メロヴィング朝・カロリング朝・カペー朝
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フランク王国の礎となった有名な3王朝について語るスレです。 クローヴィスは政敵の猛攻からかいくぐる為に、シュゲンショウばりの疑心暗鬼に陥ったとか クローヴィスの父シルデリック(キルデリクス)はサリ族(フランク族の支族)の王だった。 彼はゲルマニアに亡命していた間に、テューリンギアの王と王妃から厚くもてなされた。 彼の復位後、前述の王妃バシナは夫のもとから脱出してシルデリックのもとに走り、 そして生まれたのがクローヴィス。 ローマカトリックに入信することがヨーロッパ人になったことの証。 王「妃よ、前から頼まれていた妹御の輿入れ先を決めたぞ」 妃「ありがとうございます。で、どちらさまで?」 王「この国第一の騎士だ」 妃「え゙ーっ?」 >>8 国民単位までフランス王国が根付くには百年戦争まで待たないと >>7 ブレトワルダ? それフランスじゃないし 最近出たアングロサクソン七王国の本はけっこうおもしろかった フランスじゃないけど >>10 クロヴィス時代には教皇はローマ皇帝を必要としていなかった トゥール・ポワティエでの勝利は世界史の転換点の一つといわれてるね でもトゥール・ポワティエでの戦いって もともと引き返すイスラム軍を攻撃した戦いのような やっぱり西欧勢力がはじめてイスラムに勝利できた戦い、って事で その後の精神的支柱になった事が大きいんだろうか? それともこの戦いの勝利で後のカロリング朝の礎が築かれた事が大きいんだろうか? >>15 なんでトゥール・ポワティエが世界史の転換点と呼ばれているのか、って事 イスラム勢力がフランク王国の侵略・併合を目指して進撃して、 それを迎撃して打ち負かしたなら、確かにイスラム勢力の攻勢を防ぎ後の西欧世界が構築される礎だったといえるけど、 実際はカールが指摘してたように、イスラム軍の目的は略奪であって、フランク軍との戦闘が起こったのも イスラム軍が略奪を終えて帰途に入った時の事 これでどういう意味で世界史の転換点といわれているのかなあ、と 昔は略奪目的も征服目的も両立してるんだよ 負けてたら征服された可能性もあったからな とはいえ過剰評価されてるのも確かだ 10万のムスリムが全滅したナバス・デ・トロサの方が評価されていい 昔から歴史の転換点は、その時には何がなんだかわからずに 10年か20年経ってあのときからといった話になるのだから サラエボの弾丸の学生にしても、 日中戦争の時にトイレに入っていた兵隊さんにしても 今回のチュニジアで焼身自殺した、無職の人にしてもだ ブルンヒルデが倒された後からカロリング朝の成立までほぼ200年(実際はその直後から宮宰として実権者) 日本の天皇と将軍と比べ興味がある >>19 日本にはローマ教皇に相当する存在がなかったから。 むしろイスラーム世界のカリフとスルタンの関係に近いかも。 カリフよりは天皇のほうが教皇に近いんじゃないか。 カリフは自前の領土も軍隊も持ってるし、 逆に宗教的権威としてはただの信者代表に過ぎんぞ イスラームには教会組織が無いし ローマ教皇は一応、選挙で選ばれる。 天皇とカリフは世襲。 フランクがいつの間にかフランスに変わってるでござる。 フランク王国はフランケンライヒ。 ただenがついただけでなんら変わらないのに。 カペーの語源って合羽と同じなんだってね。もっと言うとカペー自体があだ名らしい。合羽を好んできていたからとある 別にカペー朝に変わった時に国名も変わったわけじゃないんだろ。 フランク王国はメロヴィング後期には内輪もめばっかやってるイメージだけど、 よくイタリアのランゴバルドやスペインの西ゴートにつけ込まれなかったなあと思う。 当時は「辺境」扱いだったからか? たしか、西ゴートとは婚姻関係とかをうまくやってて仲良かったとどっかで読んだ気がする フランスではシャルルマーニュをフランス史の英雄と教えてるらしいが ドイツも同じだから本家争い(?)が有るらしいw 王族の言葉がフランク語(ゲルマン語)からフランス語に変わったのはいつ? >>29 フランス人にとっては、シャルルマーニュって 「カエサルやナポレオンと並ぶ史上最大級の英雄」って感じだよね ウード、ロベール一世という二人の西フランク王をだしたロベール家って このカペー家の前身だったらしいね ウード、ロベール一世の父親もロベールっていうでしょ?ロベール家のその前ってわかってるの? >>30 イル・ド・フランスの領主だったカペー家の登極以降じゃないかな? ロベール・ル・フォールってライン地方から北フランスに移ってきたという から元々はゲルマン系の貴族だったんだろうね 恐らくカロリング家が分裂したとき西フランク系の王についていきガリア 土着の貴族と結びつくことによりフランス人になったんじゃないかな? カトリックの受容こそが、 「ヨーロッパ」の一員になるための条件とわかった。 クローヴィスCLOVISとカロリング家・カペー家の王の名に多いルイLOVIS,Louisは、同じ名前だって聞いたことあるけどほんと? フランス王にルイという名が多いのは、フランスがメロヴィンク家以来のフランク王国の正統な後継者だとアピールするため? ルイ14世がシャルルマーニュの末裔だというのを誇っていたのは有名だが、名前はクローヴィスを引きずっていたのか? クローヴィスは2世までだが、ルイは19世までいる(17・19世は王党派の僭称だけど) クローヴィスとルイは名前としては同じ フランス王にルイが多いのは 偶々ルイの名前で無事成人し王位についた人が多かっただけ 改名して即位した王がいたならともかく正統な後継者アピールの意図はないでしょう あと現在の王位請求者でルイ20世を名乗っている人もいる クローヴィス=クロートヴィヒ=ルートヴィヒ=ルイ 全部同じ名前 ローマ文化はメロヴィングカロリング期にどう受け継がれたのか 神聖ローマ皇帝やフランス王はカール大帝(シャルルマーニュ)の後継者という ことになっているからクローヴィスの後継という意識はまずないはずだよ メロヴィング側からみればカロリング王権というのは王位簒奪者以外何者でもないからな >>42 「ルネッサーンス!」なら せいぜいルイ11・5世ぐらいにしとけばよかったのにな >>44 そういう数字にしちゃうと 本当に末裔だと信じちゃう人がいるからではないか? 本物な訳ないだろwww ルイ18世が19世紀半ばの人なのに、150年でどうやって35代のルイが出て来るんだよ 王位請求者なんてよっぽどのことがない限り、本人が死ぬまで保有される類のものだし >>42 >>46 あれは「『貴族の』お漫才」(つまり「『王家の』お漫才」ではないから 王家は無関係)だと自ら言っている なんかメロヴィングはミッシングリンクっぽいイメージ メロヴィングはイエスとマグダラのマリアとの間に出来た子の子孫が つくった王朝だとも言われている。 「レンヌ・ル・シャトーの謎」参照 イエス血脈を守る王朝に対して王位簒奪者たち(カロリングの宮宰)は ローマカトリックと結託してこの王朝を潰そうとしたのである。 メロヴィングの王様たちは基本的に女にだらしない印象。 早死に率と幼君率が半端ないのがメロヴィング朝だな 平均寿命が20〜30代前半なんだぜ? 長生きの王もいるけど、すごい例外 そう思うとブリュンヒルデは長生きだったな。 60歳くらいまで生きたんだっけ。 最期は悲惨だが。 王が短命なのは、年から年中動き回らなくてはならないからだと、 ミッタイスが書いていた そこにくると、カペー朝の王統の磐石さはもはや異次元の領域。最後三代除いて王は長寿で治世は整いそれを無事に長子に相続…… 正直歴代君主の質は名高い清朝を凌ぐのでは? 当時はギリシャ由来のフィリップという名前はかなり物珍しかったみたいだね それを王様の名前にしたわけだ カペー朝ってメロビング朝かカロリング朝と血統つながってないの? ルイ8世の母親がカロリング家の血を引いていたから、ルイ8世の子孫は血統的にはカロリング家と繋がっていることになる。 アジアは傍系や側室の子を認めるから、長く続くけど、 ヨーロッパの家族は庶子には相続権を認めないし、 傍系が後を継いだら家門名が変わるから、王朝が変ったように見えるけど、血統的には続いた場合が多いよね ということで、カロリング家もメロビングの血を傍系・女系・庶系で続いている可能性はないの? >>9 この前、フランス人と話したんだが、 日本では、フランスの歴史として、フランク王国ぐらいから習うけど、 フランスでは、ウェルキンゲトリクスぐらいから考えるそうだ >>60 メロヴィング朝テウデリク3世の曾孫ベルトレドがカロリング朝ピピン3世(小ピピン)の妻にしてシャルルマーニュの母親。 ということで、血統的はメロヴィングとカロリングも繋がっていることになる。 だいたい、ヨーロッパの王様たちは先祖をたどると、ユーグ・カペーに繋がる家が多いと聞いたから、 もっとたどると、メロヴィングまで遡れるのか・・・クロービスもサリ族の族長の家だしな 結局、支配者って、最初から変わっていなないんだな・・・としもじもの人間の僻みでした 繋がってると言っても女系でって場合が少なくない。つまり有力者の娘を嫁に下からのし上がった 何処の馬の骨か判らん者もいる筈だ。 それは、男系の場合でも同じだろ? 特に、愛妾なんて、結構身分が低かったりする 日本や中国も同じ 大体、日本なんて側室制度があるから、天皇だって、女系をさかのぼったら、 何世代かでどこの馬の骨かわからなくなる だから、東アジアは近親婚の弊害が少なかったと言われているが ヨーロッパなんか、貴賤結婚があるから、日本なんかより、よっぽど、血筋がいいのでは? と反日発言でしたあ >>35 >ガリア土着の貴族 中世に、そんなの居るのかよ? ガロ-ローマ時代のセナトール貴族すら中世には居ないだろ? 一応ローマ貴族は、ランゴバルト族が、元老院を解散させるまではいたらしいが… メロヴィング朝がガリア人の血を引いている可能性もあるか。 クロヴィスって日本だと誰に似てるのかな?雄略天皇? ハプスブルク家もローマ元老院の末裔です ま、ホントかどうかはわからんが >>70 政敵をおちょくるための偽文書の中に書かれてた内容だろ。 誰一人本気にしてない。 >>68 フランク族ってゲルマン人とは限らないぞ。 ケルトもスラブも居る混成部族で、フランク族は政治的に結成された部族だそうだ。 >>71 ルドルフさんは大真面目だったらしいぞ。 早死にしちゃったからなんともいえないが。 >>73 クローヴィスもウェルキンゲトリクスの血を引いてたりしてもおかしくないと。 >>65 日本の天皇家だけは特別長いなんて言うネットコピペに 騙されたらいかんということだね カロリング・ルネッサンスって、いまいち業績がよくわからないのですが、 現在に残る文芸作品って何かあるのでしょうか。カルロス大帝業績録くらい しか思い浮かびません。昨夜たまたま岩波文庫版「ニーゲルンゲンの歌」の あとがきを読んでいたら、カールが収集したゲルマン英雄説話を、ルイ一世が キリスト教布教への障害となるから、隠滅させた、と出ていました。 これは本当なのでしょうか?そういうことであれば、ある意味ルネッサンスの すぐ後で焚書が起こった、といえなくも無く、カロリング・ルネッサンスの 説明として、その後の衰退と業績の散逸についても触れないといけないと 思うのですが。。。 >>77 ルネサンスは別に「俗語文芸の復興」ではない。 どっちかというとカロリング・ルネサンスはラテン語文字文化 環境の整備の意味合いの方が強いし、神学的な著作も多 くてあまり訳されてない。 ttp://www.heibonsha.co.jp/catalogue/exec/viewer.cgi?page=browse&code=734016 変わり種では、貴族の女性が息子のために書いた ドゥオダ/岩村清太『母が子に与うる遺訓の書:ドゥオダの『手引書』(知泉書館,2010年) が邦訳で読める。 大黒俊二『声と文字』(岩波書店,2010年)第2章オヌヌメ。 >>78 なるほど。確かにゲルマン民衆文化はカロリング・ルネッサンスの定義からは 外れるのかも知れません。しかし、せっかくカールが民話を収集したものを、 ルイが破棄してしまったのであれば、大変残念なことだと思いますし、 この件がもっと知られてもよいように思えます。 お教えいただいた書籍は非常に参考になりそうです。図書館にあるようなので 参照してみます。 しかしユーグ・カペーから最後のルイ・フィリップまで男系のみで繋がるのは奇跡だな ルイ13世→ルイ14世はちょっと怪しいが・・・ メロヴィング朝の遺跡や史料って、どのようなものがあるのでしょうか? トゥールのグレゴリウスの歴史十巻以外の史料や、遺跡についてご存知の方、 お教えください。 久保正幡訳『リブアリア法典』(弘文堂,1940年;創文社,1977年). 同訳『サリカ法典』(弘文堂,1949年;創文社,1977年). 法史料は上の形態で日本語訳が出てる。 それ以外だと同時期の史料は聖人伝などが主体で、英訳でも探すのが結構大変。 数点は下のリンクから辿れる。 ttp://www.fordham.edu/Halsall/sbook1f.asp#Non-Christian%20Germans あと、英語が得意でまぁまぁのスペックのPCを使っているなら、 根気よく下のサイトを調べると面白いものが見つかるかもしれない。 ttp://www.francia.ahlfeldt.se/ >>83 ありがとう!物凄く参考になる!!!正に的中。こういうものが欲しかったんです。 www.francia.ahlfeldt.se/ は、紹介欄にも書いてあるし、実際 何箇所か見てみたけど、史料から起こした地名マップで、 画期的なくらい便利だと思うんだけど、遺跡写真がなさそうなのが残念。 ただ、Newのところに遺物の写真があったりするので、 それこそ根気良く探せば写真があるのも出てくるかもしれない。 とにかくありがとう!!フランク王国は不案内なので凄く助かった! >>51 それ、「歴史シリーズ 古代をめぐる冒険」てアメリカの番組で嘘が実証されてたよ。 マグダラのマリアから女系で繋がるはずのメロヴィング朝の王女(Aregund)の遺歯を借り、 ミトコンドリアDNAを解析したが、もろヨーロッパ系(≠マグダラのマリア)の遺伝子だった。 ふつーに蛮族だわな。よくてローマン・ガリアとの混血ってとこだろ。 メロヴィング朝の地域統治は、国王が任命した都市伯が行ったが、実態としては 地方を支配する有力者を国王が役人に任命することで追認した傾向が強い 彼ら有力者は司教であることが多く、司教裁判権による紛争の解決や弱者救済などを 教会組織を通じて行っていた 貴族の次男三男が聖職者になったというより、聖職者の甥が貴族になったということ? >>86 実際、セナトール貴族がフランク人を治めていた地域があるぐらい、組織としては 脆弱だからねメロヴィング朝は。 行政システム・貨幣制度においても帝政末期ローマをそのまま使用してたし。 >>87 メロヴィング朝においては、かつてのセナトール貴族が聖職者となり 司教座都市を支配する例が多かった。 ローマ帝国(文明)=ローマカソリック教会として捉えていたから。 フランク王国が分裂すると、ローマの帝権は東フランクへと継承された(後の神聖ローマ帝国) そのため、西フランクでは新たな正統性原理の構築が必要となり、ルイ敬虔帝の子の シャルル二世禿頭王の時期にこれがなされた ランス大司教ヒンクマールは、『聖レミ伝』の中で、クローヴィスが洗礼を受けたとき、 一羽の白い鳩が聖油の入った瓶を咥えて舞い降り、レミはその一部を洗礼盤に入れて クローヴィスに洗礼を施したとの記述を付け加えた、鳩は聖霊の化身であり、 クローヴィスは神により「新しいキリスト」とされたのである 教会による王の「聖別」は、西欧キリスト教世界の精神的中心は、鳩が咥えてきた 聖瓶が存在するランスを領する西フランクにあることを明らかにした この当時のアキテーヌの領主って本当にフランク王に臣従してんの? >>92 実質はともかく、形式的には臣従ではなかったか? 西フランクの王権が弱体化する中、10世紀には王国は独立した支配を達成した 領邦君主の群雄割拠状態となった こうして台頭してきた領邦君主の中で、最有力であったのがのちにカペー朝を 開くロベール家だった スペイン辺境領も、形式的にフランク王国に服属していたんだよな しかもその実態は、「辺境伯」によって管理された実体のある行政体ではなく、 複数の伯領の寄せ集めにすぎなかった >>82 中世初期(5〜10世紀)の遺構を訪ねるのを趣味にしていますが、メロヴィング朝の遺構はほとんどないですね。クリプトや石柱など部分的でしたら、パリの教会にも残っていたりしますが、ある程度完全なものはポワティエのサン・ジャン洗礼堂くらいですかね。 同じゲルマン系の王国でも、西ゴートは中央集権的だったのに、フランクは分権的 この違いはどこからきているのだろうか 西ゴートのほうがローマの影響が深くて文明化されていたためだろう 西ゴートが文字通り移民だったことに対して フランクは膨張・発展だったからでは? 西ゴート治下のガリアでは、西ゴート的要素が見られず 支配階級と被支配階級の差が歴然とあったことが示唆されている 戸井(101)番GET。 オトコはやっぱ、せんずり。 >>96 ありがとう。帰宅したら、じっくりポワティエのサン・ジャン洗礼堂を 調べてみる! 西ゴート王族出身で、アウストラシア王妃となったブルンヒルドはローマ的な 中央集権体制を築こうとしたらしい 自らの利益を害されると感じたアウストラシア貴族層は、彼女をブルグンディアに追放した ブルンヒルドはここでも同じ目的を追求する ブルグンディアはローマ人宮宰プロタディウスが支配しており、ローマ的な 統治方式の復活はより容易のように思われた しかしここでもまた、貴族層の反発は激しく宮宰は暗殺される >>92 カロリング朝期のアキテーヌはというと、名目的にはフランク人の支配下にあるものの、 カリベルト2世の死以後、実質的には大公にひきいられた独立の勢力として、 ことあるごとにフランク王権と対立してきた 760年ピピンは大公ワイファリウスに対して、彼が不法に略取している教会領を 返還するように命じたが、大公は逆にオータン、シャロン、トゥールなどの地方にまで 侵略するというありさまだった 抵抗が終わったのは、768年のピピンの死の直前に、ワイファリウスが部下により 暗殺されたときだった しかし、この地方の独自意識はなかなか消えず、ピピンを継承したシャルルマーニュは、 結局生まれたばかりのルイを国王とするアキテーヌ王国を分国として創設し、 慰撫しなければならなかった >>103 最近の研究によると、メロヴィング朝ではパトローヌス(庇護層)とクリエンティス(被庇護層) といったローマの慣習が生きていたようだ。 一般に王や大公、地方権力を持つセナトール貴族がパトローヌスになることが多い。 彼らが死ぬと、クリエンティスたる宮宰などトリブーヌス(宮廷役人)は大抵暗殺された。 生き残ったものは、あらたなるパトローヌスを得てトリブーヌスとして復帰した模様だ。 >>98 フランク王国は、ゲルマン的慣習を政治に持ち込んだため分権化が進んだ。 当時ガリアには軽視できないほどの旧ローマ・セナトール貴族層が多く、 その力を借りねば統治が難しい状況にあった。特に南部(セプティマニア、 プロヴァンキア)においては王の支配をほとんど受けてなかった。 さらに王の死後、息子たちが領地を分国統治するというゲルマン慣習が 地方分権化に拍車をかけている。 >>105 > 彼らが死ぬと、クリエンティスたる宮宰などトリブーヌス(宮廷役人)は大抵暗殺された。 暗殺される確率はそんなに高かったのか。知らなかった。 >>106 カール・マルテル(鉄槌)という綽名は、735、736、737、739年と ほとんど毎年のようにミディ地方やプロヴァンスに対して行った侵略戦争としか 形容しようのない遠征のためについたものだとか 南仏の人々にとって、カールは神の降り下ろした鉄槌にほかならず、 地中海地方の社会にそれがもたらした惨禍は、イスラム教徒による破壊を はるかにこえる規模であり、古代的な名残りをとどめていた南部社会の 転換を画すほどのものだった >>105 メロヴィング朝ではやたら暗殺が多いな テウデベルト1世(在位534〜548)は、ローマ人パルテニウスを登用して その進言を容れ、フランク人からもローマ人同様、租税を貨幣で取り立てようと企てた この計画は王の急死によって挫折し、パルテニウスはまもなくフランク人に殺害された >>105 それって、patronus-clientisが生きているって言うんだろうか? 本来のローマのこの関係は、「『顧問弁護士』兼『支持政治家』」みたいなもんだぞ。 政治活動をする時は、積極的な後援活動を行い、何かあったときは後ろ盾になってもらう。 法廷闘争をすることになったら、訴訟代理人として活躍をお願いする(クライアントの語源)。 (ローマでは弁護士を立てないと、時効に関する訴訟以外では弁護士強制原則違反) 基本的には、緩やかに鞍替え可能なのがポイントで、 パトロン死んだら隷属民アボンという、むき出しの氏族制度とは全く違う。 >>111 基本的なスタンスで考えたら、合ってるのでは? 無理やりローマ時代に当てはめるのが、そもそもおかしいと思う。 >>113 Chilperic3世(ヒルデリヒ3世とも)で正しい。 彼はアルヌルフ(カロリンガー家)のピピンおよびカールマン兄弟によって Chilperic3世として擁立される。 751年のソワソン会議にて廃位が決定。ピピンが国王に選定される。 その後、Chilperic3世は元々住んでいた修道院へ戻っていった。 カトリック教会と結びついたカロリング朝はイエス直系の子孫といわれる メロヴィング朝を根こそぎこの世から葬る必要があった >>115 一方で、カトリック教会としては東ローマ帝国および イスラム勢力の圧迫から強大な保護者を必要としていた。 よって、この結びつきは必要というか必然だったと思われますね。 時の法王ザカリアス曰く、 「王の力なきものが王たるよりは、力あるものが王たるべきである」 >>115 メロヴィング朝は>>85 の通り、セム系血統はいっさい入ってないけどね。 その手の伝説がでてきたのはもっと後の時代でしょう。 ピピンが一種のクーデターによって新たな王朝を起こしたころ、ブルターニュは ナント、レンヌそしてヴァンヌ東部地方までがフランク人の支配下に入っていたが、 西半分は服属を拒否していた。 753年にピピンがヴァンヌを占領し、ブルトン人に貢納を約束させたものの、 彼らはそれを守る気配を見せず、最終的には799年に、当時ブルターニュ辺境伯であり、 アウストラシアの有力門閥であったランベルト一門のギィがブルターニュ全土を席巻し、 シャルルに服属したブルトン人の首長の名前を刻んだ武器を献呈したとき、 ようやくフランク勢力の手中に帰した。 ライン川の彼方、ゲルマニアの地ではアラマン人は742年からたびたび反乱を起こしていたが、 749年にひとまずピピンの支配を承認し、平穏な状態にあった。バイエルンでは、 母方の血統を通じてピピンの甥になるタシロ3世が大公として君臨していた。 彼は15歳のとき、コンピエーニュまで出向き、ピピンに対して封臣の誓いを立てたが、 763年に突然その義務を怠り始め、ピピンの存命中には再度この地のフランク王権への 復帰は達成されなかった。 ケルンからわずかに北上したところにすでに、いまだキリスト教の福音が浸透していない ザクセン人の境界があった。ピピンとシャルルの北方経営にとって、このザクセン地方の 制圧は欠かせない条件であった。ザクセン人は744、747、753、758年と頻繁に蜂起した。 エクス・ラ・シャペル(アーヘン)への王宮建設も、戦略的観点からすると、 いつ蜂起するかもしれないザクセン人への対応を念頭に置いたものであった。 単純な疑問ですが、 メロヴィング朝の系図を見ていたら、 ネウストリア王とアウストラシア王になっていました。 もしかしてフランク王という称号はなかったのでしょうか。 Rex Francorumの入った文章とかあるから、フランク王の称号はあるでしょ。 後期の王がネウストリア王兼アウストラシア王になっていたのです。 ゲルマンの慣習にのっとって、分国はするのはまずかったよな。 王国が衰退するとか、分らなかったのかな。 理屈では分かっても引くことを知らぬ、とかそんなん? >>125 今で言う公という概念がなかったんでしょ 彼らの感覚では大土地所有者が資産分割してるだけだったってことなんじゃないかな >>128 なるほどね。たしかに。 行政システム、貨幣制度とか満足に持ってなかったから最初に シアグリウスの本拠地攻めたぐらいだし。 どこで調べればいいかわからなくて、こちらに来ました。 帝国分裂後の時代について、カロリング朝後期って言ってもいいですか? おしえてくんで、すみません。 カロリング朝の諸君主は、 ロタール1世、ルートヴィヒ2世、シャルル3世の3兄弟を境に なぜ急速に生命力も繁殖力もオツムも一気に劣化したんだろう? メロヴィング朝の後半の諸王や、 他国ならイルハン朝、後漢、東晋、元、明の諸帝と ファーティマ朝やセルジュークトルコ後半など せいぜい20代30代で病死する君主を連発する王朝がありますが 昔とはいえ当代最高の食事と医療を享受できたはずなのに 何が悪かったのだろう? 徳川家康によれば美食より粗食の方が健康に良いそうだ。 生命力の方は、当時の王は一箇所にとどまれずに移動だらけの重労働だったのが大きいかと ミッタイスにそんな記述があった。 ランドバルド族やブルグンド族など、若干のゲルマン諸族のあいだに子供の頭蓋骨をひきのばして 人工的に変形する習俗がみられるが、これはフン族から伝わったものなのだろうか? (´・ω・`)フランク王国は宮宰に乗っ取られたよね。 (´・ω・`)アッバース朝もスルタンに乗っ取られたし、 (´・ω・`)チャガタイ・ウルスもアミール・キュレゲンに乗っ取られ、 (´・ω・`)意外に日本の天皇と征夷大将軍みたいな関係って多いよね。 そらそうよ 王様が実務執らなければその実務を担う人が実権握るってのは 現代の株式会社の社長と専務のような関係でも起こる 政治家がバカだから実務を担う官僚を適切に使えない昨今の日本のようなものか >>134 還暦過ぎて永らえたクロタール1世、グントラム、シャルルマーニュ、 ルートヴィヒ1世2世といった輩の生命力が逆に人間離れしてたということですか 12歳でテウデリク4世の父になり16歳で死んだダゴベルト3世に激萌え >>132 栄養学があったわけじゃないから「最高の食事」が健康的であるとは限らない 最高のワインをガバガバ毎日飲んでたらいくら若くても肝臓ぶっ壊して死ぬぞ >>140 ロア-フネアン、すなわち「無為の王」と呼ばれた王の一人ね。 12〜14才辺りで親となり、妾たちの遊びものとなって夭折した、 メロヴィング朝断絶までの王らを指して使われた言葉。 精通するようになったら他の君主業務は何もしなくて ひたすらHしてりゃよかったのか。うらやますぃ。 精通したての坊やを犯すときの女の気持ち、てのも聞いてみたい。 気持ち良いHにはならなさそうだし。 >>143-144 ある意味、ウラヤマシイ限りの人生だけどなw 女性のロリコン(ショタコン)も日本にも結構居るからな、アメリカでは良く女教師が男子生徒に手を出して捕まるだろw 以外とミス何とか州の受賞者だとか男性経験豊富で綺麗な女性が、ロリコン(ショタコン)だったりするから驚きなんだけど。 精神医学的には、セックス依存症の一種らしい。 でフランク王国のハーレムの話に戻すと、妾たちは職務としてやっているんだろ、中には性癖と職務が一致した女も居るのだろうが。 メロヴィング朝の後半の方は、大奥みたいに単に血統が続けば良いやって感じなんだろ。 源将軍や宮将軍、皇族将軍を祭り上げた北条得宗家ですら内管領(執事)の長崎氏に 祭り上げられているんだから。 >>100 >フランクは膨張・発展だったからでは? ヴァンダルの様に北アフリカまで遠征すると大変だし良く疲れなかったな〜と変な関心をする。 それにフランク族が膨張・発展形だったのは、既にイタリア半島とシアグリウスの国以外は、 西ローマの領土分割は終了しており、ゲルマン民族大移動では出遅れ組。 フランク族が動けなかったのは、フランク族自体がスラブ・ゲルマン・ケルト・イラン系等を含む多国籍な寄合所帯で、 王の集権化がそれほどまでに進んでいない事。隣国であるシアグリウスの国(ソワソン管区)のローマ系軍隊がイラン 系騎馬部隊(アラン人)も配備した強力な軍隊だった事。などが理由と思われる。 西ローマ帝国末期の将軍で451年のカタラウヌムの戦いにおける西ローマ陣営の総司令官だったアエティウスは、 428年にフランク族の侵略を撃退しており、ガリア軍司令官でもあった。この地位を側近の軍人アエギディウス が引継ぎ、その子のシアグリウスは464年からソワソン管区を維持していた。 また、フランク族長の肩書きは、アエギディウスが保持しており、シアグリウスが引継いでいた。 ソワソン管区では、ローマ帝国からの行政組織がまだ生きており、この事からフランク族の各支族長は、 ソワソン管区の行政機関に委任事務を要請しつつ支族を支配していた事も考えられ、フランク支族行政は ソワソン管区依存が実体ではなかったのか?と思われる。 >ソワソン管区では、ローマ帝国からの行政組織がまだ生きており、この事からフランク族の各支族長は、 ソワソン管区の行政機関に委任事務を要請しつつ支族を支配していた事も考えられ、フランク支族行政は ソワソン管区依存が実体ではなかったのか?と思われる。 他スレでもシアグリウスについて書き込んだものです。 おっしゃる通り、ソワソンがガリア管区における本拠地=実体です。 ソワソンには行政局・造幣局・兵器廠の全てが揃っていました。 クローヴィスがソワソンを求めたのは、ここを支配=ガリア全域の支配に他ならないからです。 また同時にシアグリウスが保有する軍(旧軍団兵およびフランク補助軍)を確保することでもありました。 355年には副帝時代のユリアヌスに、428年にはローマのガリア軍司令官アエティウスに それぞれ撃退されているのでフランク族としては、ガリア侵略は以外と難しいと見なしていたかも。 逆に言うとフランク族は、西ゴートやブルグンドがヴァンダルほど強くなかった、とも言える。 その為に慎重にシアグリウスの国の攻略の為にセナトール貴族の支持獲得を目的とする多数派 工作に時間をかけて内部から侵略する事にしたのだろう。 それにソワソン管区の行政機関に依存していたのは、フランク族だけではなく、西ゴートも同じだったのかも。 それだけに「西ゴートに取られる前に早くフランク族で押えねば」と言うインセンティブがクローヴィス王に 働いた可能性がある。西ゴート王国とソワソン管区(シアグリウスの国)は友好関係にあった。 ソワソン管区(シアグリウスの国)に行政局・造幣局・兵器廠・旧軍団兵およびフランク補助軍(アラン人騎馬隊)まで 揃っていたのなら、個人的にはシアグリウス自身が、同じローマ系のブリタニアのアンブロシウス・アウレニアヌスと連 絡を取り、西ゴートやフランク族に対し逆に先制攻撃を行い支配下に収めて西ローマ帝国かガリア帝国の復活を 目指せば良かったのに、と思た。 そうすればガロ・ローマ人やセナトール貴族もシアグリウスの下に結束してクローヴィスの工作に付け入る隙を与えな かっただろうし、ブルターニュ地方のケルト人も対ゲルマン戦争だ、と言う事で味方につける事も出来たかも。 シアグリウスは、アエティウスやアエギディウスほど軍事的才能や覇気が無かったのかな?と思える。 >>73 ライン川東側に定着していた諸民族(ゲルマン・ケルト・スラブ・アラン)は、狩猟、漁猟、農耕、 交易、ローマ領での略奪で生計を立てていた。その後ローマ領での略奪行為にウェイトが置かれる 様になり、ローマ軍団の反撃や防衛が活発化してきた。 その為に彼ら諸民族は、3世紀後半にはローマ人に対抗する政治的軍事的同盟を結成する必要に迫られ、 ライン川東側の中流から下流に定住していたゲルマン・ケルト・スラブ・アランなどの複数の民族が 一つに纏まる事になった。これがフランク族の発生とされる。 政治結社に近い存在であるフランク族は、髪型や武装を統一する事で帰属意識を浸透させていた。 王族、貴族が長髪である一方、一般戦士の男性は後頭部を剃りあげた。またフランキスカと 呼ばれる投げ斧やアンゴという投槍を共通武装とした。そして彼らはその出自や民族を問わず、 これら共通の髪型・武装をし、共に戦う者は皆同じフランク人であると見なした。 フランク族結成後の西暦354年にライン川上流のアラマンニ族と同時に本格的にローマ領への侵略を開始した。 侵略直後に下ゲルマニア州の中心都市のケルンを攻略したものの、この侵略行為は、副帝時代のユリアヌスに 徹底的に反撃され、フランク族はアラマンニ族と共に手痛い打撃を受け、元のライン川の国境線まで押し戻されてしまう。 フランク族は、3世紀の結成時には、フランク族は、十数の支族に分かれライン川の東側の中・下流域に定住した。 結成から数十年後の4世紀初頭、これら十数の小部族の中からライン川の支流のひとつ、アイセル河口付近に居住 するサリ支族、ケルン市近くのライン川東側に居住するリブアリ支族、ヘッセン地方を中心とする上フランク支族 が台頭する。 後にフランク王国を成立させるサリー支族には、海の民でゲルマン人で唯一の商業の民として知られるフリジア (フリース)人も含まれていた。また、かられは海上交易だけでなくローマ人の間では海賊としても知られていた。 これら3支族によるフランク族の集約化もあり、西暦354年にはライン川上流のアラマンニ族と共にライン川西側 の下ゲルマニア州に対する大規模な侵略を開始し、ケルン市を占拠した。しかし… 西暦358年には、ユリアヌス副帝による効率的かつ効果的な軍団運用によってフランク族もアラマンニ族も ライン川東側に撃退された。ライン川を防衛する地元のローマ軍団とユリアヌス直属の騎馬軍団双方を彼は 効率的に運用して、両部族は、撃退した。 この事により大打撃を受けたフランク族は、ローマ帝国に対する敵対性、侵略性を改める事になる。 そしてフランク族の3大支族は、サリー支族は、事実上ローマ帝国に降伏し、リブアリ支族は、 ローマに対する抵抗を続け、上フランク支族は、弱体化しライン川東側に再度定住してしまう。 これ以降フランク族は、サリー支族とリブアリ支族に2分される。 サノー(兄) 4世紀後半 マーカマー(弟) 4世紀後半 フェロモンド ?-428 クロディオ 428-448 メロヴィス 448-455 キルデリク 458-482 クローヴィス 485-511 サノーとマーカマーは、順序が逆じゃないですかね? それはともかく、サノーとマーカマーは、伝説上の人物とされ実在がかなり疑われています。 彼らが実在したとしても、おそらく4世紀後半の人物であり、サリー支族がローマ帝国に降伏し 事実上ローマ帝国領内に移住した時期の人物です。モデルになった人物が居りその投影とも言われています。 元々、サリ支族は、現在のオランダのオーファーアイセル州やヘルダーラント州の西部のフレヴォ湖 に(現ゾイテル海)に面した一体の地域が、サリー支族の原住地であった。しかし西暦358年にローマ 帝国に降伏してからは、ライン川の共同防衛の軍役を条件にローマ帝国から付与された居留地に移動 南下しライン川を越えて南側の現在の北ブラバント州北部(トクサンドリア)に移住した。ライン川を 国境線として南側からローマ軍と協力して維持する為でこのサリー支族の居留地をテラ・サリカ (terra Salica)と呼んだ。 サリー支族は、政治的地位を高めてローマ帝国の同盟軍(foederati, フォエデラティ) の地位を獲得した事でこの様なローマの国境線のライン川防衛に関与出来た。この時期 のサリー支族はガロ・ローマ系の地元住民すら同じ民族として迎え入れ混血が進んだ。 そしてライン川国境線の傭兵としての活動時期の4世紀後半から5世紀前半の間にサリ 支族の生活にローマ文化が既に浸透し始める。 伝説とさせるサノー、マーカマー、フェロモンド(ファラモン)の三人の王が支配した時期は ちょうどこの時期であった。また最近では、この三人の伝説王の中でもフェロモンド(ファラ モン)に関しては、現実性があるという説も出ている。そしてサリー支族の王として長髪を なびかせたのは、このフェロモンド(ファラモン)王が初めてとされる。この習慣は5世紀 前半から始まったとされ、時期としてはフェロモンド(ファラモン)王の時期と合致する。 ちなみにサノー、マーカマーの両王は、トロイヤ人とされており、フランク族の祖先にもトロイヤ人が位置付けられた。 フェロモンド(ファラモン)の子のクロディオとその子メロヴィスは、ローマ帝国の同盟部族 として北ガリアを中心に転戦を繰り返し、兵力の提供も行った。クロディオは、ローマ帝国に 認められた居留地の南側の都市トゥールネに軍事的拠点を築く事を認められる。更にその息子 のメロヴィスは、ローマの将軍でガリア軍司令官のアエギディウスやアエティウスに協力し、 カタラウヌムの戦いでフン族を撃退する。 この様にクロディオ・メロヴィス親子は、親ローマの同盟部族として活躍しますが、サリー支族 の支配領域は基本的に副帝時代のユリアヌスに認められた居留地以外には拡大出来ませんでした。 クロディオの場合に例外的にトゥールネに軍事拠点を認められたが、それでもサリー支族の居留 地を拡張した領土としては認められなかった。 メロヴィング朝の後期の国王のように十代で父親になり早死にするのは幸せだったでしょうね。 カペー家は元々何人だったんだろ。ルイ16世の血のついたハンカチでDNA鑑定したら、古代サルマティア系のYだったとか。 やっぱりルイ14世が母の不倫の子かも知れないけど。 >>155 フランクが単一民族だとでも思ってたの??? ゲルマン、ラテン、ケルト、サルマタイとかの民族集団なんだけど。 ガロローマ人にしても混血なのに。 876(2008/09/07) フランク王国の誕生 http://www.geocities.jp/baseball_wind21/wind9/wind876.html この図を見ると初期のフランク王国(キルデリク王時代)の領土の拡大が良く判る。 当初はライン川下流南岸のサリー・フランク族の居留地をテラ・サリカだけが、 フランク族の領土だったが、その後、居留地南西部の隣地に領土を広げ始める。 さらに更にキルデリク王晩年には、ライン川上流のサリー・フランク族居留地 南東部の隣地に位置するケルン近郊のリブアリ支族の居留地までもがサリー・ フランク族の領地に加えられているのが判る。 ユーグ・カペー、もっと言えばユーグ大公の時点でカロリング家の血を引いているんだね 今さら知ったよ こちらの皆様はとても博学な方達なので、 少しばかりスレチになってしまいますがお伺いします。 ナポレオンが結婚したジョセフィーヌは、 メロヴィング王朝の末裔なのでしょうか? よろしくお願いいたします。 こちらの皆様はとても博学な方達なので、 少しばかりスレチになってしまいますがお伺いします。 ナポレオンが結婚したジョセフィーヌは、 メロヴィング王朝の末裔なのでしょうか? よろしくお願いいたします。 昔予備校の先生がメロヴィング朝が滅びた理由は あまりにも早婚・早産が多く、 13〜14歳ぐらいで子供を産ませてたから長生きしなかったと言っていたんですが本当ですか? ご存知でしたらそんな感じのことが読める文献を教えて下さいハアハァ >>161 ロア・フネアン=無為の王のことだね。 ダゴベルト一世以降から、メロヴィング最後の王までを指します。 後宮(ハーレム)で妾たちの遊びものとなり、長生きしなかったと言われています。 その間、カロリンガー一族をはじめとする宮宰たちが次第に実権をにぎるように。 で、これら若き君主たちに許された仕事といえば、年に一回「群衆の前に出て 国の幸を祈る」ことだけだったそうです。 朝ヨーグルト500gと野菜ジュース 夜は豆腐1丁っていう生活してたら激痩せした カルシウム・たんぱく質は十分にとれてるはずだから大丈夫かな i⌒i | | (゚)(゚) | | 彡 と | | _ノ ー、 (ミ)、 !フ / ¢\二二二__ノ | / / ソ⌒ 、ヽ ( < ヽ ) ⊂_) (_つ 1日1食しか食わないらしいけど 豆腐や蕎麦くらいで済ますらしい 大体みんな食べ過ぎだからな >>162 「メロヴィング朝(文庫クセジュ)」読む限りでは、 船安どもも、ひたすらHしながらももう少し働いてたようだが ttp://www.hakusuisha.co.jp/detail/index.php?pro_id=50939 日本でも、蘇我馬子の子孫は、藤原不比等の妻になり、北家の房前を生んで、現在の近衛家に繋がっているらしい ということは、皇后や天皇の生母になっているわけで 女系は途切れないんだね まあ、新興勢力にとって、古い勢力を味方につけるのに一番手っ取り早い方法は、婚姻だが ということで、クローヴィスの子孫も女系では今でもいるのでは? 蘇我氏も男系は、石川氏として下級公家として江戸時代までいたらしいし クローヴィスについて、教えてください 1 フランス王の「ルイ○世」はカロリング朝のルートヴィヒ敬虔王を 1世として以下起算するけど、ルートヴィヒはクローヴィスのことだから いわゆるクローヴィスを1世として起算し、敬虔王はルートヴィヒ5世、 聖王ルイはルイ13世、太陽王はルイ18世、ナポレオン失脚後の 最後のルイ王はルイ22世、としないと計算が合わなくない? 2 フランク王国といえば「財産均等分割相続の習慣」により メロヴィング時代もカロリング時代も何回も分割してるけど クローヴィス以前は分割しなかったのか? 2 名前:風吹けば名無し[] 投稿日:2012/06/22(金) 10:35:16.72 ID:6UU1yMSw [2/3] アドマイヤグルーヴの2009→アドマイヤトライ 500万下 エアウイングスの2009→クリッピングエリア 500万下 オレンジピールの2009→パラティーノ 未勝利 クルーピアスターの2009(兄アサクサキングス)→未出走 グレイスティアラの2009→マーメイドティアラ 未勝利 コイウタの2009→アルティメイトラブ 未勝利 サイレントハピネスの2009→サイレントクロップ 未勝利 サクセスビューティの2009(兄サクセスブロッケン)→サクセスベルーナ 未勝利 シングライクトークの2009→ポジショントーク 未勝利 スカーレットレディの2009(兄ヴァーミリアン)→ヴェルメリオ 未勝利 スティンガーの2009→サトノギャラント 皐月賞6着 ダイヤモンドビコーの2009→未出走 3 名前:風吹けば名無し[] 投稿日:2012/06/22(金) 10:35:39.84 ID:6UU1yMSw [3/3] ダンスインザムードの2009→サトノプレジデント 500万下 ダンスパートナーの2009→ロンギングダンサー 未勝利 チューニーの2009→フジマサエンペラー 東京スポーツ杯2歳S2着 ディアデラノビアの2009→ディアデラバンデラ 500万下 トゥザヴィクトリーの2009→未出走 ハッピーパスの09→パストフォリア 500万下 ファビラスラフインの2009→ファビラスタイム 未勝利 フサイチパンドラの2009→スペルヴィア 500万下 マイケイティーズの2009(兄アドマイヤムーン)→トーセンサミット 未勝利 マニックサンデーの2009→サイレントサタデー 2勝 レクレドールの2009→ラルシュドール 500万下 ローズバドの2009(兄ローズキングダム)→ローゼンケーニッヒ 500万下 カロリング朝はカール大帝以前は傑物ばかり続いたのに なぜルートヴィヒ1世以降は一転して 一人の例外もなく(しかも3家系にまで別れたのに) 馬鹿ばかりになったんですか? 家系てそんなに劇的に劣化するものかな? フランクの文化なんだと思うけど最高権力者と最高権威が普段から兼ねてるってことではないのだろうね だから王、皇帝になると権威としては最高だが仕事は実務者に任せてそっちが最高権力化する、と カロリング家の帝国が分裂するのは、最初から予定されてたのよな 伝統的に分割相続だし 一瞬統合→すぐ分裂のパターン それを偶然にも一子継承で阻止しちゃったロベール家(カペー家)は偉い そう言えば、カペー家には豚に殺された王様か王太子がいたよね カロリングもメロヴィングも伝統的に兄弟分割相続が基本とのことだが、 例えばカール大帝→ルートヴィヒ1世なんてのは そもそも相続時に男子が一人しかいないから理解できるのだが、 フェロモンド→クロディオ→メロヴィス→キルデリクス→クローヴィスや テウデリヒT→テウデベルトT→テウデバルド ルイW→ロテール→ルイX と結構親子単一相続があるのはなんで? >>175 それをいうなら、サノー、マーカマー、ファラモン3兄弟が 兄弟相続だったのに、いつなぜ分割相続に変わったのかも不思議だ >>175 そういえば、クローヴィスの兄弟も、 テウデベルドTやデウデバルドの兄弟も聞かないな 私的財産権と公的な主権を分ける発想がなかったからな >サノー、マーカマー、ファラモン3兄弟 架空の人物でしょう。 それに三兄弟じゃなくて、サノーとマーカマーが兄弟で、サノーの息子が、フェラモンです。 しかもトロイヤ人とされており、ギリシャから入植した事になっている。 実在が言われているのは、クロディオからで、それ以前のサリー部族長は、架空の人物。 古代ゲルマニア時代から、ギリシャ崇拝が物凄くて、公共的な看板は、ルーン文字など使わず、 ほとんどギリシャ文字で、部族長などの権威者は、ほとんどギリシャ由来の血統や家系を誇示したという。 ルーン文字自体が、ギリシャ文字に触発されて出来た物で、 ゲルマン神話も当初は無かったが、ギリシャ神話に触発して人物が活躍する物語調になった。 元々ゲルマン人には、人物を崇拝する慣習はなく、単に木や泉、山などを崇拝していたアミニズムだった。 それが古代ギリシャのギリシャ神話に基づいて、物語調になって行った。 メロヴィング家もカロリング家もアホみたいに分割してんじゃネーヨって感じだが。 ローマ人は、中央集権的な単独相続制のはずだったけどな。 ゲルマンちゃんは、分権的な分割相続制だな、プロイセン王国(ホーエンツォルン家)とは、全然違うワナ。 ネウストリアとアウストラシアは、戦争ばっかりしているが、 この対立は、シアグリウスの国(ソワソン管区)と原フランク王国の対立を引きずっている。 ネウストリア(旧シアグリウスの国)は、ローマ系貴族が多く、 アウストラシア(原フランク王国)は、文字通りフランク人貴族が多かった。 単なるメロヴィング家の内訌と言うだけではなくて、ローマ系貴族vsフランク人貴族の対立抗争の面もある。 メロヴィング家は、 ドイツ人なのか、フランス人なのか、って言う論争があるんだよな。 これいいかもしれないね http://tr.im/zw2j ソースはおいておく >>181 もしクローヴィスがガリア人(ケルト人)の血を引いることが証明されたりスレば 「フランス人」度が高まるわけだな。 クローヴィスはイエスの血脈を受け継ぐものという説がある だからローマカトリックは王位簒奪者カロリング宮宰家を使って徹底的にメロヴィング王朝の断絶を図った そもそもケルト人がどういう遺伝子かなんてわかんないけどね 原始ケルトはガリアよりアルプスからチェコよりだからな >>180 漏れの仮説(てか思い込み?)だけど、誰かコメントをw 仮説だったのか。 ローマ対ゲルマンという構図は本当だと思ってた・・・ まあとにかくゲルマン人は南下前からある程度ローマ文化に親しんで、 ローマ文化に敬意を持っていたのが不幸中の幸い。 スラブ人みたいにもともとそういった知識が無かったら ローマ文化も完全に破壊されて構成のヨーロッパの発展もなかったろう。 >>188 >ローマ対ゲルマンという構図は本当だと思ってた・・・ ネウストリアとアウストラシアの対立は、ローマ系貴族vsフランク人貴族の対立抗争の面もある、と言うのが漏れの仮説。 ソワソンの戦いに勝ってシアグリウスの国を併合した訳だから、一応フランク族の支配下には、入ったと思うが、 この戦い以前に、クローヴィス王は、相当多数派工作をしているので、フランク族の支配下に入った以後でも ローマ系貴族(セナトール貴族)の既得権や行政上の官職は、温存される形でフランク族の支配下に入った 可能性がある、と想定してみた。 それが、ネウストリア(旧シアグリウスの国)のローマ系貴族の勢力の温存に繋がったと仮説を立ててみた。 特に広域な行政組織や兵器廠の運営は、フランク人では、不可能じゃないのかな?と思える。 カトリック教会もこの時代は、まだまだローマ人による運営だったし。 メロヴィング朝が弱体だったのは、分割相続制の継続と同時に ローマ系貴族の勢力の温存による貴族層の内部分裂も有ったと思う。 ブルンヒルドの台頭と没落は、まさにローマ式の中央集権制度を導入をめぐるものだった。 晩年のブルンヒルドの没落は、中央集権化とはあんまり関係ない。 自分勝手な権力の乱用が原因だ。 宮宰を暗殺して、自分の愛人を宮宰に任命したら、そりゃ〜周囲はドン引きさ。 そのブルンヒルドの顰蹙を買った状況を上手く利用して、 フランク貴族層がメロヴィング家の集権化をストップさせた面はあるけどね。 ブルンヒルドの若い時のアウストラシアおける中央集権策は成功している。 単に行政組織を整備するだけではなくて、旧ローマ街道の整備も行なっている。 アウストラシアは、元々のフランク族の原住地を含んでいる事から、 ブルンヒルドの中央集権政策は、フランク貴族層から物凄い反発があった。 その為にブルンヒルドは、危ない目にも合っているのだが、 その危機を切り抜けてブルンヒルドは、アウストラシアにおける中央集権体制導入に成功してる。 高校の世界史の教科書だと、クローヴィスの改宗(496)からトゥール・ポアティエの戦い(732)まで、空白なんだよな。 東ローマはユスティニアヌス帝が出てくるけど。 載せる価値のある事象がないだろw ロアフネアンどものことを載せたら結構ウケそうな気はするが。 おねショタは、嫌いじゃないけどねw それと、実際にロアフネアンになっちゃったのは、メロヴィング朝の最末期だけらしい。 でもダゴベルト1世を最後に 成人してから長く在位してた王はいないのに 最末期までロアフネアンにならなかったのが 逆に不思議。 確かに。カロリング家の奪権は一筋縄では行かなかっただろうとは言え メロヴィング家の王自体に統治能力はなかっただろうのにな。 >>196 >ダゴベルト1世を最後に成人してから長く在位してた王はいないのに それってケースバイケースでしょう。 戦いに出て、戦死しているケースもあるだろう。 源実朝みたいに執権北条氏に担がれてたのは、良いけれど、 それに反感を持つ三浦氏によって暗殺されてしまうケースもある。 カロリング宮宰家主導のフランク王国の運営に不満を持つ貴族も多かった。 メロヴィング朝復活を策する貴族グループも居たって話しだ。 >>198 カロリング革命が出来た理由は、中世に入りガリアや ゲルマニアでの古代異教の衰退とキリスト教の拡大があったから。 メロヴィング家の正統性や聖性の由来は、海神との血縁性!?にあったりする。 もともとメロヴィング家(サリ支族王)は、今のオランダの海岸地区を 原住地としており、古代からヴァイキングを含む海上貿易が盛んな地域で、 今でもオランダの港などには、人魚の像が置いてある。 751年にカロリング家がキリスト教の聖別式を導入する以前では、 メロヴィング家の正統性と聖性は、事実上の始祖であるクロディオの妻が、 海岸でミノタウロスに強姦(記録には“接触”としか記されてないが)されて、 クロヴィス王の祖父であるメロヴィスが誕生した事が由来、となっている。 つまり、メロヴィング家の正統性と聖性は、古代異教の呪術的聖性を基盤としている。 それに対し、カロリング家の正統性と聖性は、完全にキリスト教のそれであり、 カロリング革命は、キリスト教の広がりに乗じて行われた宗教革命的な側面もある。 日本には、この手の宗教革命や宗教交代は無いので、実権の所在はともかく、 天皇家の正統性と聖性を否定する事は出来ない。 特に、ブサヨとチョン以外はね。 やはり日本における破防法強化や共謀罪の設置、新スパイ防止法や機密保護法の制定は、必要だよね。 話しを戻すと… 当然、フランク貴族層には、古典教養としてのゲルマン神話や ケルト神話、ギリシャ神話に愛着を持つ勢力も多かったであろう。 その古代異教への固執とカロリング宮宰家への反感という政治志向が合致して、 メロヴィング朝復活を策する貴族グループが、活動していた可能性が有る。 フランク王国は、王の死後分割相続だけど、フランスになると分割相続でなくなる。 いつから・どんな理由で変わったんだろう。 フランス革命で、また分割相続制に戻る。 でナポレオン三世以後は、少子高齢化の人口減少で、ドイツに負けっぱなし。 分割相続制だと、財産を均等割りする事になり、 田分けの愚(共倒れ)を避ける為に人口が増えない。 ま、スレ違いだけどな。 >>201 ユーグカペーは選挙で選ばれた王だから勝手に分割相続出来なかったんじゃね。 >>199 確かに暗殺された王もいるが、 殆どは若くして病死、または成年後に即位した場合数年で病死 >>201 西フランク時代から、ルイ4世以降は長子単独相続 変わった理由は知らん カロリング家が、アウストラシア分王国の宮宰を歴任して独占。 ピピン2世が、一代で他の分王国の宮宰をすべて独占。 カール・マルテルが、フランク王国を統一。 ピピン3世が、メロヴィング家を蹴落とす。 ピピン2世が独占に関してメロヴィング家は、どうも思わなかったのだろうか? 宮宰の独占禁止法とかなぜ作らないんだろう? 統一してくれて良かった。ありがとう。と思っていたのだろうか? そもそも、分王国すべてメロヴィング家なのか? アウストラシア分王国がもっとも勢力が強かったぽいけど。 もともと宮宰って言う官職は、ガロ-ローマ人のセナトール貴族の為の官職だった。 ローマ人の高い行政能力と中央集権のノウハウを使いたいメロヴィング王家の要請で設置が決まった。 もともとは、王家の私的な家事の管理者であったが、 その後、王領地の管理や王の近衛隊長を兼ねるようになり、権限が強まった。 メロヴィング朝は、王家の家政上の私事と公務の区別があいまいだった為にこの様な事態が発生した。 アウストラシア宮宰の初代宮宰のパルテミウス(在位 : -548年)や 二代目のゴゴ(在位 : 567年頃&#8211;581年)は、ローマ人であった。 フランク貴族のカロリング家(アルヌルフ=ピピン一族)の 宮宰任官は後の事であり、当初は、イレギュラーな人事だった。 >>200 それがダン・ブラウンのダヴィンチコードへ続くんですね。 本ではメロヴィング朝の血統をひきつぐ女性=キリストの末裔 のような扱いだったのでその関連性がよくわからなかったのですが なるほどと思いました。 ダヴィンチコードではキリストの血統を守ろうとする団体に オプス・ディというのがでてきてそれがイエスズ会の系統でその騎士には ニュートン卿などそうそうたる面々があげられていたような記憶が。 >>206 >>109 に既に書いてあるが、テウデベルト1世(在位534〜548)は、ローマ人である パルテニウスを登用して、その進言を容れ、フランク人からもローマ人同様、租税を貨幣 で取り立てようと企てた。 メロヴィング朝の王権安定のために、 統治ノウハウを持つローマ人に、徴税機関の整備をやらせた訳だ。 でもこの計画は王の急死によって挫折、 フランク貴族からも反感を買っていたローマ人であるパルテニウスは、ヌッ殺された。 でも同じフランク貴族のカロリング家(アルヌルフ=ピピン一族)にやらせたら、 まあ〜なんとかなった(それでも、3分国同士の戦いはあったが)。 グローバリズムは、やっぱり難しいって事だわね、 ローマ人に徴税機関の整備をやらせたら、余計にフランク貴族の反感を買ってしまった。 >>204 ルイ4世の子はロテールと下ロレーヌ公シャルルの二人がいて シャルルはちゃんと分割で相続受けてね? 独立はしとらんけど >>208 古代末期〜中世初期でも、TPPは、無理ですた。 分割相続の代わりに公爵を設置。 分王国の代わりに公爵・公国を設置。 >>209 記憶が曖昧なんだけどシャルルの下ロレーヌ公って東フランク王国からもらったんじゃなかったっけ >>212 あ、英wiki見てきたら確かにそうだ もうこの時点でシャルルって何一つ貰えずに放り出されてるんだな 完全単独相続かー 下ロレーヌ公シャルルて カロリング男系では最後に残った血統になるけど この人の後どうなった? >>214 その子のオットーの時に断絶。 カール大帝の孫で早逝したため王国三分割に預かれなかった ピピンの庶子の系統がヴェルマンドワ伯として続いていたけど、 それも1085年に断絶してカロリング家の男系子孫は完全に消滅。 >>207 ん、なにかズレてませんか?たぶん、正反対に思い違いをされている。 >>200 はメロヴィング家の正統性が「ゲルマン神話」的な世界観で担保されていたとする仮説なのに対して、 ダヴィンチ・コードはメロヴィング家が、南仏に避難したキリストの妻“マグダラのマリア”の血脈であるから云々というお話です。 ちなみに、後者の風説は>>85 のとおり完全に否定されていますが。 なんでメロヴィング王朝期にはローマ帝国時代と比べて農民の生活の質は低下したの? . アメリカの共和党もメロヴィング朝ばりに内紛状態です。 ただ、内紛は、政治勢力として拡大する場合がありますからね。 ミンスの内紛は、もうダメですが。 【米国】「裏切り者め」「あいつを落とせ」「血の予備選だ」 …「ティーパーティー」が現職に“刺客”続々、野党・共和党が内戦状態に★2 http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1382270464/ >>217 アンだけ、混乱すれば、当然、経済は停滞するでしょう。 セナトール貴族は、ローマから逃げ出して、ヴィラに引き篭もっている。 決済手段も途絶して、物々交換が、復活している始末。農業も商業も全般的に沈滞ムード。 メロヴィング朝が成立しても、分割相続で、王国が頻繁に分割され、内戦ばっかりだし。 >>219 それを補う意味でも、中央集権の行政手腕を持つ ローマ人を宮宰に登用して徴税機構などを整えておりますがな。 セナトール貴族だってフランク王国の行政に協力してますよ。 クローヴィス王が、スワソン管区(シアグリウスの国)を 制圧する過程でセナトール貴族は協力している訳ですからね。 王国も瞬間的に分割されて内戦となっていますが、その後に統一を回復してます。 >>216 ダヴィンチ・コードでは、マグダラのマリアを黒いマリア信仰(土着の大地神)と結び付けていました。 それを守るのがテンプル騎士団の流れをくむ面々、追い詰めようとするのがカソリックの正統派イエスズ会の 流れをくむオプス・ディという設定だったと思います。ダヴィンチ・コードはカゾリックを礼賛する話ではなく それ以前にあった黒いマリアを持ち上げていて、それを守ろうとしてきた人たちはニュートンやらドビッシーやら 多くのそうそうたる面々であり、今日にいたるまでその秘密結社は続いているとあったような。 クローヴィス王が、498年にカトリックに改宗するが、 その時点での王太子格であった、キルディクス王子は、改宗して無いらしい。 これを見ると、クローヴィス王のカトリック改宗は、かなり便宜的な改宗に思えるな。 >>222 改宗時点での後継者は、長男のテウデリクですよ。 ただ、改宗して無い可能性は、確かにあるみたいですね。 シアグリウス一族は名家として、 司教や外交官として6世紀になっても記録に残ってますね。 >>216 >ダヴィンチ・コードはメロヴィング家が、南仏に避難したキリストの妻“マグダラのマリア”の血脈であるから云々というお話です。 ちなみに、後者の風説は>>85 のとおり完全に否定されていますが マグダラのマリア自体が、謎に包まれた人物なので、メロヴィング朝が蛮族であると証明されても、マリアの血統は蛮族であるかも しれないので、完全否定はされないのではないでしょうか? >>226 → >>51 でしょ >>225 完全否定はできないね。 例えば、マグダラのマリアの母親は蛮族の奴隷女に孕ませた娘だったとか、そういう可能性はゼロじゃない。 ただ、全てが整合するためには高いハードルを何個も越えなければならないわけだ。 1. アラム語圏に生きたマグダラのマリアの母系先祖が欧州系だったこと → 蓋然性の低い想定 2. マグダラのマリアがイエスと結婚したこと → グノーシス主義の1セクトのみがナグ=ハマディ文書で言及 3. 妊婦マグダラのマリアが南仏に赴き娘サラを産んだこと → 南仏アルル近郊の伝承のみ 4. サラの子孫がメロヴィング朝の王族になったこと → 8世紀にもなってメロヴィング家が主張し始める まあ、まともな歴史学者なら相手にしないね。真であることよりも偽であることのほうが遥かに確率が高い。 >>227 レスありがとうです。歴史家ではなく、小説なら完全否定する反論がなければ成り立ちますか。 ウィトルウィウス的人体図、フィボナッチ数列、黄金分割黄金律を駆使した トビッシーの音楽、大天才ニュートンと綺羅星のように知性で武装した小道具を用い 秘密結社が守る太古の女性の象徴であるメロヴィング朝がひそかに継続しているとし、 追い詰めていたかに見えたカソリックもひざまずく。図書館一度読んだだけですが、 歴史的にも一応齟齬はない(というか完全否定はできない)とわかってびっくりです。 >>227 逆に言えば、クロービス以外にも、 全てのヨーロッパ人に当てはまるね。 >>228 それは成り立つでしょう、小説なら上杉謙信が女性であってもいいわけで ただ世間で謙信の話をしている時に、あれは女だとしつこく主張すると白い目で見られると思うけど なので本件も、あったらいいなという願望程度で自分の中にしまっておくことをお奨めします >>230 別に、あったらいいなと願望しているわけではなく、文書や伝承、8世紀からの メロヴィング家の主張があること、つまり願望している団体なり人たちの存在があると いうこと。これに注目しているのです。そしてうまくつなげているなと感心したのですが おかしかったでしょうか?もしも否定できるところがあれば、これをいうともう ダビンチコードは噴飯ものになってしまうぞ、というところがあればお教えねがえません でしょうか?ダン・ブラウンはすべて真実だといって批判を受けたようですが、かといって 頭から否定できないのです。私としてはどちらの肩を持つつもりもありません。 >>231 願望という言葉がやや否定的に感じたなら、ホントにそうだったら面白いな・・・程度に受け取っておいて下さい 完全否定(可能性0.00%)というのはどの分野でも案外難しいから、確率的な観点も踏まえて判断されることも多いの 例えば>>227 の各項目について、仮に 1. 20% 2. 30% 3. 50% 4. 30% の確率で真実かもしれないとする これはかなり甘めの数字だけど、それでも全てが真実となるのは数学的に言ってたった0.9%となる 一つ一つはあるかも知れないと思っても、全てを同時に満たすとなるとありえそうにないという結論になるわけ 歴史学者が厳しい前提条件が多すぎるものを相手にしないというのは、そういうことなんだわ >>232 歴史学者とは、換言すれは、事実を検証する人であり、そこに数学的な確率など 関係ないと思います。 >>232 もしも否定できるところがあれば、これをいうともうダビンチコードは噴飯ものになってしまうぞ、 というところがあればお教えねがえませんでしょうか?よろしければ具体的にお教えください。 >>237 謙信は出家していて女人禁制の所にも出かけいるので、女ではないです。 キリスト子孫説を、 あくまで伝説としてそれがどう語られていたかを論じるなら分かるが キリスト子孫説の真偽を論じているなら無意味過ぎる。 >>239 キリスト子孫説の伝説とメロヴィング朝との結びつきについて、なにかそれを 否定してしまうような矛盾点はないのかお伺いしているのです。 もしも否定できるところがあれば、これをいうともうダビンチコードは噴飯ものになってしまうぞ、 というところがあればお教えねがえませんでしょうか?よろしければ具体的にお教えください。 この人、たぶん仏教の歴史スレで以前フルボッコにされてた女の人だよ。 文体とレスの仕方がそっくり。 >>224 シアグリウスの国(ソワソン管区)は、クローヴィス王に 征服されてネウストリアとなるが、ローマ貴族の勢力が温存されている。 その所為もあるのかな? アキテーヌやブルグンド王国でもローマ貴族の力が温存されている。 >天皇家の正統性と聖性を否定する事は出来ない そんな話、日本の右翼にしかつうじないよ >>224 シアグリウスについては、wikiの英語版で、その子孫について触れているのが興味深い。 Despite the assassination of Syagrius, the family evidently prospered under Frankish rule. King Guntram sent a Count Syagrius on a diplomatic mission to the Byzantine Empire in 585. A descendant, Syagria, made a large donation of land to the monks of Novalesa Abbey in 739. "The last known member of the Syagrii was an abbot of Nantua who was mentioned in 757. つまりシアグリウスの一族で判明している最後の者は、西暦757年に何かの記録で触れられている修道院長ということで 少なくとも8世紀まで子孫がそれなりの社会的地位につける立場にあったってことだな。 カロリング朝の人ってなぜ ロタール、ルートヴィヒ、シャルルの3兄弟を境に なぜ急速に頭も体(寿命)も一気に劣化したん? メロヴィング、カロリング朝にシアグリウスの血は 受け継がれてないのかな? >>249 シアグリウス一門は名家としてメロヴィング朝でも重用され、司教を輩出したりしているよ。 また、>>247 にも触れている通り、コメス(伯)としての身分を保ち外交官として活躍している。 >>251 司教輩出やコメス身分だったところから想定すると、 メロヴィング初期の人材育成機関「王と食卓をともにする者たち」の、 一員だった可能性が高いと思われる。 アルミニウス陣営の部族は… ケルスキ族、マルシ族、カッティ族、 カウキー族、ブルクテリ族、シカンブリ族などなど。 ブルクテリ族とシカンブリ族は、 後にフリーセン族と一緒に フランク族 を結成する。 シヴォーにメロヴィング朝時代の共同墓地があって、 数千も石棺が発見されているけど、 この時代に石棺って珍しいよね。 メロヴィング王朝とカロリング王朝は同じフランク王国というけど国王の名前みたら到底同じ民族だとは思えない >>256 シヴォーってポワティエから近いので訪れたことが あるけど、メロヴィング朝当時のネクロポリスに現代 の墓地が混在してる。当時の石棺は半分発掘された状 態で地面に剥き出し。ローマ時代の彫刻豊かな石棺を 見慣れていると、いかにも質素そのもの。身分の高い 人のものではないみたい。 現代人には「ピピン」てへんてこな名前に感じるけど、当時の人にとってはどうなんだろう? >>257 メロヴィング時代はまんまゲルマン名だけど、カロリング時代にはかなりラテン化されたってことじゃないのかな >>259 カロリング朝の始祖の名前だし、頼朝とか尊氏とか家康みたいに偉大な人の名前だしカロリング家のハウスネームだし誇らしい感じだったんじゃないかな? 日本語でピピンがおかしく感じるのは擬音語・擬態語ぽいのが大きいな。 当時のフランク人の感覚ではあまり擬音語・擬態語っぽく感じられなかったのかな ぺパンPepinはフランス語、ではピピンPippinはドイツ語? ショピンやギョーテと較べればピピンなんてフツーだろ。 ゲルマン人の王様はだいたい神々の子孫だったみたいだから メロヴィングも太陽神の子孫か何かを称してたんじゃないの? それであとからキリストの子孫にこじつけられたとか カロリング朝の先祖はアッティラ大王。ゲルマン世界の最初の統一者。 根拠もなにも有名な話だが。ただし事実かどうかは知らんよ サルマタイの血がフランス貴族層にちょこっとあるらしいから アッティラの子孫とは限らないが遊牧騎馬民族と血縁はあるようだね サルマタイとフンはずいぶんイメージが違うぞ なんか白人優越主義的的傾向の有るグループとかはサルマタイがヨーロッパの古い層を成してるんだって考え方をしてたりして 要は弓のスキタイなんかと違って、ランスで突撃のサルマタイが白人優越マッチョ的に良いんだろな。 そんな奴らはフンの平たい顔族の血筋って言われるのは嫌だろうw >>273 そんな連中の個人的感情なんか正直どうでもいいわw サルマタイは重装槍騎兵で人種的にはコーカソイド系 フンはオーソドックスな軽装弓騎兵スタイルでアッティラを中心とする支配階級は褐色肌のモンゴロイド系 アッティラがどうのはカロリングという特定の王家一家の話なんだから 民族一般の話してもしょうがないだろ カントヴィックって結構範囲絞れているけど見つからないよね >>272 イギリスのリチャード三世のY染色体がコーカサスとかあの辺に多いタイプなんだよ。だからアンジュー家もサルマタイだったかも知れないと思う。 スペインだとホセの愛称がぺぺ,イタリアだとジュゼッペ の愛称がペッピーノらしいけど,フランク人のピピンって キリスト教の聖人名ジョゼフ/ヨーゼフ(ホセやジュゼッペは これらの現地読み)と関係あるんやろか。 てかこの頃のフランク人でキリスト教の聖人名を持つ人っていたんかな。 カペー(Capet)って苗字だけどイタリア風だとカペッティ(Capetti) みたいな感じになるんかな ヴィッヒ(wig)で終わるフランク王の名前のフランス語形だけど ルートヴィッヒ(Ludwig)はルイ(Louis)となるのにメロヴィッヒ (Merowig)のほうはメロヴェ(Merovee)。 メルイ(Merouis)とはならないのね。 ルートヴィッヒ(Ludwig) ラテン語形:ルドヴィクス(Ludovicus) メロヴィッヒ(Merowig) ラテン語形:メロヴェウス(Meroveus) 後の構成要素は同じwigなゲルマン起源名だけどラテン語形になると 一方はvicusと比較的原形をとどめてるのにもう一方はveus・・ それにしてもメロヴェウスってなんかギリシャ神話に出てきそうな 感じの名前だよなぁ(苦笑) ルートヴィヒという名前は現在に至るまで広く使われているが メロヴィッヒという名前はどうなのだろうか? ライン分流のメルウェデ川から取られた名前らしい クロヴィスの爺さんくらいしか名乗ってない特殊名だったんじゃないか? その後広まったとしても、もっぱらメロヴィング王家の名声に拠るものでしかないのでは 「あなたン、私の妹、まだお嫁入りしてないのン。誰かいい人いないかしらン」 「そうか。美人か?」 「私の妹よン。美人に決まってるじゃないン」 「ちょっと会ってみよう」 「妹君の嫁入り先、決めたぞ。我が国一の騎士だ」 「ありがとうございます。で、それはどなたかしらン」 「エヘン、俺だ」 「え?」 メロヴィッヒのメロの部分,ヴァルデマールのマールと同要素で 「名だたる」って意味らしいでつ。ちなみにルートヴィッヒの ルートも意味としては同じだそうで(ちなみにヴィッヒのほうは 「戦士」)。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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