チュルクとモンゴルはなぜ差がついたのか? [転載禁止]©2ch.net
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今のトルコ人はアルファベット表記された突厥の碑文とか理解できるのかな? 露助のくびきでキリル文字化されちゃった今のモンゴル人にだって八思巴文字とか理解できひんやろ 別に突厥の文字を読めってんじゃない。
アルファベットで音を書いたら読めるかって話。 >>132
日本人だって縄文由来の遺伝子は1割くらいしかないのに縄文人って風貌の人は
たまにいるだろ >>137
アルファベットは表音文字なので、読めて当たり前。
というか、音で読めないとアルファベットの存在意義がない。 >>141
アルファベットで書いてあるけど英語は読み方知らんととても読めんぞ
Maughamなんて知らんかったおまえ読めるんか? >>143
正しく読んだか判断できる者がいればそれでいい。それが表音文字の役割。
正しい読み方は一つではない。
イタリア語、ドイツ語、フランス語、英語それぞれ読み方が違うがちゃんと成立している。 突厥文字をアルファベットに直す時点でどっかの民族の言葉に近く直すことになる。
当時の突厥語の発音なんてわからんしな。 あ、突厥文字自体読みが決まってるのか・・・
ならそのままアルファベットに直すだけでいいね。 トルコ人はどうか知らんけどトゥバ人とかハカス人みたいなシベリア・テュルク系なら原住地から移動してないからちゃんと読めんじゃね? なぜ極北に進出できたのがテュルクで、モンゴルじゃなかったんだろう
ツングースや古アジア系から北極圏での生き方を学ぶ柔軟性が、テュルクの文化にはあったのかな
一方モンゴルにはなかった?ブリヤート辺りがモンゴル化後に家畜を連れて北へ逃走を図っててもよさそうなのに トルコ系というかトルコに支配されてトルコ系言語を話すようになった少数民族 >>150
え? ヤクート人てトルコ人やったんか
ツングース系かなんかかと思うてた ヤクート人の容貌はどう見てもモンゴロイド。
いつ頃からトルコ系の言語をしゃべるようになったかはわからん。 何時頃って分岐する前からずっとテュルク系言語だ<サハ
サハ人は元はもっと南西に住んでいてそれから北東に移動したってのは本人達の伝承とかにも有るし
その伝承も大体考証とほぼ相違ないので確実だろう 言葉の意味を理解できるのかと言ってるわけだろ
>>135は >>154 つまりはオリジナルのテュルクの姿を留めた集団か サハ以外にもユグル人もチュルク系言語・モンゴロイドの組み合わせで加えて仏教徒だ
チュルク系はモンゴル系・ツングース系と並んで大興安嶺付近を故地としていたが
全体的には西へ移動してコーカソイド化が進んだ 原トルコ人は大体どの辺にいたの?
バイカル湖周辺? バイカル湖まで遡ればトルコモンゴルツングースの共通祖先まで遡る事になる そこまで来たらもう語族とか関係ないレベルまで原始時代だろ >>164
そういう時はウィキペディア日本語版で「オグズ」の記事を引き、
左下の「他言語版」で「中文」のリンクをクリック
はい出てきた 烏護かな?
烏護=ウイグルのようだけど、トクズ・オグズは九つのウイグルという意味なのか?
アラブ資料だとオグズ・ハンという人物がいたとされているが、系図を見ると
ウイグルとはあまり一致していないようで理解に苦しむ モンゴルって突厥、鉄勒、ウイグルとトルコ系に支配されてた期間が
結構長いのにドルジ顔ばっかりなのは何で? >>167
カルムイク人ってモンゴル語の一種を話すけど、ほとんどコーカサス系だな ドルジ顔遺伝子はものすごい優性だったりするのかな? チュルク=よく混血したがる
モンゴル=あんまり混血したがらない
という仮説を立ててみた
チュルクは東方から中央アジア・ヨーロッパロシア・西アジア・アナトリアと移動して
イラン系・スラヴ系・ギリシャ系と混血しまくった
モンゴルはヨーロッパロシアも西アジアも少数しか移動せず、
ハザラ族・モゴール族とか見ても東方の容貌 南の漢人社会に進出したのがモンゴル人。
西の色目人社会に進出したのがテュルク人。 タイチウトやナイマンやオイラート、そしてカルムイクといった「西のモンゴル人」は
チュルクとの関係がどこかにあって、後の2つは言語もチュルク特にオグズ系と似ている
母音の配列がきれいでu¨とかo¨とかがまるで共和国トルコ語やドイツ語に似ている
実際オイラートはモンゴル化したチュルクじゃないかと言われている 烏孫はコーカソイド優勢だったようだ、が、エフタルは匈奴の一派→悦般→エフタルの流れなら、
モンゴロイド優勢じゃなかったのかな? >>175 旧ソ連、そして今のロシアでブリヤ―トとカルムイクを別民族としてるのは、故なきこととは言えないんだな
むしろそうして当然か >>177
その2つのモンゴル系言語、加えて中国とモンゴルにいるダウール族の言語は
もう1つ共通点があって、動詞がそのまま述語になる時に人称語尾が付く
モンゴル人にとっては母音の違い以外に、この人称語尾の違和感が大きいらしい
ただしダウールには特にチュルクとの関係を暗示するものがなく、
自他ともに契丹の後裔であると考えている
また3言語ともそれらの特徴以外は、語彙的にはモンゴル語の一種であると判断される
特にダウール以外はチベット仏教を含めてモンゴルとの密接な文化的なつながりがあり、
書き言葉は互いに蒙古文語を共有していた(ダウールは書き言葉に主に満洲語を使用していた) 契丹語には子孫であるダウ―ル語と同様の人称語尾はあるんですかね? そう思ってたんだけど…おおっと違うなあ
契丹語は単純述語の主語と、人称ではなく性が一致する(人称はよくわからん)
すなわち主語が男性なら男性語尾、主語が女性なら女性語尾をとる
そして形動詞(名詞を修飾する、いわば連体形)にも一致があって、
被修飾語の名詞が男性なら男性語尾を、女性なら女性語尾を取る
こうした主語の男女の性による一致は、元朝秘史蒙古語などの中期蒙古語と共通する特徴
近隣の言語ではスラブ語(ただしロシア語なら過去形に限る)、あるいは東イラン語派の
一部などの印欧語が連想される(西イラン語派のペルシア語は性の一致がない)
ダウール語はツングース語派の少数民族(人称変化を持つ言語を話す)との接触はあったので、
その結果人称語尾が保たれたのだろう(>>178には書き忘れたがチュルク語は広く人称変化する) エフタルはサンスクリットでシュヴェタ・フーナ(白いフン)と呼ばれていたらしいからな。
貨幣に見える肖像などからもコーカソイドと見るべきだろう。 シュヴェタで白か
英語のホワイトやロシア語のスヴェート(光)と同語源だな トルコの右寄りの歴史書だと匈奴=フン=エフタルで
フンの王族とエフタルの王族も匈奴の冒頓単于の子孫と言う事になってる エフタルの言語はチュルクとイラン系の混合だと言うけどな
だったら新疆の賤民エイヌ人(アブダル)の言語じゃん、と前から2ちゃんで言っている俺
専門が違うし論文書くの面倒なので誰かやってくれていいよ エフタルがカザフスタンからインドまで版図に入れてたとしても
一人の王が統治していた訳ではなさそう 『モンゴル帝国と長いその後』のオグズ・ハーン伝説とチンギスについての
杉山正明氏の考察が面白かったな
オグズの三大分割体制の話は現実のチンギスのそれを下敷きにしてるんじゃないかという >>185 そしてエイヌ人は実はロマの末裔とかw
妄想はさておき、エイヌ語のイラン的要素はどのあたりのイラン系言語に近いんだろう >>188
エイヌ語のイラン的要素は普通のベルシャ語、タジキスタンのタジク語らしい
エイヌが新疆で迫害されたのは彼の地で少数派のシーア派だからだという
新疆でシーア派と言えば「タジク族」のイスマーイール派だが、
中国政府の言うこの「タジク族」はタジク語(ペルシャ語、西イラン語派)が全く話せず、
東イラン語派のパミール諸語を話すまったく別の民族(サリコール人、ワヒ人)だ
つまりエイヌ人はシーア派でも「中国タジク族」とはつながらない
エイヌの別名アブダルは「割礼されたもの」という意味だと言われている
その元はアブドゥ・ッ・ラー(神の奴隷)なのかもしれないが、
ムスリムを象徴するこの名が割礼と結び付けられたとしても不思議ではない
なおロマの一種である中央アジアのドム、ドマは、新疆にもいたし、ムスリムではなかった サラーム(平和)から来た「Salamat」がフィリピンで「ありがとう」になるくらいだしな
借用されたらどこでどう意味が変化するかわからないな 朝鮮語のsaram(人)はR、アラビア語のsalaam(平和)はL
朝鮮語では音素/r/はLの発音にもなることがあるが、
それは子音連続の前、重音、語末であり、母音間では/r/にしかならない
そこで外国の固有名詞などのLを表すために重子音を作る
韓国人ムスリムはsalaamを移すためにsar-ramという外来語形を作る
このとき重子音rrは[ll]の発音になる アラブ系の資料はトルコ系がヤペテの子孫とか適当なこと書いてるから
信憑性が薄いんだよな
その辺中国資料はまだ真実をしっかり伝えようとしている 比較言語学の古典的分類法で、セム=ハム語族という分類があったが、
インド=ヨーロッパ語族はヤペテにちなんでヤフェド語族と言われていた
セム語派は今の定説と変わらないが、古代エジプト語(とコプト語)を含む
北アフリカの非セム的なしかし類似した膠着語をハム語派としてまとめていた(現在では否定)
当時から聖書の人名との直接の関係は否定していたが モンゴルにネストリウス派キリスト教を伝えたのは何人? ソグド人じゃないの?
イラン系民族の中で最も中国文化に影響を与えたのもソグド人で、
ソグディアナ自体がゾロアスター教、マニ教、仏教とともにキリスト教も信仰した地域
またパルティア人もイラン系でこれらの宗教を信仰し、漢訳仏典の成立にも関わった
よく中国に西方文化を伝えたという「ペルシャ人」も実際にはソグド人かパルティア人だったのでは
(ほかに目立ったイラン系ではバクトリア人がいるが、あまり広域的な商業活動に従事しなかったらしい) ソグド人はゾロアスター教徒でしょ?
ソグド人って唐以後はあんまり聞かれなくなるけど何でだろうね? 同じイラン系のイスラム王朝としては最古のサーマーン朝に帰順して同化したとか? ソグド人はゾロアスター教のほかにマニ教、仏教、キリスト教の文献を残している
それはマニ教徒、仏教徒、キリスト教徒のソグド人もいたということ
中国の王朝でいうと唐代から宋代にかけて、ソグド人は言語の上で東からのチュルク化を受け、
宗教的にはイスラム化の波に飲まれ、その過程で言語上は西からのペルシャ化も受けた
言語と宗教において東西の大きな集団に同化し、部族制でなく都市の商業集団だったこともあり
その民族としての特徴を失った
ソグド語はタジキスタン北西部の峡谷地帯でだけ、ヤグノビ語として残っている 移民なんてダメなのは、すでに歴史が証明している
ローマ帝国時代にローマ人は奴隷や兵士育成のために、ゲルマン人を受け入れたが
やがてゲルマン人は権利を主張し、ローマ帝国内に侵入し、ローマ帝国は滅んでしまった
三国志の時代の中国の英雄たちは防衛のために、北方の異民族を受け入れた
(献帝を守った白波軍とは匈奴
《フンヌ》=フン族=後のハンガリー、フィンランド人のこと、
ウイグルや突厥に追われた柔然とはブルガール人、後のブルガリアのこと、
突厥がその後オスマントルコになるのは言わずもがな)、
しかし、三国志の統一も20年くらいで、
その後に待っていたのは、五胡十六国時代と呼ばれる中国が異民族に跋扈された時代が300年続いたのだ
ゲルマン人や北方異民族によって、古代ギリシア人やローマ人は滅び、古代漢民族も滅んでしまったのだ
今のイタリア人もギリシア人も中国人も元々は乗っ取った異民族の子孫である
今の日本人が現在のヨーロッパ人や中国人よりも、三国志の時代の中国人や古代ローマ人に親しみを感じるのはそれは当然なのである
寛容と人の良さが素晴らしい文化と発展を促したのだが、それこそが付け入る隙間を与えたのだ
その結果がローマも中国も暗黒の中世である
このように、移民なんて受け入れるのは亡国に自ら進むことと一緒である
今、日本に移民を進める人間は本当の日本人ではない、敵国のスパイなのだ!!
フィンランド人の平均顔面
https://pmsol3.files.wordpress.com/2011/02/averagefinnman.jpg
日本人の平均顔面
http://livedoor.4.blogimg.jp/karapaia_zaeega/imgs/a/a/aac8ce68-s.jpg
だって生粋のフィンランド人てこれだからな
http://i.imgur.com/rM9Dvk5.jpg
なぜなのか >>202 ヤグノビ語の祖先は、ソグドが元気だった時代ですら、既に袂を分かって山奥に引きこもってた集団の言語なのかな
それこそ紀元前にとうに他のソグド語から分岐していたような。日本語でいえば古代東国方言の末裔の八丈方言みたいな
それとも商人の末裔がイスラム化の中で山奥に逃げ延びた? 教が教と会うのはおかしいな。どちらもちがっていて、先に宗教化するなり
あとから宗教になるなり、年代差はあると思う。宗教にも。改宗の問題も
宗教家だけが取り決めて働けばいいもので、もしかしたら宗教じゃないモノ
の可能性を切り捨てるべきではないよ。 宗教と仮に呼べば一人一人異体験だから関連性を求めるのも理由があってやってほしい。 ソグド商人的なものはずっといたんでしょ?
トルコ系と混血したソグドは何て呼べばいいのか? チュルク系とイラン系の混血は
中央アジア各地でいろんな時期にいろんなパターンで起こっているので
その都度別の名前が付いていると見れば間違いないんでしょ >>203
滅んだんじゃなくて、混血して新しい民族になったんでしょ
ローマ帝国の後裔には、
金髪で長身でフォークでパスタを食う北部人と
黒髪で短躯でスプーンとフォークでパスタをいただく南部人がいて
金持ちで威張ってるビジネスマンは北部のヴァイキングの子孫、
貧乏で人情味あふれるマフィアは南部のローマ直系の子孫だろ?
で、世界史板によくいる金髪崇拝の顔バカのお前は北部崇拝だろ?
お前みたいな顔バカは移民賛成派になってなきゃおかしいんだよ >>206
すまんお前自身にも、そしてできれば他人にもわかるように説明してくれ チュルクは雑婚や混血に抵抗をそれほどしなかったが、
モンゴルは純潔への志向が強かったように見える。 一応、王族の正妃はモンゴル人を迎えたんじゃないの? 清朝皇室の女性で、時代がだいぶん下っても漢語じゃない名前だなと思ったら、だいたいモンゴルから迎えた妃だな >>210
ノルマン人のシチリア王国は南イタリアしか支配してないのに
北部がヴァイキングで南部がローマ人の子孫とか何その無知蒙昧
というかイタリアに渡ってきたノルマン人とか数百人とかそれぐらいの規模だぞ >>216
今どきヴァイキングをノルマン人と読んじゃうのって和ペディアだけだよ鎖国頭
人種の文脈ならヴァイキングに限ることはないけどね
北イタリアを金髪長身に塗り替えたのは東ゴートやフンやヴァンダルの占領、
あとはゲルマン傭兵の活躍と後代のドイツ人でしょ 概ねチュルクはイスラム、モンゴルは仏教という違いが差になったこととは関係ないのか? モンゴル語の母音は曖昧で第二言語としては習得が難しい
トルコ語の母音は明瞭で独語仏語など
いろいろな母音の多いタイプの言語の話し手にとっても似た母音が多くて習得しやすい 今のハルハモンゴル語でыはイの長母音だけど、ひょっとして大昔は今のトルコ語でiから頭の点を取った字の発音と一緒だったりしたのかな?
強いてカタカナで書けばウ
朝鮮語や北方の漢語やテュルク諸語など周辺言語にある母音なのに、モンゴル語にないというのが不思議 もちろんキリル文字化はこの100年足らずのことで、モンゴル文字での弁別をийとыに書き分けたのかなってこと >>210
ローマ人直系はどっちも違うでしょ
南部はアフリカ北岸のイスラム王朝から結構入って来て
北部はゲルマン系の支配が続いたからね コーカソイドトルコ人は遺伝子的にはヨーロッパの
何人と近いの? >>217
東ゴート族はゲルマン最大部族と雖も精々30万ヴァンダル族は7万人
フン族に至ってはモンゴロイドだし
ドイツ人傭兵でイタリアに入植した奴なんてほとんどいないだろまだ南アフリカのほうが多いんじゃねえの >>224
当時なら30万はその地方の形質に十分影響するよ
せいぜい数十人から数百人ずつヘブリディーズやアイルランド西海岸の僻地に住み着いたヴァイキングが
今やゲール語の最後の話し手として示す存在感は格別だ(元々のケルト系はみんな英語化してしまった)
ローマ末期にゲルマン人が何回皇帝位を簒奪したと思ってんの
フン族はコーカソイドだよ顔キチくん
ウラル語族はウドムルトみたいに北東にいるの以外は白人だ 射精エベンキは今日も裸踊りを踊るのだった
セロイセローイ♪ >フン族はコーカソイドだよ顔キチくん
ドルジ顔なコーカソイド=フン族ww 中央アジアからモンゴルテイストがほとんど感じられないのは
ロシアの政策によるもの? ティムール朝時代もモンゴル以来の部族名とかはまだあったっしょ 名前だけならあったろうさ
あとチンギスハンの子孫を名乗るのもお決まり
バートルみたいな用語も使う
逆に言うとそれだけ ティムール朝を中央アジアから追い払ったのがシャイバーニー朝だっけ?
一応モンゴルの系譜だから、モンゴル色を完全に払拭したのはそれを
滅ぼしたロシア帝国だろう。 いや、ロシアはむしろ支配下のモンゴル諸族のチュルク化を阻止してオスマンと連携しないようにしている。
言語的・宗教的にはティムールの時代にチュルク化・イスラム化していたし、
モンゴルの否定はソ連時代に徹底的にチンギスハンを否定する教育をした影響だろう。 バーブルとかモンゴルの血何パーセントくらいなんだろ? アクバルやアウランゼーブの肖像画は全くドルジ顔とはかけ離れてるなw チベット難民とか北東部の先住民を探した方が平たい顔族は見つけやすそう
インドの北東部だったら餅をカレーで食べたりしてるんだろうか... てか、バーブルどころかティムールですらけっこう彫りの深いマスクだったと思われ >>235
ロシアが力をつけた頃には「タタール」はとっくにチュルク化していた モンゴル人の誇りを捨て去ったか!
とチンギスに怒られそう 先祖に連なるモンゴルの武名と威光、自分の名の由来もモンゴルの将軍
現実のモンゴル人はそれほどでもないと失望したか、
チュルク化したことでニセモノ扱いでもされてコンプレックスだったか アフガニスタンのハザラ族は
東アジア風の顔立ちでモンゴルの子孫とも言われているが
周囲と違いシーア派で地位が低い
バーブルは遠征の途中でハザラ族に遭って思うところがあったのか
ハザラ族に囲まれたモゴール族はスンニー派で
モンゴル語の一種を話し、まだまとまった数が残っていたはず
バーブルがモゴール族には会ったかどうかわからないが ティムール朝及びモグーリスタン及びジョチ・ウルスと北元及びオイラトの関係がどのようなものであったのか、
気になるところだな
お互い相手をどのように認識していたのか
チンギスとその血脈に対する尊崇の念を共有していたのは確かだと思うが >>247 モゴールは風貌もモンゴルを保ってたんだろうか
それともハザラの逆で顔は濃くて言葉がモンゴル?
でもモゴール語は80年くらい前に絶えたんだっけ >>248
オイラトとモグーリスタンの関係なんてオイラトからの一方的な侵略の繰り返しだろ?
どんどん領土を明け渡していって最終的に完全に併呑さえてジュンガル帝国となった >>249
岩村忍の『モゴール族探検記』(岩波新書)を読めば
モゴールの容貌については出てくるはず
手元にはないが、たしかハザラ人と同じだったと思う
そのために現地では「日本人が歴史を奪いに来た」なんていう誤解まで生じた
現地のモゴール語の記憶はすでにカタコト程度になっていて、
調査隊はほかに数百語を書き付けた対訳単語メモを入手している 突厥文字は字体も読み書きしやすくてなかなか優れた文字
滅んだのが悔やまれる >>253
ウイグル文字ってどのウイグル文字だ?
モンゴル文字満州文字の元になった奴なら違うからな
あれは突厥文字と同じくソグド文字から分化したから子孫ではなく兄弟関係にあたる 突厥文字はソグド文字の子文字と言われているが字体がだいぶ違う
むしろギリシャ文字やルーン文字に似ている
まあギリシャ文字やルーン文字も親文字はソグド文字と同じくフェニキア文字に行きつくが ロシア帝国はカルムイクの仏教信仰を容認してチュルク・イスラム化への歯止めにしている。 >>258 ブリヤ―トよりモンゴルからの独立志向が強かったのかな。後にトド文字という独自の文字を発明 >>260
>>175>>178みたいな言語の方言的な違いがあると、
オイラートの側ではモンゴルに対して
意思の疎通はできても違和感もあったのだろう
大きな集団であるだけに自立的な意識が保たれたと想像する
ブリヤートのほうはいろんな部族の寄り合い所帯として始まったが
いくつかの方言的特徴がオイラートに似ていたという事のようで
もう少しモンゴル寄りの民族意識だったのかもしれない
なおトド文字の文字としての改良点は合理的なもので、
むしろモンゴル語が取り入れてもよかったようなもののようだ タイチウトはチンギスから6代遡ると同祖だから言語にそんな
違いはないんじゃないの? >>262
ダグール>オイラート>ブリヤ―トの順で左ほどモンゴルと違うという意識が強いのかな 室韋って碑文とかには出てこない名前なの?
モンゴル語の何を当てたかも分からない? 中国側の記録に出てくるのがせいぜい6世紀からだから、漢字の読みも上古漢語みたいなとんでもない音じゃないしな
中古漢語での室韋の読みでもそう言語と当たらずも遠からず、要は日本語での「しつい」からもさほど遠くない発音だったんだろうな
室 ̪̪シットかシェット?
https://en.wiktionary.org/wiki/%E5%AE%A4#Pronunciation
韋
https://en.wiktionary.org/wiki/%E9%9F%8B#Pronunciation
室の方は中古漢語に存在しない音節末のrかlを、無理やりt終わりの字で当てた?
ひょっとしたら鮮卑と同系かも。上古漢語の時代から中原に存在を知られていた?鮮卑では、当時鮮の音はsarだったとする説もあり
https://en.wiktionary.org/wiki/%E9%AE%AE#Pronunciation_1
鮮卑末裔説は昔からあるみたい
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A4%E9%9F%8B#%E8%B5%B7%E6%BA%90
でもシルベかサルウェかわからないけど、そういう自称の集団はモンゴルやテュルク側の記録には出てこないのかな? >>265
一本の線ではなく、それぞれの理由でモンゴルとの違いを自覚している タイ・ブカとかアリク・ブカとかのブカってどういう意味? >>269
雄牛という意味だったはず
>>270
モンゴル部も元々は大興安嶺北麓のアムール川流域の森林地帯に住む半猟半牧の民だったようなんだよね
北魏の拓跋部もそうだったようだが
現在のオロチョン族に近い生活様式だったろうから、トナカイの飼養なんかもしていたかも モンゴルは森から出て草原のテュルクを駆逐・追放または同化し、追われたテュルクはウラル系やケットに同じようなことをし、か
モンゴル自体は誰に追われるでもなく、人口増加で西に膨張したのかな?それともツングースに森を追い出された? ブリヤートは元々モンゴルによって草原から追い出されたチュルク系だというが。 いや、だったらブリヤートは今もチュルク語を話しているだろう 今のモンゴル国に当たるモンゴル高原は
かつてはチュルクがウイグル帝国などいくつもの王朝を築いたり
後にモンゴルがチュルクを追い出すなど魅力的な土地だったようだが、
過去500年ぐらいは寂れた土地として人口も少なく、
モンゴルの中心はずっと内蒙古だっただろ
その間に気候の変動でもあって、牧草の少ない寒冷地になったのだろうか ケレイトがネストリウス派を信仰するようになったのは1007年のことらしい 遼史に見える阻卜の族長磨古斯はワンハンの祖父のマルクスらしいな。
ワンハンの洗礼名はダビデらしいが、出典は何なんだろう? しかし、チンギスハンの使者を殺したせいで、その後大都市数百万の皆殺し
の復讐が連続で行われたのは恐ろしいな。 日本も鎌倉幕府が使者を殺したよ。
当時のモンゴル帝国は皆殺しの口実を探すことを重視したので、それが口実になっただろう。
鎌倉武士がモンゴルに敗北していたら、沢山の日本人が皆殺しにされ、大陸に奴隷として連れていかれたと思う。
中国や朝鮮の精神性をもたらしたのは、北方遊牧民の皆殺しによる恐怖支配。
日本も負けていたら、中国や朝鮮のような卑屈で嘘の多い社会になっていただろう。 誠実で勇敢な者は遊牧民征服王朝に殺されるので、世代を重ねた淘汰によって嘘つきばかりが生き残り子孫を残すようになる。 モンゴル帝国で重要なのは将兵を殺戮したことではなく一般市民を殺戮したところ。
一般市民を殺戮すれば人々に恐怖を植え付けることができる。 実際、抵抗が激しかったじゃん。
降伏するなら助命する、と畳みかければ雪崩を打って降伏する者が出てくるが、けして恨みが消えることはない。 モンゴルが実質上滅亡したのも結局は報復による自業自得か チンギスの血統自体、オイラト系以外は根絶やしにされている。
血縁関係を結んだぐらいで恨みが消えるならだれも苦労しないわな。 外モンゴルの方でオボク名がなくなってるのも、実質宗主国のソ連のロシア人が「お前らに氏族名なんて贅沢。父称だけにせい!」
と千と千尋の湯婆婆みたいなことを言って廃止させたのかな
タタールのくびきの意趣返しで
それとも元々一般的なものではなかった? >>279
日本が使者を殺したのは1275年の第七回使節からで、
その時にはもう前年に文永の役が起きてるから
弘安の役はともかく、元寇自体の口実にはなってないよ
それと使者殺害後の弘安の役でも、
クビライは国を手に入れるのは土地と民を得たいがためとかなんとか
日本人を滅ぼして日本の土地だけ手に入れたいわけじゃないんだぞって釘指してる 日本の上流階級にモンゴル人の血が入らなくてよかった。
上流階級の質の低下が民族の衰退をもたらす。 ちょっと混血ぐらいしても良かったと思う
たくましいし風格はあるし
日本人なんか相撲でも勝てないしぐじぐじ文句行ってモンゴル人を見習おうともしない チンギス血統が入った地域はすべてディストピアになる法則 鷹島で掃討されたあとの元軍3万人の捕虜って、斬首と奴隷化とに分かれたみたいだけど、
どのくらいの比率だったんだろうね
大半が斬首だったなら世界史的に見ても結構な数だし、
多くが奴隷になったというなら少なくとも九州圏経済にとっては小さくないインパクトだよね 日本人のモンゴル好き|高橋和夫国際政治学者|note
ttps://n■ote.■mu/kazuotakahashi/n/nb6c4bbd4d33f
2018/12/18 03:40
ここで興味深いのは、日本人のモンゴル好きである。モンゴル好きという言葉が過剰であるならば、モンゴルに対する嫌悪感の欠如である。
これはユーラシア全体を見渡せば、変わっている。というのはモンゴルの侵略を受けた国々では、悲惨な経験が語り継がれているからである。
たとえば第二次世界大戦中のドイツ軍のポーランド占領が残酷であったとして、
イギリスの首相だったチャーチルが回顧録でモンゴルのヨーロッパ侵入以来の残虐さだと記述している。
つまり極悪非道の基準がモンゴル軍の行動であった。
確かに13世紀にポーランドに侵入したモンゴル軍はリーグニッツ(ワールシュタット)の戦いで勝利を収めると捕虜に対して非道の限りを尽くした。
モンゴル軍に席捲されたシルクロード沿いの人々も殺戮と略奪と破壊を経験した。それが深く人々の記憶に刻み込まれている。
筆者の招かれたイラン人たちのパーティーの時に、予想より参加者が多く食べ物が直ぐになくなってしまったことがあった。
そうすると、ある参加者が「モンゴルの襲撃のようだ」と表現するのを耳にした。モンゴルは決して愛されていない。
ところが日本人は襲撃を博多湾で食い止めたからなのか、モンゴルに対する嫌悪感が薄いようだ。これは世界でも稀な現象である。
もっとも、日本人は鎌倉武士の善戦と神風でモンゴル人の上陸を食い止めたつもりでいるが、実際はどうだろうか。
大相撲の九州場所は博多湾に面した福岡国際センターで行われるが、土俵上では多くのモンゴル出身の力士が活躍している。
結局、モンゴル人は博多に上陸したようだ。少し長くは、かかったが。 モンゴル軍は助命を約束しながら降伏後にあっさり殺したり
人としてどうなのって感じ 鎌倉武士の引き立て役が世界帝国を作ったとか誇らしいじゃん
日本文化は尚武の文化だってことを忘れすぎだお前ら >>293
元史によれば助命され奴隷にされたのは南宋人だけ >>293
方伐木作舟欲還、七日、日本人來戰、盡死。
餘二三萬為其虜去。
九日、至八角島、盡殺蒙古、高麗、漢人、謂新附軍為唐人、不殺而奴之。
元史からのコピペ。
捕虜が二、三万。
うち蒙古人、高麗人、漢人は皆殺しにされて南宋人だけは助命され奴隷にされた。
弘安の役の元+高麗軍は南宋人十万人、蒙古人、高麗人、漢人四万人と南宋人が多かったけど、
台風で沈んだのは南宋船の方が多かったらしい モンゴル人は皆殺しにした死体を放置したまんまだったのかな?
虐殺にあった都市の近辺には大量の骸骨が埋まっているのだろうか? サマルカンドの遺跡で子どもを含む大量の遺骨発見とか以前ニュースで見た気がする。 後ろ手に縛って数珠繋ぎにして周囲から矢をいかけて殺すのが
モンゴルのやり口みたいだな ジュチがチンギスの実子かの遺伝子調査って行われたの? チンギスハーンは世界で最も子孫の多い人物として知られている。
これは、各地の貴族と積極的に政略結婚を行った結果だが、とりわけ熱心だったのがジュチ家。
もし、ジュチがチンギスハーンと血縁でないとするなら間違っていることになる。 お杉はジョチの非実子説を下らない5流未満小説の妄言に簡単に流布された無能未満の戯言
とかなり感情的にキッパリ否定してたな チャガタイ自身があいつは実の兄弟じゃないみたいな感じだったろ 市場経済で遊牧民は貧困化──独裁者復活がモンゴルを救う?|楊海英|ニューズウィーク日本版
https://www.newsweekjapan.jp/youkaiei/2019/01/post-32.php?t=1
2019年01月11日(金)17時00分
<零下20度の首都ウランバートルを揺るがす反政府デモ、現地で直面した国民の怒りと「元帥」への思慕>
2019年1月1日、筆者はモンゴルの首都ウランバートルで新年を迎えた。
新春とは名ばかりで、マイナス20度に達するほどの厳冬だが、政治だけは熱気に満ちている。
1991年に社会主義体制が崩壊して民主化が実現して以来、政局は混乱が続いてきた。
最大の原因は、「草原の民」モンゴル人が自由主義市場経済とグローバリゼーションといった資本主義に慣れていないからだ。
遊牧民は大草原に分散して、一戸一戸単独で家畜の放牧を行い、緩やかな部族集団を形成してきた。
普段は独立精神が強く、上からの統率に簡単に従おうとしない。
だがカリスマ性に富んだ優れたリーダーが誕生すれば、はせ参じて全財産を寄付し、全身全霊で追随し奉仕する。
13世紀に世界帝国を築いたチンギス・ハンはその代表だ。
20世紀では「独裁者」チョイバルサン元帥がその典型だった。彼は45年8月にモンゴル国軍を率いてソ連の対日宣戦に参加。
内モンゴルや新疆北部を含めたモンゴル人による民族国家統一を果たそうとしたが、強大化を恐れるソ連によって阻止された。
国際共産主義陣営の最高指導者スターリンに度々異を唱え、国内では強権的な手法で世界第2の社会主義国家を率いた。
(続きはソースをご覧ください) 無神論のソ連は仏も当然否定し、モンゴルを根底から徹底的に否定した。その点では仏教に理解を示した帝政ロシアの方がまだましだった。 チンギスより前にモンゴルのカブル・カンが皇帝を名乗ってたらしいな ワン・ハンだかオン・カンだかいうのも皇帝ぐらいの意味だろ 皇帝がいない時代のモンゴルで王を名乗っても
それは諸侯じゃないだろ 豊臣秀吉も明の皇帝から日本国王の称号を贈られているだろ。 称号を贈られただけで主従関係になったわけじゃないだろ >>313
はるか昔の単于だって皇帝くらいの意味だろ イスラムと仏教の攻撃性の差がチュルクとモンゴルの差になったのかな? >>320
それって語源的に証明できるのか?
単于だって「漢人の王」ぐらいの相手と渡り合ってただけだろ 並び立つ存在が近隣にいる時点で皇帝ではないよ。それが東アジアの秩序。
気になるのはモンゴル・ウルスの正統な後継国である清朝とロシア帝国がどのようにお互いの地位を認定し合っていたかってこと。
どなたかご存知? 皇帝の並立なんていくらでもあるだろ
それぞれの国でどう扱おうが、客観的には同格
そもそも「王は皇帝の下」っていう理屈が漢朝以後の詭弁
周にとっては王は周王だけだ カブル・カンが皇帝を称したことが元朝秘史に載ってないのが奇妙だ 突厥以来中央アジアの主力戦力がトルコ系ばかりになったな
ペルシャ人弱すぎ モンゴル軍は意外に城攻め上手いよな
攻城兵器も現地で材料調達して作ってるっぽい >>328
トルコのオリーブオイル使うヌルヌルレスリングは、
ギリシャの影響あるらしい。もうひとつのヌルヌルでない方は、
もんごのブフと多分起源は同じ。 チンギスの騎馬隊とアッチラの騎馬隊って大差ないんでしょ? >>330
チンギスの騎馬兵は弓がトルコ式の合成弓に、
鐙も現代の鐙並に改良されているだろ。 モンゴルなんて独自の建築文化もろくなのがないしな
あらゆる面でチュルクに負けている 結局のところモンゴルは文明主義じゃないしね
価値観はそれぞれ
日本だってつい最近まで尚武の文化だった
謎の上目線でよそ様をバカにするのは無教養で滑稽 モンゴルは皿も洗わないようなヤツらだからな
悦般王もドン引きするレベル >>330
アッチラの騎馬隊と冒頓単于の騎馬隊って大差ないんでしょ? イラクあたりにもモンゴル人の子孫が結構いるのかね? >>333 でも今のウランバートルへの集中って、かつての帝国時代にもなかったような一極集中では
自治体ごとに縄張りがあって、境界線で区切られている現代の都市だと、周辺の町を併合しまくりの大都市は、市域に寒村みたいなところまで含まれることも多いから、
人口集中地域でざっとくくった歴史上の都市よりだいぶん大きな面積の概念になりそう(例:江戸VS東京23区)だけど、それにしても。
逆に定住文明に入って比較的短いから、一所に人口が偏るのかな 定住するということがモンゴル史上前例がなかった
交易の場としての都市は古から存在した様だが 100%遊牧でないブリヤートとかヤクート人とか
学校があるので妻と息子が住んでいる家がある。夫・成人男は出稼ぎで遊牧して戻ってくる。
アフリカの遊牧系は、小学生で年半分を寄宿、年半分を家で繰り返す。単身寄宿。
住所は何とか国、何とか県、何とか郡、何とか村、ひろいと何とか村落
あとは村民に聞くだけ 日本やフランスみたいにジグゾーパズルのように大小の自治体が組み合わさった物が国家というより、
アメリカみたいに都市や村があるのは一部で、特に原野など住所が定まってない状態だったりするのかな(正確には自治体を設立したところとそうでないところ)
例 ラスベガス周辺 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c8/Clark_County_Nevada_Incorporated_Areas_Las_Vegas_highlighted.svg
日本の発想だったら、この鶏ももみたいな形の土地が多数の自治体の境界線で区分けされてる
モンゴルはどっちのシステムなんだろう >>340
中国の内モンゴルだと遊牧民と言っても複数の場所に放牧を許された牧畜業という感じで、
通常は町はずれの家に家族は住んでて、父ちゃんが放牧地にバイクで通っているそうだ。
ただ、家畜の出産とか羊の毛の刈り取り等は家族総出で4WDのオフロード車に乗って出かけるそうだ。
ただ、話えおしてくれたモンゴル族の女の子は町の中心部のある学校には免許がないから馬で通ってたそうだ。 >>337
耶律阿保機の遼の子孫はイランに行ったよね(遼→西遼→後西遼) ということは県の下の住所が適当な場所も多いってことか
アメリカの場合非法人化区域と言って、自治体のない場所でも便宜上住所が与えられてる実質自治体みたいな場所もあるけど、
モンゴルだったら本当に全く住所を定めなくても問題なさそうな場所ばかりかも >>345
契丹の末裔が、バラク・オバマのバラクの同語源の名を名乗ってたとか胸熱だな >>348
兄貴がバラク・ハージブで弟がターヤンクー。
兄貴もイスラムに入信する前は弟の様な名を名乗ってたのだろう。 ケレイトとかナイマンはネストリウス派キリスト教徒だったらしいが
ウイグル文字の聖書とか持っていたのかな?
宣教師とか司祭がいたのかも気になる >>351
西遼・後西遼は漢化sinicizedしていたというから漢語だろう
黒契丹の黒も五行思想と関係あるとか >>348 小浜のバラクはルオ族の固有語由来の名かと思ってたけど、ムバラクと同源だったのか
継父のインドネシア人がムスリムだというのは聞いたことがあるけど、生物学上の父のケニア人もムスリムだったのかな >>354
アラビア語のバラク、ムバラクの同じセム語派のフェニキア語形がハンニバル・バルカの家名の
「バルカ」だね。
どちらも「雷光」を意味してる。 >>349
大楊哭(ターヤンクー)?
余計意味が判らん
てか契丹語に借用された漢字音っていつのやつ?
契丹という民族の存在自体は後期上古漢語に時代からあるよな >>356
さっき漢字でどう書くか調べてみたけどわからんかった
当てずっぽならkuだけでももっとたくさんある
酷、庫、袴、苦、堀、窟、枯… >>353
WIKI中国語(普通話と文言)、百度百科を調べたがバラク・ハージブの記事はあっても、
ターヤンクーは全く出て来ない。バラク・ハージブ、ターヤンクー兄弟の資料の大本は、
ペルシア語資料で、オスマン帝国のアルメニア系外交官のドーソンがそれを整理して纏めた
モンゴル帝国史の中の説明が最も詳しい様だ。だから、ターヤンクーはアラビア文字
使用のペルシア語資料に記されたものえ、ペルシア語訛りが入ってるから、
もとの名前の漢字表記の再現は無理だろう。
あとペルシア語資料はラシッド・ウッディーンでもジュワイニーでも、
契丹人の名前は契丹語固有名を極力音訳している。西遼は初代の大石が
重徳という漢名を持っているのみで二代目以降は中国側資料でも漢名は出て来ない。 >>352
テュルク系諸部族に布教したのはソグド人だから、聖書はソグド語かその元になったペルシア語だと思う。
ナイマン、ケレイトともソグド人他イラン系オアシス定住民と交易してたから、
ソグド語かペルシア語とのバイリンガルが多かった。
そもそもウィグル文字自体ソグド文字からの借用だろ。 >>359
ソグド人は交易活動を行う中で、突厥のような遊牧国家社会の内部に入り込んで、
かなりの程度遊牧社会に同化していた集団を生じていたことが知られている。
この現象はソグドと突厥の融合現象という側面で研究が進んでいて、
この側面の研究を国際的に先導している日本人研究者から、
これに「ソグド系突厥」という呼称をつけることが提唱されている。
安禄山とか五代の沙陀系王朝で活躍した石氏一族がその典型とされている。
沙陀系突厥の研究から五代の石氏が沙陀突厥に融合した
タシケント出自のソグド系突厥の一派だという史実が浮上したわけだが、
私が個人的に気になっているのは、五胡十六国時代の後趙の石氏一族。
彼らは匈奴別種の羯とされているが、羯は後世のソグド系突厥集団の出現と同様の
匈奴社会に半ば同化したソグド人、つまりソグド系匈奴であった可能性はないのだろうか。
実際、石氏一族ら羯はコーカソイド的な風貌であったと記録にあり、
それが匈奴の一部にコーカソイド系の集団が加わっていた証左とされているが、
彼らが匈奴社会に同化したソグド系集団であったとすると、整合がとれてしまうのだ。 >>360
羯石(ケシュ、現在のシャフリサブス)から来たから民族名が羯で氏は石って論法かい >>361
いや、タシュケントはソグド語名がチャーシュで、
その語義が「岩石」だからタシュケント出身者の漢姓は「石」なんだな。
で、「羯」ってのがもしかすると上古音では「チャーシュ」に近いんじゃないかと疑ってる。 >>359
ソグド人にとってペルシア語はそこまで必須の言語だったのだろうか
ソグド語はアラム語の単語を中心に据え、
その子音綴りを表意文字扱いしてソグド語式に「訓読み」して
この方式は同時期に成立した同じイラン系のパフレヴィー語(中世ペルシア語)と
パルティア語でも行われたが、この3言語の書き言葉が
すべてパフレヴィー語式に統一されたわけではなかった
3言語ともアラム語を読み書きの基本の文明言語として受容し、
そこから母語の文字化を進めた
ネストリウス派のキリスト教伝道にとってはアラム語(の中の東シリア語)
が重要で、ソグド語に翻訳するならアラム語から直接行われたのではないか >>363
ネストリウス派の中央アジアへの浸透は、ササーン朝がローマからネストリウス派の信者の
亡命受け入れてからで、その後聖書のギリシア語からペルシア語への翻訳が行われた。
ソグド人のネストリウス派信者も最初はペルシア語の聖書にペルシア語の典礼だったろう。
それをさらにソグド語に訳したかどうかはわかってないし、ナイマンやケレイトはペルシア語
理解できる者も少なくなかったから、彼らの典礼用語や聖書はソグド語でもペルシア語でも
どっちでもよかっただろう。
ソグド人のペルシア語についてもどうでもよくて、ソグド人にペルシア語の教養必須でなくても
最初に彼らがネストリウス派に触れたのはペルシア語聖書であることは間違いないだろう。
ギリシア語からソグド後にダイレクトに翻訳されたわけではないのだから。 >>364
シリアの教会もシリア人司祭も東方の宣教にまったく関与していなかったの?
アラム語はイエスが実際に話した言語でもあり、
ペルシア語もソグド語もアラム語の語形だらけなのに >>365
新約聖書は何語で書かれたのかな。
シリア正教会はネストリウス派ではないぞ。
ナイマンやケレイトの西方の交易相手は
テュルク語系かペルシア語系言語の話者。
シリア語までいくなら、彼らはより交易の
メリットの大きいアラビア語を選択擦るだろう。
テュルク語系の言語なら、方言覚える様なもので、
ササーン朝健在の時から交易での付き合いあったわけだから。 モンゴルのネストリウス派についてはカルピニ・ルブルックの紀行が詳しいのかね? >>366
ネストリウス派を受け入れたササン朝の東方教会は
ローマ教会と対立したろ
そこでギリシャ語もラテン語も要らなくなり、
中央アジアからは一文字も出てこなくなった
中央アジアの「ペルシア語」はソグド語を意味した可能性もある
イスラム化以後のアラビア文字のペルシア語とは似ても似つかないから
ソグド語の文字体系は古ウイグル語、蒙古文語の文字の元になった
パフレヴィー文字は縦書きのものはないだろう >>365
モンゴルの遊牧諸部族に布教したのは、中国に来た亡命ササーン朝ペルシア人の末裔だったそうだ。
特に会昌の廃仏以後、中国本土での布教が出来なくなったので、北方遊牧諸民族への布教が始まった。
東洋大の先生が書いた論文にそう解説してあった。
だから、シリア人は無関係だな。聖書と典礼用語はペルシア語で間違い名だろう。 >>371
残念!
前趙石氏タシケント出身匈奴系ソグド説は無理筋か。 >>369
シリア人が無関与なのはわかったが、
ササン・ペルシャ人の言語と文字は
イスラム化された新しいペルシャ語とは
かなり違う別の言語だったはずで、
交易にも使えず時代遅れになっただろう
亡命したペルシャ人は言語的に孤立し、生存のため西モンゴルに同化していき
言語の交替も起こったはずだから、状況から見て
聖書は遅かれ早かれモンゴル語(の方言のうちのどれか)に翻訳されたか、
翻訳されずに訓練を受けた聖職者にしか読めないものになっていっただろう
モンゴルにおけるキリスト教の衰退の原因は、案外そんな所にあったのかもしれない エベンキってジンギスカンの時代にモンゴルと交流あったの? ツングース系集団の中でエヴェンキ集団が分化したのは比較的最近だろ。
確か、清朝の満州八旗の中にも彼らは組み込まれている。 >>373
オルドス周辺にはキリスト教を信仰する集団は明末迄は残っていて、
今でも嘗てキリスト教を信仰してた集団の末裔はいるみたい。
オルドス キリスト教でググると出て来る。 契丹語はアルタイ語族の中世モンゴル語とよく似ていて、
それは同時に鮮卑のうち北朝や隋唐を建設した拓跋氏集団の使っていた言語と
よく似ていることが、語彙から判明している。
エヴェンキ集団は完全にツングース語族の内部の部分集合。 エベンキはバイカル湖のさらに北方にいたのかな?
当時はまだ満州の方に住んでいたのだろうか? ツングース語とエスキモー語との間に古い借用語が見られるという
間違っても南方起源ではないだろう >>373
オルドス地方にはエルケウンというネストリウス派信徒の末裔が、
1930年代までは居た模様。ただ、日本の隠れキリシタンみたいに自分の宗教がなんだかわからなくなっていた。 >>378 シベ=鮮卑の末裔というのは誤りなのかな
それかある時点でモンゴル系からツングース系に言語交代を起こした?
それとも「マケドニア人」みたいに、古代と現代で全く別の集団とか?(血のつながりは一応かろうじてあっても) >>382
鮮卑系集団で語彙が著しく中世モンゴル語に類似していたことが実証されているのは拓跋語だけ。
慕容鮮卑などマンチュリア西部を本拠地にした集団もあるわけで、
ツングース系の語の話者の鮮卑がいても不思議はないのかもしれないね。 >>370
オン・カンって名前の音感、すこぶるいいな!(´・ω・`) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%A6%E5%A4%B7#%E6%B0%91%E6%97%8F%E7%B3%BB%E7%B5%B1
>出雲弁とツングース諸語の類似[35]などから、蝦夷(えみし)はもともと日本にいなかった馬を引き連れて大陸から来た北方新モンゴロイドの騎馬民族とする説もある。
http://seneca21st.eco.coocan.jp/working/nakashima/10_03.html
>もう一つは、農耕化が進んだグループとして、アムール川流域ウリル文化であり、アワ、キビ、大豆、オオムギの栽培、豚の飼育が挙げられる。
わが国の在来作物には、シベリア、中国東北部からサハリン、北海道を経由し、あるいは朝鮮半島を経て日本列島に入ってきたものがある。
オオムギ、カブ、ゴボウ、ネギ、カラシナ、タイマ、筱麦型エンバク、雑草性ライムギ、ムギセンノウ、この他、北回りのアワ、キビ、ソバ等の北方系作物群がある。
生活様式 狩猟採集民・遊牧民
民族系統 モンゴル・ツングース・二ブフ・チュルク・エスキモー・チュクチ
北アジアの東の方の先住民の民族系統と生活様式は現在ではざっとこんな感じだけど、大昔は現存するどの言語系統とも該当しない農耕民グループというのもいたのかな
今は北アジアの農耕民って思いつかないけど、日本に確かに北方系の作物は渡ってきてるわけだし ネギは昔から、西日本の品種群が山東・朝鮮半島由来、東日本の品種群が北方由来で、
渡来軽油が根本的に違っているという議論があるね。 >>385
トンデモ本引っ張り出してきて「説もある」とか抜かすんだからウィキペディア終わってんな
ちゃんと要検証テンプレート貼っとけ乎 >>387
日本語版をソースにするやつはバカかバカ記事書いた本人だけ
世界中の日本語学習者に「日本人は馬鹿」って宣伝する媒体、
それがウィキペディア日本語版
討論の経験がなく、誤りを素直に認める習慣がなく、
自説を自我と同一視して珍説に固執し、
世界一みっともなく珍記事を保守し続ける
それが日本のウィキペディアン(笑) オロンスム遺跡のキリスト教関連の碑文?には
アラム語が記されているらしい
江上波夫氏の研究が詳しいようだ 貴の岩の本名バアサンドルジのバアサンってどういう意味? >>390
多分、チベット語由来の誕生曜日名
金星と金曜日のことをチベット語で「パサン」という
それのモンゴル語転訛が「バーサン」
チベット文化圏(モンゴル含む)では、
子供が生まれると、その子の生まれた曜日をその子の名前として付ける事例が多い >>392
日曜日 サー・ニムマ → ニャム
月曜日 サー・ンダワ → ダワー
火曜日 サー・ミクマル → ミャグマル
水曜日 サー・フラクパ → ルハグワ
木曜日 サー・プルブ → プレヴ
金曜日 サー・パサン → バーサン
土曜日 サー・ペンパ → ビャムバ そういえば、バーサンジャブってモンゴル人俳優がいたっけ。
そうすると、「ジャブ」や「ドルジ」の意味って何なんだろう。 >>394
ジャヴもチベット語由来らしいけど、自分は不勉強でまだ覚えてない ごめん
ドルジもチベット語ドルジェが由来で、宝石の「金剛石」や密教法具の「金剛杵」といった意味 >>395
ありがとう。
ドルジはサンスクリットのヴァジュラか。 >>396
そのとおり
そしてサンスクリット由来のヴァジラのモンゴル語転訛で人名にも使われる語彙がオチル >>397
日本語の漢字音読みに似た感覚なのがオチル、訓読みに似た感覚なのがドルジ
ということだね。 ビャムバ何とかってのは聞いたことあるな
相撲取りの本名だったか >>398
というか、日本語にあっての伝統的高級・抽象語彙の伝統的拡充源が漢語だったように、
モンゴル語にあっての伝統的高級・抽象語彙の伝統的拡充源はチベット語だったんだね
そしてサンスクリットは日本語でもモンゴル語でも仏教用語の拡充源である点が共通していた >>400
だからこそ、中国共産党はチベット文化、ひいてはチベット仏教とダライ・ラマの存在を危険視するんだよなぁ。 今のモンゴル人も自分が〇〇部の子孫とか把握してるのかな? チュルク系な
「系」を付けた時点でトルコ人じゃなくてチュルク系言語・民族だ
トルコ共和国の汎トゥラン主義に加担するな オスマントルコとオスマン・サンコンは名前の由来的には同じだよね サッダーム・フセインとバラク・フセイン・オバマ2世は? >>408
チュルク、テュルクという用語を否定すれば
TurkicとTurkishの区別の否定にもなる
それは雑で無神経な極論 ミルザーってティムール朝の王子だけに与えられた称号? ロシアじゃなくてルーシャって言え、みたいな話だよね >>411
伊集院なんて名字もあるんだから、布施院って名字もあっていい気が駿河 少なくともヴァイキングのルーシとスラヴのロシアを
同じ用語で呼び続けるような無神経なことはしたくないな
多分このスレにはトルコ共和国の手先がいるんだろう >>421
今は「突厥」は「チュルク」、そして「土耳其」は「トルコ(共和国)」の意味で使われている
つまり中国人でもその区別は常識ってこと >>422
匈奴とフン族も区別してるな フン族は匈人(シォンレン)っていって明確に区別してるようだ やっぱり目覚めちゃったんだなあとw
?ある日、チンギス・カンは重臣の一人であるボオルチュ・ノヤンに「男として最大の快楽は
何か」と問いかけた。ノヤンは「春の日、逞しい馬に跨り、手に鷹を据えて野原に赴き、鷹
が飛鳥に一撃を加えるのを見ることであります」と答えた。チンギスが他の将軍のボロウ
ルにも同じことを問うと、ボロウルも同じことを答えた。するとチンギスは「違う」と言い、「男
たる者の最大の快楽は敵を撃滅し、これをまっしぐらに駆逐し、その所有する財物を奪い、
その親しい人々が嘆き悲しむのを眺め、その馬に跨り、その敵の妻と娘を犯すことにある」
と答えた。(モンゴル帝国史) 実際、戦争での強姦や略奪は楽しいだろ。正直者じゃん。 トルコ人とモンゴル人って日本語を結構訛りなく流ちょうに話す気がする 外人は概して日本語上手い
日本人は外国語がドヘタクソ 情けない トルコ語やモンゴル語は、日本語と語順が似ているだけでなく、
「文節」のようなものがあって「名詞+助詞」「動詞+助動詞(ほか文法的接尾辞)」
みたいな「頭+しっぽ」という構造をしている所も日本語と似ている
ほかの外国人よりも特に日本語がうまくなるのが早い >>430
モンゴル語とトルコ語は受身の表現も豊富で、ZとFの発音もあるから、
南北朝鮮人よりも遥かに自然な日本語を身につけられる。 >>429
挨拶+α程度だけどモンゴル語話せるぞ。
お陰でモンゴルの女の子と仲良くなれた。
ビー・チャムド・ハイルタイ(愛してる)と言われたぜ。
色白で長身で巨乳でスタイル抜群なんだけど、
顔が微妙(目が細くて釣り上がってる)なんで、
ちょっと複雑だったけど。 >>432
違和感あるな。
愛情を相手に伝えるのは原始的ながらも重要なことなので、本来の愛情表現はもっと短いはず。 モンゴル女性は高学歴。
男性は肉体労働、女性は知的労働という、緩やかな棲み分けがある。 >>435
どうだろう。ブリヤートとか当てはまるかな?
漢人と関わった異民族は漢人の嘘つきで横柄な態度にブチ切れて漢人を虐殺してしまう法則性がある気がする。
ここでいう異民族は日本も含む。 そして文化大革命でわかる通り、漢人自身が、漢人やモンゴル人を大量虐殺する。 >>440
先進国の日本人は野蛮な支那チョンを懲らしめたんだぞ 仲良くなった中国のモンゴル族(オルドス出身)の女の子に
中国では絶対に入手出来ないダライ・ラマ亡命政権が
民芸品として出しているマニ車あげたら凄く喜んでいた。 >>443
葬式仏教化した日本よりははるかに真面目に信仰してる。
日本の寺だとどこに参拝に行ったらいいかと聞かれたことある。
観音菩薩が本尊の浅草寺を薦めておいたが、
モンゴル・チベット式の五体投地礼はしないようにと言っておいた。 >>437
日本式教育ですべての命に価値がないことを教えてやったからね >>447
中国の近代思想としての無神論・唯物論は五四運動の頃にはもう徹底していたよ
欧米列強のキリスト教に対しても、日本の天皇主義や神道に対しても、冷笑によって理論武装していた
共産主義に依るまでもなく、古代思想の読み替えによってすでにそれを行っていた >>448
浅いな
日本人は自分の命が無価値だと悟ったからこそ特攻攻撃なんてできたんだよ
宗教や思想など後付けにすぎない そもそも心から天皇崇拝していたわけじゃないしね
こういった人間そのものを兵器とする優れた軍隊教育は
各国の支配層に大きな影響を与えた >>449
自爆攻撃は第一次大戦当時のドイツ艦隊もやったし同様のはロシアもやっていたが
それがなんで何十年も後の日本の特攻の影響なんだ?
頭に蛆虫湧いてるだろお前 後期密教では、宇宙の根源としての仏として本初仏(アーディブッダ)が最重視される
チベット仏教においては、ニンマ派が法身普賢(普賢菩薩が如来化したもの)を本初仏とする一方、
ゲルク派やカギュ派では金剛系(持金剛仏や金剛薩?)を本初仏とする 胎蔵界曼荼羅の中心・大日如来を囲む8仏の一つだから、そりゃ関係あるでしょう。 チベット仏教には密教の色彩が一見すると濃いが、
それでも本質は密教ではなく顕教なのだ
チベットに招かれて十年間修行して学位を取った多田等観がそう言っている 吐蕃はタリム盆地まで勢力広げたから色んな仏教吸収してそう 匈奴ってまだいるのかな?
匈奴として生きてる人たち モンゴルと同じじゃない?
モンゴルの支配層は各地に散ってそこと同化したから
今モンゴルを名乗っているのは被支配層 >>450
煽りまでして必死だね
そんな些末な作戦など終戦末期の日本軍の規模と比較にもならない
日本人が国家を懸けたカミカゼアタックはアメリカ人に絶大な衝撃を与えた
これは日本人の特殊な精神性に由来する >>462
煽りというより歴史的事実の有無が問題
>>447で「文化大革命は命に価値がないことを日本式教育が中国に教えた結果だ」
というのは歴史事実に対する誤認または妄想
>>449の「特攻という人間そのものを兵器とする優れた軍隊教育が各国の支配層に大きな影響を与えた」
というのはただの願望に基く妄想
先行する例が外国に存在し、明らかに参考にした可能性があるものを、
何の根拠もなく「そんな些末な」と主観で否定
誤認の正当化、妄想の美化、それこそ君の中の特殊な精神性というやつだろう
頭の中に蛆虫が湧いていること、自分が蛆虫そのものであることを誇ればいいだけなのに、なぜそうしないのか なんだ真面目な人か
もういいよ 俺はキチガイ専門だから チンギスハンの頃のモンゴル人って、洗濯はしないわ、食器も洗わないわで
北斗の拳の牙一族と大差ないよね >>465
ウイグル獄長がいるのになんで突厥獄長がいないんだろ? トルコ人は客人をよくもてなすようだが、突厥とかの時代からそうだったのかな? >>469
基本的に、遊牧民には遠隔地の情報をもたらしてくれる客人を優待する慣習がある。
ただし、遊牧キャンプへの非敵対的な客であることを
客人自ら定まった儀礼にのっとって証明しなければならない。
そういう儀礼を無視して遊牧民の牧地を「無主の土地」扱いして無礼に突っ切る者が出た時、
遊牧民は凶暴な襲撃者となる。
トルコのような近代化した国ではかなりの田舎でも中世的なそういう襲撃はなくなっているが、
アフガニスタンのような中世が今に生きているような国では現代でも襲撃はあり得る。
例えば、東京大学東洋文化研究所の松井健はパシュトゥン人遊牧民の
夏営地で客人として遇されながら悠々と安全に遊牧の民俗調査を挙行しているが、
ほぼ同じ時代に産経新聞の名物記者の高山正之は彼らの遊牧地を訪問の礼を尽くすことなく
自動車での強行突破を試みて銃撃を受け、アフガニスタンを「盗賊の国」と罵倒している。 >>471
漫画で申し訳ないけど横山光輝のチンギス・ハン伝にその習慣書いてあったよ チンギス・ハーンの父親が毒殺された経緯を考えれば、客をもてなす文化がモンゴルにもあるのは誰でもわかる。 あれは飢えと渇きでどうしようもなくなって頼ったら案の定身バレして
殺されたってオチだろ >>474
身バレはしてたけどきちんともてなさないほうが失礼だから大丈夫と信頼したら
遅延制の毒を盛られたって話ではないの? チンギスの父が毒を盛られて死んだ話は元朝秘史にしかない旨を岡田英弘氏が著書「チンギス・ハーンとその子孫」で述べている。
岡田英弘氏は元朝秘史を創作物と見做している。 元朝秘史にしか無い話なんて腐る程あるからそれを全部
創作にするのは暴論 武功夜話にしかない話があって武功夜話偽物説が出て、結局、剽窃された被害者の生駒家が声を上げて解決したけど、元朝秘史はどうだろうか。
一般社団法人 生駒屋敷 歴史文庫 | 一般社団法人 生駒屋敷 歴史文庫
http://www.ikoma-yashiki.com/ STAP細胞を研究していた人と同じタイプが、歴史学や私小説の業界に入ってくることで偽史が爆誕する。 モンゴル考古学の白石典之によると、「元朝秘史」の末尾の文言から、
「原典」が書かれた場所は確かにモンゴル帝国のチンギス・カンが遺した
移動宮廷の巡回ルートの中に比定できるんだそうで、
亡きチンギスを顕彰するための「物語」という側面はあるにしても、
少なくとも後世の人間がまるっきりの偽書としてでっち上げたものでは
ないらしい。
そういう点で、関係者の末裔によるにせよ何百年もあとに創作された
「武功夜話」とは一線を画すだろう。
出てくる遊牧民の慣習にしても、エピソードのすべてが史実通りではないにせよ、
モンゴル帝国の上層部を構成する遊牧民にとって不自然とは感じられない描写に
なっていると考えるのが妥当なんじゃなかろうか。 男系が途絶えた厩戸皇子という人物を美化することで聖徳太子の伝記が成立したけど、元朝秘史はどうなんだろうね。
普通、途絶えた家系は悪役にされるものなのだが。 日本語と英語しか読めない岡田の話なんか無視無視
漢文も蒙古語も満文も読んでないwww >>468
ウイグルなのに必殺技が蒙古覇極道ってw >>482
え、岡田英弘って本当にモンゴル史の多言語史料読んでないの? ウイグルの民族神話に狼は出てくるの出てこないの、どっち? >>481
厩戸皇子の伝説が全部後の時代の後付けなわけではないんだよ
古いのは同時代だからもともと聖人だったんでしょ
近隣住民に慕われる徳の高い人に冠位十二階や十七条憲法などを後付けでかぶせていったんだと思うよ >>485 突厥はTurkut, 鉄勒はTurkの音訳とか?高車は他称? それより、烏桓は、マジャール人だったって本当?
あと、鮮卑はサビール人(Sabir People)だったって本当?。 >>489
>チャガタイ語はウズベク文語や新ウイグル文語の基礎となり、
ウズベク語は口語の中で最もチャガタイ語の特徴を受け継いでいる言語と言われている[12]。
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母音の区別が複雑なチュルク語のうち、ペルシャ語の影響を受けたために、
チャガタイ語、ウズベク語、ウイグル語はところどころ母音の区別が曖昧で、
母音調和の法則が崩壊した言語だと言われている
他のチュルク語、たとえばオグズ方言のグループの共和国トルコ語だと、
母音のグループ分けは厳密で、母音調和の法則はしっかり習得する必要がある
対してウイグル語のアラビア文字表記は会話で区別されない母音をわざわざ書き分けるが、
これは帝政ロシア末期のタタールスタンの文化運動で行われた文字改革の結果生まれた表記法を
流用しているかららしい
そんな無駄や問題点にもかかわらず、ウイグル語アラビア文字は70年代に採用されるとともに
またたく間に普及してウイグル人の識字率を向上させ、それまでのウイグル語ローマ字表記法を廃止に追いやった >これは帝政ロシア末期のタタールスタンの文化運動で行われた文字改革の結果生まれた表記法を
流用しているかららしい
本来ボルガ・タタール語用の文字だったというわけか
文字の本家のアラビア語みたいに、母音を無視して子音だけで表記することはあるのかな
これだったら母音が変化しまくってても、子音がほぼ一緒で、意味も同じ語でできた文章ならば、書き言葉なら両言語同士で理解できそう
でもタタールスタンはキリル文字化してしまったかw >>496
タタールスタン・ウイグル式の新アラビア文字表記法は、
「全ての母音を表記し細かく区別する」のが特徴だ
すなわち、省略しない
母音を省略することで方言の差を超越した文字体系たることができたのは、
近代化以前の古典時代の表記法のメリット
ただし同じつづりで別の単語と間違えやすく、習得に時間がかかった
セム系文字を非セム系言語に適用するときには程度の差はあれそういったメリット・デメリットがあったようで
イディッシュ語についても同じような超方言的な利点が言われていた
逆に言うと派生語で母音が違っても意味は取りやすい、というのはセム系言語の話で、
非セム系言語におけるヘブライ語やアラビア語からの借用語はそこまで多くはないので子音だけで書くことの利点は母語においてはそうない >>495 insanとかMerhabaみたいに、iとa,eとaが同時に出てくる単語って基本外来語起源なのかな >>498
トルコ語だとiとuもそうだね
そういう単語はだいたい固有語ではなくアラビア語かペルシャ語起源だ
そういう語の場合、最終音節の母音を基準として、
助詞や助動詞などの接辞を、男性母音のものか女性母音のものかで付け替える
(陽母音・陰母音ともいう)
ウイグル語やウズベク語の場合、接辞に母音の陰陽そのものが無くなって中和してしまっている 悦般王(チュルク)が柔然(モンゴル)の女が食器をなめているのを見て
「こんな犬のようなヤツらと同盟できるか」と引き返したという
昔からそういう差があるのだろう ジンギスカンと祖を同じくするジャダラン族やバルラス族もモンゴル族なの?
タタールやケレイトはモンゴルには含まれない? タタールは元の土地ではモンゴルを中心とする部族連合だったものが
バトゥの遠征以後は東に帰還しなかった残留組に途中で加わったキプチャークが多かった関係で
指導層のモンゴル人含めチュルク化とイスラム化が進み一つの「タタール人」になっていった
ケレイト、ナイマン、メルキトなどのよく聞く西方の部族や部族連合は
「元チュルクだったのがモンゴル化した」という経歴の考察で共通していて
後の時代になるとそういう経歴を考察されるような言語
(母音などの基層や動詞の活用の仕方などがチュルク語に似ている)
を話す部族はオイラートかブリヤートが目立つようになるので、
それらに合流・収斂していったのではないか ヤクートも単純に追われたか新天地を求めて東シベリアへ行ったテュルクというわけでもないのか
本来は南シベリアから東シベリアまで広くテュルクのテリトリーで、後に真ん中のブリヤートなどがモンゴル化した? テュルク系は交易でリンガフランカ的に広がったが
モンゴル系は征服で広げたからだな >>500
チュルクはかなり早い時期から、ペルシアやローマと交渉があって、
実はなかなか開明的なところがあるからな。 匈奴の墓を調べたら王族はモンゴロイドとは人種が違うということが
分かったという話を聞いたことがあるが、コーカソイドだったのかな? >>509 一方イシンバエワはバシコルトスタンの都市イシンバイとは関係がなく、カフカス山脈の少数民族タバサランの出身だってな でもイシンバエワの父系祖先も、ムスリム皆兄弟ということでバシコルトスタンのイシンバイからカフカスへ移住したタタール人の可能性もあるのかな? 突厥ってモンゴロイド?コーカソイド要素もあった?
何か史書にもあんまり容貌について書いてないんだが トハラとかソグドとかバクトリアとか混ざってるだろうからねえ チンギスハンの虐殺はマジでやりすぎ
あんな少数のモンゴル人に完全に制圧されていた
中央アジア〜イランの民は何だかな >>524
「恐怖増幅の戦略」を採る蒙古の誇大宣伝、
アジア人の野蛮残虐を流布したい欧州のプロパガンダ、
相俟って虐殺伝説、否、「神話」が生まれた。
意図的に生み出されたと云うべきか。
鏖殺が全く無かったとは云わない。
幾つかの城市では実施されただろう。
しかし巷間謂われるが如き数の虐殺が可能であったか、
換言するならそれほどの人口が当時の当該地域に在ったか否か、
考えてみれば答えは自明であろう。
蒙古の幼稚な自己肥大や欧州の人種差別史観に、我々第三者までが犯されねばならない理由は無い。 >>525
モンゴル帝国軍による虐殺は誇張表現ではない。事実だよ。
投降した者の大部分を皆殺しにすることに多くの国が驚愕した。
ソ連時代にチンギス・ハーンが歴史から抹殺されていたのは、侵略された東欧ロシアの人々の深い憎悪によるものだ。 自分の被害を誇張する宣伝は、自分の弱さをわざわざ見せびらして憐憫を乞うことなので、普通はしない。
南京市民が日本軍の残忍さを宣伝するのは、国民党を支持した咎を逃れて共産党への憐憫を乞いたい意図がある。 >>528
敵に対する嫌悪、憎悪を煽ることを目的とした被害誇大化プロパガンダは珍しくない。
記憶に新しい所ではルーマニア革命の渦中で革命側から発信されて市民を憤激させた「ティミショアラの虐殺」。 >>529
憶測で語るなかれ。
反論のために具体例を挙げようかね。
サマルカンドでの虐殺は誇張表現ではなく事実。
チンギス統原理が尊重にされた中央アジアで憎悪を煽る動機はない。
テムル(ティムール)はサマルカンドの出身。 失礼。サマルカンドはテムルの出身地ではなく埋葬地だった。 つか、元史とか元朝秘史とかは大虐殺したとか全然記してないから
むしろどこそこを占領したどこそこで勝利したとしか書いてない 「血の川」の記述 古代ルーシへのモンゴル襲来 「誇張」ではない事実を考古学者らが解明
2019年09月02日 23:58
https://jp.sputniknews.com/science/201909026635865/
モンゴル帝国の初代皇帝で最大の征服者チンギス・カンの孫にあたるモンゴル指揮官バトゥの軍隊は、
13世紀にルーシ諸国の領土を侵略し、古代の年代記に記述のように抵抗する兵士らを殺害したにとどまらず、
文字通り親族もろとも、つまり現在のジェノサイドによって非武装の住民たちをも虐殺した。
ロシア科学アカデミー考古学研究所とモスクワ物理・工学研究所の研究者らは、
モンゴル人らの犠牲となった人々のヤロスラヴリ市の墓地を研究し、こうした結論に到達した。
1237年から1242年にバトゥの軍隊は、古代ロシア公国の領土に対し破滅的な行軍をなんどか行った。
これらの行軍がいわゆるモンゴル=タタールの軛のはじまりと考えられている。
タタールの軛は、モンゴル帝国による古代ルーシの征服期間であり、1480年までの約200年以上にわたった。
焦土と化した大地
バトゥの軍隊による行軍の歴史は、古代ルーシの年代記に記録されており、
侵略者たちが侵攻した土地で行った残虐行為が記述されている。
モンゴル人らは抵抗する地域は住民とともに完全に焼き払い、井戸に毒を混入し、女性や子どもら多くの住民たちを捕虜にした。
歴史学者の中には、これらの残虐行為の大部分は愛国目的から年代記の著者たちが過大に誇張しているという意見がある。
しかし、考古学者らは、古代ルーシ住民の苦悩に関する年代記の記述は歴史的事実に合致する可能性があることを証明した。 地域社会を担う善良で知的な支配階層の人々が大量殺戮されれば、のちのちまで深刻な影響をその地域に残す。
一神教が広まりやすくなる。 日本人のモンゴル好き - 高橋和夫 国際政治学者
2018/12/18 03:40
先週、訪日したモンゴルのオフナー・フレルスフ首相と安倍総理が会談し、両国関係の強化のための会談が行われた。
特に日本は、北朝鮮と長く国交を維持しているモンゴルの拉致問題解決への支援を求めた。
日本・モンゴル関係を長期的に語る際に安倍総理の口から出た言葉は、両国による「普遍的価値の共有」である。
これは共有していない国を意識しての発言である。つまり中国を視野に入れている。
日本のモンゴルや中央アジア諸国への接近は、ある意味では中国の周辺諸国との関係を強化して、中国の力の増大に対応しようとするものである。
平たく言えば「中国包囲網」の構築である。そう平たく言うと角が立つので「新シルクロード外交」といった素敵な表現も時には使われる。
ここで興味深いのは、日本人のモンゴル好きである。モンゴル好きという言葉が過剰であるならば、モンゴルに対する嫌悪感の欠如である。
これはユーラシア全体を見渡せば、変わっている。というのはモンゴルの侵略を受けた国々では、悲惨な経験が語り継がれているからである。
たとえば第二次世界大戦中のドイツ軍のポーランド占領が残酷であったとして、
イギリスの首相だったチャーチルが回顧録でモンゴルのヨーロッパ侵入以来の残虐さだと記述している。
つまり極悪非道の基準がモンゴル軍の行動であった。
確かに13世紀にポーランドに侵入したモンゴル軍はリーグニッツ(ワールシュタット)の戦いで勝利を収めると捕虜に対して非道の限りを尽くした。
モンゴル軍に席捲されたシルクロード沿いの人々も殺戮と略奪と破壊を経験した。それが深く人々の記憶に刻み込まれている。
筆者の招かれたイラン人たちのパーティーの時に、予想より参加者が多く食べ物が直ぐになくなってしまったことがあった。
そうすると、ある参加者が「モンゴルの襲撃のようだ」と表現するのを耳にした。モンゴルは決して愛されていない。 モンゴルとタタールの区別もつかない奴らがいくら憎んだって絵に描いた餅 日本はモンゴルの残虐行為を受けていないから「憎悪」がないという見方は全くの見当違いだ。
都市という都市を無差別爆撃で焼き尽くした挙句に原爆投下、
その業火によって何十万人という非戦闘員を殺戮、
占領に当っては「接収」という名の理不尽な略奪、
そしてもちろん強姦、差別…、
そんな暴虐の限りを尽くした米国の前に這いつくばって靴の泥を嘗めて、しかもその行為に悦びさえ覚えている。
相手がモンゴルだったとしても変わらなかっただろう。
日本人にはもともと持続的な「憎悪」の感情が欠如しているとみるのが正しい。
それが良いことか悪いことか、俺は知らない。 未来の日本人が、米軍駐留する今の日本を「アメリカの軛」と呼ぶ日がくるかもよ。ロシアみたいに。 モンゴルの威光を散々に利用しておいて「タタールの軛」と手のひら返しするロシア チュルクはイスラム化した一方でモンゴルは仏教に帰依した。 インドの仏教を没落させたのは、テュルク系ムスリム。
モンゴル帝国が成立するよりも前の話。 攻撃的な一神教であるイスラム教に帰依したチュルクとどちらかというと受け身な仏教に帰依したモンゴルが
チュルクとモンゴルのその後の差になったのではないか モンゴルは脅迫だけが服従の根拠だったので、持続しなかった。
イスラムは服従による利益を説いたので、持続した。
■海老沢哲雄 「モンゴル帝国対外文書管見」
「永遠なる天の命令であるぞ。天上には、唯一の永遠なる天の神があり、地上には、唯一の君主なるチンギス・ハーンがある。
これは汝らに伝える言葉である。我が命令を、地上のあらゆる地方のあらゆる人々に、馬の足が至り、舟が至り、使者が至り、手紙が至る限り、聞き知らせよ。
我が命令を聞き知りながら従おうとしない者は、眼があっても見えなくなり、手があっても持てなくなり、足があっても歩けなくなるであろう。これは永遠なる天の命令である。」
■イスラームの教えを説いた預言者がビザンチン皇帝ヘラクレイオスに宛た手紙
http://www.muslim.or.jp/hadith/vol2-810.html)
慈悲深く慈愛あまねきアッラーのみ名において。
アッラーの使徒ムハンマドからビザンチン帝国の皇帝ヘラクレイオスへ正道に従っている者に平安あれ
私はあなたをイスラームの教えにお誘いします。
イスラームに帰依しなさい。そうすればあなたは安全である。
イスラームに帰依しなさい。そうすればアッラーはあなたに二倍の報酬を授けるでしょう。
もしあなたがイスラームに昔を向けたならばあなたの家臣らの罪をも負うことになる。
「経典の民よ私達とあなた達の間で共通の言葉のもとに来たれ。
私達はアッラー以外に何ものも崇拝することなく何ものをも彼に列しない。
まことに私達はアッラーを差し置いて他のいかなるものも主としてあがめることはない。
それでもし彼らが背き去るならばあなた達は、私達はムスリム(絶対帰依者)であることを証言するというべきでしょう」(第3章64節) >>544
どっちであろうと北條時宗なら使者を斬り捨てる。 あのクルクル回しながら肉焼くシステムはいつ頃考え出されたの? >>547
ケバブのことか?
ケバブはアラビア語のカバーブのトルコ鈍り。
カバーブの語源は古代アッカド語のかバブー。
アッカドのカバブーはアッカド帝国の
サルゴン1世の時にはあったから、
いつからと言えば、紀元前2300年前からだな。 オグズナーマの訳が出てるらしいけど史料的価値はどうなの? カバルダ・バルカル共和国にカフカス系のカバルド人と共存するテュルク系バルカル人の言語の音韻体系
https://en.wikipedia.org/wiki/Karachay-Balkar_language#Phonology
あの宇宙語みたいに子音が複雑なカフカス地域にあって比較的シンプル
一方カバルド人の言語
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Kabardian_language#Consonants
基層として先住民の言語が取り込まれてたら、子音が複雑化しててもよさそうなのに
コイサンのいたところに入っていったバントゥー系がクリック音を言語に取り入れたように
バルカル人の先祖は比較的先住民と交渉が少なく、通婚も同化もさほどなく文化を発展させてきたのかな
一方同じコーカサスの印欧系のオセット語
https://en.wikipedia.org/wiki/Ossetian_language#Phonology
イラン系の言語のはずだけど子音はカフカス系言語のように複雑化。先住民を同化したりしたんだろうか 【古代】武器とともに埋葬されていた2600年前の遺体、13歳の少女戦士だった…伝説の女戦士部族アマゾーンとスキタイの女戦士の関係
ギリシャ神話に登場する、女性だけの部族で構成される伝説の戦士部族「アマゾーン」は伝説上の存在とされてきたが、実はかつて、中央アジアで勢力を誇った
スキタイ人がモデルだったという説がある。
今回、これまで少年だと考えられてきた2600年前の戦士の遺体が、じつは13歳の少女であることが判明したそうだ。アマゾーンの正体がスキタイ人であるという説がまたも裏付けられたそうだ
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1593167686/ モンゴル中央部を流れるオルホン川沿いの発掘調査で、ルンチェン、
またはルウト(「竜の都」の意味)で名を馳せた、遊牧国家「匈奴」の首都が見つかった。
発掘調査はモンゴルのウランバートル大学が主体となってアルハンガイ州ウリジンスキー地区で行われた。発掘関連のニュースサイト「ヘリテージ・デイリー」によれば、古代都市の遺構は2017年に最初に発見されていたものの、研究者らは3年を経て、この発見を公表した。
発掘現場からは都市の二重の壁、ため池、「天子」の飾り文字の入った建物の跡が見つかったことから、考古学者らは遺跡が匈奴のかつての「竜の都」のルンチェンではないかと考えている。
この発見に対して、考古学者らの間からはそもそもルンチェンが存在したかどうかを疑う説も多く挙げられている。 ヤクートたちは言葉はトルコで人種はモンゴルだよな
でも昔のトルコ人ってモンゴル人だけどな オーウィンクはソロン族
軍をもち中国では魏の名字が多い
蛇の李子日本は跪く属国
奴隷どもの今までの無礼は語るに落ちる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています