会津新撰組まつり [転載禁止]©2ch.net
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大正時代から会津プロパガンダを掲げ、反日プロパガンダのように
鹿児島、山口など様々な地域を中傷し陥れ、日本史を改ざんしてる
福島県会津地方で毎年行われている日本唯一の怨念祭です。
>突いた刀を力づくで抜くと
>まだ突然の突きに放心状態で立ち尽くす
>長州人の背中をやおら左足で蹴り飛ばす!
>「馬鹿め薩長!wwwww」
http://blogs.yahoo.co.jp/kulika_naga/50698473.html
会津プロパガンダ、会津被害者商法、会津事大主義
会津商魂、会津恨文化、日本唯一恨文化繁栄地域
日本唯一怨念地場産業地域、会津WGIPは日本に要らない! 会津新撰組まつりで薩長人を斬殺する演目w
会津に移り住んで会津プロパガンダに洗脳された
ババアがしっかり記録し発信してくれましたーwwww
会津はやってる事がキムチと同じですなー ( ´∀`)
http://goaheadkk.blo.../blog-entry-218.htm >親の代から社会党だった自分としては
>こういう時は迷わず社民でOKだったのですが
>これまた前も書いた通り、原発事故以降は
>個人的に社民ってシンパシーがた落ち
>ほんとなら社会党の長い歴史が
>今回ついに終わってしまうかもしれないとのことで1票投じ
>で、前回は社民党のかわりに生まれて初めて共産党に入れたんですが
>民主党&社民党、みんな待ってるのよ。頑張って立て直してよ〜〜〜〜〜
http://goaheadkk.blog25.fc2.com/blog-entry-635.html?sp 白河似北一山百文。
東北を蔑視する言葉。
河北新報の題号の由来でもある。
旧盛岡藩出身の平民宰相原敬は
自らを「一山」と号した。私も小学校の先生に
教えられた。東北を蔑む言葉だが
自らその表現を伝えるわが東北人には
中央中心の日本の見方に対する明確な
外交意識を想起させる言葉でもある。
この蔑称はどのように生まれたのか。
戊辰戦争で官軍が発したとも言われるが
実証されていない。今のところ『近事評論』の
記事「白河以北一山百文」(1878年8月23日)
を起源とみるのが最も信頼できる説だ。
■出典 河西英通『続・東北 異境と
原境のあいだ』中央公論新社(中公新書1889)
星亮一が「司馬さんが言ってた」の正体がコレ(笑)
司馬も星も詐話師だね ( ´∀`) 慰安婦と同じで会津プロパガンダは金になるんだろう(笑) 『会津人が書けなかった会津戦争』(著)牧野登
(引用)
山川浩・健次郎兄弟の思想を論理的骨格とする会津士族たちの主張は“会津は
朝敵にあらず”の一点に徹底集中した雪冤論であり、その論調は「会津会会報」に
拠る荘田三平や史学者花見朔巳などの論客によって踏襲・展開されたが、昭和3
年の松平勢津子の皇室輿入れによってその目的は実質的に達成され、さらに昭和
12年5月に若松で行われた徳富蘇峰の講演「維新史に於ける会津」によって集約・
完成されたといえよう。
しかしこの気運は、天皇を神格化する軍国主義の風潮と政治構造の力によって結
果的には利用され、会津は沖縄に似た皇民家教育の道を突っ走ることになった。
“会津武士道”が国是として賞揚賛美される昭和前期から戦中にかけての時代風潮
の中で、かつては武士階級や士族の倫理であった会津士魂なるものが、郷土意識
の顕彰気運と合流して一般会津市民の意識をも併呑し、今日の姿を生み出したので
はあるまいか。
(引用終わり)
戊辰戦争後新政府から手厚いフォロー受けといてその恩は知らぬふりw
維新後の弾圧差別話は根拠なしw
美化・虚言・責任転嫁が大好きな今の会津は
『什の掟』
三、虚言をいふ事はなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
についてはどう考えているのかな? かな? 英国公使館員の維新戦争見聞記
■民衆の貧困
残念ながら、会津藩政の苛酷さとその腐敗ぶりはどこでも一様に聞かれた。
今後十年二十年に返済するという契約で、会津の藩当局が
人民に強制した借款についての話がたくさんあった。
会津の国の貧しさは極端なものである。
家並は私が日本のどこで見たものよりもみすぼらしく
農民も身なりが悪く、小柄で、虚弱な種族であった。
この国で生産のされる米はみな年貢として収められねばならなかった。
戦争で破壊されるまえの若松とその近郊には
三万の戸数があり、そのうち二万戸には武士が住んでいて
あらゆるものがこの特権階級の生活を
維持するために充当されたり税金をかけられたりした。 英国公使館員の維新戦争見聞記
会津兵は天皇の軍勢の戦闘員ばかりか
彼らの手に捕らえられた人夫たちまでも殺したといわれる。
この話の確証として、四日間も雪のなかに倒れていて
両足の機能を失った一人の人夫にあったことを、私はここに記しておきたい。
その人夫はもし会津兵につかまったならば
むごい死に目にあわされていただろうと私に語った。
そのほか、私は若松で世にも悲惨な光景を見た。
たくさんの死体が堀から引き上げられたが
彼らの両手は背中にうしろ手に縛られ
腹が深く切り裂かれていたのだ。
私は会津の徒党のでたらめな残酷物語をいろいろと耳にした。
長岡で、彼らは天皇側の病院にいる負傷兵や医師たちを皆殺しにした、と聞いた。
会津兵が越後に退却して行く途中、彼らは女たちを強姦し、家々に盗みに入り
反抗する者をみな殺害したのである。
これが会津武士道なのか?(´д`|||) 会津の偽金A
会津再興が認められて、新政府から「猪苗代か斗南」のどちらかと聞かれた時
偽金の不満から一揆が多発する会津近くにある猪苗代を避け
斗南の領地に移住せざるを得なかった。もし、猪苗代に領地を得ていたら
再興したばかりで戦う力を無くしている会津藩は
会津藩をまったく信用しなくなってしまった領民達の
一揆によって滅ぼされていた可能性がある。
新政府から会津藩再興が認められた時、新領地は斗南にしようと
言い出したのは山川大蔵だった。彼には偽金と戦争によって
荒らされた故郷の領民たちの怒りが良く解っていたのだろう。
補足するが、明治新政府が会津藩を流罪にすべく斗南の土地に
追いやったという事は無い。会津藩に示されたのは、斗南と会津に近い
猪苗代の二カ所である。会津藩が自ら斗南を選んで移住したのだ。 1.鉄道・道路を通してもらえなかった
→実際は三島県令が当時日本でも稀な大規模道路整備を若松を中心に行い、
恩恵が少なかった会津以外の人々が一揆を起こした。
→鉄道が通らないのは当然。仙台へ伸ばすには会津は経由させるべきではない。
また、磐梯山噴火などがあり若松より北へ伸ばす路線は危険が多かった
2.産業育成を阻害した
→実際は産業博覧会で三島県令が盛んに会津漆器などの産物を販売し、陶器産業も復興させている
清酒も明治以降の導入で、江戸時代はどぶろくだった
3.県都を郡山に移さず会津を引き裂いた
→郡山は新政府が開拓した都市。そこに移すのは新政府偏重と言う福島市の意見が強かった
4.学校を作ってもらえなかった
→会津高校を作ったのは明治初期、しかも三島県令と明治新政府の重役たちによる寄付だった
5.賊軍の遺体埋葬を禁止された
→「彼我の戦死者一切に対して」遺体確認作業の為禁止されていたのを作家が捻じ曲げて解釈しただけ
かなり早い時期から遺体処理を指示する民政局の達し書が出てる
会津藩士の遺体もちゃんと埋葬された
6.「白河以北一山百文」と侮辱された
→言いだしっぺは東北、わざわざ新聞タイトルにしてスローガンにしたのも東北
つまり、会津人が涙ながらに叫ぶ「被差別」話は、どれもこれも根拠がない。
新政府の援助をたらふく食った末に、貰った先を罵って、恩義はないといって済ませようとするのが会津。
どっかの国にそっくりだな 米沢藩随一の主戦派であり
越後出兵を事実上リードした
米沢藩参謀甘粕継成の日記に
六月頃から会津藩の批判が目立つようになる。
「時に越地の人民会津を悪みきらふ甚深く恰も仇敵の如し。
依之所在の郷村御家を慕ふ心ありと雖会と相合するのを以て
味方する者なし。是を以て大面在陣以来
村民を雇て篝火を焼せ死傷を舁せ弾薬兵糧等を運はせんと欲すれども
家々の老若男女尽く逃散て一人も応ずる者なし。
其内衝鋒隊の歩兵乱妨せしより、大面村民
自ら火を家々にかけて我が軍を追出し
賊へ応ぜんと企つる者有之由村役より忠信出
早く会兵とはなれて御一手にて御持なされずんば
遖れ御大事なるへしと云う」
(甘糟備後継成遺文)
これは六月一日の記述だが
「略奪を行なう会津藩兵と一緒に行動するのなら
もはや米沢様には協力出来ない」と民衆が
米沢藩本陣を訪れて訴えたのを受けて
今は民衆に慕われている米沢藩だが
会津と行動を共にするのを続ければ
民衆の信頼を失いかねないので会津とは
別行動を取るべきだと
米沢藩参謀の任にある甘粕が考えていたのが判る。 会津藩の搾取略奪に苦しんでいた越後の民衆もまた
かつての越後の支配者である米沢藩兵を慕った。
「米沢藩兵は他人数だが馬は使わず、各自が荷物を背負ってきた。
米沢様は別段のものだと衆人が感服した。それにひき比べ
会津は異形はなはだしいゆえか、衆人不服で負け戦の話をきくと
婦女子までがよろこんだ」
(新津市史通史編下巻)
ううっ、会津プロパガンダで美化してる分
カッコ悪いったらありゃしない…(´;ω;`) 信濃川西岸の戦況が芳しくないのを受けて督戦に訪れた際に
この方面の庄内藩兵を率いる石原多門から次のように語られている。
「当地へ出張以来会の将佐藤折之進等表裏の所業甚しく危険の場へは
必我庄兵を差向け、己は後へ廻りて分捕等を掠むる工夫を事とし
一向義を重んじ信を守るの志なき故、我士卒いづれも不平を抱き
元より越地出兵は会を援くる為なるに、会人の作業如斯にては
何ぞ尽力する栓あらんと云て、自然と勇戦の心なく
数十日空く日を送れるなりと云」
(甘糟備後継成遺文)
甘粕は庄内藩兵を指揮する石原より
「会津を助ける為に越後に出兵したきたのに
肝心の会津藩兵は激戦地に庄内藩兵を送り
自分達(会津藩兵)は安全な後方で
民衆からの略奪に狂奔しているので
庄内藩兵の士気が下がっている」と不満を述べられている。
ええええええええええええええええええええっ?( ; ゜Д゜)
明治政府との和平蹴って戦争ふっかけたのに
自分達は後方で味方の領地を荒らし回って戦わない?
これが会津武士道…(´д`|||) 会津って新潟と北海道を外国に売り飛ばそうとしたらしいな 賊軍の東北閥が昭和の日本軍を支配し、無謀な戦争へ引きずり込んだ
■陸軍
板垣征四郎(岩手・盛岡藩)陸軍大臣
東條英機(岩手・盛岡藩)総理大臣・陸軍大臣・参謀総長
畑 俊六(福島・会津藩)陸軍大臣
小磯國昭(山形・新庄藩)総理大臣
石原莞爾(山形・庄内藩)
■海軍
米内光政(岩手・盛岡藩)総理大臣・連合艦隊司令長官・海軍大臣
及川古志郎(岩手・盛岡藩)海軍大臣・軍令部総長
山本五十六(新潟・長岡藩)連合艦隊司令長官
南雲忠一(山形・米沢藩)
嶋田繁太郎(東京・幕臣)海軍大臣・軍令部総長
井上成美(宮城・仙台藩)
おかげで日本は未だに戦後 (´・ω・`) 禁門の変後の勝海舟の日記に依れば
『京地の風評、長を善とし、会、殊に悪説有り。(略)
又、薩・会の処置、暴に過ぎ、頗る正中を得ざるものあり。
薩は形勢を明察し、機会に乗ずる、天下第一といふべく、昨冬以来、長人是に仇すれども、私怨を忍び改めて咎めず、
彼が挙不正に到るに及んで、憤怨以てこれに答へんとす。尤も巧なりといふべし。
会藩は、上に人物なく、下士激烈無着落。その規模、殊に狭小。必ず労して天下の大害を生ぜん。また憐れむべし。』
寺石正路「南国遺事」の同時期の記録に依れば、薩摩の寛大な処置に対し会津の捕虜の扱いは苛烈を極め
『長人の捕虜を頗る惨酷に扱ひ、爪を抜き、舌を切り、手を切り、なぶり殺しにした。
其中、或一人の頭に釘を打込む。容易に死せず。遂に十三本も打込むと死した。中々豪傑であった』
と会津の者から聞いたそうだ。
会津ろくでもねえな 会津飯盛山で集団自刃した白虎隊。
彼らはなぜ自刃したのか?
唯一の生残り隊士が手記を残していた!
「城が燃えている」という落城説は真っ赤な嘘。
直系の孫(「白虎隊の会」代表飯沼一元氏)が
その真相を明らかにする。
奇跡的にただ一人生き残った隊士飯沼貞吉の生涯を
奇しくも祖父と同じ通信技術者の道を辿った
孫、飯沼一元氏が新たに発掘した資料に基づき、
克明に跡付ける。賊軍・死にそこないの汚名を着せられ
死処を求めてさまよったた貞吉は
偶然敵地長州で療養と勉学の時間を与えられ
やがて日本の電信技術者として大成する。 会津は「今に会津が江戸になる」と謳い…
慶応4年(1868年)2月27日、松平容保(34歳)は会津藩士に徹底抗戦を通告。
西郷頼母は恭順を勧めるが、容保はじめ藩士たちから猛反発され徹底抗戦へ。
慶応4年(1868年)5月1日、白河城陥落。西郷頼母は再び恭順を勧めるが
会津藩士の多くが聞き入れず徹底抗戦を主張。頼母は登城差し止めとなる。
慶応4年(1868年)8月26日、西郷頼母は西軍と砲火を交えている評議中
「この窮地に陥ったのは余の献策をいれないためだ」と厳しく批判。
そのため「西郷斬るべし」の声が起こり容保の命で伝令され
息子吉十郎と共に城を出る。その後は榎本武揚の軍に投じて函館で戦った。 また出た会津の蛮行!北越戦争の影に会津の暗躍!
◆会津にも原因が
慈眼寺での小千谷会談の決裂が、岩村精一郎(高俊)に原因があるように言われているが、
すでに越後で新政府軍との間で戦闘状態にあった会津藩の暗躍がある。
中立の立場を取る長岡藩を奥羽列藩同盟に引き込むために、会津藩指揮官の一之瀬要人と佐川官兵衛が、
会談の直前に長岡と小千谷の中間の片貝で新政府軍を攻撃した。
そして長岡藩の五段梯子の旗印を現場に放置した。
新政府軍は長岡藩の中立を到底信ずることができなかったと思われる。
慈眼寺HP管理人記事より
http://www7a.biglobe.ne.jp/~jigenji/iwamura.htm 白虎隊のことを再確認するためにも、まず白虎隊記念館に立ち寄る。
館内には、史料1万2千点が所狭しと展示されている (有料)。
「会津藩は勤皇なり」の意味も理解できよう。
第2次世界大戦で、奈良と京都と共に、なぜ会津への空爆を
アメリカ軍が避けたのかも納得できるであろう。
http://www.aizue.net/index.html
これ米軍に確認とってるの?
史料があるから避けたんだってて脳内解決だろ(笑)
会津プロパガンダ洗脳者とか制作者って
何で脳内解決しかしないの?
あとさ、会津も新潟爆撃で余った爆撃
落とされてなかったか? 明保野亭事件の真相を示す貴重な資料
明保野亭で会津藩士が誤って土佐藩士・麻田時太郎を刺した事件がある
不思議な事件で、刺した会津藩士も刺された麻田も切腹した
刺された麻田の切腹理由は、逃げようとして腰の辺りを刺されたため
もう駄目だということで切腹、と伝わっている しかし、今回見つかった
切腹前の供述書では、再三名前を名乗ったとあるが真実ならば
明らかに会津藩士に非があることになる。
そして、他の土佐藩士にこのことが知られると
会津藩ともめる可能性があるため、切腹させたというのが真相と考えられる。
http://www.ryoma-kinenkan.jp/see/kyoto-tosa/
会津側では件の会津藩士が責任感を感じて切腹と
美談気味に伝えられてたが、これを見ると会津の嘘吐きはデフォだったらしい。 東北生まれで熱狂的な社民党支持者の佐高信も
会津プロパガンダ洗脳者で、会津プロパガンダと
東日本大震災がリンクしちゃってます(笑)
http://www.kinyobi.co.jp/backnum/data/fusokukei/data_fusokukei_kiji.php?no=1937
あ会津プロパガンダは反日サヨクがやってます。 会津って保守かと思ってたけどサヨクなんだなwwww 先週末に長崎に行ったのは、長崎歴史文化博物館で開催された
シンポジュウムに出席するためだった。元はといえば、私が所属
していた「戊辰戦争研究会」が企画したものだった。
『龍馬の望まなかった戊辰戦争』というテーマで作家の星 亮一氏
が講演をするはずだった。しかし、戊辰戦争研究会が解散してしま
った。(実は主宰者の星亮一氏が偽装解散して、路線の違う役員
を閉め出してしまった。その後、同じ名称で新たに?再出発してい
るのだが、会費の大半を着服するという詐欺まがいの問題を起こしている)
http://qlove-1947.at.webry.info/201010/article_17. 家永三郎《日本の歴史4・明治維新》
>若松城が落城すると、200余年の長いあいだ役人の圧制に苦しんでいた会津の人民が、
>いっせいに『世直し』一揆に蜂起した。10月3日、大沼郡ではじまった一揆は、
>11月下旬の南会津郡の一気におよぶまで、2か月近く、全領内で、しかも、まだ、
>政府軍の砲火のおよばないところでもおこった。かれらは、『徳政』あるいは、
>『肝煎(庄屋)征伐』と書いたむしろ旗をかかげ、『村役人の農民による選挙、土地を
>平均に所有する、高利貸から借りた金は、徳政としてかえさない、3か年の無年貢』などを
>要求した。農民は、役場・肝煎・高利貸などをおそって打ちこわし、土地台帳や借金証文を焼き、
>村役人を新しく選挙した。」
会津農民や領民は会津藩を見放したのである。領民たちは会津武士の死骸から衣服や金目のものを
剥ぎ取って売り、藩士の死体収容すら拒否したのである。 会津観光史学(会津プロパガンダ)を抹殺し
捏造を守ろうとする人々の努力(ウィキでの活動の軌跡)
http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E5%89%8A%E9%99%A4%E4%BE%9D%E9%A0%BC/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E8%A6%B3%E5%85%89%E5%8F%B2%E5%AD%A6
会津観光史学(会津プロパガンダ)は
「(研究者の)独自研究」であるから削除するという主張。
しかし、会津観光史学(会津プロパガンダ)
という用語はすでに複数の研究者が使用し、かつ論文を複数有り、さらには一般向け書籍として出版されたものも複数ある。
果たして、独自研究であろうか?
もしも、研究者の…もっと言えば学術論文はすべて論述した研究者の独自研究と決めつける事が可能であり、
であるならば、教授だろうが博士だろうが無関係にすべてが彼らの独自研究である。
ワタシは、会津ヲタがこうした論で”自己に不利な事実”を抹殺するのであれば、むしろ同じ手法をもって
ウィキペディアの日本史に書かれたすべての記述を「独自研究だ」として、全面消去とウィキペディアに歴史に関する事を書くなと言いたいところだ。
唯一妥協できるとすれば…「文部省が認めた日本史の教科書を丸写しでウィキの日本史項目を全修正」する事だろう。
実に!歴史に…否史学に詳しくない素人が歴史の本を書くとこうなる的なバカバカしい展開だと言える。 野口武彦 のぐち-たけひこ
1937−昭和後期-平成時代の国文学者,文芸評論家。
昭和12年6月28日生まれ。早大在学中,学生運動の
リーダーとして六○年安保闘争に参加。
星亮一の会津プロパガンダを評価してるドサヨクwwww 俺は前々から会津は胡散臭いと思ってたよ。話ができすぎてるしね。 ◆第89回全国高校野球選手権大会1回戦 聖光学院11―7岩国(12日、甲子園球場)
聖光学院(福島)が県勢最多となる18安打、最多タイの11得点を挙げ、岩国(山口)を圧倒。
福島県勢として悲願の“対長州”初白星を挙げ、幕末に白虎隊の悲劇を生んだ「戊辰戦争」の
リベンジを果たした。
平成のサムライは刀ではなく、バットで勇敢に立ち向かった。あの敗戦から139年。時空を超え、
リベンジの瞬間が訪れた。夏の甲子園で福島県勢として対山口県勢初勝利。聖光学院ナインは
真夏の青空に向かって、大声で校歌を歌い上げた。「山口県勢を倒してくれという、年配の方の
声が大きかった」と斎藤智也監督(44)。白虎隊と同い年の若武者たちが、県民の悲願となる
“打倒長州”を成し遂げた。
因縁は江戸末期にさかのぼる。長州中心の新政府軍と旧江戸幕府による戊辰戦争がぼっ発。
旧幕府勢力の中心だった会津藩は、10代の武家の男子によって「白虎隊」を編成した。
だが、苦戦の末、総勢19人が自害する悲劇を生んだ。今月5日の組み合わせ抽選後、岩国との
対戦が決まると、ナインの間では「戦いだな」との声が上がった。「向かっていく気持ちだけは
負けたくなかった」会津若松出身の小椋大輝(3年)が話した通り、福島に脈々と受け継がれ
「打倒長州」の魂がナインに乗り移った。
防戦一方だったあの時代と、同じ轍(てつ)は踏まない。5回を除き毎回安打に毎回得点と攻め続けた。
県勢最多を更新する18安打、最多タイとなる11得点の猛攻。黒土の“戦場”を駆けめぐった。
県大会で打率2割1分1厘と不調だった黒羽剛広は5打数4安打2打点。「これまで支えてくれた
みんなに、恩返ししたかった」と言い切る顔つきは、忠義を尽くす武士そのものだった。
過去の夏の甲子園では、山口県勢に2連敗。横山博英部長(37)は「戊辰戦争から数え、これで1勝3敗。
会津の人が喜んでくれたらうれしい」と笑った。「次も命をかけてぶつかりたい」と黒羽。
勝ってカブトの緒を締めよ―。ナインはひたむきに勝ち進む。
http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/hs/news/20070813-OHT1T00044.htm 会津プロパガンダ洗脳者で反原発のブサヨババア
http://blog.goo.ne.jp/hardsix
しかも星亮一がソースwwwwwwwwww
会津プロパガンダ洗脳者はブサヨです。
反日です。早く気づきましょう! サヨクは嘘でも弱者、被害者が好きだよ。飯の種だからね。 会津のクズッぷりにはドン引きだな。
高校野球まで会津プロパガンダかよ!!
聖光学院は何らかの処分がされるべきだな! 伊達は会津じゃないし岩国は長州じゃない。記事書いた奴も聖光学院側もクソボケだわ。 この横山ってのはどういうつもりなんだろ?教育者としては失格どころの話じゃないだろ?
福島ではこういうのがまかり通るのか? その記事が嘘じゃないなら
まかり通るんだろうよ キメェ >『長人の捕虜を頗る惨酷に扱ひ、爪を抜き、
>舌を切り、手を切り、なぶり殺しにした。
>其中、或一人の頭に釘を打込む。容易に死せず。
>遂に十三本も打込むと死した。中々豪傑であった』
>と会津の者から聞いたそうだ。
>寺石正路「南国遺事」より
人間のやる事じゃないね…。どうやったらこんな残虐になれるの?
会津武士道とか会津魂とか会津士魂とか全部嘘だったの? 会津プロパガンダ洗脳者が会津の掟だか何だかを一切守ってないからなwwww 【菊のカーテン】
ATR72.墜落事故.松山空港〜台湾(和歌山県)赤と青のリボンが機体にある。2月4日(英国時間.2月3日)(日本時間2月4日=立春)
ATR23.二階建てバスの事故=天井が無い(ロンドン.車体にzooplaの広告)2月3日(英国時間2月2日)
(23)歳
ATR7200(録画・録音・集音機材)
天井が無い=英国サッカーチーム.トイレにて行為を撮影されるhttp://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1423402855/
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1424432596/留学先での流出画像。スケープゴートか?
カード(poison)日本古来の堕胎とダチュラの関係
2.6日
2.12日
2.19日=春節(旧正月)
2.20日=http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1424385099/ 江東区、整骨院の入居しているマンションで火災。
2.22日
2.24日(着床)
3.25日(懐胎)
zoopla.uk(二階建てバス)
2015年8月1日婚約会見で(英国時間7月31日)
2015年8月15日までに招待状が届き、8月1日の99日後の11月8日に披露宴となり
2016年1月27日に懐妊発表で、十月十日後の11月7日に出産の11月8日にお披露目か?
***これは、もしかして・・・?***
上記に付け加えると、2.19日=春節(旧正月)であり、これを盛大に祝うのは?
そう。台湾はじめ中国など。
2.20日(2.19日)は春節であり、2.4日は立春となる。
したがって、この話が見えてくる。
この事件の加害者の写真は誰に似ている?http://anago.2ch.net/test/read.cgi/youth/1406469155/(長崎)
この事件の地域と家族構成は?http://hello.2ch.net/test/read.cgi/ms/1423222829/(高野山)
この事件の当事者と皇族関係は?http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1416198754/l50(ハプニングバー)
これもある。
菊のカーテンでは?? 会津プロパガンダ洗脳者はこの矛盾に気づかないのかな?
まあ気づいてたら会津プロパガンダなんかに洗脳されやしないよな(笑) 会津プロパガンダ洗脳者って反原発のブサヨババアが多いの何で? 東北=被害者だからだろうな。
幕末の被害者、原発の被害者を
合わせれば被害がでかく見えるし。
まあ幕末の被害者は嘘っぱちだけどな。
震災は気の毒だが原発誘致したの
福島県の政治家だからな。
自業自得とは言わないけどね。
まさかそこに地震が来るなんて
福島県だって解らない事だし。
とにかく会津プロパガンダをやめるのが先決。
汚染は人の手じゃどうにもならない。
でも脱会津プロパガンダは人の手でできる。 レビューには特徴があり、その作者の本にしか
レビューをつけていないか、会津プロパガンダ本と
反原発の本にレビューをつけている。
お前ら会津プロパガンダ洗脳者
アンチ長州に言いたい。皆が皆、お前らの
工作に気付かないと思った大間違いだぞ。
2ちゃんでも、Amazonでも、ヤフー知恵袋でも
お前らの嘘を指摘する人はいるからな!
http://history.harikonotora.net/img/249-67.jpg 原田伊織のブログより
>いつの時代も中央のために働かされてきた
>奥羽の宿命めいたものを感じ
>ついつい東京電力の奥羽に対する犯罪ともいうべき
>事故にまで思いを馳せてしまうのである。
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/192874/169035/70961045
誘致したのは福島県の政治家、渡部恒三だろ。
何政府が押し付けたみたいに書いてんの?
前の福島県知事は渡部の親族で
東電子会社の社長だろうが!
何でアンチ長州の会津シンパはこんな嘘を
平気な面して発信するんだ?工作員か? 原発は渡部恒三が誘致したんだよ。前の佐藤知事は渡部の親類。
会津人による原発誘致。事故後は被害者気取りの会津人。
戦時中は会津武士道!敗戦後は維新の被害者!
会津人は何も変わってない。 こんな祭りやってんだもん。そらゲスでしょうよwwww 祭で薩長人に罵声浴びせて斬り殺すのが郷土愛か(笑) 戊辰では官軍について武家やら庄屋やら襲っといて
会津プロパガンダに洗脳されて郷土愛とか言われても
ただのキチガイにしか見えないよね。 会津プロパガンダ洗脳者で
熱狂的な社民支持おばさん
八重の桜終わって1年以上経つのに
未だに八重の桜がどうのこうの言ってるよ。
しかも鬱病とか書いてるわりには
遊びまくってるし、何なの?気持ち悪い。
http://goaheadkk.blog25.fc2.com/ 村興しがプロパガンダなんて会津だけだよな気持ち悪い 会津プロパガンダ制作者、洗脳者からしたら
会津が大河に選ばれるなんて失禁モンだったからな。
だから終わっても未だにヤエガーヤエガー鳴いてるんだよ。
本当奴等はマジキチだわ(笑) 会津プロイセン(ドイツ)との
提携を模索していたことが東京大史料編纂所の
箱石大准教授らの研究で明らかになった。
ドイツの文書館で確認した資料は
会津が北海道などの領地の譲渡を提案したが
宰相ビスマルクは戦争への中立
などを理由に断ったことを伝えていた。
ドイツの国立軍事文書館の資料で
10年ほど前にドイツ側の研究者が
存在を紹介したが詳細が不明だった。
箱石さんらの調査で確認されたのは
1868年の文書3点。いずれも、ボン大の
ペーター・パンツァー名誉教授に依頼し解読
日本語に翻訳した。
会津による国土売却未遂事件!これが史実の会津!!!
天皇の忠臣でも幕府の忠臣でもない!ただの売国奴!
会津プロパガンダで美化してるキムチ脳だっ! 池田屋事件直後の元治元年(1864)6月7日付京都守護職会津松平家在京老臣の公的書簡である(『会津藩庁記録』4巻、664〜668頁)
新選組が会津松平家へ「少しの間もそのままにしていてはいけないと思うので、すぐさま出動し長州を召捕りたい、そのための人数を拝借し、会津公用人も一人出張して頂きたい」と願ったというのである(意訳)。
原口氏はこの書簡に古高が「御所辺放火」を供述したという記載が全くなく
そして事件から4日過ぎた6月9日付の一橋慶喜書簡(松平慶永宛)に、古高が「風便を待ち、御所を焼払」う計画をもつものだったと突然「御所放火」が登場することを指摘する。
つまり長州が京に放火して天皇を拐うというのは
会津・新撰組によるでっちあげ。
近代、現代だけでなく、当時からせこい工作やってるのが会津だよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています