匈 奴2 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
匈奴をトルコ人はチュルク系にしたがっているが、 おそらく95%の確率でモンゴル族 人種も黄色人種 チュルク系も遠い祖先はモンゴル高原や大シシリアン山脈裾野のあたりが故地だが、 漢民族の大反撃にあったり、兄弟民族のモンゴル族に押されて西進して、 その長い西進のあいだに中央アジアに 元々暮らしていた白人系のイラン系民族を吸収して白人化して今のチュルク系民族になった 古代中国は1字姓が多かったが2字もおり 官職や地名をそのまま付けるということで、司馬氏や公孫氏など混在した そのように便利な2字姓がひじょうに増えたことがあり日本はその頃の影響で2字姓 前漢では「第五」なんて名前もあり印象が強く、第五は都で女にはもてたという 異民族に2字姓が多かったが匈奴の使う音を表記するとそうなってしまう 鮮卑の慕容氏などは富裕を意味するモンゴル語 のちに鮮卑の北魏の道武帝が漢化に熱心で、2字姓が多く蛮族丸出しで嫌い 1字姓に改名せよという布告をしたので中国の多くは1字姓になった 韓国の語源は、中国の三韓(新羅・任那・百済)であり汗国(匈奴王) 新羅の金氏、これは漢化した匈奴が使う姓であり前漢の名臣金日テイが有名 金日テイは匈奴の屠休王の息子 > 兄弟民族のモンゴル族に押されて西進 歴史文書がなかったら、内モンゴル人は外モンゴル人に押されて南下したというトンデモ歴史が作られそうで香ばしい。 わざわざモンゴル高原のようなやせた土地をめぐって争った前提のおもしろ歴史観ってどこから出てくるんだろう。 ジュチ一族はトゥルイ一族に押されて西進した(キリッ モンゴルというよりこのあたりの中心地はオルドスね オルドス地方には4000年前から遊牧民の文化が栄えて文明が進み 人口が増加していたことが出土品で明らかだ オルドスが豊かな土地であるか?といえば現在はみるかぎり砂漠に過ぎない ただ遊牧に適した土地である 中国の文献にはオルドスに狄(匈奴の祖先)があり、これはテュルク=狄ともされる 白い服を着た白狄がより漢民族に近く、赤い狄は蛮族でひたすら広い土地にひろがり 遥かに人口は多いとある。また赤狄は、有史以前にユーラシアを大征服した のちに匈奴はオルドス地方に住む南匈奴、北のゴビ砂漠に住む北匈奴に別れるが そのまま白狄・赤狄にあてはめればよい 文明も進み人口が多くなれば広い土地に広がろうとする、自然現象といえる ただ。オルドス地方の文明が進む理由はわからない 中国人と世界帝国の匈奴が隣り合わせに住んでいたのは偶然の縁というよりも おそらくは農耕と有文字文化をえらんだ狄が中国になると見るほうが自然であろう 匈奴の冒頓単于も、漢帝国にはかなり大甘と言うか 暖かい態度で接してる、匈奴世界帝国では、何もできない無職ニートの弟という扱い そういや新石器時代のオルドスは森林帯だったっていうね。 長狄というのもある これは文字通りからだが長い一族で、孔子によれば身長6メートル たまに狄でとんでもなく背の高い男と遭遇して中国人がびっくりしたのは想像がつく むかし新宿で人混みのなかで身長2メートルみたけど飛び抜けててびっくりした 狄がトルコ系だとすれば遠隔地の白人と混血して肉食が主だしデカかったでしょう >>7 実際はモンゴル族とチュルク族はオルドス地方が主居住地域だったのだろう しかし、それとは別に少なくとも今から3000年前は、今は砂漠化ないし半砂漠化しているところの多くが 豊かな温帯林や亜寒帯の樹林ないしは豊富な草地であったことが分かっている その年代の地層からブナ・シイ・カシ・アカマツ・ヒノキ・スギなどの花粉や実や葉の化石が出土している また森林地帯が主な生息地であるはずの動物の化石も見つかっている 中東の肥沃な三角地帯と同じで、元々草木が豊富だったところを 人口増で人間が開墾し、過剰放牧や火を得るために森林伐採をしすぎて現在のような半砂漠になってしまった もちろん、気候変動の影響もあるけど 狄はオルドスというくくりに限らず中原のあちこちに小国家を作り諸侯と混在した 白狄はとくに諸侯に仕え貴族になったり、縁戚化したり、中国に溶け込もうとした 周を滅ぼしたこともあり狄は集団としては手強い。戦上手だ 三国志の呂布みたいな感じだろう 春秋で覇権国の晋はなんども狄の大族と戦闘して、ときに娘を貰い、狄人の宰相もいた 楚との決戦では、中軍の将が狄人であり民族の混在が伺える 白狄は、赤狄と仲が悪かった。嫁取りもしない。赤い服も美意識で異文化をおもわせる 赤といえばロシアの都モスクワのクラースナヤ・プローシシャチ「赤い広場」がある 「赤」はソビエト社会主義ではなく、古代ロシア語で「美しい広場」という意味 先祖に赤狄の影響が伺える 朝鮮半島の南部では白い服が民族服とされて、朝鮮戦争では白い服の避難民が 大量に現れた。幽霊のようで米軍も中国軍もかまわず射撃して大きな犠牲が出た 現在イギリスの王族は赤い服を着ることが多い 赤い染料が高価だったために、エリザベスの時代に奢侈禁止令がでて 貴族や王族のみが赤い服を着れることになった。これに起因する 兵士も赤い上着チュニックをつかうためイギリス軍の別名をRed coatという 古代中国では朱砂という染料もあったが朱砂を掘り当てた者は巨万の富をえた 唐では女官は赤いスカートを履いて華美をほこったがこの染料は 植物性でアカネ・ベニバナとのこと 北米ではハンターは誤射防止の為、派手な赤の上着をつける法律がある とくに人口希薄でひろい荒れ地で遊牧や狩猟をする赤狄(テュルク)には 赤い染料は高価でにせよ仲間を見つけやすく有用な先進技術だ いずれにせよ赤い服というのは狩猟の場合、味方の弓矢の避けるために着る オルドスの伯狄は、白い服を着て赤い服など臭い田舎者だと小馬鹿にした。 先進国オルドスではダサい服でも、文化も何もないロシアの田舎では赤狄(テュルク) は美しいと思われた。イケメンが赤上着で馬で現れればロシア娘も赤面した ヨーロッパは高価な赤い染料でも、上着に不可欠として争って買い求めた >>15 昔、朝鮮人が白い服しか着てないなかったのは、 染料を開発できなかったのよ 日本のような染色原料が国内で見つけるとができず、 染色技術もなかった 貴重な染料で染めた服を着れたのは、貴族階級の両班ぐらい 現代韓国で放映されている歴史ドラマの中の朝鮮人の衣装は 韓国人がこうあってほしいという願望によるファンタジーだからw 赤い染料は紫外線で退色しやすくむかしは合成染料がなく長持ちしなかった したがって服も買い換えるしか無く高価だった上に手もかかる 青いジーンズの染料であるインディゴは熱帯植物でインド原産だった インドから輸入してるんだから値段も高いわで 中近東ではインディゴ染の青い服が富の象徴とされて女性にこのまれた またアフリカでも結婚など晴れの日は青い服を用意した しかしドイツで合成インディゴが発見、インドの農家は一斉に失業したという 中央アジア伝統があるのでお金持ちアメリカも作業着としてインディゴ染めを好んだ またソ連時代の共産党の青年はアメリカ製のジーンズを持っていたが 田舎では垂涎の的で、若いソ連娘に米国製リーバイスを一本やるだけで 体を任せ現地妻になってくれたという。中古のボロでもかなり高価に売れたということだ。 日本の東北人は同郷の東北人に押されて、江戸に南進した(キリッ >>17 陶磁器も同じで、「白磁の国」といってるが、本当は染色技術がなかった >>21 染物技術と陶磁器に色つける目的での釉薬って関係あるの? 高麗茶碗って別に白じゃないし 晋は赤狄に攻め込まれ刑丘までせまった。荀林父は言った 「戦争を繰り返せば、使役される民は堪りません。赤狄に戦争を続けさせましょう」 赤狄の王は晋公の姉を娶る姻戚だったが、赤狄の宰相は王を閉じ込め目を潰した 晋公は赤狄を攻めるべきか諸侯にはかった 「赤狄の宰相は3つの物凄い魔法を使うと聞きますのでやめておきましょう」 「やつが死ぬまで待つべきです」 荀林父は、はっきりいって待ちの人でセコいのだが ながらく晋の中軍の将をつとめて宰相であり、史実ではあまり戦争が上手くない文官の慎重派で 荘王率いる楚軍に負けたりして戦闘力も低い、地味だけど なにげに赤狄戦では何度も撃破して戦果を上げていたりするので この当時の晋国は楚との天下決戦より、異民族の対策のほうがよっぽど苦慮された と考えると、ものすごい実用的な官僚だったりする 廃墟になってるのはカラホトやね フフホトは今でもおっきな街だよ どうでもいいがフフホトで変換したらちゃんと呼和浩特って出てびっくりした そういう廃墟的な意味のゴーストタウンじゃなくて今中国で問題になってる鬼城の方のゴーストタウンでしょ 凶奴、兇奴って表記もあるのが凄いな そりゃ欧米人がフン族の源流だと思っちゃうは 学会が躊躇しているが、もう匈奴=フン族でよくね? もう状況証拠はいやっていうほどそろっているだろ 古代漢語で匈奴のことをフンヌって発音してたし もうほとんど確定じゃん! ローマ帝国臣民側の記述を読むと、外見的特徴が黄色人種そのものだし 確定! オルドスで発見された銅釜とハンガリーで発見された銅釜がそっくりだった件もあるしな >>31 その釜はスキタイなどの西方の遊牧民にも共通だったかもしれない・・・とか難癖つけようと思えばいくらだってできる? >>30 てか、中国ではフン(欧州)を欧州匈奴、アッティラは阿提拉単于って呼んでるようだが、 欧米や中国ではほぼ定説になってるんだろう。 「古代の人は時に病気になったり毒に当ったりと多く苦しめられた。 神農はあらゆる植物を吟味して民衆に食用と毒草の違い、民衆に知識を広めた」 とされており、多くの試行錯誤があったにちがいないが神農はお茶をすすめた 遊牧民が飲むのは団茶といわれて下等な茶葉をレンガのように固め発酵させた輸送用商品 遊牧民には一日三茶ということわざがあり多い人は1年に10キロものお茶を飲むという 中国茶やコーヒーは、文明国トルコがのんでるのみて「おれたち野蛮人も飲みてえ」と ヨーロッパ白人が猿真似して伝播したが、お茶は二系統にわかれており 河北から匈奴遊牧民、インドやロシアに伝わりトルコにつたわる陸路のチャイ系 福建省の海路からオランダ船がいれたティー系の単語になる 日本もチャだからこっちだな >>36 画像全部removedになってるぞ >>37 そんな色の人は日本にもたくさん居るだろ オルドス地方の南匈奴は19の種族によって構成されており、それぞれ雑じりあうことがなかった 屠各種は、歴代単于を輩出し、レンテイ部を中心に、独孤部、鉄弗部をだす 羯も19氏族の一つ いってみればローマ都市国家の時代に、他の国家を軍事同盟国としてあつかい 連合していたようなかたち。彼らは兵を出し税を納める必要がない カルタゴなど強敵がなくなり税を搾取する属州総督の制度を取ることになる アメリカ合衆国も例えられる。米国がひろがると州のほか、フィリピンなど搾取する植民地をもつようになる >>37 イルクーツク南部等、緯度が高い日光が少ない地域だと、 生物学的に色素が減り、黄色人種でも金髪碧眼が発生してくるのかな 興味深い写真だ 朝青龍や白鵬あたりにも、匈奴の血が入っているのかな なんかロマンがあるな 碧眼は約一万年前ユーラシア大陸の中心部、いまでいう南ロシアあたりで発生した。 突然変異が増えた理由は性淘汰とされる 当時は明かりがなく暗い洞窟や天幕で囲う女は明るい色の目がこのまれた。 また暗がりでは若干視力が良いため屋内で一生過ごすなら利用価値もある 緑目もあるが中東に多くまだヨーロッパには多くないため新しく発生したものかもしれない 狄(匈奴の先祖、テュルク系)はオルドスに発生して有史以前のユーラシア大進出をしたのだが もちろんアジア由来の高い文化と軍事技術を持っていた 大陸の人間は欧州や中国を含めて大柄な人間を好む。孔子や劉邦も長身で龍にたとえられた 洛陽の門番は身長2メートルもあり人はびびった。 英仏の貴族が主に北欧の混血をくりかえしたのも貴族は背が高い理由となる 中国も皇后はできるだけ身長が高い女がこのまれたそうだ。背の高い子が欲しいためだ オルドスから南ロシアあたりにせめいった遊牧民は大型な白人と混血し今のトルコ人になる フンのアッチラ大王が平たいアジア顔なのにゲルマン白人王に差別されず迎え入れられたのも 大昔に赤狄(匈奴テュルク系)のユーラシア大進出があったのも理由の一つだろう アッティラは肌は黄色で背が低く短足で頭が大きい鼻は低く、いってみればおまえら だが怪力無双だったという話もある。ここは日本人等と違う 秦の始皇帝も白人的な特徴を持ち胸板が厚くキン肉マンだった という話もある。始皇帝の墳墓からイラン系の人骨が多く出るという 始皇帝の墳墓からってこれか?この記事によると労働者階級だぞ。 ttp://d.hatena.ne.jp/mujin/20060703/p1 紀元前770年に周が犬戎に追われて東遷した際に、秦邑の大夫は周王を護衛した功で 周の旧地に封じられ伯爵として諸侯に加わる とはいえ他の諸侯からは蛮夷であるとさげすまれていた もともと魯国の出であるとされるが、犬戎に囲まれた野蛮の地で同化した ため婚姻なども他の国と異なったし野蛮人との混血も進んだ とくに秦を強国にしたのは9代君主であり、春秋五覇のひとり穆公である これまでの蛮族をみくだす外交を変換して遠くの国にも礼を尽くすように改め 犬戎たちは歓喜し西戎の覇者に成り上がる。これが大国の基礎を置く石である 第28代となった荘襄王も始皇帝の曽祖父で白起将軍が超大国の秦を形成した この王は即位したとき幼少で母親の宣大后が摂政する しかし超大国の秦であっても当時は関西本拠の北半分は蛮族のものである 宣太后は族長と通じて子を何人も産み、油断させ咸陽に招き情事の中で殺したとされる これによって関西地方がすべて秦に吸収という大手柄を立てる 宣太后がいなければ、関西半国の秦では始皇帝の天下はまだ遠いものだったろう 呂后が冒頓単于から「一発ヤりましょう」と手紙もらって激怒したが 季布に「そもそも秦がほろんだのは匈奴対策で人民を疲れさせたためで 世が落ち着いたのに匈奴と戦うのは愚かです」と説かれ諦めてる 中国三大悪女の呂后よりも宣太后のほうが淫乱冷酷さでは上に見える 呂后は政治を私した悪女だけど淫乱ではないからなぁ。 そして匈奴には劉邦存命中でも勝てなかったのに呂后の時代に勝てるわけがない。 淫乱でいうならやっぱり始皇帝の実母でしょう。後宮に男を連れ込んで子供まで作って 息子を困らせた。 アッティラがローマ皇女と結婚して領土を求めたというのも遊牧民の慣例だろうが 金持ち同士で婚姻して財産を膨らますのは一番うまいやり方だ 中世以後はほぼ結婚に寄る集散がドイツ勢力図の塗り替えになる 戦争は非効率だから呂后もひとつがまんしてもらって単于と寝ていただくのがいちばんだね 狄はチュルクの音訳に、悪字を充てたって説は有名だけど、 戎はフンの音訳に、悪字を充てたってことはないの? >>55 中国人(漢民族)は現在も大昔も、中華思想だから当然悪字を充てているでしょう 狄、戎なんて、蔑称そのもの 中国人め、いつの時代も尊大な上から目線で周辺を見下しやがって! っと、東夷であり倭奴の末裔である日本人の俺はそう思うわ >>56 Λ_Λ <=( ´∀`) ( ) 俺は日本人だし・・・・ | | | 〈_フ__フ Λ_Λ < ;`Д´> あ… ( )ポロ | | | ヽヽ (__フ_フ =( ´∀`) 中原の諸侯からみれば秦こそは犬戎の親玉 さらに周王そのものが陝西の奥の一族とみられ 姫発つまり武王が商を倒したことで天下を取る 都は鎬京、長安の古名である おそらくまわりは犬戎でいっぱい、それどころか周も犬戎の親玉だろう 周代の貴族は羊の革の服を着て羊肉を食べていた どうみても先祖は羊飼いそのもの 周王の権威を誇る魯国は孔子を産んだが しかし支配貴族は革服を着て羊肉を食べていた なお羊肉は高価で庶民は犬肉で代用する。これを羊頭狗肉という 羊頭狗肉は「羊頭を懸げて狗肉を売る」なんだから”犬肉で代用する”では意味が違うだろう。 >>55 >>56 771 BC Huns (Ch. Jungs) invasion of Zhou China. Zhou capital Hao falls フン(中国語 戎)が、中国・周に侵入、周の都・鎬京陥落 ってあるね フン族デートライン http://s155239215.onlinehome.us/turkic/70_Dateline/71_Huns/hun_dateline_1_En.htm >>60 話は脱線するが、その英文だけでも、 もうすでに、フン=匈奴と認めるようなもんだね 残された謎は、モンゴル系かチュルク系かどちらかだ モンゴル人は気にしてないが、トルコ共和国のトルコ人にとっては 歴史教育に関わる重大な事柄だw 犬戎なり北狄なり遊牧民・羊飼いとたいして先祖は変わらない周王だが 文字文明をもつ中原と無文字文化の蛮族の違いは何処かといえば 周邑が発祥地になったと伝えられる。孔子が誇る文明人はまさに周王たちだ 邑とは、木製の枠をつくり、そこに砂や石を投げ入れて突き固めて作った城壁 後漢でも農民がこのような砦を急造したとされるので動乱から身を守るもの この城壁に囲まれる都市が周邑や秦邑であり、内部で文化を発展させる 日本では城塞都市はほとんど発達しないがモスクワもロンドンももとは城塞だ カエサルのガリア戦記でも蛮族は木枠に石を投げ入れ城壁を作ると描写され どうやって学んだのか知らぬが固い壁だとローマ人は褒めてる。もとはアジア由来だろう 多くの邑は王様がいた。だが時代が下ると大国の傘下に入り征服されて 大国の役人が派遣されて治めるようになる。これが県と称する 県(懸)の文字は罪人の首を糸で吊ってさかさにぶら下げるさまを指す むかしはこれが国境のしるしだったそうな 周辺の無法者の首を切って下げるのか?征服された前王様の首か(ヒェッ) こいつら周王軍は革ジャン着て北斗の拳の拳王軍みたいですな 増加するイスラム移民に反対するドイツ人は移民キャンプにたいして 金網で壁を作りなかに石を投げ入れ城壁を作るとされてる ドイツ白人は恐らく先祖のゲルマンの知恵だとほこってるだろうが この壁の製法は東方アジアがもたらしたものだろうな ドイツの民族服は革パンツ。北欧も革パンツを愛用する このパンツは頑丈で一生使えるが一生洗わないので垢まみれで臭い 戎服とは中国風の軍服であり革で作られた鎧。 犬みたいな鼻筋の通った人間が軍服を着てるのが犬戎の蔑称だから トルコ系・イラン系の血が濃いのです 史書によれば匈奴の羯族は鼻が高くひとめで区別つくそうで だいたい当時には革の軍服をきた鼻の高い奴らが多かった >>61 匈奴どころか、犬戎もフンだと言ってるwww イギリスや日本は長弓ロングボウをこのんだ また東方の異民族を意味する東夷とは、人が大きな弓をかまえる姿を指す絵文字 おそらく狩猟民は西部劇のカウボーイのように大きな弓をもっていたため 中原の都市で異風を放っていたのだろう 遊牧民は動物の腱を貼り合わせた合成弓をつかっていた 長弓よりはるかに優秀で二倍の威力がある スキタイや匈奴やフン族などこれを得意とした。 古代エジプト人が弓を重んじたとされたがケルト人は軽視し戦士は持たず 非力なものに持たせた。ゲルマンはフン族から合成弓を学んでケルト人を圧倒 西欧史ではエジプト古王国にあらわれるヒクソス人がアジア遊牧民で合成弓を携えていた 約4000年前のことである ヒクソスは「異国の支配者」を意味する古代エジプト語で第15王朝を立てる 当時の人名についても東方の要素が見られており、ヒクソスと「アジア遊牧民」に 強い繋がりがあったこと自体は疑う余地が無い >>65 ヒクソスって、じゃあ、黄色人種だったんだろうか? それとも、ヒッタイトのように単にカスピ海南部の方から南下してきただけで 民族インド・アーリア語族だったように白人なんだろうか いろいろ想像が広がるな 動物の腱を貼り合わせた合成弓は動物を解体したり 手間もかかり解剖知識も要ったので遊牧民の秘伝で 農耕民にはつくれない 最強のはトルコ弓で600メートル飛んだ テュルク族の起源はオルドスの狄だから遊牧のエリートと言えよう そもそも弓手はかなり鍛錬が必要であるが原始的なアジア狩猟民は 弓手をあつめるのは容易でそれがモンゴル帝国の原動力だったとされる 極めて高価だが東ローマ帝国のように購入していた例もあるが 遊牧民の弓は農耕民にはとても扱えぬことも有り 冶金発達した東南アジアでは 強力な機械弓の弩・クロスボウが発明されて 斉の国などは孫子の指導でいちはやく弩を大量採用 遊牧民の強弓に対抗するため機械弩は中原国家に標準採用される イタリア都市国家もクロスボウ傭兵に専念した 日本も弩は伝わるが高価なためすたれる >>66 ヒクソスは武力で侵攻したというよりも移住してきて定住したアジア系が力をつけて政権を奪取した のではないか、とも言われている。アジアといってもシリア・パレスチナあたりにいた西セム系と考えられ ていて、旧約聖書に出てくるヘブライ人のエジプト移住がこの時代ではないか、とも言われている。 ヒクソスの中にヘブライ人が含まれてるんじゃないかという事ね。 ヒクソスについての記録はヒクソスを追い出したエピプト人に依るものなので実際以上にヒクソスを 敵視して書いてるんではないか、という疑いがある。 ヒクソスは「海の民」と並んで正体不明の民族だからねぇ。 エジプトは、北部の海に近いほうが下エジプト、内陸が上エジプト 現在もそうだが都市人口は下エジプトが多く上エジプトは農耕主体で保守的 下エジプトでは異民族ヒソクスが信仰した邪神セト神が隆盛を極める エジプトのラムセス王朝は下エジプトの出の軍人でセティ一世(セトの王)が即位 セト信仰を復活させたため、ラムセス家はヒクソスではないかとも言われる ラムセス王のミイラから調査するとずば抜けた長身2メートルですごいワシ鼻で黒髪の巻き毛 確かに小柄でハゲと言われる当時の貧弱なエジプト人らしくない >>71 >エジプトは、北部の海に近いほうが下エジプト、内陸が上エジプト ナイル川が基準だからな。 >下エジプトでは異民族ヒソクスが信仰した邪神セト神が隆盛を極める セト信仰自体は古くからあって第2王朝のファラオがセト・ペルイブセンと名乗ってたりする。 ヒクソスがアジアの嵐の神バアル信仰を持ち込んでそれがセトと同一視されるようになった。 考古遺物からヒクソスと思しきアジア系が住み着き始めたのは第12王朝の頃と思われる。 下エジプトを支配したヒクソス政権を第15王朝、その支配を受け入れた諸侯をひとまとめにして 第16王朝と呼ぶ。テーベを中心に上エジプトを支配したのが第17王朝。第17王朝はある時期まで ヒクソスの支配を受け入れていたが力をつけるとヒクソスに戦争を挑むようになった。そして ヒクソスを追い出して全エジプトを統一したイアフメス1世以降を第18王朝と呼ぶ。この第18王朝の 末期がツタンカーメン王の時代である。ツタンカーメンの父アメンヘテプ4世は当時信仰の中心で 権力を握っていたアメン神官たちの力を削ぐためにアマルナ革命と呼ばれる一大改革を断行した。 アメン信仰をやめて新しい神アテンを崇めよといい、自分の名前もアメンヘテプからアクエンアテンに 変えた。しかしアクエンアテンが死ぬとアメン神官たちの巻き返しが始まり若い王も名前をツタンカーテン からツタンカーメンに変えざるを得なかった。そんなこんなで第18王朝の血統は混乱のうちに死に絶え 最後のファラオ(彼も軍人出身だった)の親友にして腹心だったラムセス1世が即位して第19王朝が始まる。 「海の民」はギリシャのアカイア人、イタリアのエトルリア人、サルデーニャ人など 地中海人種のすべてがまざった海賊だったようだ ミケーネ文明を断絶させて陸軍国ヒッタイトを滅ぼし老大国エジプトにも大攻勢をかけ あとかたもなく消えたなぞの民族だ。 ただ後にアレキサンダー大王が今のレバノンに当たる都市テュロスに艦隊包囲を しかけて7ヶ月かけて破壊したこと、 多くのギリシア文学にバアル信仰や人身御供などの風習を持つ残忍な海賊として 登場したのがテュロス人だったことは広く知られてるので、少なくともレバノンが 海賊の根拠地だつたことは疑う余地がない 歴史の上ではアレキサンダーに攻撃されそれ以後は壊滅してる バアルは雷神だから遊牧民独特の天空神と同系だ ヒクソスもバアル信仰は持っていたようだが、牡牛の銅像のなかで高貴な子供を 火あぶりにして愉悦するような奇怪な儀式も行っていたのだろうか 西欧では邪神セトはデビルあつかい、悪魔信仰とされてるね 嫌悪されてるバアル信仰だが旧約聖書でのユダヤ人は隠れて信仰するものが多かったとされてる いや〜 このスレは世界史の勉強になるなぁ 読んでいて面白い 難しいなぁ。セト自体は邪神では全く無いと思います。同一視されたバアルが旧約聖書で 約束の地カナンの現地民(カナン人)に深く信仰されていた。そしてユダヤ人の中にもそれを 受け入れる者が出てきたことから余計に敵視され避難された。それが後のキリスト教世界で バアルが悪魔視された原因でしょう。邪神としてのセトについては俺はそこまで悪魔学に 詳しくないのでわからんです。 人身供儀については旧約聖書に「イサクの燔祭」という説話があってアブラハムは神の お告げで愛する我が子イサクを犠牲として捧げようとします。伝統的にこの説話は当時 普通に行われていた人身供儀をやめさせるために神が試練を与えたと言われてますが 仮に神が止めなかったらアブラハムは息子を殺してたわけで、バアル信仰のそれと何が 違うのかと素人考えでは思うのです。 >>73 ヒャッハーはフン族だけじゃなかったな 海の民の海賊のほうが上じゃないか?w 日本でもそうだが船乗りは迷信深いもの 嵐にあうと人身御供して祈るというのは古事記から知られてる 入れ墨してると溺れないという迷信もあり英国の水兵が 腕に刺青してるのはこの信仰から 海の民にかぎらず初期の貿易商人は武装船だし そのほうが儲かるとわかれば簡単に商船おそう海賊船になる 商人と海賊が曖昧なわけだが日本も戦国時代はそんな感じ 嵐の神バアルに犠牲を捧げるという儀式は 海賊の琴線に触れるものだったろうし 熱狂的なバアル信仰となればおおくの地中海の雑多な人種が連合して 大艦隊をなしてもふしぎではない 海からの攻撃に未知だった当時の帝国が滅んだのも理屈は通る >>74 ネタをネタと見抜けない人に2chは向いてない コイツはアスカくんといってレスの内容はでたらめもいいとこだぞ 日本人は漢字文化の中国に影響されがちだが もちろんそれは都合の良い捏造史であってひきこもりの書いてるノートみたいなもの 中国やエジプトのような象形文字の連中はアジア遊牧民を見下していたようだが 地球上を広く覆っていたのは無文字の遊牧民 地理人種的にもほとんど縁がなさそうなアフリカ黒人でも大帝国は遊牧民がつくる ソンガイ帝国マリ帝国、アフリカではいまでも遊牧民は非常に多い 人種はともかく文化的な繋がりは中東とあったようだ 狄がトルコに移動したように地球半周など わけもない連中なので地球上あらゆるところに馬を走らせ遊牧文化は伝播した 汎地球文化と言っていっていいのではないか >>79 同感です 俺も漢民族の文明より、モンゴル高原やオルドス峡谷あるいはソグディアナ盆地に起源を発する 遊牧民族にロマンを感じる 想うに、漢民族は文字を発明し記録を頻繁に残すことによって、 後生の歴史家に影響力が大きく、 そのため、漢民族と敵対した遊牧民をことさら蔑む表現や野蛮、 残忍、無知というレッテル貼りが容易に出来た。 そのため、本当の実態以上に漢民族と対立した周辺民族が ことさら悪く書かれているに違いない。 我々、大和民族(日本人)は遊牧民じゃないが、同じく文字を持たない民族だったため その時点で蔑む印象づけが漢民族により行われてしまった。 ただ、文字を獲得してから民族の歴史をさかのぼって記述(古事記など)して、 自文化内だけであったが漢民族側のネガティブな印象づけを払拭することができた。 上エジプトの保守的な農民が下エジプトの下品なセト神やら アジア遊牧民にいだいた嫌悪も同種のものでしょう 古来エジプトの文化は誇り高い しかし世界を股にかけたアジア遊牧民にすれば笑止 自分らは遥かに高い文化背景がある 匈奴鉄弗部の出身赫連勃勃は、匈奴王の直系にふさわしく 容姿は抜群に美しく、その学問と見識は多くのひとを心酔させた 後秦姚氏をほろぼし北魏と対決し、天下をにらみ オルドスの中枢に統万城をたてた しかし赫連勃勃は快楽殺人マニアとして知られており 常に弓と剣を側に置き、気に障ることがあればその者を殺した。 直視する者がいればその目をつぶし、笑う者がいればその唇を裂き、 諫言をする者がいればその舌を切り、それから斬り殺した。 羊飼いをしたがえ家畜をしめるもうまく、戦争も上手い遊牧民の王と、 臣下の無能や堕落をのみこむ農耕民の聖王としての資質が同じものかと言えば むずかしい 大国を支配するものにはある程度の鈍感さや度量の大きさが必要であるが 無用の羊は殺してしまえというのが決断力を持つ遊牧民というもの エジプトにアジア遊牧民が嫌われたのも統治手法に違和感があったのかもしれない 大匈奴帝国の単于を主人公にした壮大な戦争ものの映画をハリウッドで制作してくれないかな 敵は漢民族の中原の王国 なんでハリウッドw 冒頓単于の父殺し辺りは絵になるかな 死んだ兄の嫁を弟がもらうレビラト婚はイギリスから日本まで広く見られる 女を使いまわすそれだけ女を大事にしたともいえるが とくに匈奴(赤狄)・チベット族(犬戎)に多く唐・金・清の王族にもひきつがれる 晋の文公は最初は拒否しつつも秦公女とレビラト婚をしてる なお儒教が浸透した江戸時代では嫌悪された 島津家久などの例もありふるくから下層民は好んで行ったとされる 戦争中ドイツ兵は「フン」匈奴の蔑称でしられた アッチラ大王は多くのゲルマン人を従えてフランスに進撃した 大王の臣下であったチューリンゲン族は現在のドイツに定住してドイツの祖先とされる フランスで多くの暴行狼藉を働き恨みを買い のちにフランクは復讐としてチューリンゲンの乙女を車裂きの刑にかけた ついこのあいだまで世界最大のワーゲン社の会長ピエヒ氏はポルシェ博士の孫である ポルシェの姓は東欧のボリスが由来であり匈奴のバートルつまり勇者を意味する ドイツでは身分が厳しく最も尊敬されるのは(世襲の)大企業経営者か司教のような聖職者 すなわち身分制度の厳しいドイツ最高の名家が匈奴だったというわけだ アッチラ大王は当時の正義心を体現した徳の高い騎士王として北欧では絶賛されており 野蛮なヨーロッパに騎士道精神にもたらし発明したのはこの人ともされてる これも遠いオルドスや中国で培った徳だろうか >>89 なんか俺が高校時代に習った話とずいぶん違うフン族の評価だね フン族=匈奴(おそらくほぼ間違いない)だとして、 匈奴もたびたび中国の中原農耕民居住地帯を襲い、 農村を荒し、穀物、家畜、女子供をさらい、農夫の男どもを皆殺しし、 恐怖と殺戮を与えた悪魔として記録されている とても、高貴な倫理観を持った慈悲深き征服者ではない あと、フランク族もゲルマン民族だから チューリンゲンと同族だよ 古代ローマ時代西暦0年頃の居留地はライン川の東方、現在のドイツ フランスとドイツの違う部分は、もちろんゲルマン人とガリア人という違いはあるが フランスは早くから文明国ローマの属州ガリアになっていた点が異なる ローマ人は争いは裁判となる 弁護士の職業も古くローマの政治家は弁護士あがりが多い(アメリカのオバマ大統領も同様だ) キケロやカトーが有名だろう ローマの法律は厳しくだからこそ恐れられた ところでライン川を越えてゲルマンは私闘で決着を付けていた 短剣を持ち歩くのが常識でアングロ・サクソンのサクソン人などはこの短剣に由来する フランク族がガリアに侵入するとほしいままに隣人の目を潰し娘を犯した 被害者のガロ・ローマ人も10年もすれば短剣を持ち歩き目を潰し娘を犯した と司教グレゴリウスは嘆いてる この私闘の風習は中世騎士の時代までずっとつづいた しかしフランス人は、ブリテンやドイツのような北辺の野蛮人と違ってまともな文明があり 文化的に優越してるフランス国という自負はずっとつづいてる。 またじっさいフランスの犯罪率もドイツや英国よりずっと低いのだそうだが・・ もっともフランスが嫌ってるのはベルギー人だそうだ。知能指数が低いとかナントカで 当然ベルギーもフランスを嫌ってる >>91 貴殿はフランス好きのお方かもしれんが その見解は間違っている 俺が欧州に旅行いったとき(20年前)の感想だけではなく実際の統計データでも フランスの方が治安が悪く、特にパリは怖かった(移民が多いせいもあったが) 一方、ドイツは比較的治安が良好だった パリはゴミが多かったし、犬の糞も目立った フランクフルトは、そんなことなかったよ 国民性からいってもドイツ人の方が規律正しく、フランス人は適当って感じ フランスはヨーロッパの大半の農耕好適な平原をしめる大国で 山ん中で厳寒で土地が痩せてるドイツよりずっと豊かだった ドイツで豊富に取れるのは低品質な泥炭ぐらいなものだ ルイ王朝時代はドイツ人と言えば、パリでは街の掃除人やったり 家政婦として巨乳で不倫したり、出稼ぎ労働者と思われた フランス王はドイツ傭兵を採用してた。命の危険のある兵隊とは言え まずしい故国では考えられぬ魅力あるしごとだった しかしフランス革命でドイツ兵は王党派と考えられて仕事を失った かれらは米国に渡った。げんざいでもアメリカでドイツ系白人が多いのはフランスで 家政婦の仕事にあぶれたドイツ女性が大挙して移民し子をうみまくったから 植民地の悩みは何と言っても白人女が少ないことだから白人家政婦は歓迎される ルイ王朝というあまり使わない用語を使っていつの話なんだか。 ドイツという国家ができるのはかなり後のことだけど。 >>89 ボリスってドイツやロシアなどで人気のある男子名だけど、 これもバートルからきてたのか? 知らんかった モンゴルでは勇者バアトルは有力な指導者の称号でカアン(王)の下に位置する ジンギスカンの父がバアトルだから、数百人の遊牧民を集められる経済力 10万石の大名クラスかね。清ではバートルの称号は管理されて世襲の大貴族のみ与える称号になる ボリスの名前は第一次ブルガリア帝国のハーン、ボリス一世が西洋では遠祖とされる ブルガールというのはアジア遊牧民で完全なモンゴロイド この本家はやがて他の遊牧民に吸収されて大部分はハザールに従属しユダヤ教になったという ブルガール汗の3男が西洋に侵入してギリシャあたりに第一次ブルガリア帝国をたてる 3男の配下はほとんどテュルク人とスラブ人になっていたが、ブルガリア国の20代国王 ボリス一世が重要なのはギリシャ正教を保護して国教化したことだ 南スラブ人の間に正教がひろまりロシアなどでもボリス一世は聖王として重要人物になる ボリス・ゴドゥノフなどのちのロシア人にも多く出てくる名前になる あえて比べるのなら戦国初期までの五千石くらいが良いかなと思う >>96 現在のモンゴル共和国の首都がウランバートルというが、 そうなると勇者の何とかという意味なのかね しかし、フン族がそのバートルというモンゴル語を使用していたとなると ますますフン族=匈奴=モンゴル民族という解釈に正当性がおびてくる トルコ人には申し訳ないがw 大丈夫 トルコの民族主義者はモンゴル人もトルコの支流の一つとみなしてるから >>89 >>95 デタラメいうのもいい加減にしろ! ボリス Борисの由来はブルガール語で「狼」「短い」「雪豹」もしくはイラン系で「神のような」という意味の説が有力だ https://en.wikipedia.org/wiki/Boris_ (given_name) The most common theory is that this name comes from the Bulgar language with meanings according to the different interpretations: "wolf", "short" or "snow leopard".[2] Some authors, who support an Iranian theory about the origin of the Bulgar language derive "Bogoris" from the Iranian word "bog", which could mean "godlike".[3] ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.4.7 2024/03/31 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる