Bill Bruford PART2
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チャーリー・パーシップも好きって行ってたな。確かゴミ雑誌のジャズ批評のインタビューだ。 リッチの独特の高めのチューニングを聞いてると、あのチューニングの手本はバディ・リッチなのか?と思ってしまう 浪漫の騎士76年 ワンオブアカインド79年 デイヴスチュワート経由でHells Bellsは中世序曲に影響受けたのか? あのピッポパーン、ピッポパーンってイントロ。 1983年頃、武道館近くの会場で楽器フェアなる催しがあり、行ってみたら、 ブラフォーさんがシモンズの新種(叩く面が何やら柔らかくなってケンショウエン になりにくいそーな)発表会で生演奏してくれた。当人も楽しそうだーた。 10分くらいのデモンストレーション後に会場のお客さんからのインタビューで ディシプリンの次に出たビートのスネアの音が小さいのはなんで?とかいう質問に ミックスダウンの日に寝過したらああなっちゃった(笑)とかお茶目な人だーた。 で、最後にたぶんクリムゾン・ファンの日本人の音楽家達がブラフォーさんと 即興をしたい!とか言い出して、最初は首振ってたブラフォーさんも最後に根負けして 仕方ない・・・やるよ・・・てな感じで始まった即興が超酷かった。静も動もなく ずっと動なので飽きの早いブラフォーさんはずっとリズム・キープで詰まんなかった。 日本人の音楽家達はさすがに彼の退屈さに気付き、いきなりストップをかけ、握手しあって その場から去った。 >>102 Hell's BellsはEggのLong Piece #3 Pt3(1分15秒位からのフレーズ)を モチーフとして発展させたものだろ。 ちなみにBellsのギターソロ前の低音リフはNational Healthのライブ(Gowen脱退後) でも演奏してた。 Hell's BellsのクレジットはStewart/Gowenだから、この箇所はGowen作か? Bruford後期のライブではこれを別のフレーズに置き換えていたのはそのせいかも。 それともStewart作とすれば、Gowenの作曲部分はギターソロ後、再びテーマに 戻る前のピアノとシンセのリフかな。 まあ何れにせよ印象深い名曲名演だ。 >>105 おお、参考になりました。エッグ大好きなのにうっかり忘れてた。ナショナルヘルスのライブは 曲目やアルバム(ブート)タイトル、場所・日時などわかりますか? '77 11/16でいいのかな。 >>104 それおいらも見に行った。 科学技術館でやった楽器フェアだね。 通訳のねーちゃんがダメダメでビルさんが途中でさえぎって 「今のは訳さないでも判った」とか言ってたっけ。 そのとき マックス・ローチのドラム・オルソー・ワルツをやったんだよね ビルの自伝から面白かったところを翻訳してみた 第8章「ロバート・フリップと働くのはどんな気分ですか」149P 彼(フリップ)はある時バーへ飲みに誘ってくれたことがある。文章で書くと簡単だが、これは 前代未聞の事件であり、しかもこれっきりのことだった。私達はホテルでくつろいだ夕べを過ごしたが、 この夜は我々のベーシスト、トニー・レヴィンのガレージが全焼してしまい、残念なことにたくさんの 高価な機材や私物が燃えてしまった。ロバートと7年か8年ツアーをしたが、一度も部屋に行ったことが なかったし、逆に私の部屋に来たこともない。これはお互いの空間への敬意からであって、食事のときに 別々の席につくような悪感情によるものではない。たとえそのレストランにいるのが我々二人だけだったとしてもだ。 レヴィンのオーディションはRedの最初のコーラスを彼が演奏しただけで決まったとあるね。 「ガッドとビルのスタイルの違いは?」とインタビュアに聞かれて、「片方は時間通りに来る」と答えてる。 あとはアル・ディメオラと録音した時のエピソード・原書で2ページ分も訳したんだけど、 長くなっちゃったから住人の方の意見を見て投下したいと思います。書いてもいいでしょうか? 当時はブラフォーさんの事あまり知らなかったので曲目はわかりませんでした。 でもそれから好きになって翌年のスリー・〜ツアーの五反田厚生年金会館コンサート に行きました。駅から会館へ行く途中、レヴィンさんとブラフォーさんが恋人同士の ように笑いながら自分の方へ走って来たかと思うと近くのゲームセンターへ入って行く のを見ました。1時間後にはステージで演奏するというのに・・・ 当時の彼のドラムセットはなんか現代芸術のオブジェのような、ロボットの操縦席のような 凄い雰囲気がありましたねぇ。 >>111 どうぞ書いてください。興味津津です。 >>113 レヴィンとスティーヴ・ガッドがフュージョン畑でつながりが深いから、そういう内容のインタビューを されたんだと思う。自伝ではガッドへの尊敬の念が感じられるよ。 ニール・パートの肝いりしたバディリッチトリビュートの録音で二人は会ってる。スタジオのパワーステーションに 到着すると、歯医者の待合室のようにトップドラマーたちでごった返していた、とある。 ガッドについては自分のような個性(癖)の対極に位置する存在として、「輝かしいスタジオドラマー」 と呼んでいる。分厚い経験から生み出される百科全書的なリズムの知識によって、他の面子がどんなにしょぼくても ガッドが居さえすれば音楽が光り輝く、と大絶賛だね。ただガッドのソロアルバムを買いたいと思う人はたぶんいない だろう、アルバムはエゴの産物であって(ガッドのような)スタジオミュージシャン=解釈者のものではない、 ということを言っている。 丁度自分のソロアルバムや、過去の偉大なジャズドラマーのバンドリーダーが話題になっている文脈だから、こう言ったんだろうね。 回線の調子でIDが変わってるけどディメオラ投下します。翻訳精度は80%orz ところどころ日本語になっていねえ・・・。 間違いの指摘頼みます。 '83 2月、アルバム「シナリオ」録音時のエピソード(原書第8章)154〜6P 12時の電話に十分間に合う時刻に、私は宿泊所から息を詰まらせ、ざくざく道を踏み鳴らしてスタジオまで 歩いていったところだった。雇い主が遅く始めるのが好きなのはわかっていた。トリオセッションの予定であり 相方は親友のベーシスト、トニー・レヴィン。クリムゾンのリズムセクションとしての我々の仕事を、 アル・ディ・メオラはしっかりとチェックしていたのだ。ディメオラは名高いギタリストであり、これから我々と レコードを作ろうとするところだったが、2流のリズム屋とかかずらかって時間を無駄にする人ではない。 これは自分のキャリアの中で私にある種の流行上の需要があった時期であり、アルのようなギタースターの 実入りのよい仕事を請け負うことによって、私はこの状況を出来るだけ利用しようともくろんでいた。 トニーが到着し、我々は与太を飛ばし、ドラムを組み立てて軽くながして、そして待った。さらにコーヒー、 さらに待つ。メインイベントの兆しはない。我々はさらに待つ。何時間も経過。2月の太陽が問題を感じて 見苦しいほどそそくさと地平線下に沈む。トニーはいかなる音楽家だろうとどんな人間にであろうと待たされるのが 好きではないから、この乗りかかった船が中途した場合に受け取る差額を考えている。 ようやくドアがバタンと開き、冷たい一陣の風と雪の吹き込みとともに我らがリーダーにして至上 のギタリストが見事な入場を果たす。私とエンジニアとあれこれ喋って何本も弦を張替え、アルはな にやら準備が出来たようだ。それは音楽だったかもしれないが、固唾を飲ませるものではなかった。 私はドラムの後ろにいて、トニーは石のような無表情で隅の椅子に座り、ベースはまだケースから出 ておらず、約束の時間から4時間45分が過ぎていた。アルは曲にざっと目を通しはじめる。トニー と私は聴く。私はちょっと練習し、2,3助言を述べ、1楽節繰り返すように頼む。ベース部門から は未だ一言もなし。アルはトニーに楽器をケースから出すように薦める。この曲は本当に込み入った ものになりそうだから、音符を派手に切り込ませるように、ベースをユニゾンで演奏してほしいのだろう。 エンジニアが用意でき、私も準備万端、アルもスタンバイしたがまだトニーのベースはケースから 出ていない。彼がその日チャップマンスティックを持ってきていたのは確かだ。スティックは風変わりな弦楽器で 高音域と低音域を併せ持ち、右手の指だけでかき鳴らされるのとは反対に両手でタッピングすることで演奏される。 それは恐ろしく習得するのに手のかかる代物であり、トニーはこの楽器の十指に入る第一人者だった。たとえアルが 一週間はかかると提案する曲を練習するとしても、彼がそれを覚えているとは思えないし、まして正しくやるとも思えない。 しかし我々はここタフな男の世界にいるのであり、私にはトニーがこのセッションで名士録を確立しようとしているのはわかる。 アルは当然ながらアメリカでエレキ/アコギを問わずトップギタリストの一人と認められているが、 しかし今はもう、そんなことはトニーの知ったことではなかった。私達は演奏の準備が整ったが、アルはますますトニーに主張し始めた ―もっと注意しないとうまく演奏できっこない、と。これは無視され、トニーはアルにもう一回通してやるように頼む。スティックを 取り出し、アンプにつなぎ、一音も出すことなく、楽器が動くのかさえ確かめなかった(ちゃんと動いたが)。「テープを回せ」 とだけ言う。きっかり4分の曲だというのは覚えていて、完璧なベースパートを弾く。ささいなミスもなく、しくじりもなく、減らず口もない。 それからベースの重ね録りをする。 それは音楽的な才能の驚くべき離れ業であり、スタジオの大家の別な意味を打ち立てるものだ。ドラムをいくらか加え、ギターパートを追加。 しかしトニーはまだ、すっかり終わったわけではなかった。休憩のあと、時間のかからない別の曲のための余裕があったが、エンジニアとアルは ふざけはじめ、ビールも飲んでしまっていた。曲はほとんど終わっていたが、不様な録音技師側のミスでトニーの仕事が 1,2小節消去された。 >>115 丁寧にありがとう! そういえばレビンにフュージョンを教えたのはガッドなんだっけか ポール・サイモンのバックでこの二人にティー、ゲイル加えてやってたのは素晴らしかったなあ ガッドも個性的で確かに万能系ドラマーだが、ビルはもうこれでもかってぐらいの個性だね 個人的になんだかチック・コリアとビルはガッドとは違う形でマッチするんじゃないかと思って一度見てみたい と思ってたんだけど、もう引退してしまった、残念・・・ もう遅い。トニーは既にベースをしまいドアに向かっていた。「トニー、」と恥ずかしい思いをして エンジニアが頼み込む。デジタル化時代の前で、エンジニアは危うくトニーの演奏の重要な箇所を 消去する目に合わせた。「最後にもう一回やってくれ。5分かかるだろう」トニーはドアノブに手を かけたまま立ち止まり、熟考の上、寛大になって言う。「5分ね」そしてスティックを取り出した。 トラックが回って失われた箇所が再び録音され、出来は満足できるものに思えた。トニーは楽器を まとめ(ガチャガチャ)ドアに向かう。 「しまった!」合流するかのようにエンジニアは悲鳴を上げ、「2音短いぞ!ちょっとトニー、 たった2音なんだ」このことがわかっていないとすれば、同じダイナミクスの同じ2音を見つけ (トラックのどこかにあるとして)、それらをコピーし滑り込ませるという手間になる・・・。 いずれにせよ正しい音楽にはならないだろう。だがトニーは行ってしまった。アルの予算に山ほど 時間外の仕事を残したまま。「時は金なり」なのだ。たとえ君が、あるいは特に、アルディメオラである場合には。 うーむ、非常に拙く雰囲気しか伝わらない翻訳紛いで申し訳ない・・・ 叩き台にしてください。 かつての宿敵w(個人的にリズムセクションとしては最高だと思ってるけど) クリス・スクワイアについてどう書かれてるか気になるw >>121 索引では写真を除くと8箇所クリスについて言及しているけど、レヴィンの音楽家としての業績を リスペクトしているのと対照的に、ほとんどクリスの音楽に関する話はしていないね。これはウェットンも同様。 イエスは安価なDSUA(Discover the USA)チケットというものを使ってツアーしていたが、スクワイアは 遅刻癖で10分刻みの規則になっている離陸を遅らせたそうです^^; 他には、なぜアメリカではなくイギリスでプログレが発達したのかをビルは分析していて、大きな原因に 英国国教会による音楽教育を指摘しているね。ウェットン、ピーガブ、ピーターハミル、そしてクリスらは みな教会で音楽教育を受けた、と。ラトリッジ、ウェイクマン、とハモンドオルガン奏者が多かったのも 教会で音楽の経験を積んでいたからだと記述している(スイス人モラーツも教会上がりだとビルは言っている) イエスを辞めた理由は3つあって「どれも極めて論理的な理由」であり、1:もう危機のような先の見えない録音は こりごり 2イエスでデビューしてまだ4年半ほど。もっと自分の可能性を試したい。 そして3が有名な 「もうこれ以上クリス・スクワイアを待っていることは出来なかった」。バンド仲間に対する最大の侮辱は際限なく 何度も何度も待たせることだそうです。 「イエスは愛していたが、もっと学ぶことを渇望していた」からクリムゾンに移籍したんだって。クリスのベース音とか、 ジョンとのコーラスハーモニーについてとかは全然書いていないなあ。クリスのソロについても見当たらない。 >>111 乙! 栗スレからきまつた。 フリップ、ブリュ−の嫁とは仲良さげなのにブル嫁は完全無視かぁ。 ブルとは仕事以外つきあいたくねぇって気分見え見えの対応ですなw ガンやマステロットに関するエピソードはなんか書いてある? ガンは写真1・記述3、マステロットは写真1・記述2と極端に少ないです。 マステロットの体験談で「昔はドラムをテキサス州オースティンからウッドストック、NYまで飛行機で 運ぶのに6000ドルととんでもない金がかかった、今はよい楽器レンタルがどこにでもあるから そんな輸送コストは省ける」というのが唯一の記述だね。あとはダブルトリオのなかでメンバーとして 名前が挙がっているだけ。 ガンもダブルトリオで名前が挙がっているだけで、あとはレヴィンのBLUEとプロジェクト2が日本のプロモーターに 招聘されたときに「P2のメンバーは旧KC仲間のガンとブリューで」と触れているだけ。ダブルトリオに関しては 「フリップは『自分の仕事は宙にボールを投げるようなものだ、あるボールはメンバーにキャッチされ、あるボールは 手から滑ったり、地に落ちたりする』と言っていたが、ダブルトリオはそういったボールの一つだった」と。 さらにあれはオーネットのアルバム「フリージャズ」に触発されたアイディアで、KCの6人編成もエキサイティングな ものだったとある。(BLUEに関してはレヴィンやクリス・ボッティ、さらにはエディ・ゴメスやラルフ・タウナー関係で 長めに記述あり) あとはツアー中バスの後部座席でドラマー同士何時間も過ごしたとかくらいかな。ダブルトリオやKCで索引を調べればまだあるかも。 ダブルトリオは分厚い音を持ちヘッドフォンで聴くのにふさわしい優れた音楽であると褒めてるね。 KCはライブバンド、だからアルバムREDもいいが、アブセントラヴァーズがライブバンドとしての卓越性を証明している、我々は いいバンドだった、と。 ガンのウォーギターの音楽性だとか、マステロットののっぺりしたパワードラミングとかスネアチューニング、Mrミスターに在籍したこととか については全く言及していません。皮肉のひとつもないね。ただ、スラックアタックなども含めてダブルトリオには好印象みたい。 ラークスタングス〜の延長線上にある音楽と言っているね。 不仲のせいなのか音楽について語らない人らには徹底的に口数が少ないねえ。例えばウィントン・マルサリス批判や、 上のレスでもあったようにチック関連のエディ・ゴメス〜オレゴン〜IF summer had...関係はまとまった文章があるんだけども。 ウィントンはやっぱり嫌いみたいです。(批判の中身も要望があれば少しづつ書いてきます。スレ内をワード検索して 引っかかるようになればいいんだが) 後は日本についてや渡辺香津美関係も面白いのがあります。「アンダスタンディング・ザ・ジャパニーズ」という日本語案内の本を 携帯して来日してます。 トニーレヴィンに関してはボジオがボジオ・レヴィン・スティーヴンズで彼を描写したように、クラシックでストラヴィンスキーと 競演し、バディリッチやゲイリーバートンからジョンレノンまでのキャリアがあって・・・と非常に事細かに記述があるのに、 書かない人はないですね。ビルはレヴィンをグッドフレンド、グッドフレンドと呼んでます。 個人的にはスクワイアとのコンビは最高、ウェットンとは最高の上の最高コンビだと思っているので、ベーシスト・ウェットンに関して 記述がないのが残念ですね。ウェットン自体125P(前半)が最後の索引登場になります。フリップが詐欺師箱で「英国最高のベース奏者」 と絶賛していたように、何か書いてくれたらよかったのに。「巨岩を転がすようなヤツのファズトーンはエレベのミンガスだった、 今はピッグでも昔はゴッドだった」とか書いてくれればよかったのに、書いてないんだよね・・・。dの喉の良さは書いてます。 >>121 おお、とても詳しく書いて下さってありがとうございます。 しかし音楽ではなく遅刻癖を描かれるクリスwww そういやビルが引退した途端に体調崩してたなw 俺も買った!ビルブルぼん 辞書を引くのは高校のとき以来だ 完読するのに何年かかるかなw Spice of life聴いてるけどエレドラがサウンドに溶け込んでて違和感ないね。 香津美もこの頃が一番いいと思うし。 MOBOIIIでポンタと組んだ後に選んだのがビルブラというのも意味深。 ディシプリン時代のクリムゾンに傾倒してたからなあ。 渡辺君はトニーレビンとやりたかったが、 ビルのスイセンでジェフバーリンになった。 結局、同い年で気が合ったし、相性もよかった。 >>107 遅レスになるが、'77 11/16でOK。 Bryden 2-Stepで聴けます。 >>131 ズバリ、「ベースのアラホ」 77年、アラン・ホールズワースがビルのバンドに入るのは決まっていたが、アランに見合うベーシストはイギリスでは 見つからなかった。アランに釣り合うには相応の傑物でないと駄目なわけだが、イエスメンのモラーツがソロアルバム 経由でビルにジェフ・バーリンについて教えてくれ、さらにロング・アイランドにあるバーリン家のアドレスも教えてくれたのが 知り合うきっかけ。 バーリン家はユダヤ系の大家族だったとある。バーリン家の食事で世界一大きな(とビルに思われた) 皿盛りのパスタが出されたそうだから、ジェフの肥満はその辺に原因がありそうw バンド・ブルッフォードのベーシストはアランに匹敵する能力、つまりジャズマンのハーモニー知識とロック野郎の持つ 音速のパンチ力を併せ持たなければならなかったが、ジェフはまさにうってつけだった、普通ならギタリストやキーボード奏者が 担当するコードもジェフは一人でまかなえ、バンドは彼なしではどこへも行けず、ジェフの行かんとするところに動いた、とあるね。 バンドへのジェフ・バーリンの寄与は絶大だったそうです。 バーリンはクリームのジャック・ブルースとゲイリー・バートンを分け隔てなく愛し、ベースはトロンボーンのエチュードを使って 学んだそうです。バーリンがヴァイオリンもやってたのは有名だけど、もう少し生まれた世代が早ければヴァイオリン弾きに、 遅ければエレキギタリストになっていただろうが、いずれにせよ名手になっただろうと手放しの絶賛です。 77年の写真ではアネット・ピーコック、D・スチュワート、アラン、ビル、ジェフが写っており、ジェフはトランペットと 「なんたらジャズ」(判読できない・・)と書いてあるシャツを着てます。 111さん、とても興味深いです。ビルのCDは最近の奴まで持ってるけど、 やはり、そこからでは思いもよらない事を考えてるもんですね。 でも、こういう形で自伝も出したってことは、もう戻ってこない つもりなんでしょうかね。 ジャズ系だと、メンバーと常に音出してないと厳しい気が… ザッパがザ・ベストバンドでロックをやめちゃったのは、体調の問題とともにバンド内の人間関係に心底 うんざりしちゃったのが大きかったはず。 同様に、ビルもツアーや人間関係に愛想を尽かしているみたいだね。ホテルの個室ってのはミュージシャンにとって 聖域であって誰にも邪魔されたくない、ホテルに望むのはただただ分厚い音を通さない壁だと自伝で言ってます。 ブラジルに演奏旅行にいったら隣が健康な若いカップルで夜の秘め事を聞かされたり、朝の三時に風呂を沸かす 隣人がいたりと嫌な思い出がたっぷりあるみたい。 しかしこうして見るとレヴィン/バーリン共にゲイリー・バートンの影響は絶大ですな。さすが白人ジャズロックの 始祖的存在。レヴィンの初来日がバートンのライブ公演(ライブイン東京の当時から優秀なエレベ弾いてます)だよね。 アトランティック時代くらいまでのバートンは面白かった。 あぁ なるほど オナニーを語るのが好きな変態パットン先生も自室に押しかけてくるバンギャが理解不能っていってたっけ Feels Good To Me(アルバム)のミックスやり直してくれないかなー 楽曲と演奏自体はすばらしいのにボーカルとバックのバランスが アレだったり金物が変にでかい曲があったり… 俺はホールズワースの「クリアなディストーションサウンド」と言われるとFGTMアルバムをイメージする。歪すぎという 意見もわかるが、あれくらいでもいいんじゃないかと。 ところでアルバム版のサンプル&ホールド中間部のハイハットが再現されているライブテイクってないのかな? ブラッフォードテープやたいていのライブだとデイヴのシンセ音でごまかされてるから。 ゲイリーバートンからは、ラリーコリエルやメセニーが出て来たんですよね? ウィントンマルサリスの批判ってのが気になります。 当時ジャズ界では脚光を浴びてたわりには、彼を嫌いなファンは少なくなかった 私は音楽性が好きじゃなかったが、彼の音楽に対する姿勢?か人間性?かを批判する人もいるみたいですね >>138 Yes.キースやグラッペリとの共演も有名ですが、グラッペリの伝記DVDを見るとバートンと名曲「ブルーイングリーン」を 録音後渡米してジャズフェスに出演したグラッペリに、エレキファンク邁進中のマイルスが接触してねぎらいの言葉を かけていたりと面白いです('72年あたりのこと)。 ウィントン批判は第7章「インタビューするのは好きですか?」にあります。この章は主に音楽とマスコミの関係、音楽の商品化について 記述していて、20世紀に入り音楽が大衆化するにつれて音楽評論家は芸術家側に立つのをやめ、交通整理の警官のように、 音楽の良し悪しを大衆やプロデューサー(商売人)に指図するようになった。 20年代のイギリスにジャズ評論家は存在せず、クラシックの批評家がジャズを批評するゆえに 白人ジャズが洗練されているという点で黒いジャズに勝るとされたが、程なく29年〜30年ごろには、 黒いジャズが「洗練の欠如」という点で 白いジャズに優越するという真逆の基準を提唱する評論家が現れた。 いつもありがとうございます。 センセはABWHについて何か言ってますか? で、ウィントン登場。133P。 「(評論家によって音楽の良し悪しがころころ変わったように)そんな風に言説は発展し、変わっていった。 後年ウィントン・マルサリスのような高僧たちはさらに音楽の是非や価値観を変え、要塞の防壁の中に持ち込んで密封保存し、 厳密な統制下に若者たちへ教えるようになったが、それは脱脂綿にくるまれて一切の変化から保護され、またウィントンの 思うがままに弄ばれたり切り捨てられたりした。」と批判的な筆致です。音楽教育者としてのウィントンのアコースティック原理主義的な ジャズ史観への反発が感じられると思います。 このあとは、音楽家が直面する音楽の商品化の問題や、テレビによる宣伝の問題などに話題は移行。 もちろんビルはブルーベック以外の黒くエネルギッシュなジャズも大好き。さらにアースワークスをある種のフュージョンに例えたことから 推測するに、ウィントンによるジャズの保守化・優等生化、古典化を首肯しないのは当然でしょうね。 >>139 ウィントンの場合は、白人音楽に対する黒人音楽の優位性を過剰に認めてる…という事でしょうか? 私には逆に彼のヒットした作品はジャズの黒人的な部分では無く 白人的な統制されたスタイルのジャズを演ってた…にもかかわらずって事が 私にはちょっとね… 彼は黒人でもかなり恵まれた地位になってると思う 普通の黒人ジャズメンでは、ああ成らないですからね ちなみにジャズ批評に掲載されたウィントンの同僚日本人(確か中村健吾)によると、ウィントンの子分の ジェフ・テイン・ワッツの手本はマハヴィシュヌやWR、ベックのナラダ。ウィントンがワッツを起用したのは フュージョンドラマーのテクニックとパワーが必要だったからだそうで、アコースティック原理主義のくせに、 こういう自分にとって都合の悪い事実を隠すのはジャズの歴史歪曲に思えますね。フュージョンがかつて 大流行し、その中には50年代のジャズにも負けない大傑作が確かに存在するわけで(ごみも一杯ありますが)。 詐欺師箱のフリップ翁によれば、ナラダ・マイケル・ウォルデンはビルのドラムが大好き。 ナラダのルーツたるコブハムやトニーのライフタイムを否定しては、自分らのグループの音楽性も 巡りめぐって否定されるのに、フュージョンやロックに一方的な評価を下すところがウィントンの 胡散臭いところです。(勿論これは21世紀の現在の視点からの意見であり、ウィントン登場時の ジャズの情勢とは切断されていますが・・・) まあウィントンは超名演奏と同時に超絶駄作や悶絶愚作を残す、音楽家としてのつまらなさに根本的な問題があると思います >>142 や、書き込みのタイミングが少々かぶっちゃいましたね。どうもビル・ブルッフォードは ウィントンのジャズ認識における恣意的な面に納得できないようです。この点までは、 自伝の文章からほぼ間違いなく推測できます。おそらく、かなり高い蓋然性でウィントンの 音楽も愛好してはいないはずです(別の箇所ですが、ハービー・ハンコックの「クロッシング」に 一時期夢中だったともありますし)。ジンジャー・ベイカーを手本とし、YESその他でロックンロールな ドラムを披露していたビルでもあります。クリームやZEPも引用してますしね。 ウィントンが「白人音楽に対する黒人音楽の優位性を過剰に認めてる」という点に関しては、ビルは 上のスクワイア関連のところにもあるように、プログレというジャンルを非常にクレバーかつ客観的に 認識・分析しています。白人中産階級のインテリが中心となり、LPの存在および機材の発達を前提とした音楽、と。 クラプトンではありませんが、黒人音楽への愛着と同時に裏返しとしてのコンプレックスは並々ならぬものが あるはずで、憶測ですがウィントンのクラシックコンプレックスへの同属嫌悪的な感情があるのかもしれませんね。 俺らは黒い音楽をやりたいのに、なぜ黒人のお前が白い音楽なんかやろうとするんだ、という・・・。 余談ですがコンラッド・シルバート・ライブの、ウィントンとジャコ・パストリアスの涙が出るほど 悲惨な共演を聞くと、あのせいでウィントンがフュージョンやエレベ嫌いになったんじゃないかと勘繰っちゃいます。 (精神病院から出たばかりでリズムキープすら出来ず、ノイズを垂れ流すだけのジャコ・・・) なるほど ウィントンがフュージョンのミュージシャンと演ってたとは知りませんでした とにかく私は、ウィントンの【ジャズ】には、嘘臭い物を感じてましたから 同じ黒人でありながら自分がクラシックなどにも認められるハイクラスな【ジャズ】を演奏してて お前らのジャズとは違う…的な物を感じてたのにもかかわらず、黒人音楽としてのジャズの博物館か何か作る時に、虐げられて来た黒人の文化としてのジャズを声高に唱えてアカデミックな所にしゃしゃり出て来たり、絡んでるのが権力意識が強い様な感じがします その点イギリス人ってそんな印象が少ないってのは私の贔屓目ですかね? ブラッフォードは特にそんな感じがします ブラフォード・レビン・アッパー・エクス〜のスタジオ作1曲目のドラム。 凄いてか、怖いてか、変態てか、なんだかんだでアレ聞いて 初めて尊敬しますた。 BLUEはヤバすぎる…… 今は変態変拍子いっぱいあるけどやっぱりブルフォ先生が一番だね >>140 ABWHに関してはいろいろ書いてますね。 まず、フィラデルフィアというのは昔から出版・ラジオの展開も含めてプログレの人気が非常に高い 土地であり、UK,KC、アースワークスと様々なバンドのツアーがフィラデルフィアで開始/終結 したり特別な催し物があったりしたが、ビルの今まで耳にした最も大きな音は、89年彼の地の スペクトラム・アイスホッケー・アリーナで開催されたABWHを歓迎する2万人の聴衆の大歓声 だったこと。「同志」を演奏し終わった後の割れんばかりの歓声にはビル先生も純粋に感動したそうです。 AWBHのそもそものきっかけは、プログレ冬の時代の88年にジョン・アンダーソンが自分のソロ アルバムへの参加を電話で要請したこと。ヒースロー空港に待ち合わせてジョンと会ったとき、 その場にはウェイクマン、ハウ、それにYESマネージャーのブライアン・レーンがジョンと共にいて ビルは何か大きな出来事の始まりを悟ったそうです。 録音はレコーディング場所だったカリブ海モントセラト島の気候もあいまって愉快なものだったようで、 アースワークスを休止してツアーに出たとあります。 他には、イギリス・タブロイド紙のザ・サン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3 が、89年1/16付けの 記事でAWBHについて嘘八百の過大報道をしたこと(メンバーはツアー用の泡風呂完備のボーイング 747に、3万ポンドを使ってロジャーディーンにサイケ・アートを描かせ、、、といった虚偽情報) トニーレヴィンの病欠もちゃんと書いてます。テキサス州ヒューストンのABWH公演でレヴィンの 肝炎が発症し、ドラムライザー(ドラムセットが乗ってる高台)のそばのバケツにおびただしく嘔吐 していたこと。 ツアー中メンバーにインフルエンザが流行るのはよくあることだが、89年11月、1万2千人の客 を前にしたAWBHローマ公演のわずか終演15分後に、ジョンの声が流感で出なくなって焦ったこと なおビルは古巣のイエスをマザーシップ・イエスと呼び、そこからの脱退を「へその緒を切る」と表現しています >>145 ビルに関しては、やはりイギリス/欧州のクラシックの伝統の分厚さというものが関係しているのかも しれませんね。手元にある08年7月ドラムマガジンによれば、ビルはキャリア初期にロイヤル・ フィルハーモニック・オーケストラの打楽器奏者ルー・ポコックから基礎を学んでいます。 バルトークの2台のピアノと打楽器のためのソナタを愛好していたり、プロジェクト1でスネアヘッドの 代わりにシンバルを挟んだりたりする発想からもクラシックに対する自然な距離の近さを感じます (いわゆる黒い湿ったスネア音からは発想しにくい)。 ウィントンの権力意識に関しては黒人の中のエリート出身というか、インテリであるのも関係しているかも。 ザッパやジョン・ゾーンが好例ですが、アメリカのインテリ音楽家のヨーロッパやアカデミズムや クラシック音楽へのコンプレックスはものすごいものがありますからねぇ。 ちなみにビルの認めるアメリカの若き才能として、一回だけ自伝でジョン・ゾーンの名前が挙がります。 他に米国の俊英としてデヴィッド・トーン、マシュー・シップ、ティム・バーンの名前を出しています。 うーん、SPYvsSPYやネイキッドシティ、エレキマサダについての意見を聞いてみたいですねえ。 この面子だと、間違いなくジョーイ・バロンのドラムを耳にしているということですし。 ニッティング・ファクトリーでアースワークスライブを行った際にビルとゾーンはニアミスしているはず です(確か晩年のサンラもいたような?記憶なんでこれは曖昧)。接触や会話があったのかはわかりませんけど・・・ ウィントン子飼いのピアニスト、マーカス・ロバーツは盲目なんですが、彼は白人だという理由で ビル・エヴァンスを嫌っています(音だけの世界に生きているはずなのに!)。ソースはインタビュー 記事なんですが、あれを読んだ瞬間ああウィントンの音楽がつまらないはずだと妙に納得した覚えが あります。その点ユダヤ人でTZADIK/ゾーン門下のジェイミー・サフトはキーボーディストなのに、 ディランや、スレイヤーの「エンジェル・オブ・デス」をカヴァーしていて流石です(アルバム名も ずばりBlack Shabbis)。 なお、自伝の同箇所でビルの認めるイギリスのとんがった才能にはデレク・ベイリー、キース・ティペット Trevor Watts(sx),Paul Rutherford(tb),アメリカの即興表現者の古いところではオーネット、 セシル・テイラー、アーチー・シェップを挙げています。 質問なんですが、 ワンオブアカインド フィールズグッドトゥミー を買いました。 イマイチ良さがわからないんですがどの辺が聞き所なんですか??ドラムですか?まだ3回くらいしか聴いてないんですが‥ ドラムかベース、またはそのコンビネーション。 そしてキーボードの和音とフレーズ。 さらにギター弾けるならギターをそれぞれ聞いてみればいい。 それで「すげー!」と思わなかったら、 あきらめてバイバイ! >>152 お手持ちのアルバムはビルが作曲家として脂が乗り始めた頃です。まずは曲の良さと、 スコーンと素晴らしい音色で鳴るドラムに注意して聴いてみましょう。 フィールズ〜なら1,6,8,10曲目が私は好みです。また、5曲目サンプル&ホールドを、 1分50秒目あたりまで早送りしてみてください。ドラムのおいしいフレーズが聞けるはずです。 ワンオブ〜は名曲と凡曲の差が激しいので、趣向をかえて6曲目(B面)のFIVE Gという曲をかけてみましょう。 ジェフ・バーリンのベースがベケベケとファンキーでかっこいいはずです。 ジャズロックの範疇で、ビル先生の作品は文句なしにトップクラスにランクインします。せっかく買ったのですから、 3回といわず、30回は聴いてみましょう。別にながら聞きでも心地よく、正座して聴いても感動するというメセニーみたいな 面もあります。あ、もし気に入ったら残り2枚のソロ(グラデュアリー〜とブラッフォードテープス)も是非。 前者グラデュアリー・ゴーイング・トルネードは3曲目から聞くのがコツ。 >>153 >>154 ありがとございます 今からもうちょい聞き込んでみます!! クリムゾンとかイエス、UK以外に叩いてるバンドで良いものありますか?あったら教えて下さい。 まずはジェネシスのスリー・サイズ・ライブ。最後の一曲「IT」で叩いていますがウルトラかっこいいです。 イエスのChris Squireソロ「Fish Out Of Water」。パトリック・モラーツも参加しています。 そのパトリック・モラーツとのデュオ「Music For Piano And Drums」 トニー・レビンとの双頭バンドB.L.U.E.。 ナショナル・ヘルス「Missing Pieces」。雫のような美しいエレピとビルのチャイナシンバルが絶妙。 そして 絶 対 に 外せないのはUKのブートレッグです。公式盤のライブインボストンは駄目。 ちょっと音は悪いですが'78 10/8 Reaching for Light のThe only thing she needsは神演奏。 http://www.dimeadozen.org/index.php で"bruford"と検索して漁ってみてください。 他に参考までに。ttp://www21.ocn.ne.jp/~crimson/bruford.htm やっと手にとって眺めてみた。ペラペラ・・・ 「いま?いつ?すぐ?ハァハァ」 「まだまだ」 性急なビルブルにワロタ >>151 ブラッフォードがアメリカのフリージャズミュージシャンを好きだとは思わなかった 最初(イエス加入前か、イエス時代)からだったのかな? それともクリムゾンに入ってからなのか? クリムゾン加入も、キースティペット等が入った作品があったからなのかなぁ… だからミューアについていけたのか! マイケルジャイルズについてなんか書かれてる? 多少は意識してた時期もあったんだろうか まぁyoutubeでエピタフ発売パーティーの二人の初対面シーン見る限り 二人とも会話の糸口に苦労して居心地悪そうにはしてるけどね つかブル先生のまゆげ年々濃くなってきてね?w 調べてみるとマイケル・ジャイルズに関する索引はありませんでした。意外ですね。 ジャイルズに関しては「ビルと同じくらい優秀なドラマーだ」とのたまうフリップの方が 再発や発掘ライブの作業から日常的に耳にして屈託がないのかも。 確かYESの面子はライブが終わると部屋で音楽を聴いていて、マハヴィシュヌやクリムゾンを 愛聴していたんですよね?燃える朝焼けが21馬鹿に似すぎだと仲間内で批判されたとか。 アースワークスだとぶぎょぎょぎょ!みたいなフリーに突入する局面もあり、もともと潜在的に フリーへの関心はあったのかもしれませんね、ミューアと会う前から。ダブルトリオのところで、 アルバム「フリージャズ」について、オーネット組以外にスコット・ラファロ、ドルフィー、ハバードと ちゃんとパーソネルを細かく挙げているんですが、エディ・ゴメス〜ラファロ〜ビル・エヴァンスあたりは 大古典としてまめにチェックしていたのではないかと推測。ラファロ追っかけてるとサードストリームやフリーから ウェストコーストジャズまで聴くことになりますし。 自分はロッカーとしてはジャズ側に寄りすぎで、ジャズ屋としてはロックすぎる、同様にオレゴンのラルフ・タウナーは クラシック奏者としてはジャズ側に寄りすぎで、ジャズマンとしてはクラシック寄りすぎるとコメントしてます。 >>159 トーンとはレヴィンとECM,Cloud About Mercury以来の付き合いなのに、このアルバムについては書いていませんね。 ライブではジャパンのミック・カーンがベースで「ダリズ・カー」なんかも演奏しているのに・・・。 ちなみにラルフ・タウナーがらみでECMの名前だけは出てきます。あのリバーブがかかった録音なんかに ついてももっと論評してくれたら面白かったんですが、そこまではありません。 一方でBLUEのクリス・ボッティに関しては好意的なコメントをしていて、ボッティは50年代のウェスト コーストジャズのスター・チェットベイカーをお手本にとったスムースジャズの優男のように思われているが、 BLUEでの演奏は違った、やつの鋭いトランペットはトーンのステレオギターループを切り裂く『太陽と戦慄』だった、 とのコメント。BLUEは非常に楽しんで演奏できたバンドのようです。 まったく個人的な話ですが、ソニー・クラーク・メモリアルカルテットのボビー・プリヴィットや、 ムーンチャイルドもののジョーイ・バロンがスネアチューニングを甲高くして「ッコーン!」と言わせると 「お!ブラッフォー度(スネア甲高さ指数)高っ!」と思っちゃいます。大音量化したロック音楽を通過すると 自分の音を通すためにチューニングが高めになるんでしょうけど(吉田達也も同じことを発言していました)。 高ブラッフォー度な人たち:スチュワート・コープランド、スティーヴ・ジョーダンwithサンボーン、コブハム、 ロック時のジョーイ・バロン、吉田達也 KING CRIMSON Mr.BIG VAN HALEN STEVE VAI The White Stripes THE WHO 以上を知らないような、自称外国帰りの洋楽至上野郎が暴れています。w 邦楽を聴く人って耳がアホなの? http://takeshima.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1241801250/ 本人やここの皆さんのBLUEの評価の高さに正直ビックリ。 買って三度ほど聞いたが以後封印、CDラックの奥に眠る。 BLUEはCobalt Canyon,Cracking the midnight glass(実質レッド・ツェッペリンのカシミール)、 Cerulian seaの3曲しか聞かない。どうでもよい捨て曲は飛ばしてます。さらにこの3つもイントロなどの 余計な装飾を編集でカット。でも、この3つがすごくいい。 BLUEの評価すべき点として、ドラムとベースの音像が鮮明なことと、ZEPのカバーが聞けることが大きい。 ほかにはトーンの変態ギターが好きという人もいるはず。慶応義塾の巽孝之さんも褒めてたね。 ブラさん関係のCDで封印してるのは正直、KCのスラックアタックだけだな 自分のビルブラベストCDR80分をさらしてみる。注記がないのはスタジオ版で、各曲うんと編集してあります。 1:Beelzebub 2:Sample&Hold 3:Asbury park improvのスネアロールをバルトークのように延々繋げる 4:Hells Bells 5:Five G(Bruford tapes) 6:Cobalt Canyon 7:Cracking the midnight glass 8:Cerulian sea 9:4i1 10:Sunshine of your love(Bill made tornado) 11:If you can't stand the heat... 12The Abandon Chasp 13:Plans for JD 14:Joe Frazier 15:Thud(Earthworks Underground Orchestra) 16:Time to Kill(UK) 17:Lucky Seven(Fish out of the water) 18:Fracture後半 19,20:詐欺師箱のインプロ〜太陽と戦慄pt1ライブ版の中ほどを編集 21:Cinema Show(Seconds out) 22:It/Watcher of the skies ウィントンに対してはマイルスもザヴィヌルも批判的だったな。 マイルスの場合は自伝で「奴は他人に対する敬意がない」と言ってた気がするけどw ブラさんのいうことはわかるよ。あいつジャズを単なる古典芸能にしちゃってるし。 ビルのアコースティックジャズも素晴らしい。 あれだけの情熱を持って作られたCDなんて 当時、アメリカでもそんなにあったかどうか…。 ビル先生はタバコを吸うんだろうか?自伝の索引にはCigaretteやsmoke(ing)の項はないんだが、私が本文を読み飛ばしてるかも。 マイケル・ジャイルズはKCCCでかっこいいくわえタバコの写真が印象に残っているんだけど・・・。 ジャズといえば紫煙がつきもの。しかし実は、ウィントンとジョン・ゾーンは両者ともタバコを吸わない(ユリイカ特集の巻上公一によれば ゾーンは酒もやらない。)。さらに両方ともレコードおたくで、過去の膨大な音楽的遺産を収斂させた上で クラシックの技術をもって「スピード感」を武器にしたという点で、ジャズ原理主義者ウィントンと、ハードコアジャズメタラーのゾーンは よーく似ている。ビル先生は酒もタバコもやらなそうなイメージがあるけど・・・。 ジャケ写真や自伝本文で喫煙に関する情報があったらフォローをお願いします。 ジョン・ゾーンてウェイントンのことは技術的には褒めてたんだよな。 どこでの発言かは失念してしまったんだが。 >>172 イエスのサードアルバムにビル先生が煙草吸ってる写真があるよ 少なくてもその頃は吸ってたんじゃ >>174 おー、やはりありましたか。ありがとうございます。どこかで見たと思ってたんですが、サードアルバムでしたか。 ジャズマンはやっぱりタバコですよね。 公式サイトでサイン入りDVD買ったんだが、「ちょっと切らしててご免。サイン貰ったら、送るから。」って紙っぺら1枚と、カバーなしのDVDが届いたんだが、先生引退で、サインもなし?有耶無耶にされんのこれ? なまじ送る気があるから、その状態なんでしょう。 でも、向こうの人の時間感覚はスゴイからね。 まめにメールしないとだめだと思う。 ビル本イエスの人たちの音楽のことは全然書いてないって本当? ブログだとハウの息子についてとか書いてるのにね。 確かにクリスについてはもっと書いて欲しかったなw 昔、リックがキーボードマガジンか何かのインタビューで 「イエスに加入したら、いきなりクリスとビルが殴り合い始めてビビった」 とか逸話が多いんだがw デイブ・スチュアートのことは何か書いてました? 仲良かったって話ですが。 >>180 書いてますよ〜。ちょっと仕事が忙しいので、翻訳レスもうちょっと待ってくださいね。 まず、第五章「なぜ自分のグループを結成したかったのですか」で、戦慄クリムゾン解散後のセッション&ツアー活動中に、 低迷していたビルに希望と指示を与えてくれた大切な2人のうちの一人としてデイブ・スチュアートの名が出ます。 (もう一人はフィル・コリンズ) デイブはエッグやハットフィールド&ザノースなどプログレの渦中で長年働いていた人で、ハットフィールドはロンドン北部の 青い道路標識から命名されたこと。(↓これですな) ttp://en.wikipedia.org/wiki/File:Route_A1.jpg その後結成したナショナルヘルスに、いつ加入しいつ脱退したのかは全然覚えていないが、NHはクラシックでもジャズでもなく 理知的な音楽を演奏するロックグループだった。 次にUK〜ブラッフォードの話になります。アランに続いての紹介になりますが、アランに関してはおそらく自伝中最も音楽について 賞賛している人物になると思うので、また要望に合わせて書き込んでゆきます。(当世最高のインプロヴァイザー・アランにエディ・ ジョブソン[notウェットン]が同じソロを弾けと要求した、など)。 デイブはアラホ、バーリンとは毛色が違って、学究的で注意深くユーモアのセンスに溢れ、 アランのシングルノートの勇壮華麗さにとって完璧な対応物だった。 音のテクスチュアを深く掘り下げていたデイブは、シンセ時代前はエレピ、ハモンドオルガン、クラヴィネットを リング・モジュレイターに通して歪ませていたが、デイブの頭の中にある音を再現するには70年代終わり、 ポリフォニック・シンセのProphet 5の登場を待たねばならなかった。しかし新しいシンセサイザーにデイブはすぐに慣れ、 ビル先生も小型で輸送にお金のかからないシンセをハモンドより好んだそうです。 リハーサルではビルとデイブの二人がかりでやたら重たいハモンドをリハーサルルームに運び、デイブは運転をしないため ビル先生が古いBMWで家に送り迎えしていたそうです。この車はビルがミュージシャンになった最初の支払いで買ったもので、 助手席の日よけにアップル社のステッカーが張ってあり、ビートルズのジョージ・ハリソンが本当に前の持ち主だった(!)そうです。 ただ、よくオーバーヒートしたようで、立ち往生してエンジンを冷やさなければいけなかったそうな。 BMWより重要なのはデイブがビルの作曲パートナーだったこと。バディリッチ、ジーン・クルーパ、 ブレイキー、エルヴィンと偉大なドラマーは必ずしも自作曲にこだわる必要がなかったが、自分(ビル)は オリジナル曲でアルバムを作る必要を感じていた。 不安もあったが、自分のやってみたい挑戦として、ドラムで演奏するには似つかわしくないような自作曲を 書いてリズムを指示するという試みがあった。自分はこういった個性を生かす方面に向いており、他者の作風に カメレオンのように合わせるのは向いていない、と自分の音楽性を的確に分析しています。 ここで、自分と対極的な「何でも叩ける」才能として、上記のスティーヴ・ガッドの話につながるわけです。 自分の作曲能力は、ドラマーなので当然リズムには強く、メロディはまあ及第点、和声法は助けが必要だった。 デイブ・スチュワート先生はビル坊やの間違いに朱を入れ、リズムの骨組みに肉付けし、ごつごつしたところを 流麗に手直して、非・音楽的なものを音楽にしてくれた、と書いているので、ビルの尊敬の念が感じられます。 20年後にアースワークスのピアニスト、スティーヴ・ハミルトンが同じことをしてくれた、という一文で五章は幕を下ろします。 あとは76年のデイブとのナショナルヘルスツアーから78年のUKツアーまでライブは行っておらず、 その理由はビルの奥さんのキャロラインさんが第一子のアレックス君の出産を控えていたことと、ビル自身も 初のソロアルバムフィールズ・グッド・トゥ・ミーの準備をしていたから、という箇所でデイブの名前が出てきます。 う〜む、興味深いですね〜。 ガッドを意識したのは、意外なようでわかる気がする。 二人ともいくらでも叩けるのに余計な音は決して出さない、 楽曲を生かすため全体を考える、というストイックさが 共通するんで、気になったんじゃないですかね。 最強ドラマーのスレでビルブラは一口食べてそれとわかる頑固なせんべい職人、という意見が出て言いえて妙だと思ったが、 やや不器用というかゴングでもなんでもスココンドラムのビルはちゃんと自分の音楽性がわかってるんだよね。オレは融通がきかない、と。 逆にガッドはラテンもフュージョンもR&Bも4ビートもロックも歌伴もいけるわけでさ。ま、そのどれもがガッド印が刻印されているが。 ちょっとサンバやワン・トリック・ポニーを叩くブラフォードは想像できんw ある意味ブラッフォード自身がワン・トリック・ポニー、一芸しかできない子馬、なのかも それでも最高の子馬だね >>182 フィル・コリンズについてはどういう記述なんですか? ジェネシスのツアーサポートの時期だと思うのですが 一芸しか、というよりドシャメシャに叩くこともできるけど それはやらない、と自分に課してるような気もするんですよ。 ジャズ、ロック系のドラマーでいきなり能の鼓が打てそうなのは この人とあと数人ではないかとw >>181 ありがとうございます!! やはりビルにとって相当な重要人物なんですね。 >>191 ターン、ターン 自分の頭にあったのはカンタベリー系 チャールズヘイワードやワイアットなどです。 でも、ビルほどはまりそうな人はいない... 第二章「なぜイエスを離れたのですか?」 「名声なんてちっとも面白そうに見えなかったし、今でもそうだ。冷蔵庫の中身を補充したかっただけなのに (有名になれば顔が売れて)スーパーマーケットから追い出されるはめになる。ドラマー/歌手のフィル・コリンズは ジェネシスが大物バンドになる間際までは実におもしろいやつだった。 数百万枚のCDを売ったやつに追いついてみれば、 あいつの目から輝きは消えてしまっていた。過去に彼が経験した何回か続く 離婚の1回目(注:1980年)やら、税金問題の ために故郷を離れたことやら、アフリカの小国の国民総生産にほぼ匹敵する収入を 持つに伴う複雑な負担やらがあれば、 それ(目が死んだこと)はおそらく予期されうることだったろう。いやしかし、名声は自分に まるで関わりのないものに思える。」 (第五章、Dスチュワートに続き) 命綱のもう一方の端にいた人物はフィル・コリンズだった。世界的成功を収めはじめていた、「あの」フィル・コリンズだ。 私たちが初めて会ったのは戦慄KC解散の数年前のことだ。 当時彼が在籍していたバンド、フレイミング・ユースの仕事がない夜に、彼がデボン州バーンスタプルの公会堂まで、イエスにいた 私のドラムセットを組み立てに来ていたのだ。大変優秀なドラム・テクニシャン(ドラムのケアの専門家)だったので、この歌う代物が 不調のときは仕事に事欠かなかったというわけ。 私たちは連絡を取り続け、1975年後半あたりでは、フィルはジェネシスに平行してフュージョンバンドのブランドXで 忙しく働いていた。それは楽しみと日々の仕事の息抜きとしての煌びやかな演奏のようにしか思えなかった。私は彼のドラムに対する パーカッションとして参加し、ロンドン周辺で何日か演奏してまわった。 ビルとフィルはお互いのドラミングの崇拝者同士だったとあります。 次に、ジェネシスからピーガブが脱退して代わりのヴォーカルのオーディションを何十人もするものの、フィル・コリンズ以上に適切な歌手が 見つからず、サポートメンバーとしてビルが加わった顛末が書かれます。ドラマーが歌手になるなんて悪夢のシナリオであり机上の空論に思われたが、 フィルはうまくやってのけた。ビルへの給料は週給500ポンドと前例のない待遇だった。しかし・・・。 「ジェネシスでの自分は、全体的に言って無能な雇われ仕事人といったところだった。イエスやクリムゾンでは音楽の製作に通して 参加し議論することに慣れていたので、ジェネシスではとにかく手持ち無沙汰で不満だった。好きでも嫌いでもないお仕着せの曲を 覚えねばならず、どうにも馴染めないおかしな気分だった(ジェネシスの音楽は自分にはなんの関係もないとわかっていた)。 生活のため以外の動機が見出せず、気が乗らない、かつがれたような気分がして、ひどい振る舞いをするようになっていった。 自分は無駄に茶々をいれ、我を通してばかりで口を慎むことを忘れていた。それでもジェネシスは絶えず自分と妻のキャロラインに対して 丁寧で誠実な態度を貫いたが、そのことでかえってきまりがわるくなった。進んでクビになろうとしていたに違いない。が、ぎりぎりのところで ツアーは終わった。自分にとって一文の得にもならない、また確かにそれにも値しない、自分の参加していないゴールドアルバムの宣伝と共に (注:おそらく「トリック・オブ・ザ・テイル」)。ロンドンに戻るころには自分の人生を始めたくてたまらなかった。もう、研究は十分だ。 フィルと私は付き合いが続いたが、私の代わりは見つかったようだ。人当たりも立ち居振る舞いも はるかに良いアメリカ人ドラマー、チェスタートンプソンだ。その数年後、マイク・ラザフォードと トニー・バンクスはそろって所帯を持ち、ロンドンから、田舎の風景が広がる南のサセックスとサリーに 引越しをした。芸術家としてではないとしても、我々は家族ぐるみの付き合いをはじめ、キャロラインと私は 乳飲み子二人を抱えて同じ地域に新居を探した。 結局1980年にブルッフォード家がユーハースト(Ewhurst)に落ち着いたとき、フィルの家はほんの数マイル先の ご近所さんになり、その年の秋には子育ての苦労を逃れるために時々フィル家の近くにある飲み屋でビールを飲むように なったそうです。 「そんな風に飲んだくれたある晩、飲み屋からフィルのソロアルバムを聞きにフィル家に行ったことがある。 自分がソロアルバムの製作を知っていたかどうかは自信がない。子供が生まれ、トライデントスタジオで2枚のレコード ――最初のソロアルバムのフィールズ・グッド・トゥ・ミーと、より洗練され売れ線狙いの新グループ、UKの1stだ―― を作るのにヘトヘトだったからだ(注:アルバム製作のためビルはずっとスタジオで寝起きしていた)。 「フィルは座って、発売される前のソロアルバム、「夜の囁き(Face Value)」をかけてくれた。おそらく タイトルはまだそのときは未定だっただろう。ジャズロックっぽい歌入りのブランドXか、芝刈り機と庭の門がついた 古式ゆかしき英国風ジェネシスのような音楽を予想していたが、出てきた音楽は自分のどの見当とも違って、驚くべきことに 劇的かつ感傷的なソウル・ミュージックだった。気ぜわしい展開はプログレにつき物の問題だったが、その音楽は悠然と しており、黒いソウルミュージック以外ではめったに聞けないような情熱と緊張感に満ち満ちていたのだった。 あらゆる意味で「ドラマーのアルバム」ではなかったが、最高のブルーアイド・ソウルであり、国境を越え人種を越え ありとあらゆる国の人々にクロスオーバーして感動させる音楽だった。漠然と、これはとてつもないヒットになるだろうとは 思ったが、実際どれほどとてつもないヒットになるかは、フィル自身も私も気がついていなかった」 あとは後年、フィルの娘のジョリーちゃんがオムレツを作ってくれたりしたことがあるそうです。他には、 自分の知り合いで一番「売れた」のはフィル・コリンズだが、その両肩にのしかかる莫大な財産の処理問題は 大変なものであろう、といっています。ビートルズのタックスマンを地で行ってますね。 むーん、、 ビルの本て、今後ブリティッシュ・ロックやプログレを語る場合 必ず読んでおかなければいけない本になるでしょうね。 人間関係や移籍の事情、当時の気分まで手に取るように 分かるではないですか。 ビルてどんどん違うことやってった人だから、未だに70年代ヒットをやり続けてるイエスが嫌いなんだな・・・・ モラーツブラッフードの1STを買いました。あまりの繊細さとビルの軽いスタスタドラムに痺れました。素晴らしい‥ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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