イコンの例はともかく
たとえばiqが120くらいで、テストは全部100点だけど、iq200なんて到底いかないような、限りなくフツーの新一年生がいたとする。

それでも、学校では教えられることでも納得できないことがでてくるかもしれない。
例えば、今時なら、"1たす2は3"が正解で、"2たす1は3"が間違いになるんだけど、なぜなのかわからん、という疑問を持つかもしれないよね。
そうして、先生とか周りの人が迷いなくそれを正解としてるのをみて、どうしようかって悩むんじゃ無いかと思うんだ。
授業の間、先生や友達に"俺はそう思わない"って言い張ったらどうなるのか?って考えるかもしれない。頑張っていってみても納得できないかもしれない。
そうして、最終的に彼がそれを言い張れないとしたら、なんでだと思う?。

…彼が、その疑問を飲み込むかわりに、周りの人は頭が悪くて理解が浅いのだ、と思う場合もあれば、自分がそんな疑問を持つ能力自体が無意味だと感じるかもしれない。

だけど、せっかくの疑問があるのにそんな風に考えて自分の思考とと社会の関係を断念しまうことは、社会にとっても本人にあんまり生産的じゃ無いんではないか。

だから、も少し社会や人との信頼関係を損ねない、生産的な落とし所を教育の中で作ることはできないのか。

ギフテッド教育問題というのは、天才を社会にどう生かすかという問題というよりも、そういう、単純な問題だと思う。