3月28日、月曜日
学校から帰った僕は、家で探し物をした。それは父からもらった1枚の、カラー刷りのカタログで、ずっと
僕の宝物だった。それはプリンス自動車のカタログで、小型トラックである、クリッパーか何かの
例の楕円形の穴が品よく全面のエンジン部にあいた、プリンス独特の上品なデザインの1枚で
これは転校の多かった僕が、行橋市、八幡市、佐賀市、そしてこの大牟田市と持ってきたはずのもので
、ここ大牟田ではどうしても見つからない。困った。大変な事になった。僕は焦った。焦って諏訪町のこの家で、梱包荷物を全部開いて
懸命になって探すがどうしても探し出すことが出来ない。

昭和32年、最初の行橋市の時代にプリンス自動車のセールスマンが、父が支店長を務めるリッカ―ミシン行橋支店を訪れては
懸命に小型トラックを売り込んでいた。その人は父と同じ年頃らしく、戦後のプリンスは戦前の中島飛行機
である件を、訴え、父もまた「そうですか、私も高射砲部隊にいて、重機関銃も撃ちましたが、これを製造したのが
今のジューキですよ。ジューキミシンと名前を残して生きているのですよ」などと、数回にわたり技術談義に話進んだに
違いない。それ以来「プリンスは戦前に中島飛行機といって、隼などの戦闘機をつくり、中島はリズムミシン
それからプリンス自動車へと変わったが元をただせば飛行機だ、飛行機を作っていたんだ」と機嫌よく、僕に説明して
くれるように明るく変わったんだ。当時の父が、明るい顔で話したのはこの件と「健司、いまアマチュア無線というのがあって、これは良いぞ。
家の中から遠く海外まで電波が飛ぶんだ」の、2つだったんだ。

それで、僕は懸命に、その大事な「プリンスのカタログ」を捜すがどうしても見つからない・・・・