哲学者は最も政治を嫌う
古代ギリシャの時代から哲学者はソフィストに勝てない 政治に近づいても良いことはない。政治は魂を蝕む青酸カリみたいな猛毒だ。 「政治が〜」「政策が〜」「国家が〜」「体制が〜」「選挙が〜」。こんなことを議論しても四六時中これらが頭にいっぱいで、結果、魂は動揺し続ける。また、政局に振り回され、常に
一喜一憂している。こんな状態は、魂の平静に、つまり幸福にほど遠い。だから皆、政治等から距離をおき、"隠れて生きよ"と主張したエピクロスの描いた手紙や残された断片を読むべ
きである。 毎日エピクロスを読む。本当に勉強になるし、ためになる。哲学と政治は離れたものだと実感する。 「隠れて生きよ」の意味とは、政治だけでなく今でいう世間のゴタゴタ・争いごとから身を引き、野心を持たないことが心の平穏であると思う
いったい、挑発的なソクラテスには心の平穏があったのだろうかね
怒りから身を守るにはセネカが、友情の大切さはキケローが教えてくれた
人との関わりに悩む時に解決してくれるのはプルタルコスである "隠れて生きよ"
これ程自分にとってためになった名言は他に無い。 それは当たり前です 政治はレベルの低い宗教だからです
責任転嫁教というものです
死ぬまえ文句いいながら生きていくというか、文句言いながら死んでいくかと思います
それがいいなら信仰してしてくださいw
でも、希望の言葉を聞きたい人もいると思うのでいいますけど、新しい時代は意識的に生きる時代です
こういうと努力という言葉を思い浮かべてしまうかもしれませんが、そうじゃないです
遊びながら楽してお金が入ってくる生活も可能です
それを努力して勝ち取るか、何かにやらせるかの選択です
「潜在意識を活用してうまくやっていく人と、もがきながら苦しんで行く人に別れていくのです」
潜在意識の活用というぐらいですから、自分の未来へ呪いの言葉を送り込んでいることを見直す必要があります
潜在意識は、その人の望みを100%フィードバックしてくれているだけです 哲学と政治は水と油だよ。なのにこの二つを混同して考える人は阿保だよ。そんな人はエピクロスを読もうよ。 シャンカラは、その解説書の中で仏教の多くの教義を批判している。しかし、彼の最も直接的な仏教批判は『ブラフマ・スートラ』2.2.32の注釈に見られる。
要するに、バイナシ派(仏教徒)の教義は、その信憑性を検討するたびに、砂上の楼閣のように崩れ落ち、それゆえ信憑性がない。釈迦は、無常、刹那、空という互いに矛盾する三つの教義を説いた。釈迦は民衆を憎んでいるか、民衆を惑わすために矛盾した教義を説いて、混乱した言葉を発しているのである。釈迦の教義は解脱を望む者にとっては尊敬に値しない[3]。 商業とも相性悪い
キリストが商人殴ったのは正しかった 哲学者が「政治が〜」「理想国家が〜」等言い出すと、とたんに胡散臭くなる。何故なら、哲学と政治は相容れないものだから。 萱野稔人さんなんかは、
津田塾のために、自分のために必死なんだな、
と思う。 個人の幸福よりも、政治というレベルの低いモノを優先したり主張したり言及したりする哲学者は駄目だよ。 実際のところは、自分も深く関与させられながら、自分は足を洗わせてもらいたいとぬけぬけと言ってみせるモンテーニュの姿勢は、私にはむしろ好ましく感じられる。 アクチュアルな行為より形而上的問題を思弁する方を好んでいることは間違いない😘 政治なんていうものについて言及する暇があるのなら、
個人の幸福や人間の内面的なものにもっと目を向けれ
ば良いのに。 魂の平静を乱す政治なんてものは、見たくもないし言及したく
もないし聞きたくもない。掌やオセロゲームのごとくコロコロ
変わる政治というド級にレベルの低い事柄に関わると、精神が
穢れる。 政治より自己の幸福や内面のほうが身近で、はるかに重要だ。
なのに多くの人は政治という遠いものについて四六時中無駄で終わりの無いおしゃべりをしている。
暇なのかな? わが敬愛するエピクロス先生のスレがあったとは。
「隠れて生きよ」は「忘れられて生きよ」と訳されることもあり、
そちらもぴったり来る。
人倫に背いて生きているのではないからあえて人目を避けることはないけど
そもそも世間様に忘れられていれば
外的な煩わしさなどほとんどなくなる。
ポルトガルの民謡にあるという
「透明人間になりたけりゃ
貧乏人になるがいい
誰もお前を顧みぬ」
という一節もエピクロスに重なることだ。 政治なんてものに関わっても時間の無駄だし、第一、自分の精神に穢れをつけたくない。
そんなことをする暇が有るのなら、自分の内面や魂に目を向けて幸福を求めていきたい。 かつて政治に関わっていた時、政治の動向で頭がいっぱいにな
り、一喜一憂して、振り回され、精神は動揺に満ち、毎日疲れ
ていた。
今ではエピクロスの著作を読み彼の哲学を知って、政治と距離
をとることによって、精神の平静を得て、自己の幸福を実感す
るようになった。
だから毎日感謝している。 哲学=無職
哲学をしている人は無職である必要があります。
仕事をしないことが哲学なのです。
仕事から逃げる事、それが哲学です。 ガンディーは週に一度を沈黙して過ごした。話すのを控えることで、心の平穏が得られると信じたのである。これは モウナ(मौन:沈黙)と シャーンティ(शांति:平穏) というヒンドゥー教の理念から来るものであった。沈黙を守る日には、筆談によって他人と意思疎通した。ガンディーは37歳からの3年半、「騒然とした世界情勢は心の平穏ではなく混乱をもたらす」として、新聞を読むことを拒んだ。 愚民はだいたいSNSで政治を語っている。
ひとっこひとり死んでいない飛行機事故のような、事件ネタも好きだ。
哲学からはもっともほど遠い、まあ俗流の生き方、それが愚民のスタイルだ。
政治と言っても、原理を問うのではなく、野次をとばしたいだけの馬鹿。
だいたいこういうやつは、事故や災害時の書き込みで頭の悪さが露呈する。 旅客機で死人いなかったからって
先走ってホルホルしちゃった人
手を上げなさい 政治家の汚職が取り沙汰されるたび、"隠れて生きよ"という
エピクロスの言葉を受け入れて本音に良かったと実感する。 政治というド級にレベルの低いものに関わる暇が有るのなら、
もっと自分の内面や魂に目を向ければ良いのにね。 政治が構造上機能しないようになったのは日本くらい。
外国では十分生活に直結してるし国民は選挙も行くし政治についても語る。
日本の政治は、特別上級国民の用足しありきで、十分全方面の根回しが済んで世論が騒がないに必要な政策を進めていくのみ。
一国の首相を選出してもこれほど意味のない国があるだろうか? 政治やそれに必ずつきまとう派閥といったものは、人を一喜一憂
させ精神を乱す。エピクロスの哲学を学び、政治や派閥といった
ものから離れ、自己充足につとめることにより、魂の平静を得た。 複雑系を実践的に制御する営みが政治である。
この複雑系を整合的に記述できる哲学も、物理学も、社会学もない。
だから政治の出番だ。
政治は、理論家からは嘲笑され、民衆からは文句を言われ、
泥にまみれた営みである。下心がある奴しかやる気になれん。 どんな理論も及ばない混沌とした世界で、それでも整合的な営みをしよう
とするのが政治だ。
ほとんど成功はおぼつかない。泥まみれ。高貴な者には挫折しかない。
海千山千のワルが、かろうじて成功する。
ちなみに、挫折した高貴な人々とは、
聖徳太子w、田沼意次w、西郷隆盛w、鳩山由紀夫w、小沢一郎w、菅直人w・・・ エピクロスを読もう
哲学と政治が離れたものだということがわかるから