なぜ東ローマは西より1000年長持ちしたのか [転載禁止]©2ch.net
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似たもの兄弟だろうに、何かアルカディウスの方に見所でもあったのか・・・? アルボガストとその軍勢が健在ならば
西ローマは弱体化しなかった テオドシウス1世がちょっと早く死んでいたら
アルボガストらは西ローマを支配し続けただろう ガリアのフランク族出身のアルボガストらが
健在ならば西ローマを死守しただろうから
西ローマ領に西ゴート族が移住する事が出来なくて
西ゴート族はバルカンに建国する事になったはず
おそらく東ローマは西ゴート族とササン朝に
挟み撃ちにされて西ローマよりも先に滅ぶはず
当時はバルカン出身者が軍の主力だから
バルカンを失うと東ローマ軍は無力化したはず >>230
単に長男が西帝になるのが伝統だっただけ 地中海世界の西半分はもともと後進地域だったんだから、
西ローマが崩壊して元の状態に戻っただけじゃね? >>216
確かに。
しかし、1000年も帝都を防衛することになるこの兵器を発明したカリニコスは、火事を起こして処刑されてしまうという気の毒な人。
カリニコスが火事を起こすこともなく長生きして兵器の開発を続けていたら、1453年5月29日はなく、「ヨーロッパの中世」はもっと長かったかも知れない。 西ローマはブリタニアをアングロ・サクソンに奪われる寸前だったけど
東ローマにゴート族やヴァンダル族を押し付けられなければ
他の領土はそのまま保持出来そうだった ゴート戦争でもそうだけど東ローマって西ローマに恨みでもあるのか
ローマ市破壊、人口激減、元老院消滅等やりたい放題
共和政期のローマ人が見たらブチキレて東ローマをカルタゴみたいに滅ぼしにいくぞ 西ローマ政府も西ゴート族をヴァンダル族にけしかけたりしなければ
ヴァンダル族はそのままスペインに定住しただろうから
北アフリカは奪われずに西ローマ領のままだったはず 塩野七生「ビザンツ帝国などユスティニアヌスの時代に一時的に盛り返した後は暗愚な皇帝ばかりでただ滅亡を待っていたにすぎない」 十字軍に裏切られコンスタンチノープル占領されていったん滅亡したから千年王国でない >>239
ローマ文明世界に2国の帝国が並び立つとでも?
遅かれ早かれ、どちらかが消えてなくなる運命だった。 イタリア半島がローマ帝国終焉の地ならまだ恰好がついたのだが
もしろん中世近代以降も存続できてればなおよし
神聖ローマみたいなパチモンはいらない >>244
>神聖ローマみたいなパチモンはいらない
これは同意。
しかし、西の帝国はラテン語に代わる言語がなかったことが、最後まで統一を妨げた一因になった。
実際東帝国のギリシャ語はラテン語に比較して平易で、バルカン半島のスラブ諸国もアレンジしながらも受け入れた。
ユスティニアノス帝以後は、帝国の公用語もギリシャ語に置き換わっていったことを考えると、市民レベルでは「ギリシャ語による文明圏の統一」は、かなり早い段階から進んでいたことは想像に難くない。
よって、
>イタリア半島がローマ帝国終焉の地
これはない。 >>241
ユスティニアヌス1世はニカの乱で退位寸前だったけど兵士達は彼を守った
ユスティニアヌス1世の失策を尻拭いしようと奮闘したマウリキウスの方は
兵士達の反乱で殺されてしまう
東ローマ人はやらなくてもいい事はやるけどやるべき事はやらないようだ >>238
そりゃヴァンダルやゴート族の考えにもなってみろよ。
コンスタンティノープルは別格だとしても、永年東方との最前線になり、ティサロニカ、ハドリアノープル、アンティオキアなど軍都だらけの東と違って、西は無防備都市だらけだぜ。 ユスティニアヌスは有能な感じはしないな
無謀な拡大路線はいきなりステーキの社長と同じ ローマ破壊してそのままはアウト
ローマ名乗る資格無し >>211
遅レスだが、
>一方ロシア人は東ローマがなければイスラム教を選択しただろうから
これはない。
イスラム教は戒律で酒が飲めないので、ロシアがイスラム教徒になることは死んでもない。
ちなみに、当時のロシア人にカトリックとギリシア正教の教義上の区別はついていなく、
ビザンツ帝国の聖堂や教会を見学して「何となくキラキラしててカコイイ!」で決めたらしい。 おもった以上に東ゴートが抵抗して泥沼になったのがよくなかった
シチリアだけで満足しておくべきだったな 中国の王朝交代では必ず国号を変える
ローマが地中海世界を統一した後は
首都をコンスタンティノープルに移した後も
何度王朝が交代して、どの民族が皇帝になっても国号はローマ
さすがにオスマン帝国はイスラム教なので
これでローマ帝国は滅亡したと見做される訳だ
その前にも何度も滅亡してる感じはあるけど ビザンティン帝国と呼ばれた東ローマ帝国が
自称もビザンティン帝国にしても良かった気がする
ローマの権威と文化はある長い時期の間、
コンスタンティノープルに遥かに劣っていた
精神的にも文化的にもローマとは異質なものに
なりながら、国号をローマにこだわっていた
理由は何だろう
豊かな近東を支配した者にとってローマや
イタリアって必ずしも要らないと思うんだよ
蛮族に蹂躙されて片田舎になったローマ、南欧
よりは中近東の都市の方が遥かに価値がある
中世まではヨーロッパは西アジアのおまけ イタリアって人口密度昔からかなり高いけどね
ギリシャはともかくバルカンやアナトリアはでかさの割にあんま人住んでないからな オドアケルや東ゴート時代はローマ行政が継続しててイタリア社会は崩壊してない
崩壊したのは東ゴート戦争とその後のランゴバルトの侵入のせいだからな
東ローマはバルカンと中近東でも戦ってたからイタリアの内陸まで維持する余裕はなかったし全土征服にも20年かかってる
海軍力は最強だったから、北アフリカの沿岸地域とシチリアとイタリア沿岸地域のいくつかはあっというまに占領して長期維持できたけど
最初からそこらで満足しとくべきだったね
キリスト教世界を弱めただけの結果になった >>252
東ローマの場合、国号ってなかったんじゃないかという気がする
史料を見るとどれも「ローマ人の皇帝」「ローマ人の土地」とか「ロマニア(=地域の名称で国号ではない)」
となってて、SPQRの方がよっぽど国号に近い感じがする
俺が知らないだけかも知れないが史料に国号に相当する使い方を見たことがない
建前上では中世初期のローマ帝国は国境を持たない「全世界を統べる皇帝の国」だったから、
明確に東アジアの国号に相当するものはなかったんでは?と思ったりしてる 蛮族がローマを荒らしても蛮族だからで片付くし諦めもつくが
まがりなりにもローマの正統名乗ってる東ローマがローマ市や元老院破壊しちゃいかんでしょ ラテン語も捨ててるしな
ローマ人の皮を被ったギリシア人による帝国
ローマに愛着が無いのも当然 >>258
だーかーらー!
難解で汎用性に乏しいラテン語を捨て、市民レベルでギリシャ語での文明圏を維持したんだって。
「ローマ」に拘ったのは、むしろマイナスだったが、それも含めての帝国。 ローマ捨てるのなら尚更ローマ名乗るなやという話
矛盾してるのよ、神聖ローマより多少マシという程度
古代ローマ人が見たら間違いなく呆れる 西側を破壊放棄したら西側の後継国に見捨てられる因果 ラテン語を捨て、共和政治の精神も捨て、ローマにも属さず、単にローマを自称したギリシア人の帝国 きっと4世紀のフランク族(その範囲は現在のベルギーとオランダ)の王も、
9世紀以降のフランスに対して「フランス(フランクが変化した語形)」を名乗るなよ、
と墓場の陰から思っているに違いない ゴート人も王国化してからはゴート語を使える奴は稀だったしな
ラテン語一強 >>263
> きっと4世紀のフランク族(その範囲は現在のベルギーとオランダ)の王も、
> 9世紀以降のフランスに対して「フランス(フランクが変化した語形)」を名乗るなよ、
> と墓場の陰から思っているに違いない
そもそも4世紀だとフランク人にフランク人なる自己認識がないから気にしとらんだろ
フランク人の王と呼ばれたのもテウドメールとかマロウバウデスとかのローマ宮廷出身者で、北方のフランク人もローマのフランク王とはほとんど無関係な雑多な混合集団 >>262
無茶振りもいいところだな、オイ。
では「共和政」を表わすのに、この時代ラテン語とギリシャ語以外で何語があった?
言っておくけど、ロマンス諸語はまだ成立してないよ。
中世期、教会の坊主でさえ習得に四苦八苦するようなラテン語で政治行政軍事を執るなんてことは、
さしづめ平将門の時代の言語で現代の自衛隊を指揮するようなもんだ。 東ローマが西側破壊しまくったのが原因だったりしてな
ラテン語問題
やはりギリシア人の帝国…! >>268
>東ローマが西側破壊しまくったのが原因だったりしてな
別に破壊してないだろ。
帝都は別格にしても、ティサロニカ、アンティオキア、ハドリアノポリス、と軍都だらけの東に比べて、西は無防備都市だらけ。
おまいが蛮族ならどっちに行くよ? >>269
だーかーらー!
例えば「法律」「政治」「軍事」「建築」「物理法則」「化学」「哲学」「数学」なんてものの諸概念を理解するのに、難解すぎるラテン語に代わる受け皿として、この時代ギリシャ語以外に何語があったよ?
何より新約聖書の原典はほとんどギリシャ語なんだよ。
ローマ時代に完成したワンセットの「文明」は、むしろギリシャ人以外に引き継ぎ手がいなかった、と考えるべきだ。
ここまで言わないと理解できんのか?
>>271
氏んで。 ひさびさにビザンツスレが活発だと思ってきてみたら、、、、
最近ビザンツ歴史本が出版された話題かと思ってたら違ったのか、、、、
もう少し穏やかな言葉遣いを心がけて欲しいよ、、、、 >>273
すまんのぅ。
やたらと突っかかられるもんでな・・・。 >>274
いや、お前が一方的に突っかかってる
272でなかったらスマン とりあえず「ラテン語は難解だからラテン語を捨ててギリシャ語でいい。だからラテン語を捨てたとは言わせない」は超解釈すぎて論外だわ 1. ラテン語を捨てた
2. 共和政治の精神を捨てた
3. ローマに属さなかった
4. ローマを破壊した
嘘だっていいたいのはどこ? >>267
> さしづめ平将門の時代の言語で現代の自衛隊を指揮するようなもんだ。
自衛隊は平将門とは自称していない なぜイタリアを維持できなかったかというと
西ローマにいたローマ軍団がオドアケル以降消失していたので
東ローマの軍団を派遣してイタリアを守らないといけないが
バルカンやペルシャの守りもあるんでイタリアに割く余裕がなくなったってところなのかね
ちなみに海軍はあるんで海岸沿いは維持できたと、まぁラベンナは沼地にあったから簡単に攻略できなかったってのもある >>280
もちろんそういう要因もある。
しかし、古代ローマが軍を各処に派遣するために整備した街道を、今度は蛮族が逆に爆進してきたのが命取りになったな。
現代でも普通に歩ける街道らしい。 なぜイタリアを維持できなかったかというと
東ローマ軍の主力が消滅したから
ユスティニアヌス1世やベリサリウスの世代が
年老いて死ぬとバルカン出身の将兵が消滅した
スラブ人の侵略から次世代の兵士になる世代を
守らなかったのでバルカン軍団が消滅した >>277
>1. ラテン語を捨てた
共和政ローマの時代からの二言語併存状態から7世紀の公用語ギリシャ語へ
ギリシャ語はそもそもこの地域の土着言語。
これを「ラテン語を捨てた」というなら捨てたんだろう。
>2. 共和政治の精神を捨てた
そもそも395年の時点で、共和政ではないんだが?
>3. ローマに属さなかった
ローマそのものを名乗っていたので、属していませんが何か?
>4. ローマを破壊した
東帝「ゴルァ蛮族ども!西に行くなら通してやる。東帝国に侵入するなら我が軍の槍のサビにしてくれる!!」
重装騎兵「呼んだ?( ̄ー ̄)ニヤリ」
蛮族「サーセン、通して下さいm(_ _)m」
⇒蛮族、ローマを破壊
これをビザンツがローマを破壊した、って言うのか?
結論
ビザンツが嫌いならこのスレに来るな 日本の支配階級も朝鮮語を捨てて日本語を話しているからね ビザンツが嫌いならこのスレに来るな
なんでこいつこんなに偉そうなの?
ビザンツ人の怨霊? >>282
バルカン軍団は消滅したかも知れないが、7世紀にテマ制が敷かれ、さらにギリシャ火の発明もあった。
軍事的に弱くなったとは思わないけど、帝都防衛戦などもあり、積極的に攻めるよりも国防のための軍になったみたいな感じ。 テマ制は防衛には適していたけど
遠征には不向きだった
スラブ人に奪われたバルカンを奪回する為に
バルカンに遠征するとテマ制は崩壊した > ローマそのものを名乗っていたので、属していませんが何か?
そうだね
だからローマにも属さずローマを自称したって指摘されてんだよね >>287
>戦犯はベリサリウスなのかユスティニアヌスなのか
ナルセスもいるぞ
>>285-286
>ビザンツが西側に何故見捨てられたのかがわかるな
思わず納得してしまったw >>290
前半はほぼ同意。
後半はどうかな?
バシレイオス2世時代にブルガリアを滅ぼしてバルカン半島は完全奪還されたが、まだテマ制は存続していたと思うが。 ナルセスはベリサリウスに比べると知名度がイマイチ低いな
漢の武帝時代の衛青と霍去病みたいだ ナルセスはアルメニア人なんだっけ
バルカン出身者からオリエント出身者にバトンタッチ >>295
「衰亡史」のギボンの記述が大きいな。
ヴェルサリオス「取るものもとりあえず、出陣!」
ナルセス「兵士の給料ちゃんと払ってね。遅配分もよろしくね。あと装備品はちゃんと買ってね。工兵隊もつけてよ。補給もよろしく」
近現代の経営陣が、どちらを褒め称えるかは自明の理。
どっちみち2人とも最後はくびになるんだがw
あ、ちなみにこれを書いたギボンもカトリックに改宗してオックスフォードをくびになるんじゃなかったっけ? 兵は弱くてもローマより攻め落とすのが
難しかった感じ 周りは占領されても
首都だけは防衛できた凄い都だな もし東ローマが首都の難攻不落さより貿易を
重視して首都をダマスカスやエルサレム、
アレキサンドリアにしていたらもっと早く滅亡していたな >>299
ダマスカスやエルサレムって貿易に有利なの? なお寄せ集めの十字軍程度に難攻不落なはずの首都を落とされた模様 ローマ奪還したときに死守して要塞化しとけばよかったのに
そうすりゃイスラムやオスマン来たとき西へ逃げることもできた >>298
コンスタンティノープルの防御力が優れ過ぎたので
国土防衛の意欲が低下してしまった
帝都さえあれば大丈夫という傾向が滅亡の原因 ローマ帝政期のイタリア中部とローマ市の人種構成の遺伝的解明だそうだ
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_21.html
帝政期48人は遺伝的に、ギリシア・マルタ・キプロス・シリアなど現代の地中海および近東集団とほぼ重なります。
帝政期の48人に関しては多様な系統が明らかになり、おもに異なる5クラスタに分類されます。
鉄器時代の11人のうち8人が分類されるヨーロッパクラスタには、帝政期の48人のうち2人しか
分類されません。一方、約2/3となる31人は、地中海東部および中部クラスタに分類されます。
約1/4となる13人は、帝政期よりも前には存在しない近東クラスタに分類されます。
主成分分析では、このクラスタ内の一部はレバノンの同時代(紀元後240〜630年)の4人と重なります。
さらに48人のうち2人は、アフリカ北部クラスタに分類され、アフリカ北部系統を30〜50%有するとモデル化できます。
平均的な系統の移行と遺伝的構成における複雑さの増大は、ローマ帝国の地中海全体への領域拡大に
続いています。これにより、ローマは地中海全体とつながりましたが、本論文のデータは、
帝国内でも他地域より地中海東部からの遺伝的影響がかなり大きい、と示します。これは、
考古学的記録とも一致します。ローマの碑文の言語は、ラテン語に次いでギリシア語が多く、アラム語や
ヘブライ語といったローマ帝国東部の言語も使われました。また、碑文に見える出生地も、移民が一般的に
帝国東部出身と示しています。帝国東部となるギリシアやフリギアやシリアやエジプトの宗教施設もローマでは
一般的でしたし、ヨーロッパ最古となる既知のシナゴーグはローマの港町であるオスティア(Ostia)
にあります。
一方、ローマと帝国西部との関係についての証拠も豊富に報告されています。
たとえば、帝国拡大に続いて、新たな征服地からローマへと奴隷が連れて来られました。
ローマはガリアとイベリア半島からワインやオリーブオイル、アフリカ北部西方から
穀物や塩など大量の物資を輸入しました。しかし、地中海西部集団と強い遺伝的類似
性を有する帝政期の個体は48人のうち2人だけで、帝国西部からの移民は比較的限定
的だった、と示唆されます。 これ読むとローマ市とイタリア中部は地中海東方人種化していたようだ
帝政期に入りイタリア中部とローマ市は東方人種にのっとられ、東方人種の宗教である
キリスト教化し、更に専制的なキリスト教帝国化したのが必然であるように見える
ラテン的伝統というのは帝政期に入り急速に失われ、2世紀には皇帝がギリシア語で著作したり
してるから、帝国は東方に乗っ取られたという感じになってたんじゃなかろうか
東西ローマが分裂してイタリアのギリシア的要素をビザンツに引き取ってもらった
というのが正しい歴史の見方ではないかという気がする
ラテン的ローマは3世紀くらいで滅んでドミナトゥス時代から専制君主政となってビザンツに続くという
1古いローマ帝国史観が案外正しいんじゃないか と思った 帝国西部はブリタニア、ガリア、イスパニアの
3つでガリア管区としてまとまっていた
イタリアはバルカンとともにドナウ管区に属していた
本来イタリアは防衛をガリアではなくバルカンに依存していた
ローマ帝国は東西分割によりイタリアとガリアをともに
西ローマにしたので防衛し難くくなり滅亡していった >>306
> ラテン的伝統というのは帝政期に入り急速に失われ、2世紀には皇帝がギリシア語で著作したり
> してるから、帝国は東方に乗っ取られたという感じになってたんじゃなかろうか
依然としてラテン語が主流なままなのにギリシア語も使われてたから東方に乗っ取られてたとか極端すぎるわ いくらなんでもラテン的ローマが3世紀に滅んだってのは早すぎるだろう
本家ローマじゃドミナトゥス化も専制君主化も進まんかったしギリシア語とのバイリンガルも帝政末期には減ってたし
少なくとも西ローマが健在なうちはローマ帝国は健在だよ 376年、気候変動激化や、侵攻のフン族などに居住地を追われた、
ゴート族(西ゴート族)は、
西ローマ帝国のヴァレンス帝に、
ドナウ川南岸の、ローマ領トラキア地方への移住を陳情した。
西ローマ帝国ヴァレンス帝は、せいぜい、数万人程度の移住と思い、
その準備をしてローマ領への移住を許可した。
(キリスト教改宗者を大量獲得したかったともいうし、
ローマ人の贅沢化、労働奴隷減少に悩んでいて、
下級兵士と奴隷労働者確保を図ったという)。
武器の不携帯、ローマ軍での下級兵役、農耕の従事が、交換条件であった。
ところが、他の蛮族やオストロゴート族(東ゴート族)も、
これに便乗したため、
結局、30万人を超える難民がドナウ南岸の、
ローマ領に居ついてしまったのである。
ローマ帝国側の、農業生産物の収穫で自給できる迄の,
土地分配、食糧配給の計画も、30万人では全く足りず、
移住民は不満をあらわに、どういうわけか持ち込んだ、
多くの武器を取って武装蜂起、大規模な暴動、大規模な略奪を始めた。
結局、ヴァレンス帝は、ローマ帝国親衛軍 治安出動で、
このゴート族武装勢力を鎮圧しようとして、失敗。
ハドリアノポリスの戦いで、大敗。戦死することになった。
ゴート族は、ローマ帝国を東西に分断する形で、
王国を建国。ローマ帝国、特に西側の衰退を決定付けた。 >>308
その前の記事を読んでくれよ
>帝政期48人は遺伝的に、ギリシア・マルタ・キプロス・シリアなど現代の地中海および近東集団とほぼ重なります
て遺伝子解析の結果 そもそも古代イタリアでラテン人は少数派だった
エトルリア人やギリシャ人の方が広い範囲に分布していた >>314
その記事はイタリア中部とローマ市の人種構成の遺伝子解析だからね
ファリスク・ラテン語地帯が遺伝子的に東地中海化してたという話 >>312
このあと無理に東方を奪還しなけりゃローマ帝国も長持ちしたのかもね ディオクレティアヌス帝以来
東方がローマ帝国本土と看做されていた
例外的にウァレンティニアヌス1世とウァレンスの兄弟帝で
兄のウァレンティニアヌス1世が西ローマ皇帝となる事を
選んだので一時的に西方が優位になった
ウァレンティニアヌス1世の死後は弟ウァレンスが
西の帝位を継いだウァレンティニアヌス1世の息子達に
対して優位となり再び西方が優位となる事はなかった ディオクレティアヌス期ですらローマ帝国本土はイタリアなんですが……
コンスタンティヌス朝ですらローマ帝国本土はイタリアなんですが……
ウァレンティニアヌス1世の死後のウァレンスに対してもテオドシウスに対しても西のグラティアヌスが上位帝なんですが…… 帝国本土がイタリアでなくなるのユスティニアヌス1世になってからだから、法制度上は東ゴート時代ですらイタリアが本土なんよね イタリア半島捨て東に逃げちょったのに本土がイタリアとか矛盾しとるんじゃありゃせんか
死守しなさいや 首都が東に移った時にエリートもみんな移ったのか?
ローマに住んでいた一般市民はどうだったんだろう。 コンスタンティノープルに遷都される以前に
アウレリアヌス帝がローマ市に城壁を築いたので
城壁外の住民はしだいに去っていき
ローマ市の人口は減少していった そもそもコンスタンティノープルに遷都されたなんて事実がない >帝国本土がイタリアでなくなるのユスティニアヌス1世になってから
そうなの? 5世紀初頭の官職表では東方の方が西方より先に出てくるので
序列的にはオリエンス道長官>イタリア道長官という感じがするが >>322
城壁内でも100万人くらいいたんじゃない? 一体なんで皇帝はミラノとかラヴェンナにいたんだろう?
道長官やマギステル・ミリトゥムがミラノやラベンナにいるのはわかるんだよ
まかせりゃいいじゃん
遷都されてもいないのにローマ見捨てられた感しかない >>327
> 一体なんで皇帝はミラノとかラヴェンナにいたんだろう?
首都ローマを守るために前線で戦うのが皇帝の役割だから ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています