何故フランス革命は世界的に有名なのか? [無断転載禁止]©2ch.net
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30国ほど回り教育に携わる身分ですがフランス革命は一大イベントで大きく取り扱われ
他の革命は軽く流される程度です。
我らが日本、明治維新も上記のような状態です。
何故フランス革命だけ世界的に有名になったのか語るスレです。 支配される一方であった民衆が王族にキレてギロチンで処刑するってインパクトが強いのもあるよな
ギロチン、王殺しこの辺がなかったらもっと地味だったかも テロの語源はフランス革命からだが、政権を取るために極左や唯物論者である、エベール派とサンキュロット(原始共産党)を公党であるジャコバンに入れてしまったことが由来だ
極左に革命裁判所という法的根拠を与えたことで、私欲を満たすために暴走した極左が貴族・聖職者・金持ち・地主・小金持ち(とその家族)を
殺す活動を正当化するためにレッテル貼りと濡れ衣で(犯罪者・悪党でない)無実の善人を処刑していった
極左の理屈を通すと国民の1-2割を粛清しても収まらない。実際、粛清を扇動したのは極左・唯物論者
(マルクスが研究していた原始共産主義)であり、階級別に殺戮するとなると国民の数割の血を流すか、強制収容所に送る必要がある
20世紀のクーデーターを見ても成功例では多くても数パーセントの犠牲であり、ロシア革命やカンボジアを見ればその暴走ぶりは明らかだ
保守サイド(ジロンド)にも大きな問題があった
ローマ時代から続く封建的搾取システムである貢租を一刻も早く改める必要があったが、それを行わない(妨害する)ために
財政が破綻状態のまま戦争を起こすことを画策したが裏目にでて、政局は混乱し、最終的に立憲君主制と共に消滅した
ジャコバンの三名(ロベスピエールとクートン)は殺してばかりのイメージだが実際は全ての罪をかぶされて悪者にされた
戦時指導者として極左エベール派の「無差別」虐殺・破壊・宗教弾圧をやめさせた
行き当たりばったりの感情論でエベール派のみならず盟友のサン=ジュストを公に攻撃し政治問題化した
デムーラン(とダントン)等の死刑は、ジャコバン内部やその他の党派の自己防衛のためでもあった
「ロベスピエールが個人的に粛清をしたというのは、ダントン派だけです。エベール派はコミューンの力で議会政府を転覆しようとしたので自業自得であり、
粛清というより自滅です。
その他多くの恐怖政治の犠牲者は、ロベスピエール本人やその派閥の意向とは関係なく、革命裁判所や派遣議員が動いたものであり、パリでは検事のいきすぎた検挙と、地方では派遣議員の腐敗の産物です。
派遣議員はヴァンデやリヨンなど各地で過剰な殺戮を行っただけでなく、不正蓄財目的で多くの金持ちを投獄し財産を没収したり、身代金をとったりしていたのは有名な話で、そしてその派遣議員を監査し、
裁こうとしていたのがロベスピエールであり、かつテルミドールのクーデタは、彼ら犯罪者である粛清予定者の反乱であったというのが一般的な見解なのです。」
粛清・虐殺を過激化を止める過程で、盟友(ダントン、デムーラン)が暴走し、あげくに過去の不正をあばかれ自滅
盟友を減らした中で、周りが全て敵に見えて疑心暗鬼に駆られるという悪循環に陥り、孤立したジャコバンも自滅した
フランス革命から得るべき教訓:
・如何なる崇高な目的であっても決して極左(エベール派、私利私欲で動く正義ずらした無神論者・反宗教者=共産主義者)と協力しないこと
・改革期間中に血迷って戦争をしないこと
・改革を遅滞させないこと
・粛清対象は宗教的倫理観・理に基づき、悪党や、問題を起こしたり秩序・規律を保てないものに限定して選定すること
・革命裁判所のように私利私欲に駆られた少数派の個人・団体が超法規的な影響力を行使できる場を作らないこと
・決して仲間・盟友(本当に信頼しうる仲間、敵であっても同士となり共闘ができる相手)を殺さないこと
・暴走した仲間(サン=ジュスト、デムーラン等)を早期に追放(海外に異動)する等の措置を躊躇わないこと
・極左や悪党は一旦法という隠れ蓑を得ると取り返しのつかない混沌に社会を陥れるため、民主主義や法に反しようが問答無用で駆除すること
ロベスピエールは、ダントン派を断頭した
なんだか語呂がいい ダントンは裁判で持ち前の雄弁をふるい、判事も無罪に傾きかけたが、弁論を妨害されるなどの圧力がかかり、結局4月5日に死刑の判決を受けた。
ギロチンへの道すがらロベスピエールの家の前を通りかかると「ロベスピエール、次は貴様の番だ!」と叫び、最後まで堂々とした態度で処刑された。
34歳であった。
最後の言葉は「俺の頭を後で民衆によく見せてやれ。これだけの頭は、滅多にないぞ!」であった。 ダントンの名を一躍有名にしたのは8月10日事件で、サンキュロットの蜂起を扇動したのがダントンだった。
蜂起の成功はダントンの名声を高め、「8月10日の男」と言われるようになり、議会から異例の抜擢で司法大臣に任命された。
9月には外敵が迫るなか、断乎戦へと熱弁を振るった。
国民公会議員に当選すると、ダントンは一転してジロンド派との妥協を策し、暗躍した。 1791年末帰国後、パリ・コミューンの第2助役に選ばれた。
1792年、民衆を扇動してテュイルリー宮殿を襲撃させた後(8月10日事件)、急進派で唯一人ジロンド派の内閣に司法大臣として起用される。
この頃、対外戦争は敗戦続きで、9月2日にヴェルダンでフランス軍が降伏。
周囲が動揺するなか「勇気が、常に勇気が、さらに勇気が必要なのだ」で知られる有名な演説(通称:剛胆演説)で国民を鼓舞した。
しかし責任大臣であった九月虐殺は防げなかった。 ダントンこそ、真の革命家
「維新の三傑」ならぬ、「革命の三傑」の1人 ロベスピエールとダントンはともかく、エベールは微妙 デュシェーヌ親父なぁ・・・。日刊ゲンダイの編集長みたいなのが時流にのったイメージ。 日刊ゲンダイの編集長がホントに革命を起こしちゃった感じ? エベール以外の三傑入り候補としては、ミラボーとサンジュストあたりか? 器の大きさではミラボーが当然入るだろうが、破壊的なまでの革命を望む男ではなかった点が論点になりそう 革命政府と第一帝政まで入れたらシェイエス、フーシェとか政権の転換期に立ち会ったレジェンドだけど
「革命の」三傑とかには入らんよな マラーって、美人に風呂場で刺し殺された人って事だけが有名。
具体的には革命にどう貢献しなはったん? >>222
まだ馬鹿のひとつ覚えを繰り返してるのかコイツは
嘘は百万回書いても真実にはならんぞ
ましてや出典書かないで逃げ回ってるようではな
>>211のスレにソース書かないのは自分でホラ吹きだって認めてること
ここで暴れてもむしろ逆効果で、誰も>>64なんて信じないから
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history2/1488335512/10-11
10 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 Mail:sage 投稿日:2017/05/07(日) 08:07:20.12 ID:vQc+YVfa0
慶喜がヤク中だったってソースどこにあんの?
11 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 Mail:sage 投稿日:2017/05/09(火) 20:01:47.15 ID:1V7vKKUJ0
そのうち1が出すでしょ。もし出なかったら慶喜ヤク中説は嘘か妄言って証明になる
この11が書いた通りの妄言だったな
何かしら出典書くと思ってたがやっぱりお前には無理だったな 明治維新とか言っても、封建主義社会に資本主義導入したってだけだからなぁ。 封建貴族制度を完全にぶっ潰したってのは凄い
大地主にはなったけど メートル法は日本人の風習には合わなかった
材木業では今だに尺定規を使っているところが多い メートル法は日本人にすんなり受容された
材木業など斜陽分野の一部に古い尺寸法を残すに過ぎない 不動産業全般でuじゃなく帖(畳)とか坪とかが使われとるで アパートで広さ6畳と表記されてるけど
実際にいくと畳6畳より、やや狭いパターンが多い 畳のサイズを小さくして大きさ誤魔化すっての常態化したから
もはや旧来の数え方は害悪でしかない ルイ16世死刑に賛成した連中を国外追放で済ませたのが納得行かない
全員ギロチンだろ 世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと
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AUV 色川高志(葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室)の挑発
色川高志「関東連合文句があったらいつでも俺を金属バットで殴り殺しに来やがれっ!! 関東連合の糞野郎どもは俺様がぶちのめしてやるぜっ!!
賞金をやるからいつでもかかって来いっ!! 糞バエ関東連合どもっ!! 待ってるぜっ!!」 (挑戦状) >>267
ルイ16世当人は報復を望んでいないので。 世界的に有名なのではなくて日本において異常に有名なのです 革命の失敗モデルとして、フランス革命を例に挙げて考える フランスの学校で「父親」「母親」という呼称が禁止 親1、親2と呼ぶことに
http://www.all-nationz.com/archives/1073842330.html
1週間を10日にしたり県を正方形にしたりするフランス人の考えそうな事だww 小学生の時に年寄の教師が生徒全員の父親の職業とか聞いてた。
今やると問題だろうな。 >>280
軍隊の上の人間がフリーメーソンになっていたから。 実はフランス革命にも影響を与える
天明の大飢饉(てんめいのだいききん)とは
江戸時代中期の1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した飢饉である。
江戸四大飢饉の1つで、日本の近世では最大の飢饉とされる。
7月6日(8月3日)には浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせた。
火山の噴火は、それによる直接的な被害にとどまらず、
日射量低下による更なる冷害をももたらすこととなり、農作物には壊滅的な被害が生じた。
このため、翌年から深刻な飢饉状態となった
被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定約2万人)が餓死したと杉田玄白は『後見草』で伝えているが、
死んだ人間の肉を食い、人肉に草木の葉を混ぜ犬肉と騙して売るほどの惨状で、
ある藩の記録には「在町浦々、道路死人山のごとく、目も当てられない風情にて」と記されている >>285
浅間山噴火がフランス革命に影響?それはありがちな勘違いというものだ。
1983年の浅間山の噴火規模(VEI4)は同時期のアイスランドの
ラキ火山・グリムスヴォトン火山噴火(VEI6)に比べれば百分の一の小規模に過ぎない。
アイスランドの火山噴火がフランス革命の引き金になり天明の大飢饉にも関わっているとは言えるが、
その逆は言えない。 「デュシェーヌ親父」って、どんな感じの記事だったのか興味がある。
部分的にでも、いままでに日本語に訳されたことってないのかな? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています