フランスの歴史
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古代から現代に至るまでのフランスの歴史について語るスレです なぜカペー朝以降をフランスと呼ぶのか
フランクのままでいい フランスに移り住んだフランク人が
フランス語を話し始めるようになるのはいつごろからだ?
「フランス語」の原型であるパリ周辺のフランシア方言が現れてきたのは11世機以降。
「フランス語」がフランスの共通語になったのはフランス革命以降。 >>5
俗ラテン語なら移住直後から。
6世紀中ごろから、ローマ系住民の間で子供へゲルマン名をつける
流行が起きている。 現存する最古の非ラテン語(俗語)文献はフランキア方言による
「ストラスブールの宣誓」(842年)。 >>9
俗ラテン語に、フランク語の語彙などが加わったものだよね。 オック語とオイル語。
オイル語が原題フランス語の原型となったということで、江戸弁みたいなもんか。 カペー王家が341年も続かなかったら、フランスはドイツや北イタリアと
同じような分裂した状態になっていたのかな
この間イングランのっでは4つ、ドイツでは9つの王朝が交代し、
スペインの大半はムスリムの支配下にあり、イタリアでは王国が消滅していた
>>8
それってお6世紀後半のパリ地方の「フランク化」と呼ばれる現象と関係がある?
キルペリクは事実上パリを自らの都とし、その周辺に旧都ソワソンおよび
サリー・フランク人の土地から、多くのフランク人従士を移住させ、
所領を与えて住まわせていた フランスの歴史に興味が湧いた時にいいスレ見つけた。
カペー朝って新書を今読んでるんだけど、小説っぽくて面白かったんだけど物足りない。
カペー朝が詳しく書かれてる本ってないのかな。 おい、今日はフランスが第一次世界大戦でドイツに完全勝利した日だぞ。
フランス万歳!! >>13
ゲルマン語を話していただろうフランク人も
即効ラテン語化されたのか カロリング時代までのフランク人支配者はフランク語(ゲルマン語)を使用しており、
それはドイツを含む王国の共通言語だった
したがって、ガリアにおいては二重言語状態が9世紀までは状態であったと推測できる
しかし、広範に広がったロマンス諸語によって、文化的に劣位にあった
フランク語は駆逐される
そして13世紀ごろに、ヘゲモニーをもつ言語としてパリ方言(フランキア方言)が
共通フランス語としての地位を獲得する >>16
17でも答えてる通り、公用語は二つ。
ただしゲルマン語の影響を受けたガリア北部と、
アラビア語の影響を受けた南部の言語差は激しく、
中世末期になっても意志の疎通が難しかったようだ。
ゲルマン人口率が1%程度という面から考えても、ラテン語(ロマンス語)化は
避けられなかったと推測される。
また法律もゲルマン法とローマ法で分けていたが、3世代あたりから融合が進む。
特に軍事面に関しては顕著であり、6世紀始めにはゲルマン系のみに課していた徴兵を
ローマ系へも課していく。
>>13
関係あるだろうね。
当時首都を定めてもかなり短いスパンで、王と側近や一族が都市から都市へ移動していた。
これは政治基盤が貧弱であり、つねに地方の反乱に目を光らせる必要性が高かったため。
ローマ系住民はゲルマン名を子につけることで、子供が仕官しやすくなると
考えていたようだ。
またローマ式の氏族名・個人名の名前のつけ方は7世紀までには絶え、
個人名しかなくなった。 アルビジョア十字軍がなかったら
今頃どうなっていたか
分裂してたかも 今、シュテファンツワイクの『ジョゼフフーシェ』読んでる
フランス革命みたいな時代は特異な人物が出るもんだね >>18
ガリアのゲルマン人口が1%って、残りのほとんどがケルト人か?
それがローマが支配してる間にラテン語化したのか?
てことはフランスの大半は元ケルト人? >>22
先住民+ケルト人+ローマ人+ゲルマン人
先住民というのは巨石文化をになった人たちね
http://www5e.biglobe.ne.jp/~truffe/Dolmen-BretagneNW.htm
北西ブルターニュの古代巨石文化
http://www5e.biglobe.ne.jp/~truffe/Dolmen-BretagneSE.htm
ブルターニュ(南東部)の古代巨石文化
http://www5e.biglobe.ne.jp/~truffe/dolmen-europe.htm
フランスとヨーロッパの古代巨石文化
>>20
南フランスには副伯(ヴィコント)という役職があったな
>>22
元々カエサルがガリアを征服する前から、ゲルマン人とケルト(ガリア)人は
交流が盛んだった(交易や戦争含めて)。その後ローマ人の移住などにより
混血が進んだ。ローマ末期までには、自らをローマ人(ガロローマ)だという認識が高かった。
ちなみにフランク族は、ケルト系との交流が多かったせいか他のゲルマン部族に比べるとケルト色が強い
部族といわれる(結い上げた髪や縞模様の服装など)。
またローマ征服後も、ケルト語であるガリア語も使われていたが、有力者の子息など
を中心にラテン語が早くから習得され、数世紀を経るうちに使われなくなった。
(初期の碑文や銅版にガリア語が残るのみ)
ただし、今もフランス語の中にケルト由来の単語があることから、ラテン語の
方言としてガリア語が生きていたようだ。
宗教としては、ローマ人は征服した土着宗教に寛容だったので、ローマの神々と
ケルトの神々が一緒に信仰されていた。後にキリスト教化された際も聖人と
なり現代でも伝わっている。(有名なケルト祭はハロウィン) カール・マルテルによるトゥール近くで敗北して以来、北方への侵略を
断念したイスラム勢力は、主に西地中海の沿岸部を攻撃の対象とした
イタリアやプロヴァンスの海岸地帯は、イスラムの海賊の定期的な略奪にさらされた
彼らはほとんど毎年のようにローヌ河を遡り、例えば842年にはアルルを襲撃し、略奪した
一部はプロヴァンスのサン・トロペ近郊の高台に要塞化した拠点を築いて、
絶えずプロヴァンス北部やアルプス地方に遠征を行った
940年には、ジュラ地方の有名な修道院であったサン・モーリス・ダ・ゴーヌを
襲い火を放っている
長期にわたって継続的・反復的に侵略にさらされたために、プロヴァンスの
海岸地方の住民は内陸の山岳地帯に大挙して避難したために、この地の人口が
減少するとともに、ムスリムの攻撃に対処すべく、インカステラメントと
呼ばれる在地住民集落の要塞化、定住組織の変革が生じた >>26
何で「副伯」って訳するんだろうね。
現代フランス語でも現代英語でも「子爵」という意味なのに。 >>31
もともと、伯の補佐をする役職だったからでは
そういえば伯は王による地方支配を代わって行う代官だったのに、
いつの間にか世襲されるようになった >>29
28だけど、いいですねーその解説。
西ゴート王国滅亡後、支配下のゴートおよびヒスパノローマ人はアラビアの影響を
強く受けることになる。
そのためその地における俗ラテン語は、アラビア語の語彙が多く含まれるようになり、
スペイン語へと発展していく。
フランスにおいても、南部のセプティマニア・ブルグント地域では、29の解説にある通り
イスラムの支配を受けた俗ラテン語が現在のプロヴァンス語の元となる。
が、一方でローマの遺産が一番長く残された地域でもある。
(ワインの造り方、耕作方法はローマ時代から現代まで全く変わっていない) 南仏にはもともとリグリア人が住んでいたんだよな
マルセイユ、アンティーブ、ニース、アグドはギリシア人の植民市だったし >>34
伯あるいは大公はローマ末期の長官職(ドゥクス)をモデルに司教座都市を中心に配置され、
その地を古くから支配してきたセナトール貴族が任命されるケースが多かった。
これが後のデュークの語源になるのは、ご存知の通り。
不安定な時代では、一代で消えていく脆弱基盤のフランク系より、
確固たる基盤をもつガロローマ系が継続して支配していく方が上手くいったようだ。
よって征服民であるフランク自由民が、被征服民であるガロローマ貴族に従属する
というケースは、都市のみならず農村地域においても多々見られた。 フランス軍で流行っていたエラン・ヴィタールとかいう精神主義は
どう考えても日本軍の大和魂に影響を与えている つーか近代のヨーロッパの軍隊なんてどこも、精神主義の塊だろ。 フランスはその中でも異様なほうだ
普仏戦争で負け、人口でもドイツに追い抜かれた。
じゃあどうするのかと言えば精神力に突破口を見出すしかなかった。
その精神主義の行き過ぎがマヌル以前の敗北につながる
(相手がマシンガン構えてる所に銃剣突撃して中隊ごと壊滅という
パターンが相次いだ) 絶滅危機のブルトン語、フランスは多様性と向き合えるか
http://www.cnn.co.jp/world/30001363.html
クレープがフランス料理の文化として欠かせない存在になる一方、ブルターニュ地方独特のもう1つの文化、「ブルトン語」は、話し手の高齢化に伴い絶滅の危機に瀕している。 ブルトン語なんて一地域でしか話されない言語を
貴重な授業時間を使って教わってなんになる
他の教化を教えたほうがいいだろうが フォッシュだったか
ドイツが一時大戦で負けたのは精神力がなかったからとか言ったの ソンムの戦いのイギリスやゲティスバーグの戦いのアメリカを見れば
>>39が正しいと思われ。
「非合理的な精神主義で平気で国民を大量に殺せる」ことこそが近代国民国家成立の
必須条件なんだよ。
「非合理的な絶対神の概念」が近代科学の成立の前提であることとパラレルなんだと思う。 18世紀のフランスでは「商業―軍事貴族」論争というのがあった
貴族だけで戦争を行う時代はとうに終わり、火薬・戦術革命による戦争様式の変化は
戦場における平民の役割をますます増大させていた
この意味では、近世以降の相次ぐ戦争が平民の軍隊、さらには社会での地位向上を
もたらしたといっても過言ではない
ただし、平民出身者が将官位に達したとしても、彼らは“貴族同様の熱意と勇気”を
示した故に評価され、またその論功行賞も“貴族化”といった形で行われた
したがって、軍事的資質を持つ者=貴族という理念そのものは、依然として
根強く残っていたと考えなければならない
ちなみに戦略が、なるものが学習可能な原理・法則としてまとめられるには、
19世紀初頭のビューロー、なかんずくジョミニを待たなければならない >>44
アンヴァリッド軍事博物館、ルーヴル美術館などのミュージアムは、
教会にとって代わった市民宗教の神殿なのかもしれんな
今ではフランスだけでなく、たいていの国にナショナル・ミュージアムがある
実際、機関銃構えてるとこに何度も銃剣突撃した例は少ない。
機関銃は銃剣突撃するフランス兵の左右や背後に穴掘って隠してあった。
\ /\
/ /\ 機関銃(フランス兵から見えない)
\ 塹壕 /\ ↓
/ /\/\ ↓ ○ ○ ○砲弾痕
\ ↓○ ○ ○ ○ (××)
/ いまだ!! →→→→→→銃剣構えたフランス兵○ 砲撃でアボンされたドイツ兵
\ ○↑○ ○ ○ ○ (××)
/ /\/\/\↑○ ○ ○
\ /\ ↑
/ /\機関銃 >>35
ガリア・ナルボネンシスはもともと地中海性気候で、マルセイユなどギリシア植民市が
このちにブドウ酒生産を伝えたが、ガリアのブドウ酒市場では前175年ごろから
イタリア産ブドウ酒が目立ち始め、前1世紀になるとほとんど独占状態となる
ガリアには古くからビールがあり、当初はイタリアからの移住者やローマ軍、
ガリアの貴族層が輸入ブドウ酒の消費者だったが、ローマ支配下でブドウ酒の
消費量も増え、紀元後1世紀になるとブドウ栽培とブドウ酒づくりの技術は
ローヌ川にそって北上し、2世紀にはモーゼル川地方にまで達した
1世紀末ごろからガリア産ブドウ酒はガリア外に輸出されるようになり、
ローマ市のモンテ・テスタッチォでは「五年物ベジエ産ブドウ酒」という銘がある
壺が発見されている >>49
ガリア人の葡萄酒好きは、征服前のローマ人の間でも知られてたよね。
交易や交渉の材料にも使われていたし。
ただ、お酒が強くなかったって話じゃなかったかな、ガリア人は。 >>42
そういって過去と断絶してしまったのが、たとえば漢字を捨てた韓国ではないのかな。 いつも思うのだが、下戸遺伝子の混じってない非東洋人達の間でも
酒の強い弱いあるのか?慣れや肝臓の強さなんかで多少の差はでそうだが 縄文人には下戸がいなかったとか。日本でも中部地方が一番下戸率が高く
離れるに比例してアルコールに強くなる。東北、四国、沖縄など酒に強い。 あ、すまん。誤爆レス。非東洋人だった。
俺も不思議に思ってたが、映画Three Amigos(サボテンブラザーズ)でテキーラ
飲んだアメリカ人が吐き出すシーンがあるから慣れはあるんだろうな。 ローマの酒商人はガリア人に、ワインを水で薄めないで飲むように勧め、これで酒にはまらせさらに消費量を
多くさせ、酒の代金として奴隷を提出させ、ガリア人たちは酒を手に入れるため、それと交換する奴隷を得ようと
ガリア人同士で人狩りの戦争をしまくった。
ローマの方もガリアを弱体化させるためその状況を煽った。
と、「ルビコン」に書いてあった。 日本人はなぜか欧米人のことを狩猟民族というが、ガリア人は大麦・軟質小麦・
エンマ小麦・ヒトツブ小麦などの栽培を行っていた
また大麦は食用だけでなく、ビール作りに用いていたらしい
彼らはさらに麻や亜麻を栽培し、その繊維で衣服を作る技術ももっていた
羊毛をつむぐ技術もかなり普及していた
こうした先進的農耕を可能にしたものとして、たとえば無輪犂利用の一般化がある
この農具は、すでにハルシュタット時代から知られていたが、ラ・テーヌ時代には
鉄製の犂刃が発明されていた
中世ヨーロッパの農業生産を飛躍的に増大させたとされる有輪犂も、
実はヨーロッパ中部のケルト人たちの発明だった
ブドウ収穫用の鉈鎌や大鎌や熊手が現在のようなかたちをとるように
なったのも、やはりラ・テーヌ時代だった
同じことは回転式石臼の発明についてもいえる 古代にフランスなんぞ存在しないぞ。
ローマ帝国の領土ガッリアの一部でしかなかったんだから。
それよりもケルト=ガッリア人の男色愛好風俗について語れよナッ!!! 確かに典型的な白人のノルウェイ人、オランダ人、アイスランド人などは漁民ばっかりで魚中心の食生活。 >>58
そんなこと言ったら歴史が語れなくなるだろうが。
現在のフランスにあたる場所の歴史を語るようにすればいいだろが >>57
脱穀機もガリア人の発明じゃなかったっけ? http://www1.doshisha.ac.jp/~takusemi/nishitaku/study/nougyoushi/000108.htm
ヨーロッパにおける千歯扱−その機能と消長
鎧スレに、ケルトやゲルマンをただの蛮族だと思っている馬鹿発見。 狩猟民族なんてブラックアフリカとか
東南アジアとかの辺境くらいだろな
農耕や牧畜しないと人口養えない アマゾンのジャングルに住んでいる人々は狩猟・採集生活
パプアニューギニアの人々も 質問なんだけどヴァロワ朝のシャルル7世の兄ルイとジャンの死因って何?
近親相姦な結婚の続いた血筋のせいで体が弱かったとか何かの病にかかったとか、
寝たきりになって死んだとか、何処かで倒れて突然死だったとか、
そういう具体的な死因が知りたいんだけど、百年戦争に関する本やネットで調べても
死んだってことしか載ってなくて気になってる ギュイエンヌ公ルイの死因はヘンリー5世と同じく赤痢らしいですが、トゥーレーヌ公ジャンに
関しては記述がないですね。 トゥーレーヌ公ジャン(Jean de France, 1398-1417)は毒殺されたみたい
ttp://fr.wikipedia.org/wiki/Jean_de_France_(1398-1417) 日本の非常にあざとい工作が、タイとまだ名目上はインドシナの支配者である
ヴィシー仏政権のトラブルをかきたてる。タイはフランス植民地に編入される前に
自国領土だったいくつかの省の返還を要求した。国境で騒ぎを起こさせておいて、
日本は調停役を買って出た。その上で治安秩序のため、インドシナの戦略要地に
陸海空軍を駐屯させる権利を主張した。この警察行為はついでに、日本の新聞の
洋鬼、とりわけ英国と米国が平和な土地の民衆に憎しみの種をまいているとの
猛烈な悪意に満ちた攻撃を伴った。
1941年ヴィシー政権は譲歩した。
「シンガポール陥落」 かつてたくさんあったナチス系スレッドが全滅状態。
いい悪いはべつにして、世間(リアル社会)で全否定されてるナチスを
再評価する思想的自由が世界史板にあった。
世界史板でなければ発見できない事実が豊富にあり
戦前ドイツを複眼的思考を研鑽できた。
サーバー大破でその膨大な蓄積が灰燼に帰して復興できなくなり
知識豊富なナチス研究者も去り、面白い知的議論が消滅した。
以前の世界史板は、現実社会では不可能なナチス擁護ができた刺激的な知的空間だった。
個人的には(現実社会で絶対悪視されている)ナチスへのタブーなき議論ができなくなったら、もう存在理由無いと思う。
フランスの黄金パターン
イギリスが行動を起こす → 「何しとんじゃワレ―」 → ボッコボコにされる
ドイツが行動を起こす → 「何しとんじゃワレ―」 → パリを蹂躙される >>75
トンデモ本の受け売りの妄言を聞くのが好みならオカルト板行けば? 普通に皆、ナチスに飽きただけだろ。
正直厨二が好みそうな薄っぺらい部分以外、どこが魅力なのか分からん。
普通の歴史好きってのは大体が工業、農業、文化、交通、通貨、政治、宗教、学術、労働など
幅広い分野に目を向けるもんだが、その辺なら帝政の頃の方がまだ遙かに魅力的だしな。 ナチスは冷静に史実を研究すれば研究するほど、ダメ政権ダメ政党ダメ集団であったことが
明らかになっていくからなあ。少なくともそういった知識を持つ人間の多い学問板では、オカルト妄言の入り込む余地はないよ。 ナチスがというよりワイマールの流れは何も変わってないからなぁ。
戦後は結局ドイツは悪化していくだけだったんで、ナチスに変わった事を
気にする意味が無い。 ナチスはむしろ回復期にあったドイツを台無しにさせた。 正直ヒトラーよりビスマルクのほうが能力は上だろうな。
ビスマルクはかなりのやり手だ。
フランスにとっては、ヒトラーよりビスマルクの方が怖かったんじゃないか 個人はそいつが死ねば終わりだからなあ。
恐れる必要は無い。ましてビスマルクは戦争する気無いし。 プロイセン期は勿論その動きからくる
プロイセンに警戒しただろうけど。 普仏戦争後の対独復讐感情ってどういうものだったの
ビスマルクが策略をめぐらしたことも事実だろうけどフランスもかなり無礼を働いただろう
大きな視野で見ればビスマルクがやったのはただの小さな挑発であって
プロイセン自体はスペインの継承について譲歩してあげてるのに パリ蹂躙されて、皇帝捕虜にされて、ヴェルサイユ宮殿で戴冠式までやらされたのに
「小さな挑発」て 極端な対独復讐感情を煽って政治的に利用していたのは、ブーランジェの取り巻きみたいな右翼だろう。
特にナポレオン三世タンは悪くない!と信じるボナパルティスト。
カぺーイスト、オルレアニストは、やっぱり成り上がりのボナパルトはダメだった的感覚。
クレマンソーみたいな左翼はドイツに対する憎悪より、ドイツと協力してパリコミューンを皆殺しにした右翼に対する憎悪の方が強い。
とはいえ実際ドイツ、特にカイゼルがあからさまに頭ヤバイ感じだったのも事実。
フランスの近代史はドイツとの対決の歴史
フランス人とドイツ人なんて合うわけがない
EUもいつまで持つか >>79
∧__∧
(`・ω・) 民主党政権と比較した上での事かね?
.ノ^ yヽ、
ヽ,,ノ==l ノ
/ l |
"""~""""""~"""~"""~"
なんだこんなところにナチス厨の残党が。
つかもう最近は厨と言う言い方自体廃れたよな。 >>91
はっきりいうと民主党なんて目じゃないほどのぶっちぎりのダメ政権だぞナチス。 ビスマルクが失脚していなかったら、2つの世界大戦もなかったし、
ロレーヌ・アルザスはいまだにドイツのまま。 ビスマルクの唯一の致命的失敗は、楽するためにカイゼルの権威を利用したこと。
すなわちカイゼルがビスマルク嫌いになれば挽回のしようがない。
その点すさまじい選挙戦を経て政権についたクレマンソーの方が強い。 楽も何も
プロイセンで強権を手に入れるには皇帝の信任を得るしかないんじゃないの いやフランスでは強権を手に入れるために皇帝や国王を退位させる。 ベルサイユ宮殿で戴冠式
エッフェル塔にドイツの旗
凱旋門の前でドイツ軍行進
フランス人の屈辱 >>91
民主党と比べてナチスの方がいい点って、国民に人気があったことくらいじゃね?
だから余計にたちが悪いわけだが。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています