東映動画のアニメーターだった下記の人はなつと同学年みたいだ(1937(昭和12)年生まれ)
高卒のアルバイトで生活はたいへんだったらしいが、なつも臨時雇いとかになりそうだよね

★貧乏アニメーターだった僕が、海外への扉をこじ開けるまで|鳥丸軍雪「デザイナー一代記」vol.1
 https://courrier.jp/news/archives/119800/

>高校卒業後、上京して様々な職を転々とした後、東映動画(現・東映アニメーション)でアルバイトを
>していました。でも同じだけ働いても、大卒と高卒とでは給料が違います。癪でしたね。
.....
>移り住んだのは職場の近く、東大泉でした。トイレも洗面所もない三畳間、家賃は3000円。東映動画の
>月給が6500円でしたから、お金はなかったですね。
>当時、西口にイージーオーダーの服を売っているバラックのお店があり、そこで服を値切って月賦で買って
>いました。
>でも、着るんじゃないんです。前金を払って持ち帰っては、そのまま質屋に入れる。当然どんどん借金が
>大きくなっていく。自転車操業の悪循環です。そういう日々がありました。
>東映動画では残業残業で、毎日ひどく疲れていました。日本初の長編カラーアニメ映画『白蛇伝』(1958年
>公開)を制作していたころです。
>もうひとり高卒で、いまでは有名なアニメ監督になっている杉井ギサブローが、僕の隣で描いていました。
>昼間ふたりでぐったりして眠っている写真が残っていますよ。