「朝貢の一環として、朝鮮の良家の娘たちを集めて元朝の帝室に差し出すというもので、高麗貢女は、例えば宮廷に入って皇后や王族のそばで働きながら、できうればそこでエリートを見つけて結婚することが望まれていました。
帝室内に高麗の身内を送って発言力を増していこうという、高麗なりの生き残るための術だったのだと思います。儒教思想のもとでは女性の地位が低いので、そういう発想が生まれたのでしょう」


しかし、これは「モンゴルが強制したのではなく、高麗側が自ら進んで編み出したシステムであった」と楊氏。