ヒンドゥー文明・インド文化圏・インド人の歴史2 [無断転載禁止]©2ch.net
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ヒンドゥー文明やその文明の影響を強く受けた地域、デーヴァナーガリー文字を
元に文字を作った国の文化、社会、歴史、宗教や、世界のインド人街の歴史について語るスレです。
主な対象国・地域
インド、パキスタン、ネパール、ブータン、チベット、モンゴル、内蒙古、マレーシア、
バングラデシュ、ミャンマー、タイ、カンボジア、スリランカ、シンガポール、
インドネシア、フィリピン、トンガ、バンクーバー、トロント、香港、ロサンゼルス、
ニューヨーク、ロンドン、パリ、西葛西、東アフリカ、南アフリカなどです。 ___ _
ヽo,´-'─ 、 ♪
r, "~~~~"ヽ
i. ,'ノレノレ!レ〉 ☆ 衆議院と参議院のそれぞれで、改憲議員が3分の2を超えております。☆
__ '!从.゚ ヮ゚ノル 総務省の、『憲法改正国民投票法』、でググって見てください。
ゝン〈(つY_i(つ 日本国憲法改正の国民投票を実施しましょう。お願い致します。☆
`,.く,§_,_,ゝ,
~i_ンイノ インド文明史の初期に係る通説は、概ね、次のような感じです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%B3%E6%95%99
遺憾ながら、上掲中には、バラモンないしカースト制の起源が出てこないのですが、
現在、インドのヒンドゥー教徒は、概ね次のように考えているようです。
リグヴェーダを生み出した(Rigvedic)人々は、インド亜大陸に、戦士達(warriors)としてでなく、
司祭的諸家族(priestly families)としてやってきた。
http://ejje.weblio.jp/content/Rigveda
彼らは亜大陸を、若干の歴史家達が我々をそう信じさせたいように剣の力によってではなく、
地域の諸王のお墨付きを得た庇護を獲得するために用いたところの、議論(debate)と
魔術研究(magical ritualism)における卓越した技量によって、勝ち取ったのだ。・・・
その彼らは、敵対的諸部族や対抗的諸派と接触するにつれて、<次第に、>一つの集団
としての自分達のアイデンティティ・・・人種的純粋性と諸家系・・を維持するためにカースト制
に訴えることとなったのだ。・・・このことは、・・・<彼らが生み出した>リグ=ヴェーダ全体の
中にカースト制への言及がない、という事実から明白だ。
http://www.hinduwebsite.com/hinduism/h_caste.asp
つまり、渡来民は、武力ではなく「知力」によって、亜大陸における最上位階層となったとし、
それがカースト制の起源であることを示唆しつつ、どうしてバラモンが、自分達より低い階層
との間に壁を設けることになったかについても簡単に説明されているわけですが、その説明を
補完するのがロバート・デソウィッツ(ROBERT S. DESOWITZ)の説です。
<渡来>人が経験したことのない感染症を原住民が保有・保菌している事態が出てきた。・・・
これらに対応するために<渡来>人が取った政策が<渡来>人とそれ以外の民族との
「隔離政策」「混血同居婚姻禁止政策」である。<当初>は「純血人」「混血人」「原住民」
程度の分類であった<が>、「混血<渡来>人」を混血度によって1〜2階層程度に分けた
ため、全体で3〜4の階層を設定した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88 しかし、そもそもどうして、武力ではなく「知力」なんぞによって、バラモンは亜大陸における
最上位階層に収まることができたのでしょうか? そのためには、まず、インド亜大陸原住民の
ドラヴィダ人がどういう人々であったかを押えておく必要があります。
インダス文明はドラヴィダ人によるものだと[いうのが有力説であり、現に、ドラヴィダ語の
分枝であるブラーフーイー語をしゃべる人々が、現在のインド(及びスリランカ)のドラヴィダ語
地区から遠く離れたパキスタンとアフガニスタンの一部に現存しているところ、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%80%E8%AA%9E%E6%97%8F
インダス文明の都市の下水や排水システムは、今日のパキスタンとインドの多くの諸都市
よりも整備されていた、というほどその文明は高度であったというのに、
「被葬者間に際立った社会的格差が見られ<ず>、・・・他の古代文明<や後のインド文明>
とは異なり、[政治の中心であるはずの都市に住んでいたのは商工業者らしき者達ばかりで、]
戦の痕跡や王のような強い権力者のいた痕跡<も>見つかっていない」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%B9%E6%96%87%E6%98%8E
http://en.wikipedia.org/wiki/Indus_Valley_Civilization
という点が極めて注目されます。
縄文時代に生き写しですし、支那の江南文化にも似ていますね。ところが、縄文時代や
江南文化と違って、インダス文明/ドラヴィダ人がどうしてそうだったのかの、まともな説明を
目にしたことがありません。上掲の英語ウィキペディアは「インダス諸都市の巨大な・・・防護
諸壁が・・・人々を洪水群から守っただけでなく、軍事的諸紛争を思い留まらせた(dissuade)
という可能性が最も高い」としていますが、その部分に典拠が付いていませんし、そもそも、
全く説明になっていません。そこで、大胆な仮説を提示してみましょう。 インダス川流域は、春から秋まで猛烈な暑さです。
http://www.pakistan-travelguide.net/001/post_5.html
そのお隣の北部インド一帯の酷暑ぶりは、比較的よく知られているところであり、
http://www.tabi2ikitai.com/geography/j0101a/a01024.html
http://paraiso100.blog.shinobi.jp/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E6%B0%97%E5%80%99%E3%81%AF%EF%BC%9F/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%A3%E3%81%A6%E6%9A%91%E3%81%84%E3%81%AE%EF%BC%9F
暑いと外で激しい作業に従事したくない、というか従事できないのであって、年間の殆んど、
戦争などという激しい作業などやる気も起きない、ということだったのではないでしょうか。
農業は、想像するに、インダス川流域の豊富な水と肥沃な堆積土頼りの粗放農業で、
商工業者は、できるだけ室内に閉じこもっていた、と推測するわけです。(当時は空調が
無かったので、室内もうだるような暑さだったと思いますが、外とは比較になりません。)
戦争と言っても、理論上は、インダス文明内での戦争のほか、インダス文明以外との
戦争もありうるわけですが、それも無かったことを示唆しているのが、下掲の事実です。
インダス文明滅亡の原因<については、>・・・「アーリア人侵略説」をはじめとする
外部からの侵略説がまず滅亡の原因として唱えられ<てい>た<が、>最近では
紀元前2000年頃に地殻変動が起こって、インダス川の流路が移動したために
河川交通に決定的なダメージを与えたのではないかという説が有力になっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%B9%E6%96%87%E6%98%8E
つまり、インダス文明が衰弱してきて、餌食にされても不思議ではない時点に至っても、
なお、外敵は出現しなかったらしいというのです。 「同時代のエジプト及びメソポタミア両文明とは対照的に、インダス渓谷においては、
記念碑的な神殿群や宮殿群が全く欠如しているのだ。発掘された諸都市が示すところに
よれば、そのための必要不可欠な知識をその社会が有していたにもかかわらず・・。
これは、宗教的諸儀典が仮に存在していたとしても、それらが個人の家々、小神殿群、
ないしは屋外でしか概ね行われなかった、ということなのかもしれない。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Indus_Valley_Civilization
これは、日本の縄文時代にだって、環状列石のような、宗教施設としか考えられない
遺跡群が存在していることに照らせば、インダス文明には、(呪術的なものを含め)
宗教そのものが存在しなかった可能性を強く推認させるものである、と私は考えています。
2012年の調査によると、現在、無宗教者が大半を占める「国」は、中共、北朝鮮という信教の
自由のない国は別にすれば、チェコ、エストニア、香港、そして日本の4カ「国」しかありません。
http://www.christiantoday.co.jp/articles/11570/20121219/news.htm
しかし、そういう「国」が存在しているという事実こそ重要であって、これは、大昔にだって、
宗教が必要でない条件さえ揃っておれば、無宗教の文明があっても不思議ではないことを
示しています。
そんなインダス文明の人々にとって、気候変動という見えない巨大な力が働いて、
(時間は相当かかったのでしょうが、)インダス渓谷が居住不適地になって行き、
一種のユートピアであったインダス渓谷から立ち去らざるをえなくなったことは、
どんなに大きな衝撃であったか、想像に難くありません。
そんなところへ、それほど時間を置かず、渡来人がインド亜大陸にやってきたのです。
渡来人が馬を駆使する戦車等、高度な武器をひっさげてインド亜大陸にやってきたことは、
下掲から間違いなさそうです。 「インドでは、紀元前二千年頃からアーリア人の侵入が始まったが、彼らはヴェーダと
総称される聖典群と、それにもとづく壮大な祭式のシステムを有していた。・・・国王の即位
儀礼として・・・駿馬が放たれ、一年間、領国内を自由に移動<させ>る。これを・・・軍が守り、
それと同時に祭場での祭式も断続的に行われる。最後には、放たれていた馬が供犠され、
新王に灌頂が与えられる。・・・<これは、インドにおいて、>馬が王権と結びついた動物で
あることをよく示す儀礼であるが、馬は戦車・・・の一部として、実際に王の進軍や戦闘の
場面で活躍した。」(森雅彦「インドの馬と伝馬」より)
http://mmori.w3.kanazawa-u.ac.jp/works/article_pdf/10_35indo_uma.pdf
さて、先住民はこの渡来人の「侵攻」と戦わなかったのではないか、とあえて想像したいのです。
先住民は、馬にも武器にも脅威を感じるどころか何の関心も示さず、その代わり、「ヴェーダと
総称される聖典群と、それにもとづく壮大な祭式のシステム」に目を輝かせた、と思うのです。
なぜか?それが、彼らにユートピアのようなインダス渓谷から離れなければならなくなった
理由を教えてくれるとともに、彼らがこのことが齎したフラストレーションと爾後のより惨めな
生活から解放される手段を提供してくれたから、と考えるわけです。
宗教観念の無かった先住民は、渡来民を、一種の科学者集団と受け止めた可能性がある。
「レヴィ=ストロースは、思考様式の比較という観点から、呪術<・・「宗教」と言い換えても
よかろう・・>をひとつの思考様式としてみなした。科学のような学術的・明確な概念によって
対象を分析するような思考方式に対して、そのような条件が揃っていない環境では、思考する
人は、とりあえず知っている記号・言葉・シンボルを組み立ててゆき、ものごとの理解を探る
ものであり、そのように探らざるを得ない、とした。そして、仮に前者(科学的な思考)を
「栽培種の思考」と呼ぶとすれば、後者は「野生の思考」と呼ぶことができる、とした。
このような思考方式は、いわゆる"未開社会"だけに見られるものでもなく、現代の先進国でも
日常的にはそのような思考方法を採っている<とも>指摘し<た。>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%AA%E8%A1%93 仮にそうであったとすれば、先住民は、渡来人の「侵攻」に対して抵抗しなかっただけでなく、
渡来人を、敬意をもって進んで支配者として受け入れた、としても不思議ではないでしょう。
渡来人の聖典群の中には、元から輪廻についての言及もあったに違いありません。
「輪廻(reincarnation)に関連する諸観念は、異なった諸地域で独立して生まれたかも
しれないし、文化的接触の結果として普及したのかもしれない。・・・若干の人々は、
プロト印欧宗教の中に輪廻信条が存在したということさえ示唆している。古代の欧州、
イラン、そしてインドの農業諸文化の中で、生誕、死、そして再生誕のライフサイクルが、
自然な農業サイクルのレプリカと認識されていた。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Reincarnation
そして、この輪廻信条を援用して、(渡来人と先住民が混血した新しい社会が創生されていった
ところの北インドにおいて、)前述したように、カースト制のはしりが生まれた、と見るわけです。
ただし、この新しい社会においては、渡来人が持ち込んだ観念と武器によって、渡来人系の
人々が主導する社会内戦争が多発することとなった、と考えられます。当然、社会内戦争の
担い手となった渡来人たる戦士達に対しては先住民側から軽蔑の眼差しが注がれたはずです。
そこで、渡来人側は、既に先住民側と混血が進行し始めていたところ、自分達を、戦争を担って
いなかった集団を相対的に貴い仕事たる科学(祭祀)に従事するバラモン、戦争を担っていた
集団を戦争や統治といった相対的に賤しい仕事に従事するクシャトリア、という二つに区分し、
クシャトリアはバラモンを奉ることにした、と想像したいのです。
更に、クシャトリアは、事実上彼らが各単位(各国)の権力を掌握していたにもかかわらず、
多くの場合、世襲制の国王にはならず、(それが先住民側由来なのか渡来人側由来なのかは
定かではありませんが、)サンガ・・部族民の代表達による集会で選出された首長が行政権を持つ、
一種の共和政を隠れ蓑にした統治に委ねた、と考えられます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%AC 更に、クシャトリアは、事実上彼らが各単位(各国)の権力を掌握していたにもかかわらず、
多くの場合、世襲制の国王にはならず、(それが先住民側由来なのか渡来人側由来なのかは
定かではありませんが、)サンガ・・部族民の代表達による集会で選出された首長が行政権を持つ、
一種の共和政を隠れ蓑にした統治に委ねた、と考えられます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%AC
そこに現れたのが釈迦(BC624〜463年生、BC544〜383死)です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6
彼は、現在のインドとネパールの国境地帯の、このサンガ制の下にあった、小国シャーキャの
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6%E6%97%8F
首長であった父の下に生まれたのですが、この父が渡来人なのか、渡来人だとしてアーリア人
系なのか、はたまた先住民なのか定かではないことからすると、既に混血していたと考えられる
ところです。ちなみにシャーキャは、釈迦出家後に、隣国のたる大国でやはりサンガ制下の
コーサラに攻め滅ぼされることになります。
この釈迦が悟りを開いて唱えたこと・・それが後に仏教になった・・は一体何だったのでしょうか。
詳しい方ならば、それが利己主義化以前の人間性への回帰であり、人間主義者になる方法論
であったことは、先刻ご承知のことでしょう。
問題は、枢軸の時代の世界の哲人達は、皆、基本的に人間主義への回帰を企図したにも
かかわらず、どうして、釈迦だけがそのための最も正しい方法論を発見できたのか、です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%A2%E8%BB%B8%E6%99%82%E4%BB%A3
それは、戦争、(被支配者の)隷属、そして飢餓といった、農業社会に付き物の苦難に苦しめ
られるようになってから、一番年月が短く、しかも、被支配者の隷属の度合いが相対的に低い
サンガ制がかなり普及していた、つまりは、人間主義社会の時代の記憶が消えておらず、
しかも、相対的に人間主義的な統治下にあった、古代インドに釈迦が生まれたからこそでしょう。 そして、釈迦の思想に耳を傾けた人々の側も、支配者、被支配者を問わず、それが真理である
ことを容易に察知できたはずであり、その思想が急速に広まったことは想像に難くありません。
その結果、何が起こったか? 釈迦の思想が普及した地域では、カースト制の原初形態は
弱められ、各社会の人間主義度は顕著に向上したはずです。
さて、釈迦の頃に、既にガンジス川下流域にマガダ国という国が存在していました。
そのマガダ国のナンダ朝を滅ぼしてマウリヤ朝を創建したのが、北西インドを拠点にした
ジャイナ教徒のチャンドラグプタ(Chandragupta。在位:BC317?〜298?年)でした。
カウティリヤが彼の軍師であり、このマキャヴェリストの補佐の下、チャンドラグプタは強権的な
勢力拡張と統治を行いました。「強権的な勢力拡張と統治」が可能であったのは、チャンドラグプタ
やカウティリヤの能力もさることながら、その対象となった人々の多くが「大人しい」仏教徒であった
からではないでしょうか。なお、チャンドラグプタの事績が比較的良く伝わっているのは、
当時の北西インドまで、ギリシャ系のセレウコス朝の支配が及んでおり、同朝からマウリヤ朝に
大使として派遣されたギリシャ人のメガステネスが記録を残しているからです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E6%9C%9D
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%83%97%E3%82%BF_(%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E6%9C%9D)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%AC%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%8D%E3%82%B9
マウリヤ朝の二代目はチャンドラグプタの息子のビンドゥサーラ(Bindusara。BC293?〜268?年)
ですが、彼はアージーヴィカ教徒であったところ、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%A9
三代目となったのが、その息子のアショーカ(Ashoka。在位:BC268?〜232?年)でした。 「アショーカは即位後仏教に帰依し、仏教の教えを広めるためにヘレニズム諸国やスリランカに
使節を派遣した<が、>・・・彼の摩崖碑文などでダルマの内容として繰り返し伝えられるのは
不殺生(人間に限らない)と正しい人間関係であり、父母に従順であること、礼儀正しくあること、
バラモンやシャ<−マ>ンを尊敬し布施を怠らないこと、年長者を敬うこと、奴隷や貧民を正しく
扱うこと、常に他者の立場を配慮することなど<であ>る<ところ>、統治上の理由から辺境の
諸住民に対しては「ダルマ」の仏教色を前面に押し出さないように配慮がなされている。彼はダルマが
全ての宗教の教義と矛盾せず、1つの宗教の教義でもないことを勅令として表明して<いる。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E7%8E%8B
という次第ですが、「統治上の理由から」云々、と言ってはいけないのであって、アショーカは、
仏教が本来宗教でないことを正しく理解していた、ということだと思うのです。
しかし、その結果はインド亜大陸に大きな悲劇をもたらすことになります。
「アショーカ王は晩年、地位を追われ幽閉されたという伝説があり、また実際に治世末期の
碑文などが発見されておらず、政治混乱が起こった事が推測される。・・・<そして、>
アショーカの死後、マウリヤ朝は分裂<する>」(ウィペディア上掲)ところ、その最大の原因は
アショーカの仏教に基づく平和志向/軍事軽視であった、というのが私の考えです。
しかも、それに留まらず、インド亜大陸において、アショーカがインド亜大陸全体に広めた
仏教の平和志向/軍事軽視の姿勢は、仏教と切り離された形でその後も「堅持」される事となり、
マウリア朝以後、インド亜大陸は、内生的な統一、ないし帝国形成を果たせぬまま、後に、
外来の、イスラム勢力やイギリスによる支配を受け続けることになるのです。 私はアショーカ後に、インド亜大陸において、復活強化されたカースト制、及びそれと不可分
の関係にあるヒンドゥー教が、バラモン教を換骨奪胎して生まれ、仏教に代わって大部分の
亜大陸住民の間に広まったのは、仏教では、打ち続く戦乱、就中、外来勢力による略奪的
侵攻や支配に抗して、彼らの生活の自律性を維持することができなかったからであり、
彼らは、ヒンドゥー教によって聖化されたカースト制に拠って自分達の生活の自律性を
カーストごとに維持する以外に抗する手段が無かったからだ、と思うのです。
なお、仏教が西方には伝播せず、東方にだけ伝播したのは、西方が畑作地域であったのに対し、
インド自体東半分は水田耕作地域であったところ、東方においては、東南アジアや日本列島の
ような水田耕作地域や、支那大陸のような南半分が水田耕作地域だったからだ、と私は最近
思うに至っています。稲作地域の人々は人間主義的なので、仏教を受け入れる基盤がある、
と言えそうだからです。 アショーカは若い頃は残酷アショーカと呼ばれて
人殺しの館などを作っていたそうな。 インドの人々は外国人との交流を嫌って
会っても塩で清める習慣があると本にあったが日本人と同じジャンって思った
基本、閉鎖的なんだね 「どうしてインダス文明は、人類を利己主義化させる農業文明だったのに、
人間主義的文明たりえたのか」という、かねてからの疑問への仮説的な答えを
思いついたので、これらについてまとめてみようと思います。
ヨガの日本語ウィキペディアには、次のような記述があります。
<ヨガは、>・・・インダス文明に、その遠い起源をもつ可能性が指摘されている。
同文明の都市遺跡のモヘンジョ・ダロからは、坐法を組み瞑想する神像や、
様々なポーズをとる陶器製の小さな像などが見つかっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AC
ちなみに、ヨガの英語ウィキぺディアにも、
「ヨガの起源はヴェーダ期よりも前のインドの諸伝統にまで遡るとの推測がなされてきた」
http://en.wikipedia.org/wiki/Yoga
という記述があるところです。
そこで、私は、以下のように想像を膨らませてみました。
インダス文明(5,300年前〜3,300年前。最盛期は4,600年前〜3,900年前))
http://en.wikipedia.org/wiki/Indus_Valley_Civilization
の人々は、「坐法を組み瞑想」した、つまりは、念的瞑想(仏教的瞑想)・・サマタ瞑想
ないしヴィパッサナー瞑想+サマタ瞑想・・を実践したのであり、そのおかげで彼らは、
農業文明下での非人間主義化を免れていた、と見るわけです。
彼らは同時に、ヨガの原型であるところの、「様々なポーズをと」って体操・・柔軟体操や
ストレッチ・・もやっていた、とも見るわけです。
どうして、農業文明は数多あれども、(そもそも非人間主義化しないメカニズムを内包
していた日本文明は別にして、)インダス文明だけが、(しかも、長江文明等の稲作文明に
比べて相対的に非人間主義度の高い麦作(小麦/大麦作)文明であったというのに、)
念的瞑想を「発見」し、非人間主義化を免れることができたのでしょうか。 肝心なのはこれからです。インダス文明人はドラヴィダ人であったという有力説(上掲)に
拠ることとし、インド亜大陸の東方及び南方には狩猟採集生活を送っていた、同族の
ドラヴィダ人がいた、と想定するわけです。
どうして彼らが狩猟採集生活を送っていたかですが、
「小麦・・・は、温帯から亜寒帯にかけて栽培され」る作物ですし、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%A0%E3%82%AE
「大麦<は>・・・寒冷と乾燥を好む」作物
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%83%A0%E3%82%AE
ですから、高温多湿のヒンドゥスターン大平原では当時、農業社会は形成されていなかった
と思われるからです。
(高温多湿地域に適した稲作は、約1万年前に長江流域で始まり、水田稲作も約8,000年前に
同流域で始まっていますが、朝鮮半島や日本への伝播すら約3,000年前であり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E4%BD%9C
インダス文明の頃にはインド亜大陸へは伝播していなかったのではないでしょうか。)
さて、私は狩猟採集社会の人々は人間主義的であったと考えているところ、それがゆえに、
インダス文明の人々は、この同族から攻撃を受けることがなかったと思われる上、インダス文明
の人々の間で、農業社会化に伴う非人間主義化傾向が現れる都度、人間主義を維持していた
同族との交流を通じ、彼らは、反省を余儀なくされ、一体自分達はどうなってしまったのか、
と沈思黙考する者が現れ、そのような背景の下で、念的瞑想が再人間主義化させてくれることを
「発見」した、と私は想像したのです。
インダス文明が滅んでからも、その人々は麦栽培技術を携えて、環境条件は悪いけれど、
ヒンドゥスターン大平原で、引き続き細々と麦作農業を営んだと想像できますし、やがて、
稲作技術も伝播し、麦作の技術改善もあり、現在のような米や小麦で、輪作を行う社会が
形成されていったと考えられます。 釈迦がスジャータという女性に供された乳粥は、米と乳が基本材料のよう
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%BF
http://ameblo.jp/winterorange/entry-10307557984.html
ですから、釈迦の時代に既に稲作が行われていたことは間違いなさそうです。
当然、瞑想や体操の習慣も維持されたことでしょう。
ところが、そこへアーリア人が渡来し、同時に、アーリア人相互の戦争も持ち込まれ、
ヒンドゥスターン大平原は、戦乱や暴力が横行する地へと様変わりします。
そのため、否応なしに、ドラヴィダ系の人々の間でも非人間主義化が進行します。
これに伴い、ここでも想像を逞しくすれば、瞑想や体操についても、その内容や意味が
変質して行ったと考えられるのです。すなわち、非人間主義化した社会においては
人間主義的であり続けることは社会的弱者の立場に甘んずることを意味することから、
念的瞑想は廃れ、形だけの瞑想に堕して行き、それが劣化した体操と合体し、超能力的な
ものを獲得できるといった触れ込みで、「生死の境を行き来するような激しい苦行」・・
人間主義化どころか、心身を弱らせる愚行・・を行うことで、虚勢を張るために用いられる
ようになった、と私は考えるに至っています。
その間接的根拠は、これも釈迦の事跡です。
「生死の境を行き来するような激しい苦行」こそ、出家後、6年間釈迦が行い、ついにその
無意味性を悟った営みだった(スジャータのウィキ上掲)ことを思い起こしてください。
「乳<粥>を食して・・・川に沐浴した・・・釈迦は心落ち着かせて近隣の森の大きな菩提樹
下に座し、・・・遂に・・・悟りを得・・・た」(同上)わけですが、要は釈迦は、この6年間、
色々試してみた結果、念的瞑想が良さそうだという感触を掴んだからこそ、休憩して心身
の健康を回復した後、本格的な念的瞑想を行ったのであり、その結果、彼は、悟ること、
すなわち、人間主義者に回帰することができた、ということだと思うのです。 【アニメ】ヒンズー教聖職者が「ドラゴンボール超」に激おこ 「我々の崇高な神が“悪役”にされている!削除しろ」 緊急声明発表★2
http://hayabusa8.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1486824042/ トルコのイクター制に負けたけど
この頃のインドは各地の領主が土地を支配し西洋や日本と似た状況だったと思うが
トルコに攻められて破壊されて
西洋や日本のような時間をかけた中世的な発達ができなかったと考えていいんですか? >>25
ヒンズー教で良かった。イスラム教だったら集英社はやばかった。 紙のFTより。インドが、中共の向こうを張ってアフリカ諸国取り込み戦略を
展開していること、奨学金を出してアフリカ諸国の学生招致を図ってきていること、
しかし、昔から黒人差別が激しく、やってきた学生達が憤激していること、
が報じられていた。
マハトマ・ガンディー大学に留学している学生の話まで出て来て、申し訳ないが
笑っちゃったよ。だって、ガンディー自身がひでー黒人差別主義者だったもんな。 ここかぁ歴史に関しては
インドのネットではどんなことが語られてるんだろうね >>33
いくつか見た中では、「おまえらもインド人なら、これくらい知っとけ!」
的なノリの、愛国者っぽいのが多かったな。
インド人は歴史に疎くて、自国の歴史を知らんからねえ。 歴史に無関心なのがインド文化なんだから
「歴史を知っとけ」なんて言う人はインド文化を軽んじてる 何度生まれ変わっても同じカーストなんだから
歴史を勉強する意欲はわかないよ 生きている間の行いの善悪によって転生時のカーストは上下する(下がり続けると動物に落ちる)
階段を上っていってバラモンとなり、そこで功徳を積むと輪廻から解放されてアガリという仕組み >>37
そこらへんの輪廻転生の教義はどの地域でも同じなんですか? 輪廻から解放されるまで何度輪廻を繰り返してどのくらいの時間がかかるのか知らんけど
仏教で解脱するまでの気の遠くなるような長い修行期間もヒンドゥーの時間スケールを踏まえてるんだろうから
恐らく仏教の修行期間と同じようなものだろう
仏教の修行期間は五劫だそうで
修行がほとんど完成しかけてる弥勒菩薩があと56億7千万年で修行完成らしい
ヒンドゥーの時間スケールもそんなものなんだろう それくらい時間がかかる輪廻転生からの卒業を、
この人生で実現しましょうというのがお釈迦様の教え 親鸞は無条件で上がりに持って行ったな
たぶんあの世でキリスト教徒が最後の審判を待ってる待合室と、浄土教の浄土って同じ場所だと思うw 親鸞の浄土も、正確にいえば真仏土浄土と化身土浄土に分かれる。
化身土浄土のほうが、世間の一般人がイメージする「天国」に近い。
真仏土浄土は、光しかないような世界。 古代インドでは、誰もが輪廻転生を当然の前提として話をしていた。
インド人が「ここで」と言えば、それは「この世で」を意味した。
「ボクは今、ここで王様をやってます」とか、「私はここで乞食をやってます」とか。
そういう感じ。 インドの隣にあって、なにかと関係が深い中東とイスラム圏にとっても、
このインドの転生思想はよく知られていた。
輪廻転生について、キリスト教の教会は否定しているが、聖書にはとくにコメントがない。
コーランには、「輪廻転生は誤り」と明記されている。 イスラム教が登場する以前の中東には、仏教とキリスト教がもっと広がっていた インダス文明の地であるパキスタンがイスラム圏になってしまったのは、
ヒンドゥー文明圏にとっての痛恨事 古代地中海文明の地であるギリシアがキリスト教の本拠地になってしまったのも インダス文明がヒンドゥー文明の先祖なんて証明されてない インダス川流域とガンジス川流域は、同じヒンドスタニ人の国だったが、
イスラム圏とヒンドゥー圏に別れてしまった。
イスラム川ではアラビア文字を使い、アラビア語からの外来語が多いので、
今では別の言語になってしまった。 中国では、黄河が文明の発祥地とされてるが、長江でも掘れば掘るほど古い遺跡が出てくる。
インドも、インダス川が文明の発祥地とされてるが、
本当はガンジス川だって勝るとも劣らないほど歴史が長いはず。
ただし、古代のガンジス川流域が、移民の多い未開のフロンティアで、マガダ国か新興国だったのは確か。 インダス川や黄河のように、砂漠かそれに近いところを
流れている大河では、灌漑による人工的な農耕文明が発達する。
ガンジス川や長江は、周囲が高温多湿なので、そこまでする必要がない。 アケメネス朝、ササン朝のペルシア帝国やイスラム帝国、マケドニア帝国のようなインドの西方に勃興した帝国は多くが現在のパキスタン辺りまでが最大領域になるけど、なんで? 逆に、インドの王朝がどれだけ強大化したときでも、
版図はパキスタン、アフガニスタンあたりが限度。
それ以上にまで広がった例はない。 文明圏の境界線ってのは、そういうものなんでしょうな 西北から侵入してインド攻略に成功した勢力だって、いくつもある。
でも、ペルシャや中央アジアの領土と、インドの領土を、両方とも維持できたケースがない。
中国の場合は、唐とモンゴルが、中央アジアから中国に
またがる大帝国を実現したのだが、インドでは無理。 「ペルシャからインドにまたがる大帝国」は、歴史上にひとつしかない
イギリスだ イギリスを除いて、歴史上で最もその域に近づいたのはティムールだろう。
モンゴル帝国の西半分を回復して、さらにインドの首都デリーをも占領した。
だが、インドに長くとどまって支配体制を確立するのは無理だった。
インド亜大陸の入り口は、峻険な大山脈、洪水を起こす大河、広大な砂漠に湿地帯・・・
ものすごい距離にわたって、これでもかとばかりに自然の要害が続く。
交通の便が悪すぎるので、機動力を維持できない。 >>57 バクトリアのギリシャ人みたいに、イギリスもヒマラヤやニルギリの涼しいところに自国のお尋ね者や食い詰め者を入植させればよかったのにな
オーストラリアと似た使い道
今頃インドの山奥の霧の立ち込む森の奥深くに、英語を話す紅毛碧眼の民の村がいくつも存在したりして あの辺は涼しいどころじゃなく、冬は酷寒で人が住めないんじゃなかったか? 「インドと東南アジアは同じ文明圏」とよく言われるが、それは文化や貿易に限った話。
この両地域にまたがる政権ってのが、これまた英領インド帝国を除いて、過去に前例がない。
しいていえば、南インドからインドネシア、マレーシアにまたがる海洋帝国はあった
(10世紀のチョーラ朝)。 西北からインドに侵入するルートが「カイバル峠」しかないのはよく知られてるが、
東北から侵入するルートに至っては、事実上「ない」と言ってよい。
チベット高原やヒマラヤ山脈を軍隊を越えるのは、ほぼ不可能。
ビルマから海岸沿いに侵入するしかないが、熱帯雨林とガンジス川、
マングローブの湿地帯がジャマすぎて無理。
ここを強行突破してインドに侵入しようとした例としては、
しいていえば、第二次世界大戦中の日本軍のインパール作戦が挙げられる。
結果は、死者多数の惨敗に終わった。 北インドは歴史的には一度も統合されなかった南インドより、むしろ現在のパキスタンやアフガン南部の方と結びつきが強いんだよな
今でも会話なら大体通じるし カイバル峠は、アフガニスタンからパキスタンに入る唯一の通路。
「パキスタンからインド」じゃないところに注意 パキスタン(インダス川流域)と北インド(ガンジス川流域)は、
同じヒンドスタン平野の巨大な三日月地帯だ。
でも、インダス川の辺りは砂漠だけど、ガンジス川の辺りは高温多湿なので、気候が違いすぎて別世界。
アレクサンドロス大王も、兵士の士気が低下しすぎて
インド侵攻を断念したといわれている。 >>67
日本も湿気が凄いと言われるけど
インドのほうが凄いの? インダス川は、ものすごい大河。
沿岸の住民は、家にボートを置いている。
雨季には増水して家が水没するので、水が引くまではボートに乗って水上生活する。 >>68
もっと凄いのはミャンマー
ミャンマーの雨季は、雨量も長さも日本の梅雨の3倍くらいか まあ、年間とおしてインドに滞在してる日本人はまだ少ないし、
いたとしてもデリーとかムンバイあたりなので、
ガンジス川中下流にはとくに少ない
冬とかどうなのかは情報不足でわかりかねるが よく知らない地域のことは、データで判断するしかない。
これで見ると、マガダ国の古都パータリプトラの気候は、
とにかく雨季の降雨量がすさまじい。
でも、乾期はほとんど一滴も降ってない感じ。
ちなみに、よくある「ガンジス川の沐浴」シーンは、乾期の図だとか。
雨季はそれどころじゃないらしい。
http://www2m.biglobe.ne.jp/ZenTech/world/kion/India/Bihar_state.htm 自分もバラナシ辺りに行ってみたいと思うが、
「観光客が盗賊に身ぐるみ剥がれました」というような事件が多い 「北インドはこすっからい人間が多くて、中国朝鮮みたいな国民性。
詐欺師や泥棒に気をつけろ」と知人も言っていた。
南インドは、おおらかな南国気質で、北とは好対照。
行った人はみんな称賛する。 まあ、デリーも「驚くほどの大都会に変貌を遂げた」とか言われてるけど、まだまだだな >>65 パンジャブ人ならパキスタンにもいるけど、さすがにアフガニスタンにまでいるかな? >>65
ますます北イタリアに似てるな
南イタリアよりドイツと統合してた歴史が長い 北イタリア、北インド、華北と常に政治の中心が北部に
英国のロンドンが南側にあるのは珍しいのかも カナダみたいに北のほうは極寒で住みにくいってこともないのにな 北の端に首都があるのは、北方からやってきた異民族に征服された国の特徴
世界共通の傾向として、たいてい首都は北にあるんだけど、
イギリスは南からの異民族に征服された珍しい例 オスマン帝国だって、イスタンブールは帝国全体からみると、かなり北にある 鎌倉時代及び江戸時代以降の日本は東からの異民族に征服されたのか?
いや確かに男も女も槌のような髷を結う中世日本の髪型は古代の東北地方の日高見国の風習そのものだが >>81 バイキングに征服された後、ノルマン人(こいつらもバイキングの末裔だけど)を撃退できてたら、イングランドの首都は今頃ヨークシャー辺りになってたのかな
そして英語も北ゲルマンの影響を受けた後は古英語から今ほど変化せず >>78
北イタリアと英国は大平野の中心で流通交通の要衝 北京は、日本でいえば、青森が首都になってる感じ
そのくらい、地理的に偏った位置にある
デリーには、そんな違和感はない 鮮卑が中国を支配したんだから鮮卑の都が首都になっても違和感はないよ 「最も繁栄してる地域に首都を置く」と考えるなら
江南が最も繁栄してるんだから首都にふさわしいのは南京ということになる
インドだってガンジス流域は人口稠密ではあるが貧しいから繁栄してる地域とは言い難い 唐の都として華やかな貴族文化を誇った長安だが、
その前の隋の煬帝でさえ、「経済の中心は江南」
と考え、長安を留守にして江南に長期滞在し、
事実上の遷都に近かった。 >>90
中国も、黄河流域に人口が密集している
あんまりそういうイメージはないけど、人口分布図で見ると、偏りがすごい >>93
ちょうど、東京から札幌に首都を移したという感覚だな
永楽帝も思いきったことをしたものだ >>95
燕王だった永楽帝にとっては思い切ったことでもなんでもなく
自分の領地を都にしただけ 「最も人口稠密な所に首都を置く」という考えなら
ベンガルになるな
英領印度帝国の都はカルカッタだったし 札幌は元々アイヌの地だが北京は古代からギリギリ黄河文明の領域に含まれてるぞ
日本で言ったらせいぜい大和王権の北限に近い福島県のあたりだろ 北京と南京は、ちょうど札幌と東京くらい離れてるんだよ。
明の領土における北京のロケーションは、日本における札幌に相当するほどの北端にある。
当時の人々の感覚としては、まさに「皇帝陛下が札幌に都を移された」というものだっただろう。 上海人と話してみれば、彼らにとっての北京は、東京人にとっての札幌みたいなものだ。
今でこそ、北京も超高層ビルが建ち並び、首都にふさわしい威容を整えられたが、
以前は上海よりずっと小さな街と思われていた。 札幌と違って北京は2500年の歴史を有する古都だけど 直線距離の比較
東京−札幌 約900キロ
北京−上海 約1200キロ
デリー−ムンバイ 約1400キロ 上海なんて150年の歴史しか無い新興都市で元々は蘇州の衛星都市みたいなもんだろ ムンバイも、実質200年か300年くらいの歴史しかない デリーだってイスラム政権の都だし
イスラム以前の純インド文明の都というとパータリプトラになってしまう
パータリプトラなんて今となっては時代が古すぎて長安みたいなもんだろ 北京・上海・長安
デリー・ムンバイ・パータリプトラ
それぞれ、歴史的なポジションが妙に似ている。
中国とインドには、不思議な共通点が多い。 >>99
日本の都は本来天皇陛下がおわす京都に決まってんだろwwwwwwww
なに勝手に東の果ての東京基準にしてんだwwwwwww >>109
本来とか言い出したら京都だって畿内の中では新興都市 日本は天皇と将軍の二重体制だから日本で例えると違和感が出ちゃうね 仕事より人のあら捜しに夢中のゲスイ奴
街中みんなのお笑い草だぜ バカヤロ様がいる
弱い奴には強く出て 強い奴には媚びへつらい
店長崩れのニセモノは
仕事も人望も紛い物
人には厳しく自分には甘く ケジメも無しとする
何でもすべての事が人任せで それでも良しとする
大学行ってもクズだから 常識なんかは通じねェ
相手を選んでハラ立てて
得意の火病はお手のモノ
今は君のために飲もう 僕も風と共に行こう
すべての人に 懺悔しな!!
https://www.facebook.com/katsuyuki.kida.923 >>107
清とムガルも相似してる
どっちもモンゴルの大ハーン位持ってるし
清とムガルってお互いにどう思ってたんだろうな
「こっちが本物の大ハーンで向こうは偽物だ」という感じだったのか
それとも複数の大ハーンが存在するとしてお互いに認め合ってたのか ああ、そうだ、大ハーン位ならロシア皇帝も持ってた
当時は大ハーンの大安売りだな 東京も江戸になってから人口が増えたんだよね
まぁ新興都市ですわ >>100
30数年前の上海を旅行したことがあるが、 古い寂れた街だったぞ。1930年代の魔都の雰囲気は無かったな。(単に建物がレトロだっただけ)
まあ、北京はさらに「巨大な田舎」観は有ったけど、総じていい勝負だった。
上海は19世紀半ばまで漁村に毛の生えた程度の街だぜ。 外人が完全に逃げたあと戻ってくる前の上海なら、そんなもんでしょ >>115
徳川家康が大土木工事をやる前の江戸は、大湿地帯で人が住むようなとこじゃなかった 江戸が京都を越えたのは、多分、19世紀に入ってからのこと。
しかし、幕末に世が乱れ、幕府が動揺すると、すぐに政治の中心は京都に戻ってしまった。
徳川慶喜は京都で将軍になり、在位中は江戸に戻らなかった。
20世紀になっても、関東大震災の影響もあって、
昭和初期には大阪が日本経済の中心になった。 しかし、そんな江戸でも、上海やボンベイより歴史は長い
この2都市とは異なり、西洋列強の租界として発展したわけでもないし 北京・デリー モンゴル人やトルコ人による征服王朝の支配拠点として発展
上海・ムンバイ 西洋列強に開国を迫られ、租界もしくは植民市として発展 西洋列強に開国を迫られて発展したといえば、横浜もそうだな >>122
函館も同じなんだが
その後大発展した横浜と衰退して寂れてしまった函館
どうして差がついたのか…慢心、環境の違い 函館は、せっかく新幹線の駅ができたのに、トンデモなく外れたところに持っていった
いろいろ事情はあるんだろうが、なんとかならんかったのかね? >>127
新潟は江戸時代から町だったからちくしょう! あーあー欲しいかいらないか解らなくしとって欲しいかもしれない商品を当てて隠したりしとって刈谷で電車で死亡事故があった!辞めろ自作自演!スラムダンク!
安部マリーオ! デリー、北京、パリ、パヴィア
共通点は「もともとあった都市ではあるけど北から来た異民族の拠点となり、その後首都となる」 ローマは真ん中だからちょい違う
それならコルドバの方が いや、大帝国になってからのローマの話ではなく
小さな都市国家だった時代の話
北から来たエトルリア人に占領されて王もエトルリア人だった
そしてエトルリア人を追い出して独立した時からローマの歴史は始まった そのときのおかげで
今でもなおガチョウはローマの市鳥 イタリア統一したときも、明らかに北が南を併合したのだから、
本来ならミラノかトリノが首都になる流れだった。
でも、ローマ帝国の威光はなにものにも代えがたく、首都はローマに決まった。 中央の政権としては、なるべく首都の経済力を強化したい。
中国なんか、上海幇の力が強すぎて手を焼いているからな。
インドも、デリーをテコ入れして急速に発展させた。
ベトナム政府も、ハノイに必死で企業誘致している。 ブラジル:サルバドール→リオデジャネイロ→ブラジリア→次は? 「元からあった」という枠に当てはまらないのは、エジプトのカイロ。
イスラム帝国が作った砦が発展した都市だ。
アラブ人は、「北から来た異民族」とは言いがたいが。 ニューヨークも、思いっきり北東の隅っこにある。
まあ、首都はワシントンだが。 まあ、首都とか都心というのは、なるべくしてなった地理的な必然性がある場合が多い
大阪も福岡も、古代の宮と、中世の城と、現代の県庁がほぼ同じ場所にある(笑) ミャンマーのネピドーも夢のお告げとかいろいろ説があるけど、昔の都のマンダレーもその辺だから、無理のある立地というわけではないんだろうな
でもブラジリア(ブラジル)・キャンベラ(オーストラリア)・ドドマ(タンザニア)・アブジャ(ナイジェリア)はどうなんだろう >>144
大阪は石山本願寺も同じ場所
だが大阪市役所は中之島 そういえばソウルも北の端で
しかも北に4回も占領されてる
異民族じゃないけど 北京だって、華北平原の北端にあり、太行山脈の麓で、
モンゴルや満州に行くには必ず通る交通の要衝。
乾燥地帯だけに、あの辺に大都市を作るなら、いくつもの川が流れ込む北京しかない。 デリー (ウィキペディア)
ガンジス川の支流、ジャムナー川の右岸にある都市。
東をジャムナ川、西を岩石の丘陵、南を点在する丘陵に囲まれ、
東のヒンドスタン平原と西のパンジャーブ平原の2大穀倉地帯の中間に位置し、
さらにガンジス川流域ながらインダス川との分水界にほど近い場所にあって、
古くから交通の要衝となっていた。 デリーも、マハーバーラタの時代からの歴史があるだけあって、
北インドの中心になるべくしてなった王城の地だ。
ガンジス川とインダス川の間にあり、支流のジャムナ川が流れている。
丘陵に囲まれた盆地で、東西南北に移動する商人は必ずここを通る。
まさしく北インドの心臓と呼ぶにふさわしい。 しかし、北京の川は水が枯れている
砂漠化を政府が必死で食い止めている 一見して、広大な平地は、ガンジス川流域とインダス川の東側にしかないと分かる。
でも、インダス川の方は、ほとんどが砂漠で、
穀倉地帯は北のほうのパンジャーブ平野のみ。
あとは、日本と同じ。
国土の大半が山地で、海岸に沿って狭い平野が並んでいる。 パンジャーブ地方と並ぶ穀倉地帯は、南西部にある。
ゴーダヴァリー川とクリシュナ川のデルタ。 北西部のインド側にも大きな低地があり、四角い半島がある。
ここがグジャラートで、インドの工業生産の4割を占めるとされる大工業地帯。
モディ首相は、ここで知事をやってたときの経済実績を買われて、
全国の首相になった。 早い話が、南インドというのは、中国の江南みたいなところではない。
どっちかっていったら、チベットと似ている。
簡単に征服できる地形ではない。 デカン高原(大したこと無いなんちゃって高原)とチベット高原(標高5千mの超高原)じゃ大違い >>136
ローマの威光ではなく、消去法だったらしいよ
サルディーニャの都トリーノを首都にするのは明治新政府の都を鹿児島を都にするがごとく、
ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ナポリが有力だがどこを都にしても他が納得しない。
ローマは当時はキリスト教世界の都であって、一国の都とは考えられていなかったが、
消去法でローマに決まったらしい >>157
まあ確かに
中国でいえば黄土高原といったところか >>159
プロイセンは、ベルリンを帝国首都にしたのにな
サルデーニャには、そんな力はなかったか >>147
ビョンヤンは、半島に南下してきた高句麗人の都 中国の北部は、東の華北平原と、西の黄土高原に分かれる
黄土高原もたいしたことないが、周から唐までの中国史は
西が東を征服するパターンの繰り返しで、逆は少ない タール砂漠も、昔から砂漠だったわけではない。
古代インダス文明の頃には、広大な緑地だったと考えられている。 中国は環境破壊で象が滅びたけど
インドも環境破壊があると思うけど滅びないね ランタンボール国立公園なんか、デリーの近くということはたぶんステップ気候で、うっかりすれば動物はおろか森林自体をなくしてしまってたはずだけど、
今でもトラとか野生動物がすむ野生の楽園だもんな
http://www.saiyu.co.jp/blog/wildlife/?tag=%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E5%85%AC%E5%9C%92
ジャイプールのマハラジャのお狩場だったそうだけど、それ以前にも周囲に人の営みはあったはずなのに
それどころか
>エリア内には10世紀に建てられた要塞遺跡があり、その文明を呑みこむように森が再生しています。 人口過剰といっても、インドの場合はガンジス川流域に
極端に集中しており、他の地域は意外と普通。 思うに、ガンジス川の流域が、インドのイメージをあまりにも悪くしている
南インド諸国が独立すれば、リゾート地として人気が出るだろうに ギリシャ文明の広義の仏教への影響に関し、ごく簡単に仮説的私見を述べておきたい。
ギリシャ人たるアレクサンドロスは、中央アジアから北西インド亜大陸にまで攻め込んだわけだが、
「インダス川流域は・・・アレクサンドロスが紀元前323年に死去すると彼の任命した総督(サトラップ)
達の支配するところとなっていた<ところ、>・・・ガンジス川流域の支配を確立したチャンドラグプタは
インダス川方面の制圧に乗り出した。・・・<アレクサンドロス死後のその帝国の跡目争いである>
ディアドコイ戦争中の紀元前305年、アレクサンドロスの東方領土制圧を目指したセレウコス1世が
インダス川流域にまで勢力を伸ばした。チャンドラグプタはその兵力を持ってセレウコス1世を圧倒
して彼の侵入を排し、・・・インダス川流域からバクトリア南部にいたる地域に勢力を拡大した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E6%9C%9D
という史実から見えてくるのは、
「プルタルコスは、チャンドラグプタが・・・青年時代に、インド北西部へ侵入したアレクサンドロス
大王のもとに出向き、インド東部への道案内を申し出たという逸話を伝えている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%83%97%E3%82%BF_(%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E6%9C%9D)
ところ、その真否はともかく、
チャンドラグプタが、「インド最初の本格的な統一王朝<たる>マウリヤ朝」の創始者となった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%A4
契機は、アレクサンドロスによる東征、大帝国の形成の衝撃であった、という事実だ。
私は、このマウリヤ朝は、ペルシャより東の世界における最初の帝国であった、という認識を持っている。
帝国とは、多民族からなる大領域国家のことであり、(「夏」の実在性はまだ確立していない)
「殷」にしても「周(西周)」にしても、漢人のみからなる都市国家に毛が生えた存在に過ぎず、
支那における帝国の成立は、マウリヤ朝の成立よりも半世紀後の紀元前247年における、
秦による、漢人プラスアルファからなる大領域国家の成立を待たなければならない。 >>172
帝国を形成、維持するためには、現に、或いは、企図された征服対象として将来的に、
その統治下に抱える諸民族を超越したイデオロギーが必要となる。
秦の場合は、本音ではそれは諸子百家中の墨家の思想で、建前上では、それを帝国成立前から
採択していた法家の思想に求めたわけだが、それは極めて実務的な選択であったと言えよう。
マウリヤ朝の場合は、簡略化して述べれば、(いわゆるヒンドゥー教の前身たる)バラモン教の
信者が多いガンジス河地域を本拠としつつ、旧アレクサンドロスの帝国ないしセレウコス朝の
上澄み部分に、古典ギリシャ哲学/ギリシャの神々/プラトン・アリストテレス流の哲人君主制を
信奉する者達を抱える、インダス河地域も取り込んだ形
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%83%97%E3%82%BF_(%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E6%9C%9D)
で成立した帝国である(そもそもチャンドラグプタは、後継ぎの息子ピンドゥサーラの后の一人として、
セレウコス1世の娘を貰い受けている。)ことから、インド亜大陸で生まれてからそれほど年月を
経ていない新興宗教ないし思想に、帝国イデオロギー候補として目を付けた、と見たいところだ。
「チャンドラグプタはジャイナ教を熱心に信仰したが、<二代目の>ビンドゥサーラはアージーヴィカ教
の信者であったと伝えられ、<三代目のあの有名な>アショーカ<は>仏教を熱心に信仰した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%A9
のは、どれが国家イデオロギーとして一番適切であるか、試行錯誤を続けたということだ、
と見たらどうか、というわけだ。
ここで注意が必要なのは、一般にアショーカは「仏教」を「信仰」したとされてきたけれど、
彼が信奉していたのは、釈迦の唱えた「ダルマ」であって、当時、まだ本格的には成立していなかった、
「仏教」では必ずしもなかったことだ。
アショーカ自身、
「彼はダルマが全ての宗教の教義と矛盾せず、1つの宗教の教義でもないことを勅令として表明して」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E7%8E%8B
いることから、このことは明らかだろう。 >>173
しかし、その意図せざる結果として何が起こったかと言えば、釈迦の唱えた「ダルマ」の、
マウリヤ帝国内、及び、セイロンへの普及であり、そのことを奇貨とした、釈迦を祖師とする
仏教なる新宗教の勢力大伸長であり、「ダルマ」の普及・保護のための過度な財政支出や
国家財の供出、及び、平和志向によるマウリヤ帝国の財政的・軍事的破綻であり崩壊だった。
尚、アショーカの事績中、最も重要なのは、釈迦の思想の中核であるダルマ
・・人間主義回復方法論、と言い換えてよかろう・・
が、彼によってセイロンに伝えられたおかげで、それが、上座部仏教の一環として、
(インド亜大陸における仏教の事実上の消滅にもかかわらず、)忘失を免れることになり、
やがて、チベットにおいて、それが大乗仏教の中に組み込まれることによって、現代にまで、
念的瞑想として生命を保ち続けることができたことです。
その後、インド亜大陸北西部において、セレウコス朝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AC%E3%82%A6%E3%82%B3%E3%82%B9%E6%9C%9D
から分離したグレコ・バクトリア王国から更に分離した、インド・グリーク朝が成立した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%8E%8B%E5%9B%BD
そこで、アショーカの下で興隆し始めた初期段階の仏教に起こったことを、
論理的に想像した下掲は説得力がある。↓
「紀元前2世紀に現在のインド西北部を支配したギリシア人のミリンダ<(メナンドロス)>王は、
仏僧のナーガセーナとの問答を通じて仏教に帰依し、出家したと『ミリンダ王の問い』は伝える。・・・
<しかし、>ナーガセーナの教義は、もしもミリンダ王にギリシア哲学の素養があるのなら、
論破できる類のもの<なので、疑問>だ。
もちろん、ミリンダ王ならびに彼の後継者となるギリシア人の王たちが仏教を保護したことは
事実と認めてよい。だが、彼らは、出家しなかったことからもわかるように、仏教に心底帰依した
というよりも、むしろ政治的に利用しただけではないのだろうか。 >>174
<(そもそも、ダルマを通じて悟りを開いた、つまりは人間主義者になったと思われる
アショーカが、それが故にこそマウリア朝を没落させてしまったという教訓も、地理的等から
マウリヤ朝の後継とも言える、インド・グリーク朝のミリンダ王等は承知していた可能性が高い。)>
インドには伝統的なカースト制度が根強く残っており、ギリシア人を初め外国人はアウト・カースト
(不可触賤民)として蔑視された。そんな中、カースト制度を否定する仏教は、外国人支配者に
とっては都合がよく、そのため、ギリシア人のみならず、その後インドに侵入した外国の支配者
たちはたいてい仏教を保護したものなのである。仏教を保護することには、支配者が外国人で
なくても、メリットがあった。カースト制度では、王といえども、バラモン(聖職者)の下に位置付け
られていたのである。バラモンの下のクシャトリヤ(王侯貴族)や、そのさらに下のヴァイシャ(商人
など)にとっては、自分たちの権力や富にふさわしい地位を求めて仏教を保護したという事情がある。
また、支配者、つまり権力や富を持つ者にとって、被支配者、つまり権力や富を持たない者に
反乱を起こさせないようにすることは、自分の地位を維持する上で極めて重要である。
反乱を起こそうとするのは、権力や富への執着が強いことが原因であるから、仏教を広めて
下層民に権力や富への執着を捨てさせ、無欲にすることは、不満分子の反乱を予防するのに
効果的である。表向きの理由はともかくとして、インドの王侯貴族や富豪が仏教を保護した裏の
理由は、そこにあると考えることができる。
王侯貴族や富豪の保護のおかげで、仏教は世俗的な繁栄を享受することとなった。
しかし、権力や富への執着を否定する宗教が、権力と富を持った支配者と癒着するという
パラドキシカルな関係が続く中で、民衆の心は、支配のためのイデオロギーと化した偽善的
宗教から離れていった。仏教に代わって民衆の心を捉えたのは土着の宗教であるヒンドゥー教
であった。そして仏教は、イスラム国家とイスラム商人が台頭する中、パトロンを失って、インド、
パキスタン、アフガニスタンの地から跡形もなく消えてしまったのである。」
https://www.nagaitoshiya.com/ja/2012/milindapanha/ >>175
つまり、インド・グリーク朝は、初期段階の仏教(原始仏教)を大興隆させることになったけれど、
そのインド亜大陸における没落の根本原因をも同時に作った、ということになる。
さて、ミリンダ王等、インド・グリーク朝の君主達は興隆しつつあった原始仏教に帰依しなかった
としても、支配層たるギリシャ人の中には、帰依した者は少なからずいたと考えられる。
その結果起こったことが下掲だ。
「原始仏教では身体は不浄で、人生は苦と考える。だが、ギリシャ文化では「身体は美しく、
苦しい人生でも生きるに値する」と考える。この肯定的人生観と仏教の否定的人生観は互いに刺激
し合って、仏教はインド西北部のギリシャ人に受け入れられる。原始仏教の高い論理性と合理性が
受け入れ理由だった。紀元前後につくられ始めるガンダーラの仏像はギリシャ人の容貌を持っている。
ギリシャ人に受け入れられた仏教はギリシャ人の影響を受け、人生肯定の思想を持つようになる。
否定的人生観からこの肯定的人生観への変化が大乗経典の特徴になっている。」
http://huukyou.hatenablog.com/entry/2016/09/20/091358
そして、その更に結果として生まれたのが、写実的な仏像と物語性豊かな仏典とを伝道の両輪
とした大乗仏教である、というわけだ。この大乗仏教は、伝道僧達によって、中央アジア経由で
北伝し、支那、更には日本へと伝播していくことになる。
大乗仏教には、ダルマ(悟りの方法論)が欠落していることは、既にご承知のことと思う。
しかし、仏典が説く人間主義は、仏像を中核として発展したところの、仏教美術・建築・庭園・
生活様式、等、と相まって、(孤立したチベットを別にすれば、)日本だけで失われることなく
維持されてきていた人間主義(縄文性)に滋養強壮的な刺激を与えることで、その引き続きの
維持に不可欠な役割を果たすことになるのだ。
また、大乗仏教の人生肯定性は、日本における弥生性が維持されることに貢献し、人間主義文明
たる日本文明の存続を、安全保障面から、引き続き、強固に担保し続けることにつながった。 >>153
インドの山地(丘陵)と日本の山(ほぼ崖)では全然違う >>169 共産党の強いケララ州は「ケララ人民共和国」かw 残りの南部諸州はまとめてマヒシュマティ王国でいいね >>178
ケララは「共産党が強い」んじゃなくて共産党政権だ >>177
まあ確かに。
デカン高原は、あくまでも高原であり、日本の中央高地みたいに峻険ではない。
十分に人が住める。 >>178
>>180
しかし、バリ島なみに民俗芸能の宝庫 平地面積(平方キロ)
インド
2,287,400
イラン
1,517,800
トルコ
655,102
日本
114,622 平地面積でも世界で一番広いのはロシアなのだろうか
だがロシアの場合は山岳とは別の理由(寒い)で居住不可な土地が多そうだが フランスからロシアまでは大平原
ただし、ドイツは森林地帯、ポーランドは中世まで湿原地帯だったため、統一は不可能だった >>185
イランの場合、東部は平地と言っても大半か砂漠で、人の住むところではない。
平野がほとんどないイランでは、西部の山地に人口が集中している。
高地特有の気候条件のため、サッカーのホームゲームは有利。 アナトリアって地上からだと平原が広がってるように見える
上空からだと山しか見えない
そんな感じのところ 平地面積というのは統計データがまず無い。
可住面積=平地面積という勘違いによるものだろ。
トルコは、国土78万km^2に森林面積割合15%あたりから割り出しているんだろう。
フィンランドは73%が森林なので山国で、スイスは30%が森林なので平らな国になってしまう。 多分コイツは
>トルコは冬の寒さで知られる高原の国
>「平地が多い」というのは、統計の取り方の問題か?
と言ってることから山間部と高原の区別がついてなんだろうな
高原ってのは標高が高い平野に対して使われる語なんだが
http://www.weblio.jp/content/%E9%AB%98%E5%8E%9F
>海抜高度が高い平原。起伏が小さい高地。 平野とか平地ってのは、普通は低いところを指す言葉だろ。
とくに平野は、沖積平野を指す場合が多い。
高原のことを平野と呼ぶことはまずない。 >>192
そりゃそうだ
岐阜や長野みたいなところに、あんなに人口が集中してるわけがない イランの首都テヘランは、標高1200メートル。
高山病になるほどじゃないが、かなりの高さだ。
高地特有の気候条件のおかげで、テヘランでアウェーゲームを戦う
各国のサッカー代表は、いつも苦戦する。 高地でのサッカー試合として世界的に有名なのはボリビアで、
首都ラパスのスタジアムは標高3600メートルと富士山なみの高さ。
南米大会で、ブラジル代表やアルゼンチン大流行がいつも苦戦する。
酸素不足による選手の健康への影響を懸念したFIFAが高地試合禁止の規則を作った。 ちなみに、インドの高原都市として有名なバンガロールの標高は、
「平均海抜920メートル」だそうな まあ確かに、標高が高くても平坦な地形なら、平地と言えるだろうな。
長年に渡って浸食されてきた大陸の古い地盤なら、高くてもそうなるだろう。 >>192 新期造山帯といってもその地形は様々だってことだな
ちなみにイランやトルコを極端にしたのがキューバか。山らしい山は南東部にしかなく、それも高くても1000mちょっと
これでも新期造山帯の一部。千葉県の海外版みたいなもんか >>200
人口が密集しているからといっても、都市じゃないんだよ
農村に何億人も住んでいるという、現代の日本にいては想像しにくい状況 >>203
イギリスも、そんなもんだ
山らしい山は北部のスコットランドにしかなく、
それだって日本の山とくらべたら全然たいしたことない >>202
それはNASAの衛星画像にインド人のup主が塗った色だよ(笑)
インターネットに貼られている画像を信用しちゃいけない >>202
画像にfestivalってあるし祭りのじゃない?
>>206
あんたの言う通りインターネットの情報は信用しちゃいけないからそのインド人のうp主が画像に色塗ったって言うソースを出してくれ >>208
↑本当はこんな感じ
インドの田舎は真っ暗 日本ってほっんと人の住める土地って少ないんだなってことはよくわかった >>213
でも人口はむかしからメチャクチャ多いぞ >>213
巨大都市を展開できるような平野は少ないが、
バラければ、もっと住める
中央高地とかを除けば、たいていのとこには人が住める これから、リニアモーターカー、自動運転車、自家用飛行機で交通革命が起きる
そしたら、地方に人口が分散するだろう >>214
18世紀あたりの世界だと、清とムガール帝国が横綱で、
日本とオスマン帝国が大関という感じ ムガールよりオスマンのほうが強大なイメージなんだが
でも人口なら確かにムガールのほうが上だろうな >>205 そりゃイギリスの山なんかヒマラヤやアルプスよりはるかに昔にできて、後は削られていくだけの存在だもん
千葉やキューバのは地球規模では比較的新しい山なのに、なんでこんなにしょぼいんだろう >>220
中国とインドは、当時から人口だけはケタ違いに多いけど、
その大半が農村にいる余剰人口なので、頭数ほどの力がない。
これは今に始まったことでなく、当時からそういう傾向があった。 今の世の中だって、後世の人々から見れば、
中国よりも
ロシアのほうが強大な国に見えるだろう。 インド人は本当に、「土人」という言葉がよく似合う人々 でも、色黒だけど、顔立ちは北欧系かドイツ系みたいな顔をしている >>225
そうかな
アボリジニ的な要素がある
ほかのコーカソイドとは明らかに違う アボに一番風貌が似ているのはインド人。
特に東と南 オーストラロイドにコーカソイドやモンゴロイドを適量混ぜると、丸っこい愛嬌のある顔立ちになるか インド美女の笑顔には、ほんと癒されるな
それに比べて朝鮮人顔は・・・(以下略) >>227
世界広しといえど、顔だけで国を特定できる民族はインド人だけだろうな と思ったけど、アフリカならいるか
ピグミーやコイサンとか >>236 インド人とバングラデシュ人とスリランカ人とネパール人とパキスタン人とモルジブ人だと見分けがつくかな? インド人同士なら、顔を見ただけでカーストの見当がつくというのは聞いたことがある チャンドラ・ボースが、1945年に事故死していたことをインド政府が公式に認めた。・・・
https://news.infoseek.co.jp/article/170605jijiX362/
インドって変わってると思わず、インドにとって、ボースがそんだけ巨大な英雄だった、
と受け止めるべきだろう。 >>238
バングラデシュ人は知らんが、近所のパキスタン人は全員完全なインド顔だな 正直、インド半島は純オーストラロイドで、
コーカソイドとの交雑地帯はもっと北でも良かったな
オーストラロイドが全体的に不甲斐ないので、
もう少し活躍してほしかったところ しかし、アーリア人なしでインド哲学が成立したとは思えない
観念的な思考にかけて、アーリア人に並ぶ者はいない >>244
インドネシアの人口が爆発的に増え続けているから心配ない >>245
しかしインダス文明はオーストラロイドなんだろ?
混血はあるだろうが >>246
インドネシアはオーストロネシア語族で台湾発祥のモンゴロイド
南下過程でオーストラロイドのネグリトと混血はしてるが、どう見ても南インド以下 フリーマンの先達ともいえるイボンヌ・グーラゴング
http://3.bp.blogspot.com/-DCgX_tAQ7T4/Tf8CHM2KjOI/AAAAAAAACy0/W3gVwWSbTEQ/s1600/%25E3%2582%25B3%25E3%2583%25BC%25E3%2583%25AA%25E3%2583%25BC.jpg
このタイプは南インドにはあまりいないかな?一応姓からも分かるようにアボリジニ系だけど
アジアン隅田みたい
両親ともにウィラジュライという民族の出身だそうだけど、混血は進んでる感じだな
>Her parents, Kenny Goolagong (an itinerant sheep shearer) and Melinda, are members of the Wiradjuri people. そもそもインドには中東要素が濃すぎてアカン
中国並みの孤立度はほしい >>250
それは仕方ない
陸路はともかく、海では、アラビア半島とものすごく近い >>245
インド思想って観念的になるの?
思弁的かと思った マレー人、インドネシア人、フィリピン人、タイ人、ラオス人は日本人には見分けつかんがな >>252
中国が中東の文化的な影響を最も強く受けたのは唐の時代だが、
インドではムガール帝国の時代
新しいだけに影響が色濃く残っている >>254
マレー人、インドネシア人、フィリピン人は、事実上、同じ民族だろ >>256
いやインド人自体がイラン人とオーストラロイドの混血だから
文字も宗教もイラン系だし >>258
いや、それ全部マレー人だから
その言い方は「日本人、関東人、関西人」と言ってるようなものだ 日本人が中国文化を摂取してそれをアレンジして独自の文化を築いたように、
マレー人もインド文化を接種して独自の文化を築いたがアラブ人に全て破壊された イスラム教徒のカースト制度における位置づけってどんな感じですかね? >>259
影があまりに薄いので、つい忘れ去られがちだが、
オーストロアジア系やタイ系、チベット・ビルマ系のモンゴロイドの
基層もけっこう重要な気がする。 >>263
インドにタイ系・チベットビルマ系の基層があるってこと?
オーストロアジア系は紀元前から米作伝播で関与してるけど、タイ系・ビルマ系だと10世紀頃とかになっちゃうぜ ごはんに具と香辛料を掛ける
カレー食の原形を形成したのはオーストロアジア系稲作民? >>259
イラン系とイラン人は違うぞ?
インドに進出したアーリア人は今で言うとロシア人やポーランド人にちかい遺伝子を持つ連中だし パキスタンからインド北西部にかけては4月以降、断続的に熱波に見舞われています。
パキスタン西部のトゥルバトでは5月28日に最高気温53度5分を観測しました。 複数のインドが存在する矛盾は、新世界を「西インド」、
ヨーロッパ以東のアジアを「東インド」に分けることで解決されたが、
この定義によれば、インド大陸だけでなく、中東や東南アジア、
さらには中国や日本も「東インド」ということになる。
長崎とヴァタビア(インドネシア)のあいだの貿易を独占したのが
「オランダ東インド会社」だとしても、なにもおかしくなかったのだ。 西洋人にとって「インド」は、あまりに巨大な存在だった
新大陸の北米や中南米は「西インド」、旧大陸のアジアは「東インド」と呼ばれた インド経済は、急速に拡大している
まもなく英仏を抜いて、米中日独に次ぐ世界5位の経済大国となろうとしている
この先、この5ヵ国が世界の五大国という体制が確立されるだろう 第23回国際交流会議「アジアの未来」(日本経済新聞社主催)で6日、
バングラデシュのシャリアール・アラム外務担当国務相は
「取るべき政策は明らか。インドとバングラデシュ、
パキスタンが一緒だったころに戻り、協力関係を構築する」
と強調し、南アジアの経済発展を推進する考えを示した。 ニューデリーは、カオスで雑多で広大な街が高密度で存在しているのだが、
街のど真ん中に、野生の猿がたくさん棲んでいることでも有名だ。
猿は人間が手懐けることは難しく、人間の食い物を虎視眈々と狙っている。
http://photrip-guide.com/wp-content/uploads/sites/2/2017/06/saru2.jpg アスラを信仰していた人々がいるようだが、アーリア時代の信仰の
名残ですかね? 仏教の坊主よりもヨガの行者の方が聖者の出現率が高い そもそも、インド人の信仰が「ヒンドゥー教」と呼ばれるようになったのは、英領インドの時代から
それまでは、特に名前がなかった しかも、インドが1つの国だとは、誰も思っていなかった
真の意味でインドを統一したのは、イギリスだけ 洋服がやってきて「和服」の呼称が
作られたようなもの? >>259
インドの文字はアラム文字の系統を引くが、母音がないことでわかるように基本はセム語の文字
イラン語派の諸言語はこのために、アラム語の綴りを訓読したり送り仮名をつけたりと試行錯誤する
しかしインドではアラム語そのものは使わずに、アラム文字から派生したインド文字で直接
インド語派の諸言語だけを表記した つまりインド文字にとってイランはアラム文字の来た通過点にすぎない >>264 タイ系は歴史も浅くアッサムどまりだけど、チベット・ビルマ系はネパール辺りに結構古くからいるのでは チベット系については確実なところで、ネワール族が3世紀、タマン族が8世紀までには居ついている
とはいえずっとインド世界の北縁にとどまり、南進したのは全盛期の吐蕃に率いられヴァルダナ朝を攻めた時くらい
インド圏の基層に影響するような爪跡を残したとは考えにくいかな
ヒマラヤ由来のインド文化を具体的に思い浮かべようとしてもなかなか・・・逆方向の影響なら山ほどあるけども >>277
「洋服」と区別するため、「和服」という言葉を使うようになったのは日本人
一方、インド人の信仰を「ヒンドゥー教」と命名したのはイギリス人
それまで、インド人たちには、そういう認識がなかった >>262
セイイド(アリーの子孫)
アラブ名家(クライシュ族など)の家系
西方からやってきた支配者クラスの家系
クシャトリアからイスラムに改宗した家系
低カーストからの改宗者
アウトカーストからの改宗者 >>280 仏教がインドでもっと頑張ってれば、ヒマラヤ南麓の文化がインド全土に影響を及ぼしえたかな?
仏陀の父親の名が浄飯王(スッドーダナ)というように、稲作と深い関係のある文化が存在したようだけど 前10世紀以前にインドにも稲作が伝播してるしヴェーダにも出てくるくらいだからねえ
ブッダの生きた前5世紀には広く普及していて、その名前がチベット系であることの証明にはならないんだ >>281
そういえば「着物」が和服を指す今の用法は西洋人のkimonoに引きずられたものだな
数十年前まで単に「服」という意味で着物とも言っていた
子供向けの雑誌で「ねる前に ぬいだきものをたたみましょう」と書いてあって
イラストはズボンやスカートをたたむ子供の絵だった チェーラ朝とチョーラ朝、分かりづらい・・・
どっちもクソ長いんだっけ? >>278
インドの文字には一応母音あるのでは?アブキダというちょっと特殊な形だけど >>287
一応だろ?いつでも略せるし略したくなるような位置にしかないだろ?
アブギダなんてアブジャドに毛の生えた物でしかないんだよ
だから庶民はよく母音を略して伝達ミスをする
インドでも手紙を読み間違える小話がある का की कु के को
そこまで略したくなる?
個人的には濁点の方が略したくなるけどなあ ほら、子音が中心で母音はあくまで添え物じゃないか
母音を略して書いた手紙の小話は
ムーアハウス著ねずまさし訳『文字の歴史』岩波新書
に載っているよ
絶版だから図書館で探すこと
>>289はただの一人の主観だろ >>288
インド系文字はアがついた形が基本で、それ以外の母音や母音無しは点やひげをつけて表すんじゃ
記号が何もなしで書かれたら、全部の文字にアの母音をつけて読みそうな気がする 子音+長音と短音のiの表記は不便極まりないな
縦書きならいいけど横書きであれは酷い サンスクリットみたいなインドの言語って母音はもともとaの頻度が高いだろ
aを省略するのはいちいち書くのが煩わしいからだよ
あれなら基本ア段で読んで、意味が通るように語感に頼って
別の母音を入れていくという方式である程度用が足りる
ウルドゥー語はそれで不自由ないんだから、デーヴァナーガリ系にまったくそれがないと、
あの広大な大陸に億単位でいる使用者たちにそんな習慣が一つもないと断言するのが無謀 >>290
引用が正確ではない
その部分は、「商業上の慣例に従って母音を省略して書かれた手紙」の事例であって、
インドの文字に母音が存在しない、という意味ではない。あくまで省略した場合の事例。 グルムキー文字とデーヴナーグリーを見ると文字を形をしてないすしおっm ueoは省略されうるな >>294
子音に添える母音は基本字母ではなく、最初は習わない
つまり省略可能であり省略する習慣があり、なくてもいいということだ
よって「ないも同然」っていう話だ
ギリシャ語やラテン語で子音文字だけで手紙を書く習慣は存在しない
唯一の例外はマルタ語だが、これはアラビア語の一種でありアラム語と同じ理由 >>296
ヒンディー語の文字の学習でも最初に母音を学習するが。。。
アラブ語でさえ初学者は母音を学習する。
デーヴァガナリーで母音を習わない、というのは、もしかして、
子音と結合した母音字体の学習が子音の学習後だということと混同しているのでは?
そもそも>>290で引用されている『文字の歴史』でも、インド人がアラム文字を導入する
過程で、子音に印をつけて母音を書き表す方法を発明した、と明記されていて、
母音が省略可能とは書いていない。
>省略する習慣があり、なくてもいいということだよって「ないも同然」っていう話だ
その省略する習慣というのは、何が出典?(『文字の歴史』の商習慣以外で)
一部に省略する習慣があったとしても、ないも同然にはならない。 一部に省略する習慣があるってだけなら
ggrksとかwktkとかあるんだから日本語も母音を書かない言語になってしまう >>283
インド人にとって、仏教はヒンドゥー教の一種
他国人が考えるほどの違いはない 仏教だけでなくイスラムもキリスト教もシーク教もジャイナ教も
ヒンドゥー教徒から見れば「そういうカースト」になってしまうらしいぞ インドの会社のサイトを見たら、「当社の拠点はタミルナドゥ、ウッタラカンド、
タンザニア、グジャラート、マレーシア、カルナータカにあります」
とあって、インドの州も外国も変わらない扱いで並べてあった。
インドこそは、真の意味で「連邦」。
他の州は外国と同じだってことがよく分かる。 「地方自治」に関しては、中国がインドに追い付くのに百年はかかりそう シタール(ヒンディー語:सितार、英語:Sitar)は、北インド発祥の弦楽器。
民族楽器の一つ。
シタールという言葉の語源はペルシア語のセタール(سهتار :三弦)とされている。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2c/Sitar_1.gif ビートルズも演奏したインドの楽器、シタール。
神秘的な音色が特徴だ。
ペルシャ文化の強い影響を示している。 座り方が独特
Sitar シタールの魅力 ヨシダダイキチ yoshidadaikiti
http://www.youtube.com/watch?v=OoJGMj5H7Wk サラスヴァティー女神もシタール持っているな
弁財天も琵琶もってたっけ >>307 シタール以前の純インドの楽器って何だったんだろう
ヴィーナか ムガール帝国の時代は、音楽も美術もペルシャ化され、それまでのインドとは大きく変わった
唐の影響を受けた頃の日本を思わせる 実際には、唐のペルシャやインドからの文化的な影響を強く受けている。
日本も、唐を経由して西方からの舶来文化を導入した。
まあ、以前この話をしたところ、変な左翼が出てきて怒り出したので、この辺にしとくけど( >>314
>実際には、唐のペルシャ
おまえの日本語も変だぞ >>315
そんな些細なことばかり気にしてるからお前はハゲるんだよ |
| 彡⌒ミ
\ (´・ω・`) また髪の話してる・・・
(| |)::::
(γ /:::::::
し \:::
\ なぜ左翼がグローバルヒストリーで怒り出したのか事情がわからないのでなんとも言えんな 日本に伝来したペルシャやインドの文化は唐風に咀嚼されて唐化した後に伝わったもので
そのままの物でないだろ
キリスト教は本来は中東の民族宗教色が強いものだったがギリシャ哲学やミトラ教を吸収して
ヨーロッパ共通の宗教となったのと同じことだ >>319
インドの文化は仏教か?
ペルシア文化は具体的にはなんだろう >>318
一部の人だけの話だが、自分の主張に反対されると、何でもパヨク、チョン、ネトウヨと罵る連中がいるからね
>>314がそうとは現時点では断定できないが 燃火物 取而嚢而 福路庭 入澄不言八 面智男雲
万葉集に見られるようにゾロアスター教徒が日本に存在していた >>318
「唐はインドやペルシャから舶来文化を導入した」というのと、
「日本が唐から導入した文化は、もっと西方に発祥したものが多い」という話をしたところ、
「中国サゲの日本アゲだ、これだからネトウヨは・・・」と怒り出した 編集
フマーユーンはスール朝との抗争で、サファヴィー朝のタフマースプ1世の宮廷に身を寄せた時期があったが、
その際に、フマーユーンはペルシャの細密画に触れる事となった 。
ムガル絵画は、フマーユーンがペルシャから2人の画家を連れて帰った事を出発点とする。
ムガル帝国が成長するにつれ、ヒンドゥーの要素を取り入れながら、発展を遂げていった。
肖像画、動物や植物、風景、『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』といった叙事詩を題材に採用した。 ムガール絵画は、フマーユーンが連れて帰った2人のペルシャ人の画家から始まった。
「豊臣秀吉の朝鮮征伐軍が連れてきた朝鮮人陶工から、有田焼が始まった」みたいな話。
もっとも、フマーユーンはペルシャを侵略していたわけではない。
シェール・シャーとの戦いに敗れてムガール帝国が崩壊したため、
保護を求めて身を寄せていた。 建築分野はペルシャの影響を残しつつも、インド的な要素を取り入れていった。
ムガル帝国は首都をデリー、アーグラ、ラホールと度々、移動したため、
各地でイスラーム建築が建設され、インド亜大陸における建築様式に影響を与えた。 『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』など古典がペルシア語に翻訳され、
18世紀以降はヒンディー語やウルドゥー語の詩も次第に栄えた。
ウルドゥー文学では、恋愛詩を書いたミール・タキー・ミールや、
ペルシア語彙を用いた複雑な作風のガーリブらが有名である。
帝国末期にはデリーとラクナウを中心に詩が隆盛し、
バハードゥル・シャー2世はウルドゥー詩を愛好し、
自身がザファルと号する詩人でもあった。 文学でも、アラビア文字で表記するウルドゥー文学が盛んになり、ペルシャ語の語彙がどっと流入した。
一事が万事こんな調子で、要するに、ムガール帝国の前と後とで、インドの文化は激変した。
ペルシャ化、イスラム化が一気に進んで、まるきり別モノと化した。 >>323
>西方に発祥したものが多い」
これがひっかかったんじゃないのか?
>西方に発祥したものが多い
>西方に発祥したものも多い
では大きく違う。どちらが多いと言い切れるのか、個別に事例を挙げてみる必要があったんじゃないの?
例(個別に舶来しただけのもの(正倉院遺物とか)は除外。日本文化に根付いたもの)
※ゾロアスター教も日本に定着したことは証明されていないので除外
西方 仏教、密教、仏教説話、将棋、一部の建築技術、鐙、綿織物、そろばん、
中国産 古代都城制、古代条理制、古代官僚制、茶、儒教、節句、囲碁、干支、元号、絹織物、紙、漢字
議論のあるもの 駅亭制、稲作、数学、天文学
とか 中国のことになると感情的になる人がいるので、ネットではなるべく避けたほうが良い話題 >>332
社会制度とかも入れると、さらに話がややこしくなってくる。
隋唐の制度は、基本的に北方の異民族による征服王朝の支配体制なので、
「中国の文化とは言えないんじゃないか」みたいな議論がまた、あるんだな。
個人的には、それもどうかと思うけど・・・。 >>332
個人的に強調したいのは、音楽と美術。
仏教はインドの宗教だけど、彫刻はギリシャの美術。仏像は、その融合文化だ。
ただし、中国では仏様の顔立ちが東アジア風に変化した。
音楽も、神社とかで演奏される雅楽は、ペルシャの楽器がベースになっている。
こういうのは、東洋美術マニアとかワールドミュージックファンしか分からない。 話をインドに戻すと、今あるインドが形成されたのは、
なんといってもムガール帝国と、英領インドの時代。
はっきりいえば、東南アジアや中南米と同じで、
インドの歴史も、ここ数百年ほどを見ておけば十分。
それ以前のインドがどうだったかを考えたところで、あまり意味はない・・・。 まあ、日本についても、「応仁の乱より以前の日本史を学んだところで、
今の日本を考える上では役に立たない」というようなことを
内藤湖南が言ってたらしいから、どの国も大なり小なりそうかもしれないが。 フィリピンやメキシコに関して言えば、これらの国々の歴史は、スペイン人が来たときから始まる。
それ以前のことは誰も知らない上に、たとえ分かったとしても、
現代とのつながりが切れているので、あまり参考にならない。
それと似た面はインドにもある。
インドを統一したのは、19世紀のイギリス。
それまでのインドは、東南アジアのように、多くの土人国からなる地理的なまとまりにすぎず、1つの国ではなかった。 「数千年の歴史に根ざす」とされるカースト制だって、
「本当は、身分制度として固定化されたのは英領のとき」
という意見もあるくらいだ。 >>335
>こういうのは、東洋美術マニアとかワールドミュージックファンしか分からない。
雅楽と正倉院の遺物のペルシア起源や
仏像と寺の柱へのヘレニズムの影響なんて中学生でやるだろ >>334
>隋唐の制度は、基本的に北方の異民族による征服王朝の支配体制なので
どこが?冒頓単于以来の三翼制や万騎制や十進法制の軍団制度とかどこも全部漢化するうえで捨て去ってるじゃないの
遊牧民の制度ってむしろギリシャやローマに近い
烏丸や契丹なんて選挙制度まであったぐらいだからな >>342
それもムガール期にできた楽器でペルシャ起源 ムガール帝国以前のインド音楽など、まあ広い国だから
どこかに残ってるんだろうけど、まず誰も知らないな。
演奏者がいない。 インド・ペルシャ・アラビア・トルコの伝統音楽を聞くと、
インドから中近東までが1つの文化圏なんだとを実感する >>341
「北方の異民族の征服王朝による支配体制」という話と、
「遊牧民の社会」という話を混同してるんじゃないか? >>348
ほんとだ。13世紀の、デリースルタン朝の時代の作曲家
解説文を見ると、ペルシャ語で詩も書いていたイスラム神秘主義者だそうだけど ペルシャ音楽は、ムガール帝国の以前からも入っていたんだな まあ、中国でも、モンゴル文化は元の時代に一気に入ったわけでなく、
その前の遼や金の時代から徐々に入ってきてたわけで 世界最初のサイケデリックロックはバーズの霧の8マイルだが、ギタリストのロジャーマッギン曰く、
イントロとソロの最後の半音階フレーズは
モダンジャズのジョンコルトレーンとインド音楽の両方から影響を受けて生み出したとのことである
https://youtu.be/e8QypoBpQqI >>355
それを言ったら、タイやミャンマーもそうだが 実際のところ、仏教とヒンドゥー教は、根本的に違うわけではない
まあ似たようなものだ >>357
スリランカで仏教徒がヒンドウー教徒を迫害して内戦を起こしていた あれは、どっちかっていったら、タミール人とシンハリ人の民族対立なのでは? インド神話の神様を信仰するのは、外国人には敷居が高い。
だから、ヒンドゥー教がインドの外にまで広がることはない。
でも、それは民間レベルの信仰の話であって、寺とか山で瞑想修行する
その道のプロフェッショナル達が考えてることは、仏教とヒンドゥー教で大差ない 仏教とヒンドゥー教は、インドと東南アジアでシノギを削ってきたが、
インドではヒンドゥー教が勝利し、東南アジアでは仏教が勝利した
もっとも、最終的な勝利者はイスラム教かもしれないが ヒンドゥー教はブラーミンがいないと成り立たないからな
インド国外では成立しにくい 20世紀には、こういうインドのグルたちが欧米で知られるようになり、
今まで聞いたこともなかったような深遠な哲理を語り始めた
世界的に、大きな精神的影響を及ぼしている 20世紀欧米人へのヒンドゥーとかラマ教とか道教とか浸透って
神智学の類と同類だと思うんだよね とくにアメリカ西海岸ではヒッピー文化が栄えた
インドの宗教や音楽に魅了された欧米人たちが集まって騒いだ >>369
クリシュナムルティは若くして神智学の教祖になったが、教団を解散してフリーの宗教家になった 神智学協会創設者のブラヴァツキー夫人は仏教徒になったというけどどこの仏教だったんだろうか 英領インドに長期滞在して輪廻転生思想を身につけたが、
仏教とヒンドゥー教をとくに区別してはいなかったんじゃないかな? 「西のイエス・キリスト、東のゴータマ・ブッダ」を世界の二大聖人と位置づけるのは、
日本の新興宗教にもよくあるパターン
単なる知名度の問題だけど >>371
吹いたww
まあ、アキバにインド料理やが多いのは、インド人IT技術者が日本に沢山きているからだと思うが
ゲームネタで神智学とか関係ありそうだから、IT−ゲーム−ファンタジー系ー神秘主義ということかも知れないが >>373
彼女の生家と婚家の領地には、チベット仏教を奉ずる少数民族がいた。その影響の大きさについて、去年の国立民族学博物館の雑誌やWestern Esoterisism関連洋雑誌にここ数年、しばしば言及がある。 http://sherman.jp/engel-566.html
死後天国に行きたい、現世で幸せになりたいと思うなら是非我々の所で熾天使様を崇拝し、
愚かなゼウスやヤハウェ、シヴァ、等、神と名乗るまがい物の下劣な悪魔を倒しましょう
あのものらは我々の神であるルシフェル様やサタン様やカナンの地の慈雨の神を悪と決めつけ迫害してきました
後から土足で入っておいて、元来おられる神を葬り去ったのです
まるでメアリーを殺したエリザベス女王とそっくりです
あの神とかいう愚かな者を崇拝している者共は卑怯なのです
神の非道に異を唱えたルシフェル様こそ神として崇拝すべき対象だと思いませんか? >>380
その書き込みとサイトの内容違うけどどっちが正しいの ・・・アメリカの経営大学院でもマインドフルネスを学ぶ授業が次々に開講されつつあるが、
その先駆者ともいえるのがスタンフォード大学経営大学院だ。世界のエリートが学んでいる
マインドフルネスの授業とは?6月22日発売の書籍「スタンフォードでいちばん人気の授業」
(幻冬舎) で紹介されているリア・ワイス博士のインタビューを2回にわたってお届けする。・・・
マインドフルネスが仏教に由来しているのは確かです。・・・
(↑実は間違い。(恐らく)狩猟採集時代に由来し、日本の縄文時代以降、及び、
インダス文明においてのみ存続しえた人間(じんかん)主義に由来。
授業は、マインドフルネス、コンパッション(他人を思いやること)、セルフコンパッション
(自分を思いやること)という3つの概念について、様々なテーマをとりあげます。
たとえばマインドフルネスはどのように仕事の生産性を高めるのか。思いやりを持つことは、
リーダーにとって強みになるのか、弱みになるのか。他人に思いやりを示すことがなぜ
利益につながるのか。マインドフルネス瞑想、コンパッション瞑想はどういうときに実践すると
効果的なのか。どのようなセルフコンパッション瞑想を実践したら、失敗から立ち直れるのか。
このようなテーマについて、理論と実践の両方の側面から学んでいくのです。・・・
(↑こういう功利主義的なアプローチでは人間主義は正しく理解できない。また、社会全体を
人間主義的にしない限り、個々の人間ないし個々の集団が人間主義化しても、当該個人
もしくは集団は存続し得ない。更に言えば、人間主義だけでは、国は滅んでしまう。
こういうことが、この教授、ひいてはスタンフォードビジネススクール、ひいては米識者達、
ひいては世界の中共当局を除く識者達は分かっていない。)
http://diamond.jp/articles/-/132551 インド亜大陸(インド半島)のデカン高原一帯に、西から東へ流れ、
ベンガル湾へ注がれる北方のゴーダーヴァリー(ゴダヴァリ)川と
南方のクリシュナ川がある。
紀元前3世紀頃、この両川に挟まれた地帯に、ある民族が王国を形成したという。
かつて北インドに侵入したアーリア人ではない別の系統の民族であり、
その民族とはドラヴィダ系のアーンドラ人と呼ばれている
(アーリア系のマハーラーシュトリー族の説もある)。
アーンドラ人はゴーダーヴァリー川上流域にて、
サ−タヴァーハナ家による国家を形成したとされている。 マングローブが生い茂るのは海岸の河口であって、
それ以外はインドでも代表的な穀倉地帯 インドで、アーンドラ地方と並ぶ穀倉地帯といえば、インダス川流域のパンジャーブ地方
古来から兵家必争の地とされてきた Punjab is the only Sikh majority state in India with Sikhs comprising 57.7% of the population as of 2011.
(Wikipedia) アメリカでも、ユタ州はモルモン教の宗教国家として有名だが、
インドでも、パンジャーブ州といえばシーク教 衛星画像の右上のほう、ヒマラヤ山脈の麓には、例外的に豊穣な低地が広がっている
ここが大穀倉地帯のパンジャーブ地方
ここさえあれば、あとの土地は要らない >>392
まぁ、言っても一番狭いとこで幅50kmくらいはあるしな
名古屋以東の日本の土地が全部沖積平野くらいのボリュームあるでしょ >>392
3000年前にはもう一本大河が流れてたってんだよなぁ クウェートからバグダッドに北上する連合軍が世界最古の文明であるメソポタミア文明の遺跡を通過している。
今から5000年あまり前、チグリス川とユーフラテス川に挟まれた「肥沃な三日月地帯」の一角に古代シュメール人が住んでいた。
彼らはそこで高度な灌漑システムをつくり、最古の都市を築き、くさび形文字や車輪を発明した。
しかしながらイラク情勢のマスコミ報道で見るかぎり、現在の肥沃な三日月地帯はまったく「肥沃」ではなさそうだ。
チグリス、ユーフラテス両川の氾濫原に激しい風が吹きつけると息もできないほどの砂嵐が起こり、細かい砂塵(さじん)が辺り一帯を覆う。
砂嵐は人間の動きを妨げ、視界を奪い、健康を脅かす。かつて肥沃だった土地は、今や砂漠と化している。 ナイル川とインダス川はともかく、チグリス・ユーフラテス川は
水の流量の減少、流域の砂漠化が深刻だ。
「四大河文明」のひとつが消えようとしている。 >>396
チグリス・ユーフラテス川みたいに、2本の川だったわけだな? >>399
そうらしいね
アーリア人が侵入した時にはまだ大河でそれがヴェーダに見られるサラスヴァティ川と同定される 「黄河の下流は、水が枯れて海まで届かず、内陸河川になった」
という話をしたところ、現地通から「それは情報が古い。
さすがにその状況は改善されている」と言われた 熱帯では雨季と乾期のギャップが大きく、川や湖の水量が季節によって激変する
ガンジス川も長江もメコン川もそうだ インドにとって、インダス川流域は非常に重要な地域だ。
日本にとって、九州が大陸への玄関だったように、
インドにとっても、あの辺がペルシャやトルコへの玄関。
ムガール帝国も、ここを抑えたから強くなった。
今では、パキスタンとなって独立している。 どっちかっていったら、インドよりもパキスタンのほうが、ムガール帝国の正統な後継者と言える。 パキスタンでは、アラビア文字で表記するウルドゥー語が使われている。
もとはヒンディー語と同じ言語だが、アラビア語の語彙が流入したおかげで、
それなりに違う言語になってきている。
ムガール帝国ではウルドゥー文学、ウルドゥー語の詩が栄えた。
その文化的な後継者は、パキスタン。 思うに、満州国も、人民がロシア正教会に改宗し、
ロシア文字で表記する新種の中国語が普及していれば、
独自性を維持できたのではなかろうか。 バングラデッシュの地は、インド最後の仏教国パーラ朝の地で、
最後の段階では、全インド中から仏教徒が集結していましたが、
ヒンズー系の国に滅ぼされ多くの仏教徒が、スードラ(奴隷)階級におとされていました。
パーラ朝の滅亡直後に、インドにイスラム系奴隷王朝(スードラ朝)が成立したため、
パーラ朝の住民がこぞって差別から逃れるために、イスラムに改宗したために、
バングラデッシュでイスラム教徒が多数派を形成するようになりました。 マウリヤ朝、グプタ朝、ムガール帝国と、北インドの巨大勢力に服属してきたバングラデシュだが、
8世紀から10世紀にかけては、仏教王国のパーラー朝が繁栄した。
パーラー朝は、プラティハーラ朝やラーシュトラクータ朝と三国鼎立時代を形成し、中原に鹿を逐って争った。
今では、日本のパチンコ業界に痕跡をとどめるのみとなったが。 パーラ朝の歴代の王は、仏教を保護し、当時の北部ベンガルには、ヴィハーラ(僧院)が多かったため、のちのビハールの語源となるほどであった[17]。
8世紀の後半に、インド哲学の巨匠シャーンタラクシタと大密教行者パドマサンバヴァなどを、チベットへ仏教使節を派遣した。
パーラ朝時代の仏教は、密教としての仏教がさかんでいわゆるタントラ仏教であったため、チベット仏教もその影響を強くうけている。
また、芸術を保護したため、絵画、彫刻、青銅の鋳造技術が著しく進歩して、仏教美術では、「パーラ式仏像」を生み出して世界的に有名となり、その美術は「パーラ派」や「東方派」と呼ばれ、優れた技巧と典雅な意匠で知られている。 >>407 ターズといわれる人々がそんな感じだな
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BA
>1930年代にはソ連で外国人の国外追放が行われ、漢民族とみなされたターズも追放を受けるようになったが、
追放された人々は満州に移ったんだろうけど、その後はどうなったんだろう >>409今では、日本のパチンコ業界に痕跡をとどめるのみとなったが。
どういう意味ですか? 応接間など、家庭に設置されている客人をもてなす部屋。 英en:Parlourは仏fr:Parloirから来ており、談話室が原義。 歴史 編集
コショウは、古代からインド地方の主要な輸出品だった。
紀元前4世紀の初め頃、古代ギリシアの植物学者テオフラストゥスは『植物誌』の中でコショウと長コショウを考察している。
コショウは当時から貴重で、紀元1世紀のローマの歴史家大プリニウスは1ポンド(約500グラム)の長コショウの価値は15デナーリ、白コショウは7デナーリ、黒コショウは4デナーリと記録している。
古代の地中海世界では、長コショウが成熟したものが黒コショウになると考えられており、その間違いは、16世紀にガルシア・デ・オルタによって改められるまで続いた。 昔の人は、一部の金持ちを除けば調味料なしで肉を食べてたってことだな
まずそう 昔のヨーロッパに、霜降りの神戸ギューがあったとも思えないが コショウの名産地だった南インドは、古来から非常に豊かな地域
肉料理には欠かせないからな実際 昔は、鶏ヨーグルト(チーズ)焼きがメインじゃなかったの
(羊を使っての)スパイス料理はは中東のイメージ インド料理はカレーばっかだろ。
料理のバリエーションがない。 しかし、世界三大料理といえば、フランス料理・中華料理・トルコ料理だ
ここでインド料理が挙がることはまずない >>438
誰かが適当に決めただけでなんのいみもなさそう フランス料理よりイタリア料理やロシア料理の方がうまい >>440
こういう奴は、三大なんとかに日本がはいっていれば、意味があるといいそう >>438
日本料理だろ。トルコ料理など誰も食べない。 >>435
ムガール宮廷料理は、そんな単純なものではない
高度に洗練されたイスラム文化が導入されたため、
辛いだけだったインド料理は一新された 現代の中華料理が「満漢全席」なのと同じく、
インド料理も、ヒンドゥーとイスラムの折衷文化だ >>438,>>445
フランス、トルコ、中華は正確には「世界三大宮廷料理」だけんね
19世紀までは実際そんな感じだった 日本料理なんて醤油味のワンパターンか脂だらけの異常食ばかりだな 現在における世界三大料理といえるのは、中華とアメリカのジャンクフードとハラルフードだろう
イスラム教徒は世界中にいるわけじゃないが、中国人は世界じゅうどこでもいるので、
どこでも中華料理屋がある。アメリカンジャンクフードも世界じゅうどこでもある。
料理の格でいえば、次あたりにフランス料理や和食(B級グルメ含む)がくる
人口的には三大料理の次あたりにヒンドゥー料理、中央アジアと西アジアの羊系料理(トルコ含む)
だろう、たぶん 日本の宮廷料理ってどんなんだ
徳川将軍が食べてたやつとかは >>450
>イスラム教徒は世界中にいるわけじゃないが
世界中に居るんだけどな
日韓やロシア極東沿海州あたりが希有な例外的地域なんだよ
だいたいハラルフードなんて一口に言うが
エジプトの食い物とジャワの食い物と北京の回食堂の食い物はハラルという一点以外に
共通点など全く無い
北京の回食堂の料理はハラルであること以外まごうこと無く北京料理だし >>448
確かに、19世紀の時点で世界の華やかな宮廷といえば、
フランスの復古王朝、トルコのオスマン朝、中国の清朝の3つだろうな。
フランスのは19世紀の途中で命脈が尽きるのだが。
インドのムガール帝国は、すでに崩壊して久しかった。 >>451
普通は、京都の懐石料理が有名なんじゃないかな >>454
懐石料理が宮廷料理とは驚いた
茶会の軽食が起源だと思ったが ていうか、うっかり乗せられちまった。
日本には皇室があり、皇居の晩餐があるじゃないか。
あれが日本の宮廷料理だよ。現役バリバリだ。 >>458
正統派フレンチのフルコースで、デザートには富士山型のアイスクリームが出る まあ、明治以来、西洋人のゲストを必死でもてなしてきたわけだからな。
生魚を食べられない人のために、和食を出さずフレンチにしている。 インド飯が海外旅行板でもダントツ不人気なのは事実。 近世の宮廷料理(徳川将軍の料理)はさほど影響無いかもしれないが、
古代の宮廷料理(朝廷)の料理は日本料理の基礎になってそう 沖縄の宮廷料理
沖縄の宮廷料理は、昔、15世紀から19世紀にかけて500年間沖縄は琉球王国
とよばれる独立国であった。本土とは歴史も文化伝統も違う琉球料理は大別すると宮
廷料理と庶民料理に分かれます。味ひとつとっても沖縄ならではの素材を用いた美味
が多く魅力と不思議さに満ちています 庶民料理は日本と似てて、
宮廷料理は中華料理とにた感じかねえ? 日本料理も中華料理も嫌いだったペリーが好きだったみたいだし
結構個性出てるんだろなあ 余計なつっこみだけど
>500年間沖縄は琉球王国とよばれる独立国であった
統一前も独立してたでしょ
今調べて知ったが、沖縄の神話では25代17802年続いたというのは凄い
皇紀2700年どころじゃないな >>465
越南は東南アジアではなく東アジアなので >>470
独立してたかもしれんが、琉球王国とは呼ばれてなかったんじゃないかな? 中華の世界秩序の中で、琉球王国の国格は、朝鮮王国より上だった。 >>470
今の沖縄人の先祖の大半は西暦千年ころに日本から来た
人骨もそれまでの縄文系のものから新モンゴロイド系にかわる >>475
一般的な日本人より縄文系の血が濃いとは言うが、
それも南九州の人間が主体だったからかもしれない
今の沖縄人と琉球の先住民族とどれくらい血が繋がっているかは不明 先島諸島以外は縄文文化だから安心しろよ
先島諸島は台湾と共通したオーストロネシア系らしき文化があったらしいが しかし言語にオーストロネシア系の痕跡は
残っていないという不思議・・・ それなら先住民が全滅あるいは退去したあとに現住民が移住して来たと考えられる
それなら旧住民と現住民は無接触だから言語の痕跡がなくても当然 言語学的にも人類学的にも考古学的にもそれで筋が通る話だな 港川人や白保竿根田原洞穴人の核ゲノム解析が進展すれば新たな発見があるかも知れない DNAを増幅して、復活させられないかなw
低身長だからできることは限られるかもしれないけど、アーチェリーとか軽量級の格闘技とか体操とか競馬でものすごく活躍しそう
赤ちゃんのうちからガッツさんの養子にしてボクシングを教えたらいいかも
見た目もさほど変わらないw >>484
沖縄先住民族じゃなくて南九州から来た日本人(血統的には隼人の子孫)かもしれない >>484
そのレスアンカーなんとかしろよ嫌がらせか
>>479-480 >>483
越南は漢字漢文の東アジア文明圏に属する
元号も使ってたし、科挙もやってたし、服装も建築も東アジア式
人名も地名も漢語
仏教もインドシナ半島の他地域と違って大乗で漢訳仏典 >>488
やっぱり「ベトナムが東南アジアではない」って証拠だせなかったなあ
>>471ウソついてじゃねえぞクソボケ
471 世界@名無史さん 2017/07/03(月) 04:09:18.64 0
>>465
越南は東南アジアではなく ベトナムが東南アジアに属するなら仏教が漢訳仏典の大乗なことどう説明するんだよ
人種だって新モンゴロイドだし https://www.britannica.com/place/Southeast-Asia
>Mainland Southeast Asia is divided into the countries of Cambodia, Laos, Myanmar (Burma), Thailand, Vietnam, and the small city-state of Singapore at the southern tip of the Malay Peninsula;
>Cambodia, Laos, and Vietnam, which occupy the eastern portion of the mainland, often are collectively called the Indochinese Peninsula.
ブリタニカはベトナム東南アジア扱い 東南アジアってのは地理的区分だから入る
たぶん大理とかも存続してたら入ってたな >>490
現在の人類学界では、
「コーカソイド」や「モンゴロイド」という分類概念を認めていない この板には人種バカしかいないからな
そもそも「インドシナ」っていう地域名がなんでついたか、そこから調べろよ 雲南省は東南アジアだろ
政治的に中国に組み込まれただけで 連絡 リエンラック
国歌 クォッカー
注意 チューイー
日本語もベトナム語も、中国の影響を強く受けた時期が唐なので、唐音がベースになっている。
あまりにも似てるので、驚くことが多い。 少なくとも、北ベトナムが中国文明圏に分類されるのは間違いない
単語の多くが漢字語だし、儒教の価値観が浸透している
科挙もやってた しかし、ベトナムがASEANに加盟して、東南アジアの一国としての道を歩み始めたというのも事実
「広東省までは中国だが、ベトナムから先は中国ではない」という、
清の乾隆帝のときに確定した境界がますますハッキリしている ベトナムで注意するべきこと
これはマナーとして日本でもある文化ですが、ベトナムは儒教の国であり、お年寄りを敬う行為が色濃くあります。
バスに乗ればお年寄りが立っていることはまずありません。
皆さん率先して席を譲ってあげてください。 仏教大国であるベトナムでは喜捨の文化が根付いています。
これは簡単に説明をすると、「お金のある人は、お金のない人に恵んであげましょう」というものです。
発展途上国のベトナムは貧富の差が広がっており、都市でも物乞いがたくさんいます。
その日の生活もままならない人たちなので、数十円単位でかまいませんので施してあげることも優しさです。 もともとベトナムは54もの民族からなる多民族国家です。この54民族の中で多数派を占めるのがキン(越)族です。キン族の人々の多くは仏教徒(大乗仏教)とされています。
実際には仏教に儒教と道教(中国の民間宗教)が混ざり合っているようです。多くの人はお寺に参拝しますが、お寺によっては道教系の神様も祀られていますし、葬儀や法事などは儒教の儀式で行われるのが一般的です。
次に多いのがカトリック教です。16世紀に北部海岸地方で始まったカトリックはフランス統治時代に全国に広まり、今ではおよそ人口の1割はカトリック信者と考えられています。 厳格な社会主義の時代には、カトリックは前統治国フランスの宗教であったことなどから肩身の狭い思いをしていたそうですが、ドイモイによる開放政策に加え、現政権がカトリックの総本山バチカンと和解をしたことなどから、少しずつオープンになってきたようです。
カトリック信者とはいえ、ベトナムに古くから伝わる儒教的な祖先崇拝などは、今でも多くの人が大切にしているそうです。 >>502
>その日の生活もままならない人
ベトナムって、まだ社会主義共和国だろ
テレビとかスマホとか、最低生活必需品以外を買うのにものごい
している、というのなら理解できるが、まったく食えていけない人が
いるというのはどうなんだ。ベトナムも、もう中国と一緒ってことか >>490
ベトナムは東南アジア諸国連合の加盟国なんだからもう説明不要だろ >>505
中国と違って、内陸部がない
日本と同じく、そこがベトナムの強み チャンパが存続してインド文化圏中国文化圏の混在地帯になってりゃ面白かったのにな >>505
>ベトナムって、まだ社会主義共和国だろ
社会主義なんかすでに全くやってないぞ
越共は共産党という党名の資本主義党で中共と同じ モディ首相は結構ヤバイ奴なんだよな
グジャラート州政府時代、ムスリムに対するヒンドゥー教徒の暴動を見てみぬふりして
結局500人以上が死んだ
それが原因でブッシュ大統領から合衆国ビザ拒否されて10年以上アメリカ入国禁止
最近では牛肉が原因でムスリムがヒンドゥーに惨殺されてるし、国内ムスリムの反対押し切って
インド首相史上初めてイスラエル行っちゃうし
バリバリの宗教右派でムスリムを敵対視してる
だがインドには2億人近いムスリムがいる 神聖視されてるコブウシ以外の牛肉は食べていい
だから和牛も普通に食べれる 日本に来てるインド人女性って婚前のセックスに対して、やはり奥手と言うか禁忌(タブー)だったりしますか? >>516
素でそんな白いインド人って激レアじゃないの? >>519
ルーマニアあたりにいそう、ジプシー多い国だからそういう印象を持ったのかもしれんが 日本ではあまり知られていませんが、実はインドは美人大国。
彼女たちのエキゾチックな美貌は世界的にも評価が高く、
美人コンテストでも上位入賞の常連です。
たとえば1994年のミス・ワールドに選ばれたアイシュワリヤー・ラーイは
モデルからインドを代表する女優に転身し、主演作「ロボット」は日本でもヒットしました。
また2013年のミス・アメリカにインド系女性のニーナ・ダブルリが選ばれたのも記憶に新しいところ。 そんな美人が多いインドにおいて、美の基本条件は“美肌”と“美しく長い髪”です。
しかしインドといえば灼熱の国。
特にデリーなどの北部は乾燥もはげしく、
お世辞にも美容に良い環境とはいえないのですが、
そこで生きる彼女たちの美の秘密は“アーユルヴェーダ生活”なのだそう。 >>517 これはサハリンのウィルタの写真じゃなかったっけ? マーバールとマラバール、チェーラ朝とチョーラ朝、
カルカッタとカリカット、インド史は混乱しやすい。 チャンドラグプタはインド史混乱の元凶
例えてみれば、漢の建国者が劉邦で、唐の建国者が劉邦一世っていうようなものだからな。
これでこんがらがるなというほうが無理 さらに、チャンドラグプタ二世とサムドラグプタが混乱に追い討ちをかける 南端の「パーンディヤ朝」は、古代から中世まで千数百年つづいた >>531
この、北インド・南インド・南端の3段階が基本。
この3つは別の国であり、「インドが分裂した」と考えるべきではない。 インド史が意味不明なのは、インド亜大陸を一緒くたにして考えるから。
ドイツ・イタリア・イギリス・フランス・スペインの歴史を同時進行でいっぺんにやるようなものだ。
複雑すぎて頭がこんがらがるのは当たり前。 まず、北のヒンドスタン平野、南のデカン高原、南端のジャングル地帯は、
別々の文化圏であることを認識することから始める。 南端のジャングル地帯だけを考えれば、千年王国のパーンディヤ朝がずっと続いていて、意外と単純な歴史。
その間、遠く離れた北のガンジス川流域ではマウリヤ朝・グプタ朝・ヴァルダーナ朝・・・と王朝交代したが、これらとパーンディヤ朝とはほとんど関係ない。 人口増大したインドにジャングルいまも残っているの? >>537
そのくらいGoogleEarth見ればすぐ調べられるだろ >>537
異常に人口が多い地域は、ガンジス川流域に極端に集中している。
南インドは、だいたい広さに見合った人口で普通の国。 そして古代文明発祥の地であるインダス川はほぼパキスタン領に… 何とか朝の下に藩王みたいのがいっぱいいるからややこしい。 >>542
それは、中国でも中東でも欧州でも一緒
電車もインターネットもない時代に、地方を完全支配するなど不可能 騎馬隊の登場で、ちょっと状況が変わった
鉄砲隊の登場で、さらに状況が変わった
中央権力がだんだん強くなった インド人「徳川幕府の下に大量の大名がいてややこしい」 >>549
国内に徳川幕府が何個もあるからややこしいんだろ >>552
マハーラージャと呼ばれていればヒンドゥー教徒。ムスリムの藩王はニザームとかナワーブとか。 >>554
文化の中心だったのだが、イスラム政権で文化ズタズタになった サウジアラビアの国王はマリク
アラブ首長国連邦の首長はアミール
格の違いは大きい >>558
オマーン・ブルネイ・マレーシア「・・・・・・」 >>555
インドはその繰り返し
アーリア人侵入でズタズタ
イスラム侵入でズタズタ
イギリス支配でズタズタ >>563
どの侵入ももとのインド文化を改良したように見えるが 改良どころの騒ぎではない
イスラムもイギリスも、インドの文化をあまりにも大きく変えてしまった イギリスはともかくイスラムはどうかな?
一部の建築物とか絵画なら確かにそうかもしれないが
それ以外にイスラムが変えたインド文化って具体的に何? >>568
変わった文化のジャンルを述べて欲しいわけではなく、具体的に何がどう変わったのか、を
教えてよ。
音楽、文学、料理、服装、言語は具体的にどう変わったの? 日本人が和服じゃなくて洋服が一般装になったくらいじゃないと変わったとは言えないよな >>570
服装に関しては、そこまで根本的に変化したわけではない >>569
ていうか、インドの伝統音楽と、アラブの伝統音楽をyoutubeでいいから聴いてみてはどうか。
あと、ペルシャの細密画とムガールの細密画を、Googleの画像検索でいいから見るのもオススメ。 >>572
>>566で細密画については、変化を理解している、と書いているから問題ない。具体的に理解できている。
>インドの伝統音楽と、アラブの伝統音楽を
どう変化したのかを知るには、現代インドの「変化した」とされる音楽と、
中世インドの曲を比べることになる。現代インドのイスラムの影響を受けた曲と、
中世インドの曲をyoutubeのURLをはってくれ。
>文学、料理、服装、言語
についても具体的によろしく!
>インドの文化をあまりにも大きく変えてしまった
と、書いているのだから、具体的に説明できるでしょ?
本とか検索とかに投げるのはなしだよ。もし、自分の言葉で具体的に
端的に語れないのであれば、「インドの文化をあまりにも大きく変えてしまった」
というのは単なるイメージだけで語っていることになると思のだが、どうだろうか。 奈良時代の日本が唐から受けた影響に匹敵する
まあ、インド・ペルシャ・アラビアは近いし、地続きだから似てくるのは仕方ないが >>573
これは、音楽と美術の話なんだよ。
百聞は一見に如かず。 >>573
あー、結局逃げてるのね。わからないわけだ。
>>563も>>568も、なんら具体的知識がなくて適当に書いたわけね・・・・
それなら納得 いやいや、美術に関しては画像を見ること、音楽に関しては動画で聴くことを
オススメしてるだけで、別に「ネットで調べてくれ」と言ってるわけではない。
料理については、食べに行く必要があるのだが(笑) 日本では、トルコ料理があまりにマイナーなので、知る機会が少ない。
インド料理なら、秋葉原にたくさんあるけど。 >>577
質問の意図を理解してないんじゃないの?
現代インドの文化を知りたい、といっているわけじゃないの
イスラムのインド侵入により、それ以前のインド文化が、具体的にどのように変化したのかを
知りたい、といっているの。インドに旅行しても、「現代インドの文化」しか
わからないでしょ。 >>579
ペルシャの楽器が入ってくる以前のインドの音楽など、すでに消滅してるから誰も知らない。
奈良時代より前の日本の音楽が分からないのと同じ。
でも、雅楽を実際に聴いてみれば、唐からどれだけ影響を受けたかは自明のことなんだな。 >>580
じゃあ、>>568で書いている
>音楽、文学、料理、服装、言語
のうち、音楽を取り消してくれ
唐の話はどうでもいい。「インドでもそういう可能性はあるね」程度の
事例にしかならない。インドの話に絞ってくれ。
その上で、
>文学、料理、服装、言語
についてイスラムの影響による変化の具体的な説明よろしく! >>580
ちなみに古代インドの楽器は、古代の浮彫や壁画に残っているから、
ペルシャから入ってくる楽器と比較すれば、何が違うのかわかる。
俺が知りたいのは、ペルシャから入ってきた楽器が、古代インドの楽器に
取って代わったのか?それとも新しく付加されただけなのか?
楽器が変わっただけで、インド的音楽が演奏され続けたのなら、
「あまりにも大きく変えてしまった」 なんてことにはならず、寧ろ
「インドの伝統音楽に吸収されてしまった」という表現の方が実態に近くなるだろう
あるいはペルシャ音楽は、インドのムスリムの間くらいに浸透しただけで、
現代でもインドのムスリム周辺でしかきけないのかも知れない。この場合にも、
「あまりにも大きく変えてしまった」 ということにはならない。
整理すると、
ペルシア楽器は、
1.インドの伝統音楽に吸収された
2.ムスリム周辺でだけ普及しただけで、インドの伝統音楽には何ら変化はない
3.ペルシア楽器の導入は、伝統インド音楽をまったく変えてしまった
このいづれかが考えられるわけだが、そのどれなのか?を教えて欲しい、ということ もうひとつ付け加えておくと、サーサーン朝の音楽は、バハラーム五世が
インドから楽人を招いて成立した、というイスラム時代の史料がある
これは宮廷だけではなく、一般にも普及させたのでサーサーン朝時代の
ペルシャの音楽に大きな変化を与えたかも知れない
これが事実だとすれば、イスラムによるペルシャ楽器のインド導入は、
もともとインドの伝統音楽だったものがインドに戻っただけ、という可能性もある
(もちろんサーサーン朝からイスラム時代のペルシャでインド音楽がイスラム的に変容していた
可能性もある)
他にもジプシーの西遷などがイスラム音楽に影響している可能性もある。 >>582
使われる楽器が、まったく変わってしまった。
弦楽器はもちろん打楽器も変わったし、アラブ的なリズムになった。
このアラブ的なリズムってのが、やっぱりアフリカを感じさせるというか、
日本人にとってはジャズやロックみたいに感じられるリズムだ。
でも、歌がアラブとは違う。
歌はインド人の言語であり、インド人の声なので、それはやはりインドの個性。 衣装についても、サリーの起源はインダス文明にまで遡るとされているが、
踊り子の衣装なんかは中近東のベリーダンスそのもの。
踊り子がインド人だから、そこはアラブ人とは見た目からして違うのだが。 細密画も、イスラムでは「偶像禁止」という宗教的な縛りのおかげで健全な発達を歪められたから、
ムガール帝国の時代には、インドのほうがむしろ本場になった。 >>584
今、Zakir Hussain & Rakesh Chaurasia と Raga Kedar 、Amīr Khusrow と Bhimsen Joshi
を聴いてみた。アミール・ホスローは、確かにイスラム的な感じがするが、
Zakir Hussain & Rakesh Chaurasia はブラック・アフリカみたいな感じだ。
Bhimsen Joshi とRaga Kedarは、伝統インドにちょっとイスラムが入った感じ。
Wikipwdiaのインド伝統音楽の項目をみると、ヴィジャヤナガルの曲がデリーの宮廷に入って
現在のヒンドゥスターニー音楽となったとある。13世紀のアミール・ホスローの
曲はほぼイスラム的だが、現代のヒンドゥスターニーの曲をきくと、イスラム音楽は
インド音楽に影響を与えたが、基本的にはインド伝統音楽を若干変容させた程度
という感じがした。インド古代音楽は恐らくヴェーダの朗誦に近いのだろうから、
古代インドと現代インドで変化しているのは確かだが、イスラムがインド音楽を
「ズタズタにした」とか「あまりにも大きく変えてしまった」 とまではいえないのではないかね >>586
細密画は、もともとアラブにまでは広まってなかった
近世ミニアチュールの起源はイル汗国で、それがチムール朝になって発展したもの。
チムール朝がオスマンからインドまで遠征し、子孫がムガル帝国を作ったから、
オスマン宮廷、イラン、ムガル帝国で広まった、という経緯がある。
アラブはチムール朝の文化的影響を受けて無かったのと、偶像禁止が大きいが、
オスマン、イラン、ムガルではそうでもなかった。 >>580
you tubeでrig vedaって検索してみ
君にとって新しい世界が広がるぞ アラブ音楽も、インド音楽も、ペルシャの強い影響のもとに発展してきたが、
現代人が聴ける「アラブの伝統音楽」、「インドの伝統音楽」というのは、
ほとんどがオスマン帝国やムガール帝国の時代の音楽。
それ以前のは、あんまり残っていない。
その事情は中国も似ており、「唐の音楽を聴きたければ、
日本で雅楽を聴くよろし」と言われている。 ペルシャにはセターラという楽器があり、南インドにはヴィーナという楽器がある。
一説には、このセターラとヴィーナが融合して、北インドのシタールになったとされている。 東南アジアの伝統音楽とインドに残ってる音楽の共通部分を探せばいいんじゃないの
レリーフからみて舞踊は近いものを採用してるはずだから、音楽も昔に模倣した可能性が高いのでは 東南アジアはあまり関係ないんじゃないかな。
調べるなら、南インドだろうね。
南には、イスラム文化の影響が比較的小さい。
インドの古い音楽が残っている可能性がある。 >>578
トルコ料理だってドネルケバブとトルコアイスあるだろ 16歳少女を集団レイプして殺害 インド北部の避暑地に衝撃
http://www.afpbb.com/articles/-/3135719?act=all
【7月14日 AFP】インド北部ヒマチャルプラデシュ(Himachal Pradesh)州のシムラ(Shimla)近郊で、
少女(16)が集団レイプの被害に遭った末に殺害される事件があり、地元警察は13日、主犯格とみられる男(29)を逮捕した。
高原リゾートとして知られるシムラ一帯でこうした残忍な事件が起きるのは珍しく、住民らに衝撃が走っている。
少女は森の中で全裸の遺体で見つかり、体には打撲の痕があった。2日前に、学校からの帰り道に拉致されたとみられている。
検視の結果、集団レイプされ、絞殺されたこと分かった。脚を骨折するなど重傷を負っていたという。
ヒマチャルプラデシュ州は性暴力の発生率がインドで最も低い州の一つで、今回の事件に地元では悲しみや怒りが広がった。
州警察当局によると、逮捕した男は薬物依存症で他の性的暴行事件にも関わっている可能性がある。捜査には協力しているという。
今後さらに共犯者が逮捕される見通し。
インドでは毎年4万件以上のレイプ被害が報告されている。
ただ、訴えの処理のされ方に対する不信感や性犯罪を社会的不名誉とする風潮から、
被害者が名乗り出ないことも少なくないため、実際の被害ははるかに多いとみられている。(c)AFP 【国際】インドでメイド大反乱 武装したメイド数百人が街を破壊
1人のメイドと雇い主であるマダムの言い争いが、インド・ノイダにある高級アパートメントで起きた数百人規模のメイドによる暴動へと燃え上がった。
ニューヨーク・タイムズが報じた。
首都ニューデリー近郊のノイダで起きた暴動でメイドらは、岩や鉄の棒などで武装し、アパートメントに突撃していった。
この反乱を受けて、数千戸の家族は、信頼が置けないとしてメイドらを追い出した。
インドの莫大な貧富の差により、富裕層はお手伝いさんを低賃金、無契約、少ない法的義務をもって雇うことができる。
メイドと雇用者との衝突は定期的に起こるが、今回のような大規模暴動は前代未聞の事態だと、インドにおける家庭内労働者を調査しているラヒリ氏は述べる。
暴動前日の火曜日、雇い主のセティさんが、1万7000ルピー(約3万円)を盗んだとしてメイドのビビさんを非難した。
セティさんは、ビビさんが未払賃金として1万ルピーを取ったと認め、去っていったと主張している。
一方でビビさんは告白を否定し、問題の夜はセティさんの「部屋に閉じ込められていた」と主張。
この証言は、ビビさんの夫や、スラム街の住人が認めている。警察は一方で、ビビさんが他の雇用者の部屋で夜を過ごしたと発表している。
ビビさんはインタビューに対して、「何も覚えていない」とした上で、「翌朝には大きな騒ぎがあり、多くの人が来た。警備員が来て、私を外に出した」と述べた。
雇い主のセティさんは、彼女のもとに向かいながら「今日、彼女を殺す。あのマダムを私たちは殺す」と叫ぶ「大群」を目にしたと証言する。
ニューヨーク・タイムズによると、騒動を映した動画には、アパートメントに向かう騒々しくて攻撃的な群衆と、群衆を無益に押し戻そうとする警備員が映っている。
http://jp.sputniknews.com/life/201707173890646/ >>595 シムラだけに「変なおじさん」にやられたか.... 中国の史料は、インドで牛が崇敬されているのは、モーセ聖人の弟の
サムエルがモーセが不在の間に金の牛を作って人々に崇めさせて
いたが、モーセが戻ってくると牛に乗って逃げて行ったため、人々は
サムエルを慕ってその後も牛を崇めたからだという話を載せている。 実際のところ、仏教の教義の大半は、釈迦が登場する以前からインド哲学者たちが言ってたこと
釈迦がそれに付け加えたものは、意外なほど少ない シャンカラは、仏教の教義を大幅に取り入れてバラモン教を刷新した インドに「牛ふんバス」登場 燃費は天然ガスの1.5倍
http://www.asahi.com/articles/ASK7H52RTK7HUHBI010.html
インド東部コルカタで、牛のふんを燃料にして走るバスが営業を始めた。バスの運賃は格安の1ルピー(約1・7円)。
牛ふんは家庭での煮炊きやヒンドゥー教の儀式に使われるが、急増するエネルギー需要を前にエコ燃料としての模索が始まっている。
バスを運営するのは、ガス精製会社「フェニックス・インディア研究開発グループ」。
社員が8台のトラックで1日に約8トンの牛ふんを農家などから集めて回り、郊外にある自社工場でバイオガスを精製。
シリンダー12本に入れて、バスの下部に搭載する。
バスは緑色に塗装され、1ルピーのコインが描かれている。今年3月末から、市内で営業運転をスタート。
通常運賃の2割未満という安さが話題となり、1日に約300人が利用するという。
バスの内外にある広告が主な収入源で、現在1台の車両を年内に15台まで増やす予定だ。
同社のダス社長(39)によると、重さ1キロ分の燃料で6キロ走り、燃費は天然ガスの1・5倍。
通常の速度を出せる。排ガスに牛ふんの臭いはなく、一般家庭向けにも台所の燃料ガスとして売っている。
また、牛ふんの燃料でヘリコプターを飛ばす計画もある。
インドには牛の数が多いうえ、最近は牛の保護意識が高まった影響で、牛ふんの再利用を持ちかけられる機会も増えた。
ダス氏は「エコを広めながら利益を上げられる。牛ふんの素晴らしさを広めたい」と話す。(コルカタ=奈良部健)
牛ふんを燃料にして走るバス=コルカタ、奈良部健撮影
http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20170719002005_comm.jpg
牛ふんの燃料で走るバスの車内=フェニックス・インディア研究開発グループ提供
http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20170719000650_comm.jpg アージーヴィカ教の後継者が実はひっそりと・・・
なんてことはないのか。 インドで牛を食べないのは穀物特に豊富な豆類で栄養をとれるからって、今日の日経新聞書評
たしかに日本やミャンマーも穀物が多いのでそれほど食べない
寒くて食物の少ない中東欧州と違う >>603 早口言葉「ダス社長の試乗バスガス爆発」 >>606
モンゴル人は羊しか食べるものがない
寒い草原には草しかないが、人間の胃腸では消化できないから、
反芻動物に食べさせて、肉から間接的に栄養を取る イギリス領インド帝国(イギリスりょうインドていこく)は、1858年にイギリスがインドに成立させたインド帝国(英語:Indian Empire)を指す。
1877年以降はイギリスの君主がインド皇帝を兼ねる同君連合の形式が取られたが、事実上イギリスの植民地であった。
英領インド・英印とも呼ばれる。またイギリスによる統治を指してヒンディー語で「ब्रिटिश राज」(英語ではBritish Raj)と呼ぶ。
その領域はインド・パキスタン(後のバングラデシュを含む)のみならず、現在のミャンマー、ネパール、スリランカも版図とした。 1858年、インド大反乱(シパーヒーの乱)の後、イギリスはムガル帝国の君主を廃し、イギリス東インド会社を解散させ、「インド帝国」を成立させた。
そのうえで、本国イギリスにはインド省(英語版)が、現地には「副王(英語: viceroy)」の称号を持つイギリス人総督が置かれ、1877年にはイギリス国王(当時はヴィクトリア女王)がインド皇帝を兼任するようになった。
国内は直轄州と大小552の藩王国にわかれており、軍隊(英印軍)も存在した。 イギリス領インドに、現在のネパールやブータンは含まれていたのでしょうか?
現在のインドとパキスタンとバングラデシュとスリランカだけでしょうか? ベストアンサーに選ばれた回答
イギリス領インドには上記のほかにビルマ(現・ミャンマー)も含まれます。
一方、ネパールとブータンはコレに含まれませんが、ネパールはイギリスと不平等条約を結んで事実上傘下となり、ブータンは外交権を取り上げられた属国となっています。
ビルマの場合は19世紀前半、ビルマ王朝が全盛期を向かえ全方面に領土を拡張しようとしたものの、東は同じように全盛期を迎えたシャム(タイ)にさえぎられたので英国の介入で混乱するインドに侵攻して領土拡張をはかりました。
当然こんな無謀な事が成功するはずもなく、三度の戦争でイギリス軍にボロ負けし、遂には王朝を滅ぼされて英領インドに組み込まれてしまいます。
ビルマは弱体化したインドを攻めているつもりが、実際は当時世界最強の英国軍の縄張りを荒らしていたという、外交的無知から来た敗北でした。
これを見たシャムは全方位土下座&瀬戸際外交を行い、新たな獲得領土は全部捨ててタイ人の領域だけ守れればいいという方針で完全独立を守ります。 1850年代は、日本・中国・インドのアジア三大国が、そろって激動の時代を迎えた。
日本はペリーの来航から開国へ。
中国は太平天国の乱が勃発。
そして、インドはセポイの反乱を経て英領インドの時代へ。
ムガール帝国は滅亡し、東インド会社は解散された。
マラーター王国やマイソール王国は、とっくに滅ぼされていた。 1850年代は、日本・中国・インドのアジア三大国が、そろって激動の時代を迎えた。
日本はペリーの来航から開国へ。
中国は太平天国の乱が勃発。
そして、インドはセポイの反乱を経て英領インドの時代へ。
ムガール帝国は滅亡し、東インド会社は解散された。
マラーター王国やマイソール王国は、とっくに滅ぼされていた。 19世紀には、勘違いしたビルマが、インド侵略に乗り出した。
インドの長い歴史の中でも、東南アジアの国に攻めこまれたのは、恐らくこれが初めて。
インドは、そこまで弱体化していた。 18世紀ともなると、もはや中国やロシアでは遊牧民など無力化されていたが、
インドは相変わらずアフガニスタンの騎馬軍団に攻めこまれて大敗していた >>615
>インドの長い歴史の中でも、東南アジアの国に攻めこまれたのは、恐らくこれが初めて。
まだムガールが反映してた時に、ブータンがガンジス川沿岸まで進出したこともあった
(クーチ・ビハール) 【侵略者】アンドロノブォ文化【原アーリア人】 [転載禁止](c)2ch.net
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/whis/1437372873/
>>845-846
アーリア人インド発祥説というのがあるらしい、逆転の発想
ジプシーの先行者か 「歴史的屈辱」にまみれた中印国境紛争が再燃
都合のいい歴史的解釈はリスキーだ
2017年07月30日8
デベシュ・カプア :米ペンシルベニア大教授
屈辱が持つインパクトを理解している国があるとすれば、それは中国だ。
ブータンと中国、インドが国境を接するドクラム高地で、インドと中国の軍隊がにらみ合いの膠着状態に陥ってから約1カ月になる。この種の対立としては、1962年の中印国境紛争以来、最長のものだ。
中国国防省の呉謙報道官は、インドが惨敗を喫した1962年の国境紛争をあからさまに引き合いに出し、
「歴史の教訓に学ぶべきだ」とインドに警告した。だが、歴史の教訓は、それを引き合いに出す側の都合に合わせられることが多い。 1962年の紛争は、高慢なインドが中国の要求をのまなかった代償であるというのが、中国指導部の見方だ。
だが、インドにしてみれば、これは半世紀以上にわたって国を苦しめてきた屈辱にほかならない。
国際関係において「屈辱」とは、他国の名誉を傷つけ、
地位を得ようとする試みを否定することであり、
明白なヒエラルキーの構築を意味する。
戦争は、相手に屈辱を与える格好のチャンスである。 中印国境紛争(ちゅういんこっきょうふんそう、英語:Sino-Indian Border Conflict、簡体字:中印边境战争)は、
中華人民共和国とインドの国境問題により、1962年に中華人民共和国がインドに侵攻し生じた紛争のこと。 かつての中華民国と長年イギリスの植民地であったインドは、途中にネパールとブータンを挟んで長く国境を接していた。
ほぼ全域がヒマラヤ山脈といった高山地帯であり、正確な国境はあいまいであったものの、事実上独立しダライラマ政権の統治下にあったチベットに中華民国の実効支配が及ばなかったこともあり、
両国間の国境紛争は、1914年のシムラ会談の決裂以来、沙汰止みになっていた。 主にカシミールとその東部地域のアクサイチンおよびラダック・ザンスカール・バルティスターン、ブータンの東側東北辺境地区(英語版)(後のアルナーチャル・プラデーシュ州)で激しい戦闘となったが、
周到に準備を行い、先制攻撃を仕掛けた中国人民解放軍が勝利を収め、国境をインド側に進めた。
インドの保護国だったシッキム王国では、ナトゥ・ラ峠を挟んだ地域で小競り合いが起き、峠の西側は中国となった。 なお、1950年代後半より表面化した中ソ対立の影響で、ソビエト連邦はインドを支援していた。
また印パ戦争ではパキスタンを中華人民共和国が支援しており、中ソ両国の対立が色濃く影響していた。この紛争は、インドが核兵器開発を開始するきっかけともなった。 北朝鮮の問題で、極東に世界の耳目が集まってるが、
中国とインドの国境紛争も「開戦前夜」といわれるほど
ヒートアップしている 1962年の中印辺境戦争では、中国にだまされたインドが、準備不足のため惨敗した あれから50年以上の歳月がすぎ、中国は世界的な軍事大国に成長した ニューデリーまで陥落させれば面白かったのに
デリーに迫るも人民解放軍撤退で終了だもんな 「幸せの国」ブータンをめぐる中国とインドの対立は、8月に入ってエスカレートの一途を辿っています。
ブータン、中国、インドの3ヵ国の国境が交わる付近のドクラム高原をめぐり、7月から中国軍とインド軍が向き合っているのです。 解決済の質問
インド軍の戦力と強さについて聞かせてください。
@もし、中国とインドが交戦した場合、どちらが勝ちますか?(予想でも可)
A両軍の戦力や使用している兵器など教えください。(できるだけで可)
B今後、どちらの軍が強くなりますか?(予想でも可)
Cインド軍は、日本の味方?それとも敵ですか? ベストアンサーに選ばれた回答
インドと中国が交戦した場合、狭い山岳部での戦闘になるので甲乙つけるのは難しいでしょう。一応、陸空は中国に分があるのですが、山岳部で押し切るのは非常に困難です。
海上はとなると、インドはかなり強く、中国も簡単に手出しを出来ないほどです。とは言え、どちらも自国から離れた場所で対等に戦えるほど戦力が離れていませんので互いに手出しが出来ない状態です。
とは言え、中国へ向かう石油タンカーなどはインド近海を通過しなければならないのでインドに海上封鎖されると中国は厳しいです。ブルネイなどから全量の石油を輸入できればいいのですが日本などがインド側について嫌がらせをすれば中国はお手上げです。
最近は石油だけでなく、世界が強く貿易でつながっているので全面戦争になった場合、貿易依存度が高く、海上封鎖されやすい中国は不利です。 インドも中国も各1隻空母を持っています。どちらも限定した作戦能力しか持って居ないのは共通しています。
どちらの海軍も基本的にロシア系の色が強く、キロ級潜水艦ベースの船などを所有しています。
中国はロシアのソブレメンヌイ級駆逐艦を持っていますし、インドもソブレメンヌイの対空システムを搭載した艦を持っています。
空軍はインドはロシアとフランスの、中国はロシアを中心とした航空機を所有しています。インドはMig-29,Su-30,ミラージュ2000など中国はJ-10やJ-11などです。
陸軍もロシアの色が強いのですが、インドは西側からの影響も強く受けています。 今後はどちらの軍も強くなると思われますが、現在近代化を進めているのは中国側です。インドも少し遅れて近代化するはずです。
基本的には中国の方が上なのですが、
インドは山と海に囲まれているので海軍が強くなる傾向にあります。インド海軍が近代化すればアメリカも簡単に手出しできないレベルになるのは十分ありえます。
インド洋の覇者として中国以上の軍事的影響力を持ちえる可能性もあります。
日本とインドの関係は基本的に良好です。国としての立ち位置も違えば離れているので領土的な問題もありえません。
さらに言えばインドにとっても日本は強力なパートナーとして必要としていますし、日本もインドが味方で居れば中国に対する牽制にもなります。
敵になる要素がまず見当たりません。良い関係です。 インドは、今までの数千年間、主に中央アジアと中近東の影響を受けてきた。
これからは、アジアの超大国・中国からの影響を強く受けることが予想される。 半世紀ぶりに、中国とインドの国境対立が開戦直前まで来ている 英識者が、どうしてインド人が英国を憎んでいないのかを模索している。
http://www.bbc.com/news/magazine-40887900
文中に全く日本が登場しないのでは解答は得られないさ。
韓国成立と米国の関係と同じ。違いはチャンドラ・ボースの有無。
モディ印首相は、人々の1942年から47年にかけての集団的決意が英国を叩き出したと述べた。
https://www.theguardian.com/world/2017/aug/15/narendra-modi-tells-india-use-resolve-to-oust-britain-70-years-ago-to-now-end-terrorism-independence-anniversary
そう、42年は日本がインド国民軍を設立した年だし、戦後、人々がインド国民軍
元兵士達の大逆罪裁判に抗議し釈放させたことが独立をもたらした。 10世紀以降西方からやってきたイスラム勢力に支配され続けてんのに今更イギリス人の支配だったからって憎むわけねーじゃん インドで、今やガンディーは忘れられようとしてるんだね。
・・・The Gandhi of a hundred battles, scarred but not fallen, is facing his greatest challenge in India today.
The challenge of neglect, of obfuscation, of cunning co-option.・・・
https://www.nytimes.com/2017/08/14/opinion/gandhi-wont-leave-india.html
差別主義者にしてイギリスかぶれのガンディーが英雄視されないことは、
まことにもって祝着至極だ。 市場が織り込み探る「中印戦争リスク」
2017/8/19 5:30
インド通貨ルピーが今月上旬、連日のように下落した。
米国と北朝鮮が挑発し合い、投資家がリスク回避へ動き、新興国通貨が売られた一環という側面が強いが、
インドが中国との戦争に突入するリスクを警戒した売りも、ルピー安に拍車をかけたもようだ。
インド準備銀行(中央銀行)が発表する公示レートによると、為替相場は1ドル=64ルピー前後で推移し、年初来平均よりやや高い。
だが8月4〜11日の間は、6営業日連続で下・・・ 中印国境紛争
1962年、中国とインドの間で起こったヒマラヤ地方の国境紛争。
1962年10月に起こった中国軍とインド軍の国境での衝突。
中印戦争ともいう。中国とインドは1954年に周恩来とネルーの間で「平和五原則」による友好関係を成立させていた。
また、ネルーは非同盟主義を提唱し、二大陣営のいずれとも同盟関係を結ばないことをインド外交の方針としていた。 ところが、1957年ごろからヒマラヤ山中の両国国境をめぐって対立が始まった。
1959年にチベットの反乱が起こり、ダライ=ラマ14世がインドに亡命したことから対立は決定的となった。
1962年10月、中国軍が中印国境の東部(1914年、イギリスの仲介で設けられたマクマホン=ライン)と西部(カシミール地方)で軍事行動を開始、インドも「祖国防衛」を呼びかけ応戦し、戦争状態に入った。
しかし、インド軍は全戦線で中国軍に圧倒され、苦境に立たされることになった。 厳寒のヒマラヤで夏服で戦ったインド軍が壊滅的な敗北を被り国中がパニックに陥った。
ネルーはケネディに支援を要請し、ケネディはネルーの体面を保ちながら支援に踏み切った。
十一月下旬中国は一方的に休戦を宣言し、兵を引き揚げた。
この戦争は米印関係を好転させたが、ネルーの非同盟主義が破綻したことを明らかにした。
中印戦争でソ連は中立を保ち、それ以上に非同盟主義で連帯する国家でインドを支援した国はほとんどなく、
その政策を常に批判していたアメリカから支援を受けざるを得なかったのである。
この対米傾斜はアメリカの同盟国パキスタンを中国に接近させた。このときすでに病気であったネルーは、64年5月死亡した。 >>641
大英帝国に抵抗したガンジーより、イスラム至上至上主義者のムガール皇帝アウランゼーブに抵抗したシヴァージーが英雄視されている。 ガーンディーは今まで異常に持ち上げられてきた反動で下げられるだけでしょ
それが落ち着けばまた評価される ムガール帝国のアクバル大帝もそうだけど、「ムスリムとの融和」を唱えた人は、今のインドでは評判が良くない。
ガンジーの場合、「ガンジー王朝」と言われるほど、子孫がインドの政界を牛耳ってきたことに対する反感もあると思われる。 >>641
ざっと読んでみたところ、ガンディーは忘れ去られようとしているという話ではなく、試練に直面している、という趣旨だと思うんだが・・・
scarred but not fallenのあたりの一文は、ガンディーの戦いは傷ついたが、屈したわけでなない、
という趣旨だと思うが・・・ >>649
そりゃ、ガンジーの子孫で国民会議派の人が書いてるんだから、それくらいは言うだろ >>650
>>641が引用している以下の部分は、別にガンディーが忘れ去られようとしている、という趣旨のことが書かれている
わけではない、ということ
The Gandhi of a hundred battles, scarred but not fallen, is facing his greatest challenge in India today.
The challenge of neglect, of obfuscation, of cunning co-optio
その記事を、ガンディーが忘れ去られようとしている、という趣旨の記事として引用したのは
間違っていると思う、という話なんだが・・・・・
ガンディーの融和思想は当時から試練に晒されていたから暗殺されてしまったわけで、
当時も今も試練に晒され続けている、というような話でしょ、その記事
記事全体の趣旨が、ガンディー流の融和主義が現在のインドで廃れようとしているから
ひ孫がそれを否定するためにこの記事を書いた、という解釈はできなくもないが、どうみても>>641は、
この記事自体がガンディー忘却が進んでいることを指摘しているような書き方だよね
それは違うでしょ、という話 >>651
「ガンディー流の融和主義が現在のインドで廃れようとしているから
ひ孫がそれを嘆いている」
というのが、この記事の主旨 >>652
ひっかかったね
この記事は融和主義のことなど書いてない。
記載されているのはガンディーの非暴力主義についてだ
ただしくは、
「ガンディー流の非暴力主義が現在のインドで廃れようとしているから
ひ孫がそれを嘆いている」
だ >>653
ムスリムとヒンディーの融和が、この記事のテーマ ガンジーは、ヒンドゥー教の国(インド)と、イスラム教の国(パキスタン、バングラデシュ)に分かれることに強く反対していた。
もはや、それは遠い過去となり忘れ去られつつある。 >>654
>ムスリムとヒンディーの融和が、この記事のテーマ
内容ちゃんと読もうよ
>>641の文章がそのまま某サイトに書いてあるが、
ちゃんと英文の内容を読まずにコピペするからこういうことになる
記事のリンク貼っとく。 ちゃんとした人はリンク先を読めばわかる
https://www.nytimes.com/2017/08/14/opinion/gandhi-wont-leave-india.html
結局、>>641、>>652、>>654は読みもせず、コピペ元を鵜呑みにして、人に訳させて、
自分の都合のいいように「この記事のテーマは・・・・」とわかったように語ってみせてるだけだ、
ということが良くわかったよ・・・・・ >>656
記事の最初から最後まで、ヒンドゥー教徒とムスリムの対立の話ばかりなんだが。
・・・大丈夫か? >>656
文系学問板の住人を、あまりにもナメているな(笑)
こんな英文記事のひとつやふたつ、日本語で書いてあるのと変わらんわ。
一体、どーなってるの? >>657
違うね。ムスリムの話は最初の方だけで、ヒンドゥー至上主義とその暴力の批判に展開し、
カンディーの非暴力を説く、という展開だよ。いい加減読みなはれ >>657
>日本語で書いてあるのと変わらんわ。
凄いね。新聞特有、及びインド人特有と思われる言葉遣いもあるのだが、日本語と同じレベルで読めるとは・・・ リンク先訂正
>>658
>日本語で書いてあるのと変わらんわ。
凄いね。新聞特有、及びインド人特有と思われる言葉遣いもあるのだが、日本語と同じレベルで読めるとは・・ 追加
>>657
>文系学問板の住人を、あまりにもナメているな(笑)
以下の文言は、文科系住民をなめているのではなく、逆に文科系住民なら、
ちゃんと読むし、読めるだろう、という意図で書いた
>記事のリンク貼っとく。 ちゃんとした人はリンク先を読めばわかる
>https://www.nytimes.com/2017/08/14/opinion/gandhi-wont-leave-india.html >>659
>ムスリムの話は最初の方だけで、ヒンドゥー至上主義とその暴力の批判に展開し
だから、その「ヒンドゥー至上主義とその暴力」が向かってる対象がムスリムなのであり、
それが要するに、ムスリムとヒンディーの対立の話なんだっての。
記事を書いた人が今、何に対して問題意識を持っているのか。
そこを考えてみよう。 >>663
「「ヒンドゥー至上主義とその暴力」が向かってる対象が「ムスリムだけ」とは書いてないでしょ
中段で、何が今日のインドで問題となっているか、読んで考えてみよう
#土曜日深夜だから(もう日曜早朝に近いけど)、このまま朝までつきあってもいいけど、君の代わりに翻訳させられる気がしてきているので、それも何か嫌なので、そのうち寝るかも >>664
だから、翻訳なんかしてくれなくていいんだっつーの。
こちらは、日頃から英文も日本文もごちゃ混ぜに読んでいる。
両方とも、読むのが速い(笑) >>664
そう。それなら>>652みたいに、「融和を説いてる」なんてひっけにひっかからないのでは? なんか、インド史やインド情勢の話じゃなくて、英文解釈の話になってきたな。
そんなことより、今のモディ政権はヒンドゥー至上主義者の政党で、
ガンジー一族のような保守本流から見れば危険な政権だ。
インドは、パキスタンとも、中国とも、戦争勃発寸前なほど国境が緊張している。 >>666
ていうか、今のインドで何が一番の問題になっているかって言ったら、
ヒンドゥー至上主義者とムスリムの対立が激化してることなんだよ。
日本の「嫌韓」とは、深刻さが比べ物にならない。
モディ首相みずからが、根っからのヒンドゥー至上主義者だ。
保守本流の「ガンジー王朝」から見れば、これは危うい。 ナレンドラ・モディの二つの顔 ―― 経済成長とヒンドゥー至上主義の間
経済改革を主張するインドのモディ首相。
ヒンドゥー教指導者を州首相に指名したモディの動きを前に、この国の民衆は大きな疑問を持ち始めている。
・・・改革がうまく進まない場合にはヒンドゥー至上主義というアイデンティティ政治に軸足を移し、アイデンティティ政治でうまくいかなければ改革と経済成長を主張する。
モディは改革者であると同時にヒンドゥーナショナリストでもあり続けている。
この二つの顔を併せ持っていることが、モディがもつ最大のセールスポイントなのだ。 >>648
にわかがよくやる勘違いだが今のガンジー王朝はネルーの子孫であのガンジーの子孫ではない ルー・ガンディー・ファミリーは、主にインド国民会議(INC)を担ってきたインドの著名な政治王朝である。
1947年のイギリス支配からの独立以降の最初の65年のうち、合わせて約37年間にわたって首相を務めてきた。ザ・ガーディアン紙は同じく悲劇に彩られたケネディ家と対比し、「ネルー・ガンディーのブランドは世界で他に類を見ないほどである」と評した。
ジャワハルラル・ネルーの娘、インディラ・ネルーはフィローズ・ガンディー(マハトマ・ガンディーとは血縁関係は無い)と結婚した後に、インディラ・ガンディーと名前を変更した。 解決済の質問
ガンジー様のご子孫って現在もいらっしゃるのでしょうか?
教えてください。
おねがいします。m(_ _)m ベストアンサーに選ばれた回答
マハトマ・ガンジーならば、
36歳の時、結婚したまま一切の性行為を断って
(どこからどこまでが事実なのかを明確に判断することは難しいですが)
禁欲を開始するなどのブラフマーチャーリヤの誓いを果たしたことで、
子どもは作りませんでした。
インディラー・ガーンディーはネルーの一人娘で、ガンジーとの血のつながりはありません。 その他の回答
インドの独立運動リーダ−で世界から尊敬されたマハトマ・ガンジー翁ですね
伝記によれば男の子が3人あったそうです
25年ほど前に世界で公開された映画"ガンジー"には翁が若い頃住んでいた南アフリカの自宅で男の子達と遊ぶ若き日のガンジーの姿が映ります
ですから現在お孫さんや曾孫の人たちも大勢居られると思います
なお翁の伝記にはガンジーの長男があまりに偉大な父の名前に押し潰されてアルコール中毒になり、父親の国葬の日に貧民窟で酔い潰れていた悲惨な姿を伝えています GOPALKRISHNA GANDHI は、「マハトマ・ガンジーのひ孫」ということだが、
ガンジーは禁欲主義者で子供がいないんじゃなかったのか?(笑) >>677
ガンディーの子供について書かれた本
『ガンディーを継いで―非暴力・不服従の系譜 (NHKスペシャル 家族の肖像)』 単行本 – 1998/3
塩田 純 (著)
映画もある
https://en.wikipedia.org/wiki/Gandhi,_My_Father 普通に結婚して弁護士してた時代長いんだがそういうことも最近のゆとりは知らんのかな 歴史スレ的には、ヒンドゥー至上主義の最大の問題(あくまで学問版としての)は、
御用学者を用いて歴史を捏造している点(インダス文明はアーリア人の文明だったと「学問的に証明」する
とか、古代インドで食用された牛の骨が発掘されているのに、それを主張するインド人学者を
弾圧するとか)と、インドでもやってるんだから、日本でも神話を歴史として扱うことをやっていいだろ、
と主張する人々がでてきているところだと思うんだが >>684
歴史を捏造するとは、朝鮮人みたいだな? >日本でも神話を歴史として扱うことをやっていいだろ、
と主張する人々がでてきている
神功皇后の三韓征伐とかは、「史実」という位置づけでOK? >>686-687
日本会議のような人々に聞いてくれ 岸信介と佐藤栄作、安倍晋三と岸信夫
この人たちの兄弟関係のほうが、よほどややこしい 麻生太郎は、大久保利通・吉田茂の子孫
本人は炭鉱会社のオヤジだが、外国では「日本を代表する名家の血筋」として、なぜか一目置かれる
ネルー・ガンジー・ファミリーの権威もすごい 宗教やカーストを意識しない
西葛西の“リトル・インド”は2000年代以降に急激に増えたニューカマー(新参者)の集団であり、
しかも短期滞在のIT技術者が多いので出入りが激しい。その裏返しとして、宗教施設がない。
正確にいえば、ヒンドゥ寺院があるにはあるが、“リトル・インド”のための寺ではない。
ISKCON(International Society for Krishna Consciousness〈国際クリシュナ意識協会〉の略称)と呼ばれる、
1960年代半ばにインド人が米国で創立した宗教団体の寺。
「ハレー・クリシュナ」と唱え続けるのが特色の新興のヒンドゥ教で、ビートルズのジョージ・ハリスンが関わったことで知られる。
逆上陸する形で、今ではインドにも寺院を建てている。
日本で活動を始めたのは70年代だが、中野区から江戸川区の船堀駅そばに移ってきたのは6年ほど前である。
それまで日本人による活動が主だったが移転前後からインド人が関わるようになり、
いまでは寺の運営方針を決める7人のメンバーのうち4人がインド人だという。
ひとりに話を聞いたが、ムンバイ出身の彼は日本の有名なIT企業に勤務するIT技術者だった。
日曜の礼拝では日本人の信者たちが熱心に「ハレー・クリシュナ」を唱和するかたわらで、子供連れのインド人家族が静かに参拝している。
この寺では、日本人僧侶がインド人から「プージャ(お祈り)」を頼まれることが増えた。「ムンダン」と呼ばれる、子供の髪を切る儀式などだ。
西葛西周辺には僧侶がいないので、ISKCONの寺院にその役割が求められるようになっている。
インド研究者の神戸大学の澤宗則教授は、西葛西の新しいインド人コミュニティが神戸のインド人共同体と違う点は、
宗教やカースト・コミュニティの集団的なアイデンティティを育む装置がほとんどないことだと指摘している。
宗教施設がその典型だ。タトゥワ・インターナショナルスクール教師のカーラは、
東京のインド人学校で育つ子供は宗教やカーストをインドにいるときほど強く意識しなくなると語っていた。
インドで暮らせば、日々、自分が属する宗教やカーストを再確認させられる。
逆説的だが、東京では、「インド人」というナショナリティによって自己を確認する傾向が強くなる。
だから、「新しいインド人」が育つとカーラは考えている。 新たな共同体として
西葛西に「リアルなリトル・インド」を建設しようという動きがある。一般社団法人「リトルインド東京」は2年前に設立された。
ヨガ教室やカレーショップなどが立ち並ぶ「インドストリート」をつくるなどの目標を掲げるが、もっとも重要な課題がヒンドゥ寺院の建立だ。
リトルインド東京の発起人は江戸川インド人会会長のチャンドラーニと江戸川区議会議員の桝秀行。
桝は、これといって特色のない江戸川区をアピールする方法を思案していた際、
どんどん増えるインド人の存在に気づき、交流を深めるようになったという。
「寺院を建立する候補地は決めています。4億円程度と考えてはいるんですけど、建設費のめどはまだついてない」
IT技術者は出入りが激しく、長期のプロジェクトに巻き込むのは難しい。
担い手の中心は「オールドカマー」になってしまうが、最古参のチャンドラーニはそれでも「リアルなリトル・インド」が必要だと説く。
「日本でこれだけたくさんのインド人が同じ地域に住んだことはなかった。
ここはインド人のフロンティアですよ。わたしはインド人のためにファシリティ(施設)をつくりたい」
いずれ東京を離れるIT技術者と定住者とのあいだに温度差があるのは致し方ない。
興味深いのは、チャンドラーニが「シンド商人」の末裔だということである。 シンド州は現在はパキスタンに属する。州都はパキスタン最大の港湾都市カラチ。シンド州はかつてはインドだった。
1947年にパキスタンがインドから独立した際、パキスタンに編入された。
チャンドラーニ家はシンド州タッタの地主で、カラチを拠点に国際貿易を行っていた。シンド商人である。
チャンドラーニがカルカッタで生まれ育ったのは、イスラム教の国として建国されたパキスタンが独立する際、
両親が命からがらインドへ逃れてきたからだ。ヒンドゥ教徒が大量に難民化したのである。
シンド州には一度も行ったことはないが、喪った故郷へのチャンドラーニの思い入れは深い。
近代国家日本が開国した際、いち早く日本にやってきたのがシンド商人だった。
1880年代のことである。シンド商人は神戸に共同体を形成している。
チャンドラーニが来日する前、従兄が関西に住んでいたのもそのためだ。
UR住宅にインド人を送り込むことで“リトル・インド”に貢献している石川カマルも、じつは、シンド商人の一統だ。
祖父母の代にシンドからボンベイへ逃れた。母方の祖父の弟が今も神戸に住む。
多くのIT技術者を知るカマルは、「残念ながら、日本に興味をもつ人は少ないです」と明かす。
関心事は日本でどれだけ蓄えを増やせるか。「日本にも原因はあるよ」とカマルは控え目に付け加えた。
UR以外の物件ではインド人の入居を渋る家主は多いし、UR住宅でも「インド人の子供がうるさい」と隣人が苦情を寄せることが珍しくない。
よりよい報酬を求めて国際労働市場を渡り歩く技術者たちは、フェイスブックなどを介してつながる、いささかバーチャルな集団である。
ニューカマー(新参者)がオールドカマー(古株)に支えられながら、“リトル・インド”は大海に漂う小舟のように存在している。
「リアルなリトル・インド」を西葛西に建設する試みは一筋縄ではいきそうにないが、
そんなことに頓着せず、「新しいインド人」を育む学校で子供たちは学ぶ。
東京に生まれた「小さなインド」では、グローバリゼーションという濁流のただなかに共同体を創造する実験が今日も密やかに進められている。 インドは長い州名が多い、覚えきれない、ウッタルプラデシュ州ってどこらへん
>インド北部ウッタルプラデシュ州ムザファルナガル近郊で19日、旅客列車が脱線し、
>地元メディアによると、少なくとも23人が死亡、60人以上が負傷した。 ウッタル(北の)
プラデシュ(州)
ネパールの近く
Gのあたりがウッタルプラデシュ
パ A
キ B チベット
ス C D ネパ
タ E −ル★ブータン
ン F G H ★★★
I J KLバングラデシュ
M N
O
P
Q
RS
スリランカ
★は七姉妹州など >>691
別にややこしくはないだろう
昔は親戚から養子を取るなんて普通だったし
細川と近衛なんかもそうだろ 中央(マディヤ)プラデーシュってのはある(J)
意味は知らないが
アーンドラ・プラデーシュ(P)
アルナーチャル・プラデーシュ(★)
ヒマーチャル・プラデーシュ(B)
などがある ラメシュ・チャンドラ・マジュムダール
「1947年までにはガンジーの活動はすっかり尻窄みとなっていたというのに、
どうして英国は慌ただしくインドを去る必要があったのか?」
クレメント・アトリー
「いくつか有るが、最大の理由は、ボースの軍事活動により、英印軍のインド人兵士達の
英国に対する忠誠心が崩壊したからだ。」
ラメシュ・チャンドラ・マジュムダール
「英国がインドから去る決定を行うに当たって、ガンジーの影響はどれくらい有ったのか。」
クレメント・アトリー
「ほぼ無い。」 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) 「くろんぼ共は、概して文明化されておらず、受刑者達は一層そうである。
連中は手に負えず、不潔で、ほとんど動物のように生きている。
くろんぼ達の生業は狩猟であり、妻を買うために必要な数の牛を集めるのが
彼等の唯一の大志であり、妻を買った後は怠惰と裸体のうちに人生を送る。」
「君はゴスペルを牛に教えようというのかね?
不可触賤民の幾ばくかは、その理解能力に於いて、牛より酷いのだよ。」
「不可触賤民制を廃止したとしても、それは、カースト内のヒンドゥー教徒が
元不可触賤民達と食事を共にしなければならない事を意味しない。」
─── マハトマ・ガンディー 「残虐超人の戦いは冬の太陽の光を同じである
それは照らしはするけれど
決して暖めはしない」
―――カレクック 解決済の質問
ムガル帝国時代の質問です。
なぜ東イスラーム世界では公用語がペルシア語になったのかを詳しく説明してくださる方お願いします。
具体的に言うと、
イラン人が行政官僚で、トルコ人が軍人
とか、
セルジューク朝が行政用語としてペルシア語使用とか、
モンゴル政権でペルシア語が広く使われたなど ベストアンサーに選ばれた回答
イスラーム誕生以前、ササン朝ペルシアは非常に高い文化を持っていました。ペルシアからみればアラブなど砂漠の野蛮人です。
征服当初こそアラブの勢いに呑み込まれたものの、時間がたてばペルシア文化の底力が出てきます。
ウマイヤ朝を打倒したアッバース革命の主力はイラン(ペルシア)人たちだったので、アッバース朝の時代からペルシア人が重用されます。もともとペルシア人には知識や教養の伝統があるので、文治官僚には最適だったわけです。
アラブ人はコーランこそアラビア語で読ませたものの、日常会話までアラビア語を押しつけてはいません。アラブ人が大挙して移住した北アフリカはアラビア語圏になりましたが、もともとペルシア人が多いイラン高原は一貫してペルシア語圏のままです。 それでもアッバース朝時代の政府公用語はアラビア語でしたが、帝国が衰えると傭兵としてイラン系ダイラム人や中央アジアのトルコ系遊牧民が活用され、ついには彼らが国を乗っとる。
ブワイフ朝やサーマーン朝はもともとペルシア人の傭兵隊長(ブワイフ)や地主貴族(サーマーン)が建てた国だから、わざわざアラビア語を使う必要はありません。
またトルコ系のガスナ朝やセルジュークにしても、官僚として使えるのはペルシア語を話すイランの知識人たちなので、公用語はペルシア語一択です。 こうして東方イスラーム世界の共通語はペルシア語となりました。
しかも、もともとペルシア語は「中東のフランス語」と言われる優雅で洗練された響きをもつ言語であり、ササン朝以来の文学の伝統もあります。
トルコ人やモンゴル人も多数のイラン人を支配するのにペルシア語は便利だし、ペルシア語の持つ高い文化性に魅了されていったのです。
かくてモンゴル帝国とその後継国家もペルシア語を公用語として採用します。 解決済の質問
ムガル帝国の公用語はペルシア語とウルドゥー語のどちらですか!? 公用語というのは政府内で使用されていた言葉ですか?それならペルシャ語です。
バーブルの時代はチャガタイトルコ語が使われていましたが、フマユーンやアクバルの時代からペルシャ人の影響が強くなり、ペルシャ語が使われるようになりました。
ちなみにアクバルの時代にフマユーンの妹によって書かれたフマユーン記はペルシャ語によるものです。 ウルドゥー語は政府公用語としてではなく民衆語としてシャージャハンもしくはオーラングゼーブの時代あたりからデリーなど北インドで使われはじめました。
ただし原型はもっと古かったという説もあります。
そして18世紀のはじめくらいから抒情詩などもウルドゥー語で書かれ始めました。
ムガル最後の皇帝バハドゥール=シャー2世はウルドゥー抒情詩の著名な詩人ですが、その時代も政府公用語はペルシャ語でした。 ペルシャ語は当時知識人の言葉としてとらえられており、今の英語のような感じで学ばれていました。
ムガル帝国の領土は広大で様々な言葉を話す民族がおり、彼らはペルシャ語という公用語により結ばれていました。
ウルドゥー語はあくまでも北インドの民衆語でした。 インドは、ペルシア語を公用語としていた国
あまりにもペルシアから受けた文化的影響が大きいため、それなしのインドを想像するのは不可能 イラン人が中華思想を持つのも、無理からぬところがある 20世紀でもムハンマド・イクバールも最初ペルシャ語で詩集出して、なかなかウルドゥー語で出そうとしなかっったしペルシャ語の権威は強かったんだろうな >>719
欧州だったら、似てるというほど似てる言語は無いでしょ >>722
だから、>>721で答えてるじゃないの?
日本語が苦手なのか? アスぺの子かな?
その似てない欧州語の中で強いて似てるものを挙げるとすればどれ?と
聞いてるんじゃないのか>>719は まあ、強いて言えば(ホントに強いて言えばだが)、
バルカン半島のスラブ系言語でしょうな。 [参考] 印欧語族の系統樹
http://user.keio.ac.jp/~rhotta/hellog/lib/indo-european_family_tree_by_fortson_small.png イラン人に言わせれば、「俺たちはドイツ人と同じアーリア系なのだ」ということになるわけだが、
実際にイラン人とドイツ人がどれだけ系統的に近いかっていったら疑問符
でも、ペルシア語とサンスクリット語は明らかに系統が同じ アーリアン学説
アーリアン学説(アーリアンがくせつ)、アーリア人種論 は、インド・ヨーロッパ語族の諸言語を使う全ての民族を、共通の祖先アーリア人から発生したものとする学説。
この場合、アーリア人という名前は拡大解釈される。
この拡大解釈された意味でのアーリア人をアーリア人種(アーリアじんしゅ)と呼ぶことがある。
学説としての根拠に乏しく、アーリア神話とも呼ばれる。 アーリアン学説は、インド滞在中のイギリスの法学者・言語学者ウィリアム・ジョーンズの諸言語の比較研究を端緒とする。
彼は1786年にイギリス植民地下のインドのカルカッタに高等法院判事として赴任し、サンスクリット語の研究を手掛けた。
サンスクリット語の語彙の豊富さや文法構造を称賛し、それがギリシア語やラテン語をはじめとするヨーロッパ諸言語と非常に類似していることを指摘した。
ショーンズはこの事実から、それらの言語のほか、ゴート語、ケルト語、ペルシャ語などインドやヨーロッパの諸言語が全て「ある共通の源」から派生したという学説を立てた。 この学説は、多くの学者によって継承・展開され、比較言語学におけるヨーロッパの諸言語の起源への問いは、徐々に「ヨーロッパ文明の起源」そのものへの問いに移り変わっていった。
ヒンドゥー教の聖典『リグ・ヴェーダ』を翻訳したドイツ人のマックス・ミュラーが、この潮流に大きな役割を果たした。
ミュラーは、インド・ヨーロッパ諸語の原型となる言葉を話していた住民は共通した民族意識を持ち、
彼らがインドからヨーロッパにまたがる広い範囲を征服して自らの言語を広めた結果としてインド・ヨーロッパ諸語が成立したとする仮説を唱えた。 英語three ラテン語tres ギリシア語treis サンスクリット語traya
英語you ラテン語tu ギリシア語tu サンスクリット語tvam
英語father ラテン語pater ギリシア語pater サンスクリット語pitar
英語mother ラテン語mater ギリシア語mater サンスクリット語matar
英語new ラテン語novus ギリシア語neos サンスクリット語nava ジャハーンギールの治世は、ミールザー・ギヤース・ベグなどイラン系の人々が官僚として宮廷で活躍した時代でもあった。
16世紀から17世紀、ムガル帝国とサファヴィー朝のカンダハールをめぐる争いを除けば、インドとイランの関係はおおむね友好で、ムガル帝国やデカン・スルターン朝では官僚として雇用された。
ムガル帝国はサファヴィー朝の十数倍の人口をもち、首都デリーを中心に栄え、宮廷の公用語がペルシア語で、宗教的にも寛容であり、彼らにとっては最高の仕官先だった。 近世イスラムの三帝国といえばオスマン帝国・サファヴィー朝・ムガール帝国だが、ムガール帝国だけ他の2つとは桁違いに人口が多かった。
でも、文化的にはペルシアがインドを圧倒していた。 極東アジアの三大国といえば日本・大韓民国・中華人民共和国だが、中華人民共和国だけ他の2つとは桁違いに人口が多い。
でも、文化的には韓国が中国を圧倒している。 そういえば、人口比が似ているな
オスマン:サファヴィー:ムガール
日本:韓国:中国
3:1:30
(サファヴィー朝については人口統計が存在しないが、オスマン帝国よりかなり少なかったと思われる) オスマンでもムガールでも、華やかなサファヴィー朝のペルシャ文化に人々は魅了されていた
日本人や中国人が、韓流に熱狂するのに似ている <丶`∀´>日本人や中国人が、韓流に熱狂するのに似ているニダ ロヒンギャ人とベンガル人って、言語的には日本の本土と沖縄位違うもんなのかな 日本では、奈良時代から平安初期にかけて、唐の文化を積極的に導入した
ムガール帝国の200年におけるペルシャ文化の受容は、それに匹敵するものがある
インドは、それ以前とは別の国になってしまった しかも、その後の英領時代の100年でイギリスから受けた影響は、それにも勝るとも劣らないものがある それ以前のインドがどうだったかなど、もはや知る由もない そういう意味では、インドというのは意外と文化的には新しい国 >>749
中国も、清の時代に満州文化に染まって大きく変化した 昔、国語の試験でさんざん読まされた「日本人論」では、
「日本は外国の文化を取り入れる国」であることがやたら強調されてたが、
日本はむしろグローバリズムから距離を置く閉鎖的な国に思えるのだが? 今では、「日本人論」はまったく流行らなくなった
内田樹が昔の日本人論をまとめて「日本辺境論」を書いたが、今となっては説得力がない 書店にいけば、中国論や韓国論の本ばかりだ
まあ、「日本人論」の時代に比べれば、2ヶ国に限定されるとはいえ外国に興味を持つようになったぶん、日本人も変わったといえるが インド関係の本なんか、まだ一般書コーナーには全然ない
普通の日本人は、インドにまったく興味もってない 中国・韓国みたいな、もう高度成長が明らかに終わって現状維持に四苦八苦してる国より、インドのほうが伸びしろが遥かに大きいんだが? 安倍首相がインドに何度も行く理由
日本人のためのインド入門(1)
平林 博 平林 博
「新幹線」と「スズキ」が見せ場
安倍首相が9月13日からインドを訪問することになった。安倍首相の訪印は2015年12月以来のことである。それ以前の2014年、2007年(第一次安倍政権時)にも訪印しており、首相として4度目のインド行きとなる。
なぜ安倍首相はこれほど頻繁にインドを訪問するのか? なぜ安倍首相はこれほど頻繁にインドを訪問するのか?
安倍首相は2006年12月に、インドのマンモハン・シン首相が訪日したとき、毎年交互に、両国の首相が相手国を訪問することを約束していた。
毎年、首脳が交互訪問し会談を行う約束をした相手国は、日本にとってはインドが初めて、インドにとってはロシアに次いで2番目とのことである。
日本とインドはお互いにそれぞれの国との関係をそれほど重要視しているということであり、2014年に就任したインドのモディ首相もすでに2度来日している。 今回の訪印では、安倍首相はインド西部のグジャラート州で2泊3日の日程をこなす。
グジャラート州には日印経済協力の象徴的な場所があり、安倍首相の訪問が予定されている。
それは「新幹線」と「スズキ」だ。
また、グジャラート州はガンジーがインド独立への運動を展開した地である。
ここで日本とインドはアジアの民主主義国として、「特別戦略的グローバル・パートナーシップ」を確認することになる。 「公用語はペルシア語。 名前はモンゴル(ムガル)。 そして実際の征服地はインド亜大陸。 こんな摩訶不思議なムガル帝国と隣国サファヴィー朝とを語りましょう。 」
「シャイバーン朝?もお忘れなく!現在のアフガニスタンを舞台に三つ巴の抗争を繰広げた。」 「シャイバーン朝って何?」
「さあ誰か可能な限りシンプルな回答を与えてくれ。」 「これでどうだ。
16世紀にチンギス・ハンの子ジョチの子シバンの子孫シャイバーニー・ハーン率いるウズベク族
(カザフ草原に遊牧していたジョチ・ウルスのトルコ系遊牧民)がトルキスタンに侵入し、ティムール朝を倒して建てた王朝。
遊牧民特有の分権傾向が強くトルキスタン各地に分封したが中央政権は本拠地をブハラ(ボハラ)に置いたのでブハラ・ハン国とも言う。
ブハラでは1599年にシャイバーニー家が断絶し、ジャーン家(ロシアに追われブハラに亡命したアストラハン・ハン国の王族)がこれにかわった。」 「ていうか、シャイバーン朝っていまひとつよくわからないんだけどね。
こいつらウズベク族なの?そう言えば、ムガール帝国とハザラ人(ペルシア系)ってどういう仲だったんだろう。
あと、ムガール朝からサファヴィー朝に亡命して、また帰還した王様いたよね? だれだっけ?」 「シャイバーン朝はウズベク族だよ。現在のウズベク人とは同一視できないが。あとムガル朝からサファヴィー朝に亡命したのは2代目のフマーユーン。
兄弟たちと争ったあげくスール朝?のシェール・シャーに追い出されてサファヴィー朝のシャー・タフマースブの下に逃げた。
彼の援助でインドに帰還したけどしばらくして階段から落ちて死んだ。」 15世紀から、中央アジアでウズベク人が台頭してきた。
ティムール朝の混乱に乗じてウズベク勢力を統合した風雲児のムハンマド・シャイバーニー・ハンは、サマルカンドの都を占領し、中央アジアに覇を唱えた。
そこへ、文武両道の英雄・バーブルが、イスマーイールの支援を受けて侵攻してきた。
シャイバーニーはサマルカンドを奪われたが、すぐに取り返した。
ティムール朝を滅ぼして天下を取ったシャイバーニーだが、カザフ遠征の失敗で勢力が弱まったところを宿敵イスマーイールに攻め込まれて敗死。
イスマーイールは、シャイバーニーの頭蓋骨に金箔を塗って杯とした。
その後、イスマーイールはサファヴィー朝、バーブルはムガール帝国を創始。
無敵だったイスマーイールの騎馬軍団だが、オスマン帝国の大帝セリム一世の鉄砲隊に敗れて壊滅し、再起不能になった。
巨大なムガール帝国の皇帝になったバーブルは、インドの気候を好まず、死ぬまでサマルカンドに帰りたがっていたという。
客観的に見て、世界史の中でも一番おもしろい時代といっていいだろう。 つまり、バーブルは、インドの皇帝になりたかったわけではない。
ムハンマド・シャイバーニー・ハンに敗れてサマルカンドから排除され、仕方なくインドに逃げて、そこで旗揚げしたのだ。 結果として、ティムール朝は滅亡し、そのティムール朝を滅ぼしたシャイバーニーも滅ぼされ、オスマン帝国・サファヴィー朝・ムガール帝国の三国鼎立時代になった。
三國志と似た展開だが、もっとダイナミック。 バーブルのインド侵入によってパンジャーブは動乱に陥り、スィク教のグルであったナーナクも捕囚となったとか
「飢える者の飢えは満たされない。たとえ町々の財貨を積み上げても」というナーナクの詩句はムスリム軍の略奪のことかもしれない >>771
インドにかかってはいるけどデリースルタン朝やムガル初期は
まだあんまインドの歴史って感じではないよな
亜大陸との交渉よりイランアフガン中央アジア方面とのかかわりがメイン >>771
ウグベクって、ペルシャ軍事力を供給源だった
エジプトのマムルーク朝はそこ出身の奴隷軍人が立てた王朝 >>775
そうかもしれない
中央アジアの歴史にインドも巻き込まれたというか 18世紀あたりから、世界的に遊牧民の存在感が薄れて、いちじるしく退潮してくる
ムガール帝国もそれに合わせて崩壊し、南のマラーター王国が天下を取った 【宗教】インド「ヒンズー教の神は羊肉を食べません!」と豪の「世界中の多様な聖人神々が羊肉を食べて乾杯CM」に抗議©2ch.net デリースルタン諸王朝の時代には、歴代スルタンはデカン高原のことより、アフガニスタンや中央アジアに関心が向かってた 北インドと南インドは別世界
北インドは、中央アジアから続く文明圏の一部 イスラム勢力の侵入を何百年も防いだ、北インドのプラティハーラ朝
その歴史的な意義は高く評価されている >>784
それとネパールからまっすぐ東に日本まで延びる
照葉樹林文化三日月地帯も入るかもしれないw
日本語タミル語起源説のタミルは南インドだけど
稲作文化はネパールからはじまって日本で終わるのかもしれない >>781 マハラジャマックって本当はあかんやつだったのか.....
豚がだめならイノシシ科は全部だめなイスラム教と違って、ヒンドゥー教はウシ科でもいわゆる牛以外はOKな融通が利く宗教だと思ってたけど
ちなみにそのCM,世界の聖人神々ってことはお釈迦さまも羊を食べてるのかw
先鋭的な仏教徒は上座部仏教のところにしかいないから、別に目くじらを立てる人はいないのかな。スリランカ辺りの僧も托鉢で魚カレーくらいもらうだろうし。
羊肉も偶然のもらいものという解釈でw でも大乗のなれの果てのオウムが「存命」だったら抗議してたかw >ティムール朝を滅ぼして天下を取ったシャイバーニー
子孫のウズベク共和国がティムールを顕彰しているという理不尽さ >>790
まあ、シャイバーニーよりもティムールのほうが、英雄っぽいからなあ だったら秦も自国の誇らしい歴史として扱えばいいのに
インドネシアと日本は中国のいちゃもんに屈して、秦が語源の呼称を侮蔑語として消してしまった..... >>792
中華人民共和国はそこに住む全ての民族の集合体だから問題ない >>792
モンゴル国はあくまでシナまで切り従えたモンゴルの英雄として扱っているぞ。 >>794 海南島の回族はチャム族のなれの果てだから、チャンパー王国も中国の歴史の一部にできるなw
さらに言えばロシア人もベトナム人も中国の少数民族にいるしw >>352
武霊王の胡服騎射とかあるなぁ
どこまで根付いたかといえば微妙だが インドの服ってイスラムと同じイメージだけど違うんですか? >>799
違う。イスラムが入ってくる前は、男は古代エジプトの男用越巻というか、
大人のオムツみたいなもので、上半身は裸。
女は長い越巻で上は臍がでる着丈の短い半袖かノースリーブのブラウス。古くは女も上半身裸。 >>797
ムガール帝国も時代によって異なる評価。
アクバルの時代は肯定的だが、アウランゼーブの時代は否定的。 >>727
なぜわざわざ小さくて見づらいほうを貼るのか
http://user.keio.ac.jp/~rhotta/hellog/lib/indo-european_family_tree_by_fortson.png 【ネパール】3歳の女の子が新たな生き神「クマリ」に[09/28]
http://egg.2ch.net/test/read.cgi/news5plus/1506656979/
【9月28日 AFP】(写真追加)ネパールの首都カトマンズ(Kathmandu)で、3歳の女の子が新たな生き神「クマリ(Kumari)」に選ばれた。
前任者が思春期を迎えて退任したためで、幼女を生き神としてあがめる古くからの伝統が引き継がれた。
カトマンズのクマリに選ばれたのはトリシュナ・シャキャ(Trishna Shakya)ちゃん。28日の儀式で正式に任命される。
トリシュナちゃんは家族の元を離れてカトマンズのダルバール広場(Durbar Square)にある宮殿で暮らし、
特別に任じられた付き人に身の回りの世話をしてもらう。
新たなクマリは礼装を身に着け、凝った化粧をしてカトマンズをパレードすることになっている。
前任のクマリは2008年にやはり3歳で選ばれていた。
トリシュナちゃんはクマリに任命されると前任者たちと同様、カトマンズの谷に暮らす民族ネワール(Newar)のコミュニティーの一員となる。
新居となる宮殿からの外出は、年に13回、特別な祝日のときしか許されない。
ヒンズー教の女神「タレジュ(Taleju)」の化身とされるクマリは、地に足を着けることが禁じられており、外出時には人に運んでもらう。
クマリに選ばれるための条件は厳しく、候補者はけがれのない体、獅子のような胸、鹿のようなももなど、多くの身体的特徴を持っていなくてはならない。
こうした身体的条件をすべて満たしたうえで、さらにいけにえにささげられた水牛を見ても泣かないことによって、勇気もあると証明する必要がある。
ネワールの伝統はヒンズー教と仏教の要素が融合したもので、その中でも最も重要なクマリはカトマンズの3つの谷、
カトマンズ、パタン(Patan)、バクタプル(Bhaktapur)にあった旧王国を象徴する存在となっている。
この伝統はネパールの王室と歴史的に密接なつながりを持っているが、2008年に立憲君主制が廃止された後も続けられている。
一方で、社会からの隔離によって教育の機会が奪われるといった批判も人権活動家から上がっている。(c)AFP
http://www.afpbb.com/articles/-/3144647 インドの藩王国やネパールの王政が吹っ飛んでくれて本当によかった。
今でもあんなのが存在していれば、現地人はさぞかしやりきれない思いだったろう。 イギリス支配のお陰だな
イギリスから独立するにゃ建て前でも文明人じゃないと話にならんからな >>805
おまえワンパターンだな
672 世界@名無史さん 2017/09/22(金) 18:19:08.49 0
なんにせよ、敗戦と占領で華族だの貴族だの旧宮家だのが吹っ飛んでくれて本当によかった。
あんなのが今でも存在していたら、さぞかしやりきれない世の中だったろう。
697 世界@名無史さん sage 2017/09/26(火) 12:59:37.03 0
>>689>>692
武家だの大名が吹っ飛んでくれて本当によかった。せいせいした。 藩王国の廃絶だけではダメ
インドの夜明けはカースト制度の破棄が必要 イギリスの分割統治政策により、カースト制は近代に入って大幅に強化された >>801
それは、ヒンドゥー教徒の側からの評価
イスラム教徒の側からだと、評価が逆転する ムガール帝国は、宗教融和策によって、デカン高原のヒンドゥー勢力と連携することができた。
そのおかげで、それまでの短命なデリースルタン王朝よりもずっと安定した。
ところが、狂信的なイスラム信者のアウラングゼーブが皇帝になったおかげで、元に戻ってしまった。 18世紀から19世紀にかけて西洋列強の進出が本格化してきたとき、清とオスマン帝国は衰えたとはいえ健在だったが、
ムガール帝国はすでに崩壊していた。
それが、中国や中東と異なり、インドが丸ごとイギリスの領土になってしまった大きな原因。
西欧諸国の侵入を許したのはヒンドゥー諸侯の信頼を失ったから イスラムの侵入がなければ西欧や日本のように封建社会になってたはず
その方が面白かったと思うんだけどなぁ >>793
別に中国人に秦人といっても怒られないよ。突然いっても理解されないと思うが。
シナは、現在の中国でも確かに物議をかもすが、『新浪』の登場で一部の人々には支那とは区別して理解されるようになっきてはいる。
>日本は中国のいちゃもんに屈して
これはそれ以前に日本人が侮蔑語として支那を使ったから。もともと支那はそういう言葉ではなかった。
ただし日本人がシナという場合漢字の『支那』として侮蔑のために使われることが現在では殆どだし、
戦前多くの日本人が侮蔑語として使い、現在でもそういう文脈で使っているから禁止ワードになってしまった。
その部分をすっとばして
>日本は中国のいちゃもんに屈して
というのかおかしなこと >>816
実際に、中世のラージプート時代はそんな感じだった >>818
そのラジプート時代が800年ぐらい続かないと熟成期間ができないんじゃないかな 現在のインド人もマハーバーラタやラーマヤーナをサンスクリット語で読んでるの? >>820
サンスクリットが出来るのは、一部のバラモンのみだな。 古典日本語が読めるのも一部の教養人だけというのに似てるな マハーバーラタドラマやってた時は放送時間は休憩になるくらい流行ったらしいな 不可触民の女の殆どがレイプ被害者と聞いたが
カーストの中にいる奴等もレイプする時だけは不可触民に触るのを厭わないのかよ? 必要に応じてたとえバラモンでもダリットに体を触らせたりしてきたし
ダリットという存在は生物学的でなく完全に社会的に作り出されたものなので
そこの地域の社会によって扱いももともと千差万別だったりする
つまり何をしてもいいことになる 近世にイスラムから受けた影響と、近代にイギリスから受けた影響が大きすぎる
それ以前のインド土着文化は、痕跡というか深層にしか残っていない
中世に中国から受けた影響と、近代にアメリカから受けた影響が大きすぎる
それ以前の日本土着文化は、痕跡というか深層にしか残っていない
ヒンドゥー教は伝統そのものは古いが、実際にはイスラムでもないキリスト教でもないその他大勢扱いの雑多な土着信仰の集まりで、一つの宗教という自覚はヒンドゥーナショナリズムと同じ比較的新しいものだという考えが実は欧米では少なくない インド各地の民俗信仰に「ヒンドゥー教」という名前をつけて、ひとつの宗教のように見なし始めたのは近代のイギリス人 「カースト制も、イギリスの分割統治政策の産物。昔は、今ほど厳格な身分制ではなかった」という意見も多い。 >>833
おいおい。今じゃKKKでも黒人加入を認める時代なんだぜ?
インドは人種差別の分野では絶対無双になってるな 日本の部落差別とはレベルが違う
ルワンダのツチとフツも実は民族じゃなくて階級で、植民地分割統治政策の産物としてより固定化が強化されたようですね
インドほど細分化された厳密なものじゃないけど >>817
しかし、インドシナ半島、東シナ海、南シナ海というのは放送禁止用語にもならず
そのまんま残った インドネシアとインドシナ
ややこしい発音こそ換えるべきだな >>831 じゃあアディバシーの伝統宗教もヒンドゥー教の一派として差し支えないことになる
実際はヒンドゥー教主流派は、特にアーリア系は、先住民の宗教を劣った異教としてみなしてるんだろうけど >>836
「インディアナ」に改名するべきだろう
「グルジア」も「ジョージア」になったことだし >>824
日本の男のほとんどは母親で童貞を卒業する&女子高生は売春が義務とされているby毎日新聞
レベルの話を深く考えすぎなんだよ >>841
こっちのほうが一国のなまえとしてインドネシアよりもはるかにふさわしいな インドネシアってよく見るとパプアニューギニアの半分含むんだな
なんかすごい 中国ではいまだに唐を最高の時代と考えられてるらしいけど
インドではグプタ朝になるんだろうか 日本文明でそんな時代はあっただろうか
トインビーばりに鎌倉時代? マウリヤ朝は、
アケメネス朝や漢ほど知られていないな
すぐに衰退したらしいし >>850
アショーカ王、マガダ国、仏教編纂
など仏教との関連で知られているかもね
あとオーパーツが好きな人にはアショーカ王の柱とか
ってここまでマウリヤ朝の言葉ひとつなしw インドとイランには、イスラム化する以前の歴史がある
日本には、中国化する以前の歴史がほとんど残ってないから無理だな
イランの場合は、現代のイラン人がイスラム信者だから、イスラム化したのを「自国の固有文化が失われた」という風には見ていない
インド人の場合は、何を考えてるのかわからない国民性だからなんともいえないけど、イスラム系諸王朝の支配史を快く思ってないのは確か >>853
イランは完全にイスラム化しちゃったからね
もしゾロアスター教が強力に残っていれば5大文明ともいえたのに ゾロアスター教ってたって教義化が進んだのはキリスト教、マニ教との接触の後だしな
最大の教義書デーンカルドができたのは10世紀になってから
知的レベルではイスラームよりも遥かに後進でとても太刀打ちできるものではなかった ムカンナア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%82%A2
ハーシム・アル=ムカンナア(Hashim Al-Muqanna 生年不明 - 783年)はペルシアで預言者を僭称した反乱指導者。
彼はゾロアスター教とイスラム教を混合した教団を組織していた。
現在は彼の思想は主流のイスラム教各派からは異端扱いされている。 >>853
イスラムはいちおう神の前では平等だから
カースト制の下位の人が改宗してヒンドゥー教が減少して30%ぐらいに減っても不思議じゃないとも考えたんだけど
そうならないのも不思議 カーストは職業なんかとも密接にかかわってるし
改宗しても違った生活を用意してもらえるわけではないからな >>860
職業は確かに重要ですね
でもカースト下位の人はろくな仕事じゃないだろうし
辞めたい人いると思うんだけど >>862
それがイスラム教の普及しなかった理由かな
宣教するだけでなく職の提供(農業とか)できればイスラムの浸透も深かったのかも >>855
ゾロアスターの名残は日本にあるらしく神武天皇の道案内をしたヤタガラスが実はゾロアスター教の信者で秦氏という渡来人だったとか
日本の神社に祀られている神様でも本当の神道系とゾロアスター系に分かれていると聞いたことがある 今なら旧来の閉鎖的な生活スタイルを完全に打破できる受け皿があるからな
それでも脱出するだけの力を持てない人はまだ多いだろうけど たとえば川で洗濯する伝統的な洗濯屋はそれに従事するカーストが存在してそのカーストの者しかできないが
近代的なドライクリーニングにはカーストなど無いし誰でもやれる そんなわけでさまざまなものがどんどん現代化していけば
そのうちカースト制も骨抜きになって行くかもしれない
だがもしかしたら、将来はドライクリーニングカーストやらプログラマカーストやらができてしまう可能性も無いとは言えないな >>871
「荒川の流れを見ていると、故郷のガンジスの流れを思い出します」
という理由で、インド人に人気のエリア 不可触民
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E8%A7%A6%E6%B0%91
またインド憲法第341条により、大統領令で州もしくはその一部ごとに指定された諸カースト(不可触民)の総称として、
スケジュールド・カースト(指定カースト)と呼称し、留保制度により、公共機関や施設が一定割合(約25%)で優先的雇用機会を与えられ、
学校入学や奨学金制度にも適用される。
カースト制の変容と公民権の保護法
カースト制の変容そして、インド憲法第341条により、大統領令で州もしくはその一部ごとに指定された諸カースト(不可触民)の総称として、
スケジュールド・カースト(指定カースト)と呼称し、留保制度により、公共機関や施設が一定割合で、優先的雇用機会を与えられ、
高等教育への入学枠や公務員の採用枠などを留保しておくというものである。
公務員職の採用枠のうち教育機関への入学の優先枠が設けられたり、国営企業職員の優先就職枠、
議会の議席、公務員と、1950年では約20%だったものが、93年には約49.5%にまで引き上げられた。
優遇の対象外の人は、これは逆差別だと反対してる。
この留保制度の下で被差別民層から大学への進学者が徐々に増え、
1990年代になると、自由経済体制への転換や文化面の開放政策も相まって留保制度の効果が顕在化し、
指定カースト出身者の上級公務員・弁護上・医師・教師が増えていった。
公務員2,000万人のうち300万人超を、指定カースト出身者が占めるようにもなった。アウト・カースト=最下層階層という構図は当てはまらない。
一方、不可触民のなかでも農村に定住しない遊牧民や、
1952年以前に「犯罪部族法」に指定されていた「告知を解かれた部族(De-Notified Tribes, DNT)」と呼ばれるカーストなど、
指定カーストの指定を受けられなかった最下層のカーストが2008年時点で1億1千万人存在する[18]。
これらの人々はいまだに貧困と潜在的犯罪者という偏見のなかで生活している。
2004年にマンモハン・シン政権は社会正義・エンパワーメント省に「DNT・遊牧民・準遊牧民部族のための全国委員会」を設け、
これらの人々の人権問題の改善を進めている。 インドのカースト制度は「人種差別」。カースト廃止を望まない被差別層もいる現実
http://diamond.jp/articles/-/129413
カースト制の本質は「人種差別」
作家の山際素男氏はインドの不可触民の実態を日本にもっとも早く伝えた一人で、
『不可触民と現代インド』(光文社新書)には、不可触民の政治団体バムセフ委員長によるカースト制度の説明が紹介されている。
ちなみにバムセフは、不可触民階層出身ののエリートであるカシム・ラムが創設した政治団体で、
2000年当時、会員は140万人を超え、全国に支部と協同組合を組織し、各種新聞を発行するばかりか、
インド最大(人口1億4000万人)のウッタル・プラデシュ州ではカシム・ラムの盟友
かつパートナーであるマヤワティー女史がBSP(人民大衆党)の党首となり、
ヒンドゥー主義政党であるBJP(インド人民党)と連立して州知事の座に着いていた。
バムセフの委員長は不可触民を「ダリット(虐げられた人、倒れた人)」と呼び、インド社会の85%を占めるという。
インド社会はブラフミン、クシャトリア、ヴァイシャの15%の「高位カースト」が政治・経済・行政などすべての権力を握っており、
狭義の不可触民だけでなく、ムスリムや仏教徒、シク教徒、
さらにヒンドゥーの低位カースト(後進社会階層)を加えた残り85%の国民を“支配”しているのだ。
こうした世界観では、高位カーストは征服者であるアーリヤ人の末裔で、
大多数のインド人は宗教や身分、職業のちがいにかかわず、誰もが先住民の末裔である「ダリット」ということになる。
現代インドは3500年前と同じく、アーリヤ人種(白人)が先住民であるダリット(黒人)を差別し、抑圧し、奴隷化している「人種差別国家」なのだ。 「カースト制はバラモンたちが作ったものであり、それを先住民に強制したのです」と、バムセフ委員長はいう。
「彼ら(バラモン)は被征服者であるダリットを3000ものジャーティ(職業区分)に分断し、
そのジャーティーの中で互いに憎み合わせ、闘わせてきました。
そして一切の知的能力、知識を奪い取り、物事を正しく見、判断する力を根こそぎにしました。
バラモンの聖典とされるヴェーダを教えることのできるのはバラモンだけであり、
クシャトリア、ヴァイシャたちは学ぶことを許されていただけで教えることは禁じられていました。
今でも大学などの教授をはじめ、教育者の大半をブラーミンが独占しているのもそのためなのです。
ヒンズーの聖典をシュードラが“立ち聞き”していたというだけで、
耳に煮えたぎった油を注ぎこまれる罰(死刑)を受けたことは、“マヌ法典”にくり返し出ています」(『不可触民と現代インド』)
不可触民の政治団体の委員長がここまで激しく高位カーストを批判するのは、ナレンドラ・モディ現首相が率いる政権与党BJPが、
ヒンドゥトヴァ(ヒンドゥー・ナショナリズム)による民族融和を進めるために、
「アーリヤ種族はもともとインドにいた先住民だ」と主張しているからだという。アメリカの人種問題にたとえるなら、
これは白人が「人類の故郷はアフリカなのだから、自分たちもアフリカ起源だ」というようなもので、
これまで差別されてきたダリットからすれば許しがたい主張なのだ。 被差別層が必ずしもカーストの撤廃を求めているわけではない
カースト問題が難しいのは、被差別層(ダリット)が必ずしもカーストの撤廃を求めているわけではないことだ。
そもそもインド憲法は、17条で「不可触民制は廃止され、いかなる形式におけるその慣行も禁止される。
不可触民制より生ずる無資格を強制することは処罰される犯罪である」としてカーストによる差別を禁じているものの、
カースト制度そのものの撤廃を宣言したわけではない。
なぜこのような条文になったかを説明しようとすると、
インド独立をめぐるさまざまな利害対立が顕在化した1930年代の複雑な交渉過程から説き起こさなければならないが、
要約すると次のような経緯だ。
ムスリム勢力が「自分たちはマイノリティ(少数民族)ではなく一民族である」として独立を強行したことで、
ガーンディーは残されたインドを「ヒンドゥーの国」として統一するほかなくなった。
当時、ヒンドゥーの進歩派(改革派)のあいだでは、「ヴァルナは差別的なヒエラリキー(階層構造)ではなく、
たんなる分業形態に過ぎず、本来、不可触民を含めすべてのカーストは平等である」という思想が唱えられていた。
いわば、カーストから差別性を取り除き近代的な平等に適合させようとしたのだが、
ガーンディーがかなり無理のあるこの「進歩主義」に与したのは、ヒンドゥーを全否定することで社会が混乱し、
イギリスに介入の口実を与えインド独立が頓挫することを恐れたからだった。 「カースト制は差別ではない」という“きれいごと”に対して真っ向から反論したのは、
不可触民出身の政治家で、インド憲法の起草者でもあったアンベードカルで、
「差別され、排除されてきた不可触民がヒンドゥーの一部であるわけがなく、
(ムスリムと同じ)独立した民族として分離選挙(自治)を認められるのが当然だ」と主張した。
しかしガーンディーは、アンベードカルのこの分離主義をぜったいに認めることができなかった。
イギリス植民地政府がイスラーム勢力の要求をいれて分離選挙を認めたことがパキスタン建国につながったからで、
4000万〜5000万人といわれる不可触民に分離選挙が認められれば、独立インドが内部から解体してしまうおそれがあった。
1932年、イギリス首相マクドナルドが、カースト差別撤廃運動の高まりを受けて不可触民への分離選挙を認めると(コミュナル裁定)、
ガーンディーが断食によって抗議したのはこれが理由だ。
この「生命を賭した抗議」によってアンベードカルは妥協を余儀なくされたが、
ガーンディー側も「カースト差別はヒンドゥー教徒のこころの問題」というきれいごとで済ますことはできなくなった。
こうしてインド憲法に、カースト間の差別を禁止するとともに、
カースト制度によって差別されてきたひとびと(指定カーストおよび指定部族)に対する特別規定が設けられ、
衆議院および州立法議員の議席が「留保(リザーブ)」されることになった。
分離選挙を撤回する代償として、被差別層に対する政治的権利の優遇を憲法で定めたのだ。
この「リザーブ制度」が、インド版のアファーマティブアクション(少数民族優遇措置)になる。
このようにして独立後のインドでは、特別な教育的・福祉的支援によって不可触民の地位を引き上げると同時に、
大学や行政機関において「特別枠」を用意することで、彼らをヒンドゥーに「包摂」することが国是となった。
リザーブ制度によって、不可触民のなかから高等教育を受け、行政機関で高位の職に就いたり、
経済的・社会的に成功する者が現われ、バムセフのようなダリット(不可触民)のための政治団体も誕生するようになる。 リザーブ制度は不可触民の権利拡大運動の成果であり、差別の解消に寄与したものの、
その反面、ダリットの政治活動は深刻な矛盾にさらされることになった。
彼らが求めるのはカーストの撤廃だが、そうなると「指定カースト」への優遇措置もなくなってしまうのだ。
こうしてダリットのあいだに、自らのアイデンティティは「被差別」にあるとして、
これまでの既得権を守りつつより大きな政治的権利を求める動きが主流になっていく。
これが、「カーストの固定化」と呼ばれる現象だ。
不可触民たちの政治活動は、差別撤廃を求めつつ差別に依存するようになった。
現代のインドでは、カーストが解消されるどころか、低位カーストが政治団体化し国政や州議会で政治家に圧力を加えることで、
それぞれのカーストの政治的利益を競っているのだ。
マイノリティ(差別される少数者)への優遇措置は彼らの地位向上に資すると同時に、深刻な社会の対立を引き起こす。
同様の政治現象は、アメリカの人種(黒人)問題だけでなく、
アパルトヘイト後の南アフリカで黒人を対象に行なわれているアファーマティブアクションでも起きている。
カースト制はインド特有の宗教や文化ではなく、「差別のない社会をいかにつくるか」というグローバルな課題の困難さを象徴してもいるのだ。 ネパール 最下層女性に対する“魔女狩り”
http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/e/b6fd2f2c1dea6105525a970f0986b81a
インドのカースト制については、その外枠にダリット(不可触賎民、アンタチャブル)と呼ばれる最下層グループがあります。
近年では、政府からの援助を目当てにした自称ダリットも多く存在するとも。
それでも、ダリットに対する社会的差別の問題性が薄れた訳でもないでしょう。 金の力で差別をなくせるわけないし
奨学金を募って高学歴化させたところで第一次第二次産業が主体の地域では余計に就職に苦労するだけだろ
金目的で集めてるバレバレ >>875
読んでて頭が痛くなってきた
人権を語るのも結構だが、少しは勉強してから歴史を語れと言いたい
>日本でも神社仏閣には女人禁制のところがあるし、
>「伝統」という美名でごまかされているものの、その理由は女性が「不浄」だからだ。
嘗ては男人禁制の尼寺もあったんだが
これは男性が差別されていたからか?
単純に男子禁制の崇拝空間が現代では廃れてしまっただけのこと
>朝鮮半島南端から弥生人が対馬海峡を渡り、鉄器と農耕技術を持って九州にやってきた。
>その後、弥生人による縄文人の征服が進み、両者が混血したのが現在の日本人だ。
日本で戦争異物が見つかるようになるのは縄文時代が終焉してから数百年たった紀元後2世紀頃から
さらにいうと縄文人、弥生人は使っていた土器による考古学的分類でそういう人種がいたわけではない
>カースト制度というと「ブラフミン(司祭階級)」「クシャトリア(軍人階級)」「ヴァイシャ(商人階級)」「シュードラ(奴隷)」を思い浮かべるが、この身分の区別は「ヴァルナ」と呼ばれている
>(このうちブラフミンからヴァイシャまでが高位カースト)。ヴァルナの原義は「色」だ。ここから、カースト制の起源は(白い肌の)アーリヤ人による(黒い肌の)先住民の征服にあると考えられている。
ヴェーダ文献のなかにはダーサのブラフマンを襲った盗賊がガルーダに襲われる話があるんだが >>859 ムガル帝国が改宗者に優遇措置をとってればもっと増えたかな >>872
上流の秩父や長瀞を流れてるの清流も荒川なんだが・・ >>872
そうなの、ガンジスの方がはるかに大河、向こう岸が見えない
荒川に沐浴場施設を作るとさらに人気スポット化 日本にインド人が増えたのは、金融機関がシステムエンジニアとして雇い始めたのがキッカケだった
東西線で大手町に通いやすいというのが、西葛西に集まった原因 >>890
増えたといってもぜんぜんたいした数じゃないでしょ トラヴァンコール王国にもカーストがあることやイランやスキタイと言ったほかのアーリヤ人系がカースト制度を持たないことから
アーリア起源説は破綻してるんだが
ケーララのカーストは独特で家母長が一族の生殺与奪の権を握っている、家母長は何人もの愛人を持ちその中から家父長を選ぶ権限を持つ、貞操観念が重視されていない
通い婚、売春が神聖視されている(今は知らん)
とかむしろこっちのほうがオリジナルでアーリヤ系が父権制や自らの価値観に沿うよう換骨堕胎したのが現行のカースト制度と見るのが妥当 更に言うと数千年前の身分制度が厳格に今まで続いてるというのもファンタジー
例え仏教文献ではシュードラに使えるクシャトリアやバラモンについて言及しており、十六大国期には早速崩壊している
ダルマ・スートラにシュードラに使えるバラモンはその身分を剥奪するとあるのも、それを踏まえてのことだろう
玄奘三蔵が訪れたヴァルダナ王朝では再び身分制度が厳格になったようだが、
トゥグルグ王朝にハーディとして赴任したイブン・バットゥータは「ここほど出自によらず評価される国はない」と述べていることから、再び形骸化したことがわかる
つまり何度も崩壊、再編を繰り返してるわけ >>892 ナイルレストランのナイル(Nair)さんがひょっとしてそのカーストだっけ スキタイはスラブ系と見られる農耕スキタイを支配していたし
ペルシャに至ってはアケメネス朝時代にはエラム、エジプト、カルディアほか無数の異民族を従えていたけど
カースト制度はない
それとそれはトラヴィタ系にもカーストがある反論に全然なってないし
支配層もバラモンとクシャトリアに二分されていることも説明がつかない アフダーム
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%A0
アフダーム(アラビア語で「召使」の意)、 別名ムハマシーン(al-muhamashīn 「主流から追いやられた人々」)とは
イエメンにおいてそのネグリト風の容貌から多数派より区別されている社会集団である。
彼らは社会階層の最下位にあるとされて、彼らの仕事は同国の主要都市での賤業に殆ど限局されている。
アフダームの実際の出自は詳らかではない。
有名な説話によれば彼らは先イスラム時代アビシニアがイエメンを占領した際に渡ってきた兵士の子孫であるという。
アビシニア軍はイスラム時代の始まりの時追放されたが、一部が残ったとされ、こうしてアフダームが生まれたという。
また別の説によれば彼らはヴェッドイド由来とされる。
Vombruckなど人類学者はイエメンの歴史と社会階層が、ザイド朝など様々な政権下で発展し、カースト的社会を作った事を指摘している。
現代に入って彼らの社会状況はある程度改善したものの、未だに多数派のイエメン人社会からは偏見を受けており、
低俗で汚れていて不道徳で不可触であるといわれている。
彼らは世襲制のカーストを形成しており、それはイエメンの社会階層の最下位に位置している。
殆どのアフダームがイエメンの主要都市郊外の隔離されたスラムに生活している。
多くは首都サナアに、その他アデン、タイズ、ラヒジュ、アビヤン、アル=フダイダおよびアル=ムカッラーにもみられる。
政府当局の推計によれば2004年現在のアフダームの人口はおよそ50万人である。
別の推計によれば2007年現在でイエメンの総人口2200万人のうちの100万人以上である。
社会的地位のほか、アフダームはそのヴェッドイドすなわちネグリト風の容姿が一般のイエメン人とははっきりと異なっている。
彼らはイエメン人の平均より少なからず背が低い。毛髪や肌の色もネグリトの特徴を持つ。
Lehmann (1954)とTobias (1974)の遺伝子研究によるとアフダームには鎌状赤血球症が高頻度で現れる。
Lehmannはこの事を同じくこの特徴の頻度が高い南アジアとの生物学的繋がりがあるからだとした。 >>898
勘違いなら悪いけど
イエメンはイラン系じゃないしそれ全然反論になってないっすよ イラン系というよりコーカソイドとオーストラロイドの違いでは?
やはり見た目の違いは大きい 文明人(コーカソイド)同士なら差別は起こらないけど相手が黒い肌の土人となれば話は別ってことか。 >>903
いや、インドの場合はアーリヤ人よりもドラビダ人のほうが最初は文明度たかかったんじゃね
ビルマやタイも黒い先住民のほうが文明度は高かったはすだがそれでも征服されて下になってる ヴェーダ文献だとダーサやダスユは富裕で強大な力をもつ強敵として描かれている
マハーバーラタではムレーッチャのブラフミンを殺した者が偉い目にあったり、リグヴェーダではダーサのタルクシャ王を偉大な王様と見なしたり
敵側の人間でも高位のものには一定の敬意を払っている >>902
昔は、東欧の女奴隷が中東の市場で売られていたが そもそも奴隷として売り買いされたことのない人種がいないことぐらい
高校生レベルの知識があればわかることだが >>898 長い年月のうちにアラブ人とも混血してるはずだから、それでこの風貌が残ってるってことは、先祖は相当こてこてのネグロイドorオーストラロイドだったんだろうな
少なくともアムハラ人などのエチオピア人種が先祖ではなさそう 【イベント】ダリットとして生きる−インド社会で虐げられてきた人々の声に聴く
http://ahi-japan.jp/press/001/
インドのカースト制と闘ってきたカリさんが日本全国でご自身の活動や体験についてお話します。
お近くにお住まいの方はカリさんに会いにいらしてください。
内容概略:
インド社会におけるダリットの置かれてきた状況、自らもダリットとして、どのような人生を送ってきたかを語ります。
また、長年NGOワーカーとしてダリットの人たちと展開してきた人権回復運動の中で、
どのように当事者が声をあげるように変わってきたかのプロセスを写真や映像を交えて語り、歌や絵を用いた活動の実演も行います。
講師のプロフィール:
Murugan Kalirathnamさん(通称 カリさん)男性、59歳、インド・タミルナドゥ州在住)1994年のAHI研修生、
本人もダリット(カースト制度の外に置かれた被差別民)の出身。
1992年から12年間、南インドでダリット解放運動、生活改善を進めたNGOで活動、
2006年にTTA(ティルパニ協会=貧困者のための奉仕協会)を創設して現在にいたる。
【愛知 11/21・22・24・30】
【東京 12/1・2】
【関西 11/22滋賀・11/25&26京都・11/28大阪】
【熊本 12/3・4】 >>902
日本でも中国でも女はフォトショップ使って異様なほど肌の色を白くするよな
白信仰は本能的なものなのかもしれんな >>910
現代のアフリカでも色が薄いほうが高いとされている
しかし前近代ではわからんね アラブの金持ちにとっては、白人と黒人の女奴隷をバランス良くそろえるのがステータスだったという話だが まあ、とくに東洋人の場合は、色白なのはスベスベお肌の象徴でもあるから、触り心地の良さにもつながる。
男にモテるのは当然とも言えるな。 東洋人の脂っぽいニキビ肌がきれいとは思わない
つうか東洋人の女は白人男性が好きだけど逆はそうでもない 東洋女のオマンコは黒ずんでいる
白人女のオマンコはピンク ヒンドゥー教を受容した国はカースト制度もちょっとは受容したの? >>917
バリ・ヒンドゥー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC
バリ土着の信仰とインド仏教やヒンドゥー教が習合した信仰体系であり、バリの人びとの90%以上がこれにしたがった生活を送っている。
バリ・ヒンドゥーのカーストは、次の四つのワンサに分かれており、上から3つが「トリワンサ」(貴族)と呼ばれる。
人口の90%以上はスードラに属する。バリの人びとの名の頭には、カーストによって以下の名称が付される。
・ブラフマナ:イダ・バグス(男性)、イダ・アユ(女性)
・サトリア:チョコルダ、アナック・アグン、デワ
・ウェシア:グスティ
・スードラ:イ(男性)、ニ(女性)
バリ・ヒンドゥーのカーストは、インド・ヒンドゥーのような厳しい戒律による差別はみられず非常に緩やかなシステムである。
いわゆる不可触賤民も存在しない。 >>863
結局のところ、下位カーストからの改宗者が
新たな下位カーストと見なされるだけだった。
ジャイナ教やシーク教の様に信者が大挙して
特定の職業で主導的立場につけなけりゃ信者も増えない。
インド人ってパキスタン人やバングラデシュ人を
結構底辺カーストの改宗者とバカにしてる。 パンジャーブ人とベンガル人は下賤な底辺カースト改宗者 カーストは職業に付随するものだから低カーストは宗教変えても低カーストなのは当たり前 >>920 アウラングゼーブの治世中奇跡的に豊作が続いたりしてたら、イスラム=善 ヒンドゥー=悪のパラダイムシフトを起こせてたかな >>920
敵のパキスタンの敵のバングラ人もやっぱりそういう扱いなのか
>>923
豊作云々の意味が分からんが、ムガル帝国が安定的に支配してた地域すらイスラム化できなかったんだから全インドなんてどう考えても無理
軍指揮官としては有能かつ長命というのは一般的には君主の良い資質だが、アウラングゼーブの場合早死にしてた方がムガル帝国の寿命が伸びたろうな >>56
> 西北から侵入してインド攻略に成功した勢力だって、いくつもある。
>
> でも、ペルシャや中央アジアの領土と、インドの領土を、両方とも維持できたケースがない。
>
> 中国の場合は、唐とモンゴルが、中央アジアから中国に
> またがる大帝国を実現したのだが、インドでは無理。
中国でさえ長い歴史でそれだけなんだからペルシアとインド
両方領有するのは無理何だろうな
ローマ帝国でさえメソポタミヤは無理だった >>927
融和関係かどうかは兎も角、ジャイナ教と並んで、
インドの宗教とは認められている。 スィクはヒンドゥーによって明らかにぞんざいな扱いされてるわな >>929
でも、大統領も首相もシーク教徒からでているのだが。 キリスト教徒は今のところ国防大臣のフェルナンデス氏が最高位か >>925
中央アジアの範囲をどの辺に持ってくるかによって変わってくる。
アフガニスタン辺りなら、北インドと両方領有していたケースがいくらでもある。 インド文明圏の北西部は、世界最高峰レベルの大山脈、毎年洪水を起こす大河、広大な砂漠、海岸の巨大湿地帯、さらにまた山脈と、これでもかとばかりに天然の要害が続く、自然国境のカタマリみたいなところ。
中央アジアからインドに侵入した勢力は、みんなそこを乗り越えてきたんだから、偉いもんだ。 >>932 ドラビダ系でイスラム教徒のカラム大統領か
その先代はやはりドラビダ系で不可触賤民のナラヤナン大統領だっけ イスラエルを訪問中のインドのアドルフ・ヒトラー大統領は インド独立で藩王だの土侯が吹っ飛んでくれて本当によかった。
あんなのが今でも残っていたら、インドの民はたまったものではなかったろう。 まだカーストが事実上残ってるから今でもたまったもんじゃねえぞ 不可触民だけで2億人もいるんだからインドはカーストごとに国家として独立した方がいい
我ら中国共産党とパキスタンが全力で支援する 極論だが、バラモンやクシャトリアを根絶やしにするくらいの荒療治でもしないと、
インドの真の民主化は実現しないだろうな。
むろん旧藩王や土侯も根絶やしだ。 >>948
文革みたいなもんか
発展を遅らせたように見えて、
結果的にはあれは必要だったのか? バラモンやクシャトリアや旧マハラジャの根絶なくしてインドの夜明けは来ない。 日本でさえ宗教勢力が根付いてるのにインドでできるわけなk 知識階級のバラモンを虐殺して、国民の知的水準を下げるほうが致命的
毛沢東やポルポトの轍を踏むな インド共産党が実権を握るケーララ州の教育水準は他地域より高い >>953
× インド共産党が実権を握るケーララ州の教育水準は他地域より高い
○ 所得の高いケーララ州の教育水準は他地域より高い 「インドのバリ島」ことケララ州
単なる南国リゾートにとどまらない、民俗芸能の宝庫 ケララ州は、インドの統一王朝に組み込まれたことがほとんどない
地続きとはいえ、インドに含めるべきでない地域だ テルグ語は不思議な言語だ。
南インドのドラビダ系言語なのに、なぜか、言葉の響きが欧州のラテン系言語に似ている。
昔、インドを訪れたイギリス人やフランス人は、「こんなところにイタリア語をしゃべる連中がいるのか?」とビックリしたというほど。 中国の北と南を分けているのは、淮河。
インドの北と南を分けているのは、ナルマダ川。
しかも、ナルマダ川は、ヴィンディヤ山脈とサトプラ山脈に南北を挟まれ、その間の狭い地域を流れている。
川を越えるだけならともかく、この2つの大山脈を越えてデカン高原に攻め込むのは、北インドの王朝にとって極めて困難だった。 古今東西、北と南が戦争したら、たいてい北が勝つ。ノンビリした南の人間では、ガツガツした北の人間に勝つのは難しい。
北だけではない。山岳民族や、高原の民族は、たいてい戦争に強い。通常、侵略は高地から低地に向かって行われる。
モンゴル高原から華北平原、アフガニスタンからヒンドスタン平原への侵略は、千年・二千年にわたって続けられた。
しかし、北のヒンドスタン平原から、南のデカン高原に攻め込むのは困難だった。
逆だったら、北の圧勝だっただろう。
つまり、北インドが高地で、南インドが低地だったら、ずっと北インドの圧勝が続いたはず。
それを思うと、歴史上、なかなか統一されなかった国々には、「北が低地で、南が高地」という特徴が共通する。
インド、イタリア、ドイツがそれだ。 タール砂漠
「世界の屋根」 ヒンドゥークシュ山脈を越え、大河インダスを渡り、さらにカイバル峠を越えたら、次に待ってるのはこれだ。
古来からインドを侵略してきた連中の根性には、頭が下がる。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/09/Thar_Khuri.jpg/1280px-Thar_Khuri.jpg >>963
ナルマダ川の南もまだまだアーリア人の世界や
アーリアとドラヴィダの境界はナルマダ川よりさらに600kmほど南 >>966
カイバル峠じゃなかった、アラヴァリ山脈 >>964
南から北に侵攻して南が勝った希有な例
・島津の九州統一
・国民政府の北伐
・第二次大戦末期のイタリア
このくらいしか無いな アレキサンダーの部下って偉いよな
俺だったらカイバル峠を前にしてホームシックにかかっていただろう 1510年、サファヴィー朝のシャー・イスマーイールはシャイバーニー朝のムハンマド・シャイバーニー・ハーンを討ち取り、その頭蓋骨に金箔を塗って盃にした。 間接的な食人かよw
シャー・イスマーイールはイスラム教徒のはずなのに、口元に髑髏杯を近づけてオエッと思わなかったのかな
食人大統領と言われたアミンもイスラム教徒で、実際は人肉は食べてなかったんだっけ シャイバーニー朝はウズベキスタン
サファヴィー朝はイラン
どちらもインド文化圏ではないな >アーリアとドラヴィダの境界はナルマダ川よりさらに600kmほど南
600kmっていったら、東京と青森くらいか
かなりの距離だな デカン高原のマハーラーシュトラ州は、微妙な位置だな
アーリア人だけど、南の王朝の本拠として北インドと対抗することが多い 北はトルコ人がアーリア人を支配
南はアーリア人がドラビダ人を支配 CNNで、ニューデリーの大気汚染を盛んに特集している。
インド人は、黒煙に包まれて生活しているな。 サンシャイン水族館で、魚が酸素不足で大量死した
人類の未来を暗示している 酸素不足で死んだのは1235匹
生き残ったのは73匹しかいない 人類の場合、生き残るのはタフなシナ人とインド人だろう いまのところ、肺の鍛え方では、北京人が一歩リードしている ロイターによると、「インドの首都は、大気汚染が危機的レベルだ」、
「1日50本のたばこを吸っているのに等しい」だそうな 5日で1万人の大気汚染による死者が出こともあるロンドンとどっちが凄いだろうか イギリスと違って、北京やニューデリーでは、人の生命が安い
死んでも、たいして問題にならない 左翼の爺さんたちは、「シナの公害がひどいというが、日本も昔はそうだったんだぞ」と言うけど、公害のスケールが違いすぎる
日本の大気汚染は局地的だが、あちらは広大な大平原を黒煙が覆っている 日本の場合、川崎とか四日市とか、局地的にスモッグがひどいところはあった。
しかし、スモッグが関東平野や濃尾平野を覆ったなんて話は、聞いたこともない。
シナの場合は、関東平野の10倍以上もある華北平原が、すっぽりとスモッグに覆われている。 日本では、1960年代にエネルギー革命が起きて石油中心の社会に変わった。
中国は、いまでも石炭社会。 しかも、オーストラリア産の高純度な石炭ならともかく、中国産の質が低い石炭を使っている インドは中東に近いだけに、石油社会への移行が早いと思われる このスレッドは1000を超えました。
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