川焼き食うのが真の勝ち組
      川川  ∴) A(∴)〜  \______________________________
      川川     U  /〜     ___
    _;川川     ダッラ〜   .    |  |   |\_
  /  川川   __/        . |  |   | |  |\
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(    (   ◎  / \_          .|  |   | |  |::::|
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0080考える名無しさん
垢版 |
2020/11/13(金) 09:19:27.710
「被差別」というのがどのようなものであるのか不明のまま、
「被差別民を差別するな」という訳の分からないスローガンだけが
独り歩きするので、誰でもが正体も実態も不明な「被差別民」に
配慮しなければならないという「得体の知れない道徳/倫理的義務」に
縛られることになり、当然、それに便乗して、差別の実態とは
無関係に自己利益を増進しようとする連中が暗躍することになるので、
ますます差別問題は「さはらぬ神に祟りなし」という一般的な
態度で忌避されながら、永続することになる。
0082考える名無しさん
垢版 |
2020/11/13(金) 09:38:08.910
subodoration
0083考える名無しさん
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2020/11/13(金) 10:46:58.860
印欧諸語と日本語は、日本語の単語を、その単語を翻訳する印欧諸語の単語と
並べただけでは、発音がまったく似ていない場合がほとんどだが、表現の
レベルで比較してみると、発音とそれが想起させるイメージの関連付けに
かなりの類似性が認められる場合が多い。

例えば、フランス語で《'écœurement》は、日本語にすると「吐(は)き気(け)
を催す」ことを意味し、見ての通り、このように並べたのでは、フランス語と
日本語の間で発音の対応はまったく見られない。しかし、フランス語の
《'écœurement》は、《'écœurer》(「吐き気を催させる」)という動詞の名詞化
であり、「『胸がむかむかする』状態を生じる」ことを表現し、《'é+cœurer》
と分解されて、《é〜+er》は、外に出す作用を表現し、《cœur》は、ここでは、
日本語で「胸」として表現したものの、漢語の「心臓」に対応し、日本語の
「こころ(心)」に対応する。ところが、フランス語の《cœur》と日本語の
「こころ(心)」は、発音とそれが想起させるイメージの関連付けにおいて
よく似ている。では、元に戻って、《'écœurement》はどうかと言えば、
これは、「《cœur》という「求心的に存在するもの」を外に出す作用」と
して見れば、表現のレベルにおいて、日本語の「く(刳)り」や「くり(栗)」
に似ていることに気づく。
0084考える名無しさん
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2020/11/13(金) 10:58:31.340
例えば、フランス語の《'écœurer》と日本語の「えぐ(抉)る」を表現レベルで比較してみるといい。
0085◆P1F.MDbmTg
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2020/11/13(金) 11:21:06.480
ユンカー(Junker)
0086考える名無しさん
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2020/11/13(金) 11:39:49.150
「えぐ(抉)る」の古語における発音は、「ゑぐ(抉)る」である。
ところで、現代語の「よ(酔)う」に相当する古語は、「ゑ(酔)ふ」であり、
この表現は、「ゑ+ふ」と分解されるので、「ゑ」によって表現される
作用/動作の再帰表現である(この場合は、自らの動作を表している)
と解釈することができる。

岩波古語辞典の記載を参照してみよう。
A(乗物などにゆられて)気分が悪くなる。
「[車デ]かくの如く行く程に、三人ながら『ゑ(酔)ひ』ぬれば、
踏板に物つき散らして」(今昔二八ノ二)

さて、フランス語の《écœurer》の《é+》と日本語の「ゑ+」は互いに似ていないだろうか。
0087考える名無しさん
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2020/11/13(金) 12:40:44.870
また豚に歴史がありますか?百姓に歴史がありますか?
の時代に戻るのかなあ
0089考える名無しさん
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2020/11/13(金) 15:37:11.900
>>87
は皇国史観の平泉澄の言葉ね。
0090考える名無しさん
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2020/11/13(金) 16:13:31.560
結局そういう歴史観からすれば、
侍や軍人のような命を賭けて戦っている人とそれを使う者のみが歴史を作るという訳だ。
0092考える名無しさん
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2020/11/13(金) 16:37:49.020
被差別民に歴史がありますか?ルンペンプロリタリアーとに歴史がありますか?
0094考える名無しさん
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2020/11/13(金) 17:56:01.880
求心的に実が存在するのが「クルミ(胡桃)」である。
実を表す場合に「クルミ」という表現が指すのは、殻を含む全体ではなく、その核である。

くるみ【胡桃】
クルミ科の落葉喬木。また、その実の核
岩波古語辞典
0095考える名無しさん
垢版 |
2020/11/13(金) 17:58:27.000
求心性と遠心性
パラノとスキゾ
0098考える名無しさん
垢版 |
2020/11/13(金) 20:22:45.350
渡邊二郎の『歴史の哲学』の第1章は
放送大学の教科書を基にして書かれた割には問題ありだと思う。
三木清とヘーゲルを先に読んだ後に、
渡邊二郎は先人のテキストを解釈する際に、
だいぶ苦心して書いたんだなと思うだけで十分な気もする。
0099考える名無しさん
垢版 |
2020/11/13(金) 20:25:17.610
歴史とは
0100考える名無しさん
垢版 |
2020/11/13(金) 20:30:38.840
書き改められる物語。
0101考える名無しさん
垢版 |
2020/11/13(金) 21:20:33.820
まあでも渡邊二郎の本は講談社学術文庫に収められるぐらいだから、
学術的オリジナリティが教科書的安定性より優先されたものだと思った方がいいんだろうな。
0102踏襲とは
垢版 |
2020/11/14(土) 09:18:10.200
歴史というプロセスは、常に「おそ(襲)ひ≒"impose oneself on 〜/
impose 〜 on onself"」の二重性において理解されなければならない。
次の体制は、成立している既存の体制を「おそ(襲)ふ」ことによって
旧体制に覆いかぶさり、既存の仕組みをそのままリソースとして
利用しながら、旧体制を継承していることを全面的に否認して、
「新たな独自の正統性」を主張すること、および既存の仕組みを大々的に
流用/濫用することによってそれまでの体制を完全に新たな別の体制
に組み換えてしまいながら、それまでの体制を正統に継承している
と主張することの複合によって「歴史的に」形成される。
0103考える名無しさん
垢版 |
2020/11/14(土) 10:11:56.060
歴史は、それが引き継がれる限り、いつでもどこでもそのような複合体として存在する。
いつかどこかで事実だけに基づく本当の歴史が存在したなどということはない。
0104考える名無しさん
垢版 |
2020/11/14(土) 11:11:50.830
"each second"が、継承であるとともに切断である。
0105考える名無しさん
垢版 |
2020/11/14(土) 11:58:46.880
まあでも物自体としての客観的事実は存在すると思う。
そこら辺に深入りしないようにするには起こった事を<出来事>として扱うのがいいだろう。
0106考える名無しさん
垢版 |
2020/11/14(土) 14:02:33.900
<出来事>は、一連のこと(a sequence)として生じるのですよ。
つまり、「次々のつながり」がある。
ところが、つながりは、「はい、次の方どうぞ」というように、
継承であるとともに、切断なのです。
0107考える名無しさん
垢版 |
2020/11/14(土) 14:05:14.590
その次々のつながりがない事象は、その前も後もないので、「関係がない」のです。
「関係のない」ことは、生じても、生じなくてもどちらでもよく、跡形もなく消える。
0108考える名無しさん
垢版 |
2020/11/14(土) 17:13:53.040
革命論みたいだな。
0109考える名無しさん
垢版 |
2020/11/14(土) 17:14:45.660
今の「歴史」をめぐる動きを見ていると、「歴史」が国単位の「前科」とか「功績」
として扱われてしまっている気がする。
0112いゐゑ
垢版 |
2020/11/15(日) 12:31:30.070
>>83-84 >>86
水を「く(汲)む」のが「ゐど(井戸)」であり、水が「こ(込)み」上げてくる
のが「いづみ(泉/出水)」である。「い(出)づ」の「い」には、「外に出る」
作用のイメージが結び付いている一方で、「ゐど(井戸)」の「ゐ」には、
「ゐ(居)」と共通で、「外に出るようとする動きを抑える」作用のイメージ
が結び付いているようだ。このことは、古語の「い(沃)」、「ゐ(井/堰)」、
「ゐで(井/堰手)」、「ゐ(居)」の用法の比較から推察することができる。

すると、「ゑ」は、「外に出るようとする動きを抑える」作用のイメージ
と結び付いた「ゐ」に関連して、「抑えようとしながらも外に出る」作用
のイメージと結び付いているのではないか。「ゑぐ(抉)る」、「ゑ(酔)ふ」、
「ゑ(笑)み」などの表現を考えてみると、そんな想像が働く。
「ゑ(笑)み」について、岩波古語辞典には、次の記載が見られる。
@顔がにこやかにほころぶ
A蕾(つぼみ)がほころぶ 「花の『ゑ』めるを見れば」
B栗のいが・果実などが熟し、裂け目が出来て、実がのぞく
「栗も『ゑ』みをかしかららむと思ふにも『い』でゆかしや秋の山里」

さらに、この「ゑ」に関連付けられたイメージは、英語の"well up(こみ上げる)"
という表現における「well(ひらがなに書き換えれば「『ゑ』る」)」の発音の
イメージと互いに類似しているのではないか。
Well up - Idioms by The Free Dictionary
v. To rise to the edge of a container, ready to flow:
Lava welled up in the crater.
Tears welled up in my eyes, but I did not cry.
I could feel anger well up in me.
0113考える名無しさん
垢版 |
2020/11/15(日) 15:35:26.620
>well (n.)
>"hole dug for water, spring of water," Old English wielle (West Saxon),
>welle (Anglian) "spring of water, fountain," from wiellan (see well (v.)).

井戸に相当する英語の"well"は、単に水を「く(汲)む」ために掘られた穴
というより、「いづみ(泉/出水)」のように水が「こ(込)み上げて」くるイメージを
伴っているが、「良好である」ことを意味するように用いられる"well"も、
「満ち足りていること」が「こ(込)み上げて」くるイメージとして、つまり、
日本語の古語の「うまし(≒う(表面化)・ま(累加する様態)・し(生じさせる)」に
対応するような感覚として表現されていると考えることができるのではないか。
0114いゐゑゆ
垢版 |
2020/11/15(日) 21:34:46.310
>「ゐど(井戸)」の「ゐ」には、「ゐ(居)」と共通で、
>「外に出るようとする動きを抑える」作用のイメージが結び付いているようだ。

「ゐど」の「ゐ」に対応する漢字は、本来、「井 ピンインjǐng」ではなく、
「围(圍)ピンインwéi」( 囲(新字体))だろう。この漢字は、「取り囲んで
外に出られないようにする」イメージを表している。このように見ると、
「い(忌)む」という表現も、もともとは、「『い』む」ではなく、「『ゐ』む」
であったと考える方が妥当ではないかと思えてくる。というのも、「忌み名」
に当てられている漢字は、まさしく、「諱名」であり、「諱 ピンインhuì」
という中国語は、そのまま「い(忌)む」を意味するとともに、万葉仮名で
「ゐ」の発音に「韋」という漢字が当てられる事例からも分かるとおり、
日本語には「ゐ」の発音で取り入れられているからだ。そのように考えると、
次の関係を想定することができるように思われる。

「い」:外に出ていく様態
「ゐ」:外に出るようとする動きを抑える様態
「ゑ」:抑えようとしながらも外に出る様態
「ゆ」:抑えが働かずに自由に外に出る様態
0115考える名無しさん
垢版 |
2020/11/15(日) 21:40:15.480
「ゑ(酔)ふ」は、「自らの抑えが効かなくなる」ことであると見なすことができる。
0116考える名無しさん
垢版 |
2020/11/15(日) 22:07:33.020
全ては余剰であった。
0117考える名無しさん
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2020/11/16(月) 09:28:26.910
既に日本語となっている「ノルマ」は、英語の"norm"に対応するロシア語の
"Норма"から取り入れられたとされるが、外来表現として孤立しているにも
かかわらず、それが定着したのは、以前に指摘したとおり、日本語において
「の」の発音がもともと「重量がかかっている」イメージを想起させるのに
用いられており、「ノルマ」という発音が「重い労働が課されること」を
想起させるのにぴったりだったからだろう。実際、”Норма”自体は、英語の
"norm"からも分かるとおり、「基準」でしかなく、重いことも、軽いことも
あり得るわけだが、「軽いノルマ」というのは日本語としては矛盾に聞こえ、
「重い & ノルマ」で検索すれば、いくらでも「重いノルマ」について
書かれている事例がヒットするのに対して、「軽い & ノルマ」で検索しても、
「軽いノルマ」という表現の事例は皆無に等しい。

それと同様に、「エロ」という表現は、既に日本語となっているが、英語の
"erotic"が省略されて「エロ」として一般に普及したのは、本当のところ、
「エロ」ではなく、「ゑろ/ヱロ」として、つまり、「抑えようとしながらも
外に出る様態」を想起させるものとしてイメージされているからではないか
と思われる。

ところで、「ゑ」の万葉仮名を調べてみると、「隈」という漢字が当てられ
ている事例が見つかる。「隈」は、想定される古い中国語の発音において
「猥」とほとんど発音が重なっている。「猥」をwiktionaryで参照してみると、
英語の"wanton"という表現に訳されており、"wanton"はまさに「抑えようと
しても、抑えがきかない」ことを意味する。
https://en.wiktionary.org/wiki/
https://en.wiktionary.org/wiki/wanton
すると、日本語で「エロ」という表現が用いられるとき、実際にイメージされて
いるのは、「ゑ(猥)・ろ」なのではないかと考えるのも、そう無理のあることでは
ないだろう。
0118考える名無しさん
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2020/11/16(月) 09:43:43.110
言い換えると、現代の日本語では、「え」が「ゑ」の発音を吸収することに
なったが、それによって、「ゑ」に関連付けらていたイメージが失われた
わけではなく、場合により、「え」の発音が、以前は「ゑ」が想起させて
いたイメージを呼び起こすようにも用いられるようになったと考える
ことができる。
0119考える名無しさん
垢版 |
2020/11/16(月) 13:46:03.700
>>112で「ゑ(笑)み」について岩波古語辞典から引用した例文(一部誤記を訂正)を
もう一度見てみよう。
>「栗もゑみをかしかるらむと思ふにもいでゆかしや秋の山里」
「『ゑ』み」、「『い』で」、「『ゆ』かし」という順に、
「ゑ」≒「抑えようとしながらも外に出る様態」、
「い」≒「外に出ていく様態」、
「ゆ」≒「抑えが働かずに自由に外に出る様態」が並んでいる。
「をかし」は、「呼び寄せを生じる」ことを表現しており、
英語にすれば、"appealing"である。したがって、そのように
抑えられずに外に出(『い』で)た栗の「『ゑ』み」に魅かれて、
居(ゐ)場所を「『い(出)』で」て秋の山里を「『ゆ』こう」ということになる。

このような「い」、「ゐ」、「ゑ」、「ゆ」がそれぞれ想起させる様態の
間の関係性は、例えば、「ラクダ」、「ライオン」、「幼子」などの隠喩
を用いるニーチェの『ツァラトゥストラ』の思考の歩みを理解するのにも
有効であるように私には思える。
0120考える名無しさん
垢版 |
2020/11/16(月) 14:31:27.970
ニーチェは、「抑えようとしても外に出てしまう」人の弱さの様態、
「ゑ(酔/猥)」を否定しようとしているわけではない。そうではなく、
「ゑ(酔/猥)」を求めながらも、自らに「ゑ(酔/猥)」を「『ゆ』る(許)す」
のは、「ゆゆ(由々)しき」ことであるとする「『ゐ』まし(戒)め」により、
「ゐ(居/囲/忌/畏/萎/委)」の状態(ラクダの段階)に戻ろうとする、「ゑ(酔/猥)」
から「ゐ(居/囲/忌/畏/萎/委)」への折り返しを自発的に求める反復が卑屈であり、
そのような人の在り方を「あは(哀)れ」んで分かち合おうとすべきではない
としているのである。さらに、「ゐ(居/囲/忌/畏/萎/委)」と「ゑ(酔/猥)」の
間の反復において、苦しみをそのまま受け入れることによって、
その振幅を小さくしようと努め、それをゼロにすることを理想とするような
「をし(教)へ」を、生を否定するニヒリズムとして拒絶しているのである。
ニーチェが代わりに求めているのは、「ゐ」と「ゑ」の間を反復する人の
在り方を超えゆくことであり、「ゐ(居/囲/忌/畏/萎/委)」を破って
「『い(出』」で」て、それを「ゐ(威/偉)」に反転すること(「ライオンの段階」)
であり、自らの「ゑ(酔/猥)」を否認するのではなく、それが人によって
「ゆゆ(由々)しき」こととされるのを畏れることなく、「ゆ(由≒"los"/愉≒"Lust")/
俞≒"Jasagen"」に向かふこと(「幼子の段階」)である。

https://en.wiktionary.org/wiki/Lust
https://en.wiktionary.org/wiki/Reconstruction:Proto-Germanic/lausaz
Etymology
From Proto-Indo-European *lewH- (“to untie, set free, separate”).
Related to *fraleusaną and Ancient Greek λύω (lúō).
0121考える名無しさん
垢版 |
2020/11/16(月) 14:32:47.130
誤:「ゆ(由≒"los"/愉≒"Lust")/俞≒"Jasagen"」
正:「ゆ(由≒"los"/愉≒"Lust"/俞≒"Jasagen")」
0122◆P1F.MDbmTg
垢版 |
2020/11/16(月) 15:15:55.810
言語学院生は僻な一日、5ちゃんへ書き込み、か
0123考える名無しさん
垢版 |
2020/11/19(木) 01:00:46.780
クローチェの『歴史の理論と歴史』や
岩崎武雄の『歴史』も読まねばならんな。
0124◆P1F.MDbmTg
垢版 |
2020/11/19(木) 01:53:28.040
論文執筆の合間の息抜きなのだろう。
良いものが書けるといいな。
0125考える名無しさん
垢版 |
2020/11/19(木) 05:53:21.530
はたしてそうかな?
0126考える名無しさん
垢版 |
2020/11/19(木) 06:22:22.770
倉庫とは……需要と供給、生産と消費とのあいだで、
これを適正に調整し、安定した経済運用を達成するための重要な施設である
 (樺山紘一)
     ◇
 倉庫は、流通における停滞や余剰に対処する施設とみなされてきたが、
在庫の適正な管理と運用こそ経済を健全に回すものではないかと、西洋史家は言う。

※『歴史の歴史』(千倉書房)より
0128考える名無しさん
垢版 |
2020/11/19(木) 14:00:41.780
ヴィンデルバントの『歴史と自然科学』の原文を見つけた。
http://www.hs-augsburg.de/~harsch/germanica/Chronologie/19Jh/Windelband/win_rede.html
0129考える名無しさん
垢版 |
2020/11/19(木) 14:56:40.980
職なし
友人なし

そんなあなたには 5ちゃんねるがあります

浪人(失笑)も買いなさい

誰もいない過疎板ですが
死ぬまで帰依しなさい
0130考える名無しさん
垢版 |
2020/11/19(木) 15:03:06.550
渡邊二郎の『歴史の哲学』は岩崎武雄の『歴史』の影響も受けている。
0131考える名無しさん
垢版 |
2020/11/19(木) 15:24:22.330
渡邊二郎はヘーゲルやマルクスやウィンデルバントなどのドイツ語の著作は
原著から引用している。
0132考える名無しさん
垢版 |
2020/11/19(木) 18:32:01.250
歴史哲学、なかなか手ごわいですなあ。
0133◆P1F.MDbmTg
垢版 |
2020/11/19(木) 18:39:41.060
エンリケ航海王子
0134◆P1F.MDbmTg
垢版 |
2020/11/19(木) 18:39:52.490
ルイス・エンリケ
0135考える名無しさん
垢版 |
2020/11/19(木) 19:10:03.020
大陸国家と海洋国家とではだいぶ歴史観も違うんだろうな。
0136考える名無しさん
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2020/11/19(木) 20:27:58.450
ダイアモンドやハラリの歴史記述をどう扱うかと設定すれば
世俗的な素材ではあるが現代的にもなる
感染病史観というのも一つの記述
0137考える名無しさん
垢版 |
2020/11/19(木) 20:35:31.180
ウィリアム・モントゴメリーには『土の文明史』という著書があるが、
雑駁に言えば自然に配慮した農業史観という感じのものだったはず。
日本では佐藤洋一郎が稲作や麦作などのフィールドワークと歴史の記述を通じて
そういう感じの歴史観の叙述を行っている。
0138考える名無しさん
垢版 |
2020/11/19(木) 20:56:28.080
https://ja.wikipedia.org/wiki/Category:テーマ史
扱われているのは所謂テーマ史だけど、
全体が見渡せるかのような感じの文章になっているものはあるよね。
0139考える名無しさん
垢版 |
2020/11/20(金) 00:06:21.720
スペイン語やポルトガル語で"ganga"と言えば、「安物」や「安売りの品物」を
指すようだが、これは隠喩であるらしく、"ganga"は、本来的には、
「脈石(みゃくせき)」を意味しているとのことである。私も検索するまで、
「脈石」がどのようなものであるのか知らなかったが、
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説が参考になる。

>鉱床を形成する鉱物のなかで鉱石としての経済価値のない鉱物。
鉱石と脈石との間に厳密な区別があるわけではなく,同じ鉱物でも採掘の
対象となるときに鉱石といい,産出が少く採掘対象としないときは脈石という。<

ただし、スペイン語やポルトガル語で"ganga"という表現を使う人にその意味
を尋ねても、それが「脈石」に由来すると意識している人は少ないだろう。
なぜ唐突にこんなことを言い出したのかについては、また後で説明する。
0140いし、いさご、いそ、いせ、いは
垢版 |
2020/11/20(金) 00:18:38.830
《Les êtres y émergent d'une nébuleuse, saisis dans la gangue
des dépôts alluvionaires que charrient les années.》

Sándor Márai, "Les Confessions d'un bourgeois", p.369
0141考える名無しさん
垢版 |
2020/11/20(金) 00:37:38.600
https://www.shurei.com/all/i/iha.html
姓氏: 伊波
読み: いは
方音: イファ
多い地域: 那覇市 / 石川市 / 宜野湾市 / 沖縄市 / 読谷村
同名の地名: 越来間切・美里間切に属した伊波村(石川市)がある。
地名の由来は、大雨の時に濁水が運んでくる流出土が形成する堆積土を
イーフということによる。かつては伊覇と書かれた。
0142考える名無しさん
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2020/11/20(金) 08:00:08.790
>>137
ウィリアムじゃなくてデイヴィッドだった。
0143◆P1F.MDbmTg
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2020/11/20(金) 08:58:34.880
毎回楽しみにしているユキムラちゃんねるの新作出たわ


https://youtu.be/4jdouECxlMM
第一次高天神城の戦い

この地はしの実家から10キロもない大東町に位置する堅城。武田勝頼が行った武功で最大の高天神城攻略は、父武田信玄でも為せなかった。
0144考える名無しさん
垢版 |
2020/11/20(金) 13:56:04.860
>>139
なぜこのようなことを書いたのかというと、「石(いし)」が語源的に
どのような表現であったのかを考えていたところ、>>140に引用した
一文に出会い、それが「石(いし)」という表現を考えるうえで
とても示唆的に感じられたからだ。何がどのように示唆的であったのか
を考えながら、検索してヒットしたのが、>>141に引用した、沖縄県の
地名に見られる「伊波(いは)」であり、>>140の記述とのイメージの
重なりが感じられて面白いと思ったからである。

私は、「石(いし)」という表現について、まだ具体的にどう考えるべきか
分かっているわけではないが、岩波古語辞典に記載される「石(いし)」の
説明には納得していない。というのも、同辞典では、「石(いし)」は、
「広く岩石をいう」として、この表現を「岩(いは)」、「磯(いそ)」、
「砂(いさご)」などに関連付けながら、「isという形が「石」の意の
語根であろう」としているからだ。
0145考える名無しさん
垢版 |
2020/11/20(金) 13:57:05.850
すると、既に「岩(いは)」が説明から外れてしまうことになるが、
それだけではなく、まず「石(いし)」という素材(≒material)が存在して、
それが「大きい」という性質を帯びるとき、「岩(いは)」と呼ばれ、
「水中・水辺にある」とき「磯(いそ)」と呼ばれ、「細かくなっている」
ときに「砂/石子(いさご)」と呼ばれるとする見方そのものが、
私には疑わしく思える。「石(いし)」はまず、それを「木」や「鉄」
などの別の「素材」として区別するための表現だったのか。「石(いし)」
を目の前にして、これは「石(いし)」なのかそうではないのかが
問われたのか、ということである。同辞典では、「イソは水中・水辺の石」
と説明しているが、「石(いし)」を水中に放り込んだら、それは「磯(いそ)」
になるのか。そうではないだろうと私には思われる。

「磯(いそ)」という表現が示唆しているのは、この言葉によって伝えられる
のが、「どのような場所であるのか」ということであり、この場合、
大きな岩石だらけの水辺が「磯(いそ)」と呼ばれたのだろうと考えられる。
「砂(いさご)」は確かに、民間語源的に「石(いさ)子(ご)」と解釈された
のかもしれない。しかし、水路で移動することが一般的であった時代には、
船を着けるのに利用する水辺に砂地が広がっているのか、岩石が広がって
いるのかの方が、より大きな関心事であったのではないか。そう考えた
場合、「石(いし)」という表現も、まず「素材」の名称であるという前提
を捨てて、別の視点から検討する必要があるだろう。「岩(いは)」だけ
でなく、「伊波(いは)」という表現も「石(いし)」に関連している
可能性を考えると、なおさらである。
0146考える名無しさん
垢版 |
2020/11/20(金) 20:01:51.100
言語史は未開拓の部分が多いのかな。
0147◆P1F.MDbmTg
垢版 |
2020/11/20(金) 21:33:00.460
そこみんなで泣くところなんだけど

最強武田軍とそれに付き従った土豪たちで
0148考える名無しさん
垢版 |
2020/11/20(金) 21:35:19.180
古戦場 我も行きたや 闘争史
0149◆P1F.MDbmTg
垢版 |
2020/11/20(金) 21:38:34.550
何があったのか?
それは思いもよらぬこと。
0150考える名無しさん
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2020/11/20(金) 22:17:32.900
やっぱ論争史ぐらいにしとこ
0151考える名無しさん
垢版 |
2020/11/21(土) 11:10:21.790
それが「石(いし)」の語源であるというわけではないが、>>140に引用した一文が、
「石(いし)」という表現を考えるうえでなぜ示唆的であると感じられたのかを記述する
ことはできる。「脈石(みゃくせき)」と訳されるとしたフランス語の"gangue"に
対応するスペイン語やポルトガル語の"ganga"は、隠喩として「安物」や「特売品」を
意味するように用いられ、そこには、「安い値段で大量に売られる物」という集合的
なイメージが働いている。そのイメージは、「鉄」や「木」と対比される場合の
「石」という素材のイメージや、それが大きいものであれ、小さいものであれ、
またそれが1つであれ、複数であれ、「個々の石」のイメージとは異なる。

「石川(stony brook)」、「石原(stony field)」、「石塚(stone pile)」などに
現れる「石(いし)」のイメージを想起してみるといい。まず想定されているのは、
個々の石ではなく、集合としての石のイメージである。「石(いし)」が表現
が想起させていたのは、まずなによりもそれが川岸や原などに広がっている
様態や、あるいは積みあがった岩石や磯のように集合的にまとまった状態
のイメージであったと考える方が、私には自然に思われる。

続きは、後で書こう。
0152考える名無しさん
垢版 |
2020/11/21(土) 14:53:04.710
では、「石(いし)」が表現していた(と私には感じられる)その集合的イメージは、
どのようなものであったと想像することができるだろうか。

>>141に引用した「伊波(イファ)」という沖縄の地名の由来の説明と、
>>140に引用した一文は、そのまま重なっている。というのも、
「伊波(イファ)」が、「イーフ」と呼ばれる「濁水が運んでくる流出土が
形成する堆積土」に由来するのであれば、「イーフ」が表現している
のは、"les dépôts alluvionaires"に他ならないからだ。
そこで、「イーフ」がどのような表現なのかを考えてみると、すぐに
思いつくのが、既に言及した古語の「い(沃)」という動詞であり、「ふ」を
いつものとおり再帰表現と見なすなら、「イーフ」は、「い(沃)ふ」では
ないか、ということである。岩波古語辞典で、「い【沃】」を参照すると、
「注ぐ。あびせる。」と説明され、「これを治せむやうは、面に水なむ
沃るべきとみる」〈かげろうふ 中〉、「雨は沃て(注ギニ注イデ)降る」
〈平家六 祇園女御〉という例文が引用されているが、一方、クラウン
仏和辞典で"alluvial"を引くと、「沖積土の」と記載され、"alluvisions"
は、「川の水などが運んできた土砂」と説明されている。ところで、
"alluvial"の語源は、ラテン語のadluviō, Etymology: From alluō
(“wash against, bathe”), from ad (“to, towards, at”) + luō (“wash”)
に由来するとされ、luō (“wash”)の語源として、以下の2つが提案されている。
Etymology 1
Back-formed from the compounds (e.g. abluō), hence doublet of original lavō.
Etymology 2
From Proto-Indo-European *lewh₁- (“to cut off, separate, free”). Cognate with Ancient Greek λύω (lúō), English loose.
(ちなみに、フランス語や英語の"alluvial"と発音的な近さを感じさせるスペイン語で
雨を意味する"lluvia"は、印欧祖語の*plew- (“to wash”)に遡るとされる。)
0153考える名無しさん
垢版 |
2020/11/21(土) 15:32:34.370
すると、「イーフ」が「い(沃)ふ」と想定するなら、「い(沃)」は、その発音においても、
"alluvial"に対応するイメージを想起させていると考えることができ、既に指摘したとおり、
印欧祖語の"*lewh₁-"に日本語の「ゆ」が対応すると考えるなら、「い(沃)」は、
「方向性を帯びた『ゆ』」ではないかと思えてくる。その一方で、「石(いし)」と、それに関連する「砂(いさご)」、「「磯(いそ)」は、「砂(いさご)」の「さ」のイメージに漢語の「さ(砂)」の発音とイメージが複合的に結びついているとしても、
「いし、いさ、いそ」という関係おいて「さ」行の活用と結び付くように様態がイメージされたことを示唆しているように感じられる。また、「いは(岩)」の
「は」は、岩盤のような「広がり」を表していると理解できるので、やはり、
「いし(石)」、「いさご(砂)」、「いそ(磯)」、「いは(岩)」は、"is"を語根とする岩波古語辞典の解釈とは異なり、「い+〜」と解釈するのが自然だろうと思う。そこで、
「い・し」、「い・さ」、「い・そ」のイメージを考えてみるなら、「し」≒"letting"、
「さ」≒"exposed"、「そ」≒"rising up"を想定することが可能であるように思われ、その場合、「い」は、「イーフ」の場合と同様に「い(沃)」、すなわち、「水によって堆積物が運ばれる」ことに関連していると見ることができるのではないか、というのが、現時点での私の想像である。想像をつなげているだけではないかと言われれば、確かにそのとおりである。しかし、そもそも、日本語が中国語の表現を流用したピジン言語から発展したものであるとするなら、発音がどのようなイメージを想起させるように用いられたかを探るには、そこにどのような想像が働いたのかを自ら試行錯誤してみるほかないだろう。
0155考える名無しさん
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2020/11/22(日) 09:24:38.980
ところで、北海道の「石狩(いしかり)川」は、いつから誰によってその名称で
呼ばれていたことが確定しているのだろうか。「石狩弁天社」という神社は、
1694年に創建されたという。
>>151-153のように考えれば、曲がりくねって氾濫の多い川である
「石狩(いしかり)川」は、「石(いし)駆(か)り川」という日本語として容易に
解釈可能だが、「石狩(いしかり)」という名称の由来を説明しているサイトは、
いずれも、特定不能なアイヌ語の表現に由来するものとしている。

>本来のアイヌ語の意味が不明になって由来が特定できていないものの...
>...諸説ある語源はどれも決定打に欠け、不明となっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/石狩川

アイヌ語の話者に意味不明であり、日本語の話者によって使われてきた名称を、
それがアイヌが住んでいた土地の名称であれ、アイヌ語の表現であると断定する
のは奇妙ではないだろうか。
0156考える名無しさん
垢版 |
2020/11/22(日) 11:23:07.810
>>112-114において説明の文脈から、「外に出ていく様態」を想起させると
した「い(出)づ」の「い」や「い(沃)」の「い」を、今となっては、より抽象的に
「方向性を帯びた『ゆ』」として解釈しなおしたわけだが(これにより、「い(入)る」
と「い(出)づ」で、「い」の説明に矛盾が生じるという不都合も回避される)、
さらにそれだけでなく、152-155においては、その「い」が「方向性を帯びた
『ゆ』の作用によって運ばれる物」を想起させるように用いられているとする
解釈の拡張まで行っている。

そこまで引っ張るのは、あまりにも無理があるのではないかと思われるかも
しれない。しかし、フランス語の"alluvial"が「沖積土の」を意味するのは、
まさしく、そのように「運ぶ作用の様態」によって「その様態の作用に
よって運ばれる物」を表すことによってであり、英語で"wash"が、
「洗濯物」や「低地」を表すのもやはりそのような作用の様態とその様態
の作用を受ける側の反転によってである。ここにおける文脈とは無関係に
以前に既に言葉の用法の記号論的な理解として一般的に説明したとおり、
言葉は、エコノミーのために、発音によって表現されるイメージの
インデクス性を反転させて用いるのは、普通のことなのである。
したがって、"alluvial"を、From alluō (“wash against, bathe”),
from ad (“to, towards, at”) + luō (“wash”)に遡ることができ、
それが"washed-towards"としてその作用の対象を表すように用いられると
して、「い」が「沃(い)」としてそれに対応するような作用を想起
させるとするなら、同時にそのインデクス性を反転させて、その
作用がもたらす結果も表すように用いられると考えるのは、自然なことなのである。
0158考える名無しさん
垢版 |
2020/11/22(日) 22:23:01.970
スレタイに歴史とあるだけでこんなに人が集まって来る様は、
皆歴史的主体だと自分のことを明白に、あるいは暗黙のうちに
自覚しているということなのだろうな。
0159考える名無しさん
垢版 |
2020/11/22(日) 23:05:48.100
歴史というのはやはり「史実」が大事という事なんですか?
0160考える名無しさん
垢版 |
2020/11/22(日) 23:25:28.760
国や会社のメンツだけじゃなくて金にも関わることだからね。
0161考える名無しさん
垢版 |
2020/11/23(月) 06:14:19.180
史実を大事にした東北電力と史実を無視した東京電力
311で大差がついた。
0164考える名無しさん
垢版 |
2020/11/23(月) 10:39:24.190
夭(殀)
ピンインyāo
付属形態素 若死にする.

ピンインyāo
((文語文[昔の書き言葉])) 草木がみずみずしくよく茂る

「夭」が根付いて「禾(いね)」にならなければ、若死にしてしまうのだろうか。
0166考える名無しさん
垢版 |
2020/11/23(月) 16:50:31.850
>ゆだね【斎種】
>清浄な種。多く稲の種についていう。

「『ゆ』だね」⇒「『い』ね」の関係にもやはり、
"「い」は「方向性を帯びた『ゆ』」であるという関係性"がイメージされているのではないか?
0167考える名無しさん
垢版 |
2020/11/23(月) 20:26:26.820
>>161
の史実=貞観地震の際の津波の記録
女川原子力発電所と福島第一原子力発電所の運命を分けた。
0168考える名無しさん
垢版 |
2020/11/24(火) 10:05:06.550
英語で"oppress"と言えば、「圧迫する」ことである。
ところで、だいぶ以前に、日本語の「お(負)ふ」や「お(押)す」について、
中国語の「压」や「凹」についての考察を書き込んだことがある。
その頃は、まだ古い中国語の発音を参照することなく、現代の中国語の
辞書サイトばかりを参照していたので、中国語の「压(壓)ピンインyā 」と
日本語の「お」の発音がまるで似ていないことだけを気にして、専ら
「凹 ピンインāo 」に関連付けて日本語の「お(押)す」、「お(負)ふ」、
「おそ(襲)ふ」の「お」を考察していた。
しかし、想定される古い中国語(Middle Chinese)の発音では、「壓 /ʔˠap̚/」
と「凹 /ʔˠɛp̚/」の発音はとても近いものに見える。日本語の「お(押)す」、
「お(負)ふ」、「おそ(襲)ふ」などの「お」は、このような中国語の
発音とそれが想起させるイメージを流用したものであると私は考えるが、
さらに面白いのは、英語で"oppress"の"op-"語源の要素として想定される
印欧祖語の発音とそれが想起させるイメージもこれらにとてもよく似ていること
である。
https://en.wiktionary.org/wiki/Reconstruction:Proto-Indo-European/h₁;ep
Etymology
Would be locative case of *h₁eps (from *h₁ep-), which could mean "back",
with the "on" sense referring to pack animals or riding.
0169考える名無しさん
垢版 |
2020/11/24(火) 17:58:37.260
旧字旧仮名遣いの本では、壓力とかなってるよな。
0170考える名無しさん
垢版 |
2020/11/27(金) 16:53:15.870
三木清の『歴史哲学』は三木清全集では旧字旧仮名遣いになっている。
1960年代半ばにもなってそうしたのは、
その当時の若い世代への三木清の思想の普及の妨げになったと思われる。
0171考える名無しさん
垢版 |
2020/11/27(金) 17:48:57.080
一般的な感覚でいくと健常者のスペックとしては

 高 高卒健常者 −−−−−−−−−−− 低 双極性障害の患者・自閉症

といった感じだが患者からみると

 高 双極性障害の患者・自閉症  −−− 低 高卒健常者

となっている為、ネット上でも精神医療分野が注目されるようになった。
パワーバランスから言っても近いうちに

 高 高卒健常者 −−−−−−−−−−− 低 双極性障害の患者・自閉症

に落ち着くと思われる。
0172考える名無しさん
垢版 |
2020/11/27(金) 17:59:30.990
歴史哲学から構想力の論理へと変遷していく論理の軌跡を
追わなければならない。
0173考える名無しさん
垢版 |
2020/11/27(金) 18:08:37.360
>>170
https://www.aozora.gr.jp/cards/000218/files/46593_71695.html

1960年代半ばくらいなら、まだ旧字は見慣れているでしょう。
今、眺めてみても、単独で取り出せば読み方を知らない表記の漢字はあるものの、
文脈から容易に推測できる。その当時に読むのに困難があったとすれば、
単純に読解力がなかっただけでは?
0174考える名無しさん
垢版 |
2020/11/27(金) 18:13:30.180
>>173
自分が古本で手に入れた三木清全集の第6巻(歴史哲学が所収)に
岩波の売り上げカードがくっついていたから、
三木清だからということもあるかもしれないが、
売れなかったんだろうなあと思って。
0175考える名無しさん
垢版 |
2020/11/27(金) 18:17:27.330
双極性障害の患者が起こす症状群について、本当にまともに本読んでなかったんだろうなあと思って。
0176考える名無しさん
垢版 |
2020/11/27(金) 18:42:42.160
>>173
前の西田幾多郎全集も旧字旧仮名遣いだけど、
1960年代辺りはもう普通の本は新字体で表記されているのが
半分ぐらいになってたんじゃないかな。
0177考える名無しさん
垢版 |
2020/11/27(金) 19:10:41.890
>>175
どんだけ双極性障害の荒らししているんだよ、お前の脳内疾患か?
0178考える名無しさん
垢版 |
2020/11/27(金) 22:21:38.230
>>170
「旧字旧仮名遣い」を生み出した変更そのものが、便利な簡略化だけではなく、
大きな弊害を生んだということでしょう。漢字の簡略化は必要だったとしても、
仮名遣ひの変更の方は、むしろ、日本語で省察することも、日本語の表現に
関連付けて外国語を学習することも阻害している。

例えば、一昔前の本を読んでいると、「いや」という表現には、「嫌」
ではなく、「厭」という漢字が用いられている。「いや」は、
現在の中国語でも「厌(厭)ピンインyàn」として用いられている表現
をそのまま日本語に取り入れて活用したものなのだろうから、そのまま
「厭(いや)」、またはその簡略化を標準としていれば、日本語の表現
としての理解にも、中国語の学習にもより便利でしょう。
「いやというほど〜した」という表現は、「嫌(いや)」と表記した
のでは意味が不明になってしまうが、「厭(いや)」のままであれば、
日本語としても中国語としても通用する。
https://cjjc.weblio.jp/content/
https://en.wiktionary.org/wiki/
Middle Chinese: /ʔiᴇmX/, /ʔiᴇmH/, /ʔiᴇp̚/
Old Chinese (Baxter–Sagart): /*ʔep/, /*ʔem/
Min Nan (Hokkien, POJ): iàm / ià, (Teochew, Peng'im): iam3 / iêm3

それだけにとどまらず、さらに発音とそれが想起させるイメージの関係を捉える
ことや、関連する漢字の学習まで容易になる。
https://ja.wiktionary.org/wiki/
字源
形声文字。「厂」と音符「猒」を合わせた字で、
がけの上から「おさえる」ことが原義。「壓」の原字。
比喩的に、感情が抑えられることから「いや」「いとう」「きらう」という意味になった。
0179考える名無しさん
垢版 |
2020/11/27(金) 22:43:13.910
宇宙世紀オンラインのほうは上手く経営できているのかね
0180考える名無しさん
垢版 |
2020/11/27(金) 22:46:41.890
日本語が、近接した表現の微妙な違いの間でどのように折り合ひを
つけながら自らを体系化していった(すなはち、「日本語」として
形成されていった)のかも見えてくる。
0181考える名無しさん
垢版 |
2020/11/27(金) 22:51:41.590
どやろなあ・・
0182考える名無しさん
垢版 |
2020/11/27(金) 22:58:05.410
181は179宛
0183考える名無しさん
垢版 |
2020/11/28(土) 13:06:16.830
>>119
「ゑ」≒「抑えようとしながらも外に出る様態」としたが、
岩波古語辞典で「ゑ」を引くと、「ゑ」には漢字の「飢」に対応する
ように用いられる事例があることが分かる。これは、一見、奇妙なこと
に思えるが、この用法の「ゑ」が、同辞典に記載されるとおり、「うゑ」の
「う」が脱落したものと考えるにせよ、「うゑ」の方が、「ゑ」に「う」が
付加されたものであるとするにせよ、いずれにしても、「うゑ」が、
この用法の「ゑ」の表現するイメージを明確化している考えるなら、
容易に理解可能となる。その場合、「う」は、「う(浮)く」などの表現と
共通で「肤/膚(≒"surface")」であると考えられ、「うゑ」は、
「抑えようとしながらも表面が外に出る様態」としてイメージされ、
どのような「表面」かと言えば、それは川底のような「底(そこ)」として
の表面である。したがって、表現の用法としては異なるものの、「うゑ」
は、英語としてそのまま訳すなら、"bottom out"に対応することになるだろう。
0184考える名無しさん
垢版 |
2020/11/28(土) 13:41:50.440
>>178
日本語の「いや(厭)」の流用元であると考えられる中国語の「厌(厭)」には、
「@十分に満足する」、「A飽きる」、「B嫌う」という、一見したところ、
互いに矛盾しているように見える用法がある。しかし、これは、日本語の
「『いや』というほど〜した」という場合の「いや」を、「もうたくさんだ」
(英語にするなら、"Enough is enough!"、スペイン語なら"¡Basta ya!")と
言い換えることができることから、難なく理解することができる。

「うまし(≒"being well")」と表現される満足した状態も、それが続くと、
「う(倦)む」ことを経て「もういい」ということになり、「いよいよ(愈々)」
その感覚が高じると、当初の「うまし」という状態から何も変化がない
にもかかわらず、もう「いや(厭)」という反発を生じうるのである。
0185考える名無しさん
垢版 |
2020/11/29(日) 11:21:34.350
「『ぢ/じっ』としていろ(≒"hold still")」や「『ぢ/じっ』と見つめる(≒stare at/gaze into)」
などの表現における「ぢ/じっ」が流用したのは、中国語の「执(執)ピンインzhí」
となった表現だろう。
https://en.wiktionary.org/wiki/執#Chinese
Middle Chinese: /t͡ɕiɪp̚/
Old Chinese (Baxter–Sagart): /*[t]ip/, (Zhengzhang): /*tjib/
Min Nan (Hokkien, POJ): chip, (Teochew, Peng'im): zib4

それに関連しているのが、日本語にも漢語として取り入れられている
「蟄居(ちっきょ)」の「蟄」という表現である。
https://en.wiktionary.org/wiki/
0186考える名無しさん
垢版 |
2020/11/29(日) 11:35:06.730
このような日本語としての中国語の表現の利用は、国語学や日本語学の専門家には
とっくの昔から周知のはずなのだから、その知識はもっと公に語られるべきもの
だろう。日本語とされている表現が、中国大陸からの表現をどれほど大々的に
流用していることが一般に明らかになったところで、それによって日本語が
危うくなるようなことはない。逆に、そのような流用の痕跡を隠そうとして、
仮名遣ひを恣意的に変更することや、表現のニュアンスに合わない漢字を
当てはめて用いるように規範化することによって、日本語の日本語としての
用法を自省的に捉えることが難しくなり、言葉の表現が単に任意に置き換え
可能な「ラベル」と見なされる状態をもたらし、言葉が「ラベル」に過ぎない
なら、それを無国籍の英語/グロービッシュで全面的に置き換えても何の
不都合もないではないか、という浅薄な思想が生まれるのだ。
0187考える名無しさん
垢版 |
2020/11/29(日) 13:15:30.910
たんに射精して露出度の高い衣装を着てセックスをするだけだ。
ホモサピエンス属レベルの本能行為に国家毎の特色などあるはずがなかろう。
0188考える名無しさん
垢版 |
2020/11/29(日) 13:29:44.240
精選版 日本国語大辞典の解説
〘自サ変〙
@ 虫が冬になって地中にこもる。
※太平記(14C後)四「潜龍は三冬に蟄(チッ)して、一陽来復の天を待つ」
A 世をのがれてひきこもる。隠れ住む。隠退する。
※歌舞伎・貞操花鳥羽恋塚(1809)六立「身を蟄(チッ)し、時節を窺ふ」
0189考える名無しさん
垢版 |
2020/11/29(日) 15:31:28.240
>>187
そんなん全部調べたわけでもないのによう言うわw
0190考える名無しさん
垢版 |
2020/11/29(日) 20:58:26.970
岩崎武雄の『歴史』の方が渡邊二郎の『歴史の哲学』より読みやすい。
復刊ドットコムで投票しておこうかな。
0191考える名無しさん
垢版 |
2020/11/30(月) 03:25:02.730
三木清の『歴史哲学』様々な学者の意見を整序して自分の意見を作る際に
だいぶ自分に酔ってる感じのする文章だな。面白いが、三木清の意見を整序した
冷静な他者の文章を必要とする文章だと思う。
0192考える名無しさん
垢版 |
2020/11/30(月) 10:12:07.780
>>186
浅薄な理由から大陸文化を輸入し大陸の権威を利用してきた
政治はいつだって浅薄な動機が根底にある
政治的不都合はある
学術はただ分析して結論を出すだけで思想を持たない
分析すること自体が動機であり好奇心に動かされているだけだから

勿論英語や中国語に日本語を置き換えれば多くの人が不慣れで日常生活でさえ不都合は起きるがメリットも生まれる
多くのソフトコンテンツは輸出しやすくなろビジネスや先進的な学門の習熟も容易になる
0193考える名無しさん
垢版 |
2020/11/30(月) 10:13:58.120
NHK特集
「あるひきこもりの死」

遺族(弟)
「たしかに兄は社会に何の貢献もしなかったかもしれませんが・・」
0195考える名無しさん
垢版 |
2020/11/30(月) 14:30:46.890
だから歴史ファンは減らない。
0197考える名無しさん
垢版 |
2020/12/01(火) 08:42:10.560
ネアンデルタール人にとって歴史的に重要な出来事はどのように起きたのか
0198考える名無しさん
垢版 |
2020/12/01(火) 14:53:10.590
日本語が、中国語の表現を大々的に流用するピジン言語から発展したもの
であり、そこに大量の「中国語として」の表現がさらに加わり、それらの
多くは、既にそれらが元々は「中国語として」取り入れられたことも
意識されなくなっている複合的な言語であることを認識したうえで、
旧来の仮名遣ひを用いるとともに、日本語としての表現が流用している
中国語の表現に使われていた漢字を意識して日本語を用いるなら、
日本語を母語とする人々が中国語や欧州の諸言語を理解することも、
それらの他の言語を母語とする人々が日本語を理解することも、
現状よりもはるかに容易になるだろう。
0199考える名無しさん
垢版 |
2020/12/01(火) 15:26:23.190
例えば、「じっとしている」という表現を考えてみよう。
この表現は、「じっと」+「して」+「いる」と分解され、
「じっと」は、「動かないでいる状態」を表現する擬態語であり、
「して」は、「する」という動詞の活用であり、「する」自体は、
英語の"do"に対応するものと理解されることが多く、
「いる」は、「(生物がそこに)存在する」ことを意味する動詞とされ、
この事例のように補助動詞として用いられる場合には、「その状態を保つことをする」
ことを表現するものと、一般には説明される。ただし、日本語には、「いる」と
表記される動詞は他にも多くあり、それぞれ意味が異なるので、日本語を母語と
しない人々には、そのことが迷いを生じさせるだろう。
0200考える名無しさん
垢版 |
2020/12/01(火) 16:18:58.170
これに対して、「ぢ(/じ)っ(蟄)としてゐ(居)る」と表記したらどうだろうか。
漢字の用法が中国と日本で異なっているにしても、中国語を母語として
読み書きができる人には、この日本語の表現のイメージがすぐに理解できる
はずである。というのも、日本語の「ぢ/じっと」は、ほぼ間違いなく、
現代の中国語の「執」となった表現の流用なのだから。
また、単に「じっと」は、「動かない状態」を表現すると教えられても、
そのように対応させて暗記するだけだが、「ぢ(/じ)っ(蟄)と」は、
その発音と表記から様々な関連する表現の想起を、日本語においても、
中国語においても、欧州の諸言語においても風景のようにネットワーク
として生じさせることになる。「蟄」を形作る「執」は、"to hold in the hand"
を表現するとされるので、手中に保持されている(≒being held/trapped)
イメージが想起され、すると、今度は、「ぢ(/じ)っと見る」という日本語の
表現から"behold"という英語が連想される。

次に、「して」を「する」の活用としたうえで、「する」を英語の"do"に
相当するものと説明することも、「〜している」とまとめて説明することも、
日本語の表現のネットワークを理解するのには、不適切または不十分である。
「して」や「する」におけるサ行の活用は、その用法から見て、中国語の
「使(Middle Chinese: /ʃɨX/)」に対応し、日本語としては、主として
"letting"に対応するイメージで用いられている。そのように理解することで、
この場合だけでなく、また、表向きの品詞分類にかかわらず、表現の解釈が
可能になることは既に多くの事例において指摘してきた。
0201考える名無しさん
垢版 |
2020/12/01(火) 16:19:35.720
「ゐ(居)る」の「ゐ」については、>>114で「外に出ようとする動きを抑える
様態」を想起させる発音の用法として説明した。「ゐ」は、「圍
(Middle Chinese: /ɦʉi/, /ɦʉiH/)」その他(例えば「諱」など)の日本語として
「ゐ」の発音にまとめられて認識された表現が想起させるものとしての
イメージの利用である。「外に出ようとする動きを抑える様態」を表す
ものとして「ゐ(居)る」は、英語にすれば、"stay put"に相当するような
表現であり、「日本語は、英語と異なり、存在について生物と無生物を
区別する」というような「日本語の特殊性」を想定する必要はなく、
「猫がゐる」であろうと、「窓が開いてゐる」だろうと、「変動する
ことが抑えられてゐる」と理解すればいいのであり、この理解は、
「いる」ではなく、「ゐる」と表記することによって初めて明示化されるものだ。
0202考える名無しさん
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2020/12/01(火) 20:32:26.290
>「外に出ようとする動きを抑える様態」を表すものとして「ゐ(居)る」は、
>英語にすれば、"stay put"に相当するような表現であり

ここで、「偉(Middle Chinese: /ɦʉiX/)」や「威(Middle Chinese: /ʔʉi/)」も
「ゐ」の発音によって表現されるものとして日本語に取り込まれ、万葉仮名
としても用いられていることに留意すべきだろう。「ゐ(居)」が"stay put"
に相当するとすれば、「偉(ゐ)」と「威(ゐ)」は、いずれも「『ゐ="stay put"』させる」
作用としてイメージされたものと考えることができる。すると、「いさ(諫)める」
や「いさか(諍)ひ」は、いずれも「い」の発音の表記でのみ知られているものの、
「ゐさめる」および「ゐさか(交)ひ」として、もともとは「ゐ(偉/威)・す」という、
文献には残っていない表現から派生させられたのではないか、と想定することが
可能だろう。
0203考える名無しさん
垢版 |
2020/12/01(火) 20:47:57.470
『古事記』には、「居寤(ゐさめ)の清水」についての記述があり、
『日本書紀』には、「居醒泉(ゐさめがゐ)」についての記述があるとのことだが、
いずれの記述も民間語源説的な説明であるように見え、かなり早い時期から、
「ゐさ」という表現は意味不明となり、「ゐさ」の発音が「いさ」の発音に
移されたのだろう私には思える。
0204考える名無しさん
垢版 |
2020/12/02(水) 11:18:26.220
日本語がどのように形成されたのかを省察することは、言葉を学ぶとは
どういうことか、言葉を大切にするとはどういうことかを考えるのに
とても示唆的であるだけでなく、より広く、学ぶとはどういうことか、
学んだことを大切にするとはどういうことかについても、省みること
を要求する。

かつて、人々はどのように日本語を使ふことを学んだのか。日本語であれ、
他の言語であれ、言葉を使ふ能力を身につけることは、所与の文法と語彙を
規範として、その規範に適合しない表現を不合格とし、適合する表現を
合格とするような判定に従ふことによってではない。その規範が、
社会によって外的に与えられていると考えるにせよ、生成文法の場合
のように、「母語話者の判定」を基礎づける根底としての「普遍文法」
として内的に与えられていると考えるにせよ、そのような合格/不合格
の二分法の判定を前提にするなら、日本語は、独立した言語として形成
されることすらなく、それぞれ異なる母語を話す人々によって二次的に
用いられる片言の補助言語の地位に留まるか、あるいは、方言として
中国語に包含されることになっていただろう。

人が言葉で何かを伝えようとするとき、その結果は、声そのものが
相手に伝わらず、声を発していることにすら相手が気づかないのでない
かぎり、合格(pass)/不合格(fail)という二分法の判定ではあり得ない。
相手に声が届く限り、その結果は、何を伝えようとしているのかが
うまく伝わるか、うまく伝わらないかであり、ドイツ語で表現する
なら、"gelingen"としての伝達の「成功」か、"misslingen"としての
伝達の「失敗」である。さらに、そのように「失敗」した場合でさえ、
「うまく伝わらない」ことが相手に「伝わる」のである。
すると、「うまく伝わらない」ことが双方に分かり、双方が
「うまく伝わる」ことを求めるなら、そのための試行錯誤が行われることになる。

https://hinative.com/ja/questions/15773113
0205考える名無しさん
垢版 |
2020/12/02(水) 11:24:55.120
http://www.zeno.org/Philosophie/M/Nietzsche,+Friedrich/Menschliches,+Allzumenschliches/Erster+Band/Erstes+Hauptst%C3%BCck.+Von+den+ersten+und+letzten+Dingen/23.+Zeitalter+der+Vergleichung

Zeitalter der Vergleichung. – Je weniger die Menschen durch das Herkommen
gebunden sind, um so größer wird die innere Bewegung der Motive, um so
größer wiederum, dementsprechend, die äußere Unruhe, das Durcheinanderfluten
der Menschen, die Polyphonie der Bestrebungen. Für wen gibt es jetzt noch
einen strengen Zwang, an einen Ort sich und seine Nachkommen anzubinden?
Für wen gibt es überhaupt noch etwas streng Bindendes? Wie alle Stilarten
der Künste nebeneinander nachgebildet werden, so auch alle Stufen und
Arten der Moralität, der Sitten, der Kulturen. – Ein solches Zeitalter bekommt
seine Bedeutung dadurch, daß in ihm die verschiedenen Weltbetrachtungen,
Sitten, Kulturen verglichen und nebeneinander durchlebt werden können;
was früher, bei der immer lokalisierten Herrschaft jeder Kultur, nicht möglich
war, entsprechend der Gebundenheit aller künstlerischen Stilarten an Ort
und Zeit.
0206考える名無しさん
垢版 |
2020/12/02(水) 13:12:40.410
「人は失敗から学ぶものだ」とよく言われる。
しかし、人は、その「失敗」が「挫折(≒"scheitern")」した経験であるなら、
「挫折する」ようなことは、それを試みようとすることすらあらかじめ忌避するようになる。
「試行錯誤」とは、「成功/Erfolg」が得られるまで「挫折」の体験にもめげずに
「失敗する(≒"scheitern")」ことを繰り返すことではない。
そうではなく、「うまく行かない(≒"misslingen")」経験を幾度、繰り返しても、
「うまく行く(≒"gelingen")」ようになるまで試みを続けることである。
そうすることによって、その都度、どのように「うまく行かなかったのか」、
「(うまく行かなかったとしても)どのような結果が得られたのか」を認識する
ことによって、「うまく行くようにするには『どのようにすればよいのか』」
を探ることによって、経験から学ぶのである。
ところが、語学の教育を含め、教育制度が行っているのは、
そのような試行錯誤によって学びを促進することではない。それどころか、
適合/不適合、合格/不合格の二分法による判定によって試みが「挫折する(≒"scheitern")」
体験を繰り返させることによって、学ぼうとする試みそのものを忌避するように仕向けているのである。
そこには暗黙に、「試みがうまく行かない(≒misslingen)」経験を「挫折する(≒"scheitern")」
体験に変換して、試みそのものを忌避させようとする悪意が働いており、
単に教育の技術的な問題などではなく、意図的にダブルバインドを仕掛ける奸計なのである。
0207考える名無しさん
垢版 |
2020/12/03(木) 07:53:06.000
言葉は、表現としてつた(伝)はるようにその使用において形成される。
0208e・motive(=ゑもひ)
垢版 |
2020/12/03(木) 09:58:41.890
言葉を発するとは、どのように"e・motive(=ゑもひ)"」のか、
その"motive"が相手につた(伝)はるように演出することである。
0209考える名無しさん
垢版 |
2020/12/03(木) 09:59:36.830
誤:"e・motive(=ゑもひ)"」
正:"e・motive(=ゑもひ)"
0210e・motive(=ゑもい(もひ/面覆))
垢版 |
2020/12/03(木) 10:07:26.140
より分かりやすく修正しよう。

言葉を発するとは、どのように"e・motive(=ゑもい(もひ/面覆))"」のか、
その"motive(お・もひ/面覆)"が相手につた(伝)はるように演出することである。
0211考える名無しさん
垢版 |
2020/12/03(木) 10:11:17.110
誤:"e・motive(=ゑもい(もひ/面覆))"」のか
正:"e・motive(=ゑもい(もひ/面覆))"」であるのか
0212考える名無しさん
垢版 |
2020/12/03(木) 10:16:28.470
また、間違えた。

正:"e・motive(=ゑもい(もひ/面覆))"であるのか
0213考える名無しさん
垢版 |
2020/12/03(木) 10:30:55.680
語学の教育を含め、教育制度が行っているのは、
オウム返し以外の言葉を発することを自発的に忌避するようになるように、
あらかじめ与えられた規範に照らした適合/不適合の判定によって
威嚇することである。
0214考える名無しさん
垢版 |
2020/12/03(木) 11:08:29.610
なにかが「ゑもい」のは、そのなにかが「抑えられない『おもひ(面覆)』
の表出」として捉えられているからだろう。

日本語を大切にすることは、「ゑもい」のような国語辞典に記載されて
いなかったような表現を排除することによって実現されるわけではない。
そうではなく、そのような「新語」にも、日本語がまだ「日本語として」
形成される以前にまで遡るような「ゑ」の用法、「もふ/ひ(面覆)」という
表現が響いていることを聴き取ることによってである。
0215考える名無しさん
垢版 |
2020/12/03(木) 12:50:41.970
イヴァン・イリイチっぽくなってきたな。
0216考える名無しさん
垢版 |
2020/12/03(木) 13:07:31.820
264考える名無しさん2020/11/26(木) 18:12:23.310>>268
  
これほどの基地害は滅多にお目にかかれないだろうな


↓↓↓深夜から延々と埋め立て中

■■■■■■■■■■■クンニはナゼ美味しいのか2■■
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1606310456/l50



もう治らないと思うよ

糞5ちゃんで死んでいくだけ
0217考える名無しさん
垢版 |
2020/12/03(木) 13:44:22.410
ハラリの本めっちゃ売れてるみたいだけど、
あれちゃんと読んでる人どれくらい居るんだろう。
まあ、面白そうな本ではあるが。
0218考える名無しさん
垢版 |
2020/12/03(木) 18:38:05.630
コンスタントに本出しすぎだから

サピエンス全史に目通したくらいだけど特に得るものがないw
0219考える名無しさん
垢版 |
2020/12/05(土) 08:16:58.940
「蝦夷(えぞ)」は、江戸時代・17世紀の日本航海図では、ほぼ現在の北海道
に相当する地理的区域を指すものとして「ゑぞ」と記載されている。
「えぞ(『ゑぞ』ではなく)」という言葉がいつから用いられるようになったにせよ、
「ゑぞ」、「ゑみし」という表記は、江戸時代以降、近世になってから
意図的に避けられるようになったものだろう(資料を調べて、検証したわけ
ではないが)。ロシアとの領土争いが生じるような状況が生じるような時代に
なってからは、「ゑぞ」という発音/表記は、日本語として明らかに
都合が悪く、「ゑぞ」は、その発音から解釈するなら、"breaking-away"
と理解することができるからだ。
0221考える名無しさん
垢版 |
2020/12/05(土) 09:28:13.330
そのように、新たに状況が変化していままでそうであったことが不都合になり、
その不都合を解消するために、それ以前からそうであったものとして対応が
なされることは、歴史の常態であって、例外ではない。
0223考える名無しさん
垢版 |
2020/12/05(土) 12:55:46.560
「蝦夷/ゑぞ」が"exotic(エグゾティック)"でありつづけることは、
中華思想を模した統治イデオロギーのもとでは何の問題もないとしても、
「国際紛争」における領土争いにおいては望ましくないということだ。
0224考える名無しさん
垢版 |
2020/12/05(土) 21:29:28.300
「『化(おもぶけ)』にそむく」ことが「化外」とされるのだから、
蝦夷(ゑみし)≒《récalcitrant》くらいのイメージだろうと思う。
0225考える名無しさん
垢版 |
2020/12/06(日) 15:32:49.210
>>219
夷ってのは敵とか脅威って意味だよ
東夷、西夷とか大雑把に東西南北の敵って意味

征夷大将軍のも敵を制する大将軍って意味な

この程度常識として知っておけと
小学校か中学で義務教育として意味も習うんだけどな
0226考える名無しさん
垢版 |
2020/12/06(日) 15:42:47.270
古代中世だと地理間もいい加減で自分達の支配領域から外れると方角とかでひっくるめて他国、蛮族、敵扱い

そこに明確な意味なんかない
知らない異国程度の認識・知識しか持ち合わせていないんだから歴史に厳密な意味を求めても無駄
0227考える名無しさん
垢版 |
2020/12/06(日) 15:48:00.270
「夷」という漢字の用法なら、Wiktionaryに記載されている。
https://en.wiktionary.org/wiki/
an ancient tribe in eastern China
barbarian; foreigners
to level; to raze
flat; level; smooth
to eradicate; to obliterate
someone of the same generation
happy; joyous

問題にしているのは、日本語としての「ゑぞ」という表現の意味だ。
0228Adyton
垢版 |
2020/12/07(月) 16:38:08.930
神(かみ)と甕/亀(かめ)はどのように似ているのか。

https://en.wiktionary.org/wiki/ἄ;δυτος#Ancient_Greek
Etymology
From ἀ- (a-, “not”) +‎ δύω (dúō, “to enter”)
Adjective
ἄδῠτος • (ádutos) m or f (neuter ἄδῠτον); second declension
Not to be entered
Noun
ἄδῠτον • (áduton) n (genitive ἀδύτου); second declension
innermost sanctuary, shrine
https://en.wiktionary.org/wiki/ἄ;δυτον#Ancient_Greek
0230考える名無しさん
垢版 |
2020/12/10(木) 18:17:38.740
ベルンハイムの『歴史とは何ぞや』とクローチェの『歴史の理論と歴史』を買った。
0231考える名無しさん
垢版 |
2020/12/11(金) 19:58:00.430
ベルンハイムは新刊本だが、
クローチェのは古い古い。
訳者の羽仁五郎は「原著の思想の解釈は三木清氏に」負うている
と書いている。
0232考える名無しさん
垢版 |
2020/12/12(土) 07:56:07.710
古代に朝鮮半島から多数の人々が日本列島に渡ってきたことには疑いの余地がない。
そこには、専門の職能集団として渡ってきた人々も多く含まれる。
その一方で、それらの人々が現代の朝鮮語に直接につながる言語を用いていた
というようなことは、まったく証拠立てられていない。したがって、
朝鮮半島から渡ってきた人々≒現代の朝鮮語を話す人々に直接につながる
古代の朝鮮人と想定することは、まったくの先入観に過ぎない。
職能集団が渡ってくれば、それに伴ってそれらの人々が使う専門用語も
入ってくることは明らかで、古代では、仏教伝来とともにサンスクリット語の
表現が大量にもたらされ、キリスト教の布教とともにラテン語、ポルトガル語、
スペイン語が入り、近現代では、医療関係でドイツ語、料理関係でフランス語、
その他の広い分野の技術に関して英語の語彙が入ってきている。
では、朝鮮語についてはどうだろうか。岩波古語辞典で朝鮮語と同根と
される表現を見ても、似たような意味の朝鮮語の表現と単に発音が似ている
という程度のものであるか、明らかに中国語の表現の語彙として共通して
いるに過ぎない。このことは、朝鮮半島から渡ってきた職能集団の用いて
いた言葉が古代の朝鮮語であったとすると、とても奇妙なことであると
言わざるを得ないだろう。たとえ専門技術がすべて中国から朝鮮半島
にもたらされたものであるという無理な想定をしても、職能集団が
古代の朝鮮語を用いていたなら、それらの用語は朝鮮語化されるはずで
あり、それは、もともとはラテン語であったとしても、英語を介して
日本語にもたらされた技術用語は、英語化されたラテン語であることを
見ても分かる。このことからも、古代に朝鮮半島から渡ってきた
職能集団が古代の朝鮮語を話していたとは考えにくい。ドイツの職能
集団は、東欧の各地に入り込んでいるが、それらの人々は、現代に
至るまでドイツ語を用いてきたし、婚姻関係を通じて現地化した場合
でも、ドイツ語を用いていた痕跡をはっきりと残している。
0233考える名無しさん
垢版 |
2020/12/12(土) 08:40:01.540
カントの『判断力批判』には『純粋理性批判』以来発展せられた
「構想力」概念が関わっている。
三木清は『歴史哲学』において歴史の有機的発展を目的論的発展としているが、
この目的論的発想も『判断力批判』とよく関連しているものである。
のちに三木は『構想力の論理』を著すことになるが、
やはりそれはカント的、『判断力批判』的ラインに沿ったものではないかと思われる。
0234考える名無しさん
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2020/12/12(土) 14:34:20.800
>>120
「い(方向性を帯びた『ゆ』として本来は「yi」)」と「ゐ」と「ゆ」の関係性は、
次のニーチェの表現にもはっきりと見て取ることができるだろう。

>das Gefühl der »Sünde« als eines Vergehens gegen göttliche Vorschriften
Friedrich Nietzsche: Werke in drei Bänden. München 1954, Band 1, S. 533-534

"Vergehen"とは「違反(いはん)」のことであるが、動詞の"vergehen"に由来し、
これは"ver-gehen"と分解されれる。"ver-"は、"through", "across", "away"
などに対応するように使われる要素であり、"gehen"は、英語の"go"に、
つまり、日本語の「い/ゆ(行)く」に対応する。ところで、"Vergehen"に
対応する「違反」の「違(い)」は、古語の発音において旧仮名遣いでは「ゐ」
であり、中国語の古い発音では「Middle Chinese: /ɦʉi/」とされ、
"to disobey", "to violate"を意味するように用いられる。「違」という漢字が、
「圍(≒to surround)」の元の文字である可能性があるとされる「韋」
(発音は同様に、Middle Chinese: /ɦʉi/)と「辶」(辵部、しんにょう)から
構成されることを考えれば、「違」の一文字で"Vergehen gegen Vorschriften"
のイメージを発音と文字表記の組合せでイメージさせていると考えられる。
したがって、"das Gefühl der »Sünde« als eines Vergehens gegen göttliche
Vorschriften"を日本語の発音のイメージから考えるなら、このニーチェの
表現は、「『圍/囲(ゐ)』に反して歩み『出(い)で』ることが『由々(ゆゆ)しき』
こととなるという感覚」を表現していると理解することができるだろう。
0235考える名無しさん
垢版 |
2020/12/13(日) 11:45:06.370
人が言葉を使うことは、相互的な擬態として発展してきたものであろう
ことを以前に指摘した。相手に言葉を発するとは、自らが認識する「現実」に
忠実であるように表現することによって、相手に「真実」を伝えようとする
場合であれ、そのような「現実」に対して不実に、自らが「非現実」である
と認識することを信じ込ませるように、相手に「嘘」を伝えようとする場合
であれ、伝えようとすることを「如実(実の如[ごと]く)」に言葉によって表現
しようとすることである。したがって、発する言葉が使い物になるかどうかは、
「如何(何の如く)に」うまく表現するかにかかっていて、使い物になる言葉の
表現が通用する。そしてその場合、その「如何(何の如く)に」の「何」は、
相手が認知することのできる「現実」にあらかじめ依存しているのである。
そのような関係性においてこそ、言葉を使うことが相互的な擬態であるという
性質がはっきりと表れる。
0236考える名無しさん
垢版 |
2020/12/13(日) 12:12:58.760
日本語が中国語を流用したピジン言語として発展してきたことは、日本語
として日常的に用いられる多くの「擬態語」が、中国語としては必ずしも
擬態語として認識されているわけではない中国語の表現と対応している
だけでなく、「擬態語」、つまり、「物まねの如く」に取り入れられた
表現が、それ以外の言葉においても共通して大々的に使い回され、
使い倒されていることに見て取ることができる。例えば、「ひたひた」
という表現は、古語では、「密着するさま」を表すように用いられた
ものとされ、現代語では、鍋に入れた具材を『ひたひた』にするという
場合のように、「水面と面一にする」ことを表すように用いられ、
この「ひたひた」の「ひた」は、「ひた(浸)す」や、その語源とされる
「ひ(漬)つ」と共通しているだけでなく、中国語の「匹 Middle Chinese: /pʰiɪt̚/」
という表現に対応するものとして、「ひと(人)」、「ひと(一)」、「ひと(等)しい」、
「ひた(直)向き」、「ひたひ(額)」などとも共通する。このような大々的な
流用は、「如何(何の如く)に」を相手に伝えるために、相手が認知する
ことのできる「現実」を「如実に」表す発音を、徹底的に使い回したことの
表れだろう。中国語の表現を模倣し、流用して多くの日本語とされる言葉が
形成されている一方で、古代からの朝鮮語と日本語の関係は不明である。
朝鮮半島からの渡来人が古代朝鮮語を話していたと想定することが、私には
極めて疑わしく思えるのは、朝鮮語において「現実」を「如実に」表す発音
としての「擬態語」が、日本語における発音の用法とは大きく異なり、
朝鮮語の表現が顕著に日本語に取り入れられて利用されているようには
まったく見えないからである。試しに以下のリストを参照してみるといい。
韓国語辞書ケイペディア
https://www.kpedia.jp/p/151-2
0237考える名無しさん
垢版 |
2020/12/13(日) 14:17:21.920
三木によれば、
有機的発展は直線的発展、弁証法的発展は非連続的発展。
弁証法的発展においては、
存在とそれの根拠となる事実は各々目的なき目的論と目的ある目的論。
0238考える名無しさん
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2020/12/13(日) 15:12:02.150
直線だろうと、曲線だろうと、実線の「連続性」は弁証法的だろう
0239考える名無しさん
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2020/12/14(月) 09:34:28.000
https://www.franceculture.fr/emissions/la-fabrique-de-lhistoire/hommage-a-christian-goudineau

歴史学者は、「歴史的な事実」についての自らの知識を、文献学的な研究の長年の
蓄積という堅固な土台の上に成立しているものと信じ、そのようなものとして
提示しようとするが、発掘調査する考古学者は、自らの知識の全体像が、常に
ごく限られた部分的な証拠に基づくことを意識せざるを得ず、新たに発掘される
証拠によって、それまで確かだと思っていた知識が覆ってしまうことが
しばしばあることを身に染みて知っている。だから、「歴史的な事実」が
そのように容易に覆ってしまうことがないようにするためには、権力者の
ものと見なされる墓は、どれほど古いものであっても厳重に管理される
必要があるのである。
0240考える名無しさん
垢版 |
2020/12/14(月) 10:08:16.860
歴史的な事実についての知識の積み重ねは、一見、足し算であるように
見えて、そうではない。それは、無効であることが後から判明した
足し算が、後になって取り消されることによって引き算も行われる
とういだけでなく、足し算そのものの方向性が定まっていないのである。
逆方向の足し算が増えていけば、それまでの足し算の方向をプラスとするなら、
マイナスとなることもあり、すると、すると、知識の全体像が反転する。
つまり、一見、知識の蓄積という足し算だけを行っているように見えても、
それはいつでも複数の異なる方向で行われている、いわば、指数の累算
であり、知識の全体像は、その時点での指数に応じた指数関数の計算結果
として現れるのである。長年の研究の蓄積の結果であるはずの、自らの研究
成果が基礎とする土台が覆ることがあるはずがないと信じる歴史学者は、
認識論的に見て、根本的な思い違いをしているのだ。
0242学術@死狂廃神龍騎師
垢版 |
2020/12/14(月) 10:36:41.780
男子と女子の移民の許可が血統体格うまくいってない。昔もあやしい。
0243考える名無しさん
垢版 |
2020/12/14(月) 19:33:02.470
>>238
あっち行ったりこっち行ったりして連続的でないんじゃないかと思う。
0244考える名無しさん
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2020/12/14(月) 20:08:49.030
三木は弁証法的発展においては存在と事実の関係は非連続的、超越的だとしている。
0245考える名無しさん
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2020/12/14(月) 21:51:05.540
日本語の古語研究の権威として確固たる地位を築いていた人が、
突飛で奇妙極まりない「日本語・タミル語同系説」を唱える
「道化役」を引き受けて、日本語の起源を追求する研究を、
どう見てもまず間違いなく意図的に脱線させたことは
「歴史的な事実」である。日本語の起源がまともに追求される
ことがなぜそれほど不都合なのか、何を誰のために隠蔽しようと
しているのか、その答えに現在の日本という国の在り方の
「歴史性」が反映されていると言うことができるだろう。
0246考える名無しさん
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2020/12/14(月) 23:04:59.100
日本語が、中国語の表現を流用したピジン言語を発展させたものとして
形成されていると言いうるのは、日本語が単に数多くの中国語の表現を
利用しているだけでなく、日本語としての発音の体系化においても、
中国語の表現から類推される関係性が反映されているからだ。

例えば、「い(沃)」は、「方向性を帯びた『ゆ』」であると考えられる
ことを既に指摘した。ここで「沃」という漢字が日本語の「い/yi」の
発音に当てられているものの、この場合、日本語の発音は、「沃」の
中国語としての発音や用法を反映しているわけではない。このことは、
同じくや行の発音として体系化されている「𛀁/ye(江)」にも当てはまり、
「江(Middle Chinese: /kˠʌŋ/)」は、中国語としては、「揚子江」や
「河川」を表すように用いられるとされるが、日本語として「𛀁/ye(江)」
が表現しているのは、「海・湖などの一部分が陸地に入りこんで水を
たたえたところ」(岩波古語辞典)とされ、英語では、"inlet"に相当する。
中国語と日本語の間のこのような発音と漢字の関係の複雑化が、中国語
と日本語の表現の間の(類推によって形成された)対応関係を分かりにくく
しており、さらに、や行の「い/yi」や「𛀁/ye」に見られるとおり、
「い/i」や、「え/e」および「ゑ/we」との区別が失われることになった
ことが混乱を招くことになっているが、そのことによって対応関係が
完全に消失するわけではない。ここで、「ゆ」と「い/yi」と「𛀁/ye」
の関係を日本語の側から考えてみよう。
「い/yi」を「方向性を帯びた『ゆ/yu』」であると考えるなら、
「い/yi/沃≒"pouring out"」と「𛀁/ye/江≒"inlet(水が引き入れられたところ"」
が関係していることは直ちに分かる。すると、その脈絡において「ゆ」は、
どのような漢字に対応するだろうか。日本語として一般に用いられる漢字
としてはすぐには思い浮かばないが、「ゆ」という発音から連想される
「遊(ゆう)」という漢字から、それが水に関連するものとして
「游 Middle Chinese: /jɨu/」という中国語の表現に行き当たる。
0247考える名無しさん
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2020/12/14(月) 23:27:24.140
ただし、「ゆ/yu」と「い/yi」と「𛀁/ye」の類推される関係性は、
そのように水に関連するものとして限定する必要はないのであり、
同様に、「ゆ/yu/由」、「い/yi/移」、「𛀁/ye/依」という関係や、
「ゆ/yu/愉」、「い/yi/易」、「𛀁/ye/悦(𛀁つ)」という関係も
すぐに思い浮かぶ。ここで、例えば、「ゆ/yu/由」は、自由に
動くことを、「い/yi/移」は、うつ(移)ろふことを、「𛀁/ye/依」は、
よ(寄)りそふことをそれぞれ想起させるだろう。ここで、「𛀁/ye/依」
の発音とそれが想起させるイメージは、十二単(じゅうにひと𛀁)の
「𛀁/ye/衣」と共通であり、「𛀁/ye/衣」は、「身にまとふもの」
を意味しており、「胎児をつつんでいる膜」を意味するとされる
「𛀁/ye/胞」とも共通であることが理解できるはずである。
ちなみに、ドイツ語で「衣服」に相当するのは、"Kleidung"であるが、
その語源は、以下のように説明されるので、その捉え方は、
「𛀁/ye/衣」と同様であることが分かる。

https://en.wiktionary.org/wiki/Kleidung
From Middle High German kleidunge, from kleiden (“to clothe”),
from kleit, from Old High German *kleid,
from Proto-Germanic *klaiþą (“cloth”).

https://en.wiktionary.org/wiki/Reconstruction:Proto-Germanic/klaiþ
From Proto-Indo-European *gleyt-, from Proto-Indo-European *gley- (“to cling to, stick to, adhere”).
0248考える名無しさん
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2020/12/16(水) 19:52:32.160
人間が中心の世界になったと言う理由で
「人新世」とか言われているけど、どこまで目配りする必要があるのか。
0250考える名無しさん
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2020/12/16(水) 21:03:44.050
横並び意識が強いっちゅうことか
0251考える名無しさん
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2020/12/20(日) 17:48:06.650
三木清はベルンハイムの受け売り
0252考える名無しさん
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2020/12/20(日) 17:57:29.900
三木はベルンハイムに批判的だよ。
マルクスやヘーゲルを意識しているからかもしれないけど。
0253◆P1F.MDbmTg
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2020/12/20(日) 20:05:30.730
麒麟がくるな
始まった
0254考える名無しさん
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2020/12/20(日) 21:13:27.940
ベルンハイムは時間がどうとか瞬間がどうとか言わないからなあ。
むしろ三木清の歴史哲学はそういうことを言うアウグスティヌスやキェルケゴールの
影響を受けすぎていると言えるかもしれない。
0255考える名無しさん
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2020/12/20(日) 21:50:13.940
1920〜30年代の思潮を理解する助けとして、
片山杜秀の『近代日本の右翼思想』がいいかもしれない。
永遠の今とかのような現在に耽溺する思想をわかりやすく紹介してくれている。
0256考える名無しさん
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2020/12/24(木) 07:58:07.210
歴史を財産とみなす風潮が近年強いが、
これはまさに歴史の商品化だろう。
0257考える名無しさん
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2020/12/24(木) 20:41:25.750
思想史をやってた頃にもっと歴史について意識していた方が良かったかもな
と今になって感じる。
0258考える名無しさん
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2020/12/24(木) 23:49:58.050
例えば、「けみする」という表現があり、通常、「閲(けみ)する」と
表記されることになっているが、「閲」という漢字字体は、
「えつ(Middle Chinese: /jiuᴇt̚/)」と読まれるべきものであり、
本来、「けみする」の「けみ」に当てられるべき漢字は、「検」である。
「検」は、中国語において「Middle Chinese: /kˠiᴇmX/」と発音された
ものと想定されるが、それが「けみ」となったのは、日本語では、
閉音節は一般的ではないので、"i"の発音が付け加えられたものと
考えられ、これは、、「鞬/昆・吉支」の「鞬/昆」が本来は「こん」と
発音されるべきものでありながら、「コ」に省略されるか、または
"i"を付け加えられて「コニ」と発音されたのと同様である。
ところで、日本語で「鑑/鏡」に対応する中国語の「鑒」は、
「Middle Chinese: /ken/, /kˠamH/」と発音されたものと想定される。
中国語の「検(Middle Chinese: /kˠiᴇmX/)」が日本語では「けみ」に
なるのだから、同様に考えるなら、
中国語の「鑒(Middle Chinese: /kˠamH/)」が日本語では「かみ」に
なると考えるのが自然な類推である。それが、「かみ」ではなく、
「かがみ」となったのは、もともとは、「かみ」という発音で
日本語に取り入れられ、その語頭に「か」が後から付け加えられた
からだろう。つまり、「か+かみ」⇒「かがみ」である。
0259考える名無しさん
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2020/12/24(木) 23:56:33.430
むろん、そこには、「かげ(影)+み(見)」という解釈の複合が生じているだろう
と考えられる。
0260考える名無しさん
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2020/12/24(木) 23:58:04.130
太閤検地に関連した検見法・定免法を思い出したよ。
0261考える名無しさん
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2020/12/24(木) 23:58:33.020
言い換えると、中国語の「鑒(Middle Chinese: /kˠamH/)」が
日本語ではそのまま「神(かみ)」となる。
0262考える名無しさん
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2020/12/25(金) 00:06:55.290
ところで、「鞬/昆・吉支(コニキシ)」という発音は、明らかに漢字の
日本語読みでありながら、なぜそれが「古代朝鮮語」であるという説が
まかり通っているのか、その根拠が私にはさっぱり分からない。
「朝鮮半島で用いられたから朝鮮語である」というのなら、現代の韓国で、
例えば、「リューテナント」という言葉が使われたら、朝鮮語であるという
ことになってしまうではないか。
0263考える名無しさん
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2020/12/25(金) 00:24:53.220
犬や猫については、「言論の自由」があるかどうかを問ふことは無効であるが、
人の場合は、いつでも「言論を自粛する自由」が認められており、
学者や専門家を含め、大多数の普通の人々は、ほとんどいつでも常態として
その権利を行使しているのである。
0264考える名無しさん
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2020/12/25(金) 23:04:23.360
クローチェは歴史は全て現代史であるなどといったことを述べたというが、
現代の視点が入り込まない、完全なその時代の文脈のみに即した歴史というのは
果たしてあるのだろうか。
0265考える名無しさん
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2020/12/26(土) 22:16:39.800
渡邊二郎の講義録が収められた『ニヒリズム』(東大出版会)を読むと、
哲学研究は体系研究と歴史的研究に分かれるとか書かれているが、
渡邊は体系の研究については一定の整理をつけた後で哲学史たる歴史的研究の
歴史の何たるかを考えるべく『歴史の哲学』を著したのだろうなとおもった。
0266考える名無しさん
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2020/12/29(火) 20:44:31.970
歴史とは何でしょうか?歴史学とは何でしょうか?
1 物語の娯楽的側面
2 物語の国民的共有(民族意識。国民意識。倫理の根拠)
3 歴史から得られる反省。将来への対処のための過去検証。
4 現在の権利の根拠(一例として、領土問題等の根拠)
私は、この4つを列挙してみたのですが、どうも既存の歴史学の発想に合致しないみたいですね。
歴史学の本には、歴史資料の検証方法とか、歴史資料の取捨選択とかのテクニカルな話が多くて、あまりに専門的
すぎて難しいのです。
上の4の「権利の根拠としての歴史」に言及した歴史学の本はありませんか?

ごちゃんねるなのにマジの書き込みでスマソ
0267考える名無しさん
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2020/12/29(火) 20:55:31.880
外務省とかに勤めていて歴史や法律に通暁した人物が
自らの仕事に関して書くような本がそういう本なんだろうけど、
現実には秘密や機密ということで表に出てこないだろうなあと思う。
外交史や政治史って統治の真っ只中にいる法学部の人が中心になってやる
分野だろうしなあ。
0268考える名無しさん
垢版 |
2020/12/29(火) 21:09:04.320
カール・ポパー「歴史主義の貧困」という本を読みました。「歴史なんか無価値。現在の
社会の統計・分析だけをたよりに社会構築した方が人類を幸福にする」という内容に思えた
のですが、それでいいでしょうか?
小坂井 敏晶の「民族という虚構」「責任という虚構」はそれを継承していると考えていいでしょうか?
あと、ここを訪問してくる方は、ナショナリズム肯定のかたが多いのでしょうか?その反対でしょうか?
0269考える名無しさん
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2020/12/29(火) 21:20:23.160
実は歴史主義の貧困は持っているけれどもまだ読んでいない。
現状分析は、過去の歴史に照らし合わせて
現状と類似の事例を見つけ出して検討することでも成り立つと思う。
小坂井敏晶は名前しか知らない。
ナショナリズム的思考は多かれ少なかれみんな持っているものだろうと思う。
0270考える名無しさん
垢版 |
2020/12/29(火) 21:25:02.160
最近は文明史的な発想が求められていると思う。
砂漠化を防ぐ灌漑農業も文明史的に見れば砂漠化の原因だったこともあるとか。
0271考える名無しさん
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2020/12/30(水) 05:11:46.670
歴史に「if」は禁物なんて言われますが、「if」を想定して「だったらその後の歴史はどうなっていたか」
をシミュレートするなんてことは学問では行われていないんですか?
0272考える名無しさん
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2020/12/30(水) 05:18:00.910
>>271
歴史学じゃなくて文学の世界だな。そういうことが行われているのは。
例えば『高い城の男』とかね。
0273考える名無しさん
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2020/12/30(水) 07:51:00.930
>>270
地下水から農業用水を供給し続けると塩害がでるからな
それでも砂漠を緑化するとかいうムダなことはやらないほうが良い
0274考える名無しさん
垢版 |
2020/12/30(水) 08:05:15.460
用水路とかを作るようなことは昔は勘でやってたようなこともあったろうし、
それで失敗もしてきたのだろう。
今は思いっきり科学的見地からアプローチしているようだ

砂漠の洪水を灌漑用水に変える −ヨルダンの乾燥地で数理的最適戦略によるプロトタイプを運用−
https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research-news/2018-03-08
0275考える名無しさん
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2020/12/30(水) 08:17:51.150
合理的な判断だとは思うけどやはり無益なことだな
砂漠に水を引き人口が増大すればまた砂漠が生まれてくるので
無理して砂漠に人が住む必要はない
0276考える名無しさん
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2020/12/30(水) 08:20:08.440
メソポタミア文明は灌漑の後の人口の集中で滅んだみたいだしな。
0278槐(ゑにす)
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2020/12/30(水) 09:48:20.340
怨/鬼(おに)を退治する桃太郎としてのツァラトゥストラ

「槐(ゑにす)」とは何か?
https://kobun.weblio.jp/content/怨ず
学研全訳古語辞典
えず 【怨ず】⇒ゑず
ゑ−・ず 【怨ず】「ゑんず」に同じ。
出典土佐日記 一・一八
「歌主(うたぬし)、いと気色(けしき)悪(あ)しくてゑず」
[訳] 歌の作者は、ひどく機嫌が悪くて恨み言を言う。◆「ゑんず」の撥音(はつおん)「ん」が表記されない形。
ゑん−・ず 【怨ず】
恨む。恨み言をいう。「ゑず」「ゑにす」とも。
出典枕草子 にくきもの
「言ひ知らせぬをばゑんじ、そしり」
[訳] 話して聞かせないのを恨み、悪く言って。
0279考える名無しさん
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2020/12/31(木) 21:25:10.450
最近の「桃太郎」を使った教育現場では、
鬼ヶ島を攻める以外に何かできることはないのか
みたいな問いが教師から発せられ、
生徒の方から「鬼に農業を教えればいい」などという回答が寄せられることも
あるんだそうな。
0281考える名無しさん
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2021/01/01(金) 03:05:48.080
まあ、歴史的変化、地殻変動は起こるということですわな。
0282考える名無しさん
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2021/01/01(金) 14:56:27.180
歴史を笑う者は歴史に泣く
0284考える名無しさん
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2021/01/01(金) 16:16:26.810
般若湯
0285考える名無しさん
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2021/01/01(金) 17:19:27.130
>歴史的変化、地殻変動は起こるということですわな。

歴史の地殻変動はどのように起き得るのか?
それを記述することが哲学の仕事だろう。
個別の証拠の明証性によって地殻変動が生じるわけではない。
0286考える名無しさん
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2021/01/01(金) 17:21:12.670
桃太郎の例の場合は戦後の人権教育、解放運動の教育現場への浸透の賜物だろう。
0287考える名無しさん
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2021/01/01(金) 18:17:26.860
勘違いだろうね。「怨」に農業を教えることなんてできないだろう。
0288考える名無しさん
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2021/01/01(金) 18:28:30.010
その怒りのパワーを鍬と土にぶつけろ!
0289考える名無しさん
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2021/01/02(土) 00:24:56.740
桃(もも)太(た)郎(ろう)と百済(くだら)は似ている。
「百」を「もも」と読むが、「郎」を万葉仮名として読むと「ら」になる。
桃(もも)太(た)郎(ろう)⇒百(もも)太(た)郎(ら)となり、
百(もも)を九(く)で置き換えると、九(く)太(た)郎(ら)⇒くだら(百済)になる。
0290考える名無しさん
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2021/01/02(土) 00:43:24.240
「魏石鬼(ぎしき)」も文字通り読むと、いかにもいはくありげな呼び名だな。
0291考える名無しさん
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2021/01/02(土) 01:00:26.770
「石(いし)」を「沃(い)沚(し)」と見るなら、「水に運ばれて残されたもの」であり、
「鬼(き)」を「怨(おに)」と見るなら、「魏石鬼(ぎしき)」は、
「魏(ぎ)が残した怨(おに)」であるように読める。それが「八面(はちめん)大王」で、
「八面」を「やめ」と読むなら、
>福岡県八女の古代豪族磐井との繋がりも考えられている<
https://ja.wikipedia.org/wiki/魏石鬼八面大王
ということらしい。歴史については知らないので、どういう解釈が成り立つのか分からないが。
0292考える名無しさん
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2021/01/02(土) 10:48:24.450
伝承によると桃太郎は必ずしも桃から生まれるわけではなく、桃を食べた老夫婦が
若返って(つまり、勢力を増して)子作りに成功して生まれたのが桃太郎だとか、
いろいろバージョンがあるみたいだが、いずれにしても「桃(もも)/百?)太郎」は、
川の「水に運ばれてくる」、またはそのように流れてくるものに関連付けられて
いるようだね。お供するのも、必ずしも、イヌ、サル、キジではないようだが、
きび(黍/吉備?)団子とか、とう(唐?)団子とか携えていることも、いかにも
思わせぶりだ。
0293考える名無しさん
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2021/01/02(土) 10:55:06.060
巧みな掛詞を駆使することが文芸の才の見せ所であったのだから、
この物語を語るのに何もアレゴリーを意識しなかったということはないだろうと思う。
0294考える名無しさん
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2021/01/02(土) 12:00:46.840
桃/百(もも)太(た)郎(ら)が「怨(おに)」に対する怨恨を晴らすのだろうか
どのような集団が「怨(おに)」の対象として想定されたのだろう
0295考える名無しさん
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2021/01/02(土) 13:15:59.540
ところで、「百済(くだら)」という表記を見ると、「百」は日本語の古語で
「く」ではなく、「もも」と読まれるが、「済」が「たら」と読まれること
はない。そこで「済」の旧漢字である「濟」についての記載をWiktionaryで
参照すると、この漢字は、"to cross a river; to ferry"を意味するように
用いられるとされる。"ferry"とは、言うまでもなく、「フェリー・ボート」
のフェリーであり、「濟」は、「水上を運んで渡す」ことを意味するように
用いられたことが分かる。すると、「百済」は「『もも』+『水上を運んで渡す』」
を表しているかのように読めることになる。川の水に運ばれてきた「もも」から
生まれる「桃太郎」と似ていないだろうか。
0296考える名無しさん
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2021/01/02(土) 13:38:52.100
「鬼ヶ島(おにがしま)」という名称から、現代の日本語ではすぐに海に浮かぶ
孤島を連想してしまうが、「しま」が表現しているのは、「注連縄(しめなは)」
の「しめ」からも分かるとおり、「縄張り」である。船で渡っていくから
といって、その縄張りが水に浮かぶ孤島であると想定する必要はないだろう。
0297考える名無しさん
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2021/01/03(日) 12:29:30.840
日本語の尊称の「きみ」には、「君」という漢字が当てられるが、
「君」という漢字は、中国語の中古音において"/kɨun/"と発音されたものと
想定され、日本語には「くん」という発音で取り込まれたものと考えられる
ので、この発音を「きみ」の語源とすることには無理があるだろう。
そこで、想定されているのが、同じ「君」が「/kɨun/」が「新羅語」に
おいて王を意味するように用いられ、それに「今 (kum)」の漢字が当てられて、
そこから日本語に取り込まれたのではないか、という想定のようである。
> Possibly a borrowing from the Sillan word for king, written with the character 今 (kum).
https://en.wiktionary.org/wiki/

しかし、これは、いかにも持って回った、とってつけたような理屈付けだ。
第一、「新羅語」について詳しいことが分かっていないのに、そこからより古い日本語を
説明しようとするアプローチ自体に無理があり過ぎると言わざるをえないだろう。
日本語の「きみ」は、その発音と用法から見て、むしろ、「錦/金(Middle Chinese: /kˠiɪmX/)」
の流用であると考える方が自然ではないのか。そう考えることは、
英語の"Your Majesty"という表現や、ドイツ語の伴侶に対する呼びかけとして
用いらる"Schatz"という表現、スペイン語で同様に用いられる"tesoro"という
表現を参照するなら、妥当であるように思われる。さらに、「新羅語」で
王を表すように用いられたとされる「今」という漢字字体、中国語の
想定される中古音において"Middle Chinese: /kˠiɪm/"とされ、「君(/kɨun/)」よりも、
「錦/金(/kˠiɪmX/)」の方にはるかに近い。
0298考える名無しさん
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2021/01/03(日) 12:37:21.710
誤:漢字字体
正:漢字自体
0299考える名無しさん
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2021/01/03(日) 15:59:57.750
中本?
0300考える名無しさん
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2021/01/05(火) 22:18:23.170
中盆
0301考える名無しさん
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2021/01/10(日) 01:10:01.030
渡邊二郎の『ニヒリズム』と三木清の『歴史哲学』の後半を併せ読むと、
やはり、哲学する、歴史的見地に立って行為する際の鍵概念は主体性だとわかる。
当たり前と言えば当たり前なのだが、そういうことを深く考えて記述すると、
哲学書が出来上がるということだな。
0302考える名無しさん
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2021/01/10(日) 13:39:47.710
>>258
>日本語では、閉音節は一般的ではないので、"i"の発音が付け加えられた

このように考えるなら、「かに(蟹)」も" a shield"を意味するように用いられる
場合の「干(Middle Chinese: /kɑn/)」の語末に"i"を付け加えたものではないか
という考えが浮かぶ。この考えは、ドイツ語では、「かめ(亀)」のことを
"Schildkröte"と表現することからも妥当であるように思える。その一方で、
私は、以前、「かに(蟹)」が表現しているのは、英語にするなら、
"stretching over 〜"に相当するような脚を伸ばす歩き方の様態だろうと
指摘した。では、「かに(蟹)」が「干(Middle Chinese: /kɑn/)」+"i"に
由来すると考えることが妥当であるとするなら、以前の私の考えは全面的に
放棄しなければならないのだろうか。

私は、それほど物分かりも、諦めもよくないので、そうは思わない。
ここで私に思い浮かぶ新たな仮説は、"to stretch over 〜"に相当する
ように用いられる「か(兼)ねる」の「か(兼)ね」という表現自体が、
「かに(蟹)」に由来するのではないか、ということである。
「かに(蟹)」がその語源において「干(Middle Chinese: /kɑn/)」に
直接に対応するとしても、「かに」と呼ばれるようになるとともに、
それが「歩き方の様態」、つまり、「かに歩きの脚運び」も表現する
ようになり、「蟹のように脚を伸ばして離れた別々の場所に着地点
を置いた状態」が「かね」と呼ばれ、それに漢字の「兼」が
当てられて、「か(兼)ね」という表現が生じたのではないかということである。
0303五月雨をあつめて早し最上川
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2021/01/17(日) 09:43:05.410
類似による連想は、どのように働き、どのように有用となり得るのか。

「『いそ(急)ぐ』様子」をフランス語では《précipitamment》と表現する。
この表現を派生させる動詞の《précipiter》は、「(高い所から)落とす、
投下する」(クラウン仏和辞典)ことを原義とするが、そのことから、
「早める」(同上)ことを意味するようにも用いられるようになり、
再帰用法の《se précipiter》において「急ぐ」ことや「速くなる」ことを
意味するようにも用いられる(同上)。

《précipiter》の名詞化が《précipitation》であることは言うまでもなく、
《précipitation》は、「いそ(急)ぐこと」を意味すると同時に、この動詞が
「(高い所から)落とす、投下する」ことを原義とすることから、
「降水(雨・雪など)」(同上)を意味するようにも用いられる。

何をそんな当たり前のことを今さら、と思うかもしれない。では、ここで、
当たり前ではない問ひを発しよう。《précipitation》が「いそ(急)ぐこと」
に対応するなら、《précipitation》によって表現される「降水(雨・雪など)」
は、「いそ(急)ぎ」に対応するのか。「いそ(急)ぎ」とはどのような表現なのか。
0304五月雨をあつめて早し最上川
垢版 |
2021/01/17(日) 10:43:38.910
「いそ(急)ぎ」を岩波古語辞典で引くと、それに関連して「いそひ」という
項目があり、次のように説明されている。

>いそひ【勤ひ・競ひ】 《イソシ(勤)・イソギ(急)と同根》
@一心にする。つとめはげむ。「筏に作り 泝(のぼ)すらむ [人民の]いそはく見れば 」〈万50〉
A先を争う。「頬の上に花開きて、春をいそふに似たり」〈遊仙窟(醍醐寺本)鎌倉期点〉<

「いそひ【勤ひ・競ひ】」は、明らかに「いそ・ふ」という再帰表現の動詞であるものと
理解することができるが、一方で、現代語で表現するなら、「いそ(勤)しむ(≒忙しくする)」に
相当するように用いられ、他方で「きそ(競)い(合)う」ように用いられるとともに、
それに対応するように「いそ」には、それぞれ、「勤」と「競」の漢字が当てられている。
このことから、「いそ(勤)ふ」は、「(自らが)忙しくする」ことを表現しているので、
「いそ(急)・ふ」と解釈されて用いられ、他方、「いそ(競)ふ」は、「きそ(競)ふ」に
なぞらへて、「い・そ(添)ふ」(「そ(添)ふ」は、さらに「そ・ふ」と理解される)と
解釈されて用いられているように思われる。ただし、「いそ(急)・ふ」は、
「い・す+ふ」であると理解することができるので、結局のところ、「いそ(急)・ふ」
であれ、「い・そ(添)ふ」であれ、「い」は、「いそ(急)ぐ」の「い」として共通して
いると解釈され得る。
0305五月雨をあつめて早し最上川
垢版 |
2021/01/17(日) 11:37:09.560
では、その共通していると考えられる「いそ(急)ぐ」の「い」とはどのような
表現なのか。ここで、先に発した問ひが、「類似による連想」の効果を
発揮することになる。《précipitation》が「いそ(急)ぐこと」に対応し、
《précipitation》が「降水(雨・雪など)」を表現するように用いられるなら、
「いそ(急)ぐ」の「い」は、"pouring (down)"に、つまり、「沃(い/yi)」
に対応するのではないか。

そのように想定すると、「いそふ(勤ふ/競ふ)」は、「勤(いそ)ふ」=「沃(い/yi)す+ふ」
または「競(いそ)ふ」=「沃(い/yi)添(そ)ふ」と解釈されることになるだろう。
ここで、「競(いそ)ふ」=「沃(い/yi)添(そ)ふ」の方は、私にはイメージ的に合う
ように感じられ、特にそれ以上の解釈を必要としないように思われる。
では、「勤(いそ)ふ」=「沃(い/yi)す+ふ」の方はどうかと言えば、まだ
適合性がはっきりしないように感じられるかもしれない。そこで、解釈をさらに
進めてみよう。

「沃(い/yi)す」が表現しているのは、「沃(い/yi)≒"pouring (down)"+す≒"let"」
である。では、この場合、「いそ(勤)・ふ」の「〜ふ」は何を表現しているだろうか。
これまで私は、日本語において再起表現を形成するのに用いられる「〜ふ」は、
極めて特徴的なこととして、「〜」によって表される作用/動作/様態を反転させる
ように用いられる場合がとても多くみられることを繰り返し指摘してきた。
私には、そのことが、この「いそ・ふ」の場合にもそのまま当てはまるように
思える。つまり、「いそ(勤)・ふ」は、「沃(い/yi)す≒"let pouring (dow)"」働きを
反転させ、「流されることに逆らう」のである。岩波古語辞典に引用される
例文を再び見てみよう。
0306五月雨をあつめて早し最上川
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2021/01/17(日) 11:37:43.670
>「筏に作り泝(のぼ)すらむ [人民の]いそはく見れば 」〈万50〉
現代語訳の参考:https://manyoshu-japan.com/13528/

「泝(のぼ)す」の「泝」は、見慣れない漢字だが、現代の日本語で一般に用いられる
漢字では、「遡及」の「遡(そ)」、要するに、「さかのぼ(遡)る」に対応するように
用いられた漢字である。

したがって、「いそ(勤)ふ」ことが「流されることに逆らう」ように働くことを表現
するとすれば、「いそ(急)ぐ」=「沃(い/yi)≒"pouring (down)"+す≒"let"+ぐ」
ことは、五月雨を集めた最上川が「急流」となるように「流される流れに乗る」こと
をイメージさせる表現となるだろう。
0308考える名無しさん
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2021/01/18(月) 04:56:50.640
つい先日の共通テストの倫理でベンヤミンの
『歴史の概念について』が出たようだな。
0309考える名無しさん
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2021/01/18(月) 10:35:38.300
Erloesungを解放と訳すか救済と訳すかで議論になるわけだが
出題者は野村修訳に依拠したみたいね
0310考える名無しさん
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2021/01/18(月) 12:09:25.640
野村修訳は岩波文庫で出ていて、鹿島徹訳は未来社から出ているが、
鹿島徹は岩波書店から歴史をテーマにした単行本を出しているのが何とも言えない所。
0311考える名無しさん
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2021/01/20(水) 09:51:28.610
「いそ(急)ぐ」が、「流される流れに乗る」ことをイメージさせる表現である
と考えられることを見たが、「はや(速/早)い」の「はや」も、しばしば、
流れに関連してイメージされることは、「流行(はや)る」と表記されること
からも分かる。ただし、「はや」という表現を、それを構成する要素から
解釈する場合、「は」は、「葉(は)」や「羽(は)」などの場合と同じく
「広がり」を想起させ、「や」は、「勢いのある方向性」を想起させる
ものと理解することができる。さらに、この場合の「は」が想起させるのは、
抽象化された空間、つまり、時間から切り離された空間ではなく、方向性
のある動きが及ぶ範囲であり、より分かりやすく言い換えるなら、
「ひと『は(掃)き』(a sweep)」の範囲であり、この「は」が「運(はこ)ぶ」
の「は」でもあることは、「運(はこ)ぶ」が「は(掃)く+ふ」という
「は(掃)く」の再帰表現であることからも分かる(例えば、「あしはこ(足運)び」
という表現が何を表しているか考えてみるといい)。
0312考える名無しさん
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2021/01/20(水) 09:58:23.270
ここで、当てられる漢字の中国語の発音は、日本語の表現とは無関係であるものの、
「は(馳)せる」という表現の「は」に当てられた「馳(Middle Chinese: /ɖˠiᴇ/)」
という漢字のWikitionaryにおける英訳が、日本語の「はや」という表現を理解する
助けになるだろう。
https://en.wiktionary.org/wiki/

to speed; to gallop
to spread afar
馳名 / 驰名 ― chímíng ― famous; well-known
(literary) to long for; to be eager for
(literary) to chase
0313考える名無しさん
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2021/01/20(水) 10:16:02.260
「はや」の「や」については、「勢いのある方向性」を想起させるものとして
説明しているが、万葉仮名で「や」に「野」や「射」や「矢」が当てられること
からも明らかなとおり、この「や」は、中国語の「野(Middle Chinese: /jiaX/)」や
「射(Middle Chinese: /jiaH/)」(Wiktionaryには、"to hit with bow and arrow"
を表現していたものと説明される)の発音とそれが想起させるイメージをそのまま
流用したものと考えることができる。「はや」に、引用した「馳」の英訳を
そのまま当てはめてみるなら、「to spread(≒「は」) afar(≒「や」)」となるが、
以前に説明したとおり、「や」を、やはり英語の"away/way"やドイツ語の
"weg"に当てはめて解釈してみると好都合な、「や」を用いた日本語の表現も
多い。しかし、さらに発音もそれが想起させるイメージも類似しているのが、
英語の"inject"、"project"、"reject"に見られる語根の"-ject"であり、
こちらは、再構築される印欧祖語において"*ye-"(*yē-, Proto-Indo-European
root meaning "to throw, impel.")という語根として解釈されている。
https://www.etymonline.com/word/*ye-
ちなみに、現代の中国語の「野」の発音も「ピンイン yě」である。
0314考える名無しさん
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2021/01/20(水) 10:34:00.190
ところで、「長谷(はせ)川」の「長谷」がなぜ「はせ」と読まれるのか検索
してみると、本来は、「泊瀬(はつせ)」や「初瀬(はつせ)」であったものが、
「つ」が落とされて「はせ」と発音されるようになり、それに地形から
「長谷」という漢字が当てられた、というような説明をするサイトが数多く
ヒットする。しかし、私には、この説明は、極めて疑わしく思える。
確かに、「「長谷(はせ)川」」の「はせ」という発音には、「長谷」という
表記よりも先に「泊瀬」や「初瀬」という表記が当てられていたのだろう。
しかし、これらが、本来、「はつせ」と発音されて、後に「つ」が理由もなく
落とされたと考えるのは奇妙であり(日本語の発音にそのような一般的な
規則性は見られないだろう)、最初から「はせ」と発音されて、「は」の
発音に「泊」や「初」が当てられたと考える方が自然であると思われる
(実際、万葉仮名で「泊」は、「は」を表記するのに用いられる)。

では、「はせ」は何を表現しているのか。それを「長谷」という表記が
はっきりと示唆しているのではないか。谷が長ければ、そこは峡谷となり、
そこを流れる水は、雨が降ると勢いよく「は(馳)せ」、急流となる。
まさしく、「長谷川」≒"a precipitous river"だろう。
0315310
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2021/01/21(木) 04:34:38.750
鹿島徹訳を今しがた読んだけど、「解き放たれた」となっているな。
0316考える名無しさん
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2021/01/21(木) 13:57:20.230
へえ? そりゃまた妙な訳だな
それだとentladenとかentlassenのニュアンスに聞こえる
0318考える名無しさん
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2021/01/21(木) 14:08:18.680
>Seele sich so lange wiederverkörpert, bis alle ihre Karma-Eindrücke
aufgelöst sind und Moksha, die Erlösung, erlangt wird.<
0319月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也
垢版 |
2021/01/21(木) 14:31:26.000
>801考える名無しさん2021/01/21(木) 14:02:06.680
>人(ひと)が時(とき)の権現(ごんげん)に過ぎないのです。

日本では、西洋の哲学のように「存在」について深く考察することはなかった
と言われることがあるが、これは奇妙な主張である。もし、「存在」について
日本語で考えられてこなかったとするなら、西洋では、「ある」とはどのような
ことであるのかについて考えることは、私的な試みとしての思索と見なされて、
哲学としての存在論と考えられることはなく、せいぜい、キリスト教的な
神学に回収されてきたと言わざるを得ないだろう。
0320考える名無しさん
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2021/01/21(木) 15:10:01.960
中国語の表現を利用したピジン言語としての日本語において、「ある」は、
英語にするなら、"be around"に相当するような表現となっている。
このことは、「ある」から派生したと見なすことができる「歩(ある)く」の
古語である「あり・く」が"wandering"に相当し、「歩(ありき)き神」が
"a wandering divinity"であることからも確かめられる。また、
「在(あ)りし日」は、過去の時(とき)≒"days of the past"、つまり、
「往(い)にし辺(へ) /古(いにしへ)」の時(とき)ではなく、生きて残した跡、
すなわち、遍歴("Walz"とも言い換えられるドイツ語の"Wanderjahre"という
表現が想起される)である。https://de.wikipedia.org/wiki/Wanderjahre

「ある」の「あ」が、不特定に離れている様態を表すように用いられる要素
であり、英語の"lofty"に相当するようなイメージを伴う中国語で「岸」と
となった表現の流用であると考えられることは、既に繰り返し指摘してきた。
「〜る」という形で動詞を形成する役割しかしていないように見える
「ある」の「る」は、そうであることが疑われることを以前に指摘したとおり、
中国語で「履」となった表現(万葉仮名において「履」は「り」を表記する)
の流用であると私は考える。
https://en.wiktionary.org/wiki/
to fulfil; to implement; to carry out
to carry out personally
0321考える名無しさん
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2021/01/21(木) 15:25:33.780
さらに、「あらは(現)る」という表現は、「あら(顕)は」に「〜る」を付加して、
再び動詞として用いたものであるが、「あら(顕)は」自体、「ある+ふ」、
つまり、"be around"を再帰表現にして活用したものであると理解できる。
「あら(顕)は」に対応するように「あら(顕)ふ」という表現が存在しないのは、
「荒/粗(あら)」から派生させられた「あら(洗)ふ」と発音が重なってしまい、
意図を伝えるのに混乱が生じるので、「あら(顕)は+る」という表現を用いる
ことが選択されたためだろう(ちなみに、岩波古語辞典では、「あら(顕)は」
について、件の如く、「アラは朝鮮語のal(卵)と関係があろう」という、
根拠のまったく不明で奇異な朝鮮語−日本語同源説を記載している)。
0322月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也
垢版 |
2021/01/21(木) 16:08:46.930
このように日本語の「ある」から「存在」について考えるなら、人(ひと)は、
本来的に、遍歴を残して去ってゆくひと時の漂泊者であるに過ぎず、西洋の
哲学や思想が、しばしばそうしてきたように、定在を前提として、
ノマド(漂泊/放浪者)が、否定的にであれ、肯定的にであれ、夢想される
わけではないのである。

「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人」であるなら、この世に
ひと時、滞留している人(ひと)は、旅人としての時(とき)をもてなす
主(あるじ)であるとしても、それは今を時めいているに過ぎない。
ひと時の客が旅立てば、人も、もはや主(あるじ)ではなくなる。
したがって、日本語で「存在」について哲学しようとするなら、
自らを漂泊者と見なして人の存在について深く思索したニーチェの
存在論をハイデガーの存在論によって捉え直そう(整理しよう)とする
ような取り組みは、哲学からキリスト教神学への退行にしかならない
のではないか。
0323主客から考える
垢版 |
2021/01/23(土) 09:01:45.530
人(ひと)としてあるとは、ひとときのもてなしにおいて客(きゃく)/主(あるじ)としてふるまふことである。
One's being in the world is to be a guest/host in an entertainment for a while.
0324考える名無しさん
垢版 |
2021/01/26(火) 11:45:06.120
あと17ページくらいで三木清の歴史哲学を読み終えられそうだ。
長かった。
0325考える名無しさん
垢版 |
2021/01/26(火) 19:08:38.620
やっと読み終わった。
客観的な存在と主体的な事実の相克を何とかしようとする感じだった。
事実がマルクスの言う所の下部構造で、存在が上部構造かな。
0326考える名無しさん
垢版 |
2021/01/27(水) 08:00:51.850
165ニューノーマルの名無しさん2021/01/27(水) 07:59:11.68ID:oCeYpPpM0
朝鮮半島の側の歴史も徹底的に浄化されているから、よく分からないことだらけ。
例えば、済州島で話されていたのは「朝鮮語」ではないだろう。
では、どのような言葉が話されていたのか。朝鮮語を話すようになった後も、
半島からの人々とは意志の疎通に困難が生じるほど、大きな方言差が残ったのだから、
済州島固有の語彙や地名などが残らないはずがない。
それでも、「歴史上」残っているのは、「朝鮮語の方言」だけで、
どのような系統の言葉が使われていたのかすら不明。
いかに歴史の浄化が徹底しているかをはっきりと示している。
0327考える名無しさん
垢版 |
2021/01/28(木) 12:22:04.410
>>320
英語の"lofty"に相当するようなイメージを伴う中国語で「岸」ととなった
表現の流用であると考えられる「あ」がどのように、「不特定に離れている
様態を表す」ことになるのかは、英語の"there(そこ)"と"over there(そっちの方
/あそこ)"、"here(ここ)"と"over here(こっちの方)"における"over"の用法を
考えてみると分かりやすいだろう。
0328考える名無しさん
垢版 |
2021/01/30(土) 10:39:02.180
日本語を形成する基礎となった言語が、中国語の流用にほぼ全面的に依存して、
その形成が日本列島における統治の統一よりも時代的に前に遡るとするなら、
その言語が、日本列島に限定されて使用されたと考えることには無理があり、
中国大陸、朝鮮半島、日本列島にわたる広い範囲の海域で交易のための言語
として用いられ、水路を中心に普及したものと考える方が自然であることは、
既に指摘した。無論、そのように考えることは、実効力による支配とそれを
承認させる権威とに基づき、したがって、歴史的に見れば大きく変化し
つづけてきた地理的な統治上の領有権の主張とは無関係である。
そのような時代錯誤的な領有権の主張の権威付けから解き放たれるなら、
地名の解釈にもさまざまな可能性が開かれるとともに、表現のより綿密な
理解も進むはずである。
0329考える名無しさん
垢版 |
2021/01/30(土) 10:51:02.910
先日、韓国TVドラマを観ていたら、セリフのなかに「汝矣島/Yeouido
(Hangul: 여의도)」というのが出てきた。韓国のことについて私はほぼ
何も知らないが、その「汝矣島」という表記と"Yeouido(カタカナに
移せば、「ヨウィド」になるだろう)"という発音がなんとなく気にかかって、
少し検索してみた。Wikipediaの「汝矣島」の項目には、以下のように
記載されている。

>漢江に面した縦3km、横1kmほどの広さの島で韓国の国会議事堂や政府機関が
置かれているほか、大手金融機関やメディアの本社が多数立地しており
超高層ビル街を形成している。<

さらに、関連項目として、「ヤンマル山 - かつて汝矣島にあった山」と
記載されており、リンクをたどると、以下のように説明されている。

>ヤンマル山(ヤンマルさん、朝鮮語: 양말산)は、大韓民国ソウル特別市
永登浦区汝矣島の、現在の国会議事堂の場所に、かつて存在していた山。

>かつてはこの山に牧場を設けて羊や馬を育てていたため、ヤンマ山(養馬山、羊馬山、양마산)
と呼ばれ、後にヤンマル山(「マル」とは馬の朝鮮語の固有語である)と称されるようになった。<
0330考える名無しさん
垢版 |
2021/01/30(土) 11:03:01.920
>現在は、この山を削った場所に、国会議事堂が建設されている
とのことだが、「養馬」の「養」は、日本語で漢語としては「ヨウ」と
読まれるが、「養(やしな)ふ」に当てられている漢字であり、
中国語の中古音は、"Middle Chinese: /jɨɐŋX/"であったと想定されている。
さらに、「馬」の中国語の中古音は、"Middle Chinese: /mˠaX/"であると
想定されているので、「養馬」を万葉仮名風に読むなら、「やま」と
読める。普通の日本語の使用者なら、この山が、やはり「やま」と読める
名前で呼ばれていたことに興味を惹かれるはずである。
0331考える名無しさん
垢版 |
2021/01/30(土) 11:15:23.130
そこで、脚注をさらに見ると、以下のように記載される。

>영등포동, 여의도동, 양화동,신길동, 대림동 - 영등포구]”. 서울특별시 (2014年2月28日).
2015年11月22日閲覧。 “여의도동:여의도동은 잉화도(仍火島), 나의도(羅衣島),
나의주(羅衣洲) 라고도 불렸던 동으로, ... <

断っておくが、私は朝鮮語はまったく読めないので、コピペしたまでた。だが、
Google翻訳にかければ、何が記載されているのかは理解でき、「汝矣島/Yeouido(Hangul:
여의도)」が今は、漢字でそのように表記され、「ヨウィド」のように発音されるが、
かつては、「汝矣島」は、「仍火島」とも、「羅衣島」とも表記され、「汝矣」が
「ヨウィド」のように読まれるのに対して、「仍火」は、「インファ(잉화)」、
「羅衣」は、「ナウィ(나의)」のように読まれるので、漢字の表記法とともに、
呼び名も変化していることくらいは、私にも分かる。
0332考える名無しさん
垢版 |
2021/01/30(土) 11:48:01.970
ここで、「仍火」の「仍」は、漢語としては「にょう」または「じょう」と
いう発音で日本語に取り入れられている漢字であるが、この場合は、「잉/ing」
という発音に当てられており、「仍」が意味的には、英語にすれば、
"to follow"や"to do the same as"を表現するものとされ、日本語にすれば、
「よ-って」や「よる」などを表現するものとされるので、「依(よ)る」という
日本語の表現が想起される。すると、別名の「羅衣」の方は、「ナウィ(나의)」
のように発音されるものの、「仍(잉/ing)」と「衣(의/ui)」は、この場合、
もともとは同一の表現の要素を担っていたのではないかと私には思えてくる。
その場合、「仍/衣」を万葉仮名風に読めば、「い/yi」となり、私には
面白く思える想定が浮かぶ。それは、「火」が「ファ(화)」のような発音に
当てられたものとするなら、「仍火」は、「イファ/イハ」と万葉仮名風に
読むことができ、すると、「仍火(イファ/イハ)」は、沖縄の苗字や地名に
見られる「伊波(イファ/イハ)」とそのまま重なることだ。

「伊波(イファ/イハ)」が、中国語ピジンとしての日本語において「沃(い)ふ」
の活用形であり、「水の流れによって運ばれてきた土砂の堆積した場所」を指す
表現であると見られることは、既に以前に説明した。ところで、「仍火島」とも、
「羅衣島」とも表記される「汝矣島」は、まさしくそのように形成されている
場所なのである。さらに、「羅衣」は、朝鮮語の読みでは「ナウィ」であるが、
「仍」と「衣」が共通であるものと仮定して、順序を「仍火」の方に合せて
「衣羅」として万葉仮名風に読み、かつ、順序を変えても、「羅(ナ/나)」を
「羅(ラ/라)」と読みかえることなく、そのまま「ナ」と発音するなら、
「衣羅」は、日本の地名の「伊那」と同様に「イナ」と読めることになる。
0333考える名無しさん
垢版 |
2021/01/30(土) 12:20:05.950
それだけではない。「羅」は、朝鮮語の場合、語頭に来る場合は、「ラ/라」
ではなく、「ナ/나」と発音されるが、日本語においても古語では、語頭が
「ラ」行の発音となることはなく、中国語において語頭で「ラ」行となる
表現の発音は、日本語の古語としては「ナ」行として取り入れられている
と考えられる(例えば、「漏(ろう)」⇒「『ぬ』ける」)ことも以前から指摘
している。ここで、「羅(Middle Chinese: /lɑ/)」の中国語としての用法に
注目すると、それが、「[動詞] 1. (網状のものを)かぶせる。 2. からむ。
巻きつける。」などの作用/動作/様態を想起させるように用いられる表現
であることが分かる。参考:https://zh.hatsuon.info/word/luó;

ところで、例えば、「なは(縄)をな(綯)ふ」のような日本語における「な」の
発音を用いた表現について、私は、この「な」は、フランス語で表現する
なら、《se serrer》に対応するような作用/動作/様態を想起させるように
用いられていることを指摘した。「な(成)る」の「な」もそのような
イメージを想起させるものと理解できる。とすると、この「な」の用法
と、中国語の「羅(Middle Chinese: /lɑ/)」の用法は、互いによく似ている
のではないか、日本語のそのように用いられる「な」は、中国語の「羅」
を「ナ」の発音に移し替えて流用したものではないか、と私には思えてくる。
網にかかった鳥を、その網をすぼめることによって収穫する様子は、
《se serrer》として理解される「な」の作用/動作/様態にうまく対応して
いるように、少なくとも私には感じられる。

ここで、「衣羅」は、日本の地名の「伊那」と同様に「イナ」と読める
ことになるとした、「イナ」に戻ると、「イ」は、「水の流れによって
運ばれる土砂」を想起させる「沃(い)」に対応すると仮定しているので、
「ナ」は、「な(成)る」の「な」のように形成を表現していると考える
ことができることになる。つまり、「羅衣」⇒「衣羅(いな)」≒
「水の流れによって運ばれる土砂の形成地」という解釈である。
0334考える名無しさん
垢版 |
2021/01/30(土) 23:30:27.220
くまよもあ
0335考える名無しさん
垢版 |
2021/01/30(土) 23:59:12.410
あずしらか
0336考える名無しさん
垢版 |
2021/02/01(月) 11:27:22.340
>>333
>「なは(縄)をな(綯)ふ」のような日本語における「な」...
は、フランス語で表現するなら、《se serrer》に対応するような
作用/動作/様態を想起させ<
>この「な」の用法と、中国語の「羅(Middle Chinese: /lɑ/)」の用法は、
互いによく似ているのではないか<

以上のように指摘したが、現代の中国語における「罗(羅)」の用法は、
以下の通りである。
https://cjjc.weblio.jp/content/
1 鳥を捕まえる網,鳥網.⇒网罗 wǎngluó 2,天罗地网 tiān luó dì wǎng .
2 網を張って捕まえる.⇒门可罗雀 mén kě luó què .
3 招請する,集める,収集する.⇒搜罗 sōuluó ,网罗 wǎngluó 1.
4 陳列する,並べる.⇒星罗棋布 xīng luó qí bù .
5 きめの細かい)ふるい.
6 紗・絽・薄絹など)目の粗い(糸の細い)絹織物.⇒绫罗绸缎 líng luó chóu duàn .
7 ふるいにかける.

日本語の「な」と中国語の「羅(Middle Chinese: /lɑ/)」がそれぞれ想起させる
作用/動作/様態が互いに似ていることは、フランス語の《se serrer》という表現
だけでなく、中国語の「羅」が、日本語の「網(あみ)」や「網(あみ)で捕らえる」動作、
ならびに「編(あ)まれた物」を表現していることから、やはりフランス語の《tresser》
という表現を(日本語の「な」と中国語の「羅」の)間に挟んでみると、さらに明確となる。
0337考える名無しさん
垢版 |
2021/02/01(月) 11:44:43.170
例えば、中地義和編、『対訳 ランボー詩集』(p.66-67)を読むと、
「LES ASSIS(座った奴ら)」と題された詩に下記の表現:
>Ces vieillards ont toujours fait tresse avec leurs sièges
が見られ、これは、次のように訳されている:
>この老人たちはいつも椅子と絡み合って離れたことがない
ここで「絡み合って」と訳されているのが、《fait tresse》であるが、
クラウン仏和辞典で《tresse》および《tresser》を引くと、以下のように説明される。
>tresse @編物、網ひも、A編毛...髪を編んで長く垂らしている女の子[例文和訳]
>tresser 編む、束にする
さらに、《tresse》をWiktionaryで参照すると、《tresse》の英訳には、
"braid"が記載され、リンクをたどると、次の画像が表示される。
https://en.wiktionary.org/wiki/tresse
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/12/Flechten_2.jpg

この画像が「なは(縄)をな(綯)ふ」場合の「な」の作用/動作/様態を想起させる
ことは指摘するまでもないだろう。一見したところ、互いに何の関係もない
ように思われる中国語の「羅」と日本語の「な」は、それが想起させるイメージ
として解釈する場合、互いによく似ていることが理解できるはずである。
0338考える名無しさん
垢版 |
2021/02/01(月) 11:58:21.780
人文学においては、その都度、適切なメタ言語の表現を見出すことこそが、
事象の妥当な解釈を実現することであり、それを目指すなら、
あらかじめ決められた定義などによって表現の追求を縛り付けてはならないのだ。
0339考える名無しさん
垢版 |
2021/02/01(月) 14:41:20.260
>>336-337
ちなみに、「羅」についてのWiktionaryの仏語サイトを参照すると、
以下の画像が表示される。
https://fr.wiktionary.org/羅#/media/Fichier:BarradaLagoa_canal_fishersman.png

この画像を見て「羅」は「網(あみ)」を意味していると考えるのは、
誤った理解ではない。しかし、それは、「羅」が表現する、より広い
作用/動作/様態を「物象化」した捉え方であり、その物象化によって、
本来、互いに関連しているはずの様々な表現の間で分断が生じる
(「名詞化」とは、まさに、そのように好都合に分断を生じさせる行為である)。
そして、そのように分断が生じた後には、「羅」=「網(あみ)/"net"」として
理解されることになり、例えば、「新羅」や「耽羅」などの国名や「羅州」
などの地名において、発音の表記以外にどのような意図で「羅」という漢字が
用いられたのか推測することが難しくなり、さらには、その発音の表記の
ために後に別の漢字が当てられた場合には、完全に関連が見失われてしまう
ことになる(例えば、「那覇(なは)」という地名の「那(な)」は、「羅」と
同じ意味合いで使われた可能性があるのではないか)。これに対して、
既に名詞化された表現でも、それを動詞的に、つまり、作用/動作として
捉え直した場合、今は派生して分かれている様々な相互関連は、メタ言語
として別言語の表現の助けも借りることができ、はるかに推測しやすく
なるのである。例えば、「羅」≒「網(あみ)」という捉え方であれば、
英語の"net"などの他の言語における名詞が想起されるだけであるが、
「羅」≒「編(あ)み」と捉えたなら、名詞化されていても、例えば、
ドイツ語の"Verflechtung"という表現が想起され、「羅」の解釈の仕方の
可能性は、はるかに大きく開けるだろう。
0340考える名無しさん
垢版 |
2021/02/02(火) 11:26:35.510
>>336-339
メタ言語を利用したこのような捉え方の有用性は、それを応用してみることにより、
すぐに検証してみることができる。

例えば、以前、「な」をフランス語の《se serrer contre qn》という表現に関連付けて
説明したとき、それを「波(なみ)」という表現の解釈に応用して、以下のように説明した。

431考える名無しさん2020/06/05(金) 18:16:23.180
>「寄る年波には勝てぬ」と言われるが、ここで、「なみ」は、
「寄せてくるもの」として、また「累加するもの」としてイメージされている。
「うみ(海)」の場合と同様に、「なみ」の場合も、累加するイメージを
表現しているのは、「み」の発音であり...<

今回は、その「な」を、中国語の「羅(Middle Chinese: /lɑ/)」の発音を変化を
「な」に移したうえで流用したものと想定して、それにより、単に《se serrer》
だけではなく、さらに、同じくフランス語の《tresse》および《tresser》、
さらにはドイツ語の"Verflechtung"にまで関連付けたわけだが、すると、
この関連付けの拡大を、「波(なみ)」という表現の解釈にも応用してみることが
できる。
0341考える名無しさん
垢版 |
2021/02/02(火) 12:11:17.130
「なみ」は、「な」+「み」という複合的な表現であり、「寄せてくるもの」として、
また「累加するもの」としてイメージされている、としたが、ここで、「な」は、
中国語の「羅」の流用として、フランス語の《tresser》およびドイツ語の
"verflechten"に対応する作用/動作/様態を表現するものと解釈が拡張されることに
なり、これらをフランス語の表現としてまとめるなら、《entrelacer》と言い換える
ことが適切だろう。すると、「波(なみ)」の「み」の解釈には何ら変更がないので、
「波(なみ)」は、「累加的な《entrelacement》」を表現していることになる。
そこで、フランス語で「波(なみ)」を意味する《vagues》と《entrelacement》
で画像検索を試みると、想定するイメージにうまく合う画像がすぐに見つかる。
「波(なみ)」を意味する《vagues》で検索しているのだから、当たり前のことだが、
そのように《vagues》と《entrelacement》が関連付けられると、直ちに
想起されることになるのが、機(はた)織りに用いられる小さい舟形の道具である
《navette(杼/梭(ひ)》(英語の"shuttle")だろう。

かくして、「波(なみ)」のイメージが、機(はた)織りの作業の脈絡に置かれること
になるが、機(はた)を織る作業を表現する英語の動詞は、"weave"であるので、
今度は、"weave"の発音から、英語で「波(なみ)」を意味する"wave"が直ちに
連想される。しかし、そのような「自由連想の長い連鎖」に、どのような妥当性が
認められると言うのか、という疑問が当然、湧いてくるだろう。そこで、
英語の"weave"および"wave"という表現の語源について検索してみると、
以下のとおりである。
0342考える名無しさん
垢版 |
2021/02/02(火) 12:21:52.420
https://www.etymonline.com/search?q=weave
weave (v.1)
Old English wefan "to weave, form by interlacing yarn," figuratively "devise,
contrive, arrange" (class V strong verb; past tense wæf, past participle wefen),
from Proto-Germanic *weban [...]
The form of the past tense altered in Middle English from wave to wove.[...]

https://www.etymonline.com/search?q=wave
wave (v.)
"move back and forth," Old English wafian "to wave, fluctuate" (related to
wæfre "wavering, restless, unstable"), from Proto-Germanic *wab- (source
also of Old Norse vafra "to hover about," Middle High German waben "to wave, undulate"),
possibly from PIE root *(h)uebh- "to move to and fro; to weave" (see weave (v.)).

ここから見て取ることができるのは、自由連想の連鎖も、一般にそう信じられているほど
「無節操」なものではないこと、あるいは言語を使用すること自体にそのような自由連想の
連鎖が常に働いていることではないだろうか。むしろ、無節操なのは、不明となった表現を、
自由に連想を働かせることによってではなく、力任せに理屈により説明しようとする
民間語源説(「専門の学者」によるものも含む)の方ではないだろうか。
0343考える名無しさん
垢版 |
2021/02/02(火) 18:02:14.260
全方位恵方巻で病魔退散@ミラクルじゃよ
0344考える名無しさん
垢版 |
2021/02/03(水) 08:40:06.290
>「波(なみ)」は、「累加的な《entrelacement》」を表現していることになる。

>直ちに想起されることになるのが、機(はた)織りに用いられる小さい舟形の道具
>である《navette(杼/梭(ひ)》(英語の"shuttle")だろう。

>"weave"の発音から、英語で「波(なみ)」を意味する"wave"が直ちに連想される。

ここまで指摘されてもまだイメージが湧かないという人々は、説明が分からない
というより、むしろ、機(はた)織りの作業をイメージできないのだろうと思う。
《navette(杼/梭(ひ)》をその表現どおり小舟を見立てたとき、
「累加的な《entrelacement》」の作用/動作/様態がどのように見えるか、
ちょうどいい動画があったのでそのリンクを貼っておく。
https://www.youtube.com/watch?v=ogxViV8FEf0
0345考える名無しさん
垢版 |
2021/02/03(水) 09:08:37.290
このような例を見れば、名詞化は、より広い作用/動作/様態を「物象化」した
捉え方であり、本来、互いに関連しているはずの表現の間で分断を生じさせる
と指摘したことの意味もよりよく理解できるはずである。名詞化して表現する
ことは、まさしくその分断を生じさせる作用において、好都合に利用される
のである。
0346考える名無しさん
垢版 |
2021/02/04(木) 09:52:12.560
>>345
例えば、「ゑびす」は、名詞化される場合、以下のとおり、様々な対象を指すことになり、
いくら詳しい説明を調べても、それらが互いにどのように関係しているのか不明となる。
https://kotobank.jp/えびす-37175
https://ja.wikipedia.org/wiki/えびす
https://ja.wiktionary.org/wiki/えびす

それに対して、「ゑびす」が「どのようである」ことを表現しているのかを省察する
なら、それらの様々な対象がなぜ「ゑびす」と呼ばれるのか、ほとんどの場合、
さらなる説明の必要もないほど明白となる。

日本語において「ゑ」という発音が、「抑えようとしながらも外に出る様態」を
想起するように用いられ、英語の"well up(こみ上げる)"という表現における
「well(ひらがなに書き換えれば「『ゑ』る」)」の発音のイメージと互いに
類似していることを以前にしてきした。「ゑ・び・す」の「び」は、再帰表現
を形成する「ふ」の活用であり、「す」は、「させる」≒"let"に相当するので、
全体として「ゑ・び・す」≒"let oneself surge"と理解することができる。
すると、「ゑびす」が、(上から抑えつけようとしても立ち上がる)反乱者=
"insurgents"、それ自体に重い重量がありながらも、すなわち、上から抑える
重量が働きながらも上がってくる海の幸(こみ上げてくる「『ゑ』み」を浮かべる
太った、つまり、体重の重い「恵比須様」によって象徴される)、上から抑え
つけても浮いてくる漁網の浮きなどのすべてに「ゑびす」という表現を適用する
ことが妥当であることになる。
0347多那婆多とは何か、織女とは誰か
垢版 |
2021/02/05(金) 12:05:42.060
「多那婆多(たなばた)」の「那(な)」も、もともとは中国語の「羅」の流用でしょう。
>>344
https://ja.wikipedia.org//wiki/七夕
>「天の河の東に織女有り、天帝の女なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を
織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。
嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うこと
を許す」<

>七夕は、旧暦の七月七日に行われた。その日は、月齢およそ6の、船のような形の月が南西の夜空に浮かんだ。
0348考える名無しさん
垢版 |
2021/02/05(金) 12:16:42.560
結婚前は少しは美容に気を配ることも許されるけれど、結婚した後、
女性もきちんと働かないと、天罰が下って、夫婦離れ離れにされるのですね。
で、機織りの《navette(杼/梭(ひ)》のような月が空に浮かんだときだけ、
川を渡って合うことができる。
0349考える名無しさん
垢版 |
2021/02/05(金) 12:19:43.900
誤:合う
正:会う
0350考える名無しさん
垢版 |
2021/02/05(金) 13:37:02.060
面白いことに、このような「な」の用法から推測されるのは、
「な(成)る」や「な(綯)ふ」に表れる、フランス語の《entrelacer》に
対応する「な」の用法(「羅」の流用)の方が本来的であって、
「なが(流)れ」、「なが(長)し」、「な(投)げ」、「な(凪)ぐ」は、
いずれも、「な・か(離)」(「か(離)る」や「かろ(軽)し」に見られる
「か」の用法)と解釈されるような派生によるものだろう、ということである。
ちなみに、岩波古語辞典では、「ナガ」を「主に平面上を、線条的に伸びて
行くさま」と説明している。
0352考える名無しさん
垢版 |
2021/02/05(金) 16:49:32.180
>>329-333
>「汝矣島」は、「仍火島」とも、「羅衣島」とも表記され

>ここで、「衣羅」は、日本の地名の「伊那」と同様に「イナ」と読めることになる

>つまり、「羅衣」⇒「衣羅(いな)」≒「水の流れによって運ばれる土砂の形成地」という解釈である。

http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/52419602.html
日本における最初の二十八宿図は、7世紀から8世紀頃に造られた高松塚古墳やキトラ古墳の壁画で白虎などの四神の図と共に見つかっており、中国の天文学体系がこの頃には渡来していたことを伺わせる。」
《牛宿の例》
 牛宿には11の星官がある。
内訳: 牛(牛の鼻を牽く縄)、天田(天子の田)、九坎(九つの灌漑用井戸)、
河鼓(天軍の鼓)、織女(天帝の孫。また民間で織布に精通した仙女)、
左旗(軍旗)、右旗(軍旗)、天桴(河鼓の鼓槌)、
羅堰(土を堆積して作った灌漑系統)、...
0353考える名無しさん
垢版 |
2021/02/05(金) 16:52:48.460
エビデンス?
性根が座っているから、ネバー・ギブアップなんですよ
0354考える名無しさん
垢版 |
2021/02/05(金) 16:57:45.490
成果を出すことが、自らの評価を高めることにつながり、
社会的成功につながると思い込んでいるうちは、人生についてまだなにも分かっていない。
そのことにはっきりと気付くまでには、やはり長い時間と多くの経験を必要とする。
いくらニーチェやゲーテの著作を若い頃から読んだとしてもね。
0357考える名無しさん
垢版 |
2021/02/06(土) 10:12:41.570
>>341
「なみ(波)」という表現と「羅」の関係をイメージしたときに最初に思い浮かべた
のは、一見、「なみ(波)」とは無関係の『Madame Bovary』からに次に一節だ。
そのような想起をしたのは、そこに直接に「なみ(波)」に対応する表現が含まれる
わけではないものの、そこに記述される一連の作用/動作/様態が「漣(さざなみ)」
を感じさせるものだったからだろう。

》De temps à autre comme pour en chasser la poussière, il donnait un coup
d’ongle sur la soie des écharpes, dépliées, dans toute leur longueur ;
et elles frémissaient avec un bruit léger, en faisant, à la lumière verdâtre du
crépuscule, scintiller, comme de petites étoiles, les paillettes d’or de leur tissu.《
Flaubert, 《Madam Bovary》, p.191
0360考える名無しさん
垢版 |
2021/02/06(土) 13:50:06.280
http://www.kangin.or.jp/learning/text/chinese/kanshi_A25_3.html

秋夕<杜牧>
銀燭秋光 畫屏冷ややかなり
輕羅小扇 流螢を撲つ
天階の夜色 涼水の如し
臥して看る牽牛 織女の星

意解
白銀色の秋の夜のともしびの光が、彩(いろど)り豊かな絵屏風に冷たく照り映え、
宮女がひとりうすい絹の団扇(うちわ)で小さくうちながら、飛び交う螢とたわむれている。
天上の夜空のようすは、水のように涼しくみえて、その宮女は寝ながら牽牛(けんぎゅう)星と
織女(しょくじょ)星をみつめつづけてばかりいる。
0363考える名無しさん
垢版 |
2021/02/07(日) 10:27:22.700
>>356
「歴史とは何か」と問うとき、何が歴史とされ、何が伝説とされるのか
その違いを考えてみることは有効だろう。

岩手県の胆沢郡に「茂井羅(しげいら/もいら)」の名で知られる堰が存在する
ということである。「茂井羅(もいら)」の「茂(も)」は、私には、英語に
における"mounting(他動詞としての「マウンティング」ではなく、
自動詞としての「増加していく」、「高まっていく」)"を表現しているよう
に見えるが、「茂井羅(もいら)」という呼び名の解釈について即断する
必要はない。それでも、「茂井羅(もいら)」は、この堰を造った女性の
名前に由来するとする、以下の地元の「言伝え」を「歴史」であると
考える人はそう多くはないだろう。
https://www.thr.mlit.go.jp/isawa/sasala/vol_49/vol49_5.htm
>茂井羅堰の開鑿者は「北郷茂井羅」という女性であるという説がある。
その初出は先の『胆沢風土聞誌』。...(以下省略)
0364考える名無しさん
垢版 |
2021/02/07(日) 10:55:15.670
「茂井羅(もいら)」という堰の呼び名をどのように解釈するにせよ、
この「言伝え」は、常識的に考えるなら、なぜこの堰がそのように呼ばれる
ことになったのか不明となったため、説明をつけるために後から創作された
「伝説」であり、史実を記録する「歴史」ではないとされるだろう。
というのも、「茂井羅(もいら)」という呼び名は、人名としても他に
類例の見られない奇妙なものであり、なにより、一人の女性が単独で
そのような大規模な土木事業に着手してそれを成功させることは、
常識的に考えられないからだ。

では、同じ地域についての「記録」、すなわち、「言伝え」としてではなく、
複数の文書に書き記されて残されている「巣伏の戦い」についてはどうだろうか。
「巣伏の戦い」についての「記録」は、「歴史」なのだろうか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/巣伏の戦い
>朝廷軍の敗北
>朝廷軍は巣伏の戦いで1061人もの戦死者を出した[5]。その内訳は、
戦闘による死者25人、矢疵を負った負傷者245人、溺死者1036人、
裸で泳ぎ生還した者1257人と驚異的な惨敗であった。<

このような問ひを発すれば、大多数の一般の人々だけでなく、歴史学の専門家さえ、
その大多数が、「『歴史』であるに決まっているではないか。なぜ、そんな
奇妙なことを尋ねるのか」と思うだろう。無論、私も、この「記録」が「歴史」
であることを否定するつもりはまったくない。というのも、この「記録」は、
「歴史」として伝えられることを明確に意図して残されたものだからである。
であるならば、詳細な史実の解釈には様々な異論があり得るにしても、
「『歴史』なのだろうか」と問ふのは、そもそも、ナンセンスであることに
なる、と結論付けられそうだが、私は、そのようには考えない。それは、
私が問題にしてるのが、この「記録」が「歴史」であるか否かではなく、
それが「どのように『歴史』として成立しているか」であり、さらには、
「『歴史』として成立するとは、どのようなことか」であるからである。
0365考える名無しさん
垢版 |
2021/02/07(日) 11:26:56.500
そう言い換えても、私が何を問題にしているのか、多くの人々には、
隔靴掻痒に感じられるだろうから、私の勝手な推論の結論から先に述べよう。
それは、この「朝廷軍の敗北」を記録した「巣伏の戦い」は、それが
史実を伝えるという形式をとっている、つまり、そのことにより、
残された記録を歴史として成立させているにもかかわらず、その実、
記録しているのは、胆沢(いさわ)扇状地を農業用ににする大規模な
水利事業を「征夷の記録」として創作により書き換えた「伝記」だろう、
ということである。

「茂井羅(もいら)」という呼び名は、人名としても他に類例の見られない
奇妙なものであることを先に指摘したが、では、通例、「アテルイ」と
読まれることになっている「阿弖流爲」はどうなのか。「茂井羅(もいら)」
という一人の女性が単独で大規模な土木事業に着手することは、常識では
考えられないと述べたが、では、胆沢(いさわ)が水利事業によって、
それなりに大きな規模の農業に適する土地になる以前、「阿弖流爲」と
呼ばれる「蝦夷の族長」は、どのような生活基盤により、大規模な
朝廷軍を惨敗させるほどの勢力をその地に保っていたのか。

無論、私は、大規模な水利事業が行われる前には胆沢(いさわ)が無人の地
であったと考えているわけでも、そこで武力による勢力争いなしに
朝廷に属する勢力による支配権が確立されたと主張しているわけでもない。
0366考える名無しさん
垢版 |
2021/02/07(日) 11:40:50.430
>胆沢(いさわ)扇状地を農業用ににする大規模な水利事業を「征夷の記録」として
>創作により書き換えた「伝記」だろう、ということである。

なぜ、詳細な戦いの記録を創作してまでそのような書き換えをしたと私が想定する
のかと言えば、それこそが、「『歴史』として成立するとは、どのようなことか」
という問ひにかかわっている。当時、「歴史」に「史実」として残すことはなぜ
重要だったのかと言えば、それは、統治の正統性を確立するために他ならず、
その統治に関係のない後世の歴史学者が第三者としてそれを研究するためにで
はない。統治のために水利事業は極めて重要であるが、地域でそれを実現する
ことが、その地域を統治する正統性を確立するわけではない。統治支配を
確立するのに何よりも重要なのは、「蝦夷」を「おもぶける」ことであり、
さもなければ、力により征圧することであり、統治支配の権限に正統性を
付与するのは、それを実現したことの記録なのである。
0367考える名無しさん
垢版 |
2021/02/07(日) 11:48:31.350
「巣伏の戦い」が、その実、戦いではなく、水利事業ではないかと疑われる
「状況証拠」は、いくつもある。まず、目につくのが、「1061人もの戦死者」
の内訳である「溺死者1036人」、および「裸で泳ぎ生還した者1257人」
と伝えられる「史実」だろう。続きは、またあとで書き込む。
0368考える名無しさん
垢版 |
2021/02/07(日) 12:48:02.750
水利事業でそれに動員された人々の命がいっぺんに驚くほど多数失われた
としたなら、そのことがそのまま史実として伝えられるはずではないか、
と考えるなら、それこそ「歴史性」を無視していることになるだろう。

なぜなら、その事業は、統治者によって行われているのだから、それが
現代の人々から見れば、そのような事業を成し遂げるのに当然、その
リスクが伴う自然の力によってもたらされたものであれ、偶発的な
災害によって多くの人命が失われる事態は、天の意に背くなんらかの
振舞ひが罰せられたこと、あるいは統治者が天から見放されたことと
理解されて、そのこと自体が統治の正統性を疑わしいものとしてしまう
からだ。現代の日本では、コロナ感染がいくら猛威を振るったところで、
それを今の天皇がどうであるかということに結び付ける人はまずいない
が、古代のまつりごとにおいては、日蝕であれ、干ばつであれ、洪水
であれ、地震であれ、火山の噴火であれ、その事象を統治者と結び付け
て考えることはごく自然なのである。それに対して、戦いで人命が
失われることは、無論、統治者の資質と結び付けられるとしても、
あらかじめ予期されている。
0369考える名無しさん
垢版 |
2021/02/07(日) 13:58:28.550
胆沢(いさわ)は、なぜ「いさは」と呼ばれるのか、その理由は明白である。
「蝦夷(ゑぞ)」が住んでいたとされることから、「蝦夷(ゑぞ)」=「アイヌ」
と理解して、アイヌ語からこの地域の地名を説明しようとする人々が
少なからずいるが、胆沢(いさは)は地形とその名称が日本語としてそのまま
一致しており、特別な解釈を必要としない。「沃(い)」、すなわち、水が
注ぐこと/それによって運ばれる土砂(ただし、「沃」は、当て字であり、
既に見たとおり、「衣」、「依」などが当てられる場合もある)の「沢(さは)」
である(岩波古語辞典では、「沢(さは)」について、「谷の口に近い、
山かげの地をいったらしい」と説明している)。

http://www.thr.mlit.go.jp/sasala/vol_7/vol7_2f.htm
>日本最大級の扇状地として全国的にも知られている「胆沢扇状地」。
急峻な山あいから土砂を運んできた川が平野部で一気に開けると、
そこに土砂などが扇状に堆積します。<

では、なぜ「胆嚢(たんのう)」の「胆(たん)」が「沃(い)」に当てられて
「胆(い)」とされるのかと言えば、これも、例えば、「熊の胆(くまのい)」
や「胆嚢」を見れば、すぐに分かる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/熊胆#/media/ファイル:Medv_jelch.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/胆嚢#/media/ファイル:Gray1095-gall_bladder.png

胆嚢は、解剖学的にその機能を見れば、胆汁を放出する器官であるが、
形だけから見ると、流れからの土砂を貯めている場所のように見える。

私が、流れに運ばれる土砂に好んで「沃(い)」を当てるのは、この表現が
中国語の「沃」の発音を流用しているからではなく、日本語としてイメージする
のに最も好都合だからである。しかし、ではなぜ実際には「沃」が日本語の「い」に
当てられることがほとんどないのかと言えば、この漢字が「沃野」のような
ポジティブなイメージばかりではなく、むしろ、土砂災害を直接的に
イメージさせ、そのことにより、忌避されるからだろう。
0370考える名無しさん
垢版 |
2021/02/07(日) 14:21:00.860
堰の呼び名である「茂井羅(もいら)」が、人名に由来するとする伝承が、
いかにも後付けの説明であり、擬人化であるように思われるのと同様に、
「阿弖流爲(あてるい)」も、いかに詳細な「史実」としての記録が
「歴史」として残されているにしても、私には、擬人化を基にした
創作であるように私には思われる。というのも、「阿弖流爲(あてるい)」は、
「胆沢(いさわ)」の地と密接に結びつけられていることがはっきりして
いるからだ。「阿弖流爲(あてるい)」はまbク、人名として滑�ュであり、
それが「蝦夷(ゑぞ)」の名前だからだと言ってみたところで、アイヌとして
明白に解釈できるわけでもない。他方、「阿弖流爲(あてるい)」の
「阿(あ)」は、「あた(辺)り」のように不特定に離れた場所を指すのに
用いられる発音であり、「弖(て)」は、その用法が不明だが、万葉仮名で
同様に「て」に当てられる漢字には「底(て)」がある。「流(る)」は、
漢語としては「る」として、そのまま流れを表すのに用いられる。
「爲(い)」は、漢語としては「い」として、動作を表すのに用いられる
が、「胆沢(いさわ)」と関連付けるなら、「沃(い)」である可能性も
排除できないだろうと私には思われる。そこで、「あてるい」を
「阿低流沃」と書き換えてみると、ちょうど胆沢扇状地のように
谷から低い方に向かって不特定に土砂が広がって流れるイメージとなる。
0373考える名無しさん
垢版 |
2021/02/08(月) 11:48:48.930
>朝廷軍は巣伏の戦いで1061人もの戦死者を出した。

逆方向で考えてみるといい。胆沢の治水ために大規模な労働力を動員して、
胆沢扇状地を農業に適する土地に変え、胆沢城を完成させる事業を実現する
ことができたとして、そのために、「1061人もの戦死者」に相当する
ような人々の命が失われたとしたら、それをそのまま統治者が実行した
ことの「史実の記録」、すなわち、「歴史」として書きとどめて残す
だろうか。どうせ労働力として使われた人々の命など、いくら数多く
失われたところで「ものの数に入らない」、無視すればいいというわけに
はいかない。というのも、多数の人々の命が犠牲になったことは、
事実として覆い隠しようもなく、それが水利事業を進めている最中に
「自然の力」によって失われたとして語り継がれたなら、その事業を
直接に指揮した統治管理者はもとより、その事業によって完成された
場所そのものが「天に呪われている」ということになりかねない。
大勢の人々の命が失われたなら、やはりそれを、人々が受け入れることの
できる形で説明する語りの必要性、すなわち、英語で表現するなら、
"accountability"が生じるのであり、その"accountability"に応えるのが
歴史語りである。
0374考える名無しさん
垢版 |
2021/02/08(月) 12:08:32.780
https://kotobank.jp/word/阿弖流為-425786
朝日日本歴史人物事典の解説
>8世紀後半,陸奥国胆沢地方(岩手県)を本拠とした蝦夷の首領。
大墓公(「たいぼのきみ」とも)を称し,阿弖利為とも書く。跡呂井(水沢市)の地名を
今に残す。延暦8(789)年3月,いわゆる巣伏村の戦で征東大使紀古佐美の率いる征討軍
を大敗させたが,同21年,坂上田村麻呂が胆沢城を造営し始めると,これと戦うことなく,
盤具母礼と共に一族五百余人を率いて投降した。<

土地の呼び名が、当てられる漢字の読みによって変化することは常識である。
ところで、「跡呂井(水沢市)の地名を今に残す」と言われる、「跡呂井」を
万葉仮名として読む、つまり、1つの漢字に1つの発音を当てて読むと、
「とろい」もしくは「どろい」となる("o"の発音はいずれも乙類である)。
その一方で、「阿弖流為」の「弖」は、万葉仮名では、「て」もしくは「で」
の発音を表すように用いられ、同じく「て」もしくは「で」を表すのに
用いられた万葉仮名の漢字には、漢字としては「泥(でい)」と読まれる
「泥(て/で)」がある。

さて、万葉仮名で「どろい」と読むことができ、漢字として読めば
「あとるい」と読むことができる「跡呂井」と「阿弖流為(あてるい)」は、
どちらが先になのだろうか。
0375考える名無しさん
垢版 |
2021/02/08(月) 12:14:35.930
「阿弖流為(あてるい)」を戦いに敗れたマイノリティの悲劇として語り継ごう
とする「リベラルな歴史観」に、ニーチェが批判するような意味での
ニヒリズムを感じてしまうのは私だけだろうか。
0376考える名無しさん
垢版 |
2021/02/08(月) 12:24:28.060
勝つべきものが敗れたのはおかしいとなると、歴史修正主義やナチズムの匂いが漂ってくるw
0377考える名無しさん
垢版 |
2021/02/08(月) 13:19:12.240
振る舞ひに伴って生じる"accountability"に人々を納得させられる
ような形で都合よく応える物語("storytelling")が歴史である。
0378考える名無しさん
垢版 |
2021/02/08(月) 18:49:29.260
N’eus-je pas une fois une jeunesse aimable, héroïque, fabuleuse, à écrire sur des feuilles d’or, — trop de chance ! Par quel crime, par quelle erreur, ai-je mérité ma faiblesse actuelle ? Vous qui prétendez que des bêtes poussent des sanglots de chagrin, que des malades désespèrent, que des morts rêvent mal, tâchez de raconter ma chute et mon sommeil. Moi, je ne puis pas plus m’expliquer que le mendiant avec ses continuels Pater et Ave Maria. Je ne sais plus parler !

RIMBAUD : Matin (1873) Une saison en enfer
0379考える名無しさん
垢版 |
2021/02/09(火) 10:25:35.090
>「茂井羅(もいら)」という呼び名の解釈について即断する必要はない

このように保留したが、私は、「茂井羅(もいら)」にせよ、「阿弖流為(あてるい)」
にせよ、「跡呂井(あとろい/*どろい)」にせよ、「胆沢(いさわ)」の「胆(い)」が
日本語の古語の「沃(い)」として適切に解釈されることから、すべて同様に
「沃(い)」に対応していると断定しているわけではない。というのも、これらの
いずれの漢字の読みも、現代語では「い」として区別されないが、古語の発音
においては、以前に指摘したとおり、「泉/出水(いずみ)」の「い」と
「井戸(ゐど)」の「ゐ」は、それぞれ、「い」:外に出ていく様態、
「ゐ」:外に出るようとする動きを抑える様態を表すものとして区別されていた
と考えられるからだ。すると、少なくとも「茂井羅(もいら)」と
「跡呂井(あとろい/*どろい)」の「井(い)」は、その漢字によって表される
とおり、「井(ゐ)」として、外に出るようとする動きを抑える様態を表して
いた可能性が考えられることになる。
0380考える名無しさん
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2021/02/09(火) 10:42:32.270
とこどで、日本語において「い」と「ゐ」の区別はどのようにして失われた
のだろうか。「泉/出水(いずみ)」の「い」が「沃(い)」に関連付けられて
イメージされるとすれば、川沿いの地域などの地名としての「い」の発音は、
当然、水や土砂が流れ出ることを想起させることになり、それがその地域
に生活する人々にとって望ましくない事態であると考えられるなら、「い」
の発音にもともと当てられた漢字は忌避され、「外に出るようとする動きを
抑える様態」をイメージさせる「ゐ」の発音に当てられた「井」などの
漢字が代用されることになったことは十分に考えられる。すると、
もともとの表現に用いられていたのが「い」であるのか、「ゐ」であるのか
混乱が生じ、区別することが面倒になったのが、「い」と「ゐ」の区別
が消滅したことの一因ではないか、と私には思える。
0382考える名無しさん
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2021/02/10(水) 08:17:47.100
>>380
東京で人気がある町として知られる吉祥寺の近くには井の頭公園があり、
そこには井の頭池がある。古地図を見ると、その池は、井頭池
(ゐのかしらのいけ)と表記されているようである。
https://kotobank.jp/word/井の頭公園-435424
井の頭公園(読み)イノカシラコウエン
いのかしらこうえん〔ゐのかしらコウヱン〕
その一方で、かつて、大泉村(おおいずみむら)と呼ばれる村が存在し、その名称は、
>村内を流れる小井戸川(現在の白子川)と、その源流の泉(井頭池)とに
ちなみ、当初は「小泉(おいずみ)村」として提案されたものが転じたものである<
とのことである。https://ja.wikipedia.org/wiki/大泉村_(東京府)

さて、井頭池の本来の呼び名の発音は、「ゐのかしら」だろうか、それとも
「いのかしら」だろうか。
0383考える名無しさん
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2021/02/10(水) 09:45:35.620
>>379
「阿弖流為(あてるい)」は、「悪路王」とも呼ばれたと考えられるわけだから、
「跡呂井(あとろい/*どろい)」という地名と考え併せると、
「阿弖流為(あてるい)」≒「あ(悪)く・で/ど(泥)・ろ(流)・為(ため≒"reservoir")」
として、文字通り、牛馬も人も通れないほどの沃土の「泥溜め」であったという
解釈も可能なわけだ。
0384考える名無しさん
垢版 |
2021/02/10(水) 10:12:38.360
「胆沢(いさわ)」の「胆(い)」も、日本語の古語の「沃(い)」として
解釈したわけだが、「沃(い)」は、流れ注ぐ作用から見れば「い」と
発音することが適切だが、その作用によって運ばれる土砂が溜まる
ことから見れば、「為(ゐ)」と発音される方が合っているだろう。
「胆/膽」の中国語の想定される中古音は、「Middle Chinese: /tɑmX/」
であり、中国語の表現としては、"inner containe"を意味するようにも
用いられるとされるのだから、日本語の「ため(為/溜/貯)」は、
「胆/膽」の中古音の"/tɑmX/"が日本語として開音節に移されて
"tɑme(ため)"となったのではないかという可能性も検討に値するように
思える。ちなみに、中国語でウニは「海膽」と呼ばれ、画像を検索する
と、ドロドロしたイメージのウニの画像が沢山出てくる。
0385考える名無しさん
垢版 |
2021/02/10(水) 10:32:33.340
>体系/規則は、内部に備わっているのでも、外部から与えられるのでもなく、
模倣によって類推され、見出され、応用されることによって、絶えず生成され、
変形され、維持されている、常に暫定的に折り合いがつけられているもの
に他ならないのだ。<

このため、言葉の表現を解釈するのに、用いられる様々な発音とそれによって
想起されるイメージの関係を固定的な定義の積み重ねによって構築しようと
するなら、表現がどのような暫定的な折り合いによって可能となっている
のかが見失われ、全体としてカオスがもたらされる結果となるだろう。
逆に、もし仮にそのような固定的な定義の積み重ねによって、言葉の表現が
全体的な体系として明確化され得るとしたなら、世界には一つの固定された
共通の言語が存在すれば済むことになる。私は、言葉をそのようなもの
であるとは考えていない。
0386考える名無しさん
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2021/02/10(水) 12:21:30.090
どないだ?
0387考える名無しさん
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2021/02/10(水) 16:02:09.260
ウンタンウンタン♩
0389考える名無しさん
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2021/02/12(金) 11:01:47.990
「『沃(い)』(ただし、「沃」は日本語における当て字)、すなわち、
水が注ぐこと/それによって運ばれる土砂」に関連して、例えば、
「い(言)ふ」は、「い+ふ」という再帰表現であり、「い(言)ふ」とは、
自らの思ひを「吐露」する行為なので、「沃(い)」≒"pour out/吐露する"
ことの再帰表現であるとそのまま理解することができる。その一方で、
古語において「い(食)ふ」は、逆に食べ物を「口に入れる」行為なので、
"pour out/吐露する"とは逆方向の作用と解釈されることになるだろう。
このように、ひらがなで表記すれば「いふ」として同じとなる表現が、
まったく逆方向の作用を表すことになることに、既に何度も指摘してきた
とおり、日本語において再起表現を形成する「〜ふ」の用法の多機能性が
反映されている。「い(食)ふ」の名詞化である「いひ(飯)」は、
岩波古語辞典では、「〈イヒ(言)と同根。口にするものの意〉」として、
その代表例として「米などを蒸したもの」を挙げ、さらに「かゆ」の
項目を参照するように示しているが、「い(言)ひ」が、英語にするなら
"pouring out (of one's own thoughts/feelings)"に対応するのに
対して、「い(食)ひ」は、"pouring in"に対応し、さらに「いひ(飯)」は、
"(something) to be poured in "に対応すると考えられるので、
「いひ(飯)」そのものが、もともとは、かなり現代の「かゆ」に近い
流動状に調理された食物であったのではないかと思われる。ちなみに、
岩波古語辞典で「かゆ」の項目を参照すると、現在の飯に相当する
ものは、古語では、「堅粥(かたかゆ)」と表現され、「米を甑(こしき)
で蒸したものは強飯(こはめし)といった」と記載されている。
0390考える名無しさん
垢版 |
2021/02/12(金) 11:16:09.580
ところで、岩波古語辞典では、「いひ(飯)」と「いひ(言ひ)」の項目に
挟まれて、現代の日本語では死語となっていると思われる「いひ(楲)」
という表現についての項目がある。「いひ(楲)」は、「地中に埋めた
板の箱。池の水を流すのに用いる」と説明されるが、当てられている
漢字、中国語としての想定される中古音、およびこの表現の用法から
見て、「いひ(楲)」の本来の日本語としての発音は、「ゐひ」だった
のだろうと私には思われる。というのも、「歌で『言ひ』とかけていう
ことが多い」とされるが、この表現の用法は、明らかに「外に出るよう
とする動きを抑える様態」と関連しているからだ。同辞典に引用される
用例を参照してみると、以下のとおりである。
0391考える名無しさん
垢版 |
2021/02/12(金) 11:22:19.910
>「否(いな)と言ひ放ちてよと言ひはべりければ。小山田の苗代水は絶えぬ
とも心の池の楲(いひ)は放たじ」(後撰七九二)

>「池には楲(いひ)といふものを立てて、打樋(うちひ)を構えて水を出せば
こそ、池はたもつ事にてはある」(今昔三一ノ二二)
0392考える名無しさん
垢版 |
2021/02/13(土) 13:36:13.740
日本語における「い」と「ゐ」の関係を、言語学がしばしば、そうするように、
それぞれが異なる作用/動作/様態を想起させる発音上の弁別性の存在、および
混同によるその弁別性の喪失と理解することは不十分である。また、
私自身が既にそうしたように、ロマーン・ヤコブソン流に「い」と「ゐ」を
「パラディグマティックな選択肢」の問題として提示するだけでも十分ではない。
というのも、「い」と「ゐ」のそれぞれが想起させる互いに異なる作用/動作/様態は、
「い」と「ゐ」の適用上の混乱を経て、その発音上の区別が失われ、「い」に
まとめられた後になってさえ、そのいずれかの作用/動作/様態を想起させる
ように「い」が発音されるとき、「い/ゐ」として、互いに影のように付きまとって
いるからだ。「い」と「ゐ」の発音上の区別がされなくなり、単に「い」と
発音されても、それが「外に出ていく様態」を想起させる場合には、その
影として(「ゐ」によって想起されていた)「外に出るようとする動きを抑える様態」
の想起が伴い、逆に、「外に出るようとする動きを抑える様態」を想起させる
文脈で用いられる場合には、その影として(「ゐ」と区別される「い」によって
想起されていた)「外に出ていく様態」の想起が伴うからである。
つまり、単に弁別性による区別によって言葉の表現を明確に規定しようと
することは、喩えるなら、風景をそこに認識される家、木、道などの要素
のCG画像の合成に変換してしまうようなものである。
0393考える名無しさん
垢版 |
2021/02/13(土) 18:13:14.160
Philosophisch gesinnt sein. – Gewöhnlich strebt man darnach, für alle
Lebenslagen und Ereignisse eine Haltung des Gemüts, eine Gattung von
Ansichten zu erwerben, – das nennt man vornehmlich philosophisch gesinnt
sein. Aber für die Bereicherung der Erkenntnis mag es höheren Wert haben,
nicht in dieser Weise sich zu uniformieren, sondern auf die leise Stimme der
verschiedenen Lebenslagen zu hören; diese bringen ihre eigenen Ansichten
mit sich. So nimmt man erkennenden Anteil am Leben und Wesen vieler,
indem man sich selber nicht als starres beständiges eines Individuum
behandelt.

Friedrich Nietzsche: Werke in drei Bänden. München 1954, Band 1, S. 719.
http://www.zeno.org/nid/20009236155
0394考える名無しさん
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2021/02/14(日) 10:57:33.920
>>392
それがどのような「もの/こと」であれ、「どのようにか現れ(≒"being around")る
こと」によって識別される「もの/こと」の、その「どのようであるか」を指示する
弁別性は、そこに現れない不在の弁別性を常に「アウラ」として纏って知覚される。
0395考える名無しさん
垢版 |
2021/02/14(日) 11:02:25.650
明確に定義されていない表現を用いてはならないとする命令は、
その「アウラ」を切り捨てること、つまり、「解釈の次元」が
広がる可能性をあらかじめ排除することを目的としている。
0396考える名無しさん
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2021/02/14(日) 14:23:38.400
いかなる弁別性も、そこに現れない不在の弁別性を常に「アウラ」として
纏って知覚されるので、哲学的な省察は、それをメタ言語的に記述しよう
とする試みを不断に繰り返すことになるが、そのような記述の試みに対して、
しばしば向けられる、「物事はそんなに単純ではない」という常套句に
よる批判は、大抵の場合、より洗練された記述の試みの要請ではなく、
そのような記述の試みを拒絶する慣用的な言葉遣いへの差し戻し命令として
意図されている。
0397考える名無しさん
垢版 |
2021/02/15(月) 12:01:01.260
北海道の、かつては胆振(いぶり)支庁と呼ばれた胆振(いぶり)総合振興局の
「胆振(いぶり)」という名称は、Wikipediaによると、
>斉明天皇のころ阿倍臣が胆振鉏(いぶりさえ)の蝦夷(えみし)たちを饗応したという故事にちなむ
とされ、デジタル大辞泉の解説によると、
>[補説]アイヌ語の地名を、明治時代に「胆振鉏(いふりさへ)の蝦夷二十人」〈斉明紀〉によってあてたもの。
と説明されている。
私は、「胆振鉏(いふりさへ)」と呼ばれることになったアイヌ語の地名がどのような発音であり、
何を表現していたのか知らないが、「胆振鉏」は、万葉仮名流に読めば、「いふそ」である。
さらに、「鉏」が「さへ」と読まれることから、この「鉏(さへ)」は、日本語としては、
平安時代に「道祖」という言葉に当てられた、「さへのかみ(塞の神)」という読みにおける
「祖(そ)」≒「塞(さへ)」、すなわち、「遮(さへぎ)るように高く積みあがっている」様態
を表すものとして解釈されたものと理解することができる。「胆振」を「いふ」と
読めば、既に見てきたとおり、沖積土の堆積した場所と解釈することができ、それが
高く積みあがった様子を表現しているのが、「胆振鉏(「いふ」の『さへ/そ』)」である
という解釈が成立する。この地域の風景がそのようなものに見えたであろうことは、
この地域で起きた土砂崩れに関する災害についての報告書を見ても裏付けられる。
https://jsaf.info/jishin/items/docs/20190320114657.pdf
0398考える名無しさん
垢版 |
2021/02/15(月) 12:08:59.910
>>384
私は古典ギリシア語はまったく読めないので、原文を参照して表現を検討する
ことはできないが、ホメーロス、呉茂一訳、『イーリアス』、p.116に
出てくる次のような表現が伝えようとする感覚も、中国語でウニが「海膽」と
呼ばれるときに表現されるものと意外と似通っているのではないか、
という気がする。
>先だってこの誓約を犯し、攻めかけた者は、ちょうどこの酒さながら、
自分の脳味噌を、地面(じべた)に流せよ<
0399考える名無しさん
垢版 |
2021/02/15(月) 13:39:57.620
「なが(流)れ」の「な」が、中国語の「羅」に対応して、
フランス語にするなら、《entrelacement》を表現し、「かれ」は、
日本語の古語の「か(離)れ」に対応して、《désinvolture》を表現するように、
「いか(怒)り」も、「『い/ゐ』+か(離)り(≒《lasser aller》)」を表現しているように思える。「いか(怒)り」は、「込み上げてくる」ものであるが、
岩波古語辞典には、「B水面が盛り上がる。あふれ出る」を表現するように
用いられる場合の例として、次のような例文も記載されている。
>「少しの水にも国中へ怒るなり」(川角太閤記 三)

ただし、「かる」、「かり」を言い換えるためにメタ言語として利用した
フランス語の《désinvolture》、《lasser aller》は、この文脈での
説明の便宜のために選択したものであり、日本語の「か」の発音の
反射的なイメージをうまく伝えるものではない。
0400考える名無しさん
垢版 |
2021/02/16(火) 09:55:40.410
>>398
単に「海膽/ウニ」と「脳味噌」から私が受ける印象が似通っていると指摘して
いるだけではないか、と思われる可能性があるので、どのように「意外に」
似通っている可能性があるのではないかと思われる理由を明示してみよう。
0401考える名無しさん
垢版 |
2021/02/16(火) 10:17:31.560
>ちょうどこの酒さながら、自分の脳味噌を、地面(じべた)に流せよ

私は古典ギリシア語は知らないが、この表現が示しているのは、
「脳味噌」は、ちょうど「酒」と同様に「流される」ものであり、
であるとすると、地面に流される以前に、「脳味噌」は、ちょうど
「酒」が杯もしくは他の何らかの容器に注がれて満たされるように、
頭蓋骨という「容器に注がれて満たされている」という捉え方が
示唆されているのではないか、と類推することができる。
これに対して、「ウニ」を表現する「海膽」の「胆/膽」(中古音:"/tɑmX/")は、
"inner container"を意味するように用いられるともされる。日本語において
「胆」という漢字が「い/ゐ」に当てられるように取り入れらたことから
考えれば、「胆/膽」("/tɑmX/")は、「注ぎ込まれる流動体を保持するもの/
容器」のようにイメージされている可能性が考えられ、すると、日本語の
「ため(為/溜/貯)」も「胆/膽」("/tɑmX/")が日本語として開音節に移されて
"tɑme(ため)"となったのではないか、という疑いが生じる。仮にそうである
とすれば、一見したところ、何のつながりもないホメーロスの『イーリアス』
における「脳」に関する表現と、中国語の「海膽」と、「胆沢」や「胆振」の
ような日本の地名と、「阿弖流為(あてるい)」と、さらには、「ため(為/溜/貯)」
という日常的に使われる現代の日本語の表現までが互いに関連すると言える
ことになるだろう。無論、このような関連付けは、通常、英語で表現するなら
"wanton imagination"とされ、まともに相手にされることはない。
0402考える名無しさん
垢版 |
2021/02/16(火) 10:59:57.640
>ちょうどこの酒さながら、自分の脳味噌を、地面(じべた)に流せよ

「脳味噌」と日本語に訳された表現に対応するようにホメーロスが用いている
古典ギリシア語の表現はどのようなものだろう。残念ながら、教養不足の私には、
ホメーロスの原典を検索する能力がないので分からない。そこで仕方なく、
ネットの辞典で英語の"brain"に相当する現代ギリシア語の表現を引いてみた。
https://www.wordreference.com/engr/brain
すると、"εγκέφαλος"と"μυαλό"という表現が記載されているが、
"εγκέφαλος"の方の語源は、
>ἐν- (en-, “in”) +‎ κεφᾰλή (kephalḗ, “head”) +‎ -ος (-os).
であり、特に興味を引かれない。それに対して、"μυαλό"の方はどうも、
英語の"brain"や日本語の「脳」にそのまま対応するというよりも、英語であれば、
"marrow"に対応する表現に由来するようで、古典ギリシア語であれば、"μυελός"
に対応するようだ。そこで、"Iliad"と"μυελός"で検索してみると、日本語で引用した
箇所に対応するわけではないものの、次の興味深い記述が見つかる。
file:///C:/Users/01264/AppData/Local/Temp/229-Article%20Text-796-2-10-20190310.pdf
>Deucalion’s head and helmet fly off together, and, Homer says,
“marrow (μυελὸς) spurted/splashed out from the vertebrae (σφονδυλίων).”
Commenters have noted that neither the cerebrospinal fluid nor the marrow
of an axially sliced vertebra, nor the spinal cord, can “spurt” out.<
0404考える名無しさん
垢版 |
2021/02/16(火) 11:07:29.470
>>400
誤:思われる理由を明示してみよう
正:思われるのか、その理由を明示してみよう
0405考える名無しさん
垢版 |
2021/02/16(火) 11:21:42.660
>無論、このような関連付けは、通常、英語で表現するなら"wanton imagination"とされ、
>まともに相手にされることはない。

組織(「羅/entrelacement」に喩えることができる)は、思考の「縺(もつれ)れ」に対して
は極めて寛容であるが(「もつれ」は、面倒になればいつでも切り捨てることができるので)、
勝手に連鎖する思考の「ほつれ」に対しては、それを容認することができない。
0406考える名無しさん
垢版 |
2021/02/17(水) 08:10:48.770
「か(交)ふ」、「交(か)ひ」においては、「ふ」は、「か」によって表現される
反射性が、相互的に働くことを示すが、「かほ(顔)」の場合の「ふ」の活用
である「ほ」によって示されるのは、「か」の反射性が自ずと作用した状態だろう。
0407考える名無しさん
垢版 |
2021/02/17(水) 08:21:42.690
>>401
中国語では、「胆力がある」ことを「有膽量」、「胆力がない」ことを「冇膽量」
と表現することがあるようだが、古典において日本語に訳された表現として、
「胆斗の如し(読み)タントノゴトシ」という表現があるとのことである。
https://kotobank.jp/word/胆斗の如し-563553
デジタル大辞泉の解説
《「蜀志」姜維伝から》きもが一斗升のようである。非常に大胆であることのたとえ。
精選版 日本国語大辞典の解説
(「斗」は一〇升はいる枡(ます)) きもの非常に大きいこと。
また、胆力のきわめて大きいこと、きもったまのすわっていることのたとえ。
大胆。〔蜀志注‐姜維伝〕
0408考える名無しさん
垢版 |
2021/02/17(水) 10:48:27.480
>>406
ドイツ語の場合、日本語のこのような「〜ふ」の用法とある程度、
対応するような機能を示し、参考になるのは、"wiederum"だろう。
0409考える名無しさん
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2021/02/17(水) 22:22:02.980
>>408
例えば、"wiederum"をWiktionaryで参照すると、英語では、"again", "in turn"
に対応するとされるが、日本語サイトがないので中国語サイトを参照すると、
「重新」、「再次」、「另一方面」、「反之」に対応する副詞であると記載され、
日本語の「〜ふ」の働きにうまく合致することが見て取れるはずである。
さらに、「另一方面」の「另」は日本語では使われない漢字だが、「別の」、
「他の」、「異なる」といった意味で用いられ、したがって、「另一方面」は、
「もう一方の側(かは)では」を意味することになる。ここで、中国語の表現
において「面」が現れ、対応する日本語の表現に「側(かは)」が現れることに
注目すると、「側(かは)」と「顔(かほ)」が互いに関係していることに気づく
はずである。

現代語の「かわいい」は、古語の「かはゆし」に由来し、「かはゆし」は、
検索してみると、「かほ(顔)は(映)ゆし」(「おも(面)は(映)ゆし」とも
言い換えられる)の短縮形として説明されることが多いようであり、
岩波古語辞典でも「カハハユシの転」としているが、これらの説明の
いずれにも、表現は、名詞から派生するものであるという偏見が働いている。
「かほ」にせよ、「かは」にせよ、いずれも「か・ふ」という表現の活用
と見ることができるので、「かはゆし」そのもので、メタ言語的に
説明するなら、「『か』の反射性が自ずと自由に作用することを生じさせる」
ことを表現しているものと理解することができる。
0410考える名無しさん
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2021/02/17(水) 22:27:58.360
レヴィナスが「顔(visage)」についてどのような思想を展開したのかを
日本語で論じるなら、まずは少なくとも日本語の「顔(かほ)」という表現
について省察すべきではないのか。
0411考える名無しさん
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2021/02/18(木) 21:35:10.310
ドイツ語の"wiederum"が、日本語の「〜ふ」と類似した働きをするのは、
"wiederum"が語源的に"wieder(反)um(転)"であることによって、
繰り返す様態や翻る様態を表すのに対して、日本語の「〜ふ」も
中国語の「复/復/覆」となった表現の流用であるからだ。ただし、
"wiederum"と「〜ふ」は、文法的な適用のされ方が異なっているので、
「〜ふ」という形態の日本語の表現の「ふ」に"wiederum"を当てはめて
ドイツ語にしようとしてもうまくはいかない。"wiederum"が普通に
副詞的に用いられるのに対して、「〜ふ」における「ふ」は、以前から
指摘するとおりメタ言語的である。数学の記号表現を隠喩として用いる
なら、x/y^-1=y/xにおいて"^-1"が反転の作用を働かせるように
「ふ」は、反転させる作用を表現する。ただし、「『〜』を反転させる」
と言っても、その反転がどのように行われるべきかが一意に定まるわけ
ではない。そのために、「〜ふ」の形態の表現は、「〜」の作用が
自らに向けられることを表す場合、「〜」の作用が相互に働くことを
表す場合、「〜」の作用が繰り返し働くことを表す場合、「〜」の
作用とは裏返しの作用が働くことを表す場合など、様々な用いられ方を
するのである。
0413考える名無しさん
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2021/02/19(金) 10:02:47.500
>>409
「顔(かほ)」がまずあって、それが光(ひかり)に照らし出されることを
イメージするのは偏見である。というのも、光に照らし出されるのが、
「かほ(顔)」だからだ。「裏(うら)の顔(かほ)がある」という表現がある
が、普段、光の当たらない面が照らし出されるから、それが「裏の顔」
とされるのであって、単に光が当たらないのであれば、それは「うら」
(古語において「こころ」と互換的に用いられる)であって、「かほ(顔)」
ではない。

このことは、「かほ(顔)」が、「かふ」の活用形であることを考えれば
はっきりする。「かふ」は、「か」を反転させることを指示する表現
であるが、メタ言語として「〜ふ」にドイツ語の"wiederum"を当てても、
"wiederum"は活用できないので、代わりにフランス語の《renverser》
を当ててみよう。「か」は反射的な作用を表すので、「かふ」、「かひ」、
「かは」、「かほ」は、暫定的な試みとして、例えば、
「か・ふ」≒「か・《renverser》」、「か(交/買)ひ」≒「か・《à renverser》」、
「かは(側)」≒「か・《renversant》」、「かほ(顔)」≒「か・《renversé》」の
ような活用として眺めてみると、このフランス語の当てはめが必ずしも
うまく適合していないとしても、「顔(かほ)」の存在をまず前提とする表現の
理解が一般性を欠いたものであることが分かるはずである。
0414考える名無しさん
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2021/02/19(金) 23:22:51.270
日本語に、しばしば、印欧諸語と似通った発音とイメージの関連付けが見られるのは、
日本語が中国語の表現を流用している一方で、中国語と印欧諸語の間に案外、
共通性が見られるからだろう。例えば、日本語の「な」の発音を用いた表現が、
中国語の「羅(Middle Chinese: /lɑ/)」を流用している場合が多くみられることを
指摘したが、それらの表現をフランス語の《entrelacement》をメタ言語として
利用して説明したとおり、対応する印欧諸語に対応する表現も共通性を感じさせる
発音となっている。
https://www.etymonline.com/search?q=lace
lace (n.)
early 13c., laz, "cord made of braided or interwoven strands of silk, etc.,
" from Old French laz "a net, noose, string, cord, tie, ribbon, or snare"
(Modern French lacs), from Vulgar Latin *lacium, from Latin laqueum
(nominative laqueus) "a noose, a snare" (source also of Italian laccio,
Spanish lazo, English lasso), a trapping and hunting term, probably from
Italic base *laq- "to ensnare" (compare Latin lacere "to entice").
0415考える名無しさん
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2021/02/19(金) 23:24:47.560
誤:対応する印欧諸語に対応する表現
正:印欧諸語の対応する表現
0416考える名無しさん
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2021/02/20(土) 00:37:56.550
日本語の「しぶ(渋)い」という表現と、それに対応する中国語の表現の
中古音を比べて見ると、明らかに対応していて、それだけを見れば、
日本語の「しぶ(渋)」は、中国語の「澀(Middle Chinese: /ʃˠiɪp̚/)」の
語末を単に開音節に移しただけであるようにも見える。
しかし、日本語として見た「しぶ(渋)い」という表現は、「『しば(縛)』り」、
「『しび(痺)』れ」、「『しぼ(搾)』り」と関連していると考えることができる
のに対して、中国語の「澀(/ʃˠiɪp̚/)」がそのように活用されることはない。
したがって、日本語の「しぶ(渋)」がそのまま中国語の「澀(/ʃˠiɪp̚/)」の
借用であったとしても、やはり、そこには、「し」をフランス語で表現する
なら《laissant》のようなイメージを想起させるものとして捉え、
その作用/様態を「〜ふ」によって反転させている、すなわち、
「《lasssant》の反転」⇒「しぶ《restreint》」という解釈が行われて
いるように私には思える。
0418考える名無しさん
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2021/02/20(土) 21:34:43.810
ところで、日本語の古語で「漁をする」、「魚貝をとる」という意味で
用いられる「漁(すなど)る」は、中国語の「搜羅(sōu luó)」という表現をそのまま
利用して「と(獲/取)る」を足しただけの「捜(す)羅(な)どる」ではないのか?
https://www.chinesewords.org/dict/137596-387.html
近義詞: 征采,搜尋,搜求,搜索,搜集,收羅,收集,網羅,采集,包羅
1. trawling、2. rake up
0419考える名無しさん
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2021/02/21(日) 00:04:18.600
今現在に限らず、戦前、戦後にわたって、あるいはそれよりずっと
長期にわたって、何か暗黙の緘口令が敷かれているかのように
誰もが沈黙を守っているところを見ると、何かがどのようにか
よほど都合が悪いのだろうと思うが、それが具体的にどのような
ことであるのか、私には謎だ。
0420考える名無しさん
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2021/02/21(日) 13:39:18.660
「すな(砂)」という表現は、互いに関連する(私の考えでは、日本語の用法
としての「沃(い)」を介して)「いし(石)」、「いそ(磯)」、「いは(岩)」、
「いさご(沙子)」の系統には属さない。

その一方で、現代では死語となっていると思われる「すなど(漁)る」と
いう表現においても、この表現は、魚介類を集めて獲ることを意味する
ように用いられるのであって、「『砂(すな)』を取る」ことを表現して
いるわけではない。しかし、だから「すなど(漁)る」の「すな」は、
「砂(すな)」とは無関係である、と結論付けてしまうとすれば、
そこにこそ、「表現は名詞から派生するものである」ことを暗黙の
前提とする根強い偏見(学者によっても、一般の話者によっても共有される)
が反映されている。「すなど(漁)る」がそのまま利用していることを
指摘した中国語の「搜羅」という表現の用法を、今度は逆に、それに当てられた
英訳の"rake up"を手掛かりに中国語辞典で確認してみよう。
https://cjjc.weblio.jp/content/かきあつめる
掻集める
中国語訳 搜集,搜罗 (「罗」は「羅」の簡略化)
英語での説明 scrape, to gather by pushing with something sharp

海辺で貝を「搔き集める」活動のことを指して「『すな(捜羅)』どる」という
表現が頻繁に用いられたとすれば、「すな(捜羅)」が、潮干狩りにおける
遠浅の砂浜の「砂(すな)」を指すものとする理解が派生することは、容易に
推測することができる。しかし、すると、今度は、本来は活動の様態を表して
いたはずの「すな(捜羅)」と「砂(すな)」という名詞化された用法の間で
もつれが生じ、「すな(捜羅)どる」という表現の方が「砂(すな)どる」で
あったかのようなイメージが想起されることになる。ところが、
「砂(すな)どる」という解釈では、「魚介類を集めて獲る」ことを表現する
のには不適切なので、その由来が不明となった「砂(すな)」が「化石化して」
残る一方で、「すなど(漁)る」の方は死語となったのだろう。
0421考える名無しさん
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2021/02/21(日) 17:42:55.530
スナドリネコという魚を取って食べる野生のネコ科動物の名前に生き残っている。
0422考える名無しさん
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2021/02/22(月) 09:06:19.770
さて、ここで論理国語の問題です。

https://kotobank.jp/word/撫切-2069762
撫切(読み)なでぎり
※今昔(1120頃か)二六「此の暑預(やまのいも)を削つつ撫切に切る」
@ 撫でるようにして刃物で斬ること。刃物を物におしつけておいてすっと切ること。

暑預(やまのいも)(大和いもを含むツクネイモ群は、大陸から渡来したナガイモ
(学名: Dioscorea opposita Thunb. 英: Chinese yam)の一種 by Wikipedia)
は、別の食材とは異なり、特に「撫(な)でるように」切る必要のある食材なのでしょうか?
0423考える名無しさん
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2021/02/22(月) 13:02:37.980
A 大勢の敵を、あまさず切り倒すこと。多くの相手を残らず切りすてること。
皆殺しにすること。
※最上義光宛伊達政宗書状‐天正一三年(1585)閏八月二七日「五百余人討捕、
其外女、童申におよはつ犬訖なて切に為レ成候条」

※東京の三十年(1917)〈田山花袋〉山の手の空気「縦横無尽に文壇に
なで斬(ギリ)を試みたのは」

こちらの用法の方は、「縦横に切る」こと、「網羅するように切る」ことを
表現しているのだから、日本語として発音される「羅(な)」の応用として
難なく理解できる。「暑預(やまのいも」も「縦横に切って」刻んだ海苔と
醤油をかけて食べたらおいしそうに私には思え、「撫でるように切る」と
いう説明は不合理/理不尽にも感じられるのだが、だからと言って、
そのように説明されることがあり得ないわけではない。

「不合理/理不尽」についてニーチェも次のように言っている。
Aus der Erfahrung. – Die Unvernunft einer Sache ist kein Grund gegen
ihr Dasein, vielmehr eine Bedingung desselben.
http://www.zeno.org/nid/20009235124

つまり、説明が不合理/理不尽であることは、それがあり得ない根拠ではなく、
その説明が存在する条件ですらあることが考えられるわけだ。
0424考える名無しさん
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2021/02/25(木) 12:09:36.230
>>373-374
まさしくその折、ポセイダーオーンとアポローンとは、諸河の力を
導き込んで、かの囲い壁を壊すたくみを、めぐらしていた。
およそイーデーの山々から出て、海へと流れ込む川々の、[...]
— そこで多くの牛皮の楯、また兜が、
さらには神にもたぐう武夫たちが、塵泥の中に倒れふしたもの —
これらの川の水口をみな一緒にして、ポイボス・アポローンは、
九日の間囲壁に向けて流れを放てば、固よりゼウスも
絶え間なく雨を降り継がせた、寸時も早く囲壁を海に流そうとて。

ホメーロス、呉茂一訳、『イーリアス 中巻』、p.204
0425考える名無しさん
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2021/02/25(木) 12:13:59.170
また大地を揺る(御神)も、自ら両手に三叉の鉾を執って
先導に立ち、アカイア人らが、苦労してこしらえあげた
材木や石でつくった土台をそっくり、波に渡してやって、
流れの強いへレースポントス沿いのところを、平かにした。
こうして再び、広い浜辺に、囲い壁をとり毀ってから
砂土を覆いかぶせ、川々はまた、きよらかな水を
馳らせていた。その昔の河床へと向け、旧に復した。

ホメーロス、呉茂一訳、『イーリアス 中巻』、pp.204-205
0426考える名無しさん
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2021/02/25(木) 12:20:06.480
>朝廷軍は巣伏の戦いで1061人もの戦死者を出した

朝廷軍も夥しい数の戦死者を出したとはいえ、戦いの相手がポセイドーンや
アポローンではなく、蝦夷の阿弖流為/悪路王であったことは、
不幸中の幸いであったと言えるのではないか。
0427考える名無しさん
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2021/03/02(火) 21:35:23.400
子安宣邦の「近代の超克」とは何かを読んで
高山岩男の世界史の哲学にも興味が湧いてきた。
でも、高いんだよな。
0428考える名無しさん
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2021/04/15(木) 05:23:13.620
高かったけど買っちゃった。
0430◆OXsdnjx68E
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2021/04/15(木) 06:27:32.120
ジョック クインビー

対極は、

ギグス ナード
0431考える名無しさん
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2021/04/15(木) 06:35:49.610
               __
              /:::::\
            /::❍ 🐽 ❍\
           /:: | ` `👄´' |:)
           ,.゙-‐- 、  `⌒  /
        ┌、. /     ヽ ー‐ <.  プこぴゃプコぴゃぷこピャプこピャぷこぴゃプコぴゃぷこピャプコぴゃぷこピャってるようじゃな?
         ヽ.X、- 、   ,ノi      ハ
      ⊂>'">┐ヽノ〃     / ヘ
       入 ´// ノ        } ,..,.._',.-ァ
      /   `ー''"´      ,'  c〈〈〈っ<
     /          __,,..ノ ,ノヽー'"ノ
      {          ´    /  ``¨´
    /´¨`'''‐、._        ,'\
     ∨´     `ヽ、     ノ   ゙ヽ
      ∨      ヽ _,,..-'"    `ヽ
     ∨       〈-=、.__       }
0432◆OXsdnjx68E
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2021/04/15(木) 07:08:55.050
>>431 連絡とれよ
0433考える名無しさん
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2021/04/15(木) 10:29:18.740
【盗聴盗撮犯罪者・色川高志がしつこく嫌がらせを継続】
色川高志(葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室)
●色川高志「清水婆婆の息子の金属バット集団殴打撲殺を熱望します」
龍神連合五代目総長・清水婆婆の息子(葛飾区青戸6−23−19)の挑発
●清水婆婆の息子「糞関東連合文句があったらいつでも俺様を金属バットで殴り殺しに来やがれっ!! 糞関東連合の見立・石元・伊藤リオンの糞野郎どもは
龍神連合五代目総長の俺様がぶちのめしてやるぜっ!! 賞金をやるからいつでもかかって来いっ!! 糞バエ関東連合どもっ!! 待ってるぜっ!!」(挑戦状)

492盗聴盗撮犯罪者色川高志(青戸6−23−21ハイツニュー青戸1032021/02/03(水) 13:53:22.55ID:QtP78E4Z
●青戸六丁目被害者住民一同「盗聴盗撮犯罪者の高添沼田ハゲエロ老義父の逮捕を要請します」
色川高志(盗聴盗撮犯罪者の高添沼田ハゲエロ老義父を逮捕に追い込む会&被害者の会会長)住所=東京都葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室
●盗聴盗撮つきまとい嫌がらせ犯罪者/アナル挿入食糞愛好家で息子の嫁で自慰行為をしている高添沼田ハゲエロ老義父
高添沼田ハゲエロ老義父の住所=東京都葛飾区青戸6−26−6
【通報先】亀有警察署=東京都葛飾区新宿4ー22ー19 рO3ー3607ー0110

盗聴盗撮つきまとい嫌がらせ犯罪者/アナル挿入食糞愛好家で息子の嫁で自慰行為をしている高添沼田ハゲエロ老義父の盗聴盗撮つきまとい嫌がらせ犯罪者/愛人変態メス豚家畜清水婆婆(青戸6−23−19)の
五十路後半強制脱糞
http://img.erogazou-pinkline.com/img/2169/scatology_anal_injection-2169-027.jpg
アナル挿入食糞愛好家で息子の嫁で自慰行為をしている高添沼田ハゲエロ老義父によりバスタブで清水婆婆の巨尻の肛門にシャワーのキャップをはずしてずっぽり挿入。
0434考える名無しさん
垢版 |
2021/05/22(土) 12:47:49.430
唯物史観も哲学しないと。
0435考える名無しさん
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2021/06/24(木) 19:31:11.320
やっぱりレーニンとかも読まないといけないのかなあ
0436考える名無しさん
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2021/08/02(月) 03:07:41.330
歴史哲学といえばヘーゲル
0437考える名無しさん
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2021/10/15(金) 17:14:26.260
ヘーゲルの著した哲学の歴史と歴史の哲学は、
併せ読んだら物凄い力を得られるだろうな。
0438考える名無しさん
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2021/11/01(月) 15:02:13.080
どっちの著作もアジアが低く見られがちなのが共通している。
0439考える名無しさん
垢版 |
2021/11/15(月) 08:06:17.590
カント的純粋理性批判に見られるような、
一直線型に時間に沿って物事は継起して行くという、
一種の直線的歴史観に近い考え方がヘーゲルに影響したのかなと最近思うようになった。
0440考える名無しさん
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2022/03/10(木) 02:09:37.220
ビデオに残すと言ったのは誰なのかが問題だ。歴史上の人物との会話が成立するから。
何故、会話が成立するのかも考えられていない。
調査員の厳しい手続きを請求することは、何か落ち度があったら、認めないことだ。
世界中に10万人規模で調査結果を待ってる人がいる。
優先すべきことはどこから来るのかという発生源を突き止めることだ。
電波なら総務省がやれるのだがね。
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