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日本人の起源を考えてみる(呉起源説)(2) [無断転載禁止]©2ch.net
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0001世界@名無史さん
垢版 |
2016/05/05(木) 21:11:12.760
日本人(日本社会)の起源は呉(中国人・中国社会)って説を聞いた事がある(流石に起源は多数だろうが)
100%ウソだと思うか?数%ぐらいなら本当(複数の起源の1つ)だと思うか?どうなんだと思う?
心酔的な皇国史観の水戸学派の連中だと血相を変えて怒りそうだが?(苦笑)

俺たちって呉(中国人)の末裔なんだろうか?それとも100%別物?

根拠1)中国大陸で呉が滅んだ時代と日本での古墳文化の始まりがほぼ同時期なのは何故?
船舶の建造・運用は呉の民のお家芸(得意技)だろ、国が滅んだなら船舶で脱出するのは自然では?
呉の民が日本列島の上層部に知識・技術で食い込む事は可能だったのでは?

根拠2)名称(呉服・呉・中国地方)
伝統的な日本人の民族衣装(和服)の名前が何故に呉服なの?(和服≒呉服)(偶然か?)
日本国内に呉って名前の都市がある→呉(クレ)のある瀬戸内地域の名称は中国地方(偶然?)

根拠3)中国人と日本人の外見が酷似しすぎている
中国人と日本人を外見で区別する事は何故か不可能・・・似てるにも程があるだろう

ドイツ系とフランス系・スペイン系は外見で容易に区別が出来る
他人の空似って事もあり得るが中国と日本に血縁関係があると推定するほうが自然では?

さてさて、如何ですかな?
0523世界@名無史さん
垢版 |
2016/08/11(木) 13:47:40.500
江南の高床式『住居』は5000年前にはほとんど消滅している。 その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式『倉庫』を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式『倉庫』が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html
0524世界@名無史さん
垢版 |
2016/08/11(木) 13:48:58.250
江南の高床式『住居』は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式『倉庫』を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式『倉庫』が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html
0525世界@名無史さん
垢版 |
2016/08/11(木) 13:51:26.950
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html
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