【プロイセン】フリードリヒ大王【啓蒙専制君主】
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今年で生誕300周年を迎えるフリードリヒ大王。
18世紀を代表する卓越した君主である大王を語り尽くそう。
また大王に関する伝記・書籍についても情報あればお願いします。 >>659
普通に何曲も作曲してるし、自分で演奏もしてるよ?
中には現代でも評価の高い曲もあって、色々な演奏家がCD化してたりする。 ×軍事的才能には恵まれたが芸術の才は無かったからなぁ
↓
○軍事的才能には恵まれなかったが芸術の才は趣味としてまあまあだったからなぁ といっても比較対象が作曲家ならバッハ一族やヘンデル、
フルート奏者ならクヴァンツといった、当時の音楽が
好きな人なら今でも普通に耳にするような大家ばかり。
(てか、フルート好きなら大王が作曲家で奏者だったこと
くらい初耳ではないと思う)
素直に称賛に値すると思うね、今に残る曲を聴いても。
これ(https://goo .gl/ZeYUeV)とか好きだな。 伊藤若冲って、大王と同じ時代を生きた人なんだね
ぜんぜん関係ないけどさ
強いていえば異端児なところが似てるかな 関係なさすぎw
あえて言えばベロ藍(プルシアンブルー)を使ったことが確認される国内最古の事例が動植綵絵ってくらい 最近やってる国貞展でもプロシアブルー使った浮世絵あったな 大王のイメージカラーwはプルシアンブルーだよね
当時の日本の蘭学者たちは大王のことを知ってたかなあ 飯塚信夫の著作「フリードリヒ大王」に
「王はいかにもロココの人間らしく、編み物も嗜んだ」とあるんですけど
大王の編み物作品って、残ってるんでしょうか
レース? セーター? 見てみたい 1740年12月16日
フリードリヒ2世率いるプロイセン軍、オーストリア領シュレージエンに侵攻 大王の7年戦争勝利が、後にドイツが2度も大ポカやった遠因だな
ある意味大王の呪縛だわ 僥倖の勝利が後に禍根を残すという例。
日本人にも身に覚えがある。 百数十年もあとのことまで責任負えんわ
その間に意思決定できる指導者がどんだけいたと思ってんだ
そもそも大王がいなかったらナポレオンに初っ端ボコられるだけでなく、完全に消滅させられてたかもしれん >>675
ナポにはきれいさっぱりプロイセンを潰してもらい、ナポが自滅した後で
別の領邦国家が中心になってドイツを形成した方が、遥かに人死にの
少ない歴史になったろうがな。
フリ2が戦争で勝ちゃいいみたいな流れを作ってしまい、その安易な行き方を
誰も止めることが出来なかった。 >>675
後世、ドイツを破滅に導いた指導者であるヴィルヘルム2世、ヒトラーは共に熱烈な大王信者
特にヒトラーとは夢想的虚無主義者という点で同類タイプ。
正反対は合理的現実主義者のビスマルク >>676
プロイセン抜きじゃドイツ統一は無理だろ。
精々同盟や連合レベルの緩い連合がオーストリアの保護国としてずっと続いて、第一次で解体かな。
まぁ第二次世界大戦には列強の草刈り場だ。 >>676
神聖ローマ帝国第二の規模だったプロイセンを潰して
>別の領邦国家が中心になってドイツを形成とかその方が
人死にが多くなるわ
神聖ローマ帝国やオーストリア=ハンガリー同君連合内部の
民族・宗教的対立とか、神聖ローマ帝国の領域を跨いだ旧教国と
新教国の抗争を甘く見過ぎ。オーストリアが神聖ローマ帝国新教圏
最大の軍事大国だったプロイセンの代わりになれるなら、普墺戦争や
普仏戦争なんて勃発するどころか火種さえ生まれないわ。
で、プロイセンにもオーストリアにも無理となればドイツを形成できる
領邦なんて一つもない。 >>681
バイエルンとかもあったけどな
実際ドイツ帝国はバイエルンに滅茶苦茶気を使ってるし >>682
そらオーストリアを排除した後なら、オーストリア以外ではドイツ圏
最大の旧教国だったバイエルン(のみならず他の南独諸邦)に配慮くらいする。
だがバイエルンはオーストリアにもプロイセンにも成れなかったよ。
その両国ほど軍事に注力しなかったからね。 逆にバイエルンは、南ドイツはどうすればドイツ統一の中心になれたんだ?
軍事に注力するかしないかは、その時々の指導者による気もするが。 とりあえずランツフート戦争の辺りでハプスブルク家が総会議とかやってるのに先駆けて
とっととまとまっとけって話ではある ザクセンがポーランド王位を1697年に、プロイセンがプロイセン公領における王位を
1701年に、ハノーファーがイギリスの王位を1714年に手中にして外交上の地位を
強めていた一方、バイエルンは1806年まで選帝侯領であり、王位もナポレオンから
授けられたものだったからなあ。神聖ローマ帝国で幅を利かせるには遅すぎたし、
地位の向上もドイツ人受けしない方法で実現してしまった。軍事を抜きにしても、
神聖ローマ帝国内部における外交的アプローチも良いとは言えなかったな。 バイエルンの選帝侯位も三十年戦争におけるライン宮中伯への制裁で剥奪して浮いた選帝侯位を
皇帝が同じヴィッテルスバハ家の別流のバイルン公に与える形で獲得したもので
17世紀中盤近くまではただの公爵なんだよな タシロ3世前後の時代はカール大帝にメンチきったり王国になったりしてたのに、さびしいもんやな タシロ3世の頃だって、アギロルフィング家がバイエルン大公として
持っていた地位をカロリング家に奪取されたっていう寂しい経緯だからな。
で、カール大帝やロタール1世が西ローマ皇帝として帝国の頂点に君臨する中、
「Unterkoenig」(下王)が治める王国となった。 オーストリアが中心になってドイツを統合する歴史SFがあったな。 シュマルカルデン同盟を鎧袖一触で葬れたらその目もあったがな >>691
なんて題名の本?
ひょっとしたら30年戦争で旧教軍が勝ってたら目があったかもな。 プロイセンが軍事力の強化を志向したのは、三十年戦争でスウェーデンに
好き放題にされたことが原因とするなら、プロイセンの台頭を防ぐ鍵はスウェーデンが
握ってたのかも知れん。ただそのスウェーデンも、プロイセンに転仕した自国の人材や、
フランスから亡命したユグノーの指導もあって強化されたプロイセン軍にボコられる模様。 昔は「プロイセンは三十年戦争の被害が最も少なかったから発展できた」とか書いてあったが、
まさかあれは飛び地の方のプロイセンのことか ブランデンブルク=プロイセンの領土は1626年以降、スウェーデンと
神聖ローマ帝国の双方から荒らされてるよ。
西方領土もラーヴェンスベルク伯領の各城砦は三十年戦争中、なんども
攻められてる。 >>694
スウェーデンに好き放題されたんじゃなくて
スウェーデンが来るまで旧教軍に好き放題されたんだが >>697
そうだったね。正確には、1626年まで戦禍に晒されないで済んでた。その後、
→デッサウの戦いでマンスフェルトがヴァレンシュタインに敗北
→敗軍がクールマルクを略奪→その後、ヴァレンシュタインも
クールマルクを略奪→1630年、グスタフ・アドルフが襲来して
プロイセンと同盟を強制→1634年にグスタフ・アドルフがネルトリンゲンで敗北して
同盟が瓦解→プロイセン、皇帝軍に復帰→以後、クールマルクが皇帝軍と
スウェーデン軍の間で取り合いになる。
つまり、一番先に来たのはマンスフェルト+デンマーク軍、次に皇帝軍、それから
スウェーデン軍だった。 スウェーデンはあんなに寒くて人口もメチャクチャ少ないのによく進歩できたと思う
スペインとは大違い
どちらもヨーロッパの後進国で戦争だけが強かったみたいだが >>696
プロイセンの被害が大きかったというのは最近になって発見されたの? 1824年の『Real-Encyclopädie oder Conversations-Lexicon』という本に、
すでに「彼(ゲオルク=ヴィルヘルム)の試みは上手くいかなかった。
プロイセン西方の諸邦はネーデルラント軍とスペイン軍によってその所有権を
争われ、プロイセン地方はスウェーデンとポーランドの戦争によって荒らされた。
ポンメルンの諸公は断絶したが、ゲオルク・ヴィルヘルムだけは領有権を主張
できなかった。なぜなら、その地はスウェーデン軍が占領したからである。彼の
親戚たちも領土を失った。そして終戦を(生きて)迎えず、その国土を言い表せない程の
混乱の中に残した。」とある。
ttps://go o.gl/ax1aaE
ドイツ語版Wikipediaの「ブランデンブルク=プロイセン」のページに「1626年以降、
ブランデンブルク辺境伯領は目に見えて荒廃した」とあるのは根拠のないことではない。
和書の著者が、それでも「プロイセンの被害は小さかった」と書くならそれは不見識と
言えるな。 >>699
スウェーデンは人口を考えれば贅沢なくらいに土地が豊かで広大だろ
寒いという欠点はあるが寒いからこその小人口 >>699
夏が6月止まりの東北地方北部並み
平均最低気温
ストックホルム −3.9から14.5℃
マルメ −3から13℃
カルマル −3.5から12.4℃
青森 −3.9から19.8℃(6月13.5℃)
秋田 −2.5から21.3℃(5月14.6℃)
八戸 −4.2から19.3℃(6月12.8℃) >>703
鉱物資源に恵まれているという意味では豊かだけど、土地は肥沃じゃないよ。
その上、寒くて作物が育ちにくいから人口が少なかった。ジャガイモと言えば
ドイツってイメージがあるが、北欧諸国はいずれもドイツ以上にジャガイモに
依存してる。ましてや三十年戦争の頃なんて、ジャガイモの伝来前だしなあ。
他の国では飼料や非常食にしかならないルタバガを、普段でも食べてた地域だったり。 何を食べていたのかがかなり不思議だよな
一粒まいても二つぶくらいしか実らない穀物を植えてそう フリッツ爺さん「俺の本が出たらしい。作者は塩野七生とは?あれ皇帝?」 >>706
ジャガイモの到来前だと痩せた土地に植えられていたのはルタバガ以外じゃ豆や
ライ麦、大麦、燕麦、ソバとか。んで食糧事情は得てして都市部より農村部の
方が良い。 >>707
アンタじゃマッチョ好き塩野の触手は動かない ホモで草食系でチビガリだっけ?
英雄だが、無理だろうな。 ヘタリア好きの塩婆じゃ、当然ボンクラ皇帝のほうだろ >>711
シュタウフェン朝のフリードリヒ2世と言えばボンクラどころか、
生まれてくる時代を間違えたってくらいの英傑だぞ。
ほとんどシチリアで過ごしてたから、治世の間にアルプス以北の
諸侯の権限が増大したという一面はあるが。 >>712
ならシチリアだけの王になって、
ドイツは他の一族に任せるべきだった 地中海帝国建設の夢想にふけり、神聖ローマ帝国の分裂を決定的にした駄目皇帝。
ハインリヒ6世がシチリアのババァと結婚したのが運のツキで、フリードリヒのようなボンクラが生まれた。
ハインリヒ獅子公のような人物だったら、神聖ローマ帝国を強大にしていただろうに。 >>712
生まれてくる時代を間違えたんじゃなくて、生まれてきたこと自体が間違い >>716
宗教的出自を問わぬ人材の活用と、それを通じたイタリアの効率的な統治と、
後の西欧世界にも影響を残したほどの学問の振興なんて、本当にボンクラなら
できんことだ。
それに神聖ローマ帝国の分裂を問題にするなら、ハインリヒ獅子公を引き合いに出すのは
不適切だろ。帝国に分裂や混乱を招いた、という点では獅子公も引けを取らんぞ。 スペインといいシチリアといい、中世には先進的だったのになぜかヨーロッパの更新国になるのはなぜか >>718
フェデリーコ2世の治世末期にそれまでシチリア王に従順だった
半島南部、島嶼部に点在していたイスラム教徒このコミュニティが
「何故か」反乱を起こしたことがシチリア衰退の直接的な切欠
鎮圧と同時に大規模移住の強制が行われて雑居していたキリスト教徒とイスラム教徒が分離することになった
イスラム教徒とキリスト教徒に限らず多文化の混在が
科学と文明の進歩、交易の発展のエンジンとして存在していたシチリア王国は
この事で統治の安定以外の多くを失った
フェデリーコ2世は大好きな面白い王にして皇帝なんだが
結構ダメなこともやってるんだよなぁ >>720
スペインもイスラム教徒とユダヤ教徒の扱いを間違えて、ヨーロッパ中の後進国に逆戻り >>720
でもフリードリヒはアラブ人、ギリシア人への偏見はなかつたんだよね 奴隷が減って奴隷経済が崩壊すれば腐り始める。
アラブ土人テクノロジーは中世止まり。 >>717
フリードリヒ1世がハインリヒ獅子公の忠告に耳を傾けて、イタリア問題に拘泥しなければ、帝国の混乱は無かった。
ハインリヒ獅子公はヴェンド十字軍に見られる様に、Drang nach Ostenを推進し、東方に生存圏を拡大しようとする等
先見の明があった >>723
だから「何故か」と強調してるわけ
教皇とガチで殺し合いしてるところで後ろからムスリムに刺されるとか
性質の悪いジョークみたいな話 共通の敵や目的があれば宗教の事は小事として忘れれるかもしれない そういや近世のオランダではトラブル防止のため、商売の時は宗教の話禁止だったと聞く 忘年会を半強制することはハラスメント
男社会のクソ文化
ダウンタウンの松本気取りのくだらない奴
街中みんなのお笑い草だぜ バカヤロ様がいる
弱い奴には強く出て 強い奴には媚びへつらい
店長崩れのニセモノは
仕事も人望も紛い物
人には厳しく自分には甘く ケジメも無しとする
何でもすべての事が人任せで それでも良しとする
大学行ってもクズだから 常識なんかは通じねェ
相手を選んでハラ立てて
得意の火病はお手のモノ
今は君のために飲もう 僕も風と共に行こう
すべての人に 懺悔しな!!
https://www.facebook.com/katsuyuki.kida.923 >>728
そもそもオランダで主流だったカルヴァン派が予定説を採ってて
主流派が商売と宗教切り離してるからオランダで商売する人はそれに倣ってただけという話ではある シチリア王国でも屋外で宗教の話を禁じる「フリードリヒ二世勅令」みたいのを出して
(宗教的な美術とかは可、ただしイエスやマリアはダメ)、
各民族の融合に努めるべきだった。
融合がうまくいけばそれがシチリアのオンリーワンの文化となる。 >>732
同じフリードリヒ二世だから多少は多目に >>725
ハインリヒ獅子公がフリードリヒ1世に対し軍役を拒否して帝国の混乱を招いてるんだから、
そらないわ
しかもそれは、自分も大いに関わったヴェンド十字軍の結果でもあるんだし >>726
シチリア王国のイスラム教徒はシュタウフェン家最後のシチリア王、
マンフレーディの時代まで従順だよ。1266年、ベネヴェントの戦いでも
マンフレーディ側について戦ってる。フリードリヒ2世からマンフレーディの
治世でイスラム教徒が反乱を起こしたことなんてあったっけ?
あったらすまん。
マンフレーディをイスラム教徒の兵ともども敗死させ、シチリア王を継いだ
アンジュー家のシャルル1世は教皇と親密だったし、イスラム教徒どころか
シチリア王国の住民からも人気がなかったから不思議でもなんでもない。
シチリア晩祷戦争でシャルルの相手になったのはマンフレーディの遺領を
継ごうとしたペドロ3世であって教皇じゃない。
「教皇とガチで殺し合いしてるところで後ろからムスリムに刺される」って
何を指してるん? >>734
結局ロンバルディア都市同盟に破れてすべてを失ったんだから、ハインリヒ獅子公のほうが正しかったんだよ。 >>736
獅子公の協力があったらロンバルディア同盟に勝ってたかも知れんから、
そうは言い切れん。 >>735
イスラム系の官僚、軍人、もしくは諸侯等で組織立っての反抗というのはないが
シチリア島の農業を支えたイスラム系の農民はフリードリヒ在世中継続的に何度も反乱して
シチリア島から半島南部への移住させられてる
この移住政策が始まるのは破門十字軍と同時期か少し後で何度か行われてる
フリードリヒ2世はイスラム系農民の反乱に継続的に苦しめられてるんだが
移住後のイスラム系農民から官僚や軍人が排出されたりもしてて
フリードリヒ2世は反乱起こしたイスラム系農民にかなり温情的でもあったと言えると思う でもシチリアではラテン人、ギリシア人、アラブ人の住むところは別れていたらしい
一方トレドはモサラベ、カスティーリャ人、フランク人、ユダヤ人、イスラム教徒は同じ >>741
なるほど、ルチェーラに移住させられる前の話か。
その後はパルマの敗戦後、ロマーニャのギベリンがゲルフに寝返った後も
シュタウフェン家にイスラム教徒が反旗を翻したって話は聞かなかったんで
変だな、と思ってた。 大王が死んだとき、甥のルイ・フェルディナントは14歳くらいだが、すでに才能の片鱗を見せていたのだろうか。
そうであれば、ルイ・フェルディナントを養子にして、王位を継がせたらよかったのに。 >>742
雑居状態でちゃんとオリジナルの融合文化が創造できるだろうか?
町の中に違う様式の建物が並ぶだけで終わるかもしれん >>733
多少なんてレベルは超えてるな。
失政続きの無能皇帝の話はいい加減にしろ >>748
そうやって釣り針垂らし続けた結果がこの爆釣だってことを分からないお前は
さらに無能だなw 見当はずれの現実離れしたイタリア中心の政策のせいで、ホーエンシュタウフェン家の力を失わせ、
王権失墜の原因となり大空位時代を招いたフリードリヒ2世とか言うボンクラはいくらけなしてもけなしすぎと言うことはない。 >>748
フリードリヒ二世一代目が放棄したドイツ統一路線を、
フリードリヒ二世二代目が復活させた >>750
シュタウフェン家の力も、ドイツの王権も獅子公が二代にわたってドイツ王の足を
引っ張ってる時点でもう失墜してるわ。なんでもかんでもフリードリヒのせいに
すりゃ済むってほど単純じゃない。 帝国諸侯には特権をばら撒く無定見な政策、財政は借金でしのぐ、その場しのぎの統治を続けた結果、
後には焼け野原のような帝国を残した。 実の息子に反乱された挙句、眼を潰して自殺に追い込むようなクズ皇帝によって、ホーエンシュタウフェン家は滅亡した スレ違いってことも分からん荒らしが湧いてるせいだよ プロイセン王国も多数のポーランド人がいた
プロイセンとオーストリアは薩摩藩や松前藩に近い プロイセンは開拓時代のアメリカの西部みたいなものだな。 >>749
爆釣だ?ふざけろ
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