【リカルドを】田中フミヤPart21【perlon perlon】 [無断転載禁止]©2ch.net
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contact行くんやったら必ずGHの会員にならなアカンの? >>509
まずブース下で洗礼受けて貰わんとあかんで menberはみんなやってることやから恥ずかしがらんと、ほら スターフェスzipちゃん来るで
5月のカオスのゲスト確定かな 今が最高やないみたいな言い方やめてんか!
今も最高やさかい!! それでChaosどうやったん誰か教えて
自分また行けへんかったし >>515
ケンイシイもちょっと似てないか?海外で活躍する奴らて顔似てるんかなと思ったわ。 イシイ君は低域のグルーヴがまだまだキープできてへんからあかんねん まあそのへんは浪速のテクノゴッドが教えてあげてもええねんけどな? >>518
5月ChaosがアニキとZIPやったら
久しぶりに参加するで 5/18のChaosのゲストzipやん。楽しみやな Brawtherの話題出ないね
ネットで聞く限りではZipより好みなんだけどね 日本人DJ/プロデューサー田中フミヤインタビュー
Written by Julian Bomm and Martin Mercer, 26.3.2018 Keyboards
地球の真裏行きの片道チケットを手にした時、人は通常、友人や家族、自宅を後に残すことになる―最初から全てを
始めるために。
日本人DJ/プロデューサーである田中フミヤは、2009年キャリアと故郷を後にし、西の果ての地からベルリンへ移り
、新たな一歩を踏み出した。
1990年代初め、フミヤはホームタウンである大阪で、夜遊びを楽しむ多くのキッズたちの一人だった。そこは「日本
の台所」とも呼ばれる大都市であり、生活費の高い世界有数の地でもある。やがて自らパーティー「Chaos」を立ち上
げ、世界中からゲストDJをアンダーグラウンドに招き、日本のテクノシーンを作り上げてきた。
現在は日本での活動にとどまらず、その魅力的なテクノ〜ディープハウスにまたがるトラックは、世界中でプレイさ
れている。
自身のレーベルでの初リリースから約15年後、ギグやリリースを順調に重ねる中でフミヤはベルリンへの移住を決め
る。ケルンのボールトで行われたパーティ「rheinrhythmik」にてプレイ直前のフミヤに会い、ドイツでの生活やレー
ベル「ペルロン」、音楽制作についての貴重な話を訊いた。 ―フミヤさん、なぜあなたはベルリンに移り、しばらくの間日本を離れることに決めたのですか?
簡単な決断じゃなかったです。なんでかっていうと、ずっと日本で育ってきたし家族も友達もおるし。
パーティをやっていくうちに規模が大きくなっていったんだよね。せやけど満足いくかっていうと全然違って。
大阪ではスタジオ持っていたんやけど、それが自宅のアパートで、まあ、よく言えば小っさい部屋にシンプルなセットで。
天井が低くて壁がめっちゃ薄いから、そこでやるのがほんま難しくなったんですよ。
日本の音響事情とか難しいんやけど、ええようにすぐにどうこうできへんかった。
自分を動かしたんは何よりもドイツの友人たちからの誘いで。
長いこと付き合ってきたんやけど、2005/2006年頃に電話くれてね。
2009年に何回かベルリン行って、街のこといろいろ知ってから最終的に移ることに決めました。
せやけど、自分とこのスタッフや機材はまだ全部ベルリンに移していないんだよね。 ―自宅のスタジオについて教えてください。
日本ではひどい音響に対処しないといけなくて、外の振動とかしょっちゅうやったし。1996年に東京に引っ越したときには、隣の住人とも問題になってね…。
今度は大丈夫やろうって期待しながら、結局5回も引っ越しして。残念やけど、みんな夜中に大音量で音とか聞きたくないんやなって思い知らされて。
ある時ヘッドフォンつけて制作したんやけど、自分で音を判断するのが難しくて、最終的に自分のやる気や集中力が削がれましたね。
そんなんやったから、制作環境とか自分の気分をええように反映させようとかって、すごい頑張らなあかんかったんですよ。
せやけど、今振り返ると隣に住んでた人たちとは笑っちゃうような、おかしな経験したし、どんなことでも自分が鍛えられたよね。そんな中でも曲作ったり、自分を成長させてかなあかんかったから。
東京や大阪みたいな街では家賃がめっちゃ高くて、無名のアーティストやミュージシャンとか大変なんですよ。
もし、自宅とスタジオを別々に持とうとするなら、2つとか、時には3つも仕事を掛け持ちせなあかんから。
時間も余裕もなかったけれど、最初の立ち位置で音楽を作りたいなって思ってたし。いつも自分の一番の夢は、自宅とスタジオが別々やったらってことやったんやけど…日本では現実的にほぼ不可能でした。 >残念やけど、みんな夜中に大音量で音とか聞きたくないんやなって思い知らされて。
↑
いやいや、アニキw
残念とかそんな話やないで 自分らに言いたい事があんねん
やっぱり勉強って大事やわ
好きな事やって生きていければいい思てたけどやっぱ間違ってましたわ、すんません。 ―どのようにして「パーロン」ファミリーの一員となったのでしょうか?
東京で最初にZip(「パーロン」の創始者の1人、トーマス・フランツマン)に会った時、プロデューサーとしてもそうやけど、何よりもDJとして感銘を受けたんだよね。
2004年に彼を僕のパーティに招きました。僕たちは良い関係になれて、ゆっくりとほんまに仲良うなりました。
それから少し後にリカルド・ヴィラロボスと知り合って一緒にプレイしてね、DJしに日本に初めて来たときやったんやけど。
それで僕たちお互い知り合って、いくつかトラックを交換して。
2005年にはZipがパノラマ・バーのパーティに僕を呼んでくれました。しばらくしてパーロンのコンピレーション「スーパーロンゲヴィティ」で僕のトラックを出しました。その時以来、毎年1回はZipを日本に呼んでますね。 ―現在のスタジオはどのようなセットアップですか?
アナログ機材をようけ持ってます、サウンドクラフトのミキサー「ゴースト」、ステューダーの古いミキサー、マーティーズ・ルージーのモニターと、サウンドチェック用にタンノイの古いスピーカーがあります。1年くらい前に、セットアップを並び替えて、いくつか整理してね。
1972年製のアープ・オデッセイやローランドのSH−101やジュノー106、MC−202とカスタマイズしたTR−808、あとはTR−606やコルグのEMX−1と、同期用にE−RMの「マルチクロック」がありますね。DAWでは「ロジック・プロ」を使ってます。
毎日スタジオで過ごせたらええなと思うんやけど、自分の生活といつも両立できるとは限らなくて。
なんでかっていうと、奥さんや子供と家族一緒に居たいからね。そのうえ週末にはDJの仕事もあるし、移動とかでめっちゃ時間がかかるんですよ。
せやけどどんなに週末にプレイしても、たいてい週に1回はスタジオ行けるよう調整してます。僕にとってはすごい大事なことやし、気持ちをクリアで新鮮にして安らぐためにもね。
家族と過ごす時間は僕にとって支えになってるし、毎回のギグでやりたいプレイのために準備するにも時間かかるし。今のところ僕の1週間はこんな感じです。 >>546
月曜日にお風呂をたいて 火曜日はお風呂に入り
友達よこれが私の 一週間の仕事です ―あなたにとってハードウェアとはインスピレーションを与えるものですか?それとも単なるツールですか?
たまにハードウェアが必然的な直感を与えてくれることとかありますね。特に、新しい機材を自分の機材に加えた時とか。
そのうえで、全然違う要素を自分の音楽に入れたいっていつも頑張ってるんです。
曲を作る時間がそんなに無いから、できるかぎり最高の結果が反映されたものを作るってことが、自分にとって特に大事になったんだよね。
でもそのためには、できる限り「完璧な」自分のセットアップってものが重要で。
僕はしょっちゅう新しいデバイスとか探さなくて―自分にとって一番合ってるデバイスを見つけるとか、そういうものをもっと知るようにしてます。 アニキはデバイスとか言うより「あのピッてやるやつ」とか
「あの機械のあのやつ」とか普通にしててええで デバイスてあれやろ?デシベルの親戚みたいな
めっちゃデバイス食ってんなぁみたいな アニキやって現代っ子なんやで
デバイスって言葉ぐらい使うわ ―曲を作る際、どのようなワークフローで行っていますか?途中で他のプロジェクトに戻ったり、もしくは1日でトラックを作るのですか?
まあ、それがどんな種類のトラックだとか浮かんだアイデアとかで、いつも決めてるとこあんねんけど。スタジオで曲作ることって、自分の仕事の中では一番重要なことやから。
その時点でトラックがどんなふうに聴こえたとしても、その日の終わりには完全な形のセッションを録音するようにいつもしてます。新しい感覚で次の日にトラックを聴くことって、めっちゃ大事なんですよ!
せやから、気に入ったところがあれば、新しいアイデアを取り入れたり、さらに発展させたりできるしね。
時にはそんなんも必要無いこともあるけど―時々はそういうのがしっくりくることもあるし。実際にエディットしないといけない時とかあったら、もちろんやるけども。
でも自分にとって大事なんは、曲作ってるときに浮かんだアイデアを次々につかまえていくことなんです。 ―メインのデバイスは何ですか?また、特定のサウンドに使いたいシンセサイザーはありますか?
いつもその時点での作りたい音次第ですね。例えば、ベースラインに70年代のミニムーグとかローランドのSH101のシンセサイザーを時々使ったり。バスドラムには、大好きなJomox のMBASEとか、たまにTR-909使ったり。
実際にメインのデバイスが何かって話すのは難しいんやけど、たいていは楽器使って何かするってことは無くて、デバイスで音を出してます。
こうすることで、全体的なミックスができて、それぞれの音をよりしぼっていけるんです。 ―このプロセスの後にミックスダウンがありますが、あなたのミキシングの信条は何ですか?
僕は長いこと大手レコードレーベルと契約を結んでいて、そこでいろんなことを学ぶことができたんですよ。1995年から99年にかけてソニーミュージックジャパンと、2000年から2003年にはワーナーミュージックジャパンと契約していました。
そこではプロのサウンドエンジニアと一緒に、ごっつうデカいプロのスタジオで過ごす機会に恵まれて。ミックスダウンについて、ほんまにようけ勉強できました。
せやけど、僕は自分で思い通りにミックスしたいから自分でやってます。ただ振り返るだけみたいなものをそのままレコーディングすることってしたくないんですよ。そうすると、たいてい曲と音のバランスを失くしてしまうから。
つまり、みんなテクノミュージックを聴いてるけど、それは周波数を楽しんでるんであって、それでええ音やって感じてる。僕にとっては、自分の作った音がどんなふうに聴かれているかを知るってことが最終的に大事なんですよ。ミュージシャンとして大事なことやって思います。
なんでかっていうと、音の鳴らし方の方法って無限にあんねんけど、それぞれの好みや自分なりのベストなやり方がある。個人的にええと思うように聴こえない曲を作ったところで、満足できないし―音楽って感じるべきですよ。 だってほら、ビリーとかアニマルアタックとか聴いたらわかるやないですか。
最高ですよね。まあ控えめに言って、歴史に残る名曲ですね。 アニキがクリックハウスに移行してからの作品はイマイチなんだよなー
アンノウンポッシビリティーとかは好きだったんだけどね アーティストにとって機材ってのは大事なもんなんです。
特に大事な機材の一つにタッパーがありますね。
あれがないとオーディエンスとの絆が生まれないと言いますか、menberとのコミュニケーションツールって感じですかね。 ―テクノやハウスは非常にエネルギーの高いサウンドです。クラブをシミュレートするためにスタジオで大音量で聴いていますか?
当然、セッションをする時には「感じるため」に大音量で始めています。毎回休憩入れて、曲から動けなくならないようにすることが大事で。なんでかっていうと、集中することって結構大変でストレスかかるんですよ。
どんな時が大変か?っていうとね、どんな条件のときでも、その時点で自分が作っている曲の中にずっと自分が居続けるわけやから。
セッションの終わりの方で録音するときには、音量をかなり上げますね。それからスタジオの外でもいろんなサウンドシステムでトラックを聴いたりしてます。
自宅にタスカムのスピーカーVL-X5 とかジョン・ブルー・オーディオのもあって、もちろん週末にはクラブでプレイしたり、時には車の中で聴いたりしてテストしてます。 このたびはmenberがご迷惑かけまして
ほんますいませんでした 知り合いから教えてもらった副業情報ドットコム
暇な人は見てみるといいかもしれません
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MIR8C ―あなたのトラックはオリジナルで作ったものですか?それともレーベルからのリクエストに応じて特別に制作し、ふさわしいサウンドに仕上げているのですか?
基本的に、自分の音楽を大勢の人とシェアすることってないです。
たとえば「パーロン」のみんなみたいな、常に新しいものを見せてくれる少数の友人くらいで、当然やけど音楽についてすごく話ができるし、率直な反応がもらえるからね。
せやけど、自分の音楽を出してくってことにまだちょっと消極的なところがあるんだよね・・・なんでか分からんけど、多分自分を100%完全に信じ切ってへんからかな。
たとえば「パーロン」のコンピレーションの「スーパーロンゲヴィティ」では、Zipに前もって自分のトラックをいくつか渡して選んでもらったし。
だいたい、自分の音楽についてそんなに話さないし、なんでかっていうと自分にとって音楽って、見えない部分がより重要なんであって、人の気分や感情を引き出すもんやから。
だから僕にとっては話すこと以上に、音楽を感じることの方が大事なので…一番大事なんはクラブでのライブのプレイなんですよ。
―インタビューありがとうございました! 友達から教えてもらった自宅で稼げる方法
関心がある人だけ見てください。
検索してみよう『ネットで稼ぐ方法 モニアレフヌノ』
B4T 兄貴が昔ブログに書いてたサッカー論おもろかった
今回もまたやってほしかったわ Get Perlonized 11月日本でやるで!
アニキとZIPちゃんと あと誰来るんかな 田中フミヤさん【あの人は今こうしている】
あの人は今 田中フミヤさん(50歳)
2022年カタールで行われているFIFAワールドカップ。それをテレビで見つめる男がいた。
ベルリンを拠点に世界中でDJとして活躍していた田中フミヤさんだ。
「あの頃は若かったですね(笑)」若き日を回想する田中さんは、どこか寂しげだ。
「未だにベルリンの夢を見ることがあるんですよ。ブンデスリーグを観に行ったりZipと遊んでたことを」
田中さんはDJを引退し、現在はドイツ料理店を経営している。
暖簾の屋号は「ソーセージ とれま」、俳優でも活躍中のミュージシャン、ピエール瀧さんの手によるものだ。
お店は南海難波駅から歩いて3分。田中さんの昔の職場でもあったライブハウス「難波ROCKETS」の近くにあった。
「ソーセージ とれま」の暖簾をくぐって店内に入ると白いタオルを
頭に巻いた田中さんと弟子の山本さん、高山さんの元気な声に迎えられた。
「去年の4月にオープンしました。開店に合わせてGroove、サンレコ、remixでも取り上げてもらった。
おかげで、県外や国外から足を運んでくださるお客さんが多かったのはうれしかったし、
おまえのソーセージは美味しいとよく言ってもらえます」 田中さんは本当に嬉しそうに語ってくれた。
とはいえ、その分、プレッシャーも大きかったという。
接客の経験は古着屋のアルバイトだけだった。
不安を解消するために、知人が経営する「京都 おばんざい」の人気店で接客経験を積んだ。
「ソーセージを茹でる温度はこのままキープでぇ」
音楽の世界でお皿を回していた田中さんは、料理の世界でもソーセージを回しながら客を満足させる。
(写真)ソーセージを頬張る田中フミヤさん、スタッフの山本アキヲさん、高山純さん 「焼肉アニマルアタック」「たこ焼きジャックナイフ」もあるやんな テクノブームとっくに過ぎた今テクノDJで食ってくって大変だろな 兄貴もしDJやってなかったらスカウトされて芸能界に入ってただろうな、きっと
そこらの俳優よりかっこいいもの なにわ花火大会マジでテレビで中継やってるわ
現地に行ってるやつアホやろこれ 田中フミヤ 『Unknown Possibility Vol. 2 / Singles <1995-1999>』
Disc1 Unknown Possibility Vol. 2
1.01 DRIVE♯1(1*2) 12:35
1.02 DRIVE 2 13:20
1.03 Drive #3 (Version 2) 5:11
1.04 DRIVE 4 6:48
1.05 DRIVE 5 7:16
1.06 DRIVE 6 9:16
Disc 2 Singles <1995-1999>
2.01 TALKING DRUMS 6:29
2.02 COUNTER RESET 5:31
2.03 BOSSA 5:45
2.04 PUT YOUR 5:20
2.05 Phase 6:28
2.06 ungloss 4:45
2.07 MIDDLE KNIFE 8:25
2.08 ONE SPARKLE 5:38
2.09 PITCH BLACK 5:55
2.10 AWAY 6:43
2.11 JACK KNIFE 10:04
2.12 POLYRHYTHM 5:59
2000年08月09日 ワーナーミュージック DREAM MACHINE HDCA-10041/10042 定価: 3,146円
https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51DQYTF6T8L.jpg
https://www.suruga-ya.jp/database/pics/game/220029202.jpg unknown possibility vol.2 2000.8.4 田中フミヤ Fumiya Tanaka
https://www.youtube.com/watch?v=y6DBO4aZ3UE ザキュアー、エコバニなどのコピバンやってた時のポストパンク期の田中フミヤ。 京都在住時代。(写真中央)
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