煙草にアンパンマンを印刷したら喫煙率下がるだろ [無断転載禁止]©2ch.net
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
>>14
ワロタ
買うのが恥ずかしいパッケージに統一するのはいい方法かもね
ヲタクは未開封のまま残すだろうから喫煙率が上がることも無さそうだし ユニークで個性的な簡単確実稼げる秘密の方法
時間がある方はみてもいいかもしれません
グーグル検索⇒『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
11HOY 新公は半ば嘲るやうに、又半ば訝るやうに、彼女の顔を眺めたなり、やつと短銃の先を下げた。 一瞬間彼女の心の中には、憎しみ、怒り、嫌悪、悲哀、その外いろいろの感情がごつたに燃え立つて来たらしかつた。 新公はさう云ふ彼女の変化に注意深い目を配りながら、横歩きに彼女の後ろへ廻ると茶の間の障子を明け放つた。 が、立ち退いた跡と云ふ条、取り残した茶箪笥や長火鉢は、その中にもはつきり見る事が出来た。 新公は其処に佇んだ儘、かすかに汗ばんでゐるらしい、お富の襟もとへ目を落した。 するとそれを感じたのか、お富は体を捻るやうに、後ろにゐる新公の顔を見上げた。 彼女の顔にはもう何時の間にか、さつきと少しも変らない、活き活きした色が返つてゐた。 しかし新公は狼狽したやうに、妙な瞬きを一つしながら、いきなり又猫へ短銃を向けた。 お富は彼を止めると同時に、手の中の剃刀を板の間へ落した。 が、突然立ち上ると、ふて腐れた女のするやうに、さつさと茶の間へはひつて行つた。 新公は彼女の諦めの好いのに、多少驚いた容子だつた。 おまけに雲の間には、夕日の光でもさし出したのか、薄暗かつた台所も、だんだん明るさを加へて行つた。 新公はその中に佇みながら、茶の間のけはひに聞き入つてゐた。 新公はちよいとためらつた後、薄明るい茶の間へ足を入れた。 茶の間のまん中にはお富が一人、袖に顔を蔽つた儘、ぢつと仰向けに横たはつてゐた。 新公はその姿を見るが早いか、逃げるやうに台所へ引き返した。 それは嫌悪のやうにも見えれば、恥ぢたやうにも見える色だつた。 彼は板の間へ出たと思ふと、まだ茶の間へ背を向けたなり、突然苦しさうに笑ひ出した。 何分かの後、懐に猫を入れたお富は、もう傘を片手にしながら、破れ筵を敷いた新公と、気軽に何か話してゐた。 わたしは少しお前さんに、訊きたい事があるんですがね。――」 新公はまだ間が悪さうに、お富の顔を見ないやうにしてゐた。 まあ肌身を任せると云へば、女の一生ぢや大変な事だ。 それをお富さん、お前さんは、その猫の命と懸け替に、―― こいつはどうもお前さんにしちや、乱暴すぎるぢやありませんか?」 「それとも又お前さんは、近所でも評判の主人思ひだ。 三毛が殺されたとなつた日にや、この家の上さんに申し訣がない。―― お富は小首を傾けながら、遠い所でも見るやうな目をした。 唯あの時はああしないと、何だかすまない気がしたのさ。」 更に又何分かの後、一人になつた新公は、古湯帷子の膝を抱いた儘、ぼんやり台所に坐つてゐた。 暮色は疎らな雨の音の中に、だんだん此処へも迫つて来た。 と思ふと上野の鐘が、一杵づつ雨雲にこもりながら、重苦しい音を拡げ始めた。 新公はその音に驚いたやうに、ひつそりしたあたりを見廻した。 それから手さぐりに流し元へ下りると、柄杓になみなみと水を酌んだ。 「村上新三郎源の繁光、今日だけは一本やられたな。」 彼はさう呟きざま、うまさうに黄昏の水を飲んだ。…… 明治二十三年三月二十六日、お富は夫や三人の子供と、上野の広小路を歩いてゐた。 その日は丁度竹の台に、第三回内国博覧会の開会式が催される当日だつた。 だから広小路の人通りは、殆ど押し返さないばかりだつた。 其処へ上野の方からは、開会式の帰りらしい馬車や人力車の行列が、しつきりなしに流れて来た。 前田正名、田口卯吉、渋沢栄一、辻新次、岡倉覚三、下条正雄―― その馬車や人力車の客には、さう云ふ人々も交つてゐた。 五つになる次男を抱いた夫は、袂に長男を縋らせた儘、目まぐるしい往来の人通りをよけよけ、時々ちよいと心配さうに、後ろのお富を振り返つた。 お富は長女の手をひきながら、その度に晴れやかな微笑を見せた。 彼女は明治四五年頃に、古河屋政兵衛の甥に当る、今の夫と結婚した。 夫はその頃は横浜に、今は銀座の何丁目かに、小さい時計屋の店を出してゐた。…… その時丁度さしかかつた、二頭立ちの馬車の中には、新公が悠々と坐つてゐた。 尤も今の新公の体は、駝鳥の羽根の前立だの、厳めしい金モオルの飾緒だの、大小幾つかの勲章だの、いろいろの名誉の標章に埋まつてゐるやうなものだつた。 しかし半白の髯の間に、こちらを見てゐる赭ら顔は、往年の乞食に違ひなかつた。 顔のせゐか、言葉のせゐか、それとも持つてゐた短銃のせゐか、兎に角わかつてはゐたのだつた。 二十年以前の雨の日の記憶は、この瞬間お富の心に、切ない程はつきり浮んで来た。 彼女はあの日無分別にも、一匹の猫を救ふ為に、新公に体を任さうとした。 新公は亦さう云ふ羽目にも、彼女が投げ出した体には、指さへ触れる事を肯じなかつた。 が、知らないのにも関らず、それらは皆お富には、当然すぎる程当然だつた。 彼女は馬車とすれ違ひながら、何か心の伸びるやうな気がした。 新公の馬車の通り過ぎた時、夫は人ごみの間から、又お富を振り返つた。 彼女はやはりその顔を見ると、何事もないやうに頬笑んで見せた。 まだあたりは明るいものの、丁度町角の街燈には瓦斯のともる時分だつた。 彼は楽々と逃げながら、鬼になつて来る彼女を振りかへつた。 彼女は彼を見つめたまま、一生懸命に追ひかけて来た。 彼はその顔を眺めた時、妙に真剣な顔をしてゐるなと思つた。 が、年月の流れるのにつれ、いつかすつかり消えてしまつた。 それから二十年ばかりたつた後、彼は雪国の汽車の中に偶然、彼女とめぐり合つた。 窓の外が暗くなるのにつれ、沾めつた靴や外套のひが急に身にしみる時分だつた。 彼は巻煙草を銜へながら、(それは彼が同志と一しよに刑務所を出た三日目だつた。)ふと彼女の顔へ目を注いだ。 近頃夫を失つた彼女は熱心に彼女の両親や兄弟のことを話してゐた。 彼はその顔を眺めた時、妙に真剣な顔をしてゐるなと思つた。 と同時にいつの間にか十二歳の少年の心になつてゐた。 が、彼はその時以来、妙に真剣な彼女の顔を一度も目のあたりに見たことはなかつた。 雨降りの午後、今年中学を卒業した洋一は、二階の机に背を円くしながら、北原白秋風の歌を作っていた。 すると「おい」と云う父の声が、突然彼の耳を驚かした。 彼は倉皇と振り返る暇にも、ちょうどそこにあった辞書の下に、歌稿を隠す事を忘れなかった。 が、幸い父の賢造は、夏外套をひっかけたまま、うす暗い梯子の上り口へ胸まで覗かせているだけだった。 「どうもお律の容態が思わしくないから、慎太郎の所へ電報を打ってくれ。」 「まあ、ふだんが達者だから、急にどうと云う事もあるまいがね、―― 賢造は妙に洋一と、視線の合う事を避けたいらしかった。 「しかしあしたは谷村博士に来て貰うように頼んで置いた。 賢造の姿が隠れると、洋一には外の雨の音が、急に高くなったような心もちがした。 彼はすぐに立ち上ると、真鍮の手すりに手を触れながら、どしどし梯子を下りて行った。 まっすぐに梯子を下りた所が、ぎっしり右左の棚の上に、メリヤス類のボオル箱を並べた、手広い店になっている。―― その店先の雨明りの中に、パナマ帽をかぶった賢造は、こちらへ後を向けたまま、もう入口に直した足駄へ、片足下している所だった。 今日あちらへ御見えになりますか、伺ってくれろと申すんですが………」 洋一が店へ来ると同時に、電話に向っていた店員が、こう賢造の方へ声をかけた。 店員はほかにも四五人、金庫の前や神棚の下に、主人を送り出すと云うよりは、むしろ主人の出て行くのを待ちでもするような顔をしていた。 電話の切れるのが合図だったように、賢造は大きな洋傘を開くと、さっさと往来へ歩き出した。 その姿がちょいとの間、浅く泥を刷いたアスファルトの上に、かすかな影を落して行くのが見えた。 洋一は帳場机に坐りながら、店員の一人の顔を見上げた。 そう答えた店員は、上り框にしゃがんだまま、あとは口笛を鳴らし始めた。 その間に洋一は、そこにあった頼信紙へ、せっせと万年筆を動かしていた。 彼よりも色の黒い、彼よりも肥った兄の顔が、彼には今も頭のどこかに、ありあり浮んで見えるような気がした。 彼は始こう書いたが、すぐにまた紙を裂いて、「ハハビョウキ、スグカエレ」と書き直した。 それでも「ワルシ」と書いた事が、何か不吉な前兆のように、頭にこびりついて離れなかった。 やっと書き上げた電報を店員の一人に渡した後、洋一は書き損じた紙を噛み噛み、店の後にある台所へ抜けて、晴れた日も薄暗い茶の間へ行った。 茶の間には長火鉢の上の柱に、ある毛糸屋の広告を兼ねた、大きな日暦が懸っている。―― そこに髪を切った浅川の叔母が、しきりと耳掻きを使いながら、忘れられたように坐っていた。 それが洋一の足音を聞くと、やはり耳掻きを当てがったまま、始終爛れている眼を擡げた。 「困ったねえ、私は何も名のつくような病気じゃないと思っていたんだよ。」 洋一は長火鉢の向うに、いやいや落着かない膝を据えた。 襖一つ隔てた向うには、大病の母が横になっている。―― そう云う意識がいつもよりも、一層この昔風な老人の相手を苛立たしいものにさせるのだった。 叔母はしばらく黙っていたが、やがて額で彼を見ながら、 浅川の叔母の言葉には、軽い侮蔑を帯びた中に、反って親しそうな調子があった。 三人きょうだいがある内でも、お律の腹を痛めないお絹が、一番叔母には気に入りらしい。 それには賢造の先妻が、叔母の身内だと云う理由もある。―― 洋一は誰かに聞かされた、そんな話を思い出しながら、しばらくの間は不承不承に、一昨年ある呉服屋へ縁づいた、病気勝ちな姉の噂をしていた。 お父さんは知らせた方が好いとか云ってお出でだったけれど。」 その噂が一段落着いた時、叔母は耳掻きの手をやめると、思い出したようにこう云った。 地理に通じない叔母の返事は、心細いくらい曖昧だった。 それが何故か唐突と、洋一の内に潜んでいたある不安を呼び醒ました。 そう思うと彼は電報に、もっと大仰な文句を書いても、好かったような気がし出した。 すると姉や浅川の叔母が、親不孝だと云って兄を責める。―― こんな光景も一瞬間、はっきり眼の前に見えるような気がした。 洋一はいつか叔母よりも、彼自身に気休めを云い聞かせていた。 そこへちょうど店の神山が、汗ばんだ額を光らせながら、足音を偸むようにはいって来た。 なるほどどこかへ行った事は、袖に雨じみの残っている縞絽の羽織にも明らかだった。 神山は浅川の叔母に一礼してから、懐に入れて来た封書を出した。 「御病人の方は、少しも御心配には及ばないとか申して居りました。 追っていろいろ詳しい事は、その中に書いてありますそうで――」 叔母はその封書を開く前に、まず度の強そうな眼鏡をかけた。 封筒の中には手紙のほかにも、半紙に一の字を引いたのが、四つ折のままはいっていた。 洋一はそれでも珍しそうに、叔母の読んでいる手紙を覗きこんだ。 神山はにやにや笑いながら、時計の紐をぶら下げた瑪瑙の印形をいじっていた。 叔母は半ばたしなめるように、老眼鏡の眼を洋一へ挙げた。 多少心もちの明くなった洋一は、顔は叔母の方へ近づけたまま、手は袂の底にある巻煙草の箱を探っていた。 「そら、そこに東枕にてもよろしいと書いてありますよ。―― 神山は金口を耳に挟みながら、急に夏羽織の腰を擡げて、々店の方へ退こうとした。 その途端に障子が明くと、頸に湿布を巻いた姉のお絹が、まだセルのコオトも脱がず、果物の籠を下げてはいって来た。 そう云う言葉が、ほとんど同時に、叔母と神山との口から出た。 お絹は二人に会釈をしながら、手早くコオトを脱ぎ捨てると、がっかりしたように横坐りになった。 その間に神山は、彼女の手から受け取った果物の籠をそこへ残して、気忙しそうに茶の間を出て行った。 果物の籠には青林檎やバナナが綺麗につやつやと並んでいた。 お絹はやはり横坐りのまま、器用に泥だらけの白足袋を脱いだ。 洋一はその足袋を見ると、丸髷に結った姉の身のまわりに、まだ往来の雨のしぶきが、感ぜられるような心もちがした。 叔母は易者の手紙をひろげたなり、神山と入れ違いに来た女中の美津と、茶を入れる仕度に忙しかった。 「あら、だって電話じゃ、昨日より大変好さそうだったじゃありませんか? これは美津が茶を勧めながら、そっとつけ加えた言葉だった。 お絹ははすはに顔をしかめて、長火鉢の側へすり寄った。 そんな対話を聞きながら、巻煙草を啣えた洋一は、ぼんやり柱暦を眺めていた。 中学を卒業して以来、彼には何日と云う記憶はあっても、何曜日かは終始忘れている。―― それがふと彼の心に、寂しい気もちを与えたのだった。 その上もう一月すると、ほとんど受ける気のしない入学試験がやって来る。 姉の言葉が洋一には、急にはっきり聞えたような気がした。 が、彼は何も云わずに、金口をふかしているばかりだった。 もっとも美津はその時にはとうにもう台所へ下っていた。 「それにあの人は何と云っても、男好きのする顔だから、――」 叔母はやっと膝の上の手紙や老眼鏡を片づけながら、蔑むらしい笑いかたをした。 するとお絹も妙な眼をしたが、これはすぐに気を変えて、 ひどく厭な気がしていた彼は金口を灰に突き刺すが早いか、叔母や姉の視線を逃れるように、早速長火鉢の前から立ち上った。 そうして襖一つ向うの座敷へ、わざと気軽そうにはいって行った。 そこは突き当りの硝子障子の外に、狭い中庭を透かせていた。 中庭には太い冬青の樹が一本、手水鉢に臨んでいるだけだった。 麻の掻巻をかけたお律は氷嚢を頭に載せたまま、あちら向きにじっと横になっていた。 そのまた枕もとには看護婦が一人、膝の上にひろげた病床日誌へ近眼の顔をすりつけるように、せっせと万年筆を動かしていた。 看護婦は洋一の姿を見ると、ちょいと媚のある目礼をした。 洋一はその看護婦にも、はっきり異性を感じながら、妙に無愛想な会釈を返した。 それから蒲団の裾をまわって、母の顔がよく見える方へ坐った。 が、洋一の差し覗いた顔へそっと熱のある眼をあけると、ふだんの通りかすかに頬笑んで見せた。 洋一は何だか叔母や姉と、いつまでも茶の間に話していた事がすまないような心もちになった。 しかしお律はそう云ったぎり、何とも後を続けなかった。 洋一は看護婦の手を借りずに、元通りそれを置き直した。 が、もうその時は小鼻の上に涙のたまるのを感じていた。 母はかすかに呟いたまま、疲れたようにまた眼をつぶった。 顔を赤くした洋一は、看護婦の見る眼を恥じながら、すごすご茶の間へ帰って来た。 帰って来ると浅川の叔母が、肩越しに彼の顔を見上げて、 叔母はお絹と長火鉢越しに、顔を見合せたらしかった。 姉は上眼を使いながら、笄で髷の根を掻いていたが、やがてその手を火鉢へやると、 「神山さんが帰って来た事は云わなかったの?」と云った。 洋一は襖側に立ったなり、緩んだ帯をしめ直していた。 食卓の上には、昨夜泊った叔母の茶碗も伏せてあった。 が、叔母は看護婦が、長い身じまいをすませる間、母の側へその代りに行っているとか云う事だった。 この一週間ばかりと云うものは、毎日こう云う二人きりの、寂しい食事が続いている。 しかし今日はいつもよりは、一層二人とも口が重かった。 給仕の美津も無言のまま、盆をさし出すばかりだった。 賢造は返事を予期するように、ちらりと洋一の顔を眺めた。 と云うより一体帰るかどうか、彼には今も兄の意志が、どうも不確かでならないのだった。 今度は洋一も父の言葉に、答えない訳には行かなかった。 「しかし今は学校がちょうど、試験じゃないかと思うんですがね。」 賢造は何か考えるように、ちょいと言葉を途切らせたが、やがて美津に茶をつがせながら、 慎太郎はもうこの秋は、大学生になるんだから。」と云った。 やりたい文学もやらせずに、勉強ばかり強いるこの頃の父が、急に面憎くなったのだった。 その上兄が大学生になると云う事は、弟が勉強すると云う事と、何も関係などはありはしない。―― そうまた父の論理の矛盾を嘲笑う気もちもないではなかった。 が、とにかく戸沢さんが来たら、電話をかけてくれって云っていました。」 この四月以来市場には、前代未聞だと云う恐慌が来ている。 現に賢造の店などでも、かなり手広くやっていた、ある大阪の同業者が突然破産したために、最近も代払いの厄に遇った。 そのほかまだ何だ彼だといろいろな打撃を通算したら、少くとも三万円内外は損失を蒙っているのに相違ない。―― 何しろこう云う景気じゃ、いつ何時うちなんぞも、どんな事になるか知れないんだから、――」 賢造は半ば冗談のように、心細い事を云いながら、大儀そうに食卓の前を離れた。 それから隔ての襖を明けると、隣の病室へはいって行った。 「これで薬さえ通ると好いんですが、薬はすぐに吐いてしまうんでね。」 今朝は食事前に彼が行って見ると、母は昨日一昨日よりも、ずっと熱が低くなっていた。 口を利くのもはきはきしていれば、寝返りをするのも楽そうだった。 「お肚はまだ痛むけれど、気分は大へん好くなったよ。」―― その上あんなに食気までついたようでは、今まで心配していたよりも、存外恢復は容易かも知れない。―― 洋一は隣を覗きながら、そう云う嬉しさにそやされていた。 が、余り虫の好い希望を抱き過ぎると、反ってそのために母の病気が悪くなって来はしないかと云う、迷信じみた惧れも多少はあった。 洋一はやはり手をついたまま、声のする方を振り返った。 電話を知らせたのはもう一人の、松と云う年上の女中だった。 松は濡れ手を下げたなり、銅壺の見える台所の口に、襷がけの姿を現していた。 「しょうがないな、いつでもどちらでございますかだ。」 洋一は不服そうに呟きながら、すぐに茶の間を出て行った。 おとなしい美津に負け嫌いの松の悪口を聞かせるのが、彼には何となく愉快なような心もちも働いていたのだった。 店の電話に向って見ると、さきは一しょに中学を出た、田村と云う薬屋の息子だった。 そんな事を話し合った後、電話を切った洋一は、そこからすぐに梯子を上って、例の通り二階の勉強部屋へ行った。 が、机に向って見ても、受験の準備は云うまでもなく、小説を読む気さえ起らなかった。 その窓から外を見ると、向うの玩具問屋の前に、半天着の男が自転車のタイアへ、ポンプの空気を押しこんでいた。 何だかそれが洋一には、気忙しそうな気がして不快だった。 と云ってまた下へ下りて行くのも、やはり気が進まなかった。 彼はとうとう机の下の漢和辞書を枕にしながら、ごろりと畳に寝ころんでしまった。 すると彼の心には、この春以来顔を見ない、彼には父が違っている、兄の事が浮んで来た。 しかしそのために洋一は、一度でも兄に対する情が、世間普通の兄弟に変っていると思った事はなかった。 いや、母が兄をつれて再縁したと云う事さえ、彼が知るようになったのは、割合に新しい事だった。 ただ父が違っていると云えば、彼にはかなりはっきりと、こんな思い出が残っている。―― 洋一はある日慎太郎と、トランプの勝敗から口論をした。 その時分から冷静な兄は、彼がいくらいきり立っても、ほとんど語気さえも荒立てなかった。 が、時々蔑むようにじろじろ彼の顔を見ながら、一々彼をきめつけて行った。 洋一はとうとうかっとなって、そこにあったトランプを掴むが早いか、いきなり兄の顔へ叩きつけた。 トランプは兄の横顔に中って、一面にあたりへ散乱した。―― 二人はしばらく獣のように、撲ったり撲られたりし合っていた。 その騒ぎを聞いた母は、慌ててその座敷へはいって来た。 母の声を聞くか聞かない内に、洋一はもう泣き出していた。 が、兄は眼を伏せたまま、むっつり佇んでいるだけだった。 弟を相手に喧嘩なんぞして、何がお前は面白いんだえ?」 母にこう叱られると、兄はさすがに震え声だったが、それでも突かかるように返事をした。 一体お前が年嵩な癖に勘弁してやらないのが悪いんです。」 母は洋一をかばいながら、小突くように兄を引き離した。 すると兄の眼の色が、急に無気味なほど険しくなった。 兄はそう云うより早く、気違いのように母を撲とうとした。 が、その手がまだ振り下されない内に、洋一よりも大声に泣き出してしまった。―― 母がその時どんな顔をしていたか、それは洋一の記憶になかった。 しかし兄の口惜しそうな眼つきは、今でもまざまざと見えるような気がする。 兄はただ母に叱られたのが、癇癪に障っただけかも知れない。 もう一歩臆測を逞くするのは、善くない事だと云う心もちもある。 が、兄が地方へ行って以来、ふとあの眼つきを思い出すと、洋一は兄の見ている母が、どうも彼の見ている母とは、違っていそうに思われるのだった。 しかもそう云う気がし出したのには、もう一つ別な記憶もある。―― 三年前の九月、兄が地方の高等学校へ、明日立とうと云う前日だった。 洋一は兄と買物をしに、わざわざ銀座まで出かけて行った。 兄は尾張町の角へ出ると、半ば独り言のようにこう云った。 洋一は顔を汗ばませながら、まだ冗談のような調子で話し続けた。 「それから誰か病気になっても、急には帰って来られないし、――」 歩道の端を歩いていた兄は、彼の言葉に答える前に、手を伸ばして柳の葉をむしった。 兄の声には意外なくらい、感情の罩った調子があった。 それなら、僕のような人間のある事も、すぐに理解出来そうなもんだ。―― 母を撲とうとした兄の眼つきが、はっきり記憶に浮ぶのを感じた。 が、そっと兄の容子を見ると、兄は遠くへ眼をやりながら、何事もないように歩いていた。―― そんな事を考えると、兄がすぐに帰って来るかどうか、いよいよ怪しい心もちがする。 殊に試験でも始まっていれば、二日や三日遅れる事は、何とも思っていないかも知れない。 彼の考がそこまで来た時、誰かの梯子を上って来る音が、みしりみしり耳へはいり出した。 すると梯子の上り口には、もう眼の悪い浅川の叔母が、前屈みの上半身を現わしていた。 洋一はそう云う叔母の言葉に、かすかな皮肉を感じながら、自分の座蒲団を向うへ直した。 が、叔母はそれは敷かずに、机の側へ腰を据えると、さも大事件でも起ったように、小さな声で話し出した。 実はあの看護婦だがね、ありゃお前、仕方がないよ。――」 叔母はそれからねちねちと、こんな話をし始めた。―― 昨日あの看護婦は、戸沢さんが診察に来た時、わざわざ医者を茶の間へ呼んで、「先生、一体この患者はいつ頃まで持つ御見込みなんでしょう? もし長く持つようでしたら、私はお暇を頂きたいんですが。」と云った。 看護婦は勿論医者のほかには、誰もいないつもりに違いなかった。 が、生憎台所にいた松がみんなそれを聞いてしまった。 そうしてぷりぷり怒りながら、浅川の叔母に話して聞かせた。 のみならず叔母が気をつけていると、その後も看護婦の所置ぶりには、不親切な所がいろいろある。 現に今朝なぞも病人にはかまわず、一時間もお化粧にかかっていた。……… 「いくら商売柄だって、それじゃお前、あんまりじゃないか。 だから私の量見じゃ、取り換えた方が好いだろうと思うのさ。」 洋一はあんな看護婦なぞに、母の死期を数えられたと思うと、腹が立って来るよりも、反って気がふさいでならないのだった。 お父さんは今し方、工場の方へ行ってしまったんだよ。 叔母はややもどかしそうに、爛れている眼を大きくした。 「私はどうせ取り換えるんなら、早い方が好いと思うんだがね、――」 「それじゃあ神山さんにそう云って、今すぐに看護婦会へ電話をかけて貰いましょうよ。―― お父さんにゃ帰って来てから話しさえすれば好いんだから、――」 洋一は叔母のさきに立って、勢い好く梯子を走り下りた。 彼の声を聞いた五六人の店員たちは、店先に散らばった商品の中から、驚いたような視線を洋一に集めた。 と同時に神山は、派手なセルの前掛けに毛糸屑をくっつけたまま、早速帳場机から飛び出して来た。 梯子の下に立った洋一は、神山と一しょに電話帳を見ながら、彼や叔母とは没交渉な、平日と変らない店の空気に、軽い反感のようなものを感じない訳には行かなかった。 午過ぎになってから、洋一が何気なく茶の間へ来ると、そこには今し方帰ったらしい、夏羽織を着た父の賢造が、長火鉢の前に坐っていた。 そうしてその前には姉のお絹が、火鉢の縁に肘をやりながら、今日は湿布を巻いていない、綺麗な丸髷の襟足をこちらへまともに露していた。 お絹は昨日よりもまた一倍、血色の悪い顔を挙げて、ちょいと洋一の挨拶に答えた。 それから多少彼を憚るような、薄笑いを含んだ調子で、怯ず怯ず話の後を続けた。 「その方がどうかなってくれなくっちゃ、何かに私だって気がひけるわ。 私があの時何した株なんぞも、みんな今度は下ってしまったし、――」 父は浮かない顔をしながら、その癖冗談のようにこんな事を云った。 姉は去年縁づく時、父に分けて貰う筈だった物が、未に一部は約束だけで、事実上お流れになっているらしい。―― そう云う消息に通じている洋一は、わざと長火鉢には遠い所に、黙然と新聞をひろげたまま、さっき田村に誘われた明治座の広告を眺めていた。 お母さんはああやって寝ているし、お前にゃ愚痴ばかりこぼされるし、――」 洋一は父の言葉を聞くと、我知らず襖一つ向うの、病室の動静に耳を澄ませた。 そこではお律がいつもに似合わず、時々ながら苦しそうな唸り声を洩らしているらしかった。 独り言のような洋一の言葉は、一瞬間彼等親子の会話を途切らせるだけの力があった。 が、お絹はすぐに居ずまいを直すと、ちらりと賢造の顔を睨みながら、 いつか私がそう云った時に、御医者様を取り換えていさえすりゃ、きっとこんな事にゃなりゃしないわ。 それをお父さんがまた煮え切らないで、――」と、感傷的に父を責め始めた。 「だからさ、だから今日は谷村博士に来て貰うと云っているんじゃないか?」 賢造はとうとう苦い顔をして、抛り出すようにこう云った。 洋一も姉の剛情なのが、さすがに少し面憎くもなった。 さっき工場の方からも電話をかけて置いたんだが、――」 洋一は立て膝を抱きながら、日暦の上に懸っている、大きな柱時計へ眼を挙げた。 「さっきも叔母さんがかけたってそう云っていたがね。」 彼等がそんな事を話している内に、お絹はまだ顔を曇らせたまま、急に長火鉢の前から立上ると、さっさと次の間へはいって行った。 賢造は苦笑を洩らしながら、始めて腰の煙草入れを抜いた。 が、洋一はまた時計を見たぎり、何ともそれには答えなかった。 それが気のせいかさっきよりは、だんだん高くなるようでもあった。 もっとも向うの身になって見れば、母一人が患者ではなし、今頃はまだ便々と、回診か何かをしているかも知れない。 いや、もう四時を打つ所だから、いくら遅くなったにしても、病院はとうに出ている筈だ。 洋一は陰気な想像から、父の声と一しょに解放された。 見ると襖の明いた所に、心配そうな浅川の叔母が、いつか顔だけ覗かせていた。 「そうですね、一時凌ぎさえつけて頂けりゃ、戸沢さんでも好いんですがね。」 じゃ先生はもう御出かけになりましたでしょうかってね。 賢造の言葉が終らない内に、洋一はもう茶の間から、台所の板の間へ飛び出していた。 その側を乱暴に通りぬけながら、いきなり店へ行こうとすると、出合い頭に向うからも、小走りに美津が走って来た。 二人はまともにぶつかる所を、やっと両方へ身を躱した。 結いたての髪をわせた美津は、極り悪そうにこう云ったまま、ばたばた茶の間の方へ駈けて行った。 するとまだ交換手が出ない内に、帳場机にいた神山が、後から彼へ声をかけた。 神山は彼の方を見ずに、金格子で囲った本立てへ、大きな簿記帳を戻していた。 「先生はただ今御出かけになったって云ってたようですが、―― 呼びかけられた店員の一人は、ちょうど踏台の上にのりながら、高い棚に積んだ商品の箱を取り下そうとしている所だった。 もうそちらへいらっしゃる時分だって云っていましたよ。」 洋一は電話を切ってから、もう一度茶の間へ引き返そうとした。 が、ふと店の時計を見ると、不審そうにそこへ立ち止った。 洋一はちょいとためらった後、大股に店さきへ出かけて行くと、もう薄日もささなくなった、もの静な往来を眺めまわした。 じゃ神山さん、僕はちょいとそこいらへ行って見て来らあ。」 彼は肩越しに神山へ、こう言葉をかけながら、店員の誰かが脱ぎ捨てた板草履の上へ飛び下りた。 そうしてほとんど走るように、市街自動車や電車が通る大通りの方へ歩いて行った。 大通りは彼の店の前から、半町も行かない所にあった。 そこの角にある店蔵が、半分は小さな郵便局に、半分は唐物屋になっている。―― その唐物屋の飾り窓には、麦藁帽や籐の杖が奇抜な組合せを見せた間に、もう派手な海水着が人間のように突立っていた。 洋一は唐物屋の前まで来ると、飾り窓を後に佇みながら、大通りを通る人や車に、苛立たしい視線を配り始めた。 が、しばらくそうしていても、この問屋ばかり並んだ横町には、人力車一台曲らなかった。 たまに自動車が来たと思えば、それは空車の札を出した、泥にまみれているタクシイだった。 その内に彼の店の方から、まだ十四五歳の店員が一人、自転車に乗って走って来た。 それが洋一の姿を見ると、電柱に片手をかけながら、器用に彼の側へ自転車を止めた。 「今田村さんから電話がかかって来ました。」と云った。 洋一はそう云う間でも、絶えず賑な大通りへ眼をやる事を忘れなかった。 「いいえ、私はこれから工場まで行って来るんです。―― ああ、それから旦那が洋一さんに用があるって云っていましたぜ。」 洋一はこう云いかけたが、ふと向うを眺めたと思うと、突然相手も忘れたように、飾り窓の前を飛び出した。 人通りも疎な往来には、ちょうど今一台の人力車が、大通りをこちらへ切れようとしている。―― その楫棒の先へ立つが早いか、彼は両手を挙げないばかりに、車上の青年へ声をかけた。 車の上には慎太郎が、高等学校の夏服に白い筋の制帽をかぶったまま、膝に挟んだトランクを骨太な両手に抑えていた。 洋一は兄を見上ながら、体中の血が生き生きと、急に両頬へ上るのを感じた。 が、その母譲りの眼の中には、洋一が予期していなかった、とは云え無意識に求めていたある表情が閃いていた。 洋一は兄の表情に愉快な当惑を感じながら、口早に切れ切れな言葉を続けた。 車夫は慎太郎の合図と一しょに、また勢いよく走り始めた。 慎太郎はその時まざまざと、今朝上りの三等客車に腰を落着けた彼自身が、頭のどこかに映るような気がした。 それは隣に腰をかけた、血色の好い田舎娘の肩を肩に感じながら、母の死目に会うよりは、むしろ死んだ後に行った方が、悲しみが少いかも知れないなどと思い耽っている彼だった。 しかも眼だけはその間も、レクラム版のゲエテの詩集へぼんやり落している彼だった。…… 慎太郎は体を斜にして、驚いた視線を声の方へ投げた。 するとそこには洋一が、板草履を土に鳴らしながら、車とすれすれに走っていた。 「今日は谷村博士が来るんでね、あんまり来ようが遅いから、立って待っていたんだけれど、――」 洋一はこう答えながら、かすかに息をはずませていた。 が、その心もちは口を出ると、いつか平凡な言葉に変っていた。 車夫は五六歩行き過ぎてから、大廻しに楫棒を店の前へ下した。 さすがに慎太郎にもなつかしい、分厚な硝子戸の立った店の前へ。 一時間の後店の二階には、谷村博士を中心に、賢造、慎太郎、お絹の夫の三人が浮かない顔を揃えていた。 彼等はお律の診察が終ってから、その診察の結果を聞くために、博士をこの二階に招じたのだった。 体格の逞しい谷村博士は、すすめられた茶を啜った後、しばらくは胴衣の金鎖を太い指にからめていたが、やがて電燈に照らされた三人の顔を見廻すと、 かかりつけの医者は御呼び下すったでしょうな。」と云った。 慎太郎はまだ制服を着たまま、博士と向い合った父の隣りに、窮屈そうな膝を重ねていた。 谷村博士はこう云いながら、マロック革の巻煙草入れを出した。 ちょうど見舞いに来合せていた、この若い呉服屋の主人は、短い口髭に縁無しの眼鏡と云う、むしろ弁護士か会社員にふさわしい服装の持ち主だった。 慎太郎はこう云う彼等の会話に、妙な歯痒さを感じながら、剛情に一人黙っていた。 しかし戸沢と云う出入りの医者が、彼等の間に交ったのは、それから間もない後の事だった。 黒絽の羽織をひっかけた、多少は酒気もあるらしい彼は、谷村博士と慇懃な初対面の挨拶をすませてから、すじかいに坐った賢造へ、 「もう御診断は御伺いになったんですか?」と、強い東北訛の声をかけた。 「いや、あなたが御見えになってから、申し上げようと思っていたんですが、――」 谷村博士は指の間に短い巻煙草を挟んだまま、賢造の代りに返事をした。 「なおあなたの御話を承る必要もあるものですから、――」 戸沢は博士に問われる通り、ここ一週間ばかりのお律の容態を可成詳細に説明した。 慎太郎には薄い博士の眉が、戸沢の処方を聞いた時、かすかに動いたのが気がかりだった。 しかしその話が一段落つくと、谷村博士は大様に、二三度独り頷いて見せた。 が、ただいま拝見した所じゃ、腹膜炎を起していますな。 何しろこう下腹が押し上げられるように痛いと云うんですから――」 戸沢はセルの袴の上に威かつい肘を張りながら、ちょいと首を傾けた。 しばらくは誰も息を呑んだように、口を開こうとするものがなかった。 「熱なぞはそれでも昨日よりは、ずっと低いようですが、――」 しかし博士は巻煙草を捨てると、無造作にその言葉を遮った。 熱はずんずん下りながら、脈搏は反ってふえて来る。―― こりゃ我々若いものも、伺って置いて好い事ですな。」 お絹の夫は腕組みをした手に、時々口髭をひっぱっていた。 慎太郎は義兄の言葉の中に、他人らしい無関心の冷たさを感じた。 「しかし私が診察した時にゃ、まだ別に腹膜炎などの兆候も見えないようでしたがな。――」 戸沢がこう云いかけると、谷村博士は職業的に、透かさず愛想の好い返事をした。 多分はあなたの御覧になった後で発したかと思うんです。 第一まだ病状が、それほど昂進してもいないようですから、―― しかしともかくも現在は、腹膜炎に違いありませんな。」 「じゃすぐに入院でも、させて見ちゃいかがでしょう?」 慎太郎は険しい顔をしたまま、始めて話に口を挟んだ。 博士はそれが意外だったように、ちらりと重そうなの下から、慎太郎の顔へ眼を注いだ。 それでも痛みが強いようなら、戸沢さんにお願いして、注射でもして頂くとか、―― どの病気でも楽じゃないが、この病気は殊に苦しいですから。」 谷村博士はそう云ったぎり、沈んだ眼を畳へやっていたが、ふと思い出したように、胴衣の時計を出して見ると、 「じゃ私はもう御暇します。」と、すぐに背広の腰を擡げた。 慎太郎は父や義兄と一しょに、博士に来診の礼を述べた。 が、その間も失望の色が彼自身の顔には歴々と現れている事を意識していた。 「どうか博士もまた二三日中に、もう一度御診察を願いたいもので、――」 戸沢は挨拶をすませてから、こう云ってまた頭を下げた。 慎太郎は誰よりずっと後に、暗い梯子を下りながら、しみじみ万事休すと云う心もちを抱かずにはいられなかった。………… 戸沢やお絹の夫が帰ってから、和服に着換えた慎太郎は、浅川の叔母や洋一と一しょに、茶の間の長火鉢を囲んでいた。 彼等三人は電燈の下に、はずまない会話を続けながら、ややもすると云い合せたように、その声へ耳を傾けている彼等自身を見出すのだった。 叔母は火箸を握ったまま、ぼんやりどこかへ眼を据えていた。 洋一は叔母には答えずに、E・C・Cを啣えている兄の方へ言葉をかけた。 今度は慎太郎が返事せずに、煙草の灰を火鉢へ落していた。 さっきお前が帰って来た時、お母さんは何とか云ったかえ?」 それよりもお母さんの側へ行くと、莫迦に好いがするじゃありませんか?」 「ありゃさっきお絹ちゃんが、持って来た香水を撒いたんだよ。 そこへお絹が襖の陰から、そっと病人のような顔を出した。 洋一はお絹がそう云うと同時に、早速長火鉢の前から立ち上った。 彼が茶の間から出て行くと、米噛みに即効紙を貼ったお絹は、両袖に胸を抱いたまま、忍び足にこちらへはいって来た。 そうして洋一の立った跡へ、薄ら寒そうにちゃんと坐った。 でも今度の看護婦になってからは、年をとっているだけでも気丈夫ですわ。」 慎太郎は口を挟みながら、まずそうに煙草の煙を吐いた。 お絹は襟に顋を埋めたなり、考え深そうに慎太郎を見た。 「戸沢さんがいた時より、また一分下ったんだわね。」 するとそのひっそりした中に、板の間を踏む音がしたと思うと、洋一をさきに賢造が、そわそわ店から帰って来た。 賢造はお絹にそう云ったぎり、すぐに隣りへはいって行った。 家じゃ女中が二人いたって、ちっとも役にゃ立たないんですよ。」 お絹はちょいと舌打ちをしながら、浅川の叔母と顔を見合せた。 私の所なんぞも女中はいるだけ、反って世話が焼けるくらいなんだよ。」 二人がこんな話をしている間に、慎太郎は金口を啣えながら、寂しそうな洋一の相手をしていた。 「僕は兄さんのように受験向きな人間じゃないんだからな。 慎太郎がこう云いかけると、いつか襖際へ来た看護婦と、小声に話していた叔母が、 お母さんが呼んでいるとさ。」と火鉢越しに彼へ声をかけた。 彼は吸いさしの煙草を捨てると、無言のまま立ち上った。 そうして看護婦を押しのけるように、ずかずか隣の座敷へはいって行った。 その顔が巾をかけた電燈の光に、さっきよりも一層窶れて見えた。 「ああ、洋一がね、どうも勉強をしないようだからね、―― 私も昨日あたりまでは、死ぬのかと思っていたけれど、――」 「帝釈様の御符を頂いたせいか、今日は熱も下ったしね、この分で行けば癒りそうだから、―― 美津の叔父さんとか云う人も、やっぱり十二指腸の潰瘍だったけれど、半月ばかりで癒ったと云うしね、そう難病でもなさそうだからね。――」 慎太郎は今になってさえ、そんな事を頼みにしている母が、浅間しい気がしてならなかった。 枕もとに来ていた看護婦は器用にお律の唇へ水薬の硝子管を当てがった。 だがちっとは長びくだろうし、床上げの時分は暑かろうな。 こいつは一つ赤飯の代りに、氷あずきでも配る事にするか。」 賢造の冗談をきっかけに、慎太郎は膝をついたまま、そっと母の側を引き下ろうとした。 すると母は彼の顔へ、突然不審そうな眼をやりながら、 彼はさすがにぎょっとして、救いを請うように父の方を見た。 どこにもそんな物はないんだからね、今夜はゆっくり寝た方が好いよ。」 賢造はお律をなだめると同時に、ちらりと慎太郎の方へ眼くばせをした。 慎太郎は早速膝を擡げて、明るい電燈に照らされた、隣の茶の間へ帰って来た。 茶の間にはやはり姉や洋一が、叔母とひそひそ話していた。 それが彼の姿を見ると、皆一度に顔を挙げながら、何か病室の消息を尋ねるような表情をした。 が、慎太郎は口を噤んだなり、不相変冷やかな眼つきをして、もとの座蒲団の上にあぐらをかいた。 まっさきに沈黙を破ったのは、今も襟に顋を埋めた、顔色の好くないお絹だった。 「じゃきっとお母さんは、慎ちゃんの顔がただ見たかったのよ。」 が、ちょいと苦笑したぎり、何ともそれには答えなかった。 しばらく無言が続いた後、浅川の叔母は欠伸まじりに、こう洋一へ声をかけた。 高等学校へでもはいったら、もっとはきはきするかと思ったけれど。――」 叔母ば半ばたしなめるように、癇高いお絹の言葉を制した。 何も夜伽ぎをするからって、今夜に限った事じゃあるまいし、――」 垂死の母を見て来た癖に、もう内心ははしゃいでいる彼自身の軽薄を憎みながら、……… それでも店の二階の蒲団に、慎太郎が体を横たえたのは、その夜の十二時近くだった。 が、いよいよ電燈を消して見ると、何度か寝反りを繰り返しても、容易に睡気を催さなかった。 父と一つ部屋に眠るのは、少くともこの三四年以来、今夜が彼には始めてだった。 慎太郎は時々眼を明いては、父の寝姿を透かして見ながら、そんな事さえ不審に思いなぞした。 しかし彼のの裏には、やはりさまざまな母の記憶が、乱雑に漂って来勝ちだった。 その中には嬉しい記憶もあれば、むしろ忌わしい記憶もあった。 が、どの記憶も今となって見れば、同じように寂しかった。 慎太郎はそう思いながら、糊ののする括り枕に、ぼんやり五分刈の頭を落着けていた。 まだ小学校にいた時分、父がある日慎太郎に、新しい帽子を買って来た事があった。 それは兼ね兼ね彼が欲しがっていた、庇の長い大黒帽だった。 するとそれを見た姉のお絹が、来月は長唄のお浚いがあるから、今度は自分にも着物を一つ、拵えてくれろと云い出した。 父はにやにや笑ったぎり、全然その言葉に取り合わなかった。 そうして父に背を向けたまま、口惜しそうに毒口を利いた。 父は多少持て余しながらも、まだ薄笑いを止めなかった。 お母さんだってこの間は、羽織を一つ拵えたじゃありませんか?」 姉は父の方へ向き直ると、突然険しい目つきを見せた。 「あの時はお前も簪だの櫛だの買って貰ったじゃないか?」 姉は頭へ手をやったと思うと、白い菊の花簪をいきなり畳の上へ抛り出した。 慎太郎は蒼い顔をしたまま、このいさかいを眺めていた。 が、姉がこう泣き声を張り上げると、彼は黙って畳の上の花簪を掴むが早いか、びりびりその花びらをむしり始めた。 姉はほとんど気違いのように、彼の手もとへむしゃぶりついた。 いつか泣いていた慎太郎は、菊の花びらが皆なくなるまで、剛情に姉と一本の花簪を奪い合った。 しかし頭のどこかには、実母のない姉の心もちが不思議なくらい鮮に映っているような気がしながら。―― 誰かが音のしないように、暗い梯子を上って来る。―― と思うと美津が上り口から、そっとこちらへ声をかけた。 眠っていると思った賢造は、すぐに枕から頭を擡げた。 父が二階を下りて行った後、慎太郎は大きな眼を明いたまま、家中の物音にでも聞き入るように、じっと体を硬ばらせていた。 すると何故かその間に、現在の気もちとは縁の遠い、こう云う平和な思い出が、はっきり頭へ浮んで来た。 これもまだ小学校にいた時分、彼は一人母につれられて、谷中の墓地へ墓参りに行った。 墓地の松や生垣の中には、辛夷の花が白らんでいる、天気の好い日曜の午過ぎだった。 母は小さな墓の前に来ると、これがお父さんの御墓だと教えた。 が、彼はその前に立って、ちょいと御時宜をしただけだった。 彼は顔を知らない父に、漠然とした親しみを感じていた。 が、この憐な石塔には、何の感情も起らないのだった。 するとどこかその近所に、空気銃を打ったらしい音が聞えた。 慎太郎は母を後に残して、音のした方へ出かけて行った。 生垣を一つ大廻りに廻ると、路幅の狭い往来へ出る、―― そこに彼よりも大きな子供が弟らしい二人と一しょに、空気銃を片手に下げたなり、何の木か木の芽の煙った梢を残惜しそうに見上げていた。―― その時また彼の耳には、誰かの梯子を上って来る音がみしりみしり聞え出した。 「今お母さんが用だって云うからね、ちょいと下へ行って来たんだ。」 父は沈んだ声を出しながら、もとの蒲団の上へ横になった。 「何、用って云った所が、ただ明日工場へ行くんなら、箪笥の上の抽斗に単衣物があるって云うだけなんだ。」 今なんぞも行って見ると、やっぱり随分苦しいらしいよ。 おまけに頭も痛いとか云ってね、始終首を動かしているんだ。」 「戸沢さんにまた注射でもして貰っちゃどうでしょう?」 どうせいけなけりゃいけないまでも、苦しみだけはもう少し楽にしてやりたいと思うがね。」 賢造はじっと暗い中に、慎太郎の顔を眺めるらしかった。 慎太郎は父と向き合ったまま、黙っているのが苦しくなった。 父はこう云いかけると、急にまた枕から頭を擡げて、耳を澄ますようなけはいをさせた。 今度は梯子の中段から、お絹が忍びやかに声をかけた。 父はさっさとお絹の後から、もう一度梯子を下りて行った。 慎太郎は床の上に、しばらくあぐらをかいていたが、やがて立ち上って電燈をともした。 それからまた坐ったまま、電燈の眩しい光の中に、茫然とあたりを眺め廻した。 母が父を呼びによこすのは、用があるなしに関らず、実はただ父に床の側へ来ていて貰いたいせいかも知れない。―― すると字を書いた罫紙が一枚、机の下に落ちているのが偶然彼の眼を捉えた。 慎太郎はその罫紙を抛り出すと、両手を頭の後に廻しながら、蒲団の上へ仰向けになった。 そうして一瞬間、眼の涼しい美津の顔をありあり思い浮べた。………… 慎太郎がふと眼をさますと、もう窓の戸の隙間も薄白くなった二階には、姉のお絹と賢造とが何か小声に話していた。 賢造はお絹にこう云ったなり、忙しそうに梯子を下りて行った。 窓の外では屋根瓦に、滝の落ちるような音がしていた。 慎太郎はそう思いながら、早速寝間着を着換えにかかった。 すると帯を解いていたお絹が、やや皮肉に彼へ声をかけた。 「自分じゃよく寝たって云うんだけれど、何だか側で見ていたんじゃ、五分もほんとうに寝なかったようだわ。 もう着換えのすんだ慎太郎は、梯子の上り口に佇んでいた。 そこから見える台所のさきには、美津が裾を端折ったまま、雑巾か何かかけている。―― それが彼等の話し声がすると、急に端折っていた裾を下した。 彼は真鍮の手すりへ手をやったなり、何だかそこへ下りて行くのが憚られるような心もちがした。 慎太郎は美津がいなくなってから、ゆっくり梯子を下りて行った。 五分の後、彼が病室へ来て見ると、戸沢はちょうどジキタミンの注射をすませた所だった。 母は枕もとの看護婦に、後の手当をして貰いながら、昨夜父が云った通り、絶えず白い括り枕の上に、櫛巻きの頭を動かしていた。 戸沢の側に坐っていた父は声高に母へそう云ってから、彼にちょいと目くばせをした。 そこには洋一が腕組みをしたまま、ぼんやり母の顔を見守っていた。 慎太郎は父の云いつけ通り、両手の掌に母の手を抑えた。 母の手は冷たい脂汗に、気味悪くじっとり沾っていた。 母は彼の顔を見ると、頷くような眼を見せたが、すぐにその眼を戸沢へやって、 母の枕もとの盆の上には、大神宮や氏神の御札が、柴又の帝釈の御影なぞと一しょに、並べ切れないほど並べてある。―― 母は上眼にその盆を見ながら、喘ぐように切れ切れな返事をした。 それでも今朝は、お肚の痛みだけは、ずっと楽になりました。――」 慎太郎は看護婦の手から、水に浸した筆を受け取って、二三度母の口をしめした。 「じゃまた上りますからね、御心配な事はちっともありませんよ。」 戸沢は鞄の始末をすると、母の方へこう大声に云った。 「じゃ十時頃にも一度、残りを注射して上げて下さい。」と云った。 看護婦は口の内で返事をしたぎり、何か不服そうな顔をしていた。 慎太郎と父とは病室の外へ、戸沢の帰るのを送って行った。 次の間には今朝も叔母が一人気抜けがしたように坐っている、―― 戸沢はその前を通る時、叮嚀な叔母の挨拶に無造作な目礼を返しながら、後に従った慎太郎へ、 が、たちまち間違いに気がつくと、不快なほど快活に笑いだした。 「この頃は弟さんに御眼にかかると、いつも試験の話ばかりです。 やはり宅の忰なんぞが受験準備をしているせいですな。――」 戸沢は台所を通り抜ける時も、やはりにやにや笑っていた。 医者が雨の中を帰った後、慎太郎は父を店に残して、急ぎ足に茶の間へ引き返した。 茶の間には今度は叔母の側に、洋一が巻煙草を啣えていた。 お前も今の内に二階へ行って、早く一寝入りして来いよ。」 昨夜夜っぴて煙草ばかり呑んでいたもんだから、すっかり舌が荒れてしまった。」 洋一は陰気な顔をして、まだ長い吸いさしをやけに火鉢へ抛りこんだ。 そこへ松が台所から、銀杏返しのほつれた顔を出した。 旦那様がちょいと御店へ、いらして下さいっておっしゃっています。」 「じゃ慎ちゃん、お前お母さんを気をつけて上げておくれ。」 叔母がこう云って出て行くと、洋一も欠伸を噛み殺しながら、やっと重い腰を擡げた。 慎太郎は一人になってから、懐炉を膝に載せたまま、じっと何かを考えようとした。 が、何を考えるのだか、彼自身にもはっきりしなかった。 ただ凄まじい雨の音が、見えない屋根の空を満している、―― すると突然次の間から、慌しく看護婦が駆けこんで来た。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 713日 10時間 39分 18秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。