大陸でモンゴル軍を食い止める方法教えて下さい。 [転載禁止]©2ch.net
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チョン王が最高司令官だったら、女真族に命乞いして、蒙古の馬を転倒させ兵に矢を撃ちかけて全滅させ、ついでにチョン王も女真族に土下座してたろうな。 ハンガリーあたりにもモンゴル軍を大敗させた王様がいたような
案外弱いんじゃモンゴル軍 >>1
オゴタイが死んでモンゴルの西欧侵攻は止まった モンゴル軍の弱点
1.水に弱い
2.暑い土地に弱い
モンゴル軍への抜本的対策・・・地球温暖化 モンゴルは山岳戦にも慣れていないはずだよな。
でも千早城みたいなところにこもっても、無視して通り過ぎていきそうな気もするが。 >>306
どのレベルの山岳を想定してるか知らんが
チベットの山奥とかはジュンガール帝国が根城にしてたし
全然山岳苦手ではないよ 暑さも、思われてるほど苦手じゃないんじゃないか?
中央アジア、タクラマカン砂漠、タリム盆地なんかは、この時期などは熱帯地方よりはるかに暑い 単純な暑さだとそうなんだけど暑くて人口密集してる地域に行くと
マラリアと天然痘になっちゃうから… 遊牧民は乾燥した暑さはけっこう平気だよ
モンゴル高原だって夏は30〜35℃になる インドや中東や日本やベトナムやインドネシアでは負けてたねモンゴル軍
放牧というイメージがない土地ではモンゴル騎兵はダメなのか・・・ >>312
シリア、エジプトでは負けたんじゃなくて大ハーンの主催する大遠征が終わって
もう攻め込まなくなっただけ
モンゴル帝国は〇〇に負けたっていうのは大体、帝国外延部にあって
クリルタイによって帝国を挙げての大遠征をする前に内訌始まって
総力を結集した遠征が行われなくなったこと以外の理由が基本ない そのいっぽう、全力のモンゴルを撃退したインドのハルジーはすごすぎる。 食い止めるから、反抗するんだ。行軍を見送ればよい。 >>315
城門を固く閉めて取り敢えず行軍を見送った都市(城)は多い。
モンゴル軍も不必要な城攻めを強行しないで先に進軍していく。
こういった都市は後でゆっくりと攻め込んで皆殺しにする。 >>314
ずっと前、エフタル(白匈奴)も、インドに侵攻したが撃退されたな
ヤショーダルマンの戦い ハルジーの戦ったモンゴル軍が全力な訳ないだろ。
大カーンのいる元朝は地理的に遠征不可能だし、国境接してるカイドゥとイルハン朝は対立してて、
インド侵攻どころじゃない。
カイドゥが死んだ後はオゴデイ家とチャガタイ家の対立が始まるし。 >>301
国王が降伏勧告をけって国民見捨てて自分だけ逃げたせいで人口を2分の1にされてるんですけど インドに攻め込んだモンゴル軍の実数は、諸説あってよくわからんのだよな。
https://ja.wikipedia.org/wiki/モンゴルのインド侵攻 でも、その後インドの地にムガール帝国なんて名前の国ができるんだから皮肉なもんだ 友達から教えてもらったパソコン一台でお金持ちになれるやり方
興味がある人はどうぞ
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
SSI 宋が火槍の技術をモンゴルに渡さなければよかった。
撤退するときは技術者を残さず連れて行く。
一方でヨーロッパや中東には技術者を派遣して
火器の制作方法を指導する。 色川高志(葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室)の挑発
色川高志「関東連合文句があったらいつでも俺を金属バットで殴り殺しに来やがれっ!! 関東連合の糞野郎どもは俺様がぶちのめしてやるぜっ!!
賞金をやるからいつでもかかって来いっ!! 糞バエ関東連合どもっ!! 待ってるぜっ!!」 (挑戦状) 馬がは入ってこれないようにすれば、モンゴルは止めらるよ。 >>307 >>326
国境に馬酔木を大量に植えておけば、モンゴル騎兵は入って
これないかもな
隙間なくびっしりと、厚みも数キロぐらいの馬酔木地帯を >>235
高麗に嫁入りなんて嫌だろうな
格下の全くの外国だよね >>326
バヤン「南宋は河川や水田が多くて騎兵が使いにくいです」
フビライ「じゃ歩兵と水軍で」 モンゴルの駅伝制をよく研究して工作員を各地に潜入させ、
一斉にニセ情報を流したら、あとは〇〇ハン国同士で
仲間割れ戦争を起こして勝手に自滅してくれませんかねもう。 敵を深追いさせて包囲殲滅とかいう戦術は1000年以上前に孫子などがやっている
古い戦法なのにそれにひっかかるドイツやハンガリーのヨーロッパ勢は
それまで正規軍が正面からぶつかる闘いばかりしていたのだろうか
ヨーロッパ勢も軍勢としては多かったのだからハンニバルみたいな名将がいれば違ったろうに モンゴル同士の戦いでも釣り野伏はやったりやられたりだから 敵が崩れたと判断したら、追撃して戦果を拡大しよう、というのが軍事上のセオリー
相手の崩れが偽りか否かの見極めは、言うは易く、行なうは難し、なのだろう
また、お互い対等な関係にある諸侯達による連合(君主といえども、その最大なる者にすぎない)というのが本質である封建制の軍隊では、
指揮命令系統が明確でなく、末端まで軍令を行き届かし、共同歩調を取らせ、全体を一つの意思のもとに統帥するというのも困難であろう
独断専行、抜け駆け、不和から来るサボタージュ等を生じさせがちになってしまう
下手をすれば裏切りすら
全盛期の共和制ローマ軍のような統一、組織、練度、規律があって初めて、
一糸乱れぬ統帥や複雑な軍隊行動が可能となるのではなかろうか モンゴル人は宗教に抵抗がないから、自分たちの宗教に
改修させて一部を味方につけてしまうのがよい。 チベット仏教の真似をすれば、モンゴルの攻撃を受けずに済むわけか 一回の会戦という話ではなく、長期間に渡る戦争という話でだが、
半世紀近くモンゴルに粘り強く抗戦した高麗のやり方は参考になるだろう
海と河川によって陸地から隔てられた江華島に首都を移して中央政府の機能の安全を確かなものとし、
各地では朝鮮式山城に籠もって堅壁清野に務める、という >>341
生れてはじめてラクダを見たウマは怖がる場合があるかもしれない。
だがそれは相手がサルやイヌでも同じこと。
モンゴル軍はウマは日ごろから友軍のラクダを見慣れているので
そのような効果は望めない。 >>342
ミャンマー侵攻時における戦像に対するモンゴル軍の将校の対処は見事だわ
自分なら未知との遭遇なんて恐慌状態になるw
命がかかってる戦場ならなおさら 騎馬隊めがけて投石機で1kgくらいの石を何百個と発射すればいいんじゃないの? >>344
投石器というのは腰を据えて城を攻める分には使える兵器だが、
野戦で使うのは人手を使いすぎ取り回しが効かない。
なかなか映画のようにはいかない。
Wikipedia 「元寇」より
「明王朝の時代ではあるが、「砲」と呼ばれる投石機は、一番軽い
1.2kgの弾を80m飛ばすのに41人(1人は指揮官)も要した。」 焦土戦術とか堤防の破壊による国土水浸し、あとでどうなるかは知らないが モンゴルの予想侵攻路上に小さくてもいいので堅固な城を築き、わざと包囲させる。
十分にモンゴル兵が群がったところで管制地雷のスイッチオン。
下図は明代のものだが、宋代でも技術的に問題ないだろう。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/eb/%E7%81%AB%E9%BE%99%E7%BB%8F_%28109%29.jpg 圧倒的に人口で勝るホラズムが完全に守勢に回ってしまったのが悪いな
全兵力を上げてモンゴル部隊を一個ずつ潰して行けば勝てたはず >>348
馬邑城事件というのがあってな
匈奴の軍臣単于を誘き出してジャーンジャーンジャーンしようとしたら、察知されて逃げられましたわ
遊牧民は斥侯を放って戦場諜報を入念にやるみたいだから、そういうのは通用しないだろな >>350
モンゴルの斥候とていちいち地面を掘り返して調べたりはしないだろう。 伝染病の病原菌のついた布とかを矢にくくって飛ばす
自分らも被害を受ける諸刃の剣 >>351
大量の火薬を運ぶのを隠すのは非常に難しいと思われ メアリー・マローン(腸チフスのメアリー)のような逸材を
なんとか見つけ出して、モンゴル帝国奥深く送り込む。 >>355
実際問題、帝国崩壊にはペストが関わってるしなぁ むしろ細菌兵器を使ったのはモンゴルではなかったか。
攻城戦でペスト患者の死体を投石器で投げ込んだとか。 >>357
そりゃ自分の中で流行ったものを利用したつー話でな
カッファにペスト罹患者投げ込んだジャニベク・ハンの軍だって
もともとペストで大損害受けてるし 実際のところペストのような疫病は衛生環境に問題を抱えた
定住民の側に大きなダメージを与える。ライフスタイルとして
集住しないモンゴルは都市包囲で長期滞陣しない限り疫病の
大流行は起こらない。
生物兵器は諸刃の剣というが、その刃の大きさは対称ではなく
モンゴルに攻められる側にとってより危険である。 ブルガール人 定住
マジャール人 定住
モンゴル人 さようなら 結局モンゴルの強みは機動力と長射程の弓だろ。
より長射程の弩砲を開発して矢の雨を注ぎ掛けるとかが有効だろうな。 モンゴルは中射程の弓だけ、短射程の弩が装備されると撤退。
ウェールズ長弓兵の出番なし モンゴルの弓は強力な複合弓だけど馬上で扱いやすいように小さいから長射程ではないわな。 勘違いしてる人いるが複合弓の中にも短弓と長弓があって
モンゴル軍は両方持って用途に応じて使い分けてたからね?
短弓のが有名で教科書とかにも掲載されてるけど
実際は長弓使って長射程から一斉射撃を馬に乗りながら繰り返すなんてこともあったし
ナーダムの騎射は75m程度だけどこれは「マンターゲットを狙撃出来る距離」であって
射程距離とは全く違う話だし >>364
当時の絵を見ても、モンゴル軍が持ってるのは
短弓ばかりの気がするがな。長弓持ってる絵ってある? 城壁。
移動し続けてるのは補給を略奪で賄ってるから。
釘付けにされると補給が出来なくなる。 >>333-335
海軍には「頭より早く船を走らせるな」という格言があるけど、
追撃となると勢いがつくから、情報収集・判断・命令伝達の速度を容易に超えてしまい、軍機能を自壊させた状態で追っかけてるだけかもね。 長弓より短弓のが的に当てやすそうなんだけど、どうなの? >>365
エフタル・白フンがインドに撃退されたのもまさにそれだよ >>49
インドはまだ分からなくもないけどエジプトまで行ってたのはすごい 13世紀はホントにモンゴルが世界最強の軍隊だったの?
あんな文化度の低いトコにフルボッコって情けないわ >>269の1面白いねw
1 愚礼 2001/04/11(水) 08:37
はい、おはようございます。
今日も一日、元気ににっくきモンゴルをブッ倒しましょう。 >>360
マジャール人ってのはフン(=匈奴)らしいけどブルガール人もアジアから来たの? >>366
横山版のチンギス・ハーンに金攻略のために9mの槍を練習した話があった気がする >>381
榴弾か散弾撃てる大砲でないとだめだろ。 初期の大砲の弾は石だったんだな
じゃあ霹靂車みたいなのでたくさんの石を飛ばす方が有効だな >>1
モンゴル騎兵に圧勝した鎌倉武士を傭兵に雇う と博多を捨てて敗走した落ち武者の亡霊が申しております 日本軍が圧勝したので当然だが、元寇で博多の街が被害を受けた記録は無い。
文永の役でもモンゴル軍は赤坂までしか到達できなかったし。
菊池武房や少弐景資が頑張ってモンゴル軍を蹴散らしてる間、戦場から遠く離れた博多に
駐屯していた武士たちは、そのまま戦闘に参加することなく夜になると水城に引き上げた。
だから戦後臆病だと批判を浴びることになった。 >元寇で博多の街が被害を受けた記録は無い。
君が知らないだけだろう。過去スレを見直しのこと。 過去スレを見直したらモンゴル軍は赤坂までしか到達してないって結論出てた 確か赤坂で戦い博多を捨てて、水城まで撤退したんだっけ 当時の博多なんて大した町ではない。
水城まで引いたのは作戦。敵を引き込む戦略的撤退という奴だ。 水城がダムなら、モンゴル騎兵をその前に誘い込んで水を流し込み
一帯を泥濘にしてゴキブリホイホイ状態にしてしまう高度な作戦だったのかもよ。 >>392
それはない。
博多の武士が水城に引き上げた時点で、戦場ではまだ少弐景資の手勢がモンゴル軍相手に奮闘してた。
最後は少弐景資がモンゴル軍の副将劉復亨を射倒して勝利してる。 >>389
いま連載中のマンガ『アンゴルモア 元寇合戦記』は史料として
『八幡愚童訓』に依拠してるところが多いから、
モンゴルに博多を占領される流れかな。 執権との御恩と奉公で主従関係を結び、幕府に問題があれば滅私奉公的に
「いざ鎌倉へ」急行する鎌倉武士は外国兵とはわけが違うな
元軍が誤算だった1つに、敵将の首を投げつけたり、掲げたりすると
相手が肝を冷やすと思い込んでいたところかな
しかし、これがかえって鎌倉武士の士気を高める結果につながった モンゴル軍を塹壕戦に誘いこむのはどうかな?塹壕戦は現代でも通用している。
地下トンネルを掘って、要所に伏兵を置き、バルチザンを使って地下トンネル経由で
襲撃または補給路を脅かせばいい。暗闇の中なのであらかじめ情報伝達はきっちり行っておく。
塹壕戦になると弓馬は使えないから、純粋に斬り合いになるし、トンネルの中だから
敵味方の区別も容易ではない。さすがのモンゴル軍も苦戦するだろう。 モスクワ大公国がモンゴルを破ったヴォジャ河畔の戦いやクリコヴォの戦いを見ると
モンゴル騎兵の動きを制約する川のそばを戦場にしたのが勝因のひとつ。 モンゴル軍が勝ったカルカ河畔の戦いやサヨ河の戦いも川のそばが戦場だ 「わざと退却して誘い込む戦法」に用心するだけでも
対モンゴルの勝率はだいぶ変わってきそう。 >>384
元寇は、南宋や高麗人で固めてるので、もはやモンゴル兵でもない。
ジェべやスブタイあたりのサイヤ人系の主力モンゴルを止めるにはどうすれば‥‥ >>404
元寇で南宋や高麗人なんてモンゴル兵の数分の一。
サイヤ人系の主力モンゴルは元寇で鎌倉武士にフルボッコにされたよ。 史料に記されている弘安の役における民族別動員数
高麗兵 1万人
南宋兵 10万人
蒙古兵 40万人 白馬将軍と恐れられた公孫瓚を撃破した袁紹をみると(界橋の戦い)
白馬義従を倒すために屈強な盾兵で突撃を食い止め
周りから弓より射程が長い石弓を一斉射撃 >>43
南宋からすれば女真族の金は本音は殱滅の対象で一円も払いたく無いだろう
攘夷のまず第一は宿敵女真族を討つ事だろ
何とか金を得させずにモンゴルを防ぎたいよな マルコ・ポーロが元ではなく南宋に投石器を
教えてくれれば良かったのだ
あの毛唐は余計な事をしてくれたものだ 湖をわたれないよね?
カスピ海はわたれず、ウラル川もわたれなくて
ペルシャ側から攻略した 核兵器の発射をちらつかせて周辺諸国を征服と聞くと単なるきちがいだが、誰にも撃ち落とせないミサイルを発明してからの軍事行動だもんな。こんなに強い軍団はモンゴルにも存在しなかった >>410
元の投石機はイスラム由来だろ。
でも、バグダッド攻めは南宋由来の投石機と火箭を使った。 >>1
超デカい落とし穴作る
あと馬の耳をおかしくするぐらいの爆音ならす 究極的にモンゴルは本気モンゴル総軍で他国と戦ったことなかったからな
本気の戦力ならワールシュタット×3-5倍の破壊ができる
モンゴル帝国くるまで無敵といわれたアレクサンダーも敵わないし、その後の火縄銃とかの時代でも
不完全な火器では同数以上の戦力がないと応戦厳しい
完全にモンゴル克服できるようになるのは戦列歩兵以上の戦力が実現したらであり、モンゴルの騎兵のリーチと回転の速さは戦列歩兵の回転速度でしか応戦できない
カルバリン砲とかの火力ではまだ歩兵捉えられないしな モンゴル兵の本隊の性質の強さは
騎兵力により、一個の師団単位の攻勢力範囲は縦10-20kmに及ぶので、歩兵の防御では6師団2軍団ないと防御しきれない
一隊の騎兵は1-2kmを前進後退し、射程150-200メートルの曲射の雨を降らせ、中隊単位で1000発の斉射ができる
これはフリントロックやカートリッジ式装薬ありの17-18世紀の銃の回転速度でないと応戦できない
モンゴルが巨大な騎兵を維持できたのは13世紀だけだが、17-18正規の武装でやっと応戦ができる
それまではこの騎兵軍団は13世紀の完全編成状態ならば、十分16世紀の戦場でも厄介な存在であった
そもそもモンゴルのあとにコサック騎兵やドラグーン、トルコ騎兵などの銃騎兵が登場し、これはモンゴル騎兵の延長にある作戦集団
完全な上位互換は19世紀型竜騎兵で、それをもってしかまともに応戦できない
故に欧米は19世紀無敵だった 三菱UFJの株取引で800万円を稼いだ
モンゴルに詳しい研究者「猫准教」とは
https://finance.yahoo.co.jp/cm/personal/history/comment?user=752c60aaa248773c9a72d4218b5e36e46aec205200bc61cf14f147d17dc35a3d
Yahoo掲示板でやっていること
・女性教員を自称
・准教授を自称
・モンゴルに関する自分の考えを投稿
・名古屋大学の学生が掲示板に書き込みをしていたから、みずからの京都大学の身分証の画像を貼る(既に削除済み)
→モンゴル史を専攻している該当の「准教授」は存在していない。講師・助教・研究員については不明。
・個別銘柄である、三菱フィナンシャルグループ(8306)の株式を2023/2/20に売買し、800万円以上の利益を得たスクショを投稿(既に削除済み) 「猫准教」の投稿
13~14世紀は、ユーラシア大陸を語るに於いて、モンゴル帝国の時代だといってもいいでしょう。彼らは破壊の限りを尽くしたけれど、奇しくもそれが東西交流の発端にもなった。なにせ中東・イスラム文化の殆どを破壊し、果ては今でいうルクセンブルクを超えるぐらいにまで迫るもんだから、欧州文化はこの破壊の疾走に恐怖を覚えたものでしょう。その証拠に当時のローマ教皇は、タタール人をキリスト教に改宗させるために修道使節を派遣しているし、同じくフランス王も懐柔使節を派遣しています。
その甲斐もあったんでしょう、東西交流は矛戟を構えることなく進み、安全が確保されたことから、後のマルコ・ポーロが出てくる地盤が構築されました。
このように、曲がりなりにも交易路というものが獲得されれば、自然と文化の成長変化もあらわれます
今回特筆しようものは、アジアに於けるその学問で、元の郭守敬はアラブの数学を会得して授時暦という太陰太陽暦を編み出し、これは後の日本で頭角を現し、日本独自の暦を作り、日本初の天文学者とされる渋川春海が考案した貞享暦にもおおいに影響を与えたもので、歴史的発明のひとつといえるでしょう
しかしながら、元国内に限っては、官吏登用制度である科挙が一時廃止されたこともあって、士大夫(上級官吏)階級の地位が低下したため、中国(元)由来の学問や思想は生じなかったという側面があるものの、政界から離れた知識人が市井郷里に戻ることで、かわりに庶民文化というものが発達し、なかでも趙孟を原点とする文人画家は、黄公望、倪、呉鎮、王蒙ら四大家によって漢代発祥とされる宗炳が方向づけた山水画の描法が様式化され、南宋画というものが確立されました
余談にはなりますが、この中国から伝播した南宋画の模倣から脱却したのが、かの有名な雪舟であり「天橋立図」や「秋冬山水画」などは国宝として今でも国に管理され、日本の絵画史において格別の評価を得ています
末尾として、もう少しだけ中国文学に触れておくと、日本でも不朽の名作として万人に知られる「水滸伝」や「三国志演義」などの劇場型文学は、その原型が元代にできあがったといわれています。この両作品に共通する傾向は、社稷を蝕む高級官僚に国を憂う正義の英雄たちが挑むも、志半ばで悲劇的な結末を迎えるという内容で一致しており、当時の抑鬱された民衆感情が色濃く出た、わかりやすい作品です ムハンマドが塹壕思いつくまで誰もやらんかったんだから
穴ほったら馬落ちるんでね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています