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三島由紀夫@伝統芸能板
0001岡本町
2006/01/29(日) 01:20:39


歌舞伎にも新派にも関わっている

なにしろ六世中村歌右衛門と関わっている

まったり語りましょう


0577重要無名文化財
2011/09/11(日) 20:13:10.21
未来を信じないということはだね、つまり自分が終りだということだろう。自分が終りだということは、あとに
続くものを信ずるということなんだ。あとに続くものを信ずるということと、未来を信ずるということは、完全に
反対の思想なんだ。
未来を信ずるという思想は、自分をプロセスと規定するものだよ。高見順がああいう気の毒な一生を送ったのは、
そういうことなんだよ。
ただしね、自分が終りだということは、谷崎潤一郎もそうだったろうな。川端さんもそうなのかもしれない。
人のことをいっちゃ卑怯なら、おれもそうだ。(笑)あとに続くものを信ずるということは、絶対に未来に対して
自分をプロセスと規定しないことだよ。


滑稽だということは、客観的に滑稽ということなんだ。(中略)客観的に滑稽であってもいいと思うんだ。
しかし主観的に滑稽だと思ったら、人間負けだよ、そういうことだけは絶対やっちゃいかんと思う。

三島由紀夫
いいだももとの対談「政治行為の象徴性について」より
0578重要無名文化財
2011/09/12(月) 11:18:57.66
三島:ときどきつまらない映画で発見することがありますね。この間、なんだったかちょっと忘れたが、男が
入ってきて、女がとても驚いて水差しを落すところがある。水差しが床に落ちて割れる。それを見てなるほどなあと
思って、しばらくあと考えたのだけれども、ちょっと落すのがおそいのだよ。それで、あっ嘘だと思うのですよ。
現実には人間の心理は、驚いてから水差しを落すまでに間がある。だけど映画はその瞬間見ていると明かに嘘に
なるのです。そうすると、芝居なんかのアクチュアリティというのは、やはり現実のままじゃいけないと思う。
なんかこれならアクチュアリティがあるというタイミングがあると思う。そのタイミングを演出家はしょっちゅう
考えなければならない。そのタイミングは現実とはちょっと違って、お客の心理の中にある。お客の持っている
生活体験から生れた最大公約数の真理がある。芝居はそういうものを狙わなければならない。つまりそれが芝居の
リアリティと、考えちゃったのです。

三島由紀夫
荻昌弘との対談「映画・芸術の周辺」より
0579重要無名文化財
2011/09/12(月) 11:19:58.56
荻:(中略)現実通りにやると間がのびちゃう。あれは不思議なものだね。時間で計るわけにいかないことだからね。
三島:ただ見ているお客の目から見ると、女がびっくりして水差しを落す所を現実の生活でしょっちゅう
見ているわけじゃない。しかしわれわれの生活にはそういうときには、このタイミングで水差しを落さなければ
おかしいと考える法則ができている。そういう法則がなければ安心して生きていられない。その法則をみんな
持っている。ぼくもミーハーも同じだ。それが外れると嘘なんだと思う。
荻:ヒッチコックがリアクション・ショットをやるでしょう。ふっと驚くところを出して、次に、驚いた原因を
見せる。ただその原因を知っているだけじゃ、このおもしろさをだれでも出せるわけじゃないな。そのときの
タイミングというか、映画独特の時間を勘で持っているかどうか。格闘シーンなんか全然現実時間じゃないな。
三島:現実の格闘はもっと間の抜けたものだろう。

三島由紀夫
荻昌弘との対談「映画・芸術の周辺」より
0580重要無名文化財
2011/09/12(月) 11:20:31.98
荻:結局そういうところは歌舞伎……新国劇の殺陣なんかも、舞台の時間というものを創作した人は偉かったですね。
三島:歌舞伎の場合はもっとスロー・モーションで引き伸ばしてあって、別のおもしろみを出している。
現実生活ではお客は見ていないで、なんか考えるところはおもしろいと思う。観客心理としておもしろいと思う。
だから小説と体験の問題でも、小説家の体験、読者の体験ということがどっかでマッチするところがある。
たとえば人殺しをやった体験は、読者にもない、作者にもない、しかもどっかで折り合いのつくものがなんか
あるのです、法則がね。
荻:三島さんが書いていらっしゃいましたね。舞台では一目惚れとか偶然ということは、簡単に観客のほうに
許されるところがあると。映画では、同じくドラマでも問題になる。たとえば日本のすれ違い映画が観客を
笑わせるのは、やはりおかしいからなんだ。ところが芝居だと、「ロミオとジュリエット」の一目惚れは実に
簡単に受け入れられるのだな。

三島由紀夫
荻昌弘との対談「映画・芸術の周辺」より
0581重要無名文化財
2011/09/12(月) 11:21:29.49
三島:その点では映画は小説に近い。映画はドラマより小説に近いと思う。やはり時間の経過は映画の場合は
厳密じゃない。たとえば、急に十年飛ぶ。芝居は非常に構成が必然的だから偶然が許容される、ということが
考えられる。たとえば荻さんの話をして、荻さんどうしたろうと言っているところへ荻さんが入ってきても、
芝居だとおかしくない。映画じゃおかしいよ。ぼくは古典劇の技巧が好きなんだ。たとえば「あそこにネロが
やって来た、こうしちゃいられない、向うへ行きましょう」、ああいう技巧は好きなんだ。(中略)
しかし、映画はどうして演劇的であるということをいやがるのだろう。大概芝居くさいのは受けが悪い。
荻:それは見るほうも作るほうも、内心で解放感を求めているからでしょう。
三島:そうですね。
お客が一つの枠の中で享受する芸術の楽しみ方はもう失われちゃったからね。したがって、映画は枠が小さい
という観念――最近は大きくなったけれども――枠が小さいから、それで解放感を求めるということがあると思う。
人物全体を見られないからね。

三島由紀夫
荻昌弘との対談「映画・芸術の周辺」より
0582重要無名文化財
2011/09/12(月) 11:21:59.60
三島:ぼくは映画が生れたのは小説の罪だと思う。(中略)小説の謳歌した罪を映画はもっと拡大して謳歌している。
五十歩百歩だ。小説家が映画の悪口を言うのは、眼クソ鼻クソを笑うと同じものだ。
小説の欠点をみんな持っているもの。たとえば一人の人生が一時間で語れるという、そういう確信を持っている。
戯曲はそんな確信を持っていなかった。ある人間の三時間とか一日とかしか語れない。小説、映画はそういうことが
できることになった。
小説の双子だな、芝居の双子というよりは……。
荻:まま子だな。だから、小説の崩れもずいぶん流れ込んだんじゃないか。
三島:オペラを喜んでいたお客は、現実生活とは違うものというので、それを喜んでいた。だけど小説が始まって
砕いちゃった。書いてあることは本当のことだという迷信を抱かしちゃった。だから映画が出てくるのは当たり前だ。
荻:映画は実写的だからなおその確信が映画の支えになったのだし、それはまだ続いている。

三島由紀夫
荻昌弘との対談「映画・芸術の周辺」より
0583重要無名文化財
2011/09/12(月) 20:46:11.96
三島:しかし小説と映画はあまりにも近すぎて、かえって関係がない。近いものではないけれど、ぼくは芝居の
興味で見る。やはり映画は野外劇の発展したものじゃないですか。ページェントですね。だからイタリアの廃墟を
うまく使って「ロミオとジュリエット」を作ったり、そういうものはたしかに生きてくるのだ。つまり野外劇では、
舞台装置の全部が人工のものでなしに、現実におかれた外部のものがすっと入ってくる。廃墟とか水とか芝生とか、
そういう芝居と関係のないものが入ってくる。それで芝居が展開していくおもしろさ、そういうものは昔から
発見されていた。それが映画に発展して行ったと思うのです。
荻:映画論でそのことを指摘しているのは、日本では寺田寅彦さんですね。ドキュメンタリーのおもしろさは
全くそれなんですね。
三島:ものが入ってきたのだ、芸術の世界に。
劇では生のものは絶対出さないわけですよ。(中略)人間だけ生であとは生でないというのが芝居のミソだ。
映画では人間プラスいろいろなものが入ってくる。
荻:それが機械でとらえられるから、なお複数になっちゃうのですよ。

三島由紀夫
荻昌弘との対談「映画・芸術の周辺」より
0584重要無名文化財
2011/09/12(月) 20:46:45.92
荻:三島さんは映画芸術を信じられる?
三島:ものによっては信じるな。
荻:条件づきですか。
三島:小説だって芸術だかどうだか怪しいものだ。いまや芸術というものはあまりはやらないからな。
荻:そうなんだ。
三島:小説も芸術じゃない、あいまいなものだと思います。非常に限定がない。限定がないものは芸術じゃない。
芝居とか詩とか、そういうのは限定があるから芸術だね。限定がないと、ぐずぐずになっちゃう。
荻:じゃ映画が条件づきで芸術というのはどういうところ?
三島:そうですね、出来と仕上げです。それから統一性ということだな。最初のすべり出しからラストまで
統一的理念が支配しているということ、そういう映画は芸術だと思うのだ。腰砕けになったものは芸術じゃないと思う。
それは三流西部劇だって統一的だよ、だけど……。
荻:そのほかに何かある?
三島:ほかにも何かあるでしょう。あいまいなものだ。小説だってこれは芸術か芸術でないかというのは見当つかない。
谷崎さんの「鍵」だってわからない。映画は小説と同じに芸術の概念があいまいなときに生れたのじゃないか。

三島由紀夫
荻昌弘との対談「映画・芸術の周辺」より
0585重要無名文化財
2011/09/12(月) 20:47:15.65
荻:ぼくは実をいうと芸術でなくともよいと思うのだが。
三島:そう思う。どうでもいい。
荻:つまらないものでも部分的に芸術的なところがある。
三島:それはあります。(中略)ぼくもなんか映画というものを根本的に信用していないことはたしかなんだ。
荻:どういう点ですか。
三島:多勢で作るから信用できない。
荻:それはいつも問題になる。批評家が戸惑うのもそこなんだ。(中略)ほかの芸術みたいに一個人を探し
求めようとすると、それは不可能です。(中略)
三島:芝居も多勢で作るものだが、台本は神聖だし……。
たとえば録音技師が音を入れる場合に、重役が口を出して、ここは人間が歩いているから足音がないとおかしい、
はい、入れますと、それを入れる。人間が歩くと足音がする。汽車が走るとシュシュポッポ。そこで崩れちゃう。
足音を入れちゃいかんという監督が何人いるかね。
荻:単に個人の権力として言える言えないでなく、入れちゃいかんという自信がなくなっちゃうわけです。皆で作る、
ということが根本なんだから。

三島由紀夫
荻昌弘との対談「映画・芸術の周辺」より
0586重要無名文化財
2011/09/12(月) 20:47:42.76
三島:チャップリンでは「殺人狂時代」が好きだ。「ライムライト」は大嫌い。
荻:三島さんはやはり濡れたのが嫌いなんだ。
三島:大嫌い。
荻:「しのび泣き」(ジャン・ドラノワ)なんてのは濡れたところと乾いたところの境目みたいなものだけれども。
三島:ああいうものは許容できる。ガイガー検査器をあてると、許容量のリミットだね。
荻:映画というものがすぐセンチメンタルに湿ってくるということ、これも考えなければならない問題でね。
三島:「二十四の瞳」は困った映画ですね。木下恵介さんのああいう傾向は買えないな。
荻:あの人は一歩退いて自分をいじめることができる作家だ。乾かすこともできる。湿らすことも……。
三島:だけど日本人の平均的感受性に訴えて、その上で高いテーマを盛ろうというのは、芸術ではなくて政治だよ。
荻:しかし映画はそのポリシーが……。
三島:あるのだね。(中略)国民の平均的感受性に訴えるという、そういうものは信じない。進歩派が
「二十四の瞳」を買うのはただ政治ですよ。

三島由紀夫
荻昌弘との対談「映画・芸術の周辺」より
0587重要無名文化財
2011/09/14(水) 10:09:43.77
三島:ぼくはほうぼうで引用するが、アーサー・シモンズの言葉、「芸術でいちばんやさしいことは、涙を
流させることと、わいせつ感を起させることだ」というのがあるが、これは千古の名言だと思う。
荻:逆に言えば、映画は末梢を刺激するようにできている。
三島:セックスの点がそうね。あんなセンジュアルなものはない。映画の根本的なものかもしれない。オッパイが
出てくれば、三メートルぐらいに拡がっちゃう。そういうことと涙と関係があるからね。
荻:映画ってものは観客をどうしても同化作用に引き込ませる。映画ですぐ作品のテーマということが問題に
なるのもそこね。たとえば頽廃的なもの、悪影響を及ぼすもの……。
三島:映画でいちばん信用できないのはそれなんです。人間的な限界をのり越すということなんだよ。彫刻は、
大きな彫刻はあるにしても、人間の限界にとどまっているからね。無害なんだ、芸術として。小説も人間の限界に
とどまっている。

三島由紀夫
荻昌弘との対談「映画・芸術の周辺」より
0588重要無名文化財
2011/09/14(水) 10:10:10.06
三島:映画は人間の限界を飛び越すからね。オッパイは三メートル、十メートルになっちゃう。それは人間の
仕事でなく、拡大する機械の仕事なんだ。そういうものによって訴えるということは、人間的な限界を踏み越した
ものだと思うね。
荻:それはおもしろいな。みんなこの問題はマス・コミュニケーションの問題としてしか考えていない。
たくさんの人々に見られるから危険だというふうにしか考えない。
三島:ぼくは非人間的なものが危険だという考えだ。
荻:その点をまた映画は大変な武器にして来たわけでね。
三島:オッパイが十メートルになるということは、現実の世界にはない。シネマスコープは十メートルになる。
そんな昂奮はないかもしれない。そういう点でラクロの「危険か関係」のように、「観念がいちばんわいせつだ」
という信念で作られたエロ小説から考えると、十メートルのオッパイは観念なんだ。観念が拡大されて人間以上の
ものになっている。

三島由紀夫
荻昌弘との対談「映画・芸術の周辺」より
0589重要無名文化財
2011/09/14(水) 10:10:40.74
三島:ラクロがどんなに努力しても、人間の想像力のエロチシズムから出ない。映画は想像力を越して、ただちに
官能に命令する。そこが危険なんだ。そういうものを狙ったものが。ぼくも木石でないから感ずる。それは
芸術でないと感ずる。そういう武器はすごいよ、映画は。観念が拡大されて人間を追い越すという点では
恐るべき武器だ。どこまでも行っちゃう。古代ローマのコロシアムのショーね、あれなんか登場人物がほんとうに
死ななければ満足できなかったのだ。今やプロ・レスリングがそうだし、ボクシングがそうだ。
荻:抽象的なルールのないスポーツみたいなものなのね。
三島:ギリシャ劇がいつかローマの円形劇場のショーへ堕落して行ったのと小説が映画になったということは、
符節を合している。そこまで言うと身も蓋もなくなる。映画にもいい所があるけれども……。
(中略)
荻:一部の映画作家がむしろアンバランスなものを作ろうというところに、いわゆる映画芸術の悲劇があるのかも
しれない。

三島由紀夫
荻昌弘との対談「映画・芸術の周辺」より
0590重要無名文化財
2011/09/21(水) 12:04:10.71
大体どんな芸術でも発展期は非常に発達して一応完成してしまうと発達しませんよ。映画は立体映画とか聴覚、
色彩がある。さらに匂い、それこそわきがの匂いが映画でかげるようになったって、一方に映画の本質的な
運命があるので、その運命的性格は抜け切れない。小説も小説の運命的な性格は抜け切れない。

三島由紀夫
吉村公三郎・渋谷実・瓜生忠夫との座談会「映画の限界 文学の限界」より
0591重要無名文化財
2011/09/21(水) 12:04:48.10
渋谷:イタリア映画はどうですか。
三島:嫌いなんですよ。なぜかというと見え透いていてね。あんなに見え透いたもの芸術じゃないと思うね。
そうしてね、ひとつひとつ言えば、あの「自転車泥棒」なんか、父子の義理人情からすぐさま共産主義へ持ってゆく、
理論的な飛躍の癪に障ること。それから「無法者の掟」の結末の浪花節的なこと。実につまらぬものだと思う。
「パイサ」を見たときは非常に面白かった。
(中略)
フランスの映画は、露骨な理論的飛躍がない。そこで止めておくから、見る人が理論的に追求して自分のほうへ
持ってゆくでしょう。「自転車泥棒」には理論的な押しつけがましさがセンチメンタルの後ろにあるので、
一面から質的相違に見えるけれど、センチメントはセンチメント。シモンズが文学論で言ってるけれど、芸術が
われわれに訴える涙ぐましさは猥褻さの効果とあまり変らない。そういう意味での涙脆さにすぎぬ。社会問題なんかは、
もっと理論的にイデオロギッシュに考えるべきだ。

三島由紀夫
吉村公三郎・渋谷実・瓜生忠夫との座談会「映画の限界 文学の限界」より
0592重要無名文化財
2011/09/21(水) 12:17:22.69
松田:話は変りますけど「きけわだつみの声」。あんなぎりぎりのものはどう思います。
三島:戦争があんなに悲惨なら平和だって悲惨ですよ。

三島由紀夫
林芙美子・河盛好蔵・松田ふみとの座談会「『女相続人』を見て」より
0593重要無名文化財
2011/09/26(月) 10:45:53.00
小森:若いシネ・クラブの会員のかたなどに対しては、どうお考えになりますか。
三島:なにか間違ってるんじゃないですか。映画を研究している若い人の話なんか聞くと、なんでこんなに
シチ面倒くさいことを、と思いますね。まず楽しむことですよ。映画で哲学を考えるんなら、哲学の本でも
読めばいいのに、本を読みもしないで映画で考えるなんていうのはナマケモノじゃないですか。
映画は芸術的雰囲気に酔ってくれたらいいんです。文学でも同じことで、あまりいろいろなものを求めすぎて……
文学も芸術ですから、やはり酔ってくれなければ困るんですね。それで酔わないものだから、みんなLSDなんか
のんで酔わなくちゃならない。(笑)

三島由紀夫
小森和子との対談「十二才のとき映画に開眼したんです」より
0594重要無名文化財
2011/09/26(月) 11:10:03.32
淀川:おいくつです?
三島:トニー・カーティス、ファーリー・グレンジャーと同い年……と言ったら、みんな笑う。一九二五年生れです。
どうして可笑しいのか……。
淀川:なんとなく可笑しい。なんとなく面白い。最近はまた大変ですね。歌舞伎の新作一本、新劇一つ、(中略)
それから読売の連載……。
三島:(中略)それに明日に控えた文春の“文士劇”があるんですよ。
淀川:それは大変、何をおやりになるの。
三島:「屋上の狂人」の弟役、僕の役……十八歳なんですよ、ハハッ十八歳なんですよ!
淀川:貴方なら充分、とってもお若い……その文士劇は他にどんなのがあります。
三島:「め組の喧嘩」と「車引」……こういうのに引っ張り出されると、本当に役者が自分の舞台で観客に
印象づけようと厚かましくもなる……そんな気持ち、(中略)当人になると無理もないと、つくづく解ってくる。
淀川:「車引」の桜丸なんか演って貰いたかった!
三島:いや、僕は時平公が演りたかった!
淀川:これは、まあ派手に厚かましい!

三島由紀夫
淀川長治のインタビュー「三島由紀夫氏訪問」より
0595花王・サントリー・ロッテ不買運動
2011/09/27(火) 22:15:03.30
209 :本当にあった怖い名無し:2011/09/10(土) 16:17:29.19 ID:MRv/iClV0
悪い奴らは夜に集う。ホステスさんが九ノ一ばりの情報提供!

ニコ動画まとめ(1)http://www.nicovideo.jp/watch/sm15566124
ニコ動画まとめ(2)http://www.nicovideo.jp/watch/sm15566584


「冤罪であってもパソコン没収・罰金30万・言論と表現の自由なし」
史上最悪の悪法「人権侵害救済法案」1:50あたりから
http://www.youtube.com/watch?v=Fhq_P11wxIY&feature=related

日本人のお金で生活保護貰う在日
(創価学会・日教組・電通・パチンコ等)
を追い出さないとヤバイです
0596重要無名文化財
2011/09/30(金) 10:02:48.56
小説を書くというのは、ことばの世界で自分の信ずる「あすのない世界」を書くことですね。そして、あすの
ない世界というのは、この現実にはありえない。戦争中はありえたかもしれないけれども、今はありえない。
今、われわれは、来週の水曜日に帝国ホテルで会いましょうという約束をするでしょう。戦争中は、来週の
水曜日に帝国ホテルで会いましょうといったって、会えるか会えないか、空襲でもあればそれまでなんで、
その日になってみなきゃ、わからない。それが、つまりぼくの文学の原質なのですけれども、今は、来週の水曜日、
帝国ホテルで会えること、ほぼ確実ですよね。そして文学は、ぼくのなかでは依然として、来週の水曜日、
帝国ホテルで会えるかどうかわからないという一点に、基準がある。それがぼくの、小説を書く根本原理です。
ぼくは文学では、そういう世界を、どうでも保っていくつもりです。それはぼくの悲劇理念なのです。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
0597重要無名文化財
2011/09/30(金) 10:03:11.56
悲劇というのは、必然性と不可避性をもって破滅へ進んでゆく以外、何もない。人間が自分の負ったもの、
自分に負わされたもの、そういうもの全部しょって、不可避性と必然性に向かって進んでゆく。ところが現実生活は、
必然性と不可避性をほとんど避けた形で進行している。偶然性と可避性といいますか、そうして今の柔構造の
社会では、とくにそういうような、ハプニングと、それから、可避性といいますか、こうしなくてもいいんだ
ということ、そういうことで全部、実生活が規制されてしまう。
そうするとわれわれも、ある程度、その法則に則って生活しなくては生きられないわけですから。それで来週の
水曜日、帝国ホテルで会うということについても、ある程度、迂回作戦をとりながら、その現実に到達するために
努力する。ところが、芸術では、そんなことする必要はまったくないのですから、来週の水曜日、会えないところへ
しぼればいいわけですよね。ぼくにとっては、そういう世界が絶対、必要なのです。それがなければぼくは、
生きられない。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
0598重要無名文化財
2011/09/30(金) 10:03:37.80
(中略)
ぼくの小説があまりに演劇的だ、と批評する人もありますけれども、必然性の意図と不可避性の意図が、ギリギリに
しぼられていなければ、文学世界というもの、ぼくは築く気がしない。それはぼくの構想力の問題であり、
文体の問題でもあるんですが、あるいは、法律を勉強したのが多少、役にたっているかもしれません。犯罪が
起これば、これは刑事事件ですから、そこで刑事訴訟のプロセスが進行するわけでしょ。これは完全に、必然性と
不可避性の意図のなかに人間をとじこめてしまいますからね。そういうものがぼくにとっては、ロマンティックな
構想の原動力になるので、私の場合「小説」というものはみんな、演劇的なのです。わき目もふらず破滅に
向かって突進するんですよね。そういう人間だけが美しくて、わき目をするやつはみんな、愚物か、醜悪なんです。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
0599重要無名文化財
2011/09/30(金) 10:04:03.81
ヴァレリーもいってるように、作家というのは、作品の原因でなくて、作品の結果ですからね。自己に不可避性を
課したり、必然性を課したりするのは、なかば、作品の結果です。ですけれども、そういう結果は、ぼくはむしろ、
自分の“運命”として甘受したほうがいいと思います。それを避けたりなんかするよりも、むしろ、自分の
望んだことなんですから……。生活が芸術の原理によって規制されれば、芸術家として、こんな本望はない。
ぼくの生き方がいかに無為にみえようと、ばかばかしくみえようと、気違いじみてみえようと、それはけっきょく、
自分の作品が累積されたことからくる必然的な結果でしょう。ところがそれは、太宰治のような意味とは、
違うわけです。ぼくは芸術と生活の法則を、完全に分けて、出発したんだ。しかし、その芸術の結果が、生活に
ある必然を命ずれば、それは実は芸術の結果ではなくて、運命なのだ。というふうに考える。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
0600重要無名文化財
2011/09/30(金) 10:04:27.89
それはあたかも、戦争中、ぼくが運命というものを切実に感じたのと同じように、感ずる。つまり、運命を
清算するといいましょうか。そういうふうにしなければ、生きられない。運命を感じてない人間なんて、
ナメクジかナマコみたいに、気味が悪い。

「新潮」の二月号に西尾幹二さんがとてもいい評論を書いている。芸術と生活の二元論というものを、私が
どういうふうに扱ったか、だれがどういうふうに扱ったかについて書いている。日本でいちばん理解しにくい考えは、
それなんですよね。それで、作品と生活との相関関係ということが、私小説の根本理念ですから、その相関関係を
断ち切ることは、絶対できない。私の場合は、作品における告白ももちろん重要ですけれども、実は告白自体が
フィクションになる。作品の世界は、さっきも申し上げたように、かくあるべき人生の姿ですからね。もし、
自分が作品に影響されてかくあるべき人生を実現できれば、こんないいことはないわけですけれども、逆に
そうなれないというのが、人生でしょ。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
0601重要無名文化財
2011/10/01(土) 12:24:23.83
そうなれないことが人生で、それでは、そうなれない人生をもっと問題にして、どうにもならんことを小説に
書けばいいではないか、という考え方も出てくると思う。しかし、ぼくは、それは絶対やりたくないですね。
死んでも、やりたくない。そういうことを書く作家というのが、きらいなのです。小島信夫の「抱擁家族」などと
いうのは、そうならない人生を一生懸命書いているわけです。そうなれない怨念を書くのが文学だとは、ぼくは
決して信じたくない。
文学というのは、あくまで、そうなるべき世界を実現するものだと信じている。告白といいますけれども、告白も、
かくあるべきだ、こうなりたいんだ、けれども、こうならなかったという、それを語るのが、告白であって、
告白と願望との関係は、ひと筋なわではゆかないと思いますよ。人はいつでも、告白するとき、うそをついて、
願望を織り込んでしまうと思うのです。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
0602重要無名文化財
2011/10/01(土) 12:25:00.75
(中略)
文学と関係のあることばかりやる人間は、堕落する。絶対、堕落すると思います。だから文学から、いつも
逃げてなければいけない。アルチュール・ランボオが砂漠に逃げたように……。それでも追っかけてくるのが、
ほんとうの文学で、そのときにあとについてこないのは、にせものの文学ですね。ぼくは作家というのは、
生活のなかでにせものの文学に、ばかな女にとり囲まれるように、とり囲まれていることが多いと思うのです。
だって、ふり払ったことがないから。自分が“もてる”と思ってますからね。
ところが、それをふり払って、砂漠の彼方に駈けだしたときに、そのあとをデートリッヒみたいに、はだしで
追いかけてくる女は、ほんとうの女ですよ。ぼくはそれが、ほんとの文学だと思います。ぼくの場合は、
できるだけ文学から逃げている。するとはだしで追っかけてきてくれる女がいる。それが、ぼくの文学です。
その女に、やさしくしますよ。そのときに、小説を書くわけですね。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
0603重要無名文化財
2011/10/01(土) 12:25:32.90
(中略)
ぼくはいつも、あとから自分の素質を発見するのですけれども、――ぼく、剣道なんて、けっしてうまく
ありませんけれども、剣道やる人間になるなんていうことは、昔は想像もしなかった。おなじことで、論理的能力を
発見するなんて、昔は想像もしなかった。だから、人間って、あきらめないでじっくりやっていれば、何か出て
くるんだと思うのです。自慢じゃないですが、英語の会話ができるようになったのは三十越してからですからね。
それまで英語でしゃべれなかった。アメリカへ行っても、ほんとに語学で不自由いたしました。三十ごろになって、
アメリカに半年くらいいてから、まあまあしゃべれるようになった。人間の能力なんていうものは、ほんとに、
早く決めてしまうことないと思いますね。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
0604重要無名文化財
2011/10/03(月) 14:59:02.53
(中略)
ぼくは、自由意志が最高度に発揮されたとき、選択するものは、決まっていると思う。それが源泉ですね。
その時、自由意志が、ほんとに正当なものを発見したと思うのです。ですから自由意志には、無限定な自由は
ないですね。自由意志は、さまざまな試行錯誤をくりかえしますけれども、自由意志が源泉を発見した時に初めて、
自由意志が、自由になるのだ、と思います。それまでは自由意志は、なにものかにとらわれていて、もっと
自由な何か、もっと広い世界を期待しているわけです。それが、ぼくは源泉だと思う。ヘルダーリンの
「帰郷(ハイムクンフト)」のいう、一種の恐ろしさですね。最もなつかしいもので、最も恐ろしいものです。
現代社会は、そういう、源泉に帰ることを妨げるように、社会全体の力が働いている。人間は源泉からたえず
遠ざかって、前へ、前へ、上すべりしてゆくように、社会構造ができている。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
0605重要無名文化財
2011/10/03(月) 14:59:28.97
たとえば、テレビ、初め映りの悪いテレビ、それがまた、映りのいいテレビ、カラー・テレビになる。現代社会は、
その機械と同じことで、次々と、改良されたものは与えられますけれども、改良された果てに何があるか、
それはなにも与えないで、ぼくらを、先へ、先へ、進めるでしょ。
でもぼくらは、テレビより、もっと遠くみえるものがあるはずです、いちばん前に。ぼくはほんとに、それが
自分の夢でないと思ったのは、インドへ行ってからですよ。…インドへ行って、人間の、ほんとの能力というのは
あったんだ、という感じを強くもった。テレビより、もっと遠くがみえるはずです。それから、人の心も、
もっとよくみえるはずですし、つまり、みたいと思うものは、百万里先だろうが、みなければならない。
みえなくしてしまったのは、“文明”ですよね。ぼくはそう思います。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
0606重要無名文化財
2011/10/03(月) 15:00:01.27
(中略)
目ですね。
ぼくは、源泉にはそれがあったはずだと思うのです、ぼくにだって。失っただけですね。
剣道なんかやってますと、(そんなこというほどの資格はぼくにありませんが)“観世音の目”ということ、
いいますね。全体をみなければいけない。相手の目を見たら、負けてしまう。まして、相手の剣尖を見たら
負けてしまう。そうではなくて、“観世音の目”は相手を上から下まで、完全に見てしまう目です。そういう目を
鍛錬し、養成することが、剣道の極意だといわれているのですが、ぼくはそれ、源泉に帰ることだと思います。
それから、ネコ。ネコが寝たあと、クッションならクッションの跡みますと、ネコの寝た形が、ちゃんとできている。
あれが、寝るということ、休むということの本当の形なのですね。人間の寝た跡はそんな形になっていませんよ。
しゃっちょこばってますわね。寝てもまだ、からだがこわばっている。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
0607重要無名文化財
2011/10/03(月) 15:00:32.17
ネコは寝れば、完全に、ぐにゃあっと、液体のようになってしまう。あれが源泉なのですね。それから、
運動でもそうです。運動で、巧緻性とか、迅速性、いろいろ申しますけれども、運動能力というのは本来、
人間にはすべてあるはずなのが、なくなってしまった。そして、からだをこうやって曲げても、手の指先が足に
つかないようになってしまう。これはもう、源泉から遠ざかってしまっているわけですね。
…ぼくは、自由なものは美だと思うし、自由は源泉のなかにしかないと思うのです。プラトンと同じで、
動くものが、美しい。ぼくは静止したものはきらいですから、美術品なんて、あまり好きではないですね。
動くものが、美しい。“動くもの”というのは、自由ですし、自由は、それは未来にはなくて、源泉のなかに
あるのだ、という感じがする。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
0608重要無名文化財
2011/10/06(木) 23:28:20.11
バカなコミュニケーションが発達すればするほど、国民は分裂し孤立してくるでしょう。伝達することによって、
何らそれを統合することはできないでしょう。そうしたら、統合するためには、伝達しない、元の方法にもどるより
ほかないじゃあないですか。明治時代にはそれが逆だと思うんだ。コンミュニティーするものの主体に天皇を置いて
バラバラになった日本が、国民的統合をやって、近代国家を成立させた。一応近代国家が成立し、工業化が進展して、
社会がこういう、左翼の言葉を使えば自己疎外というようなことがおこってそして巨大な力で動かされて
いるんだけれども、各人がバラバラになって、伝達機能が容易になればなるほどバラバラがひどくなる。それを
統合するには空白のものしかない。絶対に断絶しかない。


祭主ということなんだよ。結局断絶ということは、時代全体が空間的伝達によって動いている中で、時間的伝達を
する人は一人しかいない、それが天皇だ。

三島由紀夫
石原慎太郎との対談「天皇と現代日本の風土」より
0609重要無名文化財
2011/10/06(木) 23:33:34.68
>>608
日本を外国から弁別するメルクマール、日本人を他国人から弁別するメルクマールというのは天皇しかない。
他にいくらさがしてもないんだ。


ぼくは大蔵省にいた頃に、観音崎に皆で団体旅行に行ったんですよ。そしてぼくが船端にいて、沖を見て
いたんだよ。実に海がきれいだった。雲がきれいだった。しかしそれからぼくが変わり者だという評判が
たちまちたっちゃったんです。景色なんか見ちゃいけないんだよ、本当に。景色を見るやつは、もうすでに
アウトサイダーなんだ。そういう社会があるんだよ。世の中には、見えないやつがいっぱいいるんだ。


現代というものの伝達の仕方から、天皇制というものを、純粋無垢に置こうという意識が全然ないだろう。
威厳を保つには断絶しかないという時代にわれわれは生きているんだ。

三島由紀夫
石原慎太郎との対談「天皇と現代日本の風土」より
0610重要無名文化財
2011/10/20(木) 10:21:55.61
ぼくが否応なしに中国問題というものにとらわれたのは、文学座なんかにいたからですね。中国に行ったり
する俳優がいてね、中国を天国のように言う。そして、それを人に強制する。その人たちは現実に何を通して
中国を知ったかというと、自分たちを接待してくれた人、そして案内してくれた人を通じてなんですね。それが
こういう状態になると、自分が世話になった文化関係の人がひどい目にあってもこんどは知らん顔。わたしのほうは
毛派だからという顔をする。それが腹が立ってたまらないということがあるわけです。
いまひとつの問題は、この五、六年、それを考えてきたんですが、もしもう一度戦時中の言論統制の時代がきたら
どうするかということなんです。(中略)そういう事態にどう対処するかということですね。やっぱり文学は
お国の役に立たないんだということをはっきりさせておかなきゃ非常に危険だと思うんです。

三島由紀夫
石川淳、川端康成、安部公房との座談会「われわれはなぜ声明を出したか」より
0611重要無名文化財
2011/10/20(木) 10:24:32.27
政治家には、腹を切るつもりなんか毛頭ない。そして芸術家のほうは、半分、実みたいな気持になっちゃった。
戦後はことにそうです。
それと、例の言論統制がきた場合にどうするか。ぼく自身の覚悟をいえば、ぼくは虚の芸術家である。虚をもって、
河原乞食として小説を書くんだ。その小説は絶対お国の役に立つわけはないし、ぼくがたとい自発的
(スポンティニアス)に国粋主義的な小説を書いたって、それは政治に頼まれて書いているんじゃない。ぼくが
自然にわき起って書いているんだから人がどう思おうと知ったこっちゃない。しかし、それは虚にすぎない。
それじゃ、虚にすぎない芸術にぼくが生きて、そしてどうなるか。それはぼくはインターナショナリストじゃないから、
どこにも亡命できると思わないし、日本で死ぬほかないと思っていますがね。その場合に、それじゃ虚と一緒に
ぼくは死ねるかということを考え出したんですね。ぼくは死ぬためには虚でありたくないんですよ。どうしても、
死ぬためには実でありたいんです。

三島由紀夫
石川淳、川端康成、安部公房との座談会「われわれはなぜ声明を出したか」より
0612重要無名文化財
2011/10/20(木) 10:26:54.95
ぼくはひょっとすると芸術至上主義者なのかもしれないと思うのは、どうしても虚を信じたいから、実のほうに
頭がいっちゃうんですよ。何とかして虚を信じたいと思えば思うほど、虚をしっかり把握するためにはどうしても
実がほしい。そうすると剣ということになっちゃう。いま石川さんのおっしゃった、わたしは言葉を信じない、
文学を信じないとおっしゃった気持は、ぼくは痛切にわかるな。
…つまり虚を信じないということが、虚に生きる唯一の道かもしれないんですよ。
(中略)
文字を墨で書く場合、紙に墨がぽとっと一滴落ちた瞬間に、文学表現が成り立つでしょう。それが十部刷ろうが
百部刷ろうが、別の問題ですね。だけど、文学というものは、その一滴の墨のあとから、千部刷る、一万部
刷るということになっちゃったらもうおしまいだと思うんです。
…言語というのは言霊だよ。

三島由紀夫
石川淳、川端康成、安部公房との座談会「われわれはなぜ声明を出したか」より
0613重要無名文化財
2011/11/05(土) 10:37:27.38
0615重要無名文化財
2011/12/04(日) 20:43:51.23




ワイが聞いた情報によると、もうじき中国はバブルがはじけて昔の貧乏な中国に戻るらしいで
もう経済は破綻してて、取り戻すのは無理なんだそうや


その世界ではごっつい有名な政府関係者筋から聞いた確かな情報やで

まあお前ら頭の良い連中には、今さらなくらいのネタやな、
お前らからすればもう常識的なくらいの知識やろ?







0616重要無名文化財
2011/12/21(水) 10:13:19.83
0617重要無名文化財
2011/12/26(月) 14:26:32.74
まあ、私も喜劇の部類で残念ですけれども、悲劇にはなりそうもない。
(中略)
失敗した悲劇役者というのが僕じゃないかしら。一生懸命泣かせようと思って出てきても、みんな大笑いする。


僕は、単細胞のせいかもしれないけれど、革命というものはイデオロギーの問題でもなんでもない、ただ爆弾持って
駈け出すことだと思っているんです。維新というのも、ただ日本刀持って駈け出すことだと思っている。駈けるのには、
百メートルを十六秒以下でなければ駈けるとは言えない。そのためには、ふとっていちゃ絶対だめですよ。
アメリカとベトコンの戦争は、やせたやつがふとったやつを悩ませたというだけの話ですよ。ベトコンはやせて
いるから駈けられる。アメリカ人はあの体していちゃ崖やなんか駈け昇れない。どうして日本のインテリというのは、
ふとるようになっちゃったんでしょう。これは僕は重大問題だと思っているんですよ。つまり肉体と精神との
関係において。

三島由紀夫
石川淳との対談「破裂のために集中する」より
0619名無しさん
2012/01/22(日) 15:02:10.73ID:???
         __
        , ‐' ´   ``‐、             / ̄:三}
.     /,. -─‐- 、.   ヽ        /   ,.=j
 _,.:_'______ヽ、 .!       ./   _,ノ
  `‐、{ へ  '゙⌒ `!~ヽ. !     /{.  /
    `! し゚  ( ゚j `v‐冫   , '::::::::ヽ、/     そんな野球よりステマしようぜ!
.    {.l   '⌒      ゙ 6',!   / :::::::::::::::/ __
.     〈  < ´ ̄,フ  .ノー'_ , ‐'´::::::::::::::;/ (_ノ)‐-、
.      ヽ.、 ` ‐", ‐´‐:ラ ':::::::::::::::: ;∠.   ヽ_}  ゙ヽ
        ,.r` "´  /:::::::::::::::::::ィ´  `ゝ  !、  /
     /       / :::::::::::::::: ; '´   /´\ /   r'\
.     i      ! ::::::::::::::/ 墨 | .!::::::::/ヽ、.._!ヽ. ヽ、
     {      {:::::::::::;:イ /   ‖i:::::::/:::::::::::::/  \
.      ヽ       ヽ,.ァ‐'´ /ヽ 二 ,/`ヽ、::::::::: /
0620重要無名文化財
2012/01/26(木) 16:54:52.54
日本といふ国は何といふ忙しい国でせう。でも、羽田から、みんなに引つ張られて、東横ホールの「鹿鳴館」
(慈善興業)の楽屋につれて行かれ、カーテン・コールのとき、舞台から帰朝の挨拶をさせられたとき、
「ああ、日本には、かうして僕を待つてゐてくれた人がゐた」と、満員の客席を眺めて、本当にうれしく思ひました。
僕はやつぱりジャーナリズムの spoiled child であつて、あんまり一人きりの淋しい生活はできないといふことを
痛感しました。

三島由紀夫
昭和33年2月3日
ドナルド・キーンへの書簡より


ニューヨークの新聞に、川端(康成)さんのインタビューがいろいろ出たやうです。しかし日本の新聞には、
その記事が一つも出ず、中共がへりの文士の座談会ばかりがデカデカと出てゐます。この片手落ちはますます
ひどくなつたやうです。日本で一等いけないのは、政治家よりも、全学連よりも、新聞だと思ひます。

三島由紀夫
昭和35年7月11日
ドナルド・キーンへの書簡より
0621重要無名文化財
2012/01/26(木) 16:55:29.69
けふ久々のお手紙をいただき、洵にうれしく拝読、丁度数日前「文藝」で「近松と欧米の読者」を拝読、お手紙を
差上げようと思つてゐたところでした。この論文は、明晰で情理を尽したもので、一方きはめて具体的で、
岩波の「文学」系のチンプンカンプンの左翼国文学者たちに少くとも十回ぐらゐ味読させてやつたら、少しは
彼らの目もさめるかと思はれました。


このごろの日本人はあの勇敢なカミカゼ精神をどこへ忘れてきたのでせう。慨嘆に堪へません。

三島由紀夫
昭和37年9月9日
ドナルド・キーンへの書簡より
0622重要無名文化財
2012/01/30(月) 17:29:31.28
日本の評論家の解説は、多く細部を無視し、理窟のために作品をねじ曲げ、作家はそのため、いつも苦い思ひを
心の底に持たねばなりません。この太宰集の御解説は、日本の批評家がほとんど触れない文体、構成、描写、
技巧などについて、周到な分析をされ、実に納得のゆくやうに書かれてゐるのみならず、一方、批評は批評として、
太宰のキリスト教についてのズバリとした御意見やら、「走れメロス」(小生もこれは少しもいいと思ひません)の
否定やら、太宰をよく読み、よく愛した人にだけ可能な正しい批判があります。

三島由紀夫
昭和39年4月15日、ドナルド・キーンへの書簡より


この間、安部公房君と一晩ゆつくり話し、彼が、
「僕はチェコに夢をかけてゐた。チェコにいつか亡命するつもりだつた。夢が砕けて悲しい」
と言つてゐた言葉が心を搏ちました。

三島由紀夫
昭和43年9月24日、ドナルド・キーンへの書簡より
0623重要無名文化財
2012/01/30(月) 17:29:57.05
「日本人の西洋発見」は、実にいい飜訳で、おちついたしつかりした日本文になつてゐて、感心しました。
平田篤胤のところを最初によみ、今、日本人が誰も読まなくなつてゐるこの思想家をキーンさんが丹念精細に
研究されてゐるのに頭が下がりました。


一九七〇年にかけては、ひよつとすると、僕も、ペンを捨てて武士の道に帰らなければならないかもしれません。

三島由紀夫
昭和44年2月2日、ドナルド・キーンへの書簡より


三月一日から一ヶ月、又、富士の自衛隊へ行つて、浮世を離れます。しかし自衛隊の中の浮世もだんだん目に
つくやうになり、今度はどこへ逃げたらよいのでせうか。

三島由紀夫
昭和45年2月27日、ドナルド・キーンへの書簡より
0624重要無名文化財
2012/01/30(月) 17:31:02.73
小生たうとう名前どほり魅死魔幽鬼夫になりました。キーンさんの訓読は学問的に正に正確でした。小生の
行動については、全部わかつていただけると思ひ、何も申しません。ずつと以前から、小生は文士としてではなく、
武士として死にたいと思つてゐました。


(豊饒の海)第一巻第二巻は飜訳がほとんど出来てゐますから、大丈夫かもしれませんが、問題は第三巻、
第四巻です。(中略)何とかこの四巻全巻を出してくれるやう、御査察いただきたく存じます。さうすれば世界の
どこかから、きつと小生といふものをわかつてくれる読者が現はれると信じます。

三島由紀夫
昭和45年11月、ドナルド・キーンへの書簡より
0625重要無名文化財
2012/02/06(月) 06:30:47.89



中国ならオワタ









あなたは今全力で落ちこむべき






0626重要無名文化財
2012/02/10(金) 15:21:15.24
私共はあの古代の壮麗な大爬虫類が、峻厳な自然淘汰の手で忽ち絶滅に瀕した時代を思ひ浮べます。しかしもし
彼等の多くがその危険を脱し、どこかで繁殖しつゞけてゐたとしたらどうでせう。恐らく私は、彼等の習性の内に、
「絶滅に瀕したもの」の身振が執拗に残つてゆくだらうと思ひます。


花々の矜りは咲いてゆくといふことよりも、咲いて来たといふことよりも、今「咲いてゐる」といふ一点に漂うて
ゐるのかもしれません。かう考へることはいくらか私共を慰めてくれます。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年7月18日、川端康成への書簡より


太宰治氏「斜陽」第三回も感銘深く読みました。滅亡の抒事詩に近く、見事な芸術的完成が予見されます。
しかしまだ予見されるにとどまつてをります。完成の一歩手前で崩れてしまひさうな太宰氏一流の妙な不安が
まだこびりついてゐます。

三島由紀夫
昭和22年10月8日、川端康成への書簡より
0628重要無名文化財
2012/03/04(日) 21:33:24.35
この作品(仮面の告白)を読んだあと、私の小説をもう読まぬといふ読者もあらはれようかと存じ、相当な決心で
とりかゝる所存でございますが、この作品を「美しい」と言つてくれる人があつたら、その人こそ私の最も深い
理解者であらうと思はれます。

三島由紀夫
昭和23年11月2日、川端康成への書簡より


アメリカでは皆米人が親切にしてくれ、ミス・クルーガーといふパツシニさんの友達に殊に世話になりました。
会ふ米人がみないい人なのにおどろきますが、いい人と味のある人とは一寸別で味のある点では、パツシニ氏のやうに
永く日本にをられる人には誰にも敵ひません。日本は人間に「味」を与へます。

三島由紀夫
昭和27年2月13日、川端康成への書簡より
0629重要無名文化財
2012/03/04(日) 21:34:21.11
目下、神島といふ伊セ湾の湾口を扼する一孤島に来てをります。(中略)映画館もパチンコ屋も、呑屋も、喫茶店も、
すべて「よごれた」ものは何もありません。この僕まで忽ち浄化されて、毎朝六時半に起きてゐる始末です。
ここには本当の人間の生活がありさうです。たとへ一週間でも、本当の人間の生活をまねして暮すのは、快適でした。
ある日は早朝から夕方まで、蛸壺船に乗り込んで楫取を手つだひました。(中略)
明朝ここを発つて、三重賢島の志摩観光ホテルへまゐります。そこで僕はまた、乙りきにすまして、フオークと
ナイフで、ごはんをたべるだらうと想像すると、自分で自分にゲツソリします。

三島由紀夫
昭和28年3月10日、川端康成への書簡より


大岡さんの歓送会で、揮毫帖に、
昇平何舎神洲地
駕夷狄車下米洲
冀以和朝化紐育
と書きましたら、お前はやつぱりフアツシヨだと叱られました。

三島由紀夫
昭和28年10月17日、川端康成への書簡より
0630重要無名文化財
2012/03/20(火) 19:14:57.30
この間、中央公論の御集の解説に当り、「千羽鶴」をしみじみ再読して、初読のときと全くことなる印象を
与へられました。茶道及び日本的風雅の諷刺小説であるかの如くさへ感じられ、感興新たなるものがございました。
茶道といへば、本日、千宗興さんに会つたところ、外国旅行でお茶を教へた話ばかりするので、「そんな平和な
静かな国ばかりへ行かず、南ヴイエトナムのやうな戦乱の巷へ行つて、耳もとを弾がかすめるやうなところで
お茶を立てたらいかがです。それが本当のお茶でせう」と言つてやりました。

三島由紀夫
昭和38年12月15日、川端康成への書簡より


このごろ一般に、文学が紳士風家庭風になつてゐるのを苦々しく存じます。ブル紳の文学など読みたくありません。
文芸時評のインチキとハツタリもひどいもので、文壇墜落の兆候歴然、何かここらで、革命的暴力的新人が
あらはれぬものでせうか。

三島由紀夫
昭和41年8月15日、川端康成への書簡より
0631重要無名文化財
2012/03/28(水) 23:33:54.02



サルを完全に破壊する実験って知ってる?

まずボタンを押すと必ず餌が出てくる箱をつくる。
それに気がついたサルはボタンを押して餌を出すようになる。
食べたい分だけ餌を出したら、その箱には興味を無くす。
腹が減ったら、また箱のところに戻ってくる。
ボタンを押しても、その箱から餌が全く出なくなると、サルはその箱に興味をなくす。

ところが、ボタンを押して、餌が出たり出なかったりするように設定すると、
サルは一生懸命そのボタンを押すようになる。
餌が出る確率をだんだん落としていく。
ボタンを押し続けるよりも、他の場所に行って餌を探したほうが効率が良いぐらいに、
餌が出る確率を落としても、サルは一生懸命ボタンを押し続けるそうだ。
そして、餌が出る確率を調整することで、
サルに、狂ったように一日中ボタンを押し続けさせることも可能だそうだ。


のちのパチンコである




0632重要無名文化財
2012/04/16(月) 00:21:53.75
新橋演舞場 五月花形歌舞伎
2012年5月1日(火)〜25日(金)
夜の部
通し狂言 椿説弓張月
曲亭馬琴の原作に、三島由紀夫が構想を得て書き下ろし、自ら演出した渾身の
長編大作。「三島歌舞伎」の最高峰とも言われる傑作をたっぷりとご堪能下さ
い。
http://www.kabuki-bito.jp/theaters/shinbashi/2012/05/post_42.html
0633重要無名文化財
2012/05/07(月) 21:52:24.89
86 :重要無名文化財:2012/05/05(土) 23:05:33.71
ミシマが求めていたのは薪車のリンチシーンだけだったんじゃないだろうか
ムダにスペクタクルなだけでおいらにはしんどかった
87 :重要無名文化財:2012/05/05(土) 23:48:51.50
あのリンチシーンは面白かったから、自分の好きなことだけ
羅列したほうがエンタテインメントになったと思う。
義太夫もわかるんだぜ、だの、歌舞伎の通なのよ、と
見せ付けたい気持ちを捨てられなかったのが敗因。
102 :重要無名文化財:2012/05/06(日) 22:45:20.03
演舞場夜
ついうとうとして目を開けたらSMショーだった
話バラバラの出来の悪いオムニバス歌舞伎
本がダメ
もしかして三島って、クドカン以下
103 :重要無名文化財:2012/05/06(日) 22:48:05.62
今月はまだ見てないけど
鰯売り恋の引網は面白いよ
歌舞伎はともかく、現代戯曲の最高峰の三島さまを
クドカンと比べるとはあきれてものも言えんわいw
104 :重要無名文化財:2012/05/06(日) 23:50:25.88
死ぬ一年前だからね。
豊饒の海四部作も、最後は出来が悪い。
106 :重要無名文化財:2012/05/07(月) 00:38:08.57
天人五衰をけなす奴はカス。
0635重要無名文化財
2012/05/10(木) 19:40:01.36
あんまり悲壮に思はれるのはイヤですから、漫画のタネで結構なのですが、小生としては、こんなに真剣に
実際運動に、体と頭と金をつぎ込んで来たことははじめてです。一九七〇年はつまらぬ幻想にすぎぬかもしれません。
しかし、百万分の一でも、幻想でないものに賭けてゐるつもりではじめたのです。十一月三日のパレードには、
ぜひ御臨席賜はりたいと存じます。

ますますバカなことをとお笑ひでせうが、小生が怖れるのは死ではなくて、死後の家族の名誉です。小生に
もしものことがあつたら、早速そのことで世間は牙をむき出し、小生のアラをひろひ出し、不名誉でメチヤクチヤに
してしまふやうに思はれるのです。生きてゐる自分が笑われるのは平気ですが、死後、子供たちが笑はれるのは
耐へられません。それを護つて下さるのは川端さんだけだと、今からひたすら便り(ママ)にさせていただいてをります。

三島由紀夫
昭和44年8月4日、川端康成への書簡より
0636重要無名文化財
2012/05/10(木) 19:41:00.93
又一方、すべてが徒労に終り、あらゆる汗の努力は泡沫に帰し、けだるい倦怠の裡にすべてが納まつてしまふ
といふことも十分考へられ、常識的判断では、その可能性のはうがずつと多い(もしかすると90パーセント!)のに、
小生はどうしてもその事実に目をむけるのがイヤなのです。

三島由紀夫
昭和44年8月4日、川端康成への書簡より


あひもかはらず、ただ徒らに体を使ひ、飛び廻つて、肉体の為に使ふ時間と精力の厖大さにわれ乍ら呆れます。
(中略)
時間の一滴々々が葡萄酒のやうに尊く感じられ、空間的事物には、ほとんど何の興味もなくなりました。この夏は又、
一家揃つて下田へまゐります。美しい夏であればよいがと思ひます。

三島由紀夫
昭和45年7月6日、川端康成への書簡より
0638重要無名文化財
2012/06/16(土) 01:18:40.69
「11.25 自決の日三島由紀夫と若者たち」
 平岡瑤子役  寺島しのぶ
http://www.wakamatsukoji.org/11.25/
0640重要無名文化財
2012/07/10(火) 16:45:03.17
僕は凡そ小説を読むのに、主義や思想についての偏見をもたず、共産党の小説でも右翼の小説でも作品の価値に
ついては、素直に感動する魂をもちつづけたいと思ふのです。先輩の小説でも、中学生の小説でも、よいものには
搏たれる魂をもちたい、他人の中にある何物かに愕く心は自分に愕く心であり、他の発見は、自己の発見であり、
他に感動しなくなれば自己の発見も終る、僕はかういふ信念を川端さんから学びとりました。
しかし日本の文学であり日本語を使つてゐる以上日本語として美しくなければ感動するわけにはゆきません。

三島由紀夫
昭和22年12月25日、清水基吉への書簡より
0641重要無名文化財
2012/07/22(日) 20:57:23.12
三島由紀夫の世界!

日本の能楽とワーグナー楽劇との統合による
  楽劇『保元物語ー崇徳院怨霊譚ー』  

2012年10月  ドイツ・ベルリン公演

http://www.gakugeki.org/
0642重要無名文化財
2012/07/24(火) 00:08:04.54
オウムが取りざたされる以前、ビートたけしが麻原と対談し、「人間的
魅力を感じた」というような発言もしていた。

『新潮45』2010年6月号ビートたけしの発言 「相変わらず原子力発電に反対する人もいる
けどどうも原子力発電というとリスクばかり言う傾向があるけど、実際、おいらたちはもっとリスクのある社会に生き
ている。小型原子炉がテレビショッピングで売られる時代が来ないかな。 『今日は特別に、ウランをもう一つお付けし
て、この値段』 『うわー、安い』とかさ」

たけし 、ヲマイ死んだ方がよくないか?
0643重要無名文化財
2012/08/01(水) 13:19:28.68
>>637
wwwww
0644重要無名文化財
2012/08/01(水) 13:27:52.28
>>641
誰が観るんだw
0645 ◆FvsmLa7tQQ
2012/08/01(水) 13:29:37.73
■浄瑠璃を読もう(単行本)■
新潮社 (2012/7/27発売) 448ページ 橋本治(著)
…小説の源流も、わたしたちの心やふるまいの原型も、みんな浄瑠璃のなかにある! 
江戸時代に隆盛した一大文学ジャンル浄瑠璃。その登場人物は驚くほど現代人に似ている。
『仮名手本忠臣蔵』『義経千本桜』から『冥途の飛脚』『妹背山婦女庭訓』まで、
最高の案内人とともに「江戸時代的思考」で主要作品を精読。
「お軽=都会に憧れてOLになった田舎娘」など、膝を打つ読み解きが満載。浄瑠璃の面白さを再発見!
0646重要無名文化財
2012/08/18(土) 14:20:57.69
独乙(ドイツ)敗るゝ時、忌はしくも紙上に見える無条件降伏の文字、西欧的表現の行詰りを見る思ひがいたしました。
大御戦はもとより本朝のおほみわざ、戦争と文化の問題についても日本独自の解決があるべきと存じます。
ヒトラア死して逸早い、ハムブルヒ無防備都市宣言の如き、醜態の極でありました。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年5月5日、中河与一への書簡より

0647重要無名文化財
2012/08/18(土) 14:21:37.05
独逸(ドイツ)の悲劇はあくまで西洋古代の悲劇と相以て、運命と人との闘争の終局でありましたが、今や
我が国にはこれに類似の悲愴趣味運命観が流行してをりますことは、大いに警戒の要ありと存じます。新運命観は、
運命への抵抗乃至(ないし)闘争でもなく、運命への盲従乃至信仰でもなく、運命を汎(ひろ)く輪廻と解して、
これに対する濃まやかな愛情と親密な交遊の裡に、自己と輪廻との合歓、慇懃の甘美を極めた境地にまで、
相共に融合することであると考へます。単なる否定でも肯定でもない、かゝる主観客観を超えた魂の状態を、
貴下は兼てより「愛」と呼ばれましたが、「愛」の教は今日以後一層痛切な意味をもつでありませう。私は
今までの国学の偏狭、コスモポリティズムの軽佻を排して、真の意味の universal につながりたいと思ふやうに
なりました。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年6月27日、中河与一への書簡より

0648重要無名文化財
2012/09/11(火) 07:30:18.32
創価死ね
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0649重要無名文化財
2012/09/24(月) 13:39:52.65
僕は凡そ小説を読むのに、主義や思想についての偏見をもたず、共産党の小説でも右翼の小説でも作品の価値に
ついては、素直に感動する魂をもちつづけたいと思ふのです。先輩の小説でも、中学生の小説でも、よいものには
搏たれる魂をもちたい、他人の中にある何物かに愕く心は自分に愕く心であり、他の発見は、自己の発見であり、
他に感動しなくなれば自己の発見も終る、僕はかういふ信念を川端さんから学びとりました。
しかし日本の文学であり日本語を使つてゐる以上日本語として美しくなければ感動するわけにはゆきません。

三島由紀夫
昭和22年12月25日、清水基吉への書簡より
0650重要無名文化財
2013/01/08(火) 16:21:38.71
0651重要無名文化財
2013/09/05(木) 08:59:52.81
0652重要無名文化財
2013/11/24(日) 20:26:44.99
 
0653重要無名文化財
2013/11/25(月) 05:54:36.72
命日。
0654重要無名文化財
2014/07/14(月) 08:05:05.66
首ちょんぱ
ハラキリ…そこばかりが残ったか
当時、庇う川端康成も自害
芥川龍之介も自害
近ごろは情報操作で人間も操り人形になってしまった…自害も他殺なみのものと思うぞ
死なずに世を、心を動かし生きてこそぞ
0655重要無名文化財
2014/07/14(月) 08:28:26.44
会話をしていたユーミンに
三島を感じさせる世界観と
和服で弾けてほしいとぞ思う
荒井由美…昭和のかぐや姫
0656重要無名文化財
2014/08/04(月) 13:43:16.79
はぁ?
0658重要無名文化財
2014/08/05(火) 02:58:06.60
三島に思想はないから。
0661重要無名文化財
2014/11/30(日) 11:02:43.21
三島は北一揮に乗り移られてあんなことに
三島が死んでから一気に左に日本は寄ることに
左翼には三島が邪魔だった
三島が死んで軍歌を爆音でながす右翼(実態は左翼)が台頭して日本を貶めたんだな
0662重要無名文化財
2014/11/30(日) 11:46:30.24
新井(荒井)由実はチョンだと思ってた
0663重要無名文化財
2014/11/30(日) 12:06:24.78
嗚呼割腹保毛作家
0664重要無名文化財
2014/11/30(日) 16:21:04.87
↑文字数偶数やんか(`∇´
0665重要無名文化財
2015/07/17(金) 07:33:33.14
保守
0666重要無名文化財
2015/10/27(火) 12:40:22.12
三島の芝居は最近は流行らぬのかゑ?
0667無名ファンの独りごと
2015/10/29(木) 17:18:41.96
「ムスメゴノミオビトリイケ」これなんか古典歌舞伎の様を色濃く持っていて
面白いと思うけど、ぜひ推してくれ・・・。池の底が盗賊の住みか
0668重要無名文化財
2015/10/29(木) 19:30:31.61
三島の市ヶ谷突入と演説と割腹
江戸時代だったら一週間もしないうちに芝居になっていると思うのだが

今の歌舞伎では無理かな?
0669重要無名文化財
2015/10/30(金) 02:19:23.90
うん無理
0670重要無名文化財
2015/11/22(日) 18:53:14.13
森田必勝とは
どの程度
深い仲の愛人関係
だったのですか?
0672重要無名文化財
2015/11/25(水) 13:49:53.39
>>668
そもそも事件自体が芝居みたいなものだったのでは
0673重要無名文化財
2015/11/25(水) 17:24:34.01
>>672
命かけてんですよ?
0674重要無名文化財
2015/11/25(水) 19:46:04.78
命をかけた芝居なんて三島らしいな
0675重要無名文化財
2015/11/27(金) 12:29:39.03
また、

「近代能楽集」から

幾篇か上演されるらしいゼッ!!!!!!!!



分かったナッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
0676重要無名文化財
2015/12/06(日) 12:21:52.16
詩人の高橋睦郎も『西洋古典学事典』を愛読してやまないと聞いた。
納得した。
素晴らしい内容だから。
もしも三島由紀夫が生きていたなら絶賛するだろう。

総合★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

作品社より刊行されている文部省推薦図書
名作『図説 ホモセクシャルの世界史』の第二刷が出たらしい。
誤植が訂正されているから、
いっそう信頼できる良書となっている筈だ。
一家に一冊は備えて置くべき書籍だろう。
お薦めしたい!

http://www.kyoto-up.or.jp/book.php?isbn=9784876989256

なお、上記の書物が、電子書籍版
『西洋古典学事典アプリ』 として読める。
ヴァージョン・アップされていて、しかも廉価で携帯至便と来ているぞ。

http://www.kyoto-up.or.jp/book.php?id=1993&;lang=jp
0677重要無名文化財
2015/12/06(日) 12:23:31.86
★こちらも三島由紀夫ファンにオススメ。

プルースト、ワイルド、ジッド、ヴェルレーヌ、コクトー、三島由紀夫らに限らず、

アレクサンドロス大王 、ユーリウス・カエサル 、マールクス・アントーニウス、 フリードリヒ大王、等々

歴史上の名だたる英雄は、誰も彼も男色好きだったよ。

そして、 レオナルド・ダ・ヴィンチ 、ミケランジェロ 、シェイクスピア、etc.
の天才たちも揃って男性が好きだった!

作品社より刊行されている名作『図説・ホモセクシャルの世界史』を参照。

http://www.sakuhinsha.com/history/20793.html


必読書ですよ!
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