デジタルトランスフォーメーション2
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デジタル庁もできて、ますます「デジタル」が注目されていますが
デジタル、そしてデジタルトランスフォーメーションの哲学的な意味を
考えていきましょう
基礎的な概念はこちら
西部邁スレ合理論のまとめ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1536734463/ ヒューマニズムを称揚することで、社会は大きく荒廃した
特に日本の場合は、人を不幸にするヒューマニズム指向の文化が大きくもてはやされ
それによって人心の荒廃と論理性の衰退、そしてそれに伴う技術競争力の低下を招いた
今こそここで、デジタル化により一気にポストヒューマニズムへと進め、
この衰退、崩壊する流れを変えなければならない 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2020/12/19(土) 14:45:30.40 0
デジタル化によって、ヒューマニズムからポストヒューマニズムへと軸足を移していかないと
ヒューマニズムは非常に過酷
結局は独自性の競争になるので、どんどん極端化して、全体として不幸になってしまう
ポストヒューマニズムは、現代的に神を蘇らせる方向性でもあって、それが人間にとって大きな救いになる アウトローから見たら義理人情の衰退と日本の競争力の衰退が一致していそうだが。 今や義理人情が強い国ほど悲惨
不幸が蔓延しているから
まあ、日本の場合は、非常に競争力のあった日本人の「直感」が、デジタルシステムに完全に敗退した
または敗退しているという現状がある そういう直感に優れているのは
成長過程で自然との触れ合い、同年代の子供との触れ合いに恵まれていた
地方出身の学生だという見方があるね。
そういう人ほど博士課程以降に伸びるんだとか。 ただ、
学部の早い段階で変なものにハマってしまうのもそういう地方出身の学生だったとか。 書込み規制は、誹謗中傷や下劣な言葉の書込みを防止することには
何の効果も発揮しないが、対話を阻害する言論統制には極めて有効である。
なぜなら、レスを書き込もうとするまでは、書込み不能であるかどうか分からず、
相手にレスを丁寧にしようとしてよく考えて書いた言葉が、レスを実行しようと
した時点で規制されることにより、完全に無駄となり、挫折させられるからだ。
人は、自分が費やした労力が大きいほど、それが無駄に終わることを忌避する。
したがって、規制によって書き込めない可能性があるなら、最初から
丁寧な対話をしようとする努力そのものを放棄する。 ここ2日ほどは”不正なPROXYを検出”とか言われて書けなかったな確かに。 私が、この掲示板を対話のためではなく、便所の壁への独り言の落書き
として割り切って利用する理由もそこにある。独り言の書込みは、
レスがあってもなくても、それを見た人に何かを気づかせる効果を
発揮する可能性があるからである。 文化はヒューマニズム、文明はポストヒューマニズムと言えるかもしれない
文化の競争は、独自性の競争になって非常に過酷
エンターテインメントの競争は特にこれに当てはまる
ポストヒューマニズムは、結局は真と偽に収斂される構造の絶対性に依拠している
それは、真でありさえすれば良いわけで、はるかに人に優しいんだよ
そしてそれは、伝統的な神をより洗練されたあり方ということになる 真偽の構造に収斂される論理空間における絶対性ってことだね
それはヒューマニティに依存しない >ポストヒューマニズムは、結局は真と偽に収斂される構造の絶対性に依拠している
じゃあ、具体的に訊くけど、金正恩やトランプは政治家として真(正義)なの、
それとも偽(悪)のどちらに判定されるの? あ、影が薄いから阿倍前総理や菅総理のことを忘れていたw
彼らはどっちの側に入ってくるのかな 自身において矛盾があるなら、偽でしょう
自身が享受している権利を自身が否定しているなら、それは偽ですね 今までは、複雑になりすぎて人がそれを検証するが難しかった
しかし、論理空間に限定すればよいなら、ITでかなりの精度で検証可能になる
デジタル化は、それを決定的に後押しするでしょうね ところで今朝の日経新聞に京都精華大の学長のインタビューが載っていた。
合理主義や物質主義から地域や地元への回帰、人間への回帰が起きている
と語っていたが、彼は半周遅れかね。 ヒューマニズムに傾けば、不幸の蔓延が酷くなるだけ
世界の各地域を見てれば、これは如実にわかるよ まあ、厳密にはヒューマニズムが物質主義なんだけどね
新物質主義という名称も混乱があると思う
合理主義と物質主義は反対の概念と言っても良い
物質は論理空間の外側にある 物質の固有性、個性こそが文化の根本だから
文化は物質に強く結びつけられている
そして、そこにヒューマニズムは大きく密着している
それに対して、合理はもちろん、文明の基礎になるわけだけど、それは物質の固有性からは切り離されている
故に共有可能であり、一般性、可搬性を備える 日本のインターネットは非常に苛烈だが、だからこそヒューマニズムからポストヒューマニズムへの移行は
より速く進むと思う
これも、一種の加速主義だろうね 東浩紀「ヘイト丸出しの差別発言を許容する日本 上品下品の感覚取り戻すべき」
https://news.yahoo.co.jp/articles/f10e155a91a8df22daf94dd7124e284d76ae64b2
ヒューマニズムの加速主義をやっているのが日本
いち早くポストヒューマニズムに移行すると思う 暗黒啓蒙なんて比じゃないレベルで日本のインターネットはすごい
暗黒啓蒙も加速主義だとすれば、日本のインターネットの加速主義は凄まじいレベルだと思う まあ、今さらヒューマニティの世界に戻って欲しくないとは思うが
そこからは何も生まれない 宮台もこういう感じで加速主義を支持してるんだろうか
しかし、問題があるのは、資本主義というよりもヒューマニズムですよ
それがこの事態をもたらしている
したがって、加速主義が解体するのは資本主義ではなくてヒューマニズムです
ヒューマニズムが解体されれば、それに乗っかっている資本主義も変質するとは思いますが まあ、加速主義を支持している人はポストヒューマン系の人が多いわけだから
これは理解されていると思うんだけど ニックランドなんか中国に移住しちゃうような奴な訳で、
右左翼的、政治的な人間というよりも、中国の技術主導主義的なものに惹かれているというのはあるんじゃないのか そもそも、なぜ資本主義がターゲットになるのかわからない
資本主義は、現状の人間に最適化されたツールでしかない
人間が変わらなければ資本主義も変わらない
となれば、ターゲットとすべきなのは資本主義ではなくて人間であるということはすぐにわかるはずだが 焦点が人間に当たるのであれば、ヒューマニズム的発想は消えないんじゃないの? 人間が変わらないとってことですね
人間中心主義、ヒューマニズムから脱しないといけない 自分は無条件的加速主義って奴に入るのかな
そももそこれは政治とは関係ないはず
ヒューマニズムからポストヒューマニズムへの移行が主題にならないと
封建主義とか資本主義解体とか、あまりにも的外れすぎる 軸足と視点の関係かな
ヒューマニズム、人間中心主義では、人間に軸足があるわけで、それを変えることはできない
つまり、人間ではなくて、人間以外のものを変えなければならない
それに対してポストヒューマニズムでは、人間以外の何かに軸足があって、したがって
人間を変えることが可能になる
トランスヒューマニズムはまさにそれでしょう そもそも、政治体制というのは目指すべきものじゃない
最適化していくべきもの
それはあくまでツールでしかないわけだから、人間が変わっていくなかで、
それに最適な政治体制も変わっていく
しかし、それを最初から決め打ちするのは、非常に高度な計算が必要なはずで、
現状ではそれは不可能なわけだから、単なる思い込みでの決め打ちということになり、意味がない 劣化してるんじゃなくて、本当の姿が現れていると解釈すべき
そして、本当の姿がわからなければ、改善すべき方向性もわからない
それが加速主義といわれる方法論の仕組みでしょう 全頭個体管理の下で投票することにどのような意義があるかと言えば、
それは、全頭個体管理を肯定しますという「自発的な」意思表示にしかならないだろう。
投票を棄権することによって消極的に拒絶を示したところで、「自発的に」肯定する
意思表示をしない個体が特定されるだけで、何も変わるわけではないが。 動物系の方法論で生きてきた人は、この流れは嫌だろうな
しかし、動物系の人は、家畜か野生動物かの二択でどちらも不幸の極みだからね
知的存在として生きる方向性に変えた方が良いと思う
今からでも間に合うよ
寿命も大幅に伸びる可能性があるからね
そんな長期間生きるように動物はできていないから、苦しくなる一方だと思う 人間は完全な民主主義を目指すために生きているのではないのか? 完全な民主主義といっても、いろいろ矛盾をはらむからな
何を優先するかというのがあるわけだが、何を優先したいの? 民主主義=善っていうのは「普遍的価値」なんじゃないの? 「民主主義なんて不要 高度に管理された社会がいい」って考え方もあるのかもしれないけど、
そんなのいう事自体許されない感じだし…例えば、例えばだけど今の日本の社会で「これは
真の民主主義ではないし自由でもない。だから社会の改革を」という人はリベラルにたくさんいるけど
「え?これ以上何を望むの??」ってたまに思うんだ。口には出さないけど。
もう、いったい何が理想的な状態なのか分からなくなってくる。 政治的には現状民主主義だが、
それぞれの不満が本当に政治に起因するかどうかというのはあるでしょう
格差が問題ならば、それは能力に応じた格差でないから不満なのか、そもそも格差の存在自体が不満なのかという点がある 政治的には、個人は、企業統治に従属して生活しているのが現実で、
重大な法律違反を個人が立証することができ、なおかつ、
裁判で勝つことが訴訟を起こす個人にとって長期的に利益をもたらす
極めて例外的な事例を除いて、個人は法律によってすら保護されていない。 在宅勤務なら自宅スペースを企業に徴用されているのと同じ 労働は、特別な場合を除いてそれ自体が苦痛の原因だからね
最終的には、非常に優秀な人以外は、趣味的な作業するだけで良くなるよ
生産性を向上させて余剰分をBIに回すような政策誘導が重要だね 労働を利権化すると、不幸が二重、三重に拡散する
まず、労働自体が不幸、苦痛の原因
さらに、その苦痛と引き換えにそれを利権化して、権力化すれば、周りにもその不幸を倍加させてまき散らす
ブラック部活と同じ構図 当然のことながら、誰でもがいつでも自らにとっての「全体」のための
最適化を求めている。その全体が、自らを命が犠牲になっても、
現生人類(「現生人類」がどのように定義されるのであれ)の
最大多数の現状の生存のための最適化を最優先するという場合でも同じことだ。
その最適化の解を求めることが可能である場合でさえ(普通に考えれば、
そのようなことは不可能だが)、各自にとっての「全体」は大きく異なり、
時と状況によって変化して不定である。その原理的に不定である「全体」
を定義する権限を誰かに預けたなら、その権限を握った誰かが、
自らにとっての「全体」に都合の良いように時と状況に応じて最適解
を求め、それを受け入れることを、その他の人々に「全体のため」として
強制することになる。 だから、共同体主義は不幸の温床なんだよ
ここまでITが進歩すれば共同体はほぼ不要だね 不幸の軽減において一番重要になるのは、粒度の細かさと精度だよ
これがダメだと、不幸は一気に大きくなる
共同体主義はこの粒度の細かさと精度を大きく低下させるからね IT技術がいくら「進歩」したところで、計算機の演算処理能力が
どれほど向上したところで、それによって金融投資活動の最適化が
実現されるわけでも、その実現に近づくわけでもないことは、
もはや誰の眼にも明らかだろう。 「理想的な金融投資活動の最適化」とは、「全体」のためにどのような
サービスや商品の生産のためにどれだけのリソースが振り向けられる
べきかの理想的な解が得られることだが、その「全体」は、上に指摘した
とおり不定である。 そもそも、デジタル化が進展すれば、人間が使うリソースそのものが小さくなる
現状では発展途上国への分配が十分ではないが、生産性の向上と個人のリソース消費の削減が同時に進むから
リソースの分配は大きな問題になることは徐々になくなるだろう はっきり言って、動物的な方法論での生存を続けようとする人自体が、不幸を蔓延させている
第一の要因だからね
富の偏在が問題になるのも、この点からだから 富がなにであるかについてすら、人それぞれで時と状況によって変わり、
不定である。家族がなくて孤独を欠乏と感じている者が、
家族と一緒に出かけたり、食卓を囲むことができることが豊かさを
表す富であると羨むこともあれば、休日まで家族と過ごさなければならず、
食事も勝手気ままにとることができないと感じている者は、
独りで自由に過ごすことのできる時間のあることを豊かさの実現
として羨むこともある。 妻や子供たちにとっての満ち足りた休日が夫にとってそうであるとは限らないし、
逆に夫にとって豊かな休日が妻や子供たちにとっての満ち足りたものであるとは
限らない。同じ家族の一員であってさえ、何が最適な状態であるかの捉え方は異なる。 合理が多様性を包括する方向に持っていく為にはグローバルの秩序を成立する事が何よりの条件
トランプ以降その傾向は強まっておりバイデン政権への移行は半ば必然的なシナリオだといえる 楽しみは虚像、苦しみはリアル
社会的課題は苦しみを取り除くことだと思う
楽しみは、バーチャルでいくらでも提供できるし、ないならないで困らない
他人に負荷をかけない方法なら、個人の好きにすれば良い あたかも全体があらかじめ規定されたものとして存在するかのように
その仮定される全体に適合するように最適化を進めれば進めるほど、
フィードバックがまともに働かなくなる。 複数の真理(各人の主観の構造)が相互影響し合っている系を想定した上で述語を持って来る
独裁者の自己言及型モデルに支配されている、つまり世界(主語)がどうであるのかは我々が社会に参与して決定されなければならない 全体の話なんかしてないでしょう
むしろ、共同体主義は不幸は高めるだけ
そして論理空間に限定するなら、計算的な解決は可能
論理空間には真偽の構造のみが存在する
全体が基準になるのではなく、真偽の構造が基準になる 日本人は、結構加速主義的な考えが好きだと思う
たとえば、何かのチャリティや寄付活動なんかにはあまり乗り気になれない
それは、中途半端にパッチワークすることで、かえって世の中を良くする速度遅らせているように感じる
今のあり方でまっすぐに先に進む方が、最終的には早く世の中が良くなる
そう感じている
それこそ、まさに加速主義の考え方だと思う 良い共同体もあれば、悪い共同体もある
それは、ある意味当たり前なんだが、良い共同体を実現するのは非常に難しく
悪い共同体はいとも簡単に実現する
それは、共同体という仕組み自体が、人間の劣悪を増幅する性質を備えているからだと思う そして、共同体あるいは全体に対して、良し悪しを評価できること自体が、
共同体あるいは全体を基準としていないということになりますね
共同体あるいは全体に軸足をおいていない
他の何かを基準として、共同体あるいは全体の良し悪しを評価している
そして、それこそがヒューマニズムではなく、ポストヒューマニズムということになりますね 紅白落選も必然だった…AKB48が急速に「オワコン化」してしまった4つの理由
https://news.yahoo.co.jp/articles/761076ecd11c62b0bb408d622b614f075ae9ec75
音楽という若干ポストヒューマニズム的要素がある部分を排除して、すべて人間べったりにしたの
AKB商法でしょう
まさにヒューマニズムの加速主義ともいえるべき現象だった 音楽なんかもバッハなんかはポストヒューマニズム的な要素が強い感じがあるね
そこから、常に音楽はヒューマニズム方向に振れて、それに伴って墜落していく感じがある バッハの時代は神がいたからね
その神がポストヒューマニズムと同じような働きをしているということだね こういうのはどうなんだろうな
ドイツ人のハードロックらしくバッハの影響も感じられるが
乱数ではないんだよな
乱数では物資になってしまうからね
https://www.youtube.com/watch?v=g1MSije83oY 人間と神の架け橋となる音楽がバッハだとすれば
ポストヒューマニズムでは、人間と、ハイパーカオスの境界から派生する絶対性の架け橋となる音楽が求められるということになるかな
そこではハイパーカオスを意識させることも必要なのかもしれない 共同体は、1:9でいやな面が圧倒的に多いのに良い面しか語られない不思議があるね ハードロックというのも結構ポストヒューマニズム的かもね
1970年代から1980年代初頭まで、わりと科学技術主義が強かった時代と重なる
その後、ポストモダニズムによってすべてがヒューマニズムに流され、科学技術を否定的に捉える
脳軟化が急速に進んだ 音楽の調和音なんかは数学的な世界
その調和が精神に及ぼす影響なんかは、まさにポストヒューマニズムなのかもね
その調和の影響の美しさを神に比類して用いたのが、バッハやそれ以前の音楽でしょう
つまり、元々ポストヒューマニズム的な要素が結構あってそれが宗教音楽として取り入れられた
ポストヒューマニズムが先に来るトピックといえるかもしれない
しかし、そこに歌詞を付けて人の情なんかを歌うようになっては、もうそれは単なる毒物になる 神を崇めるとかヒューマニズムの極致で土人でもやってること
というより、土人向きの行為だね
宗教はヒューマニズムの典型だよ キリスト教の神は理性が導く先にあるわけだから、ポストヒューマニズムのハイパーカオスとの境界にある絶対性とうまく
対応している
仏教の諸行無常の中に仏を見いだすあり方もそうだが
この二つは他の宗教とは違うのかもね そもそも、ヒューマニズムの危険性を言ってたのはキリスト教だからね
この辺の部分は、キリスト教の得意とするところで、それはポストヒューマニズムとある程度
そのあり方が一致しているからだろうと思う 隣人愛を唱えるキリスト教はヒューマニズムの極致だろう
人間なんてどうでもいい、と唱える宗教でもあれば別だが 視点の対象は人間でも、その思考、判断の基準は神にあるってことだね 人間⇄神を妄想的に行き来するだけなので、所詮ヒューマニズムの亜種だよ
神は妄想、ドーキンス 信仰があることが前提
バッハも一点の曇りなく神に捧げる音楽を書いたはず 何を言った所で宗教はルサンチマンでしかないよ
その効用を問題にするのは野暮 >>70
ヒューマニズムを加速して行き着く先はブラック化だったってことだな パパ・ママ500人に聞いた子どもに就いてほしい職業ランキング、男の子1位は公務員、女の子1位は?
https://news.yahoo.co.jp/articles/895e57e603957b90de8168af8e18d587bc274094
男の子の1位も大概だが、3位のスポーツ選手とかいうのは辞めろ
何にも考えずに子供を生むなよ
周囲にとっても本人とっても不幸でしかない ポストヒューマニズム、ボストヒューマンはバズワード的な感じになりつつあるね
『現代思想』も積極的に取り上げてきたからね
しかし、思弁的実在論とポストヒューマニズムの関連性が今一わかりにくいところだと思う
そういう人は>>1のリンクを読んでくれ 自分が「ポストヒューマン(と同等)」であると無意識に錯覚してしまっている論者もいそうだね。
言う事が完全に想定ポストヒューマン目線とか。 ポストヒューマンの視点から、いろいろなものを批評できる
天気の子をポストヒューマンの視点から批評している記事もある
https://lp.p.pia.jp/shared/cnt-s/cnt-s-11-02_2_d4580589-dd03-4845-af73-ce06ffc16fa4.html
これをポストモダンの視点から批評すればまったく別ものになるでしょう
まあ、今さらにそんなことをしても社会の害になるだけですが
ここからさらに、ポストヒューマンの視点から制作される作品群が多くなることを
期待したいですね ここで問題になるのはポストヒューマンと既存の人間性の調停ですが、
この部分については正直、わからない部分は多いですね
現状では、ポストヒューマンに傾くほどよい影響が得られるのは確かだろうと思います
これがどこまで続くのか、両者が均衡するポイントはあるのかが焦点になるわけですが
加速主義に耐えうる均衡点がどこになるのか、あるいはそれは存在しないのかという部分ですね まあ、この分野は検討すべき項目が膨大にありますので
哲学系、思想系、クリエイティブ系を問わず、多くの人の思考と議論が
求められているところだと思います もちろん、ビジネス系の人たちの思考と議論も求められるはずです
ポストヒューマンを推進するエンジンとなっているのは、IT系を中心とする
ビジネス系の人たちであることは間違いないところだと思います ポストヒューマン。遠い未来の、我々とは全く違う存在であろうポストヒューマンを
まるで「俺の価値観・思想の忠実な後継者」のように考えている論者が多いと思う。 理不尽な校則 なぜ変わらないのか ――コロナ禍の校則緩和から「学校依存社会」を読み解く
https://news.yahoo.co.jp/byline/ryouchida/20210103-00215871/
理不尽なのは、校則じゃなくて、集団化の強制だよ
この手の識者って頭が非常に弱く、引っかき回して余計問題を悪くする そもそも、頭がほとんど回らないくせに、なんで上から目線の立ち位置に
立ててるのか
バカの立場が上がってしまう既存の仕組みそのものに大きな問題がある 「バカ/賢い」の定義、「個人でありたい・自由でありたい・平等な社会でありたい」てのは
現在までの我々が育んできた価値観だ。
ポスト・ヒューマンとやらには関係のないことじゃないの?何故託そうとする? まあ、結局自分の頭で考えられない奴が上に行ったら、他人に大きな害を及ぼすということだね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています