マラズギルトで負けてなんでアナトリア失ってんの? [転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
アナトリアて山で攻め込みにくい所なんだろ
なんで東ローマはアナトリア失ってんの >>3
あれは東ローマのセルジュークからの数多くある敗戦の一つにすぎない
あの戦いで皇帝マヌエルがふさぎこんだから印象深く伝えられてるだけ アナトリアまで取られたら、流石にマズイ!面子が!とか思わなかったのだろうか?
と、歴史の資料集の地図見ながら、常々思う疑問であった… まずいとは思ったろうが兵隊が糞弱すぎてどうにもならない コムネノス朝時代にまたかなりの部分取り返したじゃないか。 それでさえ全部を取り戻してはいない
第三回十字軍があっさりとイコニウムを占領してしまったと言うのに
東ローマ帝国は内陸部を取り戻せなかった アナトリアを一瞬で失い
取り戻すのに数十年かかる
しかも全部は取り戻せてない
なんだこの弱兵国家 いやいや、一度、外敵の侵入や財政破綻、それから内戦などなどによって
滅亡寸前にまで追い込まれた国が再び大国として蘇えるというだけでも
世界史上にまれな偉業といえるから。
普通、あそこまでいけばそのまま滅亡している。 コムネノス朝というのは国内の貴族と妥協しながら存続したもんだから
一見大きそうに見えて
実際の国力は大したことない范雎の改革の前の秦のようなもん いやいや遠くからやってきた第二回十字軍がセルジュークを打倒して首都を征服したんだよ
小国のグルジアもセルジューク軍数万の軍勢を打倒したんだよ
東ローマはなんで内陸部を最征服できないのって >>11
他の西欧諸国も所詮は諸侯の連合体だし、セルジューク朝に至っては
さらに分権的な傾向が強くてバラバラもいいとこじゃん。
>>12
コムネノス朝の最盛期にはその十字軍国家のうちアンティオキア公国を土下座の上、
属国化しているし、エルサレム王国も婚姻外交などを通じて影響下に置いているぞ。 当時のセルジューク朝がそれだけ強大だったのと、侵入時期がマケドニア朝断絶後の
衰退期にちょうど重なったから。バシレイオス二世のマケドニア朝全盛期なら
簡単に撃退していたはず。 ブルガリアの中でも辺鄙なところから挙兵したサムイル勢力をつぶすのに
数十年かかったバシレイオスじゃ無理
というか戦術能力だったらヨハネス1世のほうが上だと思う 今のブルガリアにあたる部分も山脈地帯で守りやすいはずだったのに
ブルガール人によって一瞬で征服されてるな 騎馬にとって不利になる山脈地帯であるブルガリアやアナトリアを
騎馬部族にとられる国があるらしい とりあえずセルジュークのイコニウムを一撃で取り戻した
神聖ローマのほうが強いことは確かだ >>17
何十年も飽きることなく戦い続けることができる執念と財政能力こそが
バシレイオスの強さでしょうが。
>>18
黒死病の蔓延で人口がスカスカになってるんだから仕方がない。
それにベリサリウスはブルガリア軍を撃破しているし。
>>20
当時のフランスの王権は非常に脆弱。
むしろイングランドあたりのほうが王権は強いよ。 >>17
真に戦術能力優れているなら数十年かからず数ヶ月で殲滅出来てる マラズギルト以後もアナトリアにはテマがあったというのに
それらがセルジュークに対抗できないんだからなあ フン、ゴート、ランゴバルト、マジャール、ブルガール、ノルマン、トルコ、モンゴル・・
何故蛮族の侵入が止まらないのでしょうか?それは神のおぼしめしだからです
ローマ皇帝が跪いて一言「ユダヤの皆様、我々があなた方を迫害して申し訳ありませんでした」
と言えばいい 奇跡が起こります ユダヤの迫害者を出した王室は滅ぶ
アングロサクソンはユダヤの保護者となったが故に勝ち続ける事になったのです >>1
アナトリアは高原地帯で、アルメニア方面から地続きだから遊牧民が移動しやすかったから
高原から海岸に降りるところに山岳地帯があるので小アジア半島の海岸地帯が
ビザンツ領として残った ロマノス4世ディオゲネス = 徽宗&岳飛
アンドロニコス・ドゥーカス = 秦檜
アルプ・アルスラーン = 阿骨打
マリク・シャー = 呉乞買 ロマノス4世ディオゲネス = 童貫
ヨハネス・ドゥーカス = 徽宗
アンドロニコス・ドゥーカス = 欽宗
ミカエル7世ドゥーカス = 高宗
ルーセル・ド・バイユール = 岳飛 ロマノス4世ディオゲネス = アレクサンドロス大王
ニケフォロス・ブリュエンニオス = パルメニオン ロマノス4世らカッパドキアの支配層はアルメニア系だけどギリシャ正教徒で
全てのアルメニア人をギリシャ正教徒にして東ローマ人にする事を望んだ
アルメニア人の多くはアルメニア正教徒でギリシャ正教徒になる事を拒み
セルジューク軍に参加して東ローマ軍と戦った
ギリシャ人将兵らはアナトリア防衛だけで充分で会戦前からアルメニアを
セルジューク領とする講和に賛同しており戦意が乏しかった アルプ・アルスラーンはマンジケルトの戦い以前に
本国中央アジアでの反乱の為にエジプトと東ローマの征服を
断念して本国支配に専念する事に方針転換していた
アルプ・アルスラーンが殺されなければセルジューク朝の
統一は強化されホラズムとかを独立させなかったであろう マンジケルトの戦い後にアルメニアはセルジューク領に確定したけど
アナトリアは東ローマ領のままだったのでそのままならアナトリアは無傷だった
東ローマがアンカラで自立したルーセル・ド・バイユールらノルマン人傭兵の
反乱鎮圧をセルジューク朝に依頼したのでアナトリアはセルジューク領になった 東ローマ側はノルマン人傭兵からアンカラを解放してくれる事を望んだけど
セルジューク軍はノルマン人傭兵だけでなくアンカラの全住民を追い払った セルジューク朝ではトルコ遊牧民が放牧地を求めて
イラン農民の農地を奪い放牧地にしようとしていたので
セルジューク朝のイラン人宰相ニザーム・アル・ムルクは
多くのトルコ遊牧民をアナトリアへ移住させ厄介払いした
トルコ遊牧民はアナトリア農民の農地を奪い放牧地にした
一方アルプ・アルスラーンは本国の兵が減ってしまうので
アナトリアにトルコ遊牧民が移住する事には反対だった
アルプ・アルスラーンはエジプトとアナトリアへの遠征中に
本国中央アジアで反乱が起きたので本国支配に専念する事に
方針転換したけど急死してしまった
これに対してトルコ遊牧民らは放牧地だけでなくスルタンの
専制支配から逃れたいのでアナトリア移住を歓迎した
ニザーム・アル・ムルクがアナトリアにトルコ人を移住させなければ
アナトリアではなくイランが完全にトルコ化したかもしれない
ニザーム・アル・ムルクはイランをトルコ人から救った ロマノス4世はイランを征服して「第二のアレクサンドロス大王」になろうとした
マンジケルトの戦いでは野戦軍だけではなく城攻め用の人夫を大勢連れていたので
これが足手まといになり敗北の一因となった セルジューク朝軍ではマムルークは規律が良かったけどトルコ遊牧民らは
忠誠心が弱くて規律が悪く足手まといだった
高給で生活を保障されたマムルークに対してトルコ遊牧民は普段は遊牧や
盗賊などで自活していて戦利品や牧草地など実利を目当てに参戦した
トルコ遊牧民らは自力で東ローマからアナトリアを奪おうとしたけど敗退
マムルークを率いてエジプトへ遠征中のスルタンが引き返して合流したので
ようやく東ローマ軍に勝利する事が出来た ササン朝とバトルアンドバトル
終わりなき戦い
ユスティニアヌスが西ローマの旧領を大征服するが
その後がランゴバルド、アヴァール、イスラムに領土を取られまくって
停滞の時代が続き、しばらくするとようやく安定して
バシレイオスの活躍で再び大国になるが、その後は暗君が続き
トルコ人にアナトリアを奪われる
更に十字軍によって一回滅ぼされる
なんとか復活するが、ふるわずオスマン帝国に滅ぼされる
色々あったけどよく1000年も続いたもんだよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています