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煙草にアンパンマンを印刷したら喫煙率下がるだろ [無断転載禁止]©2ch.net
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0016774mgさん垢版2017/12/13(水) 22:44:05.69ID:PoJOcjk3
>>14
ワロタ
買うのが恥ずかしいパッケージに統一するのはいい方法かもね
ヲタクは未開封のまま残すだろうから喫煙率が上がることも無さそうだし
0017774mgさん垢版2018/02/21(水) 10:59:31.45ID:SzOvQqZ7
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11HOY
0018774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:00:06.18ID:uwhjXa2E
新公は半ば嘲るやうに、又半ば訝るやうに、彼女の顔を眺めたなり、やつと短銃の先を下げた。
0019774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:00:22.39ID:uwhjXa2E
と同時にお富の顔には、ほつとした色が浮んで来た。
0020774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:00:38.15ID:uwhjXa2E
「ぢや猫は助けてやらう。
0021774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:00:53.93ID:uwhjXa2E
新公は横柄に云ひ放つた。
0022774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:01:09.58ID:uwhjXa2E
「その代りお前さんの体を借りるぜ。」
0023774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:01:25.36ID:uwhjXa2E
お富はちよいと目を外らせた。
0024774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:01:41.01ID:uwhjXa2E
一瞬間彼女の心の中には、憎しみ、怒り、嫌悪、悲哀、その外いろいろの感情がごつたに燃え立つて来たらしかつた。
0025774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:01:56.76ID:uwhjXa2E
新公はさう云ふ彼女の変化に注意深い目を配りながら、横歩きに彼女の後ろへ廻ると茶の間の障子を明け放つた。
0026774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:02:12.40ID:uwhjXa2E
茶の間は台所に比べれば、勿論一層薄暗かつた。
0027774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:02:28.15ID:uwhjXa2E
が、立ち退いた跡と云ふ条、取り残した茶箪笥や長火鉢は、その中にもはつきり見る事が出来た。
0028774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:02:43.90ID:uwhjXa2E
新公は其処に佇んだ儘、かすかに汗ばんでゐるらしい、お富の襟もとへ目を落した。
0029774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:02:59.63ID:uwhjXa2E
するとそれを感じたのか、お富は体を捻るやうに、後ろにゐる新公の顔を見上げた。
0030774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:03:15.39ID:uwhjXa2E
彼女の顔にはもう何時の間にか、さつきと少しも変らない、活き活きした色が返つてゐた。
0031774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:03:31.15ID:uwhjXa2E
しかし新公は狼狽したやうに、妙な瞬きを一つしながら、いきなり又猫へ短銃を向けた。
0032774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:03:46.92ID:uwhjXa2E
いけないつてば。――」
0033774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:04:03.09ID:uwhjXa2E
お富は彼を止めると同時に、手の中の剃刀を板の間へ落した。
0034774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:04:18.84ID:uwhjXa2E
「いけなけりやあすこへお行きなさいな。」
0035774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:04:34.52ID:uwhjXa2E
新公は薄笑ひを浮べてゐた。
0036774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:04:50.16ID:uwhjXa2E
お富は忌々しさうに呟いた。
0037774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:05:05.94ID:uwhjXa2E
が、突然立ち上ると、ふて腐れた女のするやうに、さつさと茶の間へはひつて行つた。
0038774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:05:21.64ID:uwhjXa2E
新公は彼女の諦めの好いのに、多少驚いた容子だつた。
0039774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:05:37.35ID:uwhjXa2E
雨はもうその時には、ずつと音をかすめてゐた。
0040774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:05:53.12ID:uwhjXa2E
おまけに雲の間には、夕日の光でもさし出したのか、薄暗かつた台所も、だんだん明るさを加へて行つた。
0041774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:06:08.77ID:uwhjXa2E
新公はその中に佇みながら、茶の間のけはひに聞き入つてゐた。
0042774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:06:24.55ID:uwhjXa2E
小倉の帯の解かれる音、畳の上へ寝たらしい音。――
0043774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:06:40.31ID:uwhjXa2E
それぎり茶の間はしんとしてしまつた。
0044774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:06:56.07ID:uwhjXa2E
新公はちよいとためらつた後、薄明るい茶の間へ足を入れた。
0045774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:07:11.71ID:uwhjXa2E
茶の間のまん中にはお富が一人、袖に顔を蔽つた儘、ぢつと仰向けに横たはつてゐた。
0046774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:07:27.48ID:uwhjXa2E
新公はその姿を見るが早いか、逃げるやうに台所へ引き返した。
0047774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:07:43.13ID:uwhjXa2E
彼の顔には形容の出来ない、妙な表情が漲つてゐた。
0048774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:07:58.78ID:uwhjXa2E
それは嫌悪のやうにも見えれば、恥ぢたやうにも見える色だつた。
0049774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:08:14.58ID:uwhjXa2E
彼は板の間へ出たと思ふと、まだ茶の間へ背を向けたなり、突然苦しさうに笑ひ出した。
0050774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:08:30.35ID:uwhjXa2E
もうこつちへ出て来ておくんなさい。……」
0051774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:08:46.11ID:uwhjXa2E
何分かの後、懐に猫を入れたお富は、もう傘を片手にしながら、破れ筵を敷いた新公と、気軽に何か話してゐた。
0052774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:09:02.36ID:uwhjXa2E
わたしは少しお前さんに、訊きたい事があるんですがね。――」
0053774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:09:18.15ID:uwhjXa2E
新公はまだ間が悪さうに、お富の顔を見ないやうにしてゐた。
0054774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:09:33.79ID:uwhjXa2E
「何をつて事もないんですがね。――
0055774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:09:49.57ID:uwhjXa2E
まあ肌身を任せると云へば、女の一生ぢや大変な事だ。
0056774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:10:05.34ID:uwhjXa2E
それをお富さん、お前さんは、その猫の命と懸け替に、――
0057774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:10:21.11ID:uwhjXa2E
こいつはどうもお前さんにしちや、乱暴すぎるぢやありませんか?」
0058774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:10:36.91ID:uwhjXa2E
新公はちよいと口を噤んだ。
0059774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:10:52.58ID:uwhjXa2E
がお富は頬笑んだぎり、懐の猫を劬つてゐた。
0060774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:11:08.61ID:uwhjXa2E
「そんなにその猫が可愛いんですかい?」
0061774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:11:24.25ID:uwhjXa2E
「そりや三毛も可愛いしね。――」
0062774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:11:39.94ID:uwhjXa2E
お富は煮え切らない返事をした。
0063774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:11:55.94ID:uwhjXa2E
「それとも又お前さんは、近所でも評判の主人思ひだ。
0064774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:12:11.55ID:uwhjXa2E
三毛が殺されたとなつた日にや、この家の上さんに申し訣がない。――
0065774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:12:27.22ID:uwhjXa2E
と云ふ心配でもあつたんですかい?」
0066774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:12:42.87ID:uwhjXa2E
「ああ、三毛も可愛いしね。
0067774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:12:58.63ID:uwhjXa2E
お上さんも大事にや違ひないんだよ。
0068774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:13:14.39ID:uwhjXa2E
けれどもただわたしはね。――」
0069774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:13:30.02ID:uwhjXa2E
お富は小首を傾けながら、遠い所でも見るやうな目をした。
0070774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:13:45.69ID:uwhjXa2E
「何と云へば好いんだらう?
0071774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:14:01.44ID:uwhjXa2E
唯あの時はああしないと、何だかすまない気がしたのさ。」
0072774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:14:17.20ID:uwhjXa2E
更に又何分かの後、一人になつた新公は、古湯帷子の膝を抱いた儘、ぼんやり台所に坐つてゐた。
0073774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:14:32.84ID:uwhjXa2E
暮色は疎らな雨の音の中に、だんだん此処へも迫つて来た。
0074774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:14:48.64ID:uwhjXa2E
引き窓の綱、流し元の水瓶、――
0075774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:15:04.40ID:uwhjXa2E
そんな物も一つづつ見えなくなつた。
0076774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:15:20.13ID:uwhjXa2E
と思ふと上野の鐘が、一杵づつ雨雲にこもりながら、重苦しい音を拡げ始めた。
0077774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:15:35.77ID:uwhjXa2E
新公はその音に驚いたやうに、ひつそりしたあたりを見廻した。
0078774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:15:51.56ID:uwhjXa2E
それから手さぐりに流し元へ下りると、柄杓になみなみと水を酌んだ。
0079774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:16:07.31ID:uwhjXa2E
「村上新三郎源の繁光、今日だけは一本やられたな。」
0080774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:16:23.06ID:uwhjXa2E
彼はさう呟きざま、うまさうに黄昏の水を飲んだ。……
0081774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:16:38.70ID:uwhjXa2E
明治二十三年三月二十六日、お富は夫や三人の子供と、上野の広小路を歩いてゐた。
0082774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:16:54.48ID:uwhjXa2E
その日は丁度竹の台に、第三回内国博覧会の開会式が催される当日だつた。
0083774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:17:10.24ID:uwhjXa2E
おまけに桜も黒門のあたりは、もう大抵開いてゐた。
0084774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:17:26.01ID:uwhjXa2E
だから広小路の人通りは、殆ど押し返さないばかりだつた。
0085774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:17:41.79ID:uwhjXa2E
其処へ上野の方からは、開会式の帰りらしい馬車や人力車の行列が、しつきりなしに流れて来た。
0086774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:17:57.45ID:uwhjXa2E
前田正名、田口卯吉、渋沢栄一、辻新次、岡倉覚三、下条正雄――
0087774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:18:13.22ID:uwhjXa2E
その馬車や人力車の客には、さう云ふ人々も交つてゐた。
0088774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:18:28.94ID:uwhjXa2E
五つになる次男を抱いた夫は、袂に長男を縋らせた儘、目まぐるしい往来の人通りをよけよけ、時々ちよいと心配さうに、後ろのお富を振り返つた。
0089774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:18:44.61ID:uwhjXa2E
お富は長女の手をひきながら、その度に晴れやかな微笑を見せた。
0090774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:19:00.30ID:uwhjXa2E
勿論二十年の歳月は、彼女にも老を齎してゐた。
0091774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:19:16.09ID:uwhjXa2E
しかし目の中に冴えた光は昔と余り変らなかつた。
0092774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:19:31.86ID:uwhjXa2E
彼女は明治四五年頃に、古河屋政兵衛の甥に当る、今の夫と結婚した。
0093774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:19:47.70ID:uwhjXa2E
夫はその頃は横浜に、今は銀座の何丁目かに、小さい時計屋の店を出してゐた。……
0094774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:20:03.36ID:uwhjXa2E
お富はふと目を挙げた。
0095774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:20:19.16ID:uwhjXa2E
その時丁度さしかかつた、二頭立ちの馬車の中には、新公が悠々と坐つてゐた。
0096774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:20:34.82ID:uwhjXa2E
尤も今の新公の体は、駝鳥の羽根の前立だの、厳めしい金モオルの飾緒だの、大小幾つかの勲章だの、いろいろの名誉の標章に埋まつてゐるやうなものだつた。
0097774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:20:50.47ID:uwhjXa2E
しかし半白の髯の間に、こちらを見てゐる赭ら顔は、往年の乞食に違ひなかつた。
0098774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:21:06.27ID:uwhjXa2E
お富は思はず足を緩めた。
0099774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:21:22.02ID:uwhjXa2E
が、不思議にも驚かなかつた。
0100774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:21:37.78ID:uwhjXa2E
新公は唯の乞食ではない。――
0101774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:21:53.44ID:uwhjXa2E
そんな事はなぜかわかつてゐた。
0102774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:22:09.26ID:uwhjXa2E
顔のせゐか、言葉のせゐか、それとも持つてゐた短銃のせゐか、兎に角わかつてはゐたのだつた。
0103774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:22:25.07ID:uwhjXa2E
お富は眉も動かさずに、ぢつと新公の顔を眺めた。
0104774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:22:40.72ID:uwhjXa2E
新公も故意か偶然か、彼女の顔を見守つてゐた。
0105774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:22:56.48ID:uwhjXa2E
二十年以前の雨の日の記憶は、この瞬間お富の心に、切ない程はつきり浮んで来た。
0106774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:23:12.25ID:uwhjXa2E
彼女はあの日無分別にも、一匹の猫を救ふ為に、新公に体を任さうとした。
0107774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:23:27.90ID:uwhjXa2E
その動機は何だつたか、――
0108774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:23:43.64ID:uwhjXa2E
彼女はそれを知らなかつた。
0109774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:23:59.43ID:uwhjXa2E
新公は亦さう云ふ羽目にも、彼女が投げ出した体には、指さへ触れる事を肯じなかつた。
0110774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:24:15.19ID:uwhjXa2E
その動機は何だつたか、――
0111774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:24:30.84ID:uwhjXa2E
それも彼女は知らなかつた。
0112774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:24:46.62ID:uwhjXa2E
が、知らないのにも関らず、それらは皆お富には、当然すぎる程当然だつた。
0113774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:25:02.40ID:uwhjXa2E
彼女は馬車とすれ違ひながら、何か心の伸びるやうな気がした。
0114774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:25:18.19ID:uwhjXa2E
新公の馬車の通り過ぎた時、夫は人ごみの間から、又お富を振り返つた。
0115774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:25:34.26ID:uwhjXa2E
彼女はやはりその顔を見ると、何事もないやうに頬笑んで見せた。
0116774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:25:49.92ID:uwhjXa2E
活き活きと、嬉しさうに。……
0117774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:26:05.72ID:uwhjXa2E
彼は或町の裏に年下の彼女と鬼ごつこをしてゐた。
0118774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:26:21.65ID:uwhjXa2E
まだあたりは明るいものの、丁度町角の街燈には瓦斯のともる時分だつた。
0119774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:26:37.42ID:uwhjXa2E
彼は楽々と逃げながら、鬼になつて来る彼女を振りかへつた。
0120774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:26:53.08ID:uwhjXa2E
彼女は彼を見つめたまま、一生懸命に追ひかけて来た。
0121774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:27:08.86ID:uwhjXa2E
彼はその顔を眺めた時、妙に真剣な顔をしてゐるなと思つた。
0122774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:27:24.64ID:uwhjXa2E
その顔は可也長い間、彼の心に残つてゐた。
0123774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:27:40.40ID:uwhjXa2E
が、年月の流れるのにつれ、いつかすつかり消えてしまつた。
0124774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:27:56.18ID:uwhjXa2E
それから二十年ばかりたつた後、彼は雪国の汽車の中に偶然、彼女とめぐり合つた。
0125774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:28:11.95ID:uwhjXa2E
窓の外が暗くなるのにつれ、沾めつた靴や外套のひが急に身にしみる時分だつた。
0126774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:28:27.71ID:uwhjXa2E
彼は巻煙草を銜へながら、(それは彼が同志と一しよに刑務所を出た三日目だつた。)ふと彼女の顔へ目を注いだ。
0127774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:28:43.48ID:uwhjXa2E
近頃夫を失つた彼女は熱心に彼女の両親や兄弟のことを話してゐた。
0128774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:28:59.27ID:uwhjXa2E
彼はその顔を眺めた時、妙に真剣な顔をしてゐるなと思つた。
0129774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:29:15.03ID:uwhjXa2E
と同時にいつの間にか十二歳の少年の心になつてゐた。
0130774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:29:30.67ID:uwhjXa2E
彼等は今は結婚して或郊外に家を持つてゐる。
0131774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:29:46.45ID:uwhjXa2E
が、彼はその時以来、妙に真剣な彼女の顔を一度も目のあたりに見たことはなかつた。
0132774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:30:02.23ID:uwhjXa2E
雨降りの午後、今年中学を卒業した洋一は、二階の机に背を円くしながら、北原白秋風の歌を作っていた。
0133774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:30:18.16ID:uwhjXa2E
すると「おい」と云う父の声が、突然彼の耳を驚かした。
0134774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:30:33.82ID:uwhjXa2E
彼は倉皇と振り返る暇にも、ちょうどそこにあった辞書の下に、歌稿を隠す事を忘れなかった。
0135774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:30:49.48ID:uwhjXa2E
が、幸い父の賢造は、夏外套をひっかけたまま、うす暗い梯子の上り口へ胸まで覗かせているだけだった。
0136774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:31:05.13ID:uwhjXa2E
「どうもお律の容態が思わしくないから、慎太郎の所へ電報を打ってくれ。」
0137774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:31:20.91ID:uwhjXa2E
洋一は思わず大きな声を出した。
0138774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:31:36.70ID:uwhjXa2E
「まあ、ふだんが達者だから、急にどうと云う事もあるまいがね、――
0139774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:31:52.53ID:uwhjXa2E
慎太郎へだけ知らせた方が――」
0140774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:32:08.31ID:uwhjXa2E
洋一は父の言葉を奪った。
0141774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:32:24.07ID:uwhjXa2E
「戸沢さんは何だって云うんです?」
0142774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:32:39.83ID:uwhjXa2E
「やっぱり十二指腸の潰瘍だそうだ。――
0143774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:32:55.57ID:uwhjXa2E
心配はなかろうって云うんだが。」
0144774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:33:11.41ID:uwhjXa2E
賢造は妙に洋一と、視線の合う事を避けたいらしかった。
0145774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:33:27.17ID:uwhjXa2E
「しかしあしたは谷村博士に来て貰うように頼んで置いた。
0146774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:33:42.91ID:uwhjXa2E
戸沢さんもそう云うから、――
0147774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:33:58.70ID:uwhjXa2E
じゃ慎太郎の所を頼んだよ。
0148774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:34:14.44ID:uwhjXa2E
宿所はお前が知っているね。」
0149774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:34:30.21ID:uwhjXa2E
「ええ、知っています。――
0150774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:34:45.85ID:uwhjXa2E
お父さんはどこかへ行くの?」
0151774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:35:01.62ID:uwhjXa2E
「ちょいと銀行へ行って来る。――
0152774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:35:17.37ID:uwhjXa2E
ああ、下に浅川の叔母さんが来ているぜ。」
0153774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:35:33.03ID:uwhjXa2E
賢造の姿が隠れると、洋一には外の雨の音が、急に高くなったような心もちがした。
0154774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:35:48.67ID:uwhjXa2E
愚図愚図している場合じゃない――
0155774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:36:04.44ID:uwhjXa2E
そんな事もはっきり感じられた。
0156774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:36:20.64ID:uwhjXa2E
彼はすぐに立ち上ると、真鍮の手すりに手を触れながら、どしどし梯子を下りて行った。
0157774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:36:36.40ID:uwhjXa2E
まっすぐに梯子を下りた所が、ぎっしり右左の棚の上に、メリヤス類のボオル箱を並べた、手広い店になっている。――
0158774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:36:52.55ID:uwhjXa2E
その店先の雨明りの中に、パナマ帽をかぶった賢造は、こちらへ後を向けたまま、もう入口に直した足駄へ、片足下している所だった。
0159774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:37:08.51ID:uwhjXa2E
今日あちらへ御見えになりますか、伺ってくれろと申すんですが………」
0160774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:37:24.25ID:uwhjXa2E
洋一が店へ来ると同時に、電話に向っていた店員が、こう賢造の方へ声をかけた。
0161774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:37:40.00ID:uwhjXa2E
店員はほかにも四五人、金庫の前や神棚の下に、主人を送り出すと云うよりは、むしろ主人の出て行くのを待ちでもするような顔をしていた。
0162774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:37:55.79ID:uwhjXa2E
あした行きますってそう云ってくれ。」
0163774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:38:11.56ID:uwhjXa2E
電話の切れるのが合図だったように、賢造は大きな洋傘を開くと、さっさと往来へ歩き出した。
0164774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:38:27.22ID:uwhjXa2E
その姿がちょいとの間、浅く泥を刷いたアスファルトの上に、かすかな影を落して行くのが見えた。
0165774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:38:42.96ID:uwhjXa2E
「神山さんはいないのかい?」
0166774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:38:58.74ID:uwhjXa2E
洋一は帳場机に坐りながら、店員の一人の顔を見上げた。
0167774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:39:14.53ID:uwhjXa2E
「さっき、何だか奥の使いに行きました。――
0168774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:39:30.18ID:uwhjXa2E
どこだか知らないかい?」
0169774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:39:45.97ID:uwhjXa2E
I don't know ですな。」
0170774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:40:01.61ID:uwhjXa2E
そう答えた店員は、上り框にしゃがんだまま、あとは口笛を鳴らし始めた。
0171774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:40:17.35ID:uwhjXa2E
その間に洋一は、そこにあった頼信紙へ、せっせと万年筆を動かしていた。
0172774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:40:33.12ID:uwhjXa2E
ある地方の高等学校へ、去年の秋入学した兄、――
0173774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:40:48.88ID:uwhjXa2E
彼よりも色の黒い、彼よりも肥った兄の顔が、彼には今も頭のどこかに、ありあり浮んで見えるような気がした。
0174774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:41:04.64ID:uwhjXa2E
「ハハワルシ、スグカエレ」――
0175774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:41:20.40ID:uwhjXa2E
彼は始こう書いたが、すぐにまた紙を裂いて、「ハハビョウキ、スグカエレ」と書き直した。
0176774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:41:36.06ID:uwhjXa2E
それでも「ワルシ」と書いた事が、何か不吉な前兆のように、頭にこびりついて離れなかった。
0177774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:41:51.91ID:uwhjXa2E
「おい、ちょいとこれを打って来てくれないか?」
0178774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:42:07.55ID:uwhjXa2E
やっと書き上げた電報を店員の一人に渡した後、洋一は書き損じた紙を噛み噛み、店の後にある台所へ抜けて、晴れた日も薄暗い茶の間へ行った。
0179774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:42:23.17ID:uwhjXa2E
茶の間には長火鉢の上の柱に、ある毛糸屋の広告を兼ねた、大きな日暦が懸っている。――
0180774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:42:38.82ID:uwhjXa2E
そこに髪を切った浅川の叔母が、しきりと耳掻きを使いながら、忘れられたように坐っていた。
0181774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:42:54.60ID:uwhjXa2E
それが洋一の足音を聞くと、やはり耳掻きを当てがったまま、始終爛れている眼を擡げた。
0182774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:43:10.33ID:uwhjXa2E
お父さんはもうお出かけかえ?」
0183774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:43:26.05ID:uwhjXa2E
お母さんにも困りましたね。」
0184774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:43:41.80ID:uwhjXa2E
「困ったねえ、私は何も名のつくような病気じゃないと思っていたんだよ。」
0185774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:43:57.55ID:uwhjXa2E
洋一は長火鉢の向うに、いやいや落着かない膝を据えた。
0186774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:44:13.34ID:uwhjXa2E
襖一つ隔てた向うには、大病の母が横になっている。――
0187774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:44:29.10ID:uwhjXa2E
そう云う意識がいつもよりも、一層この昔風な老人の相手を苛立たしいものにさせるのだった。
0188774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:44:44.89ID:uwhjXa2E
叔母はしばらく黙っていたが、やがて額で彼を見ながら、
0189774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:45:00.53ID:uwhjXa2E
「お絹ちゃんが今来るとさ。」と云った。
0190774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:45:16.32ID:uwhjXa2E
「姉さんはまだ病気じゃないの?」
0191774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:45:32.09ID:uwhjXa2E
「もう今日は好いんだとさ。
0192774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:45:47.78ID:uwhjXa2E
何、またいつもの鼻っ風邪だったんだよ。」
0193774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:46:03.57ID:uwhjXa2E
浅川の叔母の言葉には、軽い侮蔑を帯びた中に、反って親しそうな調子があった。
0194774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:46:19.35ID:uwhjXa2E
三人きょうだいがある内でも、お律の腹を痛めないお絹が、一番叔母には気に入りらしい。
0195774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:46:35.01ID:uwhjXa2E
それには賢造の先妻が、叔母の身内だと云う理由もある。――
0196774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:46:50.65ID:uwhjXa2E
洋一は誰かに聞かされた、そんな話を思い出しながら、しばらくの間は不承不承に、一昨年ある呉服屋へ縁づいた、病気勝ちな姉の噂をしていた。
0197774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:47:06.33ID:uwhjXa2E
「慎ちゃんの所はどうおしだえ?
0198774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:47:22.02ID:uwhjXa2E
お父さんは知らせた方が好いとか云ってお出でだったけれど。」
0199774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:47:37.76ID:uwhjXa2E
その噂が一段落着いた時、叔母は耳掻きの手をやめると、思い出したようにこう云った。
0200774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:47:53.43ID:uwhjXa2E
「今、電報を打たせました。
0201774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:48:09.32ID:uwhjXa2E
今日中にゃまさか届くでしょう。」
0202774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:48:24.97ID:uwhjXa2E
何も京大阪と云うんじゃあるまいし、――」
0203774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:48:40.74ID:uwhjXa2E
地理に通じない叔母の返事は、心細いくらい曖昧だった。
0204774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:48:56.54ID:uwhjXa2E
それが何故か唐突と、洋一の内に潜んでいたある不安を呼び醒ました。
0205774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:49:12.29ID:uwhjXa2E
兄は帰って来るだろうか?――
0206774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:49:28.06ID:uwhjXa2E
そう思うと彼は電報に、もっと大仰な文句を書いても、好かったような気がし出した。
0207774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:49:43.93ID:uwhjXa2E
母は兄に会いたがっている。
0208774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:49:59.56ID:uwhjXa2E
が、兄は帰って来ない。
0209774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:50:15.33ID:uwhjXa2E
その内に母は死んでしまう。
0210774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:50:31.14ID:uwhjXa2E
すると姉や浅川の叔母が、親不孝だと云って兄を責める。――
0211774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:50:46.93ID:uwhjXa2E
こんな光景も一瞬間、はっきり眼の前に見えるような気がした。
0212774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:51:02.58ID:uwhjXa2E
「今日届けば、あしたは帰りますよ。」
0213774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:51:18.37ID:uwhjXa2E
洋一はいつか叔母よりも、彼自身に気休めを云い聞かせていた。
0214774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:51:34.15ID:uwhjXa2E
そこへちょうど店の神山が、汗ばんだ額を光らせながら、足音を偸むようにはいって来た。
0215774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:51:49.99ID:uwhjXa2E
なるほどどこかへ行った事は、袖に雨じみの残っている縞絽の羽織にも明らかだった。
0216774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:52:05.78ID:uwhjXa2E
どうも案外待たされましてな。」
0217774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:52:21.43ID:uwhjXa2E
神山は浅川の叔母に一礼してから、懐に入れて来た封書を出した。
0218774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:52:37.26ID:uwhjXa2E
「御病人の方は、少しも御心配には及ばないとか申して居りました。
0219774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:52:52.91ID:uwhjXa2E
追っていろいろ詳しい事は、その中に書いてありますそうで――」
0220774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:53:08.70ID:uwhjXa2E
叔母はその封書を開く前に、まず度の強そうな眼鏡をかけた。
0221774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:53:24.48ID:uwhjXa2E
封筒の中には手紙のほかにも、半紙に一の字を引いたのが、四つ折のままはいっていた。
0222774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:53:40.27ID:uwhjXa2E
神山さん、この太極堂と云うのは。」
0223774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:53:56.12ID:uwhjXa2E
洋一はそれでも珍しそうに、叔母の読んでいる手紙を覗きこんだ。
0224774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:54:11.93ID:uwhjXa2E
「二町目の角に洋食屋がありましょう。
0225774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:54:27.66ID:uwhjXa2E
あの露路をはいった左側です。」
0226774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:54:43.43ID:uwhjXa2E
「じゃ君の清元の御師匠さんの近所じゃないか?」
0227774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:54:59.13ID:uwhjXa2E
「ええ、まあそんな見当です。」
0228774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:55:14.91ID:uwhjXa2E
神山はにやにや笑いながら、時計の紐をぶら下げた瑪瑙の印形をいじっていた。
0229774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:55:30.68ID:uwhjXa2E
「あんな所に占い者なんぞがあったかしら。――
0230774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:55:46.46ID:uwhjXa2E
御病人は南枕にせらるべく候か。」
0231774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:56:02.23ID:uwhjXa2E
「お母さんはどっち枕だえ?」
0232774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:56:17.99ID:uwhjXa2E
叔母は半ばたしなめるように、老眼鏡の眼を洋一へ挙げた。
0233774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:56:33.75ID:uwhjXa2E
この方角が南だから。」
0234774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:56:49.53ID:uwhjXa2E
多少心もちの明くなった洋一は、顔は叔母の方へ近づけたまま、手は袂の底にある巻煙草の箱を探っていた。
0235774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:57:05.29ID:uwhjXa2E
「そら、そこに東枕にてもよろしいと書いてありますよ。――
0236774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:57:21.07ID:uwhjXa2E
じゃ一本頂きます――。
0237774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:57:36.93ID:uwhjXa2E
もうほかに御用はございませんか?
0238774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:57:52.61ID:uwhjXa2E
もしまたございましたら、御遠慮なく――」
0239774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:58:08.24ID:uwhjXa2E
神山は金口を耳に挟みながら、急に夏羽織の腰を擡げて、々店の方へ退こうとした。
0240774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:58:24.01ID:uwhjXa2E
その途端に障子が明くと、頸に湿布を巻いた姉のお絹が、まだセルのコオトも脱がず、果物の籠を下げてはいって来た。
0241774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:58:39.75ID:uwhjXa2E
「おや、お出でなさい。」
0242774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:58:55.55ID:uwhjXa2E
「降りますのによくまた、――」
0243774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:59:11.52ID:uwhjXa2E
そう云う言葉が、ほとんど同時に、叔母と神山との口から出た。
0244774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:59:27.32ID:uwhjXa2E
お絹は二人に会釈をしながら、手早くコオトを脱ぎ捨てると、がっかりしたように横坐りになった。
0245774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:59:43.40ID:uwhjXa2E
その間に神山は、彼女の手から受け取った果物の籠をそこへ残して、気忙しそうに茶の間を出て行った。
0246774mgさん垢版2018/03/11(日) 02:59:59.18ID:uwhjXa2E
果物の籠には青林檎やバナナが綺麗につやつやと並んでいた。
0247774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:00:15.19ID:uwhjXa2E
電車がそりゃこむもんだから。」
0248774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:00:30.97ID:uwhjXa2E
お絹はやはり横坐りのまま、器用に泥だらけの白足袋を脱いだ。
0249774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:00:46.73ID:uwhjXa2E
洋一はその足袋を見ると、丸髷に結った姉の身のまわりに、まだ往来の雨のしぶきが、感ぜられるような心もちがした。
0250774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:01:02.38ID:uwhjXa2E
「やっぱりお肚が痛むんでねえ。――
0251774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:01:18.07ID:uwhjXa2E
熱もまだ九度からあるんだとさ。」
0252774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:01:33.83ID:uwhjXa2E
叔母は易者の手紙をひろげたなり、神山と入れ違いに来た女中の美津と、茶を入れる仕度に忙しかった。
0253774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:01:49.68ID:uwhjXa2E
「あら、だって電話じゃ、昨日より大変好さそうだったじゃありませんか?
0254774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:02:05.45ID:uwhjXa2E
もっとも私は出なかったんですけれど、――
0255774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:02:21.35ID:uwhjXa2E
今日電話をかけたのは。――
0256774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:02:37.23ID:uwhjXa2E
「いいえ、僕じゃない。
0257774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:02:53.07ID:uwhjXa2E
神山さんじゃないか?」
0258774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:03:08.87ID:uwhjXa2E
「さようでございます。」
0259774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:03:24.55ID:uwhjXa2E
これは美津が茶を勧めながら、そっとつけ加えた言葉だった。
0260774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:03:40.20ID:uwhjXa2E
お絹ははすはに顔をしかめて、長火鉢の側へすり寄った。
0261774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:03:55.98ID:uwhjXa2E
お前さんの所はみんな御達者かえ?」
0262774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:04:11.63ID:uwhjXa2E
「ええ、おかげ様で、――
0263774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:04:27.28ID:uwhjXa2E
叔母さんの所でも皆さん御丈夫ですか?」
0264774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:04:43.06ID:uwhjXa2E
そんな対話を聞きながら、巻煙草を啣えた洋一は、ぼんやり柱暦を眺めていた。
0265774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:04:58.83ID:uwhjXa2E
中学を卒業して以来、彼には何日と云う記憶はあっても、何曜日かは終始忘れている。――
0266774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:05:14.45ID:uwhjXa2E
それがふと彼の心に、寂しい気もちを与えたのだった。
0267774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:05:30.22ID:uwhjXa2E
その上もう一月すると、ほとんど受ける気のしない入学試験がやって来る。
0268774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:05:46.08ID:uwhjXa2E
入学試験に及第しなかったら、………
0269774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:06:01.83ID:uwhjXa2E
「美津がこの頃は、大へん女ぶりを上げたわね。」
0270774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:06:17.58ID:uwhjXa2E
姉の言葉が洋一には、急にはっきり聞えたような気がした。
0271774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:06:33.33ID:uwhjXa2E
が、彼は何も云わずに、金口をふかしているばかりだった。
0272774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:06:48.99ID:uwhjXa2E
もっとも美津はその時にはとうにもう台所へ下っていた。
0273774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:07:04.74ID:uwhjXa2E
「それにあの人は何と云っても、男好きのする顔だから、――」
0274774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:07:20.49ID:uwhjXa2E
叔母はやっと膝の上の手紙や老眼鏡を片づけながら、蔑むらしい笑いかたをした。
0275774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:07:36.30ID:uwhjXa2E
するとお絹も妙な眼をしたが、これはすぐに気を変えて、
0276774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:07:52.04ID:uwhjXa2E
叔母さん、それは。」と云った。
0277774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:08:07.82ID:uwhjXa2E
「今神山さんに墨色を見て来て貰ったんだよ。――
0278774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:08:23.68ID:uwhjXa2E
洋ちゃん、ちょいとお母さんを見て来ておくれ。
0279774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:08:39.53ID:uwhjXa2E
さっきよく休んでお出でだったけれど、――」
0280774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:08:55.21ID:uwhjXa2E
ひどく厭な気がしていた彼は金口を灰に突き刺すが早いか、叔母や姉の視線を逃れるように、早速長火鉢の前から立ち上った。
0281774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:09:11.00ID:uwhjXa2E
そうして襖一つ向うの座敷へ、わざと気軽そうにはいって行った。
0282774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:09:26.82ID:uwhjXa2E
そこは突き当りの硝子障子の外に、狭い中庭を透かせていた。
0283774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:09:42.50ID:uwhjXa2E
中庭には太い冬青の樹が一本、手水鉢に臨んでいるだけだった。
0284774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:09:58.26ID:uwhjXa2E
麻の掻巻をかけたお律は氷嚢を頭に載せたまま、あちら向きにじっと横になっていた。
0285774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:10:13.92ID:uwhjXa2E
そのまた枕もとには看護婦が一人、膝の上にひろげた病床日誌へ近眼の顔をすりつけるように、せっせと万年筆を動かしていた。
0286774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:10:29.72ID:uwhjXa2E
看護婦は洋一の姿を見ると、ちょいと媚のある目礼をした。
0287774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:10:45.37ID:uwhjXa2E
洋一はその看護婦にも、はっきり異性を感じながら、妙に無愛想な会釈を返した。
0288774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:11:01.18ID:uwhjXa2E
それから蒲団の裾をまわって、母の顔がよく見える方へ坐った。
0289774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:11:16.94ID:uwhjXa2E
お律は眼をつぶっていた。
0290774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:11:32.70ID:uwhjXa2E
生来薄手に出来た顔が一層今日は窶れたようだった。
0291774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:11:48.52ID:uwhjXa2E
が、洋一の差し覗いた顔へそっと熱のある眼をあけると、ふだんの通りかすかに頬笑んで見せた。
0292774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:12:04.17ID:uwhjXa2E
洋一は何だか叔母や姉と、いつまでも茶の間に話していた事がすまないような心もちになった。
0293774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:12:19.95ID:uwhjXa2E
お律はしばらく黙っていてから、
0294774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:12:35.59ID:uwhjXa2E
「あのね」とさも大儀そうに云った。
0295774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:12:51.33ID:uwhjXa2E
洋一はただ頷いて見せた。
0296774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:13:07.12ID:uwhjXa2E
その間も母の熱臭いのがやはり彼には不快だった。
0297774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:13:22.92ID:uwhjXa2E
しかしお律はそう云ったぎり、何とも後を続けなかった。
0298774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:13:38.60ID:uwhjXa2E
洋一はそろそろ不安になった。
0299774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:13:54.36ID:uwhjXa2E
と云う考えも頭へ来た。
0300774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:14:10.17ID:uwhjXa2E
「浅川の叔母さんはまだいるでしょう?」
0301774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:14:25.92ID:uwhjXa2E
やっと母は口を開いた。
0302774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:14:41.76ID:uwhjXa2E
「叔母さんもいるし、――
0303774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:14:57.54ID:uwhjXa2E
今し方姉さんも来た。」
0304774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:15:13.33ID:uwhjXa2E
「叔母さんにね、――」
0305774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:15:29.14ID:uwhjXa2E
「叔母さんに用があるの?」
0306774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:15:44.94ID:uwhjXa2E
「いいえ、叔母さんに梅川の鰻をとって上げるの。」
0307774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:16:00.57ID:uwhjXa2E
今度は洋一が微笑した。
0308774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:16:16.39ID:uwhjXa2E
「美津にそう云ってね。
0309774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:16:32.23ID:uwhjXa2E
お律はこう云い終ると、頭の位置を変えようとした。
0310774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:16:47.99ID:uwhjXa2E
その拍子に氷嚢が辷り落ちた。
0311774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:17:03.76ID:uwhjXa2E
洋一は看護婦の手を借りずに、元通りそれを置き直した。
0312774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:17:19.55ID:uwhjXa2E
するとなぜかの裏が突然熱くなるような気がした。
0313774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:17:35.50ID:uwhjXa2E
「泣いちゃいけない。」――
0314774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:17:51.29ID:uwhjXa2E
彼は咄嗟にそう思った。
0315774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:18:07.21ID:uwhjXa2E
が、もうその時は小鼻の上に涙のたまるのを感じていた。
0316774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:18:22.92ID:uwhjXa2E
母はかすかに呟いたまま、疲れたようにまた眼をつぶった。
0317774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:18:38.83ID:uwhjXa2E
顔を赤くした洋一は、看護婦の見る眼を恥じながら、すごすご茶の間へ帰って来た。
0318774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:18:54.64ID:uwhjXa2E
帰って来ると浅川の叔母が、肩越しに彼の顔を見上げて、
0319774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:19:10.32ID:uwhjXa2E
お母さんは。」と声をかけた。
0320774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:19:25.97ID:uwhjXa2E
「目がさめています。」
0321774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:19:41.72ID:uwhjXa2E
「目はさめているけれどさ。」
0322774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:19:57.46ID:uwhjXa2E
叔母はお絹と長火鉢越しに、顔を見合せたらしかった。
0323774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:20:13.26ID:uwhjXa2E
姉は上眼を使いながら、笄で髷の根を掻いていたが、やがてその手を火鉢へやると、
0324774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:20:29.03ID:uwhjXa2E
「神山さんが帰って来た事は云わなかったの?」と云った。
0325774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:20:44.66ID:uwhjXa2E
姉さんが行って云うと好いや。」
0326774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:21:00.45ID:uwhjXa2E
洋一は襖側に立ったなり、緩んだ帯をしめ直していた。
0327774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:21:16.23ID:uwhjXa2E
どんな事があってもお母さんを死なせてはならない。
0328774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:21:32.03ID:uwhjXa2E
どんな事があっても――
0329774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:21:47.81ID:uwhjXa2E
そう一心に思いつめながら、…………
0330774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:22:03.59ID:uwhjXa2E
翌日の朝洋一は父と茶の間の食卓に向った。
0331774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:22:19.35ID:uwhjXa2E
食卓の上には、昨夜泊った叔母の茶碗も伏せてあった。
0332774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:22:35.25ID:uwhjXa2E
が、叔母は看護婦が、長い身じまいをすませる間、母の側へその代りに行っているとか云う事だった。
0333774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:22:51.05ID:uwhjXa2E
親子は箸を動かしながら、時々短い口を利いた。
0334774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:23:06.82ID:uwhjXa2E
この一週間ばかりと云うものは、毎日こう云う二人きりの、寂しい食事が続いている。
0335774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:23:22.81ID:uwhjXa2E
しかし今日はいつもよりは、一層二人とも口が重かった。
0336774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:23:38.88ID:uwhjXa2E
給仕の美津も無言のまま、盆をさし出すばかりだった。
0337774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:23:54.84ID:uwhjXa2E
「今日は慎太郎が帰って来るかな。」
0338774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:24:10.77ID:uwhjXa2E
賢造は返事を予期するように、ちらりと洋一の顔を眺めた。
0339774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:24:26.53ID:uwhjXa2E
が、洋一は黙っていた。
0340774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:24:42.29ID:uwhjXa2E
兄が今日帰るか帰らないか、――
0341774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:24:58.05ID:uwhjXa2E
と云うより一体帰るかどうか、彼には今も兄の意志が、どうも不確かでならないのだった。
0342774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:25:13.83ID:uwhjXa2E
「それとも明日の朝になるか?」
0343774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:25:29.53ID:uwhjXa2E
今度は洋一も父の言葉に、答えない訳には行かなかった。
0344774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:25:45.29ID:uwhjXa2E
「しかし今は学校がちょうど、試験じゃないかと思うんですがね。」
0345774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:26:01.21ID:uwhjXa2E
賢造は何か考えるように、ちょいと言葉を途切らせたが、やがて美津に茶をつがせながら、
0346774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:26:17.00ID:uwhjXa2E
「お前も勉強しなくっちゃいけないぜ。
0347774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:26:32.77ID:uwhjXa2E
慎太郎はもうこの秋は、大学生になるんだから。」と云った。
0348774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:26:48.57ID:uwhjXa2E
洋一は飯を代えながら、何とも返事をしなかった。
0349774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:27:04.34ID:uwhjXa2E
やりたい文学もやらせずに、勉強ばかり強いるこの頃の父が、急に面憎くなったのだった。
0350774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:27:20.11ID:uwhjXa2E
その上兄が大学生になると云う事は、弟が勉強すると云う事と、何も関係などはありはしない。――
0351774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:27:35.88ID:uwhjXa2E
そうまた父の論理の矛盾を嘲笑う気もちもないではなかった。
0352774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:27:51.69ID:uwhjXa2E
「お絹は今日は来ないのかい?」
0353774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:28:07.48ID:uwhjXa2E
賢造はすぐに気を変えて云った。
0354774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:28:23.26ID:uwhjXa2E
が、とにかく戸沢さんが来たら、電話をかけてくれって云っていました。」
0355774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:28:38.99ID:uwhjXa2E
「お絹の所でも大変だろう。
0356774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:28:54.79ID:uwhjXa2E
今度はあすこも買った方だから。」
0357774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:29:10.59ID:uwhjXa2E
「やっぱりちっとはすったかしら。」
0358774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:29:26.38ID:uwhjXa2E
洋一ももう茶を飲んでいた。
0359774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:29:42.16ID:uwhjXa2E
この四月以来市場には、前代未聞だと云う恐慌が来ている。
0360774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:29:57.97ID:uwhjXa2E
現に賢造の店などでも、かなり手広くやっていた、ある大阪の同業者が突然破産したために、最近も代払いの厄に遇った。
0361774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:30:13.73ID:uwhjXa2E
そのほかまだ何だ彼だといろいろな打撃を通算したら、少くとも三万円内外は損失を蒙っているのに相違ない。――
0362774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:30:29.56ID:uwhjXa2E
そんな事も洋一は、小耳に挟んでいたのだった。
0363774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:30:45.31ID:uwhjXa2E
「ちっとやそっとでいてくれりゃ好いが、――
0364774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:31:01.07ID:uwhjXa2E
何しろこう云う景気じゃ、いつ何時うちなんぞも、どんな事になるか知れないんだから、――」
0365774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:31:16.86ID:uwhjXa2E
賢造は半ば冗談のように、心細い事を云いながら、大儀そうに食卓の前を離れた。
0366774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:31:32.64ID:uwhjXa2E
それから隔ての襖を明けると、隣の病室へはいって行った。
0367774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:31:48.47ID:uwhjXa2E
「ソップも牛乳もおさまった?
0368774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:32:04.13ID:uwhjXa2E
そりゃ今日は大出来だね。
0369774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:32:19.92ID:uwhjXa2E
まあ精々食べるようにならなくっちゃいけない。」
0370774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:32:35.54ID:uwhjXa2E
「これで薬さえ通ると好いんですが、薬はすぐに吐いてしまうんでね。」
0371774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:32:51.31ID:uwhjXa2E
こう云う会話も耳へはいった。
0372774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:33:07.07ID:uwhjXa2E
今朝は食事前に彼が行って見ると、母は昨日一昨日よりも、ずっと熱が低くなっていた。
0373774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:33:22.85ID:uwhjXa2E
口を利くのもはきはきしていれば、寝返りをするのも楽そうだった。
0374774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:33:38.50ID:uwhjXa2E
「お肚はまだ痛むけれど、気分は大へん好くなったよ。」――
0375774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:33:54.29ID:uwhjXa2E
母自身もそう云っていた。
0376774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:34:10.09ID:uwhjXa2E
その上あんなに食気までついたようでは、今まで心配していたよりも、存外恢復は容易かも知れない。――
0377774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:34:25.89ID:uwhjXa2E
洋一は隣を覗きながら、そう云う嬉しさにそやされていた。
0378774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:34:41.66ID:uwhjXa2E
が、余り虫の好い希望を抱き過ぎると、反ってそのために母の病気が悪くなって来はしないかと云う、迷信じみた惧れも多少はあった。
0379774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:34:57.43ID:uwhjXa2E
「若旦那様、御電話でございます。」
0380774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:35:13.20ID:uwhjXa2E
洋一はやはり手をついたまま、声のする方を振り返った。
0381774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:35:28.87ID:uwhjXa2E
美津は袂を啣えながら、食卓に布巾をかけていた。
0382774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:35:44.64ID:uwhjXa2E
電話を知らせたのはもう一人の、松と云う年上の女中だった。
0383774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:36:00.43ID:uwhjXa2E
松は濡れ手を下げたなり、銅壺の見える台所の口に、襷がけの姿を現していた。
0384774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:36:16.20ID:uwhjXa2E
「どちらでございますか、――」
0385774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:36:31.96ID:uwhjXa2E
「しょうがないな、いつでもどちらでございますかだ。」
0386774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:36:47.71ID:uwhjXa2E
洋一は不服そうに呟きながら、すぐに茶の間を出て行った。
0387774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:37:03.55ID:uwhjXa2E
おとなしい美津に負け嫌いの松の悪口を聞かせるのが、彼には何となく愉快なような心もちも働いていたのだった。
0388774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:37:19.35ID:uwhjXa2E
店の電話に向って見ると、さきは一しょに中学を出た、田村と云う薬屋の息子だった。
0389774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:37:35.12ID:uwhjXa2E
一しょに明治座を覗かないか?
0390774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:37:50.89ID:uwhjXa2E
井上なら行くだろう?」
0391774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:38:06.68ID:uwhjXa2E
お袋が病気なんだから――」
0392774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:38:22.43ID:uwhjXa2E
昨日堀や何かは行って見たんだって。――」
0393774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:38:38.20ID:uwhjXa2E
そんな事を話し合った後、電話を切った洋一は、そこからすぐに梯子を上って、例の通り二階の勉強部屋へ行った。
0394774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:38:53.94ID:uwhjXa2E
が、机に向って見ても、受験の準備は云うまでもなく、小説を読む気さえ起らなかった。
0395774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:39:09.71ID:uwhjXa2E
机の前には格子窓がある、――
0396774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:39:25.51ID:uwhjXa2E
その窓から外を見ると、向うの玩具問屋の前に、半天着の男が自転車のタイアへ、ポンプの空気を押しこんでいた。
0397774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:39:41.44ID:uwhjXa2E
何だかそれが洋一には、気忙しそうな気がして不快だった。
0398774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:39:57.18ID:uwhjXa2E
と云ってまた下へ下りて行くのも、やはり気が進まなかった。
0399774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:40:12.96ID:uwhjXa2E
彼はとうとう机の下の漢和辞書を枕にしながら、ごろりと畳に寝ころんでしまった。
0400774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:40:28.74ID:uwhjXa2E
すると彼の心には、この春以来顔を見ない、彼には父が違っている、兄の事が浮んで来た。
0401774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:40:44.39ID:uwhjXa2E
彼には父が違っている、――
0402774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:41:00.20ID:uwhjXa2E
しかしそのために洋一は、一度でも兄に対する情が、世間普通の兄弟に変っていると思った事はなかった。
0403774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:41:15.97ID:uwhjXa2E
いや、母が兄をつれて再縁したと云う事さえ、彼が知るようになったのは、割合に新しい事だった。
0404774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:41:31.73ID:uwhjXa2E
ただ父が違っていると云えば、彼にはかなりはっきりと、こんな思い出が残っている。――
0405774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:41:47.38ID:uwhjXa2E
それはまだ兄や彼が、小学校にいる時分だった。
0406774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:42:03.13ID:uwhjXa2E
洋一はある日慎太郎と、トランプの勝敗から口論をした。
0407774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:42:18.91ID:uwhjXa2E
その時分から冷静な兄は、彼がいくらいきり立っても、ほとんど語気さえも荒立てなかった。
0408774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:42:34.66ID:uwhjXa2E
が、時々蔑むようにじろじろ彼の顔を見ながら、一々彼をきめつけて行った。
0409774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:42:50.45ID:uwhjXa2E
洋一はとうとうかっとなって、そこにあったトランプを掴むが早いか、いきなり兄の顔へ叩きつけた。
0410774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:43:06.21ID:uwhjXa2E
トランプは兄の横顔に中って、一面にあたりへ散乱した。――
0411774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:43:22.03ID:uwhjXa2E
と思うと兄の手が、ぴしゃりと彼の頬を撲った。
0412774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:43:37.81ID:uwhjXa2E
「生意気な事をするな。」
0413774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:43:53.71ID:uwhjXa2E
そう云う兄の声の下から、洋一は兄にかぶりついた。
0414774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:44:09.53ID:uwhjXa2E
兄は彼に比べると、遥に体も大きかった。
0415774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:44:25.31ID:uwhjXa2E
しかし彼は兄よりもがむしゃらな所に強味があった。
0416774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:44:41.10ID:uwhjXa2E
二人はしばらく獣のように、撲ったり撲られたりし合っていた。
0417774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:44:56.89ID:uwhjXa2E
その騒ぎを聞いた母は、慌ててその座敷へはいって来た。
0418774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:45:12.66ID:uwhjXa2E
母の声を聞くか聞かない内に、洋一はもう泣き出していた。
0419774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:45:28.44ID:uwhjXa2E
が、兄は眼を伏せたまま、むっつり佇んでいるだけだった。
0420774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:45:44.09ID:uwhjXa2E
お前は兄さんじゃないか?
0421774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:45:59.87ID:uwhjXa2E
弟を相手に喧嘩なんぞして、何がお前は面白いんだえ?」
0422774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:46:15.62ID:uwhjXa2E
母にこう叱られると、兄はさすがに震え声だったが、それでも突かかるように返事をした。
0423774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:46:31.42ID:uwhjXa2E
さきに僕の顔へトランプを叩きつけたんだもの。」
0424774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:46:47.17ID:uwhjXa2E
兄さんがさきに撲ったんだい。」
0425774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:47:02.92ID:uwhjXa2E
洋一は一生懸命に泣き声で兄に反対した。
0426774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:47:18.58ID:uwhjXa2E
「ずるをしたのも兄さんだい。」
0427774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:47:34.36ID:uwhjXa2E
兄はまた擬勢を見せて、一足彼の方へ進もうとした。
0428774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:47:50.14ID:uwhjXa2E
「それだから喧嘩になるんじゃないか?
0429774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:48:05.93ID:uwhjXa2E
一体お前が年嵩な癖に勘弁してやらないのが悪いんです。」
0430774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:48:21.71ID:uwhjXa2E
母は洋一をかばいながら、小突くように兄を引き離した。
0431774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:48:37.50ID:uwhjXa2E
すると兄の眼の色が、急に無気味なほど険しくなった。
0432774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:48:53.13ID:uwhjXa2E
兄はそう云うより早く、気違いのように母を撲とうとした。
0433774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:49:08.98ID:uwhjXa2E
が、その手がまだ振り下されない内に、洋一よりも大声に泣き出してしまった。――
0434774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:49:24.82ID:uwhjXa2E
母がその時どんな顔をしていたか、それは洋一の記憶になかった。
0435774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:49:40.61ID:uwhjXa2E
しかし兄の口惜しそうな眼つきは、今でもまざまざと見えるような気がする。
0436774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:49:56.42ID:uwhjXa2E
兄はただ母に叱られたのが、癇癪に障っただけかも知れない。
0437774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:50:12.18ID:uwhjXa2E
もう一歩臆測を逞くするのは、善くない事だと云う心もちもある。
0438774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:50:27.94ID:uwhjXa2E
が、兄が地方へ行って以来、ふとあの眼つきを思い出すと、洋一は兄の見ている母が、どうも彼の見ている母とは、違っていそうに思われるのだった。
0439774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:50:43.72ID:uwhjXa2E
しかもそう云う気がし出したのには、もう一つ別な記憶もある。――
0440774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:50:59.52ID:uwhjXa2E
三年前の九月、兄が地方の高等学校へ、明日立とうと云う前日だった。
0441774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:51:15.31ID:uwhjXa2E
洋一は兄と買物をしに、わざわざ銀座まで出かけて行った。
0442774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:51:31.10ID:uwhjXa2E
「当分大時計とも絶縁だな。」
0443774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:51:46.90ID:uwhjXa2E
兄は尾張町の角へ出ると、半ば独り言のようにこう云った。
0444774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:52:02.55ID:uwhjXa2E
「だから一高へはいりゃ好いのに。」
0445774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:52:18.55ID:uwhjXa2E
「一高へなんぞちっともはいりたくはない。」
0446774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:52:34.34ID:uwhjXa2E
「負惜しみばかり云っていらあ。
0447774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:52:50.14ID:uwhjXa2E
田舎へ行けば不便だぜ。
0448774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:53:05.83ID:uwhjXa2E
アイスクリイムはなし、活動写真はなし、――」
0449774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:53:21.59ID:uwhjXa2E
洋一は顔を汗ばませながら、まだ冗談のような調子で話し続けた。
0450774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:53:37.25ID:uwhjXa2E
「それから誰か病気になっても、急には帰って来られないし、――」
0451774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:53:52.98ID:uwhjXa2E
「そんな事は当り前だ。」
0452774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:54:08.69ID:uwhjXa2E
「じゃお母さんでも死んだら、どうする?」
0453774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:54:24.48ID:uwhjXa2E
歩道の端を歩いていた兄は、彼の言葉に答える前に、手を伸ばして柳の葉をむしった。
0454774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:54:40.14ID:uwhjXa2E
「僕はお母さんが死んでも悲しくない。」
0455774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:54:55.91ID:uwhjXa2E
洋一は少し昂奮して云った。
0456774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:55:11.71ID:uwhjXa2E
「悲しくなかったら、どうかしていらあ。」
0457774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:55:27.38ID:uwhjXa2E
兄の声には意外なくらい、感情の罩った調子があった。
0458774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:55:43.16ID:uwhjXa2E
「お前はいつでも小説なんぞ読んでいるじゃないか?
0459774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:55:58.90ID:uwhjXa2E
それなら、僕のような人間のある事も、すぐに理解出来そうなもんだ。――
0460774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:56:14.57ID:uwhjXa2E
洋一は内心ぎょっとした。
0461774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:56:30.25ID:uwhjXa2E
と同時にあの眼つきが、――
0462774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:56:46.02ID:uwhjXa2E
母を撲とうとした兄の眼つきが、はっきり記憶に浮ぶのを感じた。
0463774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:57:01.70ID:uwhjXa2E
が、そっと兄の容子を見ると、兄は遠くへ眼をやりながら、何事もないように歩いていた。――
0464774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:57:17.36ID:uwhjXa2E
そんな事を考えると、兄がすぐに帰って来るかどうか、いよいよ怪しい心もちがする。
0465774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:57:33.12ID:uwhjXa2E
殊に試験でも始まっていれば、二日や三日遅れる事は、何とも思っていないかも知れない。
0466774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:57:48.88ID:uwhjXa2E
遅れてもとにかく帰って来れば好いが、――
0467774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:58:04.54ID:uwhjXa2E
彼の考がそこまで来た時、誰かの梯子を上って来る音が、みしりみしり耳へはいり出した。
0468774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:58:20.32ID:uwhjXa2E
洋一はすぐに飛び起きた。
0469774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:58:36.08ID:uwhjXa2E
すると梯子の上り口には、もう眼の悪い浅川の叔母が、前屈みの上半身を現わしていた。
0470774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:58:51.83ID:uwhjXa2E
洋一はそう云う叔母の言葉に、かすかな皮肉を感じながら、自分の座蒲団を向うへ直した。
0471774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:59:07.60ID:uwhjXa2E
が、叔母はそれは敷かずに、机の側へ腰を据えると、さも大事件でも起ったように、小さな声で話し出した。
0472774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:59:23.36ID:uwhjXa2E
「私は少しお前に相談があるんだがね。」
0473774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:59:39.12ID:uwhjXa2E
洋一は胸がどきりとした。
0474774mgさん垢版2018/03/11(日) 03:59:54.88ID:uwhjXa2E
「お母さんがどうかしたの?」
0475774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:00:10.54ID:uwhjXa2E
「いいえ、お母さんの事じゃないんだよ。
0476774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:00:26.39ID:uwhjXa2E
実はあの看護婦だがね、ありゃお前、仕方がないよ。――」
0477774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:00:42.17ID:uwhjXa2E
叔母はそれからねちねちと、こんな話をし始めた。――
0478774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:00:57.97ID:uwhjXa2E
昨日あの看護婦は、戸沢さんが診察に来た時、わざわざ医者を茶の間へ呼んで、「先生、一体この患者はいつ頃まで持つ御見込みなんでしょう?
0479774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:01:13.75ID:uwhjXa2E
もし長く持つようでしたら、私はお暇を頂きたいんですが。」と云った。
0480774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:01:29.41ID:uwhjXa2E
看護婦は勿論医者のほかには、誰もいないつもりに違いなかった。
0481774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:01:45.18ID:uwhjXa2E
が、生憎台所にいた松がみんなそれを聞いてしまった。
0482774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:02:00.94ID:uwhjXa2E
そうしてぷりぷり怒りながら、浅川の叔母に話して聞かせた。
0483774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:02:16.73ID:uwhjXa2E
のみならず叔母が気をつけていると、その後も看護婦の所置ぶりには、不親切な所がいろいろある。
0484774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:02:32.48ID:uwhjXa2E
現に今朝なぞも病人にはかまわず、一時間もお化粧にかかっていた。………
0485774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:02:48.15ID:uwhjXa2E
「いくら商売柄だって、それじゃお前、あんまりじゃないか。
0486774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:03:03.91ID:uwhjXa2E
だから私の量見じゃ、取り換えた方が好いだろうと思うのさ。」
0487774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:03:19.68ID:uwhjXa2E
「ええ、そりゃその方が好いでしょう。
0488774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:03:35.46ID:uwhjXa2E
お父さんにそう云って、――」
0489774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:03:51.23ID:uwhjXa2E
洋一はあんな看護婦なぞに、母の死期を数えられたと思うと、腹が立って来るよりも、反って気がふさいでならないのだった。
0490774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:04:07.00ID:uwhjXa2E
お父さんは今し方、工場の方へ行ってしまったんだよ。
0491774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:04:22.67ID:uwhjXa2E
私がまたどうしたんだか、話し忘れている内にさ。」
0492774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:04:38.43ID:uwhjXa2E
叔母はややもどかしそうに、爛れている眼を大きくした。
0493774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:04:54.21ID:uwhjXa2E
「私はどうせ取り換えるんなら、早い方が好いと思うんだがね、――」
0494774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:05:09.99ID:uwhjXa2E
「それじゃあ神山さんにそう云って、今すぐに看護婦会へ電話をかけて貰いましょうよ。――
0495774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:05:25.77ID:uwhjXa2E
お父さんにゃ帰って来てから話しさえすれば好いんだから、――」
0496774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:05:41.42ID:uwhjXa2E
じゃそうして貰おうかね。」
0497774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:05:57.20ID:uwhjXa2E
洋一は叔母のさきに立って、勢い好く梯子を走り下りた。
0498774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:06:13.00ID:uwhjXa2E
ちょいと看護婦会へ電話をかけてくれ給え。」
0499774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:06:28.75ID:uwhjXa2E
彼の声を聞いた五六人の店員たちは、店先に散らばった商品の中から、驚いたような視線を洋一に集めた。
0500774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:06:44.51ID:uwhjXa2E
と同時に神山は、派手なセルの前掛けに毛糸屑をくっつけたまま、早速帳場机から飛び出して来た。
0501774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:07:00.31ID:uwhjXa2E
「看護婦会は何番でしたかな?」
0502774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:07:16.13ID:uwhjXa2E
「僕は君が知っていると思った。」
0503774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:07:31.91ID:uwhjXa2E
梯子の下に立った洋一は、神山と一しょに電話帳を見ながら、彼や叔母とは没交渉な、平日と変らない店の空気に、軽い反感のようなものを感じない訳には行かなかった。
0504774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:07:47.67ID:uwhjXa2E
午過ぎになってから、洋一が何気なく茶の間へ来ると、そこには今し方帰ったらしい、夏羽織を着た父の賢造が、長火鉢の前に坐っていた。
0505774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:08:03.42ID:uwhjXa2E
そうしてその前には姉のお絹が、火鉢の縁に肘をやりながら、今日は湿布を巻いていない、綺麗な丸髷の襟足をこちらへまともに露していた。
0506774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:08:19.20ID:uwhjXa2E
「そりゃおれだって忘れるもんかな。」
0507774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:08:34.86ID:uwhjXa2E
「じゃそうして頂戴よ。」
0508774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:08:50.59ID:uwhjXa2E
お絹は昨日よりもまた一倍、血色の悪い顔を挙げて、ちょいと洋一の挨拶に答えた。
0509774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:09:06.25ID:uwhjXa2E
それから多少彼を憚るような、薄笑いを含んだ調子で、怯ず怯ず話の後を続けた。
0510774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:09:22.03ID:uwhjXa2E
「その方がどうかなってくれなくっちゃ、何かに私だって気がひけるわ。
0511774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:09:37.79ID:uwhjXa2E
私があの時何した株なんぞも、みんな今度は下ってしまったし、――」
0512774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:09:53.57ID:uwhjXa2E
「よし、よし、万事呑みこんだよ。」
0513774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:10:09.32ID:uwhjXa2E
父は浮かない顔をしながら、その癖冗談のようにこんな事を云った。
0514774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:10:25.07ID:uwhjXa2E
姉は去年縁づく時、父に分けて貰う筈だった物が、未に一部は約束だけで、事実上お流れになっているらしい。――
0515774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:10:40.84ID:uwhjXa2E
そう云う消息に通じている洋一は、わざと長火鉢には遠い所に、黙然と新聞をひろげたまま、さっき田村に誘われた明治座の広告を眺めていた。
0516774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:10:56.59ID:uwhjXa2E
「それだからお父さんは嫌になってしまう。」
0517774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:11:12.35ID:uwhjXa2E
「お前よりおれの方が嫌になってしまう。
0518774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:11:28.11ID:uwhjXa2E
お母さんはああやって寝ているし、お前にゃ愚痴ばかりこぼされるし、――」
0519774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:11:43.90ID:uwhjXa2E
洋一は父の言葉を聞くと、我知らず襖一つ向うの、病室の動静に耳を澄ませた。
0520774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:11:59.65ID:uwhjXa2E
そこではお律がいつもに似合わず、時々ながら苦しそうな唸り声を洩らしているらしかった。
0521774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:12:15.64ID:uwhjXa2E
「お母さんも今日は楽じゃないな。」
0522774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:12:31.44ID:uwhjXa2E
独り言のような洋一の言葉は、一瞬間彼等親子の会話を途切らせるだけの力があった。
0523774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:12:47.19ID:uwhjXa2E
が、お絹はすぐに居ずまいを直すと、ちらりと賢造の顔を睨みながら、
0524774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:13:02.95ID:uwhjXa2E
「お母さんの病気だってそうじゃないの?
0525774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:13:18.71ID:uwhjXa2E
いつか私がそう云った時に、御医者様を取り換えていさえすりゃ、きっとこんな事にゃなりゃしないわ。
0526774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:13:34.32ID:uwhjXa2E
それをお父さんがまた煮え切らないで、――」と、感傷的に父を責め始めた。
0527774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:13:50.11ID:uwhjXa2E
「だからさ、だから今日は谷村博士に来て貰うと云っているんじゃないか?」
0528774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:14:05.90ID:uwhjXa2E
賢造はとうとう苦い顔をして、抛り出すようにこう云った。
0529774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:14:21.69ID:uwhjXa2E
洋一も姉の剛情なのが、さすがに少し面憎くもなった。
0530774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:14:37.34ID:uwhjXa2E
「谷村さんは何時頃来てくれるんでしょう?」
0531774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:14:53.10ID:uwhjXa2E
「三時頃来るって云っていた。
0532774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:15:08.82ID:uwhjXa2E
さっき工場の方からも電話をかけて置いたんだが、――」
0533774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:15:24.63ID:uwhjXa2E
洋一は立て膝を抱きながら、日暦の上に懸っている、大きな柱時計へ眼を挙げた。
0534774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:15:40.34ID:uwhjXa2E
「もう一度電話でもかけさせましょうか?」
0535774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:15:56.01ID:uwhjXa2E
「さっきも叔母さんがかけたってそう云っていたがね。」
0536774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:16:11.65ID:uwhjXa2E
「戸沢さんが帰るとすぐだとさ。」
0537774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:16:27.31ID:uwhjXa2E
彼等がそんな事を話している内に、お絹はまだ顔を曇らせたまま、急に長火鉢の前から立上ると、さっさと次の間へはいって行った。
0538774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:16:43.04ID:uwhjXa2E
「やっと姉さんから御暇が出た。」
0539774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:16:58.83ID:uwhjXa2E
賢造は苦笑を洩らしながら、始めて腰の煙草入れを抜いた。
0540774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:17:14.50ID:uwhjXa2E
が、洋一はまた時計を見たぎり、何ともそれには答えなかった。
0541774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:17:30.15ID:uwhjXa2E
病室からは相不変、お律の唸り声が聞えて来た。
0542774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:17:45.91ID:uwhjXa2E
それが気のせいかさっきよりは、だんだん高くなるようでもあった。
0543774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:18:01.67ID:uwhjXa2E
谷村博士はどうしたのだろう?
0544774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:18:17.44ID:uwhjXa2E
もっとも向うの身になって見れば、母一人が患者ではなし、今頃はまだ便々と、回診か何かをしているかも知れない。
0545774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:18:33.21ID:uwhjXa2E
いや、もう四時を打つ所だから、いくら遅くなったにしても、病院はとうに出ている筈だ。
0546774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:18:48.87ID:uwhjXa2E
事によると今にも店さきへ、――
0547774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:19:04.65ID:uwhjXa2E
洋一は陰気な想像から、父の声と一しょに解放された。
0548774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:19:20.41ID:uwhjXa2E
見ると襖の明いた所に、心配そうな浅川の叔母が、いつか顔だけ覗かせていた。
0549774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:19:36.18ID:uwhjXa2E
「よっぽど苦しいようですがね、――
0550774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:19:51.96ID:uwhjXa2E
御医者様はまだ見えませんかしら。」
0551774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:20:07.74ID:uwhjXa2E
賢造は口を開く前に、まずそうに刻みの煙を吐いた。
0552774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:20:23.50ID:uwhjXa2E
もう一度電話でもかけさせましょうか?」
0553774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:20:39.26ID:uwhjXa2E
「そうですね、一時凌ぎさえつけて頂けりゃ、戸沢さんでも好いんですがね。」
0554774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:20:54.91ID:uwhjXa2E
「僕がかけて来ます。」
0555774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:21:10.69ID:uwhjXa2E
洋一はすぐに立ち上った。
0556774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:21:26.49ID:uwhjXa2E
じゃ先生はもう御出かけになりましたでしょうかってね。
0557774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:21:42.27ID:uwhjXa2E
番号は小石川のxxx番だから、――」
0558774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:21:58.07ID:uwhjXa2E
賢造の言葉が終らない内に、洋一はもう茶の間から、台所の板の間へ飛び出していた。
0559774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:22:13.87ID:uwhjXa2E
台所には襷がけの松が鰹節の鉋を鳴らしている。――
0560774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:22:29.62ID:uwhjXa2E
その側を乱暴に通りぬけながら、いきなり店へ行こうとすると、出合い頭に向うからも、小走りに美津が走って来た。
0561774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:22:45.30ID:uwhjXa2E
二人はまともにぶつかる所を、やっと両方へ身を躱した。
0562774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:23:01.05ID:uwhjXa2E
結いたての髪をわせた美津は、極り悪そうにこう云ったまま、ばたばた茶の間の方へ駈けて行った。
0563774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:23:16.71ID:uwhjXa2E
洋一は妙にてれながら、電話の受話器を耳へ当てた。
0564774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:23:32.49ID:uwhjXa2E
するとまだ交換手が出ない内に、帳場机にいた神山が、後から彼へ声をかけた。
0565774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:23:48.24ID:uwhjXa2E
彼は受話器を持ったなり、神山の方を振り返った。
0566774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:24:04.00ID:uwhjXa2E
神山は彼の方を見ずに、金格子で囲った本立てへ、大きな簿記帳を戻していた。
0567774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:24:19.77ID:uwhjXa2E
「じゃ今向うからかかって来ましたぜ。
0568774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:24:35.43ID:uwhjXa2E
お美津さんが奥へそう云いに行った筈です。」
0569774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:24:51.19ID:uwhjXa2E
「何てかかって来たの?」
0570774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:25:06.98ID:uwhjXa2E
「先生はただ今御出かけになったって云ってたようですが、――
0571774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:25:22.75ID:uwhjXa2E
呼びかけられた店員の一人は、ちょうど踏台の上にのりながら、高い棚に積んだ商品の箱を取り下そうとしている所だった。
0572774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:25:38.51ID:uwhjXa2E
「ただ今じゃありませんよ。
0573774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:25:54.18ID:uwhjXa2E
もうそちらへいらっしゃる時分だって云っていましたよ。」
0574774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:26:09.96ID:uwhjXa2E
そんなら美津のやつ、そう云えば好いのに。」
0575774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:26:25.88ID:uwhjXa2E
洋一は電話を切ってから、もう一度茶の間へ引き返そうとした。
0576774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:26:41.67ID:uwhjXa2E
が、ふと店の時計を見ると、不審そうにそこへ立ち止った。
0577774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:26:57.31ID:uwhjXa2E
「おや、この時計は二十分過ぎだ。」
0578774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:27:12.94ID:uwhjXa2E
「何、こりゃ十分ばかり進んでいますよ。
0579774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:27:28.61ID:uwhjXa2E
まだ四時十分過ぎくらいなもんでしょう。」
0580774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:27:44.27ID:uwhjXa2E
神山は体をりながら、帯の金時計を覗いて見た。
0581774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:28:00.06ID:uwhjXa2E
「じゃやっぱり奥の時計が遅れているんだ。
0582774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:28:15.73ID:uwhjXa2E
それにしちゃ谷村さんは遅すぎるな。――」
0583774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:28:31.49ID:uwhjXa2E
洋一はちょいとためらった後、大股に店さきへ出かけて行くと、もう薄日もささなくなった、もの静な往来を眺めまわした。
0584774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:28:47.18ID:uwhjXa2E
まさか家がわからないんでもなかろうけれど、――
0585774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:29:02.96ID:uwhjXa2E
じゃ神山さん、僕はちょいとそこいらへ行って見て来らあ。」
0586774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:29:18.72ID:uwhjXa2E
彼は肩越しに神山へ、こう言葉をかけながら、店員の誰かが脱ぎ捨てた板草履の上へ飛び下りた。
0587774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:29:34.48ID:uwhjXa2E
そうしてほとんど走るように、市街自動車や電車が通る大通りの方へ歩いて行った。
0588774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:29:50.24ID:uwhjXa2E
大通りは彼の店の前から、半町も行かない所にあった。
0589774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:30:06.00ID:uwhjXa2E
そこの角にある店蔵が、半分は小さな郵便局に、半分は唐物屋になっている。――
0590774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:30:21.73ID:uwhjXa2E
その唐物屋の飾り窓には、麦藁帽や籐の杖が奇抜な組合せを見せた間に、もう派手な海水着が人間のように突立っていた。
0591774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:30:37.49ID:uwhjXa2E
洋一は唐物屋の前まで来ると、飾り窓を後に佇みながら、大通りを通る人や車に、苛立たしい視線を配り始めた。
0592774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:30:53.15ID:uwhjXa2E
が、しばらくそうしていても、この問屋ばかり並んだ横町には、人力車一台曲らなかった。
0593774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:31:08.90ID:uwhjXa2E
たまに自動車が来たと思えば、それは空車の札を出した、泥にまみれているタクシイだった。
0594774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:31:24.67ID:uwhjXa2E
その内に彼の店の方から、まだ十四五歳の店員が一人、自転車に乗って走って来た。
0595774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:31:40.45ID:uwhjXa2E
それが洋一の姿を見ると、電柱に片手をかけながら、器用に彼の側へ自転車を止めた。
0596774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:31:56.21ID:uwhjXa2E
そうしてペダルに足をかけたまま、
0597774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:32:11.99ID:uwhjXa2E
「今田村さんから電話がかかって来ました。」と云った。
0598774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:32:27.63ID:uwhjXa2E
「何か用だったかい?」
0599774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:32:43.28ID:uwhjXa2E
洋一はそう云う間でも、絶えず賑な大通りへ眼をやる事を忘れなかった。
0600774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:32:58.94ID:uwhjXa2E
「用は別にないんだそうで、――」
0601774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:33:14.73ID:uwhjXa2E
「お前はそれを云いに来たの?」
0602774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:33:30.38ID:uwhjXa2E
「いいえ、私はこれから工場まで行って来るんです。――
0603774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:33:45.99ID:uwhjXa2E
ああ、それから旦那が洋一さんに用があるって云っていましたぜ。」
0604774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:34:01.75ID:uwhjXa2E
洋一はこう云いかけたが、ふと向うを眺めたと思うと、突然相手も忘れたように、飾り窓の前を飛び出した。
0605774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:34:17.39ID:uwhjXa2E
人通りも疎な往来には、ちょうど今一台の人力車が、大通りをこちらへ切れようとしている。――
0606774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:34:33.14ID:uwhjXa2E
その楫棒の先へ立つが早いか、彼は両手を挙げないばかりに、車上の青年へ声をかけた。
0607774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:34:48.91ID:uwhjXa2E
車夫は体を後に反らせて、際どく車の走りを止めた。
0608774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:35:04.69ID:uwhjXa2E
車の上には慎太郎が、高等学校の夏服に白い筋の制帽をかぶったまま、膝に挟んだトランクを骨太な両手に抑えていた。
0609774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:35:20.56ID:uwhjXa2E
兄は眉一つ動かさずに、洋一の顔を見下した。
0610774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:35:36.19ID:uwhjXa2E
「お母さんはどうした?」
0611774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:35:51.85ID:uwhjXa2E
洋一は兄を見上ながら、体中の血が生き生きと、急に両頬へ上るのを感じた。
0612774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:36:07.51ID:uwhjXa2E
「この二三日悪くってね。――
0613774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:36:23.14ID:uwhjXa2E
十二指腸の潰瘍なんだそうだ。」
0614774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:36:38.90ID:uwhjXa2E
慎太郎はやはり冷然と、それ以上何も云わなかった。
0615774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:36:54.70ID:uwhjXa2E
が、その母譲りの眼の中には、洋一が予期していなかった、とは云え無意識に求めていたある表情が閃いていた。
0616774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:37:10.49ID:uwhjXa2E
洋一は兄の表情に愉快な当惑を感じながら、口早に切れ切れな言葉を続けた。
0617774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:37:26.12ID:uwhjXa2E
「今日は一番苦しそうだけれど、――
0618774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:37:41.88ID:uwhjXa2E
でも兄さんが帰って来て好かった。――
0619774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:37:57.66ID:uwhjXa2E
まあ早く行くと好いや。」
0620774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:38:13.44ID:uwhjXa2E
車夫は慎太郎の合図と一しょに、また勢いよく走り始めた。
0621774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:38:29.22ID:uwhjXa2E
慎太郎はその時まざまざと、今朝上りの三等客車に腰を落着けた彼自身が、頭のどこかに映るような気がした。
0622774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:38:44.97ID:uwhjXa2E
それは隣に腰をかけた、血色の好い田舎娘の肩を肩に感じながら、母の死目に会うよりは、むしろ死んだ後に行った方が、悲しみが少いかも知れないなどと思い耽っている彼だった。
0623774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:39:00.73ID:uwhjXa2E
しかも眼だけはその間も、レクラム版のゲエテの詩集へぼんやり落している彼だった。……
0624774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:39:16.50ID:uwhjXa2E
試験はまだ始らなかった?」
0625774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:39:32.25ID:uwhjXa2E
慎太郎は体を斜にして、驚いた視線を声の方へ投げた。
0626774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:39:47.90ID:uwhjXa2E
するとそこには洋一が、板草履を土に鳴らしながら、車とすれすれに走っていた。
0627774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:40:03.67ID:uwhjXa2E
あすこにお前は何をしていたんだ?」
0628774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:40:19.45ID:uwhjXa2E
「今日は谷村博士が来るんでね、あんまり来ようが遅いから、立って待っていたんだけれど、――」
0629774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:40:35.20ID:uwhjXa2E
洋一はこう答えながら、かすかに息をはずませていた。
0630774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:40:51.00ID:uwhjXa2E
慎太郎は弟を劬りたかった。
0631774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:41:06.80ID:uwhjXa2E
が、その心もちは口を出ると、いつか平凡な言葉に変っていた。
0632774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:41:22.44ID:uwhjXa2E
「よっぽど待ったかい?」
0633774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:41:38.23ID:uwhjXa2E
「十分も待ったかしら?」
0634774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:41:53.89ID:uwhjXa2E
「誰かあすこに店の者がいたようじゃないか?――
0635774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:42:09.57ID:uwhjXa2E
車夫は五六歩行き過ぎてから、大廻しに楫棒を店の前へ下した。
0636774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:42:25.50ID:uwhjXa2E
さすがに慎太郎にもなつかしい、分厚な硝子戸の立った店の前へ。
0637774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:42:41.37ID:uwhjXa2E
一時間の後店の二階には、谷村博士を中心に、賢造、慎太郎、お絹の夫の三人が浮かない顔を揃えていた。
0638774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:42:57.15ID:uwhjXa2E
彼等はお律の診察が終ってから、その診察の結果を聞くために、博士をこの二階に招じたのだった。
0639774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:43:13.00ID:uwhjXa2E
体格の逞しい谷村博士は、すすめられた茶を啜った後、しばらくは胴衣の金鎖を太い指にからめていたが、やがて電燈に照らされた三人の顔を見廻すと、
0640774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:43:28.64ID:uwhjXa2E
「戸沢さんとか云う、――
0641774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:43:44.41ID:uwhjXa2E
かかりつけの医者は御呼び下すったでしょうな。」と云った。
0642774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:44:00.06ID:uwhjXa2E
「ただ今電話をかけさせました。――
0643774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:44:15.84ID:uwhjXa2E
すぐに上るとおっしゃったね。」
0644774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:44:31.61ID:uwhjXa2E
賢造は念を押すように、慎太郎の方を振り返った。
0645774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:44:47.39ID:uwhjXa2E
慎太郎はまだ制服を着たまま、博士と向い合った父の隣りに、窮屈そうな膝を重ねていた。
0646774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:45:03.15ID:uwhjXa2E
「ええ、すぐに見えるそうです。」
0647774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:45:18.92ID:uwhjXa2E
「じゃその方が見えてからにしましょう。――
0648774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:45:34.67ID:uwhjXa2E
どうもはっきりしない天気ですな。」
0649774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:45:50.43ID:uwhjXa2E
谷村博士はこう云いながら、マロック革の巻煙草入れを出した。
0650774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:46:06.20ID:uwhjXa2E
「当年は梅雨が長いようです。」
0651774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:46:21.97ID:uwhjXa2E
「とかく雲行きが悪いんで弱りますな。
0652774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:46:37.63ID:uwhjXa2E
天候も財界も昨今のようじゃ、――」
0653774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:46:53.40ID:uwhjXa2E
お絹の夫も横合いから、滑かな言葉をつけ加えた。
0654774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:47:09.16ID:uwhjXa2E
ちょうど見舞いに来合せていた、この若い呉服屋の主人は、短い口髭に縁無しの眼鏡と云う、むしろ弁護士か会社員にふさわしい服装の持ち主だった。
0655774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:47:24.89ID:uwhjXa2E
慎太郎はこう云う彼等の会話に、妙な歯痒さを感じながら、剛情に一人黙っていた。
0656774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:47:40.66ID:uwhjXa2E
しかし戸沢と云う出入りの医者が、彼等の間に交ったのは、それから間もない後の事だった。
0657774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:47:56.44ID:uwhjXa2E
黒絽の羽織をひっかけた、多少は酒気もあるらしい彼は、谷村博士と慇懃な初対面の挨拶をすませてから、すじかいに坐った賢造へ、
0658774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:48:12.19ID:uwhjXa2E
「もう御診断は御伺いになったんですか?」と、強い東北訛の声をかけた。
0659774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:48:27.95ID:uwhjXa2E
「いや、あなたが御見えになってから、申し上げようと思っていたんですが、――」
0660774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:48:43.70ID:uwhjXa2E
谷村博士は指の間に短い巻煙草を挟んだまま、賢造の代りに返事をした。
0661774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:48:59.47ID:uwhjXa2E
「なおあなたの御話を承る必要もあるものですから、――」
0662774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:49:15.23ID:uwhjXa2E
戸沢は博士に問われる通り、ここ一週間ばかりのお律の容態を可成詳細に説明した。
0663774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:49:30.88ID:uwhjXa2E
慎太郎には薄い博士の眉が、戸沢の処方を聞いた時、かすかに動いたのが気がかりだった。
0664774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:49:46.62ID:uwhjXa2E
しかしその話が一段落つくと、谷村博士は大様に、二三度独り頷いて見せた。
0665774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:50:02.41ID:uwhjXa2E
「いや、よくわかりました。
0666774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:50:18.08ID:uwhjXa2E
無論十二指腸の潰瘍です。
0667774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:50:33.85ID:uwhjXa2E
が、ただいま拝見した所じゃ、腹膜炎を起していますな。
0668774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:50:49.49ID:uwhjXa2E
何しろこう下腹が押し上げられるように痛いと云うんですから――」
0669774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:51:05.27ID:uwhjXa2E
「ははあ、下腹が押し上げられるように痛い?」
0670774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:51:20.95ID:uwhjXa2E
戸沢はセルの袴の上に威かつい肘を張りながら、ちょいと首を傾けた。
0671774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:51:36.73ID:uwhjXa2E
しばらくは誰も息を呑んだように、口を開こうとするものがなかった。
0672774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:51:52.40ID:uwhjXa2E
「熱なぞはそれでも昨日よりは、ずっと低いようですが、――」
0673774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:52:08.16ID:uwhjXa2E
その内にやっと賢造は、覚束ない反問の口を切った。
0674774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:52:23.95ID:uwhjXa2E
しかし博士は巻煙草を捨てると、無造作にその言葉を遮った。
0675774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:52:39.75ID:uwhjXa2E
「それがいかんですな。
0676774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:52:55.40ID:uwhjXa2E
熱はずんずん下りながら、脈搏は反ってふえて来る。――
0677774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:53:11.20ID:uwhjXa2E
と云うのがこの病の癖なんですから。」
0678774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:53:26.86ID:uwhjXa2E
「なるほど、そう云うものですかな。
0679774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:53:42.64ID:uwhjXa2E
こりゃ我々若いものも、伺って置いて好い事ですな。」
0680774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:53:58.41ID:uwhjXa2E
お絹の夫は腕組みをした手に、時々口髭をひっぱっていた。
0681774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:54:14.17ID:uwhjXa2E
慎太郎は義兄の言葉の中に、他人らしい無関心の冷たさを感じた。
0682774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:54:29.93ID:uwhjXa2E
「しかし私が診察した時にゃ、まだ別に腹膜炎などの兆候も見えないようでしたがな。――」
0683774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:54:45.71ID:uwhjXa2E
戸沢がこう云いかけると、谷村博士は職業的に、透かさず愛想の好い返事をした。
0684774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:55:01.48ID:uwhjXa2E
多分はあなたの御覧になった後で発したかと思うんです。
0685774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:55:17.25ID:uwhjXa2E
第一まだ病状が、それほど昂進してもいないようですから、――
0686774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:55:32.99ID:uwhjXa2E
しかしともかくも現在は、腹膜炎に違いありませんな。」
0687774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:55:48.75ID:uwhjXa2E
「じゃすぐに入院でも、させて見ちゃいかがでしょう?」
0688774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:56:04.52ID:uwhjXa2E
慎太郎は険しい顔をしたまま、始めて話に口を挟んだ。
0689774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:56:20.26ID:uwhjXa2E
博士はそれが意外だったように、ちらりと重そうなの下から、慎太郎の顔へ眼を注いだ。
0690774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:56:36.02ID:uwhjXa2E
「今はとても動かせないです。
0691774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:56:51.79ID:uwhjXa2E
まず差当りは出来る限り、腹を温める一方ですな。
0692774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:57:07.56ID:uwhjXa2E
それでも痛みが強いようなら、戸沢さんにお願いして、注射でもして頂くとか、――
0693774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:57:23.36ID:uwhjXa2E
今夜はまだ中々痛むでしょう。
0694774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:57:39.11ID:uwhjXa2E
どの病気でも楽じゃないが、この病気は殊に苦しいですから。」
0695774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:57:54.91ID:uwhjXa2E
谷村博士はそう云ったぎり、沈んだ眼を畳へやっていたが、ふと思い出したように、胴衣の時計を出して見ると、
0696774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:58:10.67ID:uwhjXa2E
「じゃ私はもう御暇します。」と、すぐに背広の腰を擡げた。
0697774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:58:26.46ID:uwhjXa2E
慎太郎は父や義兄と一しょに、博士に来診の礼を述べた。
0698774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:58:42.24ID:uwhjXa2E
が、その間も失望の色が彼自身の顔には歴々と現れている事を意識していた。
0699774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:58:58.06ID:uwhjXa2E
「どうか博士もまた二三日中に、もう一度御診察を願いたいもので、――」
0700774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:59:13.83ID:uwhjXa2E
戸沢は挨拶をすませてから、こう云ってまた頭を下げた。
0701774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:59:29.58ID:uwhjXa2E
「ええ、上る事はいつでも上りますが、――」
0702774mgさん垢版2018/03/11(日) 04:59:45.36ID:uwhjXa2E
これが博士の最後の言葉だった。
0703774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:00:01.14ID:uwhjXa2E
慎太郎は誰よりずっと後に、暗い梯子を下りながら、しみじみ万事休すと云う心もちを抱かずにはいられなかった。…………
0704774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:00:16.93ID:uwhjXa2E
戸沢やお絹の夫が帰ってから、和服に着換えた慎太郎は、浅川の叔母や洋一と一しょに、茶の間の長火鉢を囲んでいた。
0705774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:00:32.75ID:uwhjXa2E
襖の向うからは不相変、お律の唸り声が聞えて来た。
0706774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:00:48.40ID:uwhjXa2E
彼等三人は電燈の下に、はずまない会話を続けながら、ややもすると云い合せたように、その声へ耳を傾けている彼等自身を見出すのだった。
0707774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:01:04.06ID:uwhjXa2E
ああ始終苦しくっちゃ、――」
0708774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:01:19.83ID:uwhjXa2E
叔母は火箸を握ったまま、ぼんやりどこかへ眼を据えていた。
0709774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:01:35.58ID:uwhjXa2E
「戸沢さんは大丈夫だって云ったの?」
0710774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:01:51.21ID:uwhjXa2E
洋一は叔母には答えずに、E・C・Cを啣えている兄の方へ言葉をかけた。
0711774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:02:06.98ID:uwhjXa2E
「二三日は間違いあるまいって云った。」
0712774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:02:22.71ID:uwhjXa2E
戸沢さんの云う事じゃ――」
0713774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:02:38.49ID:uwhjXa2E
今度は慎太郎が返事せずに、煙草の灰を火鉢へ落していた。
0714774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:02:54.25ID:uwhjXa2E
さっきお前が帰って来た時、お母さんは何とか云ったかえ?」
0715774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:03:09.95ID:uwhjXa2E
「何とも云いませんでした。」
0716774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:03:25.71ID:uwhjXa2E
洋一は横から覗くように、静な兄の顔を眺めた。
0717774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:03:41.47ID:uwhjXa2E
それよりもお母さんの側へ行くと、莫迦に好いがするじゃありませんか?」
0718774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:03:57.22ID:uwhjXa2E
叔母は答を促すように、微笑した眼を洋一へ向けた。
0719774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:04:13.01ID:uwhjXa2E
「ありゃさっきお絹ちゃんが、持って来た香水を撒いたんだよ。
0720774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:04:28.80ID:uwhjXa2E
多分床撒き香水とか何んとか云うんでしょう。」
0721774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:04:44.44ID:uwhjXa2E
そこへお絹が襖の陰から、そっと病人のような顔を出した。
0722774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:05:00.12ID:uwhjXa2E
「お父さんはいなくって?」
0723774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:05:15.89ID:uwhjXa2E
「ええ、お母さんが、ちょいと、――」
0724774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:05:31.55ID:uwhjXa2E
洋一はお絹がそう云うと同時に、早速長火鉢の前から立ち上った。
0725774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:05:47.18ID:uwhjXa2E
「僕がそう云って来る。」
0726774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:06:02.95ID:uwhjXa2E
彼が茶の間から出て行くと、米噛みに即効紙を貼ったお絹は、両袖に胸を抱いたまま、忍び足にこちらへはいって来た。
0727774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:06:18.71ID:uwhjXa2E
そうして洋一の立った跡へ、薄ら寒そうにちゃんと坐った。
0728774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:06:34.49ID:uwhjXa2E
「やっぱり薬が通らなくってね。――
0729774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:06:50.26ID:uwhjXa2E
でも今度の看護婦になってからは、年をとっているだけでも気丈夫ですわ。」
0730774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:07:06.01ID:uwhjXa2E
慎太郎は口を挟みながら、まずそうに煙草の煙を吐いた。
0731774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:07:21.77ID:uwhjXa2E
「今計ったら七度二分――」
0732774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:07:37.53ID:uwhjXa2E
お絹は襟に顋を埋めたなり、考え深そうに慎太郎を見た。
0733774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:07:53.19ID:uwhjXa2E
「戸沢さんがいた時より、また一分下ったんだわね。」
0734774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:08:08.94ID:uwhjXa2E
三人はしばらく黙っていた。
0735774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:08:24.62ID:uwhjXa2E
するとそのひっそりした中に、板の間を踏む音がしたと思うと、洋一をさきに賢造が、そわそわ店から帰って来た。
0736774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:08:40.41ID:uwhjXa2E
「今お前の家から電話がかかったよ。
0737774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:08:56.17ID:uwhjXa2E
のちほどどうかお上さんに御電話を願いますって。」
0738774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:09:11.93ID:uwhjXa2E
賢造はお絹にそう云ったぎり、すぐに隣りへはいって行った。
0739774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:09:27.69ID:uwhjXa2E
家じゃ女中が二人いたって、ちっとも役にゃ立たないんですよ。」
0740774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:09:43.46ID:uwhjXa2E
お絹はちょいと舌打ちをしながら、浅川の叔母と顔を見合せた。
0741774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:09:59.23ID:uwhjXa2E
「この節の女中はね。――
0742774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:10:15.00ID:uwhjXa2E
私の所なんぞも女中はいるだけ、反って世話が焼けるくらいなんだよ。」
0743774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:10:30.76ID:uwhjXa2E
二人がこんな話をしている間に、慎太郎は金口を啣えながら、寂しそうな洋一の相手をしていた。
0744774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:10:46.66ID:uwhjXa2E
「受験準備はしているかい?」
0745774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:11:02.32ID:uwhjXa2E
だけど今年は投げているんだ。」
0746774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:11:18.11ID:uwhjXa2E
「また歌ばかり作っているんだろう。」
0747774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:11:33.76ID:uwhjXa2E
洋一はいやな顔をして、自分も巻煙草へ火を移した。
0748774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:11:49.55ID:uwhjXa2E
「僕は兄さんのように受験向きな人間じゃないんだからな。
0749774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:12:05.33ID:uwhjXa2E
数学は大嫌いだし、――」
0750774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:12:20.99ID:uwhjXa2E
「嫌いだってやらなけりゃ、――」
0751774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:12:36.74ID:uwhjXa2E
慎太郎がこう云いかけると、いつか襖際へ来た看護婦と、小声に話していた叔母が、
0752774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:12:52.39ID:uwhjXa2E
お母さんが呼んでいるとさ。」と火鉢越しに彼へ声をかけた。
0753774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:13:08.05ID:uwhjXa2E
彼は吸いさしの煙草を捨てると、無言のまま立ち上った。
0754774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:13:23.82ID:uwhjXa2E
そうして看護婦を押しのけるように、ずかずか隣の座敷へはいって行った。
0755774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:13:39.70ID:uwhjXa2E
何かお母さんが用があるって云うから。」
0756774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:13:55.34ID:uwhjXa2E
枕もとに独り坐っていた父は顋で彼に差図をした。
0757774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:14:11.12ID:uwhjXa2E
彼はその差図通り、すぐに母の鼻の先へ坐った。
0758774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:14:26.78ID:uwhjXa2E
母は括り枕の上へ、櫛巻きの頭を横にしていた。
0759774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:14:42.61ID:uwhjXa2E
その顔が巾をかけた電燈の光に、さっきよりも一層窶れて見えた。
0760774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:14:58.25ID:uwhjXa2E
「ああ、洋一がね、どうも勉強をしないようだからね、――
0761774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:15:14.30ID:uwhjXa2E
お前からもよくそう云ってね、――
0762774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:15:29.95ID:uwhjXa2E
お前の云う事は聞く子だから、――」
0763774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:15:45.77ID:uwhjXa2E
「ええ、よく云って置きます。
0764774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:16:01.51ID:uwhjXa2E
実は今もその話をしていたんです。」
0765774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:16:17.30ID:uwhjXa2E
慎太郎はいつもよりも大きい声で返事をした。
0766774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:16:33.09ID:uwhjXa2E
じゃ忘れないでね、――
0767774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:16:48.91ID:uwhjXa2E
私も昨日あたりまでは、死ぬのかと思っていたけれど、――」
0768774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:17:04.67ID:uwhjXa2E
母は腹痛をこらえながら、歯齦の見える微笑をした。
0769774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:17:20.49ID:uwhjXa2E
「帝釈様の御符を頂いたせいか、今日は熱も下ったしね、この分で行けば癒りそうだから、――
0770774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:17:36.29ID:uwhjXa2E
美津の叔父さんとか云う人も、やっぱり十二指腸の潰瘍だったけれど、半月ばかりで癒ったと云うしね、そう難病でもなさそうだからね。――」
0771774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:17:52.19ID:uwhjXa2E
慎太郎は今になってさえ、そんな事を頼みにしている母が、浅間しい気がしてならなかった。
0772774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:18:08.00ID:uwhjXa2E
大丈夫癒りますからね、よく薬を飲むんですよ。」
0773774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:18:23.76ID:uwhjXa2E
「じゃただ今一つ召し上って御覧なさいまし。」
0774774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:18:39.57ID:uwhjXa2E
枕もとに来ていた看護婦は器用にお律の唇へ水薬の硝子管を当てがった。
0775774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:18:55.35ID:uwhjXa2E
母は眼をつぶったなり、二吸ほど管の薬を飲んだ。
0776774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:19:11.15ID:uwhjXa2E
それが刹那の間ながら、慎太郎の心を明くした。
0777774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:19:26.93ID:uwhjXa2E
「今度はおさまったようでございます。」
0778774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:19:42.68ID:uwhjXa2E
看護婦と慎太郎とは、親しみのある視線を交換した。
0779774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:19:58.32ID:uwhjXa2E
「薬がおさまるようになれば、もうしめたものだ。
0780774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:20:14.07ID:uwhjXa2E
だがちっとは長びくだろうし、床上げの時分は暑かろうな。
0781774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:20:29.77ID:uwhjXa2E
こいつは一つ赤飯の代りに、氷あずきでも配る事にするか。」
0782774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:20:45.44ID:uwhjXa2E
賢造の冗談をきっかけに、慎太郎は膝をついたまま、そっと母の側を引き下ろうとした。
0783774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:21:01.20ID:uwhjXa2E
すると母は彼の顔へ、突然不審そうな眼をやりながら、
0784774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:21:16.96ID:uwhjXa2E
どこに今夜演説があるの?」と云った。
0785774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:21:32.72ID:uwhjXa2E
彼はさすがにぎょっとして、救いを請うように父の方を見た。
0786774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:21:48.47ID:uwhjXa2E
「演説なんぞありゃしないよ。
0787774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:22:04.18ID:uwhjXa2E
どこにもそんな物はないんだからね、今夜はゆっくり寝た方が好いよ。」
0788774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:22:19.94ID:uwhjXa2E
賢造はお律をなだめると同時に、ちらりと慎太郎の方へ眼くばせをした。
0789774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:22:35.70ID:uwhjXa2E
慎太郎は早速膝を擡げて、明るい電燈に照らされた、隣の茶の間へ帰って来た。
0790774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:22:51.48ID:uwhjXa2E
茶の間にはやはり姉や洋一が、叔母とひそひそ話していた。
0791774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:23:07.24ID:uwhjXa2E
それが彼の姿を見ると、皆一度に顔を挙げながら、何か病室の消息を尋ねるような表情をした。
0792774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:23:23.02ID:uwhjXa2E
が、慎太郎は口を噤んだなり、不相変冷やかな眼つきをして、もとの座蒲団の上にあぐらをかいた。
0793774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:23:38.76ID:uwhjXa2E
まっさきに沈黙を破ったのは、今も襟に顋を埋めた、顔色の好くないお絹だった。
0794774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:23:54.55ID:uwhjXa2E
「じゃきっとお母さんは、慎ちゃんの顔がただ見たかったのよ。」
0795774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:24:10.30ID:uwhjXa2E
慎太郎は姉の言葉の中に、意地の悪い調子を感じた。
0796774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:24:26.08ID:uwhjXa2E
が、ちょいと苦笑したぎり、何ともそれには答えなかった。
0797774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:24:41.83ID:uwhjXa2E
お前今夜夜伽をおしかえ?」
0798774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:24:57.52ID:uwhjXa2E
しばらく無言が続いた後、浅川の叔母は欠伸まじりに、こう洋一へ声をかけた。
0799774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:25:13.31ID:uwhjXa2E
姉さんも今夜はするって云うから、――」
0800774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:25:29.10ID:uwhjXa2E
お絹は薄いを挙げて、じろりと慎太郎の顔を眺めた。
0801774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:25:44.87ID:uwhjXa2E
「僕はどうでも好い。」
0802774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:26:00.64ID:uwhjXa2E
「不相変慎ちゃんは煮え切らないのね。
0803774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:26:16.31ID:uwhjXa2E
高等学校へでもはいったら、もっとはきはきするかと思ったけれど。――」
0804774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:26:32.06ID:uwhjXa2E
「この人はお前、疲れているじゃないか?」
0805774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:26:47.81ID:uwhjXa2E
叔母ば半ばたしなめるように、癇高いお絹の言葉を制した。
0806774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:27:03.46ID:uwhjXa2E
「今夜は一番さきへ寝かした方が好いやね。
0807774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:27:19.22ID:uwhjXa2E
何も夜伽ぎをするからって、今夜に限った事じゃあるまいし、――」
0808774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:27:34.97ID:uwhjXa2E
「じゃ一番さきに寝るかな。」
0809774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:27:50.73ID:uwhjXa2E
慎太郎はまた弟のE・C・Cに火をつけた。
0810774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:28:06.39ID:uwhjXa2E
垂死の母を見て来た癖に、もう内心ははしゃいでいる彼自身の軽薄を憎みながら、………
0811774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:28:22.16ID:uwhjXa2E
それでも店の二階の蒲団に、慎太郎が体を横たえたのは、その夜の十二時近くだった。
0812774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:28:37.91ID:uwhjXa2E
彼は叔母の言葉通り、実際旅疲れを感じていた。
0813774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:28:53.67ID:uwhjXa2E
が、いよいよ電燈を消して見ると、何度か寝反りを繰り返しても、容易に睡気を催さなかった。
0814774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:29:09.59ID:uwhjXa2E
彼の隣には父の賢造が、静かな寝息を洩らしていた。
0815774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:29:25.38ID:uwhjXa2E
父と一つ部屋に眠るのは、少くともこの三四年以来、今夜が彼には始めてだった。
0816774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:29:41.15ID:uwhjXa2E
父は鼾きをかかなかったかしら、――
0817774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:29:56.86ID:uwhjXa2E
慎太郎は時々眼を明いては、父の寝姿を透かして見ながら、そんな事さえ不審に思いなぞした。
0818774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:30:12.54ID:uwhjXa2E
しかし彼のの裏には、やはりさまざまな母の記憶が、乱雑に漂って来勝ちだった。
0819774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:30:28.33ID:uwhjXa2E
その中には嬉しい記憶もあれば、むしろ忌わしい記憶もあった。
0820774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:30:44.07ID:uwhjXa2E
が、どの記憶も今となって見れば、同じように寂しかった。
0821774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:30:59.83ID:uwhjXa2E
「みんなもう過ぎ去った事だ。
0822774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:31:15.49ID:uwhjXa2E
善くっても悪くっても仕方がない。」――
0823774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:31:31.12ID:uwhjXa2E
慎太郎はそう思いながら、糊ののする括り枕に、ぼんやり五分刈の頭を落着けていた。
0824774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:31:46.90ID:uwhjXa2E
まだ小学校にいた時分、父がある日慎太郎に、新しい帽子を買って来た事があった。
0825774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:32:02.58ID:uwhjXa2E
それは兼ね兼ね彼が欲しがっていた、庇の長い大黒帽だった。
0826774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:32:18.34ID:uwhjXa2E
するとそれを見た姉のお絹が、来月は長唄のお浚いがあるから、今度は自分にも着物を一つ、拵えてくれろと云い出した。
0827774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:32:34.15ID:uwhjXa2E
父はにやにや笑ったぎり、全然その言葉に取り合わなかった。
0828774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:32:50.04ID:uwhjXa2E
姉はすぐに怒り出した。
0829774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:33:05.80ID:uwhjXa2E
そうして父に背を向けたまま、口惜しそうに毒口を利いた。
0830774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:33:21.59ID:uwhjXa2E
「たんと慎ちゃんばかり御可愛がりなさいよ。」
0831774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:33:37.24ID:uwhjXa2E
父は多少持て余しながらも、まだ薄笑いを止めなかった。
0832774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:33:53.01ID:uwhjXa2E
「着物と帽子とが一つになるものかな。」
0833774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:34:08.79ID:uwhjXa2E
「じゃお母さんはどうしたんです?
0834774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:34:24.58ID:uwhjXa2E
お母さんだってこの間は、羽織を一つ拵えたじゃありませんか?」
0835774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:34:40.36ID:uwhjXa2E
姉は父の方へ向き直ると、突然険しい目つきを見せた。
0836774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:34:56.13ID:uwhjXa2E
「あの時はお前も簪だの櫛だの買って貰ったじゃないか?」
0837774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:35:11.90ID:uwhjXa2E
「ええ、買って貰いました。
0838774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:35:27.68ID:uwhjXa2E
買って貰っちゃいけないんですか?」
0839774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:35:43.44ID:uwhjXa2E
姉は頭へ手をやったと思うと、白い菊の花簪をいきなり畳の上へ抛り出した。
0840774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:35:59.20ID:uwhjXa2E
「何だ、こんな簪ぐらい。」
0841774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:36:14.86ID:uwhjXa2E
父もさすがに苦い顔をした。
0842774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:36:30.63ID:uwhjXa2E
「莫迦な事をするな。」
0843774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:36:46.40ID:uwhjXa2E
「どうせ私は莫迦ですよ。
0844774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:37:02.17ID:uwhjXa2E
慎ちゃんのような利口じゃありません。
0845774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:37:17.93ID:uwhjXa2E
私のお母さんは莫迦だったんですから、――」
0846774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:37:33.57ID:uwhjXa2E
慎太郎は蒼い顔をしたまま、このいさかいを眺めていた。
0847774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:37:49.21ID:uwhjXa2E
が、姉がこう泣き声を張り上げると、彼は黙って畳の上の花簪を掴むが早いか、びりびりその花びらをむしり始めた。
0848774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:38:04.85ID:uwhjXa2E
姉はほとんど気違いのように、彼の手もとへむしゃぶりついた。
0849774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:38:20.61ID:uwhjXa2E
「こんな簪なんぞ入らないって云ったじゃないか?
0850774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:38:36.38ID:uwhjXa2E
入らなけりゃどうしたってかまわないじゃないか?
0851774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:38:52.14ID:uwhjXa2E
何だい、女の癖に、――
0852774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:39:07.91ID:uwhjXa2E
喧嘩ならいつでも向って来い。――」
0853774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:39:23.60ID:uwhjXa2E
いつか泣いていた慎太郎は、菊の花びらが皆なくなるまで、剛情に姉と一本の花簪を奪い合った。
0854774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:39:39.39ID:uwhjXa2E
しかし頭のどこかには、実母のない姉の心もちが不思議なくらい鮮に映っているような気がしながら。――
0855774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:39:55.03ID:uwhjXa2E
慎太郎はふと耳を澄せた。
0856774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:40:10.80ID:uwhjXa2E
誰かが音のしないように、暗い梯子を上って来る。――
0857774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:40:26.45ID:uwhjXa2E
と思うと美津が上り口から、そっとこちらへ声をかけた。
0858774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:40:42.21ID:uwhjXa2E
眠っていると思った賢造は、すぐに枕から頭を擡げた。
0859774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:40:57.97ID:uwhjXa2E
「お上さんが何か御用でございます。」
0860774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:41:13.63ID:uwhjXa2E
美津の声は震えていた。
0861774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:41:29.45ID:uwhjXa2E
父が二階を下りて行った後、慎太郎は大きな眼を明いたまま、家中の物音にでも聞き入るように、じっと体を硬ばらせていた。
0862774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:41:45.11ID:uwhjXa2E
すると何故かその間に、現在の気もちとは縁の遠い、こう云う平和な思い出が、はっきり頭へ浮んで来た。
0863774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:42:00.79ID:uwhjXa2E
これもまだ小学校にいた時分、彼は一人母につれられて、谷中の墓地へ墓参りに行った。
0864774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:42:16.54ID:uwhjXa2E
墓地の松や生垣の中には、辛夷の花が白らんでいる、天気の好い日曜の午過ぎだった。
0865774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:42:32.30ID:uwhjXa2E
母は小さな墓の前に来ると、これがお父さんの御墓だと教えた。
0866774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:42:48.07ID:uwhjXa2E
が、彼はその前に立って、ちょいと御時宜をしただけだった。
0867774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:43:03.84ID:uwhjXa2E
「それでもう好いの?」
0868774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:43:19.63ID:uwhjXa2E
母は水を手向けながら、彼の方へ微笑を送った。
0869774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:43:35.39ID:uwhjXa2E
彼は顔を知らない父に、漠然とした親しみを感じていた。
0870774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:43:51.15ID:uwhjXa2E
が、この憐な石塔には、何の感情も起らないのだった。
0871774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:44:06.90ID:uwhjXa2E
母はそれから墓の前に、しばらく手を合せていた。
0872774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:44:22.74ID:uwhjXa2E
するとどこかその近所に、空気銃を打ったらしい音が聞えた。
0873774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:44:38.50ID:uwhjXa2E
慎太郎は母を後に残して、音のした方へ出かけて行った。
0874774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:44:54.26ID:uwhjXa2E
生垣を一つ大廻りに廻ると、路幅の狭い往来へ出る、――
0875774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:45:10.01ID:uwhjXa2E
そこに彼よりも大きな子供が弟らしい二人と一しょに、空気銃を片手に下げたなり、何の木か木の芽の煙った梢を残惜しそうに見上げていた。――
0876774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:45:25.68ID:uwhjXa2E
その時また彼の耳には、誰かの梯子を上って来る音がみしりみしり聞え出した。
0877774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:45:41.47ID:uwhjXa2E
急に不安になった彼は半ば床から身を起すと、
0878774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:45:57.12ID:uwhjXa2E
「誰?」と上り口へ声をかけた。
0879774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:46:12.96ID:uwhjXa2E
声の持ち主は賢造だった。
0880774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:46:28.73ID:uwhjXa2E
「どうかしたんですか?」
0881774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:46:44.34ID:uwhjXa2E
「今お母さんが用だって云うからね、ちょいと下へ行って来たんだ。」
0882774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:47:00.15ID:uwhjXa2E
父は沈んだ声を出しながら、もとの蒲団の上へ横になった。
0883774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:47:15.92ID:uwhjXa2E
「用って、悪いんじゃないんですか?」
0884774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:47:31.59ID:uwhjXa2E
「何、用って云った所が、ただ明日工場へ行くんなら、箪笥の上の抽斗に単衣物があるって云うだけなんだ。」
0885774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:47:47.33ID:uwhjXa2E
それは母と云うよりも母の中の妻を憐んだのだった。
0886774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:48:03.37ID:uwhjXa2E
「しかしどうもむずかしいね。
0887774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:48:19.10ID:uwhjXa2E
今なんぞも行って見ると、やっぱり随分苦しいらしいよ。
0888774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:48:34.89ID:uwhjXa2E
おまけに頭も痛いとか云ってね、始終首を動かしているんだ。」
0889774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:48:50.66ID:uwhjXa2E
「戸沢さんにまた注射でもして貰っちゃどうでしょう?」
0890774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:49:06.40ID:uwhjXa2E
「注射はそう度々は出来ないんだそうだから、――
0891774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:49:22.15ID:uwhjXa2E
どうせいけなけりゃいけないまでも、苦しみだけはもう少し楽にしてやりたいと思うがね。」
0892774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:49:37.93ID:uwhjXa2E
賢造はじっと暗い中に、慎太郎の顔を眺めるらしかった。
0893774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:49:53.58ID:uwhjXa2E
「お前のお母さんなんぞは後生も好い方だし、――
0894774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:50:09.32ID:uwhjXa2E
どうしてああ苦しむかね。」
0895774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:50:25.14ID:uwhjXa2E
二人はしばらく黙っていた。
0896774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:50:40.99ID:uwhjXa2E
「みんなまだ起きていますか?」
0897774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:50:56.75ID:uwhjXa2E
慎太郎は父と向き合ったまま、黙っているのが苦しくなった。
0898774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:51:12.42ID:uwhjXa2E
「叔母さんは寝ている。
0899774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:51:28.19ID:uwhjXa2E
が、寝られるかどうだか、――」
0900774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:51:44.04ID:uwhjXa2E
父はこう云いかけると、急にまた枕から頭を擡げて、耳を澄ますようなけはいをさせた。
0901774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:51:59.70ID:uwhjXa2E
お母さんがちょいと、――」
0902774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:52:15.53ID:uwhjXa2E
今度は梯子の中段から、お絹が忍びやかに声をかけた。
0903774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:52:31.22ID:uwhjXa2E
慎太郎は掻巻きを刎ねのけた。
0904774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:52:46.86ID:uwhjXa2E
「お前は起きなくっても好いよ。
0905774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:53:02.65ID:uwhjXa2E
何かありゃすぐに呼びに来るから。」
0906774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:53:18.47ID:uwhjXa2E
父はさっさとお絹の後から、もう一度梯子を下りて行った。
0907774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:53:34.21ID:uwhjXa2E
慎太郎は床の上に、しばらくあぐらをかいていたが、やがて立ち上って電燈をともした。
0908774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:53:49.97ID:uwhjXa2E
それからまた坐ったまま、電燈の眩しい光の中に、茫然とあたりを眺め廻した。
0909774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:54:05.73ID:uwhjXa2E
母が父を呼びによこすのは、用があるなしに関らず、実はただ父に床の側へ来ていて貰いたいせいかも知れない。――
0910774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:54:21.52ID:uwhjXa2E
そんな事もふと思われるのだった。
0911774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:54:37.27ID:uwhjXa2E
すると字を書いた罫紙が一枚、机の下に落ちているのが偶然彼の眼を捉えた。
0912774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:54:53.05ID:uwhjXa2E
彼は何気なくそれを取り上げた。
0913774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:55:08.69ID:uwhjXa2E
後は洋一の歌になっていた。
0914774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:55:24.48ID:uwhjXa2E
慎太郎はその罫紙を抛り出すと、両手を頭の後に廻しながら、蒲団の上へ仰向けになった。
0915774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:55:40.12ID:uwhjXa2E
そうして一瞬間、眼の涼しい美津の顔をありあり思い浮べた。…………
0916774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:55:55.88ID:uwhjXa2E
慎太郎がふと眼をさますと、もう窓の戸の隙間も薄白くなった二階には、姉のお絹と賢造とが何か小声に話していた。
0917774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:56:11.52ID:uwhjXa2E
彼はすぐに飛び起きた。
0918774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:56:27.18ID:uwhjXa2E
「よし、よし、じゃお前は寝た方が好いよ。」
0919774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:56:42.80ID:uwhjXa2E
賢造はお絹にこう云ったなり、忙しそうに梯子を下りて行った。
0920774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:56:58.56ID:uwhjXa2E
窓の外では屋根瓦に、滝の落ちるような音がしていた。
0921774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:57:14.32ID:uwhjXa2E
慎太郎はそう思いながら、早速寝間着を着換えにかかった。
0922774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:57:30.09ID:uwhjXa2E
すると帯を解いていたお絹が、やや皮肉に彼へ声をかけた。
0923774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:57:46.20ID:uwhjXa2E
「お早う、お母さんは?」
0924774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:58:01.99ID:uwhjXa2E
「昨夜はずっと苦しみ通し。――」
0925774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:58:17.64ID:uwhjXa2E
「自分じゃよく寝たって云うんだけれど、何だか側で見ていたんじゃ、五分もほんとうに寝なかったようだわ。
0926774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:58:33.42ID:uwhjXa2E
そうしちゃ妙な事云って、――
0927774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:58:49.20ID:uwhjXa2E
私夜中に気味が悪くなってしまった。」
0928774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:59:04.97ID:uwhjXa2E
もう着換えのすんだ慎太郎は、梯子の上り口に佇んでいた。
0929774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:59:20.72ID:uwhjXa2E
そこから見える台所のさきには、美津が裾を端折ったまま、雑巾か何かかけている。――
0930774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:59:36.52ID:uwhjXa2E
それが彼等の話し声がすると、急に端折っていた裾を下した。
0931774mgさん垢版2018/03/11(日) 05:59:52.15ID:uwhjXa2E
彼は真鍮の手すりへ手をやったなり、何だかそこへ下りて行くのが憚られるような心もちがした。
0932774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:00:07.92ID:uwhjXa2E
「妙な事ってどんな事を?」
0933774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:00:23.60ID:uwhjXa2E
半ダアスは六枚じゃないかなんて。」
0934774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:00:39.40ID:uwhjXa2E
「頭が少しどうかしているんだね。――
0935774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:00:55.17ID:uwhjXa2E
「今は戸沢さんが来ているわ。」
0936774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:01:10.84ID:uwhjXa2E
慎太郎は美津がいなくなってから、ゆっくり梯子を下りて行った。
0937774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:01:26.50ID:uwhjXa2E
五分の後、彼が病室へ来て見ると、戸沢はちょうどジキタミンの注射をすませた所だった。
0938774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:01:42.35ID:uwhjXa2E
母は枕もとの看護婦に、後の手当をして貰いながら、昨夜父が云った通り、絶えず白い括り枕の上に、櫛巻きの頭を動かしていた。
0939774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:01:58.16ID:uwhjXa2E
戸沢の側に坐っていた父は声高に母へそう云ってから、彼にちょいと目くばせをした。
0940774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:02:13.80ID:uwhjXa2E
彼は父とは反対に、戸沢の向う側へ腰を下した。
0941774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:02:29.47ID:uwhjXa2E
そこには洋一が腕組みをしたまま、ぼんやり母の顔を見守っていた。
0942774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:02:45.26ID:uwhjXa2E
「手を握っておやり。」
0943774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:03:01.32ID:uwhjXa2E
慎太郎は父の云いつけ通り、両手の掌に母の手を抑えた。
0944774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:03:17.09ID:uwhjXa2E
母の手は冷たい脂汗に、気味悪くじっとり沾っていた。
0945774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:03:32.87ID:uwhjXa2E
母は彼の顔を見ると、頷くような眼を見せたが、すぐにその眼を戸沢へやって、
0946774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:03:48.50ID:uwhjXa2E
もういけないんでしょう。
0947774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:04:04.27ID:uwhjXa2E
手がしびれて来たようですから。」と云った。
0948774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:04:19.92ID:uwhjXa2E
「いや、そんな事はありません。
0949774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:04:35.73ID:uwhjXa2E
もう二三日の辛棒です。」
0950774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:04:51.51ID:uwhjXa2E
戸沢は手を洗っていた。
0951774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:05:07.26ID:uwhjXa2E
「じきに楽になりますよ。――
0952774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:05:23.02ID:uwhjXa2E
おお、いろいろな物が並んでいますな。」
0953774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:05:38.67ID:uwhjXa2E
母の枕もとの盆の上には、大神宮や氏神の御札が、柴又の帝釈の御影なぞと一しょに、並べ切れないほど並べてある。――
0954774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:05:54.35ID:uwhjXa2E
母は上眼にその盆を見ながら、喘ぐように切れ切れな返事をした。
0955774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:06:10.10ID:uwhjXa2E
「昨夜、あんまり、苦しかったものですから、――
0956774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:06:25.86ID:uwhjXa2E
それでも今朝は、お肚の痛みだけは、ずっと楽になりました。――」
0957774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:06:41.63ID:uwhjXa2E
父は小声に看護婦へ云った。
0958774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:06:57.42ID:uwhjXa2E
「少し舌がつれるようですね。」
0959774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:07:13.18ID:uwhjXa2E
「口が御粘りになるんでしょう。――
0960774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:07:28.94ID:uwhjXa2E
これで水をさし上げて下さい。」
0961774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:07:44.72ID:uwhjXa2E
慎太郎は看護婦の手から、水に浸した筆を受け取って、二三度母の口をしめした。
0962774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:08:00.49ID:uwhjXa2E
母は筆に舌を搦んで、乏しい水を吸うようにした。
0963774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:08:16.26ID:uwhjXa2E
「じゃまた上りますからね、御心配な事はちっともありませんよ。」
0964774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:08:31.90ID:uwhjXa2E
戸沢は鞄の始末をすると、母の方へこう大声に云った。
0965774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:08:47.66ID:uwhjXa2E
それから看護婦を見返りながら、
0966774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:09:03.43ID:uwhjXa2E
「じゃ十時頃にも一度、残りを注射して上げて下さい。」と云った。
0967774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:09:19.09ID:uwhjXa2E
看護婦は口の内で返事をしたぎり、何か不服そうな顔をしていた。
0968774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:09:34.90ID:uwhjXa2E
慎太郎と父とは病室の外へ、戸沢の帰るのを送って行った。
0969774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:09:50.75ID:uwhjXa2E
次の間には今朝も叔母が一人気抜けがしたように坐っている、――
0970774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:10:06.42ID:uwhjXa2E
戸沢はその前を通る時、叮嚀な叔母の挨拶に無造作な目礼を返しながら、後に従った慎太郎へ、
0971774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:10:22.20ID:uwhjXa2E
受験準備は。」と話しかけた。
0972774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:10:37.95ID:uwhjXa2E
が、たちまち間違いに気がつくと、不快なほど快活に笑いだした。
0973774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:10:53.82ID:uwhjXa2E
弟さんだとばかり思ったもんですから、――」
0974774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:11:09.62ID:uwhjXa2E
「この頃は弟さんに御眼にかかると、いつも試験の話ばかりです。
0975774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:11:25.38ID:uwhjXa2E
やはり宅の忰なんぞが受験準備をしているせいですな。――」
0976774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:11:41.14ID:uwhjXa2E
戸沢は台所を通り抜ける時も、やはりにやにや笑っていた。
0977774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:11:56.77ID:uwhjXa2E
医者が雨の中を帰った後、慎太郎は父を店に残して、急ぎ足に茶の間へ引き返した。
0978774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:12:12.53ID:uwhjXa2E
茶の間には今度は叔母の側に、洋一が巻煙草を啣えていた。
0979774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:12:28.29ID:uwhjXa2E
慎太郎はしゃがむように、長火鉢の縁へ膝を当てた。
0980774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:12:43.97ID:uwhjXa2E
「姉さんはもう寝ているぜ。
0981774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:12:59.74ID:uwhjXa2E
お前も今の内に二階へ行って、早く一寝入りして来いよ。」
0982774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:13:15.50ID:uwhjXa2E
昨夜夜っぴて煙草ばかり呑んでいたもんだから、すっかり舌が荒れてしまった。」
0983774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:13:31.26ID:uwhjXa2E
洋一は陰気な顔をして、まだ長い吸いさしをやけに火鉢へ抛りこんだ。
0984774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:13:47.00ID:uwhjXa2E
「でもお母さんが唸らなくなったから好いや。」
0985774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:14:02.74ID:uwhjXa2E
「ちっとは楽になったと見えるねえ。」
0986774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:14:18.52ID:uwhjXa2E
叔母は母の懐炉に入れる懐炉灰を焼きつけていた。
0987774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:14:34.30ID:uwhjXa2E
「四時までは苦しかったようですがね。」
0988774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:14:49.97ID:uwhjXa2E
そこへ松が台所から、銀杏返しのほつれた顔を出した。
0989774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:15:05.72ID:uwhjXa2E
旦那様がちょいと御店へ、いらして下さいっておっしゃっています。」
0990774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:15:21.49ID:uwhjXa2E
「はい、はい、今行きます。」
0991774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:15:37.25ID:uwhjXa2E
叔母は懐炉を慎太郎へ渡した。
0992774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:15:53.00ID:uwhjXa2E
「じゃ慎ちゃん、お前お母さんを気をつけて上げておくれ。」
0993774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:16:08.78ID:uwhjXa2E
叔母がこう云って出て行くと、洋一も欠伸を噛み殺しながら、やっと重い腰を擡げた。
0994774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:16:24.57ID:uwhjXa2E
「僕も一寝入りして来るかな。」
0995774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:16:40.25ID:uwhjXa2E
慎太郎は一人になってから、懐炉を膝に載せたまま、じっと何かを考えようとした。
0996774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:16:56.00ID:uwhjXa2E
が、何を考えるのだか、彼自身にもはっきりしなかった。
0997774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:17:11.77ID:uwhjXa2E
ただ凄まじい雨の音が、見えない屋根の空を満している、――
0998774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:17:27.55ID:uwhjXa2E
それだけが頭に拡がっていた。
0999774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:17:43.20ID:uwhjXa2E
すると突然次の間から、慌しく看護婦が駆けこんで来た。
1000774mgさん垢版2018/03/11(日) 06:17:59.09ID:uwhjXa2E
「どなたかいらしって下さいましよ。
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