放置かどうかはさておき、対機説法といって相手との機縁に応じて説くという概念はあります。
八万四千の法門と言われるのも、どこからでも入れるということ。
原始仏典の時点ではそこまで明確ではない気がしますが、それでも相手と場合に応じて同じ
ことを(後世よりは統一した内容で)説いておられたのは事実です。
対機説法を「応病与薬」と表現することもありますが、釈迦が自らを医師に喩えられたのも原始
仏典の時代から続いていることです。

経典が山ほどあるのが「法門」の数に応じてのことというのはその通りでしょう。
後世になって製作した人々も、そういう意味で「偽造」という意識はなかった筈です。
「偽経」かどうかの判定は古代からありましたが、作る側は少なくとも釈迦の教えを伝えるものと
して作っている。
最終的に「涅槃」に至ることが出来ればいい。
気に入らなければ解釈を変えるということは聖書に対する行動でも見られますが、仏教の場合
は気に入らなければ気に入る経典を探せばよいのです。
法然や親鸞といった人々が、延暦寺であれやこれや経や疏をひっくり返したのはそういう事。
聖書やクルアーンに対するのとは、向き合い方が違います。