中国の王朝で一番好きな王朝 [転載禁止]©2ch.net

1世界@名無史さん2015/08/23(日) 15:26:59.340
どう考えても明だろ

326世界@名無史さん2017/10/09(月) 10:47:38.620
唐の貴族の服装は、日本の平安貴族の衣冠束帯と似てるっていうか、ほぼ同じ。
ただし、それは男性の正装、いまでいえばサラリーマンのスーツみたいなものに限った話だけど。

聖徳太子みたいな笏を手に持ってるのが特徴で、古代の東洋の神秘を感じさせる。
実際には笏は神秘的なものじゃなくて、儀式進行とかの備忘録が書きつけてあったらしいが。
 

327世界@名無史さん2017/10/09(月) 10:57:40.480
中国の服装の基本には、「弁服」「長袍」「深衣」の3種類がある。
こうした三種類の服装に共通する特徴は、長衣がゆったりしていること、袖が大きいこと、直線の組み合わせによる構成。
生地がたっぷり使われているので、垂れ下がったり腰紐で東ねられたりすることで自然に作り出される美しい装いも大きな特徴である。
服の基本構造がシンプルだからこそ刺繍や別布で縁どりする、絹織物を羽織る、肩掛けをまとう、腰を飾るなど、着こなしが工夫された。
そして、袖や襟への縁どりやさまざまな刺繍は中国服飾の特色の一つとなり、その美しさを花咲かせたのである。

328世界@名無史さん2017/10/09(月) 11:10:10.730
宋は漢人、遼は契丹人、金では満州人、元はモンゴル人、明は漢人、清は満州人と、支配者が変わるたびに、そこの民族衣装が主流になり、服装が激変した。

だから、時代劇を見ると、じつは時代背景が分かりやすい・・・はずなんだが、実際には金や元が舞台になってることは少ない。
 

329世界@名無史さん2017/10/09(月) 11:16:22.430
清はセコすぎるよな
中国のほうが遥かに上だからといって、
そちらの文化を破壊して自分に近づけるとは

330世界@名無史さん2017/10/09(月) 11:16:58.670
明の官僚は、外套みたいな長衣を着て、カラスの羽飾りみたいなものが左右についた烏沙帽をかぶっている。

胸には四角い刺繍があって、それを見れば文官・武官の区別や官位が分かったという。

331世界@名無史さん2017/10/09(月) 11:20:22.300
朝鮮の両班の服装は、明の官僚そのものなので、明の服装を知るには韓国の時代劇を見るのが手っ取り早い。

ただし、ウソをウソと見抜けない人には、韓国の時代劇はオススメできないが・・・。
 

332世界@名無史さん2017/10/09(月) 11:21:27.090
>>329

辮髪とチャイナドレスのない中国文化には、魅力が乏しい

333世界@名無史さん2017/10/09(月) 11:24:05.180
清一代で中国は「昔すごかった国」にまで転落した
清は疫病神

334世界@名無史さん2017/10/09(月) 12:02:06.490
やはり、明が中国文明の黄金期だったか?

335世界@名無史さん2017/10/10(火) 18:56:59.670
>>320


唐の頃の日本はひらがなを発明できたが
唐王朝は表音文字を発明できず、
漢族が原始時代に作った象形文字だけに依存した

336世界@名無史さん2017/10/10(火) 22:43:41.400
そうだな。

実際には、唐は鮮卑系の移民が建てた国。

文語はともかく、話し言葉ではアルタイ化が進んでいたはずで、表音文字がなければ不便だったはずだ。

337世界@名無史さん2017/10/11(水) 00:35:15.810
道武帝の鮮卑語禁止令以後公の場で話されなくなって数百年たってるから
唐代になると誰もしゃべれない
だから遼や女真みたいに辞典もないので永久にナゾ

338世界@名無史さん2017/10/11(水) 11:56:24.350
鮮卑語をしゃべらなくても、彼らのしゃべる中国語は、アルタイ系の影響を受けるはず。

中国語と違って「テニヲハ」がつくし、漢語でない語彙も多くなる。

表音文字があったほうが間違いなく便利。

339世界@名無史さん2017/10/11(水) 20:02:30.860
ゲルマン人の大移動でドイツができたように、唐は鮮卑族の大移動でできた国

340世界@名無史さん2017/10/11(水) 20:03:28.750
長安の人口のかなりの部分を、鮮卑とその子孫が占めていたはずだ

341世界@名無史さん2017/10/11(水) 20:06:07.910
もともと、周や秦は、西の牧畜民族の国家が発展してできた王朝

長安の本質はそこにある
 

342世界@名無史さん2017/10/11(水) 20:31:45.280
北京語は満州語なのか

343世界@名無史さん2017/10/11(水) 20:41:13.290
「満州語」とまでは言い過ぎだが、長い清代を通じて、満州人の影響を受けて大きく変わったと言われている。

344世界@名無史さん2017/10/12(木) 06:18:16.780
朝鮮語も、昔は「テニヲハ」が少なく、今よりずっと中国語に近かったと考えられる。

今でも、たとえば、「日本の東芝」というのを、「日本東芝」というように、「の」を省略する傾向がある。
 

345世界@名無史さん2017/10/12(木) 06:19:50.850
関西弁にも、そういう傾向はある。

「目が痛い」を、「目ェ〜痛い」というように、助詞の省略が結構多い
 

346世界@名無史さん2017/10/12(木) 19:54:55.420
明は清に滅ばされたのではなく、李自成により滅ばされました。
清はその李自成を滅ぼしました。
李自成とその残党を滅ぼすことで正当性を主張し、殺された崇禎帝を祀ったり明の制度を活用するなどして明との継続性を示して安心させました。
逆らわない限りは寛容な方針でした。
少数の満洲族が圧倒的に多い漢民族を支配するためには、力で抑えつけることなどできず、漢民族の協力が必要だったのです。

347世界@名無史さん2017/10/12(木) 19:56:27.740
李自成が明を滅ぼしてくれたのは、清にとっては幸運だった。

正統王朝の明を滅ぼした逆賊・李自成を討つことによって、明の継承者になれた。

李自成には、足を向けて寝られない。

348世界@名無史さん2017/10/12(木) 20:01:49.430
唐は貴族

宋は士大夫

元はモンゴル人とトルコ人

明は郷紳

・・・と、中国の上流階級は移り変わっていった

349世界@名無史さん2017/10/12(木) 20:03:19.410
士大夫

宋代の支配者階級を形成した階層。その性格は、次の三つの面を併せ持っているとされている。

1. 政治的には科挙に合格して上級官僚となったもの。

2. 経済的には新興地主(形勢戸)であることが多い。

3. 文化的には儒教的教養を身につけた「読書人」。

なお、宋代の士大夫は、明清では郷紳と言われるようになる。

350世界@名無史さん2017/10/12(木) 20:04:28.930
宋学の主体は誰であるか。
それは「士大夫」にほかならない。
宋学とは、士大夫の学なのであり、士大夫の思想なのである。

士大夫とは何か。

唐代、科挙制度の確立とともにおこり、宋代にいたって確乎不動の勢力となったところの独特の支配階級である。
経済的には地主であることを例としたが、しかし、それは必ずも必須の条件ではない。

士大夫の特徴は、なによりもまず、知識階級である点に、いいかえれば、儒教経典の教養の保持者たる点に、すなわち「読書人」たる点に求められる。
いま少し周到にいえば、その儒教的教養(それは同時に道徳能力をも意味する)のゆえに、その十全なあり方としては科挙を通過して為政者(官僚)となるべき者と期待されるように、そのような人々の階級である。

<島田虔次『朱子学と陽明学』岩波新書1967 p.14>

351世界@名無史さん2017/10/12(木) 20:04:53.840
また、宋代の美術の主流となった文人画を支えたのも、士大夫であった。
右図では、風雅な読書人、文人としての士大夫の生活の理想が描かれている。

352世界@名無史さん2017/10/12(木) 20:05:33.130
次の征服王朝である元の時代になると、科挙が停止されたこともあったため、士大夫層は没落した。

かわって明代に農業生産力の向上に伴って成長した地主層が科挙の合格者としての地位もしめるようになり、彼らは郷紳といわれるようになる

353世界@名無史さん2017/10/12(木) 20:07:12.510
郷紳(きょうしん)

明、清時代に農村における地主で豊かな財力を持ち、地域での名望家として力を持っていた人を言う。
多くは科挙の合格者として官途につき、引退後は故郷に隠棲した人であり、知識人としても活動し、読書人とも言われ明の文化を担う存在であった。

宋代の士大夫に相当する。
イギリスのジェントリーにも郷紳の訳語をあてるが、たしかににかよった存在である。

明から清にかけて、地方の社会の支配階層となり、また小作農からの小作料で生活していたので、しばしば抗租運動の襲撃の対象となった。

354世界@名無史さん2017/10/12(木) 20:09:28.810
郷紳とは読んで字の如く、在郷の搢紳(しんしん)、すなわち地方在住の知識階級にして官位を持ち、同時に大地主、又は資産家を兼ねたものであるが、この階層が社会に及ぼす作用は三つの面に要約することができる。
 
第一は郷曲に武断することであり、これは土地の弱小民衆の上に権力又は財力を以て影響を及ぼし、意のままに動かす作用を言う。
ここで注意しなければならぬのは、この作用は必ずしも常に地方民衆を抑圧するとは限らず、時には民衆の希望を代弁する場合もあったのである。
 
第二は官政を把握することであり、郷紳はその実力によって、地方官庁の政治に圧力を加え、政治方針に干渉したり、その実施に異議を唱えたりすることであった。
これもその結果がいつも害毒を地方に流すとばかりは限ったわけではない。ずいぶん、弱きを助け強気を挫くといった義侠的な行動もあった。
 
第三には更に進んで遥執朝炳、遠方に居ながら中央政府の方針を動かすに至るが、これはどんなことであろうか。
このことばは、先には東林の際に(顧憲成に)、後には復社の張溥(ちょうふ)の場合にも用いられている。

<宮崎市定『中国史の名君と宰相』2011 中公文庫 p.224-225 読みやすいように改行した。>

355世界@名無史さん2017/10/12(木) 20:12:21.340
郷紳、それは、古代の豪族と、近世の科挙官僚を兼ねるような地方の有力者だった。

インドのマハラジャ、日本や西欧の封建領主みたいなものだ (ちょっと違うが)。

やがて、清末民国初の激動期には、彼らが中国社会を動かしていく。
 

356世界@名無史さん2017/10/12(木) 20:17:46.570
明代ともなると、農業生産力の向上に伴い、地主のパワーが極めて強くなった。
その結果、地主は地方の権力者となった。
ついでに、科挙官僚も彼らが占めた。

それに比べて、宋の士大夫は、地主が多かったとはいうものの、「文人」、「科挙官僚」という側面がより強かった。

宋を高く評価する人が多い理由が、ここにある。

357世界@名無史さん2017/10/12(木) 20:21:34.120
周王朝だろ
それ以後の歴史は学ぶ価値無し

358世界@名無史さん2017/10/12(木) 20:54:17.050
いや、中国の最盛期は明王朝

359世界@名無史さん2017/10/12(木) 20:55:11.030
それ以前の歴史も、明へと至るプロセスとしては学ぶ価値がある

360世界@名無史さん2017/10/12(木) 22:50:03.260
>>339
移動するも何もドイツがゲルマン人の故地だが
>>340
鮮卑族のほとんどは六鎮で防人やらされてただろ
暴走した武川鎮は内陸部に入って来たけど他は脱走するかそのままずっと防人

361世界@名無史さん2017/10/14(土) 03:06:45.570
郷紳(きょうしん、満州語:tesu ba i sula hafan)とは、1911年までの君主制下の中国の地方社会で、社会的・文化的地位を有する人を指す。紳士・士紳・縉紳ともいう。

一般的に科挙で得られる肩書き(生員以上)を持っている人を指す。
郷紳は君主制中国の地方社会において大きな役割を果たした。
官員と民衆とのパイプ役として、一方では官員の地方統治に協力し、また一方では官員に対して民衆の意見を代弁する役割を果たした。

しかしその地位を利用し、中間の利益を得て、郷里の民衆を食い物にしていた「劣紳」も少なからず存在していた。
郷紳は、科挙が廃止された後の中華民国でも勢力を保持したが、中華人民共和国が成立して消滅した。

362世界@名無史さん2017/10/14(土) 03:08:01.730
ジェントリ(gentry)は、イギリスにおける下級地主層の総称。郷紳(きょうしん)と訳される。
貴族階級である男爵の下に位置し、正式には貴族に含まれないものの、貴族とともに上流階級を構成する。
貴族とジェントリの間には称号(及び貴族院議員資格)以外の特権的な差異はなく、一つの「地主貴族層」として扱われた。
ジェントリは治安判事など地方行政職を無給で引き受け、地方の行政機構の一翼を担うとともに、中央官職へ人材を供給した。
家柄や所領規模に応じて、バロネット、ナイト、エスクワイアに分類される。

363世界@名無史さん2017/10/14(土) 03:13:31.920
明清は、郷紳の時代。

イギリスのジェントリと同様、地方の地主貴族(そういうのを豪族というんじゃないかと思うが)で、
官僚になる者が多く、教養があってノブレス・オブリージュを自覚していた。

地方で大きな勢力を持っていた。

イギリスも中国も、大陸欧州ほど貴族階級が育たなかったので、そういう連中が代役を務めたということだろう。

364世界@名無史さん2017/10/14(土) 03:15:31.410
それだけ、明清では農業生産力が向上して余剰が発生し、地方が大きな力を蓄えたことを意味する。 

365世界@名無史さん2017/10/20(金) 21:58:07.720
>>363
清は、女真族による植民地時代だろ
アヘンに法外な関税を掛けて政府が専売していた

366世界@名無史さん2017/10/20(金) 22:03:41.830
そこへ、お前たちだけズルいぞと、紳士の国が乱入

はれてシナ人たちは、良心価格でアヘンを購入出来るようになった

367世界@名無史さん2017/10/20(金) 22:55:29.990
安史の乱で、中国は終わった

368世界@名無史さん2017/10/20(金) 22:59:46.780
唐は、滅びた先住民による失われた旧文明

369世界@名無史さん2017/10/20(金) 23:01:10.520
宋はトルコ系王朝

370世界@名無史さん2017/10/20(金) 23:02:10.560
明も、漢族王朝だったのは最初だけ

永楽帝からはモンゴル系王朝

371世界@名無史さん2017/10/21(土) 13:03:19.180
本来、中華とは河南省のことだ

372世界@名無史さん2017/10/21(土) 13:04:39.760
河南省だけが中華と呼ぶに値する

373世界@名無史さん2017/10/21(土) 13:12:26.620
春秋の鄭・宋・衛・陳

このあたりが中華

374世界@名無史さん2017/10/21(土) 13:13:47.090
中原情勢の推移

B.C.722年5月 鄭で共叔段が反乱。
B.C.722年   共叔段の子、公孫滑が衛に亡命したため、鄭が衛を攻撃。
B.C.721年   鄭が再び衛を攻撃。
B.C.720年8月 宋の穆公が薨去し、公子馮が鄭に亡命。
B.C.719年夏  衛・宋・陳・蔡の四ヵ国が鄭の東門を包囲。
B.C.719年秋  四ヵ国が再び鄭を攻撃。
B.C.718年4月  鄭が衛に報復攻撃。
B.C.718年4月  衛が南燕軍を率いて鄭を攻撃するが敗北。
B.C.718年9月  邾が鄭と連合し宋を攻撃。
B.C.718年    宋が報復し鄭の長葛を包囲。
B.C.717年秋   宋が長葛を占領
B.C.716年7月   宋と鄭が宿で講和
B.C.715年春    斉が宋と衛を垂の犬丘で非公式に会談させた。
B.C.715年7月   宋・衛両国が鄭と和平を結ぶ。

375世界@名無史さん2017/10/21(土) 13:15:50.730
↑ こんな調子が延々と何百年も続く

376世界@名無史さん2017/10/21(土) 16:23:34.540
春秋時代は、一応朝廷と諸侯の秩序があって
日本の中世(平安末期〜戦国)に近いんだよ
それ以後ぐちゃぐちゃに成る

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