戦前、日本だった頃の台湾 [転載禁止]©2ch.net
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祖母が生まれてから終戦まで台湾に住んでいました。
日本だった頃の台湾の様子を知りたいんだけど、
おまいらのおじいちゃんおばあちゃんで台湾にいた人いない? うちのおばあちゃんは台湾一等地にある旅館のお嬢さんだったんだけど、従業員は全員日本人で、食べる物も見る物も全部日本式。
旅館には内地から有名な横綱や画家がよくいらしてたらしい。
学校へ行くと台湾人の子もいるけどお互い日本語で話す。 >>2>>4
↑
【韓国大統領】在日朝鮮人は、日本へ密入国したくせに被害者ぶってる正真正銘のクズ。
■朴正煕(パク・チョンヒ)大統領は在日朝鮮人が日本に強制連行されたのではなく
日本へ密航したクズである事を公式に認めていた (日韓条約批准書交換での談話 )
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPKR/19651218.S1J.html
[文書名] 日韓条約批准書交換に関する朴正煕韓国大統領談話
[年月日] 1965年12月18日
[出 典] 日本外交主要文書・年表(2),629-630頁 及
「大韓民国外交年表 附主要文献」,1965年629-630頁
[備 考] 翻訳 玄大松
[全 文] 大統領談話文 (韓日協定批准書交換に際して)
親愛なる在日僑胞(キョッポ)の皆さん!
そうして私は,日本の空の下で韓国同胞たちが再び分裂して相剋することなく,
暖い同胞愛の紐帯の中で互いに和睦して親近となり,また幸福な生活を営なむことを
希望してやみません。
これとともに私は,これまで”分別なく故国をすてて日本に密入国”しようとして抑留され,
祖国のあるべき国民になれなかった同胞に対しても,この機会に新しい韓国民として
前非を問わないことをあわせて明らかにしておこうと思います。
再びこうした分別のない同胞がいなくなることを希望しながら,今日からわれわれは
新しい気持と新しい心構えで,栄えあるわが祖国を建設する働き手とならんことを,
訴えてやみません。
1965年12月18日
大統領 朴 正 煕 うちのおばあちゃんは北投に別荘が二個あって休みになるとそこで、友人やいとこと遊んだんだって。
高女の時はお揃いのユニフォーム作ってみんなでテニスしたらしい。
よく練習していた公園でよく通る将校さんがいて、その人に求婚されたけど断ったようです。 おばあちゃんのおばあちゃんは台湾原住民の方に養蚕を教えて大変感謝されたそうです。
だから引き揚げの時に匿うから残ってくださいとお願いされたけど、原住民の生活が出来ないと思い、気持ちだけ頂いて引き揚げたんだとか。 誰もいないけど書いていく
引き揚げの時は一人千円、着物二枚、下着三枚と決まっていて、お金も大事なものも持っていくことは出来なかった。
おばあちゃんは長女なので張り込んで買ってもらった着物、立派なお雛様、弟たちの兜人形も…
でもなぜかミシンを持ち帰っている。
ミシンの機械の部分だけ布に巻き、弟たちと引きずりながら運んだそうだ。重いのに運ぶの大変だったろう。
船から降りたら白い煙をかけられたそう。
シラミの薬かな?
そして親戚の家に身を寄せます。
他のおじいちゃんおばあちゃんの話も聞きたいなあ。 子供の頃に満州にいたっていうおばあちゃんとなら話したことあるけどあまり覚えてない >14
子供の頃聞いた時は、上に書いた
着物2枚下着3枚ってのだけが強烈に残ってた
高校の時も調べ学習でおばあちゃんの話聞いたんだけど、
その時の話を今あまり憶えてなくて申し訳ない
最近は聞いたらノートに書くようにしてる おばあちゃんの旅館には当時台北に2台しか無い車のうち1台があったらしい
旅館の写真があるけど、
立派な日本家屋で大きくて学校の校舎くらいある
街路樹がソテツなのが台湾らしくて良い
日本庭園には橋が2つあり池には鯉がたくさん
客室は現在の旅館の和室とほぼ同じ
机と座布団と肘掛け、化粧台、文机があって
縁側に籐?の椅子とテーブル
床の間には掛軸と生花と電話
文机の上のランプとか欄間とかおしゃれ
掛軸も見る人が見たらわかるんだろうな
画家の横山大観が来たことあるらしいんだけど
横山大観の略歴ネットで調べても台北に来たっていうことが書いてないんだよね
横綱が来たって話はウィキペディアに
1926年(大正15年)1月に台北で大坂相撲最後の本場所が開催された
って書いてあるから本当かな
もっと文献とか調べたいな おばあちゃん曰く中国語はチーチーパッパで全くわからんって
おばあちゃんがいた頃は全く中国語が必要ないんだから当たり前だけど
触れる機会も無かったんだろうな
おばあちゃんが知ってる中国語は
来来(ライライ)
拝拝(パイパイ)
ぐらい
おばあちゃんの影響で台湾に興味持って
中国語勉強してて思ったが
普通に来来って言ってたら、ちょっと来てって意味なんだけど
来!来!って言ってたら命令なんだよね
おばあちゃんの言い方からしてたぶん前者だけど
おばあちゃんお嬢様だから
後者だと唯一知ってる中国語が命令っていうのに勝手に妙に納得してしまった >>17
台湾は今も日本統治時代の名残で
おじさん(欧吉桑)
おばさん(欧巴桑)
運ちゃん(運将)
等が通じるらしいから面白いね
意味は日本語とほぼ同じ模様 >>18
らしいね
おばあちゃんの同級生の台湾人のおじいちゃんは
本当にきれいな日本語を話すよ
8年前くらいに台湾に行った時も
タクシーの運ちゃんとおばあちゃんが
一緒に軍歌歌ってたよ
屋台の注文とかわりと日本語通じるし >>19
俺も一昨年台湾行ったけど屋内全面禁煙なのは驚いた。
ホテルの室内や居酒屋的なお店まで禁煙、お店のほうは紙コップに水を入れた簡易灰皿が黙認されてたが。 それとビンロウ(噛みタバコ的な)をタクシーの運転手さんに勧められた。
台湾ではタクシーやトラックの運転手が愛用してるらしい。
日本でいう眠気覚ましのガムみたい感じなんかな?
こわくて断ったけど。 >>20
私は烏龍茶が甘かったことに驚いたな
今年おばあちゃん連れて台湾行こうと計画してるよ
楽しみだな 前に書いたおばあちゃんの旅館に泊まったお相撲さんは
前田山、男女ノ川、常ノ花らしい。
おばあちゃん、小六まで
台湾人のそんぽうさん(尊奉?)がお風呂で体洗ってくれてたんだって
小六で何か変だと思って自分で洗うようになったらしい
おったまげ >>23
ソンポウさん気になったので調べてみたんだけど、台湾原住民族を山胞(山地同胞)と呼称してた時期があったみたい。
でもこの呼び方は戦後からのようだし違うかな。 >>24
調べてくれてありがとう
そんぽう、中国語でもそれらしい意味の言葉は無いしなんだろうね
おばあちゃんは台湾原住民族のことは高砂族って言うよ
日本統治時代に日本がつけた名前みたいね おばあちゃんは女学校を卒業後、
なぎなたの先生になって女学校で教えている。
http://i.imgur.com/3IvdEWy.jpg
昭和4年の大卒初任給が55円から100円
昭和18年頃に70円もらっていた。
友達は事務とかで40円くらいだったらしい。
公務員だからお給料良かったのかな 女学校って台北の女学校のことね
おばあちゃんはお給料一度も使わず親に預けてたのに終戦で全てパア
財産の明細を半紙に書いてあって普通は家2軒とか2行くらいで済むのに
おばあちゃんちは半紙2枚にズラズラ書いてあったらしい
今の新北市に旅館の食材作る畑がたくさんあったんだって >>26
1943年の巡査の初任給が45円だから、当時女性で70円も稼げるのは相当エリートだと思う。 ちなみに当時の日本陸軍の中尉で70円前後だったぽい。 >>28
そうなんだ、ありがとう。
いくら公務員でもお給料良すぎだよね。
戦局が厳しくなって武道を教えることが重要視されたのかな?
最初はひとつの女学校で教えてたけど、
終戦前は頼まれてふたつの女学校で教えてたんだって 台湾が日本に割譲された翌年に
台湾に渡ったのは慶応生まれのおばあちゃんのおじいちゃん
台湾で総督さんに引き合わされて、おばあちゃんのおばあちゃんと結婚したんだって
おばあちゃんのおばあちゃんのお姉さんが台湾に嫁いでたから、来やすかったみたい ☆☆☆☆☆
☆ 自民党、グッジョブですわ。 ☆
http://www.soumu.go.jp/senkyo/kokumin_touhyou/index.html
☆ 日本国民の皆様方、2016年7月の『第24回 参議院選挙』で、改憲の参議院議員が
3分の2以上を超えると日本国憲法の改正です。皆様方、必ず投票に自ら足を運んでください。
私たちの日本国憲法を絶対に改正しましょう。☆ うちの祖母は台南市投石郡ってところに居ました。なおS17産まれの母は「湾生」といって
警察官舎で台湾人のチャボラン(女中さん?)に可愛がられて育ったそうです。
パイナップル畑をバスで通るとそれは良い匂いだったとか。なお、バナナは熟れるとアケビの
ようにパクッと裂けるんだそうです。産後にニラの花蕾と豚のレバーを炒めて作ったスープが
何よりの栄養だったとか。戦争さえなかったら本当に良かったところだと語っていました。
そんな97になる祖母と3月に台南に行きます。69年ぶりの台湾、今はどうなっているの
でしょうか・・・。 >>33
台南良いですね。
祖母は修学旅行で行ったことがあるそうです。
果物と景色が素晴らしかったとか。
私も行ってみたいです。
おばあ様との旅行楽しいものになると良いですね。
うちは6月に台北を訪れる予定です。 終戦後、おばあちゃんのお父さんがおじさんと共に連行されて一日で帰ってきたんだって。
やってきた中国人は皆靴を靴箱に入れず部屋の床の間に置いていたらしい。
なんでかというと、盗まれるから。
靴を靴箱に入れるのは当たり前で盗まれるなんて思わないよね。
国が変われば感覚が違うんだなあ。 今日聞いたお話
おばあちゃんが先生をしていた時、松山の畑でお芋が出来たから生徒と、おばあちゃんちの人力車で行ったんだって。
人力車にお芋のせて帰る時歩いてたら、
人力車の車夫さんが走りたいから乗れ乗れってうるさくて
生徒の手前乗れないのにしょーがないから乗ったら
生徒たちが先生ずるいーってみんなで走ったんだって。
もうひとつは、おばあちゃんが小学校を卒業した時に兵隊さんがおばあちゃんと結婚させてくれって家まで来たんだって。
断っても何度も来て兵隊なのにいつでも家の裏とか色んなとこに立ってて困った。
結局諦めてくれたけど大変だったみたい。
兵隊なのになんでいつでも出てこれたんだろう? 今日はおばあちゃんとKANO見てきました!
嘉農が甲子園に行った1931年、おばあちゃんは小学生。
みんながワイワイ言っていたのを覚えているそうです。
感動的な映画でした。 嘉農が泊まった台北旅館、おばあちゃんちの近所です。 おばあちゃんはチーヤポイヤというお祭りが楽しみだった。
高馬はいて手も棒を持って長い謝将軍と太っちょの范将軍の格好をした人が練り歩いたそうです。
おばあちゃんが大きくなる頃にそのお祭りはなくなっちゃったとか。
調べたら霞海城隍廟に祀られている背の高い謝将軍と太っちょの范将軍のようですね。
おばあちゃんより2歳年上の親戚は沖縄育ち。
沖縄は教育が遅れていたらしく台湾の中学校に入る時におばあちゃんと同級になったそうです。
ある日おばあちゃんの近所の女の子の名前で手紙がきて、開けてみると中学生男子からのラブレターでした。
読ませようと女の子の名前を書いたのです。
このように中学生にからかわれると沖縄育ちの親戚に相手を叱ってもらっていたそうです。
中学生と女学生が言葉を交わすなんて不良だと言っていました。
二中は真面目で商業学校がやんちゃだったそうです。
台湾の教育は内地より進んでいたそうです。
台湾では勉強の出来が普通だったおばあちゃんの友達が内地に転校すると優等生になったり、
内地のおばあちゃんの母の実家に一カ月ほどいた時学校に通ったら、全部勉強したことのある内容だったそうです。
終戦前は一人で自転車で台湾人街に行って野菜を買っていたそうです。 今日はおばあちゃんと昔の台北の地図を見たよ
同窓会の人が記憶を頼りに書いたらしいけどすごくちゃんとした立派な地図だったよ
町名が日本風につけられてたんだね
学校や公共施設以外は小さな商店がきれいに並んでた
ニコニコ自転車っていう可愛い名前のお店があったよ
緑もあって整然とした街だったんだな
おばあちゃんの家の近くにはプールがあって毎日のように子供たちで行っててお掃除を手伝ってたんだって
刑務所も街中にあったよ
おばあちゃんは板場さんが仕入れて作るものを食べていたからお父さんに買い食いを禁止されてたんだけど朝早くお魚屋さんで鰯を買ってお母さんにお弁当に入れてもらってたんだって
訓練場では家族で代金を支払って飛行機に乗ったって
旅館に泊まった兵隊さんに可愛いがられていたおばあちゃんの弟は兵隊さんに連れられて戦闘機にも乗ったんだって
白いハンカチをふって戦死された兵隊さんの戦友がそのお話を涙ながらに語ってくれたらしい 1940日本政治宣傳紀録片《南進台灣》
ttps://www.youtube.com/watch?v=6sp2ZLWfHEY おばあちゃんのお話、大変興味深いです
もう当時の旅館や家は取り壊されてしまったのでしょうか
南進台湾を見ると街中がきれいに整備されてて驚きますね 台湾に移住したいんだけどVISAの関係で難しいかな >>42
わー貴重な映像ありがとう
時間ある時にじっくり見るね! >>43
興味もってくれてありがとう
おばあちゃんのお話はまるで昨日のことのようでおもしろいよ
旅館や家、別荘はとうにないよ
数年前台湾に行ったとき見たけど旅館があった場所は一流ホテルが建ってる
戦後のそういう権利ってどうなってるんだろうね?
個人のものも全部とられるものなのかな?
写真も置いてきたけど、おばあちゃんのお母さんやおばあさんが日本の親戚によく送ってたそうで、それを集めたものが残ってる
よくぞ送っててくれた
写真を見ると豊かで穏やかな生活が感じられるよ >>44
台湾に住んでみたいよね!
食べ物が安いから太っちゃいそう おばあちゃんのお母さんは旅館の女将さん
毎朝、各客室に飾るお花をいけるのが大変だったみたい
客室の写真を見ると生花が飾ってある
旅館に泊まったことないから普通かどうかわかんないんだけど、
生花飾ってあるってすごく素敵だね おばあちゃんのおばあさんは養蚕学校を出ていて、工場を建てて鳥来の人々に養蚕を教えたんだって
台湾が日本に割譲されて間もない頃でその時は蛮人と言って怖がって行かなかったのを行ったらしい
鳥来の人々は年に二回くらい旅館にお歳暮的なものをくれて、
みんなで担いで持って来る
その時旅館の車夫の小屋に上がったらしく
それをあの旅館に泊まったって自慢してまわったとか
おばあちゃんたちのお下がりの洋服をあげて、夏に山へ行ったら鳥来の人々はみんなその洋服を着て出迎えてくれたんだって
夏なのにオーバー着てる人もいたとか
かわいいね
戦後おばあちゃんたちは石碑を建てたんだけど排日運動でどけられちゃったとか
今それを取り戻そうとしてるらしいけど石碑はどうなったんだろー おばあちゃんのお父さんお母さんの馴れ初めのお話
台湾にいたお父さんはモテて、どうやら遊び出したらしいと誰かから聞いたおばあさんは故郷徳島に直行
女学校の宿舎にいたお母さんを見つけると
徳島で式を挙げそのまま船に乗せて台湾へ
どうやら攫ってきたらしい
女学校を途中で辞めてるから
おばあさんの勧めで台湾で一高女の試験を受けると合格
でもお嫁に来たのになんで学校行かなあかんねんと行かなかったんだって
私からするとひいおじいさんとひいおばあさん
ひいおじいさんは私が生まれる前に、ひいおばあさんは生まれてちょっとしてから亡くなったけど
写真やお話から立派で穏やかで仲睦まじい二人の人柄が伝わってくる おばあちゃんの旦那さん私のおじいちゃんの家は台湾の楽天地という小さな市場で紅茶屋さんしていて、おじいちゃんのお兄さんがやっていた
おばあちゃんもお父さんに連れられて行ったことあるらしい
お父さんがそのお兄さんのことを立派だと言っていて
戦後、引きあげて田舎にいたくなかったおばあちゃんはそのお兄さんの弟ならとおじいちゃんと結婚した
おじいちゃんは早くに亡くなったからおじいちゃんの方のお話が聞けなくて残念 おばあちゃんが言うには
おばあちゃんのおじいさんの代で台湾へ渡って
その頃の民間人はみんな一緒になって台湾を良くしようと燃えていたんだって
みんながそれぞれ出来る分野で頑張って発展したんだなあ
私が感じたことは今の人には無い純粋な愛国心や他人のためを思う気持ち
通りはねむの木だったのが排日運動で全部ソテツにしたらしい
おばあちゃんの故郷に何も残ってないのが残念
残ってるのは総督府の建物くらいかな? >>53
> 残ってるのは総督府の建物くらいかな?
えっ 今でも日本人が神様として祀られてたり銅像建ってたりするからなぁ
取り壊されずに残ってるところが嬉しいね 私の祖父は戦前、台湾で商売をしていて、父も台湾生まれで幼少期を台湾で過ごしました。
祖父は早くに無くなったので、いろいろ聞けなかったのが残念。
一方で、親父は12歳で終戦を迎えたので、あまりたいした記憶が無いのですが、
父が見聞きした終戦直後の台湾での良い話も悪い話は聞かされてます。 >>57
台湾のどちらですか?
残念ですね、色々お話聞きたかったですね。
おばあちゃんから台湾の悪い話はあまり聞いたことないです。
今度聞いてみます。 >>57
途中で送信してしまいました。
良かったら57さんのお父様のお話、お聞かせ願えませんか。 ども。57です。
うちの家族は昭和20年の秋まで台湾の台北に住んでました。
台北市大正町って住所で、今の中山北路一段あたりのようです。
25年前に家族で台湾行った時に父親の記憶をたどっていろいろ行ってきたのですが
親父も12歳まで台湾にいたんだから、もっと覚えてそうなのに結構忘れてるし。
岡田眞澄一家が近所に住んでいて、父と同じ国民学校で2つ下の学年だったそうです。
父から聞かされた良くない話ってのは終戦時、日本が負けて喜ぶ台湾人もいたわけで、
抑圧されてた台湾人が日本人の雇い主や憲兵に報復するみたいなことが
各地であったと。
日本国内で朝鮮人が暴動を起こしたって話は有名だけど、台湾でもそういうのが
あったってことです。
祖父・親父が台湾に住んでた関係もあり、当時の従業員だった人と、その子や
孫との付き合いが家族ぐるみであります。 >>60
貴重なお話ありがとうございます。
うちは明石町です。ご近所さんですね。
60さんのお父様とおばあちゃんの弟妹が同じ年頃なのでもしかしたらご近所で遊んだことがあるかもしれませんね。
岡田真澄さんも台湾にいらっしゃったのですね。
放浪記の菊田一夫さんがおばあちゃんと同窓だと聞いたことがあります。
なるほど報復などがあったのですね。
私のおばあちゃんから聞いた悪い話は、台湾人がお茶の葉を汚い足で踏んで仕分けているのを見て台湾のお茶は買わないと心に決めたということくらいです。
うちは同級生の台湾人の方と親交があります。お孫さんが日本語が達者なので嬉しいです。
ほかの家族の方も言葉は通じなくてもいつもあたたかく迎えて下さいます。 >>62
おばあちゃんの旅館あった!
わかっちゃうかな
>>63
おばあちゃんが大きくなる頃ちょうど戦時中なので一時的になかったのかもしれません それまでの暮らしが敗戦で根こそぎ奪われるのは切ないね
ただ、自軍に置き去りにされ民衆やソ連兵になぶりものにされた満州開拓民よりはマシだったと思う
いまも子孫同士で交友が続いてるなんて素晴らしいですね 朝鮮から帰って来た方々もね。
現代の我々には想像がつかない程の苦労をされた事でしょう。 >>65
ひいおじいさんは敗戦後も台湾に帰化すると言って聞かなかったそうです
でも何かあって(聞いたのに失念…)
引き揚げの数日前に帰ると決めたくらい台湾を愛していた、台湾での生活が良いものだったのだと思います
戦争の犠牲になった多くの人のことを考えるだけで胸を刺されるような思いです
祈ることしかできません 旅館の女将さんのひいおばあさんは朝5時に内地より着く飛行機のお出迎えをして夜11時に出る列車のお見送りをしないといけない
寝る時間もないのにいつも丸髷できちっとしていた
大将のひいおじいさんは旅館組合の組合長をしていて会合ではお酒を出される、飲むとゆでだこになるひいおじいさんは難儀した
ひいおじいさんは鶯の唱歌が好きで懐かしそうに歌っていた
馬術を習い始めたひいおじいさんがさんせん道路を馬で歩くと、ひいおじいさんの父母が人参持って通るのを待ってたらしい
戦後何度も旅館をしませんかという話があってひいおじいさんは乗り気になったけどひいおばあさんは決してしないと言っていたんだって
おばあちゃんの小学校の校舎にはおひげを垂らした大きなガジュマルの木があって、みんなその木陰や周りで遊んだ
ガジュマルの木のてっぺんに晴れだと白い旗、雨だと赤い旗が立っていた
おばあちゃんがガジュマルの歌を歌ってくれたよ >>67
終戦で台湾にいた日本人は、ごく一部の技師や有識者を除き、昭和21年までに容赦なく帰国させられたらしいですね。
わが祖父母・親父に叔父・伯叔母ら一族が日本に帰国したのは昭和21年になってからってことでした。
私が気になるのが、終戦からの台湾がどういった感じだったのか?なのですが、
当時小学6年・12歳のオヤジに聞いてもよく覚えていない。
玉音放送を聞いたことはよく覚えているが、そっから先の生活をよく覚えていないと言う。
ちなみに親父ら兄弟や、岡田真澄が通っていたのは台北の建成小学校というところで
今も当時の建物が残っています。 当事者が既に高齢だから、
人から聞いた話とかテレビ・ラジオ・写真で見聞きした事が、
そのまま自分の記憶だと錯覚しちゃう人もいるだろうしなぁ。
口頭の伝聞だけでなく、ネット上で何か証拠が有ればそれも付けて欲しいなぁ。 >>69
おばあちゃんは、終戦後お父さんとおじさんが連行されて1日で帰ってきたそうです。
その後財産の整理のためか全ての財産を明記した半紙をもとに場所などを確認
旅館には中国人が次々来て家財道具を持って行かれたようです
そして基隆港から船に乗り込んで帰国したそうです。
もう少し詳しく聞いてみます >>70
ツイッターで台湾人のアスカさんという方が、戦前の台湾にいた日本人からの贈り物などを公開しています。
その方のおじいさまが、日本人と親交があり抗日運動の時も隠して必死に守ったそうです。 >>71
ひいおじいさんの両親は総督さんに引き合わされて結婚したから、もしかして職員してたこともあるかなと思ったけどなかった
教職員名簿だったらおばあちゃんの名前があるはず >>72,73
大きいものは色々残ってるんだね!
おばあちゃんが言ってたのは民家とか商店が何も残ってないってことかな >>76
>教職員名簿だったらおばあちゃんの名前があるはず
査詢内容: 建成國民學校
檢索欄位: 不限欄位
例えば ↑ の検索で教職員名も確認できるね >>78
おばあちゃんの名前みつけた!
ありがとう、なんか嬉しい 「湾生回家」って映画が台湾で上映されてたそうなのです。
それについての日本人のブログ記事は必読。
http://tsuhonkyo.blog.jp/archives/1016941976.html
わが親父や叔父・叔母たちも台湾生まれの「湾生」なわけですが、
16歳まで台湾で過ごした長姉の伯母は相当台湾に思い入れが強いようで
いろいろ話をしてくれます。
でも、終戦時12歳だった父は、思い出話も多くをしてくれない。
本心はどうなんだろうと、この映画の予告編に出ている湾生の日本人の人たちを見ていて思った。
林田桶店ですが、親父たちが住んでた家の近くだったのです。
でも親父は、やはり林田桶店のことを覚えていないんです。
25年前に一族で台湾を訪ねた時も「おぼえてないな〜」の一言。
伯母はよく覚えてて、まだ店があったことに感動して、店の親父さん(林田桶店の店主)と
昔話に興じてる横でつまらなさそうにしていたのだった。
伯母は今、85歳になるが、去年も娘たちと台湾旅行してました。2年に一度は台湾行ってる。
一方の親父と言うと、25年前と10年前の2度行っただけ。 >>42
これ、KANO故事館(嘉義に作られた、嘉農・近藤監督の家を再現した建物)のMacでも流してたよ。 >>84
あの映像が、つべで我々レベルでも容易に観られるようになった経緯や、
何故嘉義のあの場所で流されているのか、
それらを知ると、何とも言えない気持ちになるよ。 >>81
へー!
林田桶店おばあちゃんに聞いてみよう
ありがとう! >>82,83
故郷か…
おばあちゃんは引き揚げて徳島にいたんだけど、台湾のことは嬉々として語るけどとにかく徳島にいたくなかったって言うな
全て真実なんだね
この本読みたいな
台湾の映画見たいのに近くのレンタル屋さん置いてないんだよね >>85
しかもつべに上がってるやつは中文の字幕付だから、台湾人がupした可能性が高いわけで。
(香港その他の繁体字ユーザーかもしれんが)
台湾人があの内容の日本語を聞いて翻訳して字幕を付け、そしてつべにupする、
そういう作業をやっている姿を想像するだけで、もう胸熱ってレベルじゃありませんよ。 字幕関係無いと思うぞw
妄想炸裂しなくても動画の説明書きに書いてあるんだがww
ここは文系板だから中文読んでねwww 深窓のお嬢様だったスレ主の御祖母様には関係が無いような場所だけど、
他の調べ物していて見付けて、ちょっと興味深い内容も有ったので。
太平國小、大稻*、寶藏箱
https://www.youtube.com/watch?v=haSPYjN4Usk 僕の曾祖父が浅野セメントに勤めていて終戦直後まで台湾の高雄に一家で住んでいたそうです。
祖父も台湾高雄で幼少・学生生活を送っていたのですが、その祖父も最近亡くなりました。
台湾時代の話は祖父の生前よく聞かされましたが、先後70年が過ぎようとしている今、
その頃の話ができる人が日本からも台湾からも時間とともに消えつつあるのは仕方ないけど、
昔話を聞ける機会がほしいところです。
7年前に台湾行った時に、現地のお年寄り何人かと話をしましたが、
自分の祖父・曾祖父が戦前、台湾にいたということを言うと皆さん感激され、
中には食事に連れてってくれた上にお土産までくれたお爺さんもいました。
(後日、お礼状と海苔を送らせてもらいました)
そういう戦前生まれの方々と話が出来るのもあとわずかです。 今日は台湾の別の友人が日本に来ていたので食事してきました。前より中国語が通じて嬉しかったです!台湾のお菓子と本をもらって嬉しい。
91さん,92さんには後でお返事します、すいません。 引揚の時の日本人は皆、寂しそうな顔をしていた。
そして、それを見送る私たちも複雑な気持ちでした。
確かにいろいろな感情はありましたが、肉親と引き離されるような辛さを私は覚えました(陳某さん・台北在住)
台湾を知る台湾を想う台湾を感じるBOT (@KatakuraDotNet) tweeted at 5:09 PM on Tue, Apr 14, 2015 日本統治時代の台南と台北の違い。
台北は内地人(日本本土出身者)と本島人(台湾人)が分かれて暮らしていた。
しかし台南は「まぜまぜ」だった。
だから台南出身の内地人子弟は台湾語ができた(許文龍さん 実業家)
台湾を知る台湾を想う台湾を感じるBOT (@KatakuraDotNet) tweeted at 2:08 PM on Thu, Apr 09, 2015 >>92
>台湾時代の話は祖父の生前よく聞かされましたが
それ書いてよ
ナルシシズムは要らないからさ >>42
今日はおばあちゃんと南進台湾みたよ
最初の行進をみて、
おばあちゃんは鼓笛隊をしていて何やかんやと毎日のように行進してた
太ってたから太ももがすれて痛かったって
最初の方に出てきた病院でおばあちゃんは産まれたよ
90年前にお産婆さんじゃないんだねって聞いたら、おばあちゃんの兄弟はみんな病院産まれだって
病院で5銭で買えるアイスクリームがおいしくて誰かが入院するとアイスクリーム目的で行ってたって
新高山も嫌々登ったり、ふじ丸に乗ったとか教えてくれたよ >>91
ちょっと馴染みの無い場所だね
時間がある時にゆっくり見るね
ありがとう! >>92
本当におばあちゃんとお話できる時間は限られてるんだよね
一緒に住んでないから週一回会いに行ってるけど足りない
おばあちゃんの同級生はみんな長生きだから実感ないけど、貴重なお話は聞けるうちに聞いとこ >>94
おばあちゃんのお父さんは台湾に帰化する!って帰ろうとしなかったけど何かあって(聞いたけど忘れちゃった)帰ることにしたんだって
原住民の方が匿うから残ってって言ってくれたんだけど、原住民の生活が出来ないからお断りしたって
お世話になった台湾の人みんな別れる時泣いてくれたらしい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています