デジタルトランスフォーメーション3
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デジタル庁もできて、ますます「デジタル」が注目されていますが
デジタル、そしてデジタルトランスフォーメーションの哲学的な意味を
考えていきましょう
基礎的な概念はこちら
西部邁スレ合理論のまとめ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1536734463/
過去ログ
デジタルトランスフォーメーション2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1608459847/ どこが馬鹿なのか言語化することが大事だよ
哲学だけでなく、今やあらゆる分野で言語化できることが必要になっている
言語化できなければ、それがすなわれ馬鹿ということになる 社会的包摂の重要性が説かれる昨今、脱人間主義は何処まで実現可能なのか問われている
人間主義的認識に偏重する事が環境要因の軽視に繋がり、社会資本、人的資本の荒廃に密接している
巧みなマーケティングによって購買行動を煽られ顕示的消費を繰り返す若者は更にそれをInstagramに上げる
資本によって歪められ隠蔽されてしまった空間こそが生産の領域であり、付加価値という虚構は欲望に対する信仰でしかない
消費の循環を生産の循環へ
資本主義において消費されないものは弱者であり、弱者とはマイノリティーである
そしてマイノリティーは常に抑圧されている 加速主義の行き着く先こそ、ポストヒューマニズムだよ
そしてそこにしか、救いはない
ヒューマニズムのあまりの残酷さに、人々は呆然とするしかない
それが今の状況 これから人間の機能が機械に置き換えられていく
その中で、認識者の立ち位置を哲学的に捉え直していく作業が必要
それが、ポストヒューマニズムの哲学的な意味だと思う カントとヘーゲルは思弁的実在論にどう答えるか 単行本 ? 2021/11/10
高橋一行 (著)
>ヘーゲルを専門とする著者による思弁的実在論批判。カンタン・メイヤスーを中心として、思弁的実在論と呼ばれる思潮を追い、次いでその思弁的実在論を理論的相関項として持つ加速主義について考察する。二十一世紀の思弁的実在論を経て、十九世紀のカント哲学・ヘーゲル哲学に回帰し、再検討しつつ、カトリーヌ・マラブーとスラヴォイ・ジジェクを援用しながら思弁的実在論の可能性を探ってゆく。
面白そうな本が出たが、7150円か
図書館とかで借りるしかないのか 原理主義的な保守(それがどのようなものであれ、自らの主義の絶対的な
正しさを主張する保守)が一神教的であることは言うまでもないが、
一見、多様性を推進することを目標として掲げているように見える
(ネオ/)リベラリズムにしろ、マルクス系の左翼主義にしろ、
多神教の多様性を評価したニーチェの立場からすれば、開き直った
一神教、自らが一神教を信仰していることの自覚すら欠いた一神教
への帰依に過ぎないだろう。
Größter Nutzen des Polytheismus.
Friedrich Nietzsche: Werke in drei Bänden. München 1954, Band 2, S. 134-135.
http://www.zeno.org/nid/20009251936 多神教がもてはやされたのはポストモダンの文脈だよ
その結末は嫌というほどもうわかってると思うが
いずれにしろ、これは宗教ではなく、事実に基づく分析だからね そもそも保守なら良いという考え自体が無意味、さらには有害ですらある >多神教がもてはやされたのはポストモダンの文脈だよ
ポストモダンの文脈≒(ネオ/)リベラリズム+マルクス系の左翼主義
それに対抗するものであるかのように見せかけたコケ脅しの案山子が
宗教原理主義や原理主義的な政治保守 >そもそも保守なら良いという
「そもそもの保守」が(不定形の)自己保存だから、それなしには良いも悪いもない。 まあ、ネトウヨの下劣さはポストモダンを遙かに超えてるかな
もともと、ネトウヨもポストモダンから生まれた感じもあるが 保守は自己保存というが、保存すべき対象が共同体ならば、それは
不幸を温存するための思想でしかないな
最終的に保存すべきなのは、認識者であって、動物としての人間じゃない
それに漠然となんでも保存というのは、常識的に考えても知能が足りない なんでも保存というのは無理だから、自己保存にならざるを得ないのでしょう。
また、常識的に考えて知識は常に不足しているから、自己保存も不定形になる
のではないですか。 結局は、認識者としての自己保存だよ
その方向性はもうはっきりしてると言っても良いと思う
後は、動物としての人間性をそこから分離していく作業だね
今は大まかな方向性でも、技術の進歩につれて、その精度は上がってくるはず ネトウヨについて言えば、日本人ってここまでバカだったんだと目から鱗だったな
まあ、ネトウヨ以前も、その空っぽさをスノッブさで隠してただけなのかもしれないな
そして、スノッブさが外れたときに、その本性がむき出しになった
これも加速主義の流れに含まれるんだろうな 学問について言えば、それなりに長年、大学院に在籍して、
名前が知られている学者と接していた時期があるけれども、
最終的に、その人々が、例えば、医者が患者の病気を治す
ことにまったく無関心であり、犯罪捜査をする警察が、
犯行や犯人を特定することにまったく関心がなく、
そのような関心を追求しようとする人間を異様な異物の
如くに扱うかのように、真実を追求することにまったく
関心がないことを、これ以上ないほどはっきりと身をもって
知らされたことは、ある意味でそれまで生きてきた価値観を
ひっくり返すようなことだった。しかし、それは、私が
それまで、世の中の常識からすれば、「甘い幻想」に
浸っていただけのことに過ぎない。 だからといって、それらの人々に追従しようとは思わないんですよ。
そういう人々の表向きの発言など、どうでもよくなった。
別に追従したところで、私自身には何の利益もなく、それらの人々の
保身に寄与するだけのことだ。私はむしろ、「甘い幻想」に浸り
つづけていることが可能であるかのように、勝手に外野から発言を
させてもらうだけだ。それで身の危険がないとは言えないが、
どうせいつかは死ぬわけだし、死んでしまえば口はないから、
生きているうちに減らず口を叩いておかないと損だ。 逆に言えば、それまでは、現実の経験によっては、まったく支持されない
価値観を「ユートピア」のように自分の支えとしようとしてきたとも
言える。今の現状ではそうでなくても、別のどこかにそのような
価値観が実現される人間関係があるはずだという幻想を捨てきれずに
いたのだろう。子供っぽいと言えばそれまでだが、例えば、「医師
や看護婦が、患者の病状が改善する治療を見出すことにまったく
関心がない病院」というのを想定してみれば、私が、「その現実を
受け入れ難い」と感じて現実の方を無視しようとした感覚も理解できる
ようになるのではないだろうか。 そりゃ、人を殺す人間ですら多数いるんだから、人を助けない人間なんて
山ほどいるでしょう その制度化をノーマルなものとして受け入れられるほど、まだ世間ずれしていなかった
ということ。 職業倫理としてはどうなんですかね
良い製品を作ろうとするメーカーと比べてすら、医者の患者を助けようとする努力が
小さいなら、それは何か問題があるとは言えるでしょうね 職業倫理として、患者は病院のクライアントであるが、院生や若手の研究者
は、大学や研究機関のクライアントではない。 職業として従事してるんですよね?
通りすがりの人が誰かの命を助けない場合とは違うわけですから そして、大学や研究機関が、建前ではなく、本当のところ何を目的としている
のか明確になっているわけではないので、「真実の追求」のような建前を
信じ込んでいる院生や若手の研究者は、独房に閉じ込められるか、迷路や
袋小路から抜けられないような状況に陥りやすい。 つまり、こう考えることができますね
クズでも、人間として呼吸して生きることは許されるけれど
職業人として仕事に従事することは許されない
そして後者の方が、よりポストヒューマニズム的なんですよ まあ、加速主義は、そういう矛盾する存在をその自らの矛盾により
崩壊させていくわけですね
ネトウヨもまさに、これです
もともと日本人にはそうした矛盾する志向が内面に存在した
それを加速させたのがネトウヨで、それによって崩壊していく
まさに加速主義です 最終的には、加速主義によって、動物としての人間を選ぶ人と、
知的存在としての人間を選ぶ人に分かれるだろうね
後者を選ぶ人がポストヒューマニズムに至るということになる
現状は、大半の人がその中間にいるわけだけれど、それは非常に辛く
むしろそれこそが、不幸そのものの状態だろうと思う
両者はまったく相容れないので、知的存在としての人間の部分は、
動物としてのあり方に自身の不幸そのものを感じる
両者にとって、他方は矛盾する存在
そのために、加速主義が進むほど、その矛盾を解消するために、どちらかを選ぶことになる
そして、前者を選ぶ人は知的存在ではなくなるので、
哲学的には、後者のみになると言うことだろうと思う ポストデジタルからバイオデジタルへ流動する社会学
「バイオデジタル論 (ばいおでじたるろん 英:Biodigital Theory) とはスペキュレイティブ・リアリズムとニューロ・キャピタリズムの理論を思想的基盤に様々に細分化された非物質的本性としてのモナドの生成と相互主観性論の内在性を考察するデジタル以降の社会における概念である。」
「ポストデジタルの解釈を起点としクリティカル・ポストヒューマニズム、トランスヒューマン、非平衡科学の自己組織化 (Self-organization) にもとずくアクターネットワーク論 (ANT) の概念をも視野にいれたマルチレイヤーの理論として展開される。バイオデジタルはデジタル以降の様々な内観的 (Introspektion) な現象学の概念、バイオ・コンピュテーション、インタラクティブ・ネットワーク、生命体の形成過程における複雑系、生成の偶発性をデジタルメディアにとりいれた根源的再考に準拠している。 」
「テネシー州立大学教授のサラ・ヘイズ (Sarah Hayes) とプリマス大学トランスアート・インスティチュートのディレクターの松本良多 (Ryota Matsumoto) がアンソロポセン (Anthropocene) の階層的体系におけるデジタル以降のディスクールとしての思想としてディファインした。松本良多 (Ryota Matsumoto) はバイオテクノロジー、トランスヒューマン、分子生物学、生命体のみならず総合的なアクタントの有機合成の過程との類似性を視野に生命と流動性とその潜在的対象からバイオデジタルを生命の受動的自我のメタ科学として解釈している。」
引用元 https://ja.wikibooks.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB%E8%AB%96 ヒューマニズムって、ポストトゥルースのことだからね
つまり、ネトウヨはヒューマニズムの申し子みたいなものだよ 松本良多の思想と美術
社会学者の松本良多は、クリティカルなヒューマニリズムと同様に、分子生命学、複雑系、ナノテクノロジーにより形成されたインターラクティブな社会、具体化されたメディアと複合現実との間の触媒による作用を通してデジタル技術の人間化に取り組む芸術作品としてポストデジタルをとらえている。
https://matomame.jp/user/john/a0358a821574e3360ce9 「バイオデジタル論 (ばいおでじたるろん 英:Biodigital Theory) とはスペキュレイティブ・リアリズムとニューロ・キャピタリズムの理論を思想的基盤に様々に細分化された非物質的本性としてのモナドの生成と相互主観性論の内在性を考察するデジタル以降の社会における概念である。」
「ポストデジタルの解釈を起点としクリティカル・ポストヒューマニズム、トランスヒューマン、非平衡科学の自己組織化 (Self-organization) にもとずくアクターネットワーク論 (ANT) の概念をも視野にいれたマルチレイヤーの理論として展開される。バイオデジタルはデジタル以降の様々な内観的 (Introspektion) な現象学の概念、バイオ・コンピュテーション、インタラクティブ・ネットワーク、生命体の形成過程における複雑系、生成の偶発性をデジタルメディアにとりいれた根源的再考に準拠している。 」
「テネシー州立大学教授のサラ・ヘイズ (Sarah Hayes) とプリマス大学トランスアート・インスティチュートのディレクターの松本良多 (Ryota Matsumoto) がアンソロポセン (Anthropocene) の階層的体系におけるデジタル以降のディスクールとしての思想としてディファインした。松本良多 (Ryota Matsumoto) はバイオテクノロジー、トランスヒューマン、分子生物学、生命体のみならず総合的なアクタントの有機合成の過程との類似性を視野に生命と流動性とその潜在的対象からバイオデジタルを生命の受動的自我のメタ科学として解釈している。」
引用元 https://ja.wikibooks.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB%E8%AB%96 ポストデジタルについてなら、資本主義がヒューマニズムの欲望を
エンジンとすることを必要としているからということで、それ以上に何か言うことはある? 加速主義に反対するという人がよくいるが、それはどういうことを意味するのか
わかっているんだろうか?
加速主義に抗するには、無作為に思考し、無作為に行動するしかないわけだが
一貫性のある合理的な行動、思考こそが、まさに加速主義を加速させる
加速主義に抗することは非常に難しいよ デジタルはデジタルで、アナログとはまた違った問題が多々あるのではないだろうか
特にデジタルには継承の困難さにある。みずほ銀行の頻回するシステムトラブルもその一例だ
アプリやソフト、OSでも、開発や更新、ある時期でメンテが打ち切られて、実際は、
デジタルデータというのはそれほど復元可能でも、保守性が高い訳でもない 誰かそこらの凡夫がデジタルは永遠だとか抜かしてたよなあ 草加
古いUSBメモリ揮発してデータ壊れた経験もないくらい短命リーマンなのバレバレだったよなあ 草加 1というデジタル情報はいつでもどこでも独立して生成されてしまう
それは媒体にはかかわらない
偶然に生成される
それが消滅したとしても、またどこがで生成される
それは、同じ情報であるわけだから、たとえ消滅しても、またどこかで生成されるのであれば
それは概念的には不滅ってことです
これが、生まれ変わりの概念 結局、デジタル庁を旗印にしたデジタル国策がここ数年で國民規模で成果上げたのって、キャッシュレス化とワク人体改造だけだよね?
どっちもデメリットが目立ちすぎてすんなり賞賛できる成果ではないが。 最終的には精神のアップロードにまで繋がるのがデジタル化
さらに、思索対象としては精神の不滅性までもが含まれる なぜ偶然に生成されると不滅になるのか?
もし、何かの因果によって生成されるのであれば、その因果を断ち切れば
あるいはその因果が断ち切られれば、それは生成されないということになる
それは条件に左右される
しかし、偶然に生成されるのであれば、それはいずれ必ず生成されてしまう
それを防ぐことは不可能
原因がないわけだから、それは防ぎようがない
これが、メイヤスーの言う偶然性の必然性であり、絶対性です
したがって、偶然に生成されるものは不滅ということになります
それが生成されるのは必然ですから あくまで、デジタル側の話です
アナログ側は何も確定していませんし、同一律も成り立ちませんから
偶然も何もないですね
確定していないわけですから、偶然も生じません まあ、アナログ側については、実際その全容はわからりません
モノ自体は認識できないわけですから
ただ、デジタル側での現れは、それは偶然であり、したがって必然であると言うことになりますね このスレッドは1000を超えました。
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