>>95
こんばんは。「昔の自分を見ているみたい」と言った方の者ですが、好調そうにしていらして嬉しいですw

ですね、いわゆる嫌われる勇気流の、「レベル1)相手を切り離すための課題分離」を突き抜けていくと、
「〜さんてもっとツンツンしててプライド高そうな感じだと思ってたのに意外」と言われたりするでしょうね。
我々という文脈を切らずに続ける、つまり共同体感覚をグリップすることで、
それまでのスキルは変質して、「レベル2)互いに自立したまま握手できる課題分離」になりますから。

言い換えるとこれは「レベル1)あなたの問題はあなたが処理せねばならない」と、
「レベル2)我々の問題をそれぞれ分担してあたっていこう」との相違なんだと思います。
我々という文脈を挟むことで、明らかに上記二つ、言われた相手の抱くであろう心持ちが違うわけですね。

嫌われる勇気が有名になったのは、課題の分離というスキルを皆に教えたことが大きいですよね。
つまり相手の仕事を相手のものだと見定めて、そうして役割を決めたら機械的に相手を切り離す、その経験。
こういう心理的操縦って元来、罪悪感があったはずです。たぶん。冷たく見えるしよくないんじゃないか?ってw
それを心理学権威的に正しいと認められて行使できるのが皆、気持ちよかったんじゃないですかね。堂々と冷たくなれてしまった。

とはいえ「レベル1)あなたの問題はあなたが処理せねばならない」は、練習として私は必須だと思ってます。
「レベル2)我々の問題をそれぞれ分担してあたっていこう」は、まず役割の線引きができなくちゃ成り立ちませんから。
自分の心を観察していても、分担という内心作業の中で、レベル1の見定め、役割の区切りといった心理操縦が基幹となっているのを感じます。
以前、理論がもっと深く使えるようになりますよ、って感じで書いた気がしますけどそういう意味なんです。アドラーは心理的操縦をひとつひとつ組み合わせていくんです。

>>95さんは貪欲だし飲み込みが早い。アドラーは体験学ですから、そのまま、ばんばん自分を観察しながら動きの中で確かめていってください。