アジア仏教の歴史 [転載禁止]©2ch.net
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キリスト教で悪魔祓いをする論理は
悪魔と言っても、所詮は神の作ったもの、
もともとは天使崩れ、キリストは神と同等だから、そのキリストの名において
立ち去れといった論理展開なのだけど、
般若心経で悪霊退散をする論理展開は、「悪霊さんよ、あんたらは所詮、空の
存在なのだから、下らん執着を捨てて、空の存在なって消え去りなさい」となるのだよな。 ホントにこの僧侶は死んでいるのか!200年前のミイラが発見された!
http://mnsatlas.com/?p=9463
文化の話になるけどモンゴル仏教でも東南アジアのようなオレンジ色の袈裟を着る僧侶がいたんだねえ
チベット仏教にもいるけど
もともとの釈迦のころのそれこそ糞掃衣は黄土色と言われてるから近いよね
しかしモンゴルでは夏はいいけど冬はこれ一枚では寒いだろう
コートとなる衣が必要だな
仏教伝播ルート図
http://www.kaze-travel.co.jp/img/wp/2014/11/tibet_kiji060_10l.jpg マントラという単語は現代では多くの言語の語彙に入っているが… 神との契約で人類の罪を贖うために十字架に架けられて死んだイエス
悪魔との約束で毒キノコを自ら食べて死んだブッダ 父なる神と子なるイエスと聖霊は三位一体なのに契約しないだろう。 山田長政らシャムに行った人達は現地で日本のとは全く違う仏教と出会い、有識者の中にはこれが経典に書いてある小乗仏教というものかと勘違いしたらしい。 勘違いってどういうことだ?
上座部仏教は小乗仏教だろ?小乗は蔑称だから勘違いってゆーんじゃないよな? 「大乗でない仏教=小乗」
という定義をするなら、その通り >>489 タイ仏教を見て、経典でしか知らない小乗と同一視したのが「勘違い」ってことだろ 小乗仏教は西アジアの方で栄えた説一切有部という部派が大乗仏教側からそう言われた
が、近年になって説一切有部と大乗仏教は対立はしていなかったという説もあり
龍樹のように個人的に説一切有部を批判していた大乗仏教の僧侶がいたというだけで (日本に於ける)大乗仏教という呼称が、学者や仏教界に浸透する過程に於いては、
大乗でない仏教の種類、傾向・系統なぞ考慮されていない。
ゆえに、 『大乗でない仏教=小乗』 は、 【近代日本においては】「正しい」認識だよ。 >>491-493
※また、大乗仏教という呼称が大きく提示されたのは、
明治期の或る禅僧の考察から、という説が、近年発表されている。
https://ci.nii.ac.jp/naid/40021175029/ 日本において大乗仏教という呼称が広まったのが明治以降だとすると
勘違いするどころか山田長政は大乗仏教も小乗仏教も知らなかったということになる。 違うな
最澄は比叡山に大乗戒壇をわざわざ作っているから大乗という名称は日本でも少なくとも平安初期から普遍的になっていただろう
ちなみに中国の法華や禅や華厳はもちろん浄土でもとにかく大乗仏教は小乗と同じ具足戒を受けるから大乗戒というのは最澄オリジナルかな 大乗寺
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E5%AF%BA
大乗寺(だいじょうじ)は、石川県金沢市長坂町にある曹洞宗の寺院。
山号は東香山、椙樹林、古くは金獅峯。僧堂がある。
江戸時代にここで清規(僧侶の修行規則)が再構築され、規矩大乗と称された。
周防正行監督、本木雅弘主演の映画『ファンシイダンス』のロケ地のひとつである。 8歳女児の強姦・殺害で宗教対立が激化 インド北部
https://www.cnn.co.jp/world/35117804.html
2018.04.16 Mon posted at 14:31 JST
ニューデリー(CNN) インド北部の州でイスラム教徒の8歳の女の子が強姦され、
殺害された事件を受け、現地のイスラム教徒とヒンドゥー教徒の間で敵対意識が高まっている。
大規模な抗議行動も起き、かねてより不穏な雰囲気の漂っていた地域の安定がさらに失われかねない状況だ。
事件が発生したのはインド北部のジャム・カシミール州。
警察によると同州で遊牧生活を営むイスラム教徒のコミュニティーに属していた8歳の少女が今年の1月12日、馬に牧草を食べさせていた際に拉致された。
少女はヒンドゥー教の寺院に連れて行かれ、5日にわたり監禁された。
複数の男に繰り返し強姦された後で首を絞めて殺され、17日に近くの森に遺棄されたという。
警察は少女の死亡に関連して男8人を逮捕。
全員がヒンドゥー教徒だったが、これに対して右翼系のヒンドゥー教徒の民族団体と州の弁護士協会が、
嫌疑の取り消し及び事件を中央捜査局(CBI)に委ねることを求めるキャンペーンを立ち上げた。
地元警察はイスラム教徒であるため、公平な捜査ができないというのがその理由だ。
先週には州の裁判所の外で、弁護士協会のメンバーが警察による容疑者の起訴を阻止しようとしたのをきっかけに、暴力的な抗議行動が起こった。
ジャム・カシミール州はヒンドゥー教徒の多いジャム地方とイスラム教徒が多数派を形成するカシミール地方に分かれる。
右翼系ヒンドゥー教徒の民族団体を率いるビジャイ・シャルマ氏は、同州で既に存在する宗教間の緊張関係に言及したうえで
「イスラム教徒は脅威であり、その人口は増加している」と指摘。
イスラム教徒に寛容な立場をとる州政府への不満を表明した。
一方で地元警察は、容疑者らを起訴できるだけの具体的な証拠があると主張する。
少女を拉致してイスラム教徒が多数を占める遊牧民に恐怖を与え、地域から追い出そうとしたとみている。 >>496-497
『大唐西域記』、『大慈恩寺三蔵法師伝』には玄奘が「大乗」を意識する場面があります。
大乗の『涅槃経』で否定された「三種の浄肉」を改めて否定するシーンなど。
『西遊記』でも玄奘が小乗を説いていたので観音の化身である僧侶が「大乗は説けぬのか」
と言い、西方に大乗仏典があるから取りに参れと言っていますよ。
『法華経』譬喩品にも、声聞乗・独覚乗に対する「大乗」の記述がある。
『大乗起信論』という古典もありますね。 阿弥陀如来とか極楽往生を説く浄土系の経典とゾロアスター教って
結構な共通点あるの? ゾロアスター教徒が北インドを支配したクシャン朝の時代かと思うんだが・・・ 仏教は山登りの理論だからな。
お釈迦様が悟りと言うものはこんなものだと提示して、
悟りに至る道はおのおの考えろとの放置プレイでいたから、
残された弟子達はそれぞれの道で悟り方を考えるわけで、
それが次から次へと新しいお経が出来た理由ではないかな? 放置かどうかはさておき、対機説法といって相手との機縁に応じて説くという概念はあります。
八万四千の法門と言われるのも、どこからでも入れるということ。
原始仏典の時点ではそこまで明確ではない気がしますが、それでも相手と場合に応じて同じ
ことを(後世よりは統一した内容で)説いておられたのは事実です。
対機説法を「応病与薬」と表現することもありますが、釈迦が自らを医師に喩えられたのも原始
仏典の時代から続いていることです。
経典が山ほどあるのが「法門」の数に応じてのことというのはその通りでしょう。
後世になって製作した人々も、そういう意味で「偽造」という意識はなかった筈です。
「偽経」かどうかの判定は古代からありましたが、作る側は少なくとも釈迦の教えを伝えるものと
して作っている。
最終的に「涅槃」に至ることが出来ればいい。
気に入らなければ解釈を変えるということは聖書に対する行動でも見られますが、仏教の場合
は気に入らなければ気に入る経典を探せばよいのです。
法然や親鸞といった人々が、延暦寺であれやこれや経や疏をひっくり返したのはそういう事。
聖書やクルアーンに対するのとは、向き合い方が違います。 >>511
ようは知らんけどなんとなくわかる
涅槃てのは要するに精神的な成熟ってこったろ 成仏をしたければで考えると、
禅の場合はとにかく自力で何とかしろに対して、
念仏は今生の生では無理だから、生まれ変わりを期待するのだなで
押し通すのだからなww
山登り理論で行けば確かにそれもありだなと笑うけど。 成仏はアイデンティティの変容だからな。
自分は、人間だとか、男だとか、女だとか、日本人だとか思ってるうちは程遠い。一歩も前進してない。 >>513
少なくとも浄土教(融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・時宗)では教義上「死後の世界」を認めなければ宗の教えが根底から覆るはずなんだがね。
にも拘わらず浄土真宗では原始仏典を持ち出して「来世は無い!」などと説く坊さんが結構いたりする。
むしろ「諸行無常は単なる方便で,仏の世界は永遠」と説く法華経を重視する日蓮系の仏教のほうが,素直に来世を認めていたりする。
法華経を重視する融通念仏宗は勿論,その他の浄土教でも「法華経は正規の仏説」が公式見解なわけで「法華経にあるとおり,仏の世界は永遠」と認めたほうが分かり易い教えになると思う。 戦後の浄土真宗は、「東西ともに左側通行」と言われていますから。
意識高い系の左派インテリが多いので、来世を堂々と信じられないのではありませんか。
色々な葬儀に出席した中で見ると、説教の仏典からの引用率がダントツで低いように思われます。
原始仏典からも来世(輪廻)が無いとは言えないと思うのですが、研究者でも自分が来世を信じていない
というので自分の考えに引き付けて無理のある来世否定をしている人がいます。 >>516
そういう連中は,我々が何のために葬儀や法事を行うか全く理解していないのではありませんかね。
「故人には今もどこかに存在していてほしい。我々を見守ってくれていてほしい」という願いがあるからで,もしも「死んだらそれまで」というなら仏式の葬儀など全く不要。
直葬するだけで話は終わりなんですが。
俗に「葬式仏教」と言うけれど,家族や友人を失って悲嘆に暮れている人々の心を慰め癒すことが出来ているのなら,それは立派な宗教で,何も恥じることなど無いわけです。
当の仏僧がそれを自らぶち壊しているのでは,仏式の葬儀がどんどん廃れていくのも当然でしょう。
ここで仏教が目覚めなければ「故人は神になって子孫を見守る」と明言する出雲系の神道や,死者の復活を説くキリスト教による葬儀ばかりになっていくかもしれませんよ。 >>517
いや、というか、浄土真宗はその点を捉えるなら、「実質的には直葬」でしょ?
人は死とともに一発往生して極楽浄土に逝ってしまう。だから中陰という概念がない。
この考えを基に、極楽浄土なるものに不可知論を持ち込めば、一種の無神論のようになる。
「俺らの手が届かない世界に逝った。語ることはできないし、語る必要もない。故人が幸せなことは確実だから安心しろ」
説法はこれだけになる。
浄土真宗は本質的に恐ろしくラディカルな宗派ですよ。あまりにアバンギャルドだから、
庶民の側で反動として、仏壇を巨大化したり、過去帳を崇拝の対象にしたりするけどw 浄土真宗は、他宗派で一般化してる般若経を否定してるんだよな。
浄土心経なんてのがあれば入りやすいのだが・・・ >>518
親鸞や後継者たちの説いた浄土真宗の教義に忠実なら,そんな感じかもしれない。
「浄土に往生した人のことは語り得ない・語る必要が無い」というのは真宗の教義と違うと思うが。
ところが現代の真宗僧(全員とは言わないが)はそうは言いたがらない。
清沢満之などの「浄土=無限の世界」という近代教学に難癖をつけて,唯物論そのものの話を散々聞かされた挙句「我らが拝むから阿弥陀仏がある」みたいに得々と言われたのでは「浄土なんて妄想だから」とケチつけられたのと何も変わらない。
「死は終わりではない」と明言しているのは,むしろ真宗大谷派と袂を分かった大谷暢順師(本願寺維持財団の門跡)のほうだったりする。 >>519
浄土真宗が般若心経を読まないのは真言(羯諦羯諦、波羅羯諦・・・)を含む経典を「必要としない」(と考えている)からであって,別に「あれはインチキ」などとは言っていないよ。
因みに法然の興した浄土宗や,一遍の興した時宗では,般若心経をちゃんと唱える。 浄土真宗に僧侶はないな
ただの儀式請負人兼寺の管理人 >>519
浄土系の「般若心経」に相当するのは、あの
「我、超世ノ願ヲ立ツ、必ス無上道二至ラン。斯ノ願、満足セスンハ誓テ…」
というあれなんじゃないの?
浄土真宗はこれも読まなかったかな?
浄土真宗は悪くないと思うが、勢至菩薩をディスるのだけはいただけない。
社会運動に不熱心なのも、勢至菩薩をディスるからだという指摘もある。 阿弥陀経が常用経典だから他のを読んでる暇あるならこれを詠んだほうが功徳あるんだわ まあ今の仏教を量子力学で例えると、
般若心経を唱える禅寺系は量子力学を真面目に5ちゃんねるの
科学板で語っているようなものだ。
スレ民いわく、言っていることは正しいかもしれないが、
何を言っているのかさっぱりわからんww
それに対して、念仏系は
般若心経なんて、言っていることは正しいのかもしれないが
さっぱりわからん。
それよりもパラレルワールドやタイムトラベルの世界に
入ってヒーローになろう、楽しんでしまおうと言っている
感覚だな。
時宗に至っては、バックツゥーザフューチャーみたいな
映画をリアルとして楽しめば良いと言っている感じでww 往生して極楽浄土に行って浄土で修行すると
その往生して修行する主体はなんなの?
浄土真宗でさえもアートマンは説かない無我説に立っているのだろうし、あるいは万が一アートマンだったとしてアートマンは清浄だから修行の必要などないよね
となると阿頼耶識とかその辺?あるいは仏性?
(仏性が往生すると聞いたことはないが) エネルギー保存の法則は常に成り立つが、質量保存の法則はそうではない。 >>526
あっさりと「往生する主体は魂だ」と答える宗派もある。
無我というのは「常住不変のものは無い」という意味しか無く,縁起(物と物との相互関係)によって常住不変ではないが肉体が存在するのと同様,縁起によって魂も存在すると考えれば矛盾は無い。
それでは幾らなんでも粗雑な議論過ぎると感じたのか「往生する主体は仏性だ」と,法華経を根拠に説く人も居る。
いずれにせよ「往生の主体は無い」というのは,むしろ仏教の教えの中では非常に少数派の考え方のようだよ。それは釈迦が否定した「断見(死んだら何も無くなるという考え方)」と同じだ。 「因果応報なるが故に来世なきに非ず、無我なるが故に常有に非ず」(阿含経)
輪廻の主体は魂とか阿頼耶識とか個我(ジーヴァ)とか真我(アートマン)ではなく単に業(カルマ)と説くのが本来の仏教
法華経だと輪廻するのは過去世に久遠仏から法華経を説かれた時に具わった仏種(仏から頂いた仏性)となる >>530
業というのは意思に近いものなのだよね。
少なくともある人間が生きている間に意思を有し,その意思を持つ主体が継続することは仏教も認めている。
そうでなければ「この前波羅夷罪(僧侶としての資格剥奪になる罪。殺人など)を犯した『私』と今ここに居る『私』は全く無関係な存在です」という言い逃れが許されてしまう(無論,実際には許されない)。
ならば「肉体が死んだ後も業は残る」と仏教の立場から考えることは十分に可能。
仮に「死ねば何も無い」というのなら,この世の苦から逃れるためには自殺すれば良いという安易な結論になりかねない。 坐してから、尊師は、鍛冶工の子チュンダに言われた。
「チュンダよ。あなたの用意したきのこの料理をわたしにください。また用意された他の嚙む食物・柔かい食物を修行僧らにあげてください」 と。
「かしこまりました」と、鍛冶工の子チュンダは尊師に答えて、用意したきのこ料理を尊師にさし上げ、用意した他の嚙む食物・柔かい食物を修行僧らにさし上げ た。
そこで尊師は、鍛冶工の子チュンダに告げられた。
「チュンダよ。残ったきのこ料理は、それを穴に埋めなさい。神々・悪魔・梵天・修行者・バラモンの間でも、また神々・人間を含む生きものの間でも、世の中で、修行完成者(如来)のほかには、それを食して完全に消化し得る人を、見出しません」 と。
「かしこまりました」と、 鍛冶工の子チュンダは尊師に答えて、 残ったきのこ料理を穴に埋めて、尊師に近づいた。
近づいて尊師に敬礼し、一方に坐した。
チュンダが一方に坐したときに、尊師は〈法に関する講話〉によってかれを教え、諭し、励まし、喜ばせて、座から起って、出て行かれた。
さて尊師が鍛冶工の子チュンダの食物を食べられたとき、激しい病いが起り、赤い血が迸り出る、死に至らんとする激しい苦痛が生じた。
尊師は実に正しく念い、よく気をおちつけて、悩まされることなく、その苦痛を耐え忍んでいた。
さて尊師は若き人アーナンダに告げられた、「さあ、アーナンダよ、われらはクシナーラーに赴こう」と。
「かしこまりました」 と、若き人アーナンダは答え た。
パーリ涅槃経からだけど、この時は尊師が「世の中で、修行完成者(如来)のほかには、それを食して完全に消化し得る人を、見出しません」と嘘をついてまで毒キノコを食べたのはなぜ?
悪魔との約束を果たすため?
あと尊師は【激しい病いが起り、赤い血が迸り出る、死に至らんとする激しい苦痛が生じた】のに周りの誰もが気づかなかったの?
【その苦痛を耐え忍んでいた】のを見ていたのは誰?
「クシナーラーに赴こう」「かしこまりました」・・・この時アーナンダは尊師の体に異変が起きていたのに気がつかなかったの? 自力・他力というのは、支那の浄土教が、北伝仏教中の他諸派と浄土教とを区別するために
生んだ言葉ですが、
https://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E5%8A%9B%E3%83%BB%E4%BB%96%E5%8A%9B-80954
私見では、マクロ的な見方をすれば、北伝仏教は全て他力・・「すべてのものを救済しようとする
仏(=人間主義者)の願いである本願(=人間主義の普及)の力」(上掲)・・、南伝仏教は全て
自力・・「悟りをひらいて仏になるため自己が修めていく修行の力」(上掲)・・、である、と言っても
良いと思うのです。
その上で、結論的に申し上げれば、自力で人間主義者になるのは、釈迦のような天才でない
限り、まず不可能であると思われるのです。それが、私の憶測などではないことは、歴史が
証明しているのではないでしょうか。
自力の道を採用した南伝諸国における、仏教のヒンドゥー教との混淆とその結果としての(?)、
タイにおける仏教のおぞましいまでの堕落、カンボディアでの仏僧として教育を受けたポルポト
による大虐殺、セイロンにおけるラフーラら仏僧達が事実上もたらした長期にわたる大惨劇、
ミャンマーで仏僧達によって現在進行中の民族浄化を想起してください。
自力の道は、大部分の人を狂わせてしまう魔の道である、とさえ言えそうではありませんか。 それとは対照的に他力の道は、取り分けそれを政治権力者が推進した場合、
成功する場合が相当あると言えそうです。アショーカ王は多分その最初の例であり、
彼が仏教徒になってからの施政は、
「彼の摩崖碑文などで・・・繰り返し伝えられるのは不殺生(人間に限らない)と正しい
人間関係であり、父母に従順であること、礼儀正しくあること、バラモンやシャモンを尊敬し
布施を怠らないこと、年長者を敬うこと、奴隷や貧民を正しく扱うこと、常に他者の立場を
配慮することなどが上げられている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E7%8E%8B
という他力(人間主義の普及)を絵に描いたようなものであったわけです。
それは、恐らく成功したに違いありません。しかし、その結果は、彼が受け継いだマウリア
王朝の瓦解という悲劇であったことを我々は知っています。人間主義者達だけでは、
内外の非人間主義者達に付け入られて、その社会は瓦解してしまうということなのです。
そして、日本だけが、この難問を生来的に解決した社会であり続けてきたわけですが、
この日本社会を研究し尽くした中共において、この日本社会をそっくり継受しようという
壮大な実験が行われるに至っています。
これらの仏教史及び、その延長とも言うべき人間主義史を振り返って、そこから学ぼうと
しない欧米の瞑想オタク達の極楽とんぼぶりは、絶望的であると言うべきでしょうね。 目が滑る
あまりお詳しくはないのに一生懸命に考えたのですね >>533-544
諸法無我
自他不二
なるぞ
自力も他力もないのじゃ 外教の師匠に100人殺せば修行が完成するだろうと言われて99人殺したアングリマーラ
親鸞に1000人殺せば極楽往生間違いないと言われて私の器では1000人どころか1人も殺せませんと清く断った唯円房 >>535
「目が滑る 」なんて使い方知らん。
どういう意味?
どこで使うの? >>392
釈迦は悟って解脱して不死の門は開かれたと言ってたんだから死に対しての恐怖はなく生き続けたいという望みもないものだと思ってたが
意外と生きることへの執着はあったんだな >>539
disってるわけじゃなくて親近感わいたって感じでも、そういう主張すると「まさにうそも方便とはこのことであり本来解脱とは云々」ってのがよって来るぞw
釈迦も委曲を尽くせなかったのになんでおまえがわかったようなこと言うの?って話なんだが >>392
>「修業を完成した人(如来)は、四つの大きな霊力を修したので、もし望むなら寿命のある限りこの世にとどまるであろうし、あるいはそれよりも長くとどまることもできるだろう」とほのめかしたではないか。
もし望むならというのは、自分でもっとこの世にとどまりたいと望むことなのか、誰かからもっとこの世にながくとどまってくださいと望まれることなのか、どちらなの?
そのあとに
>そのとき、お前はその意味が洞察できなくて、「尊師はどうか寿命のある限りこの世に留まってください」と懇請しなかったではないか。
>もしお前が懇請していたなら、二度目までは退けたかもしれないが、三度懇請されたなら承認したであろう。
こういってはアーナンダの罪と過失を責めているから後者(誰かからもっとこの世に長くとどまってくださいと望まれる)ぽっいけど、
でも分かりにくい。 >>544
>もし望むならというのは、自分でもっとこの世にとどまりたいと望むことなのか、誰かからもっとこの世にながくとどまってくださいと望まれることなのか、どちらなの?
如来に不可能はないから生き続けることは可能だと言ってるだけ。可能だが自らそれを望むことはない。
夏目漱石が英語の授業中に可能性についてこういう説明をしている。
「吾輩がここで逆立ちをすることは可能(possible)である。しかし、そんなことをするはずもない(not probable)」 以前>>392を読んでアーナンダの所為にしてひどいお釈迦様だなと思ったけど>>546に思い至った結果
お釈迦様が死んで「なぜ不可能はないはずの如来が死んだのか」問題に直面した坊さんたちが
アーナンダに責任を押し付けて「アーナンダが請願しなかったから如来が死んだ」という話を作ったなと感じたな。 アーナンダもアーナンダで修行完成者にあれだけ「お前の罪だ過失だ」とその失態を咎められたのに「ごめんなさい師匠」してないんだよね 普通に考えて、んなわけねーじゃんとしか思えないでしょ むしろ忖度で社会が回ってくのが是、ってのが仏教としか解釈できんね |lililililililililili/ .ヽlili| /:::::::,ヽ#"ヽ` "゛/ :::::|
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)人 > ⇒( 人( (i::i″ ,ィ__) i/
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反 知 性 主 義 者 現在では真宗の家でも神棚を祠っていられる家がかなりあるようです。
これは、一つには神国日本という明治以後の国家の方針によるものでしょうし、もう一つには真宗門徒の信心があいまいになってきた証拠といえましょう。
「祈(いの)れば神、拝(おが)めば仏」と教えられています。祈る心は何かを要求する欲望の心であり、拝む心は報恩感謝の念であります。
神に祈る心は、いわゆる「家内安全、商売繁盛、無病息災」であり、幸わせになりたいと願う心でしょうが、これは個人的なものであり、自分さえよければというエゴイズムの表われに過ぎません。
このような勝手なエゴイズムの要求を満して下さる神様があるでしょうか。神様を祠り、神に祈る心は、つきつめれば気安めに過ぎないのでしょう。
今、ここに、現にスバラシイ生命が与えられ、日々を生きている。その事実に目覚めよと教えるのが浄土真宗です。
浄土はあらゆる生命の故郷であります。この世にある間は、二度とない大切な人生を共に生き合い、肉体の生命が尽きれば生命の故郷へ帰るのです。
このスバラシイ生命の世界、浄土に目覚めて生きる時、ああして下さい、こうして下さいと注文することの身勝手さが知らされ、
神に祈る必要のない、尊厳なる生命の事実をあるがままえられて生かされながら、神に頼り注文の心に生きることは、
浄土を見失い、浄土に背くことになります。
長年祠ってきた神棚を取りはずすことに恐れを感ずるならば、その恐れの心はどこから来ているのかを問い、明らかにして、
スッキリとした健康的な精神生活を送っていただきたいものです。
http://www.icho.gr.jp/yomu/faq/q_a_032 他宗教排斥とか真宗大谷派やばいな
創価学会と同レベルじゃん 今の真宗大谷派は共産党に乗っ取られてしまったというから唯物論で原則宗教否定なのかもしれないな
大谷派は自宗を宗教ではなく哲学とか倫理学とか思ってるかもね 真宗の神祇不拝は昔からだろ
昔は角の立たない言い方してただけで 昔は誰の彼も神仏拝んでたけど、今の時代にうるさく神だけ拝むないったら、阿弥陀も拝む必要ねーじゃんとブーメランくるからな >>555
親鸞自身は何度も神社に参拝してるのにね 人は欲望からなるものと言われる。
人の欲望に応じ,人の意欲はつくられる。
意欲に応じ,行為はなされる。
行為に応じ,その人が定まるのである。
これについてこの詩句がある。
「人の表徴である思いがつなぎとめられているところ,そこ(天界)へ,行為の結果とともに,欲望 ある人は行く。」
「人がこの世でなしたあらゆる行為,その行為の 結果が尽きたとき,その人はあの世から再びこの世 へと,行為を積むために帰ってくる。」
これが欲望を持つ人のばあいである。
他方,欲望 がなく,欲望を離れ,欲望を満たし,自己を愛する, 欲望を持っていない人の場合は,
…… この詩句が ある。
「心臓に存在するもろもろの欲望のすべてから開放されるとき,死すべき者は,不死となる。この世 でブラフマンに到達する。]
(『ブリハッドアーラニ ヤカ・ウパニシャッド』の第4章4節5〜7)
http://www.classics.jp/RCS/NL05/NL05Naka.pdf#search=%27%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3+%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E5%93%B2%E5%AD%A6+pdf%27
この辺で仏教の土台ができてきてるね >>554
>大谷派は自宗を宗教ではなく哲学とか倫理学とか思ってるかもね
そもそもお釈迦様でも、新しい宗教を作ったとの意識は
なかったのでないの?
お釈迦様を宗教家認定したら、お釈迦様は自分は哲学者だと
言い返していたかもしれない。 (古代)インドという文化の中で、「法(ダルマ)」、「理法、世界の理(ことわり)」
などを思惟することは、人生そのもの、生きる意味であり、
他のあらゆるものよりも遥かに高い、唯一最上の価値(アルタ)なのだから、
哲学という呼称もまた、矮小に過ぎるのではないかな・・。
※その意味で、一般的謂いを踏襲して、
仏法を正しく歩む、生れに依らない修行者を(真の)バラモンと位置付けるかの如き教説があったりするくらいだから、
寧ろ「真のバラモン(≒梵行を完成させたもの)」とは自称しそう。 神秘と思想が不分離の時代で宗教だの哲学だの分けても仕方ない >>562
お釈迦様の時代は科学とも分離していなかったのではないかね。
お釈迦様は科学者気取りで解説していたのかもしれない。 インドの数学
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E6%95%B0%E5%AD%A6
紀元前400年から200年頃にかけてはジャイナ教の学者たちが数論などの抽象的な数学を進めた。
膨大な数を扱っていたジャイナ教徒は無限を5種類に分類し、集合論や超限数の概念や対数に関心を示した。
また、宇宙構造についての哲学から等差数列、組合せ数学などを研究した。
今を生きる古代宗教ジャイナ教
http://d.hatena.ne.jp/Hyperion64+universe/20140609
面白いのが渡辺研二氏による仏教との対比である。
仏教はその後興隆して思想的内容がどんどん新規なものが追加になる(富永仲基の加上である)が、
ジャイナ教はほとんど思想的内容は変化しなかった。その替り、インド亜大陸で残存勢力として継続している。
この欄で取り上げるのにはひとつ理由がある。教義の本質部分に「数学」がハマっていることだ。
ゴンタによれば、
数を甚だ愛好し、計算は幾何学的図形を用いて論証した点を特徴としている。
自らを思惟できる七線分の説の創始者と呼んでいる。
ある数の空間に一定数の原理を配分して、その最大数と最小数を求めたりしている
七線分の説とは七つの真実(タットヴァ)のことであろう。
しかも、その世界観に「原子説」が含まれる。霊魂と物質による二元論。
その物質とは原子からなるとしている。つまり、原子説は宗教と相容れないわけじゃないということだ。
こんな宗教家は少ない。ほとんど皆無であろうから、もう少し注目されてもいいのだ。
少なくとも現代の数学者の宗教選択として、ジャイナ教は候補にしてもいいんじゃないだろうか?
後世に同名の数学者マハーヴィーラを輩出しているのも頷ける。彼は専門の数学者(おそらく史上初)であった。
『ガニタ・サーラ・サングラハ』はジャイナ数学の最高峰とされる。その宗教数学はピュタゴラス学派と対照されてもよいだろう。 ジャイナ教は仏教と違い最初から新たな解釈を加える余地すらないほど教義が完成されてたんだな ヴァルダマーナって全裸だった以外は立派な人なのに六師外道の一人にされて可哀想 ジャイナ教も経典派やら無経典派や全裸派と白衣派で教義違ってんじゃん ジャイナ教の分裂
http://www.kamit.jp/03_jaina/4_south/south.htm
ジャイナ教の開祖はマハーヴィーラであるが、仏教における「過去仏」と同じように、
それ以前に23人もの<ティールタンカラ>(ジナ、祖師)がいて、
マハーヴィーラは第24代の、そして最後のティールタンカラであるとされている。
初代のアーディナータから第22代までは全くの伝説上の存在であるが、
第23代のパールシュヴァナータは歴史上実在したことが確認されている。
それはマハーヴィーラよりも250年ほども前のことと推定されているから、
ジャイナ教の歴史は仏教よりもずいぶんと古いことになる。
ではなぜマハーヴィーラが開祖とされるかというと、彼はパールシュヴァナータの教えを改革し、宗教として完成させたからである。
王族であるマハーヴィーラの両親はパールシュヴァナータの崇拝者であったというから、
すでに「パールシュヴァ教」というべき宗教が存在したのであろう。
マハーヴィーラの死後数百年たって、ジャイナ教誕生の地である北インドのビハール地方は12年間に及ぶ大飢饉に襲われたと伝える。
生存をおびやかされたジャイナ教徒たちは聖賢バドラバーフに率いられて、現在の南インドのカルナータカ州に落ちのびた。
これらは伝説であるので、どこまでが真実であるかは定かでないが、
それでも西暦紀元ごろに南インドにジャイナ教が到来していたのは確かなようである。
そしてまた、この頃までにジャイナ教は<ディガンバラ>(空衣派、くうえは)と
<シュウェターンバラ>(白衣派、びゃくえは)とに分裂していたらしい。
伝説によれば、バドラバーフが北インドに戻った時、
北インドにとどまっていたジャイナたちは白衣を着するようになっていて堕落の兆候を見せていたために、
これと袂を分かち、裸行の厳格派たる空衣派を南インドに確立したのだという。
しかしそこには北インドと南インドの気候の差も反映していたかもしれない。北インドの冬は裸で生活するためにはいささか寒い。
そして空衣派と白衣派との間に、教義上の差はほとんどないからである。 結局ジャイナ教は金貸しをやるしかなくなったのだけど、
インドの社会では金貸しは嫌われなかったのかなぁ?
仏教のほうも教義の確立には金貸しの実務家がかかわった形跡があるけど、
マジで金貸しは蔑まれなかったのかなぁ? ジャイナ教徒は不妄語戒を固く守って正直だから商売人や金融業として信頼されるのだろう。
特にインドは値段とかあってないようなものだから安心して取引できるところが長く商売やって最終的には勝ち組になるのかもね。
仏典で仏陀がジャイナ教のマハーヴィーラ(ニガンタ )の弟子のウパーリを問答で打ち負かして
最後は降参させて仏陀に帰依させるのがあるんだけも仏陀のロジックは稚拙で簡単に論破できるのにと思った記憶があるな。
それとミリンダ王の問いが内容が稚拙だと思った二大仏教経典。 悪いと知ってて罪を犯すのと知らずに罪を犯すのとどっちが罪深いですか?
火(だったか湯だったか忘れたけど)が熱いと知って触ればひどい火傷は避けられます。
知っててやる方が軽症です。
納得いかん。 >北インドの冬は裸で生活するためには いささか寒い。そして空衣派と白衣派との間に、教義上の差は ほとんどないからである。
空衣派は女性の出家者を認めないのに対して、白衣派は認める。
これは女性の解脱を認めるものと認めないのと等しいわけで、これはわりと大きな教義の差だと思うが >>571
悪いことを悪いと認識してるかどうかの話じゃないの
悪いと認識せずに行うものはそれを改めようとも思わない ニガンタの論だと身の鞭(業)が一番罪深いのだが罪を犯している時点で身の鞭についてはイコール、
次に情状酌量の余地として罪と知ってるか知ってないかが来てそこで意の鞭となるのだろう。
何にもおかしくないのに仏陀はこれで身の業よりも意の業の方が罪が重いということにしてウパーリをやりこめたんだどどうしてそうなるのか?
それで納得するウパーリもおかしい。
身の鞭で等しければ意の鞭で判断するのです、と言えば良かっただけの話。
最後は神通力は意の業だが神通力を使って人を殺したら身の業はなにもしてないのに意の業だけで罪を犯していませんか、と仏陀が言う。
それでウパーリもまた納得してしまう。
神通力というのは使おうと思ったら意の業だが実際に思っただけで使わなかった場合のみ意の業のままですみ、神通力を使ったらそれは身の業と言ってもいいのではないか?
しかしウパーリは仏陀の智慧に感銘して在家信者となりニガンタはそれを聞いてショックで血を吐いてしまうのだから仏教側に都合よく出来過ぎだわ。
これはパーリ中部の経典だけど創作経典だと思う。 >>571
悪いと認識出来ないんだったら、しょうがないんじゃないのかな。
その火傷のケースはすぐに結果が出るから、判然としやすいけど、
数十年先に結果が出る、判然としない事は、罪に問う事もない。
少子高齢化への無策などが、将来的に社会に悪影響をもたらすものであっても、
はっきりしないが故に、自責し、反省する事もなければ、罪と認知して、罪に問う事もない。 >>575
>悪いと認識出来ないんだったら、しょうがないんじゃないのかな。
普通はそう思うでしょ?でもミリンダ王の問いは逆なんだ。
認識してやるのは罪が軽くて知らずにやるのは罪が深い。 人を殺した↓
1「人と殺してしまった・・・・・」(悪いことしたと分かっている)
2「はぁ?殺して何がわりーんだよ」(俺は悪くない)
「罪」というとわけわからんが、2の方がサイコで危険人物感すごいだろ >>577
そのケースは特殊だが、復元力はあるな。
(権力者がサイコの場合を除く。)
2「はぁ?殺して何がわりーんだよ」(俺は悪くない)
↓
社会問題化する。
↓
社会の秩序を守るために、サイコ以外のマジョリティが新しい規範を要求する。
↓
サイコを殺しても罪に問わない、またはプリクライムが行われる。
(前近代の私的制裁を許す社会か今のアメリカになるな。)
↓
2は消滅して、1だけが残る。
(罪を認識できずに犯すのは、知能の程度が低いものだけに。) 刑法第39条
心神喪失者の行為は、罰しない。
心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。
https://ja.m.wikibooks.org/wiki/%E5%88%91%E6%B3%95%E7%AC%AC39%E6%9D%A1
今でも精神障害者の悪行為は障害の度合いに応じて罪に問われないか減刑される罠 >>571
しつけのためと称してお湯を1歳児にかけるのは正しいこと、法的にも正しいと
信じていてそれを行うのを確信犯という。
それは虐待で犯罪行為になると知りながらやるのは、普通の犯罪。 「知っていて」というのは、それが「悪行」だと知っていて、ということか・・。
たとえば、エホバの輸血拒否。
確かに、命にかかわる悪行かもしれん。
けれども、 ≪当人たちにとっては≫、 輸血をすることこそ、避けるべき・忌むべき悪行なわけで・・・。 ミリンダ王の問いのは過去世の世尊(仏陀)が美王女を見るや否や、心乱れ、錯乱し、愛染しました。
常軌を逸し、動乱した心をもって動物何百頭を殺戮して血を飲む大ソーマ供犠祭を開いてしまう。
この過去世の世尊の乱行は乱れた心でやってしまったもので大罪ではないというもの。
https://gamp.ameblo.jp/nibbaana/entry-10677245206.html >>572
>これは女性の解脱を認めるものと認めないのと等しい
仏教でも摩訶波闍波提までは女性の出家が認められてなかったのは「男女混合での修行に対応してなかった」というだけの理由だぞ。
釈尊は初めから女性の悟る能力を認めてる。 >>579
意の業ってのが分からんけど、日本の裁判だと1は反省してるので検察の求刑より下、2は無反省なので検察の言う通りってのがよくあるよな >>584
>釈尊は初めから女性の悟る能力を認めてる。
すると法華経の竜王の娘が悟るために一旦男になる必要があるというのはいつ頃からそうなったの? >>579
人の身口意は37兆個の細胞の行動によって形作られるから、三業の軽重はどれも同じ。 日本の仏教は江戸時代まで神仏習合の独自形態だった。
もし明治の神仏分離をやらなかったら、上座部・大乗・ラマ教の
3大仏教と並んで4大仏教と呼ばれていたのだろうか。 友達から教えてもらったパソコン一台でお金持ちになれるやり方
興味がある人はどうぞ
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258 極楽浄土っていうのは六道輪廻の天界とはまた違うんだったよな? だよね
ちなみに天界の住民は極楽浄土や他の仏国土に転生して行けないの? >>593
天界の住人も修行して輪廻を解脱すれば仏国土に行ける >>589
明治政府の神仏分離は根本的に間違い。
上座部仏教の仏子には必ず、守護神・帝釈天がついているからね。
その守護神は三社式の神社で祀っている。
ちなみに大乗仏教を呼ばれる道教やジャイナ教にも神がついている。
道教は二社式の神社。ジャイナ教は八幡宮。ジナ教は大社で祀るもの。 尊師はアーナンダに「如来は望むのなら寿命を超えて生き長らえることができる」とほめのかしたのに、
アーナンダはその心が悪魔に取り憑かれていたので洞察することができなくて「尊師は寿命のある限りこの世に留まってください」と懇願することができなかった。
そこで悪魔はこの機を逃さじと尊師のもとに駆け寄り、「尊師の弟子たちも今は立派になりました。今こそ涅槃に入ってください。今こそ尊師がお亡くなりになるときです」と何度も懇願したのだが、
尊師はそれを受け入れ今から三ヶ月ののちに涅槃に入るであろうと悪魔に対して言う。
もしアーナンダの心が悪魔に取り憑かれてなかったらゴータマはもっと長生きしていたであろう。
またアーナンダは阿羅漢まで達してなく未熟だったので心が悪魔に取り憑かれてしまうようなことになったのである。
尊師はそんなアーナンダを心配して、あのとき洞察することができなかったのはお前の罪ですよ、過失ですよ、と諭してやって早く一人前になるよう促してやったわけである。 しかし仏教は習合大好きだなww
あのイスラム教ですら習合して、輪廻転生を認めるイスラム教の一派
すらあるのだからな。
そのてんキリスト教は、仏教とは習合しなかったな。
昔はグノーシス派だの、カタリ派だの、マニ教だのと明らかに仏教と習合した
のがあったのだけどな。 >>599
地理的に広がっていくと習合は避けられない
メキシコの黒いマリア様は有名 ・・・中国メディアの捜狐・・・記事は、明治政府が太政官布告(だいじょうかんふこく)を発令し、
肉食妻帯などが許可され日本の仏教は大きく変わったと紹介した。
この背景について記事は、多くの宗派に分かれた日本の仏教が、乱世で生き残るため
それぞれ条件を緩くしたほか、殺生に関しても、内乱の時代に僧にも武装をさせたことから
許されるようになったと説明。状況ゆえに仕方がなかったということなのだろう。
記事は、日本の仏教は俗世により近いと分析、「野心と利益のために俗世の争いに巻き込まれ」
今の形になったと結論付けた。
http://news.searchina.net/id/1664529?page=1
いや、日本じゃ最初から、仏教の戒律じゃなく、精神(核心)に注目する傾向があったんだよ。 戒律こそ仏教の核心だったんだけど日本人にはそれが理解できなかった
大パリ・ニッバーナ経ブッダ最後の言葉
「また、生き方の規範となる戒律もすでに定められている。
真理と戒律。
この2つをそなたたちの師と考え、修行を続けていきなさい」
「よいか修行僧たちよ。今こそ、そなたたちに最後の教えを告げよう。
あらゆる存在は過ぎ去っていく。怠ることなく修行に励みなさい」
修行に励め=戒律を守ることは同意義だったんだが、日本人にはその真理を掴むことができなかった 仏教は掲示宗教ではなく釈迦は絶対神の託宣を受けたわけではない
釈迦は釈迦なりのアプローチで真理に至って当時の時代環境に即した方法論を説いたに過ぎない
大事なのは月であって月を指す指では無いって事 >>606
それは戒律が核心じゃないってことにはならないよね 戒律が自体が重要ではないというのは理屈ではあるんだが無限に堕落する一歩でもあると思う
逆に原理主義になっても困るけど 真理とか核心ってのを固定した時点で、ブッダのアドバイス集が教典になっちゃったってのはあるな >>609
それな
キリストやムハンマドと釈迦は違うんだよ アーナンダよ 、わたしは 、ある時 、ラージャガハ (王舎城 )のギッジャクータ (霊鷲 )山に住していた 。
そこで 、アーナンダよ 、わたしはいった 。
〈アーナンダよ 、ラージャガハは楽しい 。ギッジャクータは楽しい 。
アーナンダよ 、誰でも 、四つの神足を習い修め 、いくたびも繰り返して 、それに精通し 、それに乗り 、それによって立ち 、それを積み重ねてゆくと 、
アーナンダよ 、彼がもし欲するならば 、一劫でも 、それ以上でも 、生を保つことを得るであろう 。
そして 、アーナンダよ 、如来もまた 、四つの神足を習い修め 、いくたびも繰り返して 、それに精通し 、それに乗り 、それによって立ち 、それを積み重ねてきたので 、
アーナンダよ 、もし欲するならば 、如来は 、一劫でも 、それ以上でも 、生を保つことを得るであろう 〉と 。
だが 、アーナンダよ 、如来によって 、このような広大な兆が示され 、広大な光が示されたのに 、そなたはそれを悟ることができなかった 。
だから 、如来に請うて 、 〈大徳よ 、世尊は 、一劫の生を保ちたまえ。大徳よ、善逝は 、一劫の生を保ちたまえ 。
衆生の利益のため 、衆生の幸福のため 、世間の哀愍のため 、人天の利益のため 、幸福のために 〉と申さなかった 。
アーナンダよ 、もしそなたが如来に願ったならば 、如来は 、あるいは 、二度まではそなたのことばを却けるかもしれない 。だが 、三度目には許されたであろう 。
だから 、アーナンダよ 、これ(「わたし=如来」の死)はそなたの悪作である 。これはそなたの落度である 。 ブッダ最後の旅の随伴者がアーナンダじゃなくて既に悟りを得た阿羅漢の誰かだったら
ブッダが如来は一劫でもそれ以上でも生を保つことができると言った時点で気づいてブッダに一劫の生を保ちたまえと懇願したのだろう
一劫というのは宇宙単位で長い時間とされてるからブッダは現在でも生きていたのであろうな。 @ある時 、また 、アーナンダよ 、わたしは 、おなじラ ージャガハのニグロ ーダ (尼拘律陀 )園に住していた 。 … …
Aある時 、また 、アーナンダよ 、わたしは 、おなじラ ージャガハのチョ ーラ崖に住していた 。 … …
Bある時 、また 、アーナンダよ 、わたしは 、おなじラ ージャガハのヴェーバ ーラ (毘婆羅 )山腹なるサッタパンニ (七葉 )窟に住していた 。 … …
Cある時 、また 、ア ーナンダよ 、わたしは 、おなじラージャガハのイシギリ (仙人 )山腹のカ ーラシラ ー (黒石 )窟に住していた 。 … …
Dある時 、また 、アーナンダよ 、わたしは 、おなじラ ージャガハの寒林サッパソ ーンディカ (蛇頭 )岩に住していた 。 … …
Eある時 、また 、アーナンダよ 、わたしは 、おなじラ ージャガハのタポ ーダ (榻補 )園に住していた 。 … …
Fある時 、また 、アーナンダよ 、わたしは 、おなじラ ージャガハのヴェ ールヴァナ (竹林 )なる栗鼠養餌所に住していた 。 … …
Gある時 、また 、アーナンダよ 、わたしは 、おなじラ ージャガハのジ ーヴァカアンバ (耆婆菴羅 )園に住していた 。 … …
Hある時 、また 、アーナンダよ 、わたしは 、おなじラ ージャガハのマッダクッチなる鹿野苑に住していた 。 … …
Iある時 、また 、ア ーナンダよ 、わたしは 、ヴェ ーサ ーリ (毘舎離 )のウデーナ (憂園 )廟に住していた 。 … …
(11)ある時 、また 、アーナンダよ 、わたしは 、おなじヴェーサ ーリのゴータマカ (瞿曇 )の廟に住していた 。 … …
(12)ヴェーサ ーリのサッタンバカ (七聚 )の廟に住していた 。 … …
(13)ヴェーサ ーリのバフプッタ (多子 )の廟に住していた 。 … …
(14)ヴェーサーリのサ ーランダダ (沙羅 )の廟に住していた 。 … … 」 >>614において
… …で省略してる部分だが、この部分はは>>611の
>そこで 、アーナンダよ 、わたしはいった 。
から
>だから 、アーナンダよ 、これはそなたの悪作である 。これはそなたの落度である 。
までの記述がされている(違いは楽しいといった場所が違うだけ)。
つまり15回はアーナンダの悪作(罪)と落ち度を咎めているのだが、実は>>611の前にも悪作と落ち度を咎めているので、
釈迦がアーナンダに対して「これはそなたの悪作である落ち度である」と咎めたのは16回である。 なんでアーナンダにそういうことを言ったのだろうか?
(この文章が正しく伝えられたという前提で) 最後の旅の随伴者は、アーナンダだけでは無かったはず
なぜ彼だけにその様に言ったのだろうか? >>617
アヌルッダという仏弟子の中でも大物(天眼第一)が最後の旅に同行しているね。
そのアルヌッダから聞いたのかそれとも他の同行者から聞いたのか分からないけど、
第一結集前にアーナンダは、マハーカッサパから六つの罪を数えられて、懺悔を迫られています。
その六つの罪とは、次のようなものです。
(1)世尊は入滅の際に「些細な戒は廃止してもよい」とおっしゃったが、「些細な戒」とは具体的にどの戒を指しているのか、傍に居ながらアーナンダが問わなかったこと。
(2)世尊の大衣を足で踏んだこと。
(3)女性の出家を、再三世尊に請うて、正法の滅亡を早めたこと。
(4)世尊が入滅される前に、世のために、延命を請わなかったこと。←←←
(5)世尊が入滅される前に、「水が飲みたい」とおっしゃたとき、水を差し上げなかったこと。
(6)女性に、世尊の御遺骸の礼拝を許し、そのために御足が汚れたこと。
アーナンダは、これに対して一々事情を述べて、自分に非があるとは思わないけれども、マハーカッサパを信じているから、懺悔せよと言われるのなら懺悔しましょうと応じています。 >そのアルヌッダから聞いたのかそれとも他の同行者から聞いたのか分からないけど、
聞いた人はアーナンダに懺悔せよと言ったマハーカッサパね そこで長老比丘たちは尊者アーナンダに言った。
友アーナンダ、あなたは何が小小学足であるのか先生に問わなかった。これをドゥッカタ(悪作、罪)として懺悔しなさい。
先生たち、私は忘念して何が小小学足なのか先生に問いませんでした。私はドゥッカタであるとは見ません。しかし尊者たちを信じるがゆえにこれをドゥッカタとして懺悔します。
友アーナンダ、あなたは先生の雨浴衣を踏んで縫った。これをドゥッカタとして懺悔しなさい。
先生たち、私は尊重しないがゆえに先生の雨浴衣を踏んで縫ったのではありません。私はドゥッカタであるとは見ません。しかし尊者たちを信じるがゆえにこれをドゥッカタとして懺悔します。
友アーナンダ、あなたは女性たちに先に先生の遺骨を礼拝させ、彼らが泣くことによって先生の遺骨が涙に濡れた。これをドゥッカタとして懺悔しなさい。
先生たち、私は非時に至ることを恐れたがゆえに女性たちに先に先生の遺骨を礼拝させました。私はドゥッカタであるとは見ません。しかし尊者たちを信じるがゆえにこれをドゥッカタとして懺悔します。 友アーナンダ、先生は広大の相を示し、広大の現を示されたのにあなたは先生に請いて「先生、一劫住してください。善逝、一劫住してください。衆生の利益、衆生の安楽、世間の哀愍、人々と神々の義利と利益と安楽のために」と言わなかった。
これをドゥッカタとして懺悔しなさい。
先生たち、私はマーラに覆われていたために先生に請いて「先生、一劫住してください。善逝、一劫住してください。衆生の利益、衆生の安楽、世間の哀愍、人々と神々の義利と利益と安楽のために」と言わなかったのです。私はドゥッカタであるとは見ません。
しかし尊者たちを信じるがゆえにこれをドゥッカタとして懺悔します。
友アーナンダ、あなたはつとめて女性が如来の説いた法と律において出家することを得させた。これをドゥッカタとして懺悔しなさい。
先生たち、あのマハーパジャーパティー・ゴータミーは、先生の乳母・叔母・養母・ほ乳母であって生母が亡くなられてから後に先生に乳を与えられたと考えたがゆえにつとめて女性が如来の説いた法と律において出家することを得させました。
私はドゥッカタであるとは見ません。しかし尊者たちを信じるがゆえにこれをドゥッカタとして懺悔します。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=951429&id=29943857 そんなアーナンダを身辺においていた歴史的存在としてのブッダの反世俗性、反世俗倫理と反差別主義者としての確固たる自覚と、
高位の弟子たちの時代性に囚われた世俗的差別主義者ぶりの対象が鮮やかだね。 今の仏教の系列は、全て阿難の弟子の系列から続いていると見ている
阿難尊者は、多くの後継者を養成したすごい人なんだけど
釈尊は何を阿難に伝えたかったのだろう 法華経だと阿難は授記の順番からして史実で結集ギリギリで阿羅漢になれたというのを踏まえて最後の方で授記を受けるように舎利弗と比べてかなり目立たない位置付けだけど、
その法華経を正法とした道元は阿難尊者にわりと敬意を持っていたように感じる。
仏法を伝えてくれたことに感謝しているのかもしれない。
人身得ること難し、仏法 値うこと希なり、
今我等 宿善の助くるに依りて、已(すで)に受け難き人身を受けたるのみに非ず、遭い難き仏法に値い奉れり、
生死(しょうじ)の中の善生(ぜんしょう)、最勝の生なるべし、
最勝の善身を徒(いたず)らにして露命(ろめい)を無常の風に任(まか)すること勿(なか)れ。 「奉請三宝」
南無十方仏.
南無十方法.
南無十方僧.
南無本師釈迦牟尼仏.
南無大慈大悲救苦観世音菩薩.
南無啓経阿難尊者.
釈迦牟尼仏
観世音菩薩
と並び称される
阿難尊者
すごくね? サーリプッタの仏法と
マハーカッサパの仏法と
五比丘やヤサの仲間辺りの仏法と、
更にはマハーパジャパティやキサーゴータミー、ウッパラヴァンナーの仏法などは、
決して同一ではなかろうて。
当然、阿難には阿難の仏法があり、それはそれで、彼にとっての真実であり金口の説法であり、
伝承の上では、現在に繋がる系譜の一部ではあろうが、
「もし、舎利弗の仏法が継承されていたら」今とは全く異なった勢力図(伝播地域)であったろうし、
官制仏教なぞ生じなかったかもしれんw
つーか、 現存仏教は、全て摩訶迦葉の系譜だ、というのが、より蓋然性の高い推論だろうとは思うけど・・。 >>625
思考の三宝って概念に修行中の身である「僧」を含めちゃってるからな
そういうところがダメだからインドで廃れたんだと思うけどw 僧は個人ではなくて組織全体のことだが
それに所属する個人はビク、女ならビクニ >>628
でも、戦時には、国が敵であるだけでなく、個人も敵と見做すし、そう思えてくるよね。
組織を憎んで人を憎まず、が難儀なのと同様、
組織を敬って個人を敬わず、とはいかないでしょ。
チームが優勝したら、自分も優勝したことになるわけだし。
このチームを応援してください=私たち・私を応援してください、でしょ?
所属集団とその構成員は一体だよ。
暴力団然り、スポーツ団体戦或いは国対抗然り、民族問題然り。
スリランカにしろミャンマーにしろ、或いはアメリカの白vs黒にしろ・・・。 >>628
僧伽(サンガ)は元来,集団,共同体の意味で,修行者の集り,教団を指すが,中国では転じて個々の修行者を僧とよぶにいたった
(その複数形をあらわす僧侶もまた,日本では個人を指す語に転化した)。 龍樹とか世親は龍樹菩薩、世親菩薩とは呼ばれても龍樹比丘とか世親長老、世親尊者みたいな呼ばれ方をしないのは何故?
比丘とか長老とか尊者は小乗仏教で使われる呼称だから? >>622
アーナンダよ釈尊が実際には身のまわりに侍る人としては殆んどアーナンダ一人をつれて遍歴していたという事実は重要である 。
また亡くなったときにはアヌルッダも来合わせていた 。
そのほかどれだけの弟子が同行していたか 、よく解らぬが 、ともかく 、かれは仏教の開創者として権威はもっていたけれども 、実際は引退して隠居のような恰好であったのであろう 。 【キューバ米大使、浅田真央】 オウムも使用マイクロ波、戦艦大和に搭載予定だったマグネトロンが原型
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1536114063/l50
韓国フィギュア卑怯! 沖縄知事の癌はマイクロ波によるテロ? 君が代拒否の安室奈美恵も狙われてる? >>626
少なくとも禅宗は拈華微笑のエピソードから摩訶迦葉の系譜だという意識はあるだろうね 『大般涅槃経』には思想的に重要な問題がいろいろ示されているが、中でも注目すべきものは、入滅の解釈である。
この経典の編纂者たちにとっては、仏陀のような神的存在が普通の人間と同じ死を迎えるというのはあり得ないことであった。
仏陀の入滅には、必ずや特別の理由がなければならない。
そこで、経典は、仏陀に寿命の延長を懇願しなかった アーナンダの過失をあげ、仏陀の教化の因縁が完了したことを悪魔によって告げさせ、
かくして仏陀がみずからの意志で残りの寿命を捨てられた、と説く。
これは、仏陀の入滅が化縁完了による任意捨命であるとする解釈であるが、ここには歴史的存在としての仏陀から、永遠の存在としての仏陀への関心がはっきり示されている。
かかる仏陀観は、後の『無量寿経』や『阿弥陀経』において展開したアミターユス(無量寿)の観念や『法華経』の 「如来寿量品」における久遠仏の思想、
あるいは大乗の同名経典『大般涅槃経』における 如来法身常住の思想につらなるものであり、その思想的意義は大きい。
この点からしても、 『大般涅槃経』は、仏陀の「大いなる死」の歴史的事実に即して、その宗教的真実を明らかにしたものと言うことができるのである。
http://todaibussei.or.jp/ebacknumber/02_01_061.pdf >>74
ところがジャイナ教徒はインドのユダヤ人と言われる位商売が上手くて富裕でインド経済を廻す存在。 >>637
むしろ自分達のことは上位カーストだと思ってるよ ジャイナ教徒は仏教徒以上に嘘をつかない
インド人と商売する場合はジャイナ教徒以外の商売人はボッタクリしそうなイメージがある
取り引きはジャイナ教徒であるかどうかを確認してからの方が良さそう 釈迦は新しい宗教の創始者に成ったつもりなど無いまま亡くなったと思われるが、
彼の死後、人々の間で釈迦物語とでも言うべきジャータカが流布し始め、
それと並行して、釈迦の考えを祖述したと称する仏典類が編纂され、初期仏教
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E6%9C%9F%E4%BB%8F%E6%95%99
が成立する。
この時、「村娘のスジャータから乳糜の布施を受け・・・気力<が>回復」した後、
瞑想を実践し・・・た」(前出)という、釈迦の実際の悟りのプロセスから、スジャータ云々の
部分が仏典類が祖述する悟りの方法論からは落とされてしまった、と私は想像する。
理由は、それが釈迦自身の言動ではなかったからでは、とも。
他方、ジャータカの中では、それが釈迦の悟りの方法の一環として、場合によっては、
それこそが悟りの方法として叙述されることがあった。
更には、釈迦はそれに類することを行うのを旨とした、的なことさえ叙述されることがあった。
ジャータカの方が、というか、ジャータカの中には、釈迦の考えを仏典に比して、より的確に
描写しているものがあった、ということだ。
この結果、仏教は成立した瞬間から、釈迦の考えとは乖離することとなった、と想像される。
実際には、釈迦は、スジャータから布施を受けた瞬間に悟ったのではないか。
人は人間(じんかん)主義的に振る舞い続ければ人間主義者に成るし、人間主義者が
他人に人間主義的に振る舞い続ければ、いつかその他人も人間主義者に成るのであって、
悟りとは、この因果関係を自覚する事だ、と。
その後に釈迦が行った瞑想は、恐らくはサマタ瞑想、ヴィパッサナー瞑想の順に
行われたのだろうが、何のことはない、実のところ、まずは雑念を払った上で、つまり
サマタ瞑想をした上で、改めて、上記のような意味での悟りを自らに叩き込んだ。
つまり、ヴィパッサナー瞑想をした、というだけのことではなかったのか、と。 付け加えれば、戒律なるものは、更にその後、釈迦が考え出したところの、非人間主義者
が大多数を占める一般社会から人間主義社会を守る為の結界のような物、と考えられる。
どうして、そんな結界を設ける必要があったのか、いや、そもそも世の中の人々が全員、
人間主義者に成っていないのはどうしてか、までは釈迦は解明できなかった、或いは、
解明し、打開策を見出す前に亡くなってしまった、ということになるが・・。
仮にこの私の新仮説が正しいとすると、戒律と共に、釈迦の行った2種類の瞑想を継承した
南伝仏教も、釈迦の行った瞑想中1種類だけを継承する一方で他人を悟らせる努力を行う
ことを旨とした北伝仏教も、どちらも、他人はもとより、自分すら悟らせることなどできない
という点では変わりがないのであって、どちらも釈迦自身の考えとは、肝心な点において
似て非なるものである、ということになりそうだ。
そうだとすれば、それは、北伝仏教に触発されて日本で生まれた、仏教宗派ならぬ、
鎌倉仏教なる新宗教、私の言うところの人間主義教だけが、釈迦の考えに即した
「宗教」である、ということにもなりそうだ。 「さあ 、修行僧たちよ 。お前たちに告げよう 、 『もろもろの事象は過ぎ去るものである 。怠ることなく修行を完成なさい 』と 。 」
これが修行をつづけて来た者の最後のことばであった 。
この後、釈尊は禅定に入った。
初禅から順次段階を上げ、八番目の非想非非想定から更に滅想受定に入った。
アーナンダは尊師が滅想受定に入ったとは見抜けずに側にいたアヌルッダに「尊師はニルヴァーナに入りました」と早とちりして言った。
しかしアヌルッダは不眠不臥の誓いを立てて禅定し続け遂に天眼を開き悟りを得た高弟である。アーナンダにこう言って諭す。
「友 、アーナンダよ 。尊師はニルヴァーナに入られたのではありません 。滅想受定に入られたのです 」。
その後も釈尊は禅定を続けるが、今度は順次段階を下げ初禅に帰ったあと、また段階を上げ第四禅に入ったあとに完きニルヴァーナに入るのであった。
この時に大地震が起きまた天は雷鳴を轟かしたという。
アヌルッダ
http://buddha-tree.com/2013/07/17/332/ 神社に伝わる仏画は”東アジアの至宝”だった? 佐賀 唐津
https://www2.nhk.or.jp/news/nsearch/query.cgi?col=news&charset=utf-8&qi=3&qt=%E5%94%90%E6%B4%A5%E3%80%80%E6%A5%8A%E6%9F%B3%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%83%8F
まあ、こっちが出てきたが
もし上のサイトが半島人に書き換えられたのなら泥棒が目を付けてるって心配も・・・ 中期密教に最も忠実なのは日本の真言宗だと聞いたことあるけど
ひょっとして唯識特に有相唯識派に最も忠実な部派、宗派で現存しているのは日本の法相宗? 超逆境クイズバトル!!99人の壁 古舘伊知郎が生涯クイズ初挑戦!2時間SP★1
仏教古舘 >>674
チベット密教の唯識は、無相唯識だろうか? >>188
最近、こういうニュースがあったよ。
玄奘三蔵描いた仏教国か アフガン中部で経典写本を発見
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO47832930W9A720C1CR8000/
アフガニスタン中部のメス・アイナク遺跡が、
『大唐西域記』に記述のある弗栗恃薩儻那国(ヴリジスターナ)だった可能性が高まっている。 瀬戸内寂聴 病気で亡くなった方はあの世で痛みから解放されたのです
https://grapee.jp/717481
瀬戸内寂聴 戦争する日本を残しては死ねません
https://grapee.jp/716090
この発言はこのように言い換えることができるのです。
「核ミサイルで亡くなった方はあの世で苦しみから解放されたのです」
要するに、仏教者は殺すことはしてはいけないけど、殺されるのは黙って殺されろ
ということなんですが、これは仏教者としてはまったく正しい態度なわけです。
皆さんはなんだと?と思うでしょうけど。理解できないというならこのエピソードを
読んでみてください。↓というのは仏教の開祖自体がそう説いているからです。
釈迦族の滅亡
http://kusyami.com/kusyami/kao_3.html つまりお釈迦さんが母国である釈迦国を滅ぼされるのを、あえて止めなかったのは、
それが母国が行った同和差別に対する因果応報だということを理解していたからだ
ということなんです。もちろん当時のインドの宗教界の有名人であり、各国王侯貴族
の人脈を持っていたお釈迦さんのことですから、コーサラ国の軍事侵攻を止めること
もできたでしょうし、母国に軍事侵攻を警告して備えをさせる事もできたでしょう。
これと同じことを今しているのが、ダライ・ラマ14世です。
チベット族とチベット文化は中共に同化されて、あと一世代もしないうちに無くなって
しまうでしょうが、民族や文化に執着して、それが傷つけられることによって苦しんで
いる衆生も、チベット民族が滅亡することによって済度されることになるからです。
ですから仏教的には、憲法9条が空文であり、それが戦争の抑止に全く役に立たない
ということは分かった上で、もし他国の侵略を受けるなら、それは日本国や民族が持つ
何らかの因縁によって起きたことだから、反撃して悪因縁を重ねるようなことはせずに、
黙って殺されなさいというわけです。黙って殺されたら、貴方はあの世で生老病死の
苦しみから解放され、済度されるのだというわけです。
仏教的に言えば、どのみちこの世なんて空で夢のようなものなのですから、そこで
殺したり殺されたりというようなことが起きていても、実際には何も起きていません。
戦争の夢を見て、夢の中で人が死ぬのを見ても、起きたら死者なんて誰も居なかった
というような話なんですよ。むしろ、ある夢を見ても次に別の夢を見て夢の世界に留まり
続ける因縁を産むことの方が、問題なんですね。
黙って殺されることは因縁を生みませんが、正当防衛であっても反撃して相手を
傷つけると因縁を生みます。なぜなら、相手も自分も存在しないからです。
夢の中の相手も自分も、自分の意識が作り上げた人形劇の人形でしょ?
でもこういうことは大多数のアバターには受け入れることはできないことですし、
皆が悟る必要もないので、世俗的には軍隊があり、交戦権とか自衛権とかいうもの
があって良いのです。ただチベット人は、彼らの精神的指導者が全民族を彼岸に
連れて行こうとしているので、もう民族的レベルで滅びるでしょう。 支援者であったコーサラ国王が息子のクーデターで倒されたんですよ お釈迦さんは母国の釈迦族に防御方法を伝授して
攻撃に備えさせたのですよ
その方法を守っていれば、城が落とされることは無かったでしょうね お釈迦さんは軍事侵攻を2回までは止めたようです。
それだけの時間稼ぎをしてくれていました。
が3回目は止めきれなかったんです。 お釈迦さんは、釈迦族の安全保障に存続に努力していたように思えるのです。
釈迦族はコーサラの弱小属国で、おおきな戦争が起こればいつ潰されても
おかしくない状態でした。
しかしお釈迦さんは、マダカ、コーサラの両大国の国王を信者とすることで
これって考えてみればウルトラCの方法ですよ
40年にわたる平和をこの地にもたらしたとみています
庶民の命など虫けらのごとくの時代、国王達は戦争殺し合いを続けていたのです。
それをこの期間ではありますが、止めていたのはたいした事なんですよ 一応、設定では、
スーツを着ているわけではなくて、「そういう人種、生物」ということだったような気が。
だとするなら、
ウルトラマンの世界、社会で悟った者が顕れれば、
当然、その絵の如くになるんあjなかろうか。
或いは猿の惑星で覚者が出現すれば、当然、「あの猿顔の」ブッダということになる。
コスプレ人気のエルフの世界なら、耳の長いブッダかもしれんし、
スターウォーズ、スタートレックの世界観で行けば、
実に様々な姿をした様々な生物のブッダがあり得るだろうなぁ、と。
また、観音様は三十三に身を分けてと言われるように、様々な存在へ化身されるわけで、
上座部系ならではの反応なのかも・・。 白水社「チベット旅行記」川口慧海著、長沢和俊編
1978年6月20日発刊
当時の価格 1600円 密教って旧来のインドの仏教徒に邪道扱いされなかったの? 衰退しまくった仏教が、生き残りのためにヒンズー教の儀式とかを取り入れてできたのが密教じゃないの? 日本に伝わったのは中期密教。チベットのは後期密教で違うもの。
wikipediaで経典の内容説明を読んだけど滅茶苦茶だな。
中期密教が完成形で後期は行き過ぎだ。 初期密教はどこ経由で中国に伝わったの?
吐蕃経由じゃないの? >>669
普通に中央アジアかと思ってたけど違うの? 金剛頂経を中国に伝えた金剛智が海路で東南アジア経由で広州に来たらしいから
そういうルートだったのかもしれない。
時代的には玄宗皇帝の時代とかもっと前だから普通にシルクロードでもおかしくない。 >>672
wikipediaによると初期密教は大乗の経典に陀羅尼として表れるものだそうだ。
だから大乗の仏典として中国へ運ばれた。その時点では密教的な要素はない。
中期密教のうち大日経は善無畏が長安にもたらし、金剛頂経は金剛智が広州へ
持ってきた。途中には無いかもしれない。
金剛智は南インドの王によって中国に布教すべく派遣されたというから道中布教した
だろうけど東南アジアは小乗しか受け入れなかった。というかヒンドゥー教に飲まれたが
正しいのかな 善無畏はシルクロード経由で中国に来たようだね
途中突厥にも密教を説いたっぽい
チベットへの密教の伝来は8世紀後半のようだ
当時、パータリプトラを中心としていたパーラ朝では
密教が盛んだったらしい ヒンドゥー教徒はイスラム系支配者に武力で抵抗した
みたいだけど仏教徒は非暴力だったせいか滅んでしまったようだね >>675
ムガール時代の支配階層はイスラム
そのためイギリスはヒンズーを重用し復活
イギリス支配が短期間だとわからなかった
インドネシアは今でもイスラム モンゴルがチベット仏教を取り入れるようになった
経緯は何かな?
中原仏教じゃダメだったの? チベットのナンタラ師が大ハーンに講釈して信者にしたらしい。 >>678
元のフビライにチベット仏教僧のパスパが帝師として迎えられてから
徐々にモンゴル人に浸透して行ったが、完全に浸透するのはチベットの
大部分を征服したオイラート族のグシ・ハーン政権がダライ・ラマを
全チベット仏教の教主として擁立してからだろう。
それまでは、モンゴル人には伝統的シャーマニズムやネストリウス派
キリスト教徒もそこそこ居た。 >>680
密教「も」あるというのが、より正確だね
特に、最大宗派のゲルク派のお坊さんの場合、
顕教の課程を修了しないと密教の課程を修めてはならないことになってる
このあたりは例えば日本の天台宗でもそうなってて、
天台宗の密教いわゆる台密は、顕教の課程を修了したお坊さんでなければ修められない
まあ、密教というのは、人間の煩悩すら悟りへ向かうためのエネルギーに充当するという思想が含まれてるので、思想基盤でも実践倫理でもよほどがっちり修業を積んだ人でないと、道を踏み外す危うさがあるからね
密教のお坊さんの資格というのは、いうなれば危険物取扱免許でもあるんだよ 昨日、わが町のお寺の秋祭りで、舞楽「蘭陵王」が舞われた。
今年は創建600年の特別な秋祭りだとかで例年には無かった演目。
唐で生まれたこの舞楽が本国では絶え、日本に伝わってほとんど変化することなく人気演目なのはなぜなのか。
カラス天狗のような面をつけて登壇した時「あ、蘭陵王だ!」とつい口にしたけど、
演目の紹介が全然なかったので「蘭陵王」とわかった人はどのくらいいただろうか。 極東絶海の島国において禅の極と念仏の涯は一如となった。
【『一遍上人語録』より】
宝満寺にて、由良の法燈國師に参禅し給ひけるに、
國師、念起即覚の話を挙せられければ、
上人かく読て呈したまひける。
となふれば仏もわれもなかりけり
南無阿弥陀仏の声ばかりして
國師、此歌を聞て「未徹在」とのたまひければ、
上人またかくよみて呈し給ひけるに、
國師、手巾薬籠を附属して、印可の信を表したまふとなん。
となふれば仏もわれもなかりけり
南無阿弥陀仏なむあみだ仏 ヒンドゥー三大神のうちヴィシュヌがあんまり仏教に取り込まれなかった
のは何でだろう?
那羅延天とかメジャーじゃないし >>685
上座部仏教では仏教の守護神とされていて、スリランカではスリランカの
守護神とされているけど。 アジア仏教の到達した壮絶の極限。
近代西洋哲学が「自立した主体」を追究した果てに行き着いた孤絶と通じているのか、いないのか。
「仏に逢(お)うては仏を殺し、
祖に逢うては祖を殺し、
羅漢に逢うては羅漢を殺し、
父母に逢うては父母を殺し、
親眷(しんけん)に逢うては親眷(しんけん)を殺して、
始めて解脱を得、物と拘わらず、透脱自在なり。」 >>689
元々はキリスト教徒は関係がない時代のギリシャ哲学が起源だからな。 でも日本人でも初物というか新築好きだろう?
生放送も好きだしww
女房と畳はということわざもあるのだしww
伊勢神宮なんか20年に一度建て替えだろう?
なんでも習合する日本人が仏教のお寺さんも20年に一度の建て替えの風習を
受け入れなかったのは何かあるのかな? >>691
悪魔崇拝者だろw
キリストは違うからなw >>694
立て替えるのは、まだ神社に付属する建物が草葺きの掘っ立て小屋レベルだった時代にはじまったから。建て替えないと朽ち果てるから
お寺は中国伝来で最初から規模の大きなお寺をお手本にした、大きなコストがかかっている >>695
あの時代のギリシャだと今から考えるとかなりいかがわしい儀式もあったのだろうな。
何せホモが当たり前だったのだからな。
あと神殿売春もあったみたいだし。 屋外に設置される大仏ならば現代でも、チベットでなく漢民族の土地で漢民族によって多数作られ続けていて、
そこの共産党地区委員会の命令によって破壊されたというニュースが、今年度は月に数回のペースで入ってきますけどね >>698
>あと神殿売春もあったみたいだし。
これはバアル崇拝とかオリエントの風習だな
世界中の宗教には売春を神事と見做してるものもあって我が国の神道もその一つ
昔の遊郭地って必ず神社とツーセットになってるでしょ エフェソス(トルコのローマ時代遺跡)の石畳に娼館入り口のマークが残っている >>703
戦争に負けて消えてしまったのでなしに、
水がなくなったので住民が退去したのだからな。 タリム盆地全体が完全にイスラム化したのはチャガタイ汗国の時期かな?
モンゴルはそこまで宗教にかぶれてなかったからな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています