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ドイツ国家成立の歴史 [無断転載禁止]©2ch.net
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0001世界@名無史さん垢版2017/05/22(月) 07:12:25.440
ドイツ国家成立の歴史に絞って語りましょう。
なぜならドイツ国家成立の歴史が他のヨーロッパ諸国の国家成立の歴史の中で一番面白いと思うからです。
0002世界@名無史さん垢版2017/05/22(月) 08:32:04.270
うんこは美味しい
0004世界@名無史さん垢版2017/05/22(月) 22:15:57.940
オーストリアの排除から始まる歴史でしょ?
大ドイツ主義私から見れば非常に微妙だね
0006世界@名無史さん垢版2017/05/23(火) 04:39:22.740
(´・ω・`)知らんがな
0007世界@名無史さん垢版2017/05/23(火) 14:55:47.890
>>5
近代ドイツ国家建設前史のようなものだろ
神聖ローマ帝国というのは我々が一般的にいう「国家」というよりも領邦という名の「国家」の集合体に過ぎない
その中の一諸侯であるホーエンツォレルン家が自立してバイエルンやザクセンなどの諸侯を屈服させてオーストリアのハプスブルク家を排除したのが私たちよく知っている現在のドイツ
0008世界@名無史さん垢版2017/05/27(土) 16:53:34.430
フランス語では長らく、ドイツのことを複数形の Les Allemagnes と称していたが、これはドイツが
数多くの領邦で成り立っていた時代が長かったことの反映である。
0009世界@名無史さん垢版2017/05/27(土) 18:02:38.280
仕事より人のあら捜しに夢中のゲスイ奴
街中みんなのお笑い草だぜ バカヤロ様がいる
弱い奴には強く出て 強い奴には媚びへつらい
店長崩れのニセモノは
仕事も人望も紛い物
人には厳しく自分には甘く ケジメも無しとする 
何でもすべての事が人任せで それでも良しとする

大学行ってもクズだから 常識なんかは通じねェ
相手を選んでハラ立てて
得意の火病はお手のモノ

今は君のために飲もう 僕も風と共に行こう
すべての人に 懺悔しな!!
https://www.facebook.com/katsuyuki.kida.923
0010世界@名無史さん垢版2017/05/28(日) 06:38:38.100
ビスマルクのおかげ
0011世界@名無史さん垢版2017/05/28(日) 11:10:07.41O
ウィルヘルム一世は栄光あるプロイセン王国がドイツ帝国に埋没するのが口惜しく、
ドイツ皇帝に即位するのを前日に至るまで拒否してたらしい
それをなだめて即位させたのはビスマルクの功績
0012世界@名無史さん垢版2017/05/28(日) 20:39:57.330
>>5
ローマ帝国っていうだけあって、最初は西ローマ帝国の継承者だった

中世の前期には、ドイツからイタリアにまたがる独伊帝国だったが、
後期にはイタリアから排除されてドイツ帝国となり、
さらに北ドイツからも排除されてオーストリア帝国になった
0013世界@名無史さん垢版2017/05/28(日) 20:41:14.840
古代の西ローマ帝国でも、ガリア出身者が皇帝になるのはよくあることだったので、
ゲルマン人が皇帝になっても別におかしくない
0014世界@名無史さん垢版2017/05/31(水) 22:16:25.560
いや神聖ローマ帝国とプロイセンドイツとの連続性はないと思うぞ
0015世界@名無史さん垢版2017/06/02(金) 03:08:27.910
ドイツ国民って何ですか?
0016世界@名無史さん垢版2017/06/02(金) 06:08:03.700
>>14
そりゃそうだ

神聖ローマ帝国とつながっているのはオーストリア帝国だし、
バイエルンをはじめとする南ドイツ諸国であり、
ミラノをはじめとする北イタリア諸都市
0017世界@名無史さん垢版2017/06/02(金) 06:34:42.700
日本でいえば薩長が天皇をたてて独立し薩長天皇独立国家と江戸幕府国家が並立しているようなものだ
0018世界@名無史さん垢版2017/06/02(金) 21:51:46.720
プロイセンはドイツ騎士団がつくった国じゃん

スラヴの血も濃いし
0019世界@名無史さん垢版2017/06/02(金) 23:22:25.390
プロイセンやオーストリアは薩摩藩松前藩に近いな
0020世界@名無史さん垢版2017/06/02(金) 23:53:39.060
プロイセン王国には忠誠を誓うがドイツ人の国家であるドイツ帝国には忠誠を誓いたくないポーランド人がいた
0021世界@名無史さん垢版2017/06/03(土) 05:24:33.020
確かに、プロイセン王国は、地理的位置からすればポーランドの王朝だな
0022世界@名無史さん垢版2017/06/03(土) 08:45:07.090
ブランデンブルグ辺境伯に過ぎないホーエンツォレルン家はドイツ騎士団領を継承しここにプロイセン王国を築いたのは大きい
しかし、この地がポーランド回廊という土地を挟んで飛び地になったのは後のヒトラー政権によるポーランド侵略という事態を呼び起こすきっかけにもなった
0023世界@名無史さん垢版2017/06/03(土) 09:18:46.320
プロイセンは軍国主義国家として発展したため、軍隊やさまざまな職業あるいは組織に
厳しい規律が与えられてきた。
全国民がまるで工場にいるかのように、機械的に管理されていた。
中産階級は、貴族や官僚と労働者の板挟みになり、支配秩序をくつがえすような
大胆な行動には出られなかった。
そしてプロイセン中心に1871年にできたドイツ帝国では、その統一が三つの戦争の
おかげで達成されたために、軍隊の威信がさらに大きなものになった。
0024世界@名無史さん垢版2017/06/03(土) 09:25:43.200
「プロイセンは国家ではない。国家つきの軍隊である」

誰の言葉だったか忘れたが
0025世界@名無史さん垢版2017/06/03(土) 09:40:22.890
ブランデンブルク辺境伯が戴冠してプロイセン国王になれたのは、
18世紀初頭のスペイン継承戦争での貢献が認められたおかげ

同じ頃、ロシアのツァーリのピョートルも皇帝になった
0026世界@名無史さん垢版2017/06/03(土) 09:43:08.640
同じ頃に、サヴォイア公も戴冠してサルデーニャ国王となった

後の、ドイツ統一とイタリア統一の出発点
0027世界@名無史さん垢版2017/06/03(土) 12:07:50.440
そもそもブランデンブルグ辺境伯とプロイセン(ドイツ騎士団領)が結び付いたきっかけって一体何だったんだろ?
0028世界@名無史さん垢版2017/06/03(土) 13:03:41.210
薩摩藩には忠誠を誓うけど大日本帝国政府には忠誠を誓いたくない琉球人ならいそう
0029世界@名無史さん垢版2017/06/03(土) 13:35:33.090
>>27
Wikipediaのブランデンブルグ辺境伯、プロイセン、ドイツ騎士団を併せて読んでくれ
0030世界@名無史さん垢版2017/06/03(土) 13:43:21.930
国家と民族というは別物で当たり前なんだよな本来は
外国人を大きく抱えた日本の藩は少ないので想像しにくいけど
0031世界@名無史さん垢版2017/06/03(土) 13:53:22.640
<ホーエンツォレルン家>
ニュルンベルク城伯→ブランデンブルグ辺境伯→ブランデンブルグ選帝侯→プロイセン国王→ドイツ皇帝


<歴代ブランデンブルグ辺境伯>
アスカーニエン家→ヴィッテルスバハ家→ルクセンブルク家→ホーエンツォレルン家
0032世界@名無史さん垢版2017/06/03(土) 13:54:48.880
要するに日本で例えるなら南部氏みたいなもんだろ
先祖は畿内出身
0033世界@名無史さん垢版2017/06/03(土) 16:07:42.760
薩摩藩主の島津家が、琉球国王を兼任するようなもんだな

日本の国内では一藩主だが、国際社会では王家として振る舞う
0034世界@名無史さん垢版2017/06/03(土) 16:43:58.070
統一ドイツ帝国では、産業化も軍人貴族や宮廷貴族の指導によって進められ、
ブルジョワ企業家、資本家たちの所業ではなかった。
市民階級が徐々に台頭するとはいえ、それは士官候補生試験に合格した者たち、
軍人貴族の態度・規範を模倣する者たちで、彼らも貴族化していく。

名誉を傷つけられたら決闘せねばならない、という名誉第一に考える気風が
市民たちにまで広がり、ひいてはそれがドイツ人の行動様式の伝統となっていく。
0035世界@名無史さん垢版2017/06/03(土) 16:53:36.990
まあ、南ドイツなんかノンビリしていて、我々が考える「イタリア人」のイメージに近いもんなあ

それに比べて、プロイセン人は基地外じみている
0036世界@名無史さん垢版2017/06/03(土) 17:04:32.740
それを言ったら、日本だって、西日本はかなりアジアっぽい

日本人に特有の気質が強く感じられるのは、やはり東日本の人間
0037世界@名無史さん垢版2017/06/03(土) 17:12:31.240
日本を統一したのは、薩摩と長州だったが
0038世界@名無史さん垢版2017/06/03(土) 18:29:31.590
薩摩は東日本文化なんだよね
0039世界@名無史さん垢版2017/06/03(土) 18:45:23.160
源頼朝が、島津氏を守護として送り込んだ
0040世界@名無史さん垢版2017/06/03(土) 21:59:30.950
>>33
それか松前氏がアイヌモシリという国家を作ってそれの王になるとかな
0041世界@名無史さん垢版2017/06/03(土) 22:12:45.840
>>34
遅れた体育会系の地域が主導権を握った、ということでは
やはり薩摩藩みたいじゃないか
0042世界@名無史さん垢版2017/06/03(土) 22:45:07.74O
スマートなプロイセン王国のままでよかった
肥大したドイツ帝国以降は、二度の大戦に敗れてロクなことない
0043世界@名無史さん垢版2017/06/03(土) 22:50:25.930
ホーエンツォレルン家がここまで大きくなるとは当時誰が予想しただろう?
0044世界@名無史さん垢版2017/06/04(日) 00:27:11.460
>>39
中世の西洋でいえばフランク王国が各地にグラーフ(伯)を配置したようなものだな
そして彼らは自立しその地の豪族と化する
0046世界@名無史さん垢版2017/06/04(日) 01:48:21.770
>>35
カトリックとプロテスタントの違いもあるだろうね
南ドイツは食べたり飲んだりすることにドイツ人の中では関心あるしケーキ美味しい
0047世界@名無史さん垢版2017/06/04(日) 02:59:12.240
マックス=ウェーバーが出版した『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の影響もあると思う
0048世界@名無史さん垢版2017/06/04(日) 09:27:33.900
欧州のカトリック地域では美食のほかにオペラも栄えた

ヴァーグナーのパトロンになってバイロイト劇場まで建ててやった
ルートヴィヒ2世はバイエルン国王
0049世界@名無史さん垢版2017/06/04(日) 11:07:58.170
ザクセン地方のバッハ
エスターライヒのモーツァルト
ノルトラインヴェストファーレン地方のベートホーヘン
0050世界@名無史さん垢版2017/06/04(日) 14:57:01.100
オーストリアはなぜドイツを統一することができなかったのかな

あの国は軍隊も弱かったみたいだけど
0051世界@名無史さん垢版2017/06/04(日) 17:14:11.550
普墺戦争でプロイセンは電信で通信していたのに対しオーストリアは伝書鳩で通信していたらしいからこれじゃ勝てんわ
0052世界@名無史さん垢版2017/06/04(日) 17:51:07.010
>>50
そもそも、国民国家という観念がないから統一しようと思っていない
0053世界@名無史さん垢版2017/06/04(日) 18:33:42.360
大ドイツ統一 vs 小ドイツ統一の論争の末だな
0054世界@名無史さん垢版2017/06/04(日) 18:37:37.250
オーストリアを含めて統一しようとしたら
ボヘミアやハンガリーをどうすんべ?
てことになりますわな
0055世界@名無史さん垢版2017/06/04(日) 19:26:30.290
>>50
ハプスブルクはドイツ本体よりも対トルコ防衛という意味でハンガリーやチェコなど東欧に目を向けていたからな
ドイツにはうるさい諸侯だらけで難儀したけどチェコやハンガリーの貴族はハプスブルクに忠実だったし
0056世界@名無史さん垢版2017/06/04(日) 19:27:41.940
>>54
日本も琉球台湾朝鮮を併合したよ
0058世界@名無史さん垢版2017/06/04(日) 22:52:35.48O
オーストリア帝国は、
イスラム教徒やセルビア人が多く統治が難しいボスニア・ヘルツェゴビナを併合したのが運の尽き
挙げ句、皇太子がセルビア人に暗殺されて大戦争に敗北して崩壊
ボスニア含むバルカン半島なんて、トルコ領のままでよかった
0059世界@名無史さん垢版2017/06/05(月) 14:00:19.400
ドイツで生まれたからドイツ人なのではなく、ドイツ人が住んでいるからドイツ国
ドイツ人の言語だからドイツ語なのではなく、ドイツ語を喋るからドイツ人
0060世界@名無史さん垢版2017/06/05(月) 19:29:30.520
北ドイツ連邦ができた後、南ドイツ連邦を作る構想もあったんだが、
オーストリアがオーストリア=ハンガリーの二重君主制となったので、
南ドイツ連邦は結成されず、
バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデン大公国がプロイセンと
軍事協定を結び、プロイセンないし北ドイツ連邦との結びつきを強めていく

個人的にはカトリック的なドイツも見てみたかったが
0061世界@名無史さん垢版2017/06/05(月) 19:52:17.290
ドイツは小都市国家連合をよく統一できたね
0062世界@名無史さん垢版2017/06/05(月) 20:03:43.240
>>58
イギリス・フランスに負けじと、ロシアまでが海洋進出していた時代

海が欲しかったのは理解できる
0063世界@名無史さん垢版2017/06/05(月) 20:05:40.430
イギリス・フランスに比べて、ドイツの統一が遅れた最大の原因は、
森林が多かったため、国内の移動がしにくかったこと
0064世界@名無史さん垢版2017/06/05(月) 20:46:15.930
シュタウフェン朝とかはその気になれば統一ドイツ王国を建設できたんだろうか?
イタリア政策が悪かったと言うが、
シュタウフェン朝の王からすると他のドイツ諸侯に差をつけるためだったのかもしれんし
0065世界@名無史さん垢版2017/06/05(月) 21:38:15.710
バルバロッサ大帝は、北イタリアの諸都市の反乱鎮圧に苦戦したのが史上に名高いんだが、
実際には、北ドイツの諸侯の反乱にも鎮圧軍を送って同じように苦戦している。

後世から見ると、前者は「イタリア侵略」であり、
後者は「ドイツの内乱」と見えるのだが、
バルバロッサ本人にとってはどうだったか。

当時の北イタリアにいたのは、ゲルマン系のランゴバルト族。
当時の意識としては、同じゲルマン同士の争いだっただろう。
0066世界@名無史さん垢版2017/06/05(月) 21:49:00.750
次世代のフェデリーコ皇帝に至っては、シチリアに本拠を置き、
イタリア統一を目指して奮闘していた。

ドイツ統一を目指していた形跡はない。

シチリアとベルリンは、東京とカムチャッカ沖くらい離れている。
インターネットはもちろん、電話やテレビすらない時代に、
とても本気で興味を持てるような距離ではない。
0067世界@名無史さん垢版2017/06/05(月) 22:00:41.190
>>60
なるほど、連衡策が失敗失敗して、合従策になっちゃったわけか
0068世界@名無史さん垢版2017/06/05(月) 22:18:31.180
コンラート4世の後、大空位時代(1254〜73年)に突入し、
君主なしの時代が続いたのも痛かった
0069世界@名無史さん垢版2017/06/06(火) 00:23:03.310
お前らなんも知らんのな
マクシミリアン1世の帝国改造が宗教改革の新旧教対立によって失敗したから混乱したんだよ
宗教改革がなければある程度まとまった連合国家になってたはず
マキャベリもドイツは帝国改造によって連邦国家になったと褒めてたからな
神聖ローマは日本と似てる面があって
皇帝は幕府より巨大な勢力もってたけど(国内における天領より神聖ローマにおける皇帝領の方が大規模)
隣国のフランスの介入によって幕府みたいに大名を完全に屈服させることができなかった
0070世界@名無史さん垢版2017/06/06(火) 00:26:42.820
まぁそれでも皇帝は上位の司法権や臨時の軍税徴収権もってたけどな
0071世界@名無史さん垢版2017/06/06(火) 01:10:49.790
>>68
>君主なしの時代が続いたのも痛かった

実はコンラート四世以降も君主(ドイツ国王)はいたのですよ

ハインリヒ・ラスペ(チューリンゲン方伯、ルードヴィング家)
ヴィルヘルム   (ホーラント伯)
リチャード・オブ・コンウォール(コンウォール伯)
アルフォンソ   (カスチリア王)
0072世界@名無史さん垢版2017/06/06(火) 05:14:47.070
では問題

ドイツにおける国民国家の形成について、以下の語句をすべて使用して300字以内で述べよ。

社会政策 ナポレオン ドイツ関税同盟 1848年 普仏戦争
0073世界@名無史さん垢版2017/06/10(土) 05:54:04.870
ビスマルク!ビスマルク!ビスマルク!
0074世界@名無史さん垢版2017/06/10(土) 10:00:49.930
ドイツ統一はビスマルクがいなきゃ無理立ったし、
イタリア統一はカヴールがいなきゃ無理だったと思われるのだが、
そういう卓越した外交手腕をもつ首相が同時期に出現したというのには、
やはり歴史の必然みたいなものが感じられる
0075世界@名無史さん垢版2017/06/10(土) 11:03:44.440
イタリア統一には普通はガリバルディを上げると思うけどね
0076世界@名無史さん垢版2017/06/10(土) 12:07:36.060
南北統一は、ガリバルディのおかげ
0077世界@名無史さん垢版2017/06/10(土) 13:07:27.080
カヴールは、北だけ統一すればいいと思っていた

というより、そもそも南に関心がなかった

「南イタリアに行ったことは、死ぬまで1度もなかったんじゃないか」と言われている
0078世界@名無史さん垢版2017/06/10(土) 13:51:17.610
そもそも近代の統一イタリアとローマ帝国以外にイタリア半島を統一した国家なんてあったのか?
0080世界@名無史さん垢版2017/06/10(土) 19:27:54.150
イタリアは南北だけでなく、東西もバラバラ

間にアペニン山脈があって、日本と同じく、山を越えるより海をグルッと回ったほうが早い
0081世界@名無史さん垢版2017/06/10(土) 19:29:35.590
ヴェネチア共和国は、イタリア西海岸とバルカン半島沿岸においては
絶大な力を持っていたが、イタリア東海岸には力が及ばなかった
0082世界@名無史さん垢版2017/06/10(土) 19:29:58.150
逆だった

東海岸と西海岸が逆
0083世界@名無史さん垢版2017/06/10(土) 19:47:36.710
ドイツの国土は、南部のアルプス山地から北部の平野にかけて次第に低くなっています。

ドイツは地形的に、大きく3つに区分されます。
北部の北ドイツ平原地帯、中部の盆地と丘陵地帯、そして、南部のアルプス地域です。

北ドイツ平原地帯は、ハイデと呼ばれる荒地が広がっている場所で
一般に気温が低いため作物栽培には不向きで、牧草地が広がっています。
中部はなだらかな丘陵や山脈が横たわる地域です。
この地域は土壌が肥沃で、農地となっており、大麦や小麦などが
栽培されているほか、ワイン用のブドウ栽培も盛んです。
南部には高くて険しいドイツアルプスが連なっています。
0085世界@名無史さん垢版2017/06/10(土) 19:58:53.720
南ドイツは農耕に適した肥沃な国土だが、北ドイツは寒冷な荒れ地

南ドイツを本拠地とする神聖ローマ帝国の皇帝たちは、
貧しい北ドイツより、肥沃な北イタリアを取りに行った
0086世界@名無史さん垢版2017/06/10(土) 20:02:59.250
南ドイツからアルプス山脈を挟んで北イタリアに至る地域が、ヨーロッパでも最良の土地。

ここが争奪戦になったのは自然の成り行きです仕方ない。
0087世界@名無史さん垢版2017/06/10(土) 20:10:47.160
北ドイツの冬は、夕方4時か5時には日が沈んで真っ暗になる。

昼でも天気が悪くて陽光は弱く、どんよりしている。

ここに、「歴代の皇帝は、なんで北ドイツよりイタリアにご執心だったのか?」という疑問がある。
0088世界@名無史さん垢版2017/06/10(土) 20:11:49.990
疑問に対する答がある
0091世界@名無史さん垢版2017/06/10(土) 22:36:27.230
こういう寒い国を本当に理解するためには、冬に滞在する必要がある。
だが、普通はそんなことする気にならない。
0092世界@名無史さん垢版2017/06/11(日) 19:33:27.120
イタリアの豊かさを考えれば、あの地域を無視することはできなかったかと
0093世界@名無史さん垢版2017/06/13(火) 04:35:25.910
『最後の授業』で有名なアルザス=ロレーヌは1871年普仏戦争後の話
0095世界@名無史さん垢版2017/06/13(火) 09:09:26.230
プロイセンの大半はポーランドだったんだから、本当はポーランド史に入れるべきだな
0096世界@名無史さん垢版2017/06/13(火) 11:22:40.940
>>95
んじゃそういう視点で欧州史を書いてくれ。
エマヌエル・カントはドイツ史ではなくロシア史にするんだろうけどな。
0097世界@名無史さん垢版2017/06/13(火) 12:13:39.960
>>94
たったの4年とは短いな
00981815年のドイツ連邦垢版2017/06/13(火) 15:44:31.740
1,オーストリア帝国
2,プロイセン王国
3,ザクセン王国
4,バイエルン王国
5,ハンノーファー王国
6,ヴュルテンベルク王国
7,バーデン大公国
8,ヘッセン=カッセル選定侯国
9,ヘッセン=ダルムシュタット大公国
10,ホルシュタイン公国
11,ルクセンブルク大公国
12,ブラウンシュヴァイク公国
13,メクレンブルク=シュヴェリーン大公国
14,ナッサウ公国
15,ザクセン=ヴァイマール大公国
16,ザクセン=ゴータ公国
17,ザクセン=コーブルク公国
18,ザクセン=マイニンゲン公国
19,ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公国
20,メクレンブルク=シュトレーリッツ大公国
0099世界@名無史さん垢版2017/06/13(火) 15:45:05.370
21,オルデンブルク大公国
22,アンハルト=デッサウ公国
23,アンハルト=ベルンブルク公国
24,アンハルト=ケーテン公国
25,シュヴァルツブルク=ゾンデルスハウゼン侯国
26,シュヴァルツブルク=ルードルフシュタット侯国
27,ホーエンツォレルン=ヘッヒンゲン侯国
28,リヒテンシュタイン侯国
29,ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯国
30,ヴァルデック侯国
31,ロイス侯国(兄系)
32,ロイス侯国(弟系)
33,シャウムブルク=リッペ侯国
34,リッペ=デルモルト侯国
35,リューベック自由市
36,フランクフルト自由市
37,ブレーメン自由市
38,ハンブルク自由市
39ヘッセン=ホンブルク地方伯
0100世界@名無史さん垢版2017/06/14(水) 11:42:49.900
>>98
序列3位は、南の大国バイエルンじゃなくて、ザクセン?
0101世界@名無史さん垢版2017/06/14(水) 14:28:14.800
連邦議会で4票を有する6大国

オーストリア帝国
プロイセン王国
ザクセン王国
バイエルン王国
ハノーファー王国
ヴュルテンベルク王国
0102世界@名無史さん垢版2017/06/14(水) 14:29:33.230
>>97
それまでの半世紀はドイツ連邦

オーストリアを排除して北ドイツ連邦になった
0103世界@名無史さん垢版2017/06/14(水) 14:43:33.470
当時のオーストリアは多民族国家だったから民族問題を抱えたくなくて北ドイツ連邦はオーストリアを外したんだよ
0104世界@名無史さん垢版2017/06/14(水) 17:22:33.930
ドイツ連邦が続いていたら、いずれEU統合みたいな形で統一国家になった可能性もあるな

さんざん語り尽くされた歴史のifだろうけど
0105世界@名無史さん垢版2017/06/14(水) 18:11:15.870
wikipediaのドイツ連邦の記事の地図の領土が一国に統一されたなら
さぞ凄い国になったろうな。
0106世界@名無史さん垢版2017/06/14(水) 18:35:16.330
うんこ食べたい
0107世界@名無史さん垢版2017/06/14(水) 18:46:33.630
日本のように参勤交代があったわけでもなく、
京都や江戸のようなアイデンティティの中心があったわけでもなく、
ドイツ帝国統一ということそのものが奇跡だったと俺は思う。
ま、敢えて言えばプロイセンという強国がいたから統一ができたのかなー

もしエステルライヒorハプスブルク領を含む統一にしがみついてたら、
どっちが中核になるかで揉めて結局瓦解してたと思う。
0108世界@名無史さん垢版2017/06/14(水) 21:49:32.340
過去に統一されたことがなかったため、「ドイツは1つの国」というナショナリズムが定着していなかった

そこが、日本や中国との違い
0111世界@名無史さん垢版2017/06/14(水) 22:37:20.060
>>109
ポメラニア、シレジア、ボヘミア、チロル、スロベニア、トリエステあたりがドイツ連邦ゾーンに振り分けられてるな
そのへんは平均したら2-3割がドイツ系って感じにはなってたろうか
0112世界@名無史さん垢版2017/06/14(水) 22:38:44.930
>ポメラニア

犬みたいな名称だな
0114世界@名無史さん垢版2017/06/14(水) 22:57:20.060
>>107
日本の場合、平城京平安京という当時の日本からしたら不釣り合いにデカい首都が日本人というひとつの民族を作り出す上での核となったと思う
0115世界@名無史さん垢版2017/06/15(木) 07:51:29.980
>平城京平安京
どっちも左京だけで充分だったし
0119世界@名無史さん垢版2017/06/15(木) 14:36:03.200
>>118
チェコスロバキアを併合した頃の、ナチスドイツの版図

スロバキアの出っ張りと、ケーニヒスベルクの飛び地が気になる
0120世界@名無史さん垢版2017/06/15(木) 17:39:04.440
ヒトラーはフランスに関してはどうするつもりだったのか
南北二つの国に分ける感じ?
0121世界@名無史さん垢版2017/06/15(木) 19:28:54.850
エルザス・ロートリンゲンさえ入手できて、今後さからわなければそれでOK
0122世界@名無史さん垢版2017/06/15(木) 19:30:42.000
エルザス・ロートリンゲンさえ入手できて
   ↓
エルザス・ロートリンゲンが入手できて
0123世界@名無史さん垢版2017/06/15(木) 21:04:45.00O
普仏戦争と第二次大戦、
二度もアルザス・ロレーヌ手に入れながら結局手放すことになったから、もはやドイツとは縁薄そう
0124世界@名無史さん垢版2017/06/16(金) 16:37:23.300
神聖ローマ帝国ってイタリアの名前なのにどうしてドイツも支配してるんですか?
0125世界@名無史さん垢版2017/06/16(金) 17:01:13.340
>>124
皇帝がゲルマン人だから
0126世界@名無史さん垢版2017/06/16(金) 17:57:00.160
>>124
ま、わかりきっててシラをきってるんだろうけど、
初めはちゃんとイタリアを帝国域に含んでいたんだが
時代を下るにつれてイタリアの支配権を失っていって
ドイツだけになったんだよっ!
0127世界@名無史さん垢版2017/06/16(金) 18:36:36.210
ギリシャの東ローマ帝国だって、後世からはビザンチン帝国と呼ばれているが、
当時の人々にとっては自他ともに認める「ローマ帝国」
0128世界@名無史さん垢版2017/06/16(金) 20:55:11.880
神聖でもなければローマでもなく、帝国ですらない
0129世界@名無史さん垢版2017/06/16(金) 20:56:25.050
中華でもなければ人民でもなく、共和国ですらない
0130世界@名無史さん垢版2017/06/16(金) 20:56:57.500
大でもなければ韓でもなく、帝国ですらない
0131世界@名無史さん垢版2017/06/17(土) 01:33:30.47O
トルコから独立したブルガリアの君主がツァール(皇帝)名乗ったけど、
諸外国からは国王扱いで終わった
0132世界@名無史さん垢版2017/06/17(土) 06:27:04.840
ツァーリと皇帝は、厳密にいえば異なる
0133世界@名無史さん垢版2017/06/17(土) 06:30:29.060
18世紀の始め頃、ロシアのツァーリだったピョートルが、
「これからはインペラートルの称号を名乗ることにした」と宣言したところ、
「そんな大それた真似をすれば、西欧の列強が黙っていませんぞ」と言って側近たちが反対した
0134世界@名無史さん垢版2017/06/17(土) 06:38:56.250
神聖ローマ帝国の皇帝は、イタリア語ではインペラトール、ドイツ語ではカイザー

カイザーもツァーリも、古代ローマの英雄「カエサル」の名が訛った言葉
0135世界@名無史さん垢版2017/06/17(土) 11:03:58.270
初期の神聖ローマ帝国には、在位期間のほとんどをローマですごした皇帝もいた

もっとも、早死にしたので在位期間は短かったか
0136世界@名無史さん垢版2017/06/17(土) 11:07:42.110
「アルプス山脈の北と南」という地理的な区分はあったが、
「ドイツとイタリア」という国境は、登場はまだなかった

どっちかっていったら、南ドイツから北イタリアまでが、帝国としてのまとまり
0138世界@名無史さん垢版2017/06/17(土) 19:36:44.320
天国が唯一神によって治められているのと全く同様に、現世の世界もただ一人の皇帝が治め、

全世界の教会はただ一人の教皇が治めるものというのが中世人の考え方だったからな

ドイツとかイタリアとかいう国民国家の概念などない
0139世界@名無史さん垢版2017/06/17(土) 20:22:03.640
言葉の差があるからここから北はドイツ、ここから南はイタリアという概念はあったんじゃないのか?
0140世界@名無史さん垢版2017/06/17(土) 20:59:21.240
北イタリア・ロンバルディア地方の人間が「イタリア語」を
しゃべるようになったのは、19世紀後半のイタリア統一の後のこと

それまでは、南とは完全に異国だった
0141世界@名無史さん垢版2017/06/17(土) 21:03:41.050
つまり、北イタリアにとってはドイツも異国だけど、
南イタリアも異国であることに変わらない

このあたりの事情はドイツも同じで、北と南で「われわれは同じドイツ人だ」
とは思っていなかった。20世紀になっても微妙なくらいだ。
0142世界@名無史さん垢版2017/06/17(土) 21:53:21.320
大シスマの始まる教皇ウルバヌス6世の時代にはナポリ人はローマ市民の仲間でフランス人とは違うという意識があったようだ。
北イタリアはどうか知らないが。
0143世界@名無史さん垢版2017/06/17(土) 22:20:54.910
日本だと他におなじような言語の地域が無いので、
方言差が激しく政治的に統一されていないなど多様性があっても一体感が崩れることはない
と思ったけど琉球とはどうだったのか
「近い民族だ」という意識はあったのは確実だけど
0144世界@名無史さん垢版2017/06/17(土) 22:41:37.130
少なくとも奈良時代までは、東北と、一部を除く九州が異民族
0145世界@名無史さん垢版2017/06/17(土) 23:13:07.710
中世なら、国家よりも「キリスト教世界」という意識のほうが強かっただろう
0146世界@名無史さん垢版2017/06/18(日) 09:14:25.110
イギリスもそうだが日本みたいな島国は外から入ってくるものがあまりないから国家統一がしやすい
ドイツみたいな大陸のど真ん中にある国は色んな民族の往来がありひとつの国家として意思統一するのは極めて困難
モンゴルなどの北方民族に蹂躙された中国もそう
0147世界@名無史さん垢版2017/06/18(日) 19:46:02.880
>>143
琉球では本土の文語が広まっていた。漢文一辺倒だった朝鮮とはこの点で一線を画する。
ところが薩摩は小中華思想に基づいて文化の違いをことさらに強調して琉球に押しつけた。
明治以降に方言札のような極端な内地化が進められたのはこれに対する反動という面がある。
0148世界@名無史さん垢版2017/06/18(日) 21:27:27.720
神聖ローマ帝国の中にオーストリアとプロイセンがあったんですか?
0149世界@名無史さん垢版2017/06/18(日) 21:30:44.520
>>148
ザクセンとかバイエルンもあった
0150世界@名無史さん垢版2017/06/18(日) 22:11:23.970
>>148
ナポレオン戦争をキッカケに神聖ローマ帝国は崩壊し、オーストリア帝国へと再編成された

そのときにプロイセン王国も独立した
0151世界@名無史さん垢版2017/06/18(日) 22:28:17.710
神聖ローマ帝国最後の皇帝フランツ2世がみずから帝国に終止符を打ったのは、
ナポレオンがその伝統ある帝冠を継承するのを防ぐためでもあったらしい

「皇帝と帝国」はドイツ史に属するという考え方はドイツ・ナショナリズムの
構成要素となった
0152世界@名無史さん垢版2017/06/18(日) 22:32:13.770
>>148
オーストリアもプロイセンも神聖ローマ帝国の中の領邦のひとつだよ
しかしオーストリアもプロイセン(正式にはブランデンブルグ選帝侯)も神聖ローマ帝国の殻を破ってその版図外に領土をもっていた
0153世界@名無史さん垢版2017/06/19(月) 09:31:24.300
ザクセンはポーランド王を、
ハノーファーはイギリス王を
兼ねていた時もあるしな
0154世界@名無史さん垢版2017/06/19(月) 20:28:48.530
>>146
>イギリスもそうだが日本みたいな島国は外から入ってくるものがあまりないから国家統一がしやすい

はぁぁぁ?
古代ギリシャは?マレーシアは?インドネシアは?フィリピンは?スリランカは?
どこも外部勢力に統一して貰ってるだろ
0155世界@名無史さん垢版2017/06/19(月) 20:49:21.910
見方によるが大ブリテン島は統一されてるとは言えないだろ
0156世界@名無史さん垢版2017/06/19(月) 22:12:57.080
神聖ローマ帝国内で領土をもつと帝国議会への参加権をもつ
つまり帝国内の政治に参加できる構成員になる
だからスウェーデンは外国であっても帝国の構成員であった
フランスも帝国の構成員になることを狙ってたけど諸侯が脅威に感じてアルザスなどの獲得した領土を帝国から除外する
その後ルイ14世はケルン選帝侯になって帝国に参加することを狙ったがイギリス・オランダ含む大連合の妨害により失敗
0157世界@名無史さん垢版2017/06/19(月) 22:15:07.780
>>146
>モンゴルなどの北方民族に蹂躙された中国もそう

モンゴルなどの北方民族が中国を統一したんだが?
0158世界@名無史さん垢版2017/06/19(月) 22:16:48.910
スイスもオランダも実質的には帝国から離脱してたけど
法的には帝国の構成員だった
正式に脱退したのがウェストファリア条約
この時に北伊諸国も帝国から抜ける
ウェストファリア条約で中世からひきずってた神聖ローマの神話的なものが崩れた感じ
0159世界@名無史さん垢版2017/06/20(火) 00:07:58.850
神聖ローマ帝国もハンガリー王(ジギスムント)だのシチリア王(フリードリヒ二世)だのスペイン王(カール五世)だの訳のわからない連中が皇帝になったりしている
0160世界@名無史さん垢版2017/06/20(火) 00:20:10.880
その3人は帝国の構成員が他の王位をとったってことでそれほど不自然じゃない
0161世界@名無史さん垢版2017/06/20(火) 00:51:21.610
ハプスブルク家っていうのは神聖ローマ帝国なんですか?オーストリアなんですか?ドイツなんですか?
0162世界@名無史さん垢版2017/06/20(火) 06:11:37.240
>>160
じゃあカスティリア王アルフォンソ十世(賢王)やコンウォール伯リチャードやホラント伯ウィレムといった大空位時代の諸王は不自然だよね
0163世界@名無史さん垢版2017/06/20(火) 07:28:52.540
カトリック国の君主なら、誰でも皇帝選挙に立候補できるから没問題
0164世界@名無史さん垢版2017/06/20(火) 07:29:54.730
>>161
オーストリアの君主にして神聖ローマ帝国の皇帝
0165世界@名無史さん垢版2017/06/20(火) 07:32:56.260
ボヘミア王カレル
シチリア王フェデリーコ
スペイン王カルロス

この3人は、いずれも神聖ローマ帝国の中でもトップ5に入るほどの大皇帝

大国の国王が皇帝になったときは、本当に強い
0166世界@名無史さん垢版2017/06/20(火) 08:24:35.580
>>162
ほんとは皇帝がいたのに「大空位時代」と言われるのは、それだけ不自然だからだろ
0167世界@名無史さん垢版2017/06/20(火) 08:28:05.430
17世紀のウエストファリア条約で、神聖ローマ帝国は事実上、崩壊した

そして18世紀、プロイセンが台頭する

神聖ローマ帝国の中で、オーストリアとプロイセンの2大国がシノギを削るという奇妙な時代になった
0168世界@名無史さん垢版2017/06/20(火) 08:29:51.160
江戸幕府が崩壊した幕末の日本だって、薩摩と長州の2国は戦争したり、同盟を組んだりしていた

それと似たようなものだ
0169世界@名無史さん垢版2017/06/20(火) 08:32:01.400
日本史に例えるなら、オーストリアは「いまだ強大な権力を持つ室町幕府」、
プロイセンは「新興強国の織田信長」といったところか

ちょっと日本には、似たような状況の事例がない(笑)
0170世界@名無史さん垢版2017/06/20(火) 11:50:06.840
>>161
神聖ローマ帝国最終期には30ほどの君主位を持ってたとか
0171世界@名無史さん垢版2017/06/20(火) 19:45:01.820
神聖ローマ帝国の300諸侯というが、この300という数は一定ではなく、常に変動していた。。
ドイツでは長子相続制ではなく、ゲルマン法に由来する分割相続制が続いたために、
あたかも鼠算式に領邦の数がどんどん増えていく結果となった。

一方でこのおびただしい増加に対する防禦策も考え出された。相続者が途絶えると近親諸侯によって
相続併合したり、近隣のより強力な領邦に合併するという方法である。
0172世界@名無史さん垢版2017/06/21(水) 21:35:04.760
300ゆーても領邦として重要なのは20ぐらいで
残りは日本でいう数千石程度の小名みたいなもん
特にでかい領邦がバイエルン、ザクセン、ブランデンブルク
それに続くのがプファルツ、ハノーバー、ヘッセン、ポメラニア、メクレンブルク、ロレーヌ、ヴュルテンベルク
大司教領だとマインツ、ケルン、トリーア、ブレーメン、ザルツブルク、ヴュルツブルク、ミュンスターなど
0174世界@名無史さん垢版2017/06/22(木) 18:55:58.480
戦国時代でも海外に領土を持つ大名は多分いないが海外に眼を向けた大名は多かった
大内みたいな渡来系はもちろんだがそれ以外も
0175世界@名無史さん垢版2017/06/22(木) 19:00:54.480
ユダヤ的な存在から、国家を取り戻したのは真剣にすごいと思う。

ただ、同時に、ユダヤ的なものへの哀れみもあるのも事実。
0176世界@名無史さん垢版2017/06/22(木) 19:01:21.490
迷惑かけるものは除去しなきゃなあ。
それ以上は言葉に責任取れないからなんとも言えないですね・・・
0177世界@名無史さん垢版2017/06/22(木) 19:04:17.440
ガメつい奴は嫌われるということ。
無私の精神が大事。

気晴らしは大事だけど。
0178世界@名無史さん垢版2017/06/23(金) 10:05:55.890
ガメつい奴らが揆を一にしていると人々に思われだしたら危険信号
宗教は半自動的にそうなっちゃうからね、ガメついかどうかは置いといて現代日本でもS●Gとかね
0179世界@名無史さん垢版2017/06/24(土) 13:11:38.780
バイエルンやザクセンは、大国といったって、あくまでも領邦

独立国だったわけではない
0180世界@名無史さん垢版2017/06/24(土) 14:05:38.270
10世紀に神聖ローマ帝国によってバイエルン大公国(公国)が設けられて以後、
帝国の滅亡までバイエルンは南ドイツの主要な領邦、選帝侯として影響力を保持し、
帝国の滅亡後に近隣の領邦を併合してバイエルン王国が成立した。

1872年のドイツ帝国成立後も、バイエルン王国は帝国の傘下で存続し続けた。

現在のドイツ連邦共和国の連邦州としてのバイエルン州も、
ほぼ旧バイエルン王国の領域を継承している。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2f/Deutschland_Lage_von_Bayern.svg/340px-Deutschland_Lage_von_Bayern.svg.png
0181世界@名無史さん垢版2017/06/24(土) 14:06:16.900
バイエルンは12世紀以降、ドイツ革命で王制が廃止されるまで、
ヴィッテルスバッハ家によって治められた。

リヒャルト・ワーグナーを庇護し「狂王」と呼ばれたルートヴィヒ2世や、
オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇后で「バイエルンの薔薇」
と呼ばれたエリーザベトはヴィッテルスバッハ家の一員である。
0183世界@名無史さん垢版2017/06/24(土) 14:12:51.840
かつては、ザクセンというのは広大な北ドイツの低地一帯を指す地名だったが、
中世の後期からは今の東ドイツ南部となった
0184世界@名無史さん垢版2017/06/24(土) 14:14:19.630
ザクセンは、プロイセンとバイエルンという南北の2大国の間に挟まる位置にある、第3の大国だった
0186世界@名無史さん垢版2017/06/24(土) 17:49:45.800
ドイツ
独逸
GERMANY
75181311425
712|3|18
英国びいきだよね
0187世界@名無史さん垢版2017/06/24(土) 19:50:14.61O
かつてドイツはイギリスに思い入れが強かったがイギリスにはそれほど無い
これは今も続くイギリスとアメリカの関係にも言えるが
0188世界@名無史さん垢版2017/06/24(土) 20:18:55.400
まあ、19世紀のドイツにおける「イギリスに追いつけ、追い越せ」というのは、
20世紀の韓国における「日本に追いつけ、追い越せ」というノリに似てるからなあ。

でも、日本人の視線は、韓国より中国に向かっている。

イギリス人も、ドイツよりフランスに関心が強い。
0189世界@名無史さん垢版2017/06/24(土) 20:22:08.930
ハノーファー王国も、かつてはバイエルンやザクセンに次ぐ名門だったが、
関ヶ原の戦いで豊臣方についたおかげで、お取り潰しになった。

プロイセン王国の州にされてしまった。
0191世界@名無史さん垢版2017/06/24(土) 20:52:23.37O
カイザーやヒトラーが代表だがドイツとしてはイギリスがドイツの発展に理解をして後押ししてくれてもいいじゃないかという感情がどこかにあった
だからこそそうでなかった時の憤りが凄まじい
0194世界@名無史さん垢版2017/06/24(土) 21:57:52.940
李承晩や朴正熙が代表だが韓国としては日本が韓国の発展に理解をして後押ししてくれてもいいじゃないかという感情がどこかにあった
だからこそそうでなかった時の憤りが凄まじい
0196世界@名無史さん垢版2017/06/25(日) 07:28:35.700
我が国が日本に追いつき追い越したおかげで、遅れを取った日本人が嫌韓になったニダ
0197世界@名無史さん垢版2017/06/25(日) 09:43:50.500
どいつ潜航艇のもとにダイヤモンド貿易は繁栄してきたよね
0198世界@名無史さん垢版2017/06/25(日) 17:11:23.81O
奇妙な戦争の時期こそ肝心なのに触れてない
0199世界@名無史さん垢版2017/06/25(日) 19:49:13.600
後進国が先進国を技術的に追い越すというのは、
現実の世界ではめったにないのだが、
19世紀の後半から20世紀初頭にかけてのドイツは、
圧倒的先進国のイギリスを追い越した稀有な事例

経済学の教科書でもオナジミだ
0200世界@名無史さん垢版2017/06/25(日) 19:52:13.340
百年後の韓国も、これに習って「日本に追いつけ、追い越せ」
と克日精神でかんばったのだが、無理をしすぎたせいか、
スマホは爆発するわ、自動車は雨漏りするわ、
橋は落ちるわで苦戦している。

これを見ても、ドイツの技術進歩はまさに奇跡。
0201世界@名無史さん垢版2017/06/25(日) 19:55:41.260
ただし、国際金融センターとしての地位では、フランクフルトはロンドンに及ばない

東京も、香港に遅れを取っているのが現状
0202世界@名無史さん垢版2017/06/25(日) 20:07:26.650
でもトーキョーロンドンNYタイムであって
ホンコンタイムではないね
0203世界@名無史さん垢版2017/06/25(日) 20:34:47.01O
イギリスは早い段階から金融立国に切り替えたからな
例の融和政策も為替安定が一因だし
0204世界@名無史さん垢版2017/06/25(日) 20:39:12.920
まあ確かに、東京はかなり香港・シンガポールに遅れを取ってるイメージだが、実際にはそれほどでもない

外貨取扱高では負けている
0205世界@名無史さん垢版2017/06/25(日) 20:46:30.720
ハンブルクとブレーメンは、今でも「自由ハンザ都市」を名乗り、どこの州にも属していない
0206世界@名無史さん垢版2017/06/25(日) 20:55:25.640
ミラノやベネチアのようなイタリア勢とくらべてマイナー感はあるけど、
これらハンザ都市の自立心も旺盛で、統一の大障害
0207世界@名無史さん垢版2017/06/25(日) 20:58:41.150
ニシンの酢漬けが主力産業だった
0208世界@名無史さん垢版2017/06/25(日) 21:33:51.230
中世ヨーロッパでは都市同盟が重要な役割を果たした。
周辺の領主に対抗するため、独立意識の高い諸都市が連合し、
皇帝や国王も都市連合を意識して権力を行使しなければならなかった。
これは世界史上、ヨーロッパでしか生じていない現象と言われている。

ハンザ同盟は都市同盟の中でも規模と存続期間において群を抜いており、また特殊な存在であるとされている。
0209世界@名無史さん垢版2017/06/25(日) 21:34:55.160
ハンザ同盟の中核を占める北ドイツの都市は神聖ローマ帝国の中で皇帝に直接忠誠を誓う帝国都市であり、
相互に独立性と平等性を保つ緩やかな同盟だったが、経済的連合にとどまらず、時には政治的・軍事的連合として機能した。

しかし、同盟の恒久的な中央機構は存在せず、同盟の決定に拘束力も弱かったので、実際はそれぞれの都市の利害が優先された。
0210世界@名無史さん垢版2017/06/25(日) 21:35:42.300
リューベック、ハンブルク、ブレーメンなどかつてのハンザ同盟の中心都市は
「自由ハンザ都市」を称して中世以来の都市の自由をうたっており、
21世紀の現在もなおハンザ同盟の遺風を残している。
0211世界@名無史さん垢版2017/06/25(日) 21:36:07.300
日本では平安時代に統一国家だったという記憶が、家康による再統一の基礎だったように
ドイツでもドイツ王国や神聖ローマ帝国という枠組みはドイツ帝国の基礎くらいにはなってそうだ
0212世界@名無史さん垢版2017/06/25(日) 21:36:46.240
一方イタリアはどうだったのか
0213世界@名無史さん垢版2017/06/25(日) 21:38:05.200
リューベックは、諸都市の会盟をなしとげて覇者となった。

後には衰退して、ハンブルクが北ドイツの中心都市になったが。
0214世界@名無史さん垢版2017/06/25(日) 21:39:47.580
>>212
イタリーはローマ帝国の記憶で
0215世界@名無史さん垢版2017/06/25(日) 21:55:36.000
それは古すぎる記憶
0216世界@名無史さん垢版2017/06/25(日) 22:11:02.980
リューベック←→ハンブルクはユトランド半島回避の輸送路だった、デンマークが徴税するんでね
両者間は、途中まで川を進んだら最後は陸路40kmで済んだ
0218世界@名無史さん垢版2017/06/25(日) 22:36:44.920
リューベックとハンブルクの間に運河を掘ればよかったんじゃないか?
0219世界@名無史さん垢版2017/06/25(日) 22:38:17.270
>>215
だけどその記憶でナポレオンやムッソリーニは…
0220世界@名無史さん垢版2017/06/25(日) 22:42:26.290
>>218

キール運河

キール運河(キールうんが、ドイツ語:Kiel‐Kanal)は、
ユトランド半島を根元のドイツ北部シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州で横断し、
北海とバルト海を繋ぐ運河。

正式名称は北海バルト海運河(Nord‐Ostsee‐Kanal)。
0221世界@名無史さん垢版2017/06/25(日) 22:42:54.890
日本では、スエズ運河・パナマ運河と並び、世界三大運河とよばれる。
0222世界@名無史さん垢版2017/06/25(日) 22:45:17.730
キール運河」というのは通称。

最初に北海とバルト海を繋いだのはアイダー運河(Eiderkanal)である。
アイダー川を拡張し2つの海を結んだもので、1784年に完成した。
この運河は幅29m、深さ3mしかなく通れる船が喫水の浅い船のみに制限されてしまっていた。

1887年には新運河の建造が開始され、1895年に完成した。
その後、1907年と1914年に運河は拡張された。

https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-5c-15/yotajii/folder/1473330/43/41467443/img_0?1179900646
0223世界@名無史さん垢版2017/06/25(日) 22:46:04.080
律令国家や神聖ローマ帝国は形骸化したとはいえ残ってたから
(元祖)ローマ帝国とは違う
0224世界@名無史さん垢版2017/06/25(日) 22:50:24.350
>>219
統一の三傑の1人、サルデーニャ王国のカヴール首相からして、
南を同じイタリアの仲間とは思ってなかった

南にはまったく関心がなく、生涯一度も足を踏み入れなかったのではないかと言われている
0225世界@名無史さん垢版2017/06/25(日) 22:54:34.600
>>217
17世紀、世界の海洋覇権を握ったといわれるオランダも、
実際には利益の大半を北海・バルト海貿易で稼いでいたそうな
0226世界@名無史さん垢版2017/06/26(月) 01:23:52.810
ドイツが統一された後も、多くのドイツ人は血の絆で結ばれた自然で有機的な
共同体を構成するゲルマン的農耕民のアルカイックな世界を夢見ていたといわれる
0227世界@名無史さん垢版2017/06/26(月) 07:47:28.470
アングロサクソン人もザクセン人も、ユトランド半島から移動して広がった
0228世界@名無史さん垢版2017/06/26(月) 08:16:07.280
>>220-222
今、ライン=マイン=ドナウ運河とどっち?
0230世界@名無史さん垢版2017/06/26(月) 20:24:47.600
マレーシアで運河を掘れば、世界三大運河の座は確定だ
0231世界@名無史さん垢版2017/06/26(月) 20:27:00.680
イタリアも、ヴェネチアとジェノヴァの間に運河を掘ったら最高なんだが
0232世界@名無史さん垢版2017/06/26(月) 20:52:36.320
>>231
トンネル? それとも閘門式?
0233世界@名無史さん垢版2017/06/27(火) 05:02:01.560
トンネル・オブ・ラヴ
0234世界@名無史さん垢版2017/06/27(火) 06:45:52.630
イタリアの場合は、トンネルを掘る必要があるな
0236世界@名無史さん垢版2017/06/27(火) 21:30:12.790
日本でも、昔の船では津軽海峡の冷たい荒海を通りたくなかったので、
秋田から江戸まで行くのに、わざわざ遠回りして瀬戸内海を通ってた。

それを思えば、北極なみに厳しいユトランド半島周りルートを通りたくなかったのは理解できる。

リューベックとハンブルクの陸路を通れば、ロシアのノヴゴロドからロンドンまで一直線。
0237世界@名無史さん垢版2017/06/27(火) 21:34:05.880
ニシンの塩漬けは、中世ヨーロッパでは貴重な保存食。

「2樽で家が一軒たつ」と言われるほど儲かった。
0238世界@名無史さん垢版2017/06/27(火) 21:35:08.850
ハムとかソーセージもあったし、食品加工業が当時の先端産業
0239世界@名無史さん垢版2017/06/27(火) 21:36:46.880
毛織物業が盛んだったのはフランドル
0240世界@名無史さん垢版2017/06/28(水) 15:53:38.630
ドイツ人はローレライを難所というけれど、日本の急流と比べりゃどうってことないレベル
0241世界@名無史さん垢版2017/06/28(水) 16:49:54.430
まあ、明治時代に来日したドイツ人の土木技術者が常願寺川を見て
「これは、川ではない。滝だ」と言ったというエピソードがあるくらいだから、
ドイツの川とは「急流」の基準が異なるのは確か
0242世界@名無史さん垢版2017/06/28(水) 16:51:56.730
寒いところの海は、霧が発生して周囲が見えなくなるので危険

「霧のロンドン」など、本当は危ない
0243世界@名無史さん垢版2017/06/28(水) 17:55:28.020
「霧のテムズ川」と言いたいのかな?
「霧のロンドン」はスモッグ公害の表象ではなかろうか
0244世界@名無史さん垢版2017/06/28(水) 18:05:29.010
いまは、「霧の北京」の時代
0245世界@名無史さん垢版2017/06/28(水) 21:49:32.340
>>236
そうじゃなくて房総半島沖が難所だったから。
津軽海峡はどうにでもなって、だから盛岡くらいまで銀貨経済圏だった。
0246世界@名無史さん垢版2017/06/29(木) 00:07:16.660
随分話がよそへ行ったけど、キール運河は国内航路?
それとも国際航路?
0247世界@名無史さん垢版2017/06/29(木) 06:05:06.190
>>245
ユトランド半島に房総半島

やはり、半島が難所なのか
0249世界@名無史さん垢版2017/06/29(木) 06:16:07.210
>>246
始点も終点もドイツ国内
シュレシュビヒ・ホルシュタイン州

北海とバルト海を最短距離でつなぐ国際航路
0250世界@名無史さん垢版2017/06/29(木) 06:18:29.640
しかし、最初に運河掘削に着手したのはデンマーク王国

まだシュレシュヴィヒ=ホルシュタインがデンマーク領だった頃だ
0251世界@名無史さん垢版2017/06/29(木) 06:20:53.680
普墺戦争や普仏戦争に比べてマイナーな対デンマーク戦争だけど、
デンマークからシュレシュヴィヒ=ホルシュタインを奪ったのが
ビスマルクのドイツ統一戦争の第一歩

ここは北海とバルト海をつなぐ交通の要所なので、地味なわりに重要性は高い
0253世界@名無史さん垢版2017/06/29(木) 07:57:33.480
ドイツにとっては、東ドイツと西ドイツの間の海路を
完全に押さえられてたわけで、かなり都合が悪かったと思われる
0254世界@名無史さん垢版2017/06/29(木) 09:51:19.670
>東ドイツと西ドイツの間
一瞬誤解した
「ドイツ東部と西部の間」と書かないと意味をとっ違える
0255世界@名無史さん垢版2017/06/29(木) 16:41:37.210
確かに、北ドイツ・南ドイツとはよく聞くけど、
東ドイツ・西ドイツとは最近はあまり言わんねえ。
0256世界@名無史さん垢版2017/06/29(木) 16:43:48.880
そういえば、「南フランス」とか「南イタリア」はよく聞くけど、
「西フランス」とか「西イタリア」は聞いたことない。

フランスも、大統領選挙では西と東でくっきり支持候補が割れていて、
東西対立が意外と根深いみたいだけどな。
0257世界@名無史さん垢版2017/06/29(木) 17:29:23.960
チリ西部、チリ東部
0258世界@名無史さん垢版2017/06/29(木) 17:58:52.260
アジェンデとピノチェトで西チリ東チリに分裂すれば面白かったのに
0259世界@名無史さん垢版2017/06/29(木) 18:03:32.230
イタリアは、東西で分裂しないのかいな?
0261世界@名無史さん垢版2017/06/29(木) 20:47:02.540
かなり、モメそうだな
0262世界@名無史さん垢版2017/06/30(金) 16:58:10.130
韓国も東西に分裂するニダ
0263世界@名無史さん垢版2017/06/30(金) 16:59:39.280
釜山が東韓国の首都になる
0265世界@名無史さん垢版2017/06/30(金) 20:28:10.090
もはや高句麗語は永久に復活できないんだよなあ
0268世界@名無史さん垢版2017/07/01(土) 03:40:32.990
「ヨーロッパの中心はどこか?」というのは難しい問題だけど、
「ライン川流域」というのが最有力な答ではなかろうか。

それは、長江流域が中国の中心であるのと同じ。
0269世界@名無史さん垢版2017/07/01(土) 03:43:13.520
ライン川の中流はドイツのラインラント地方。

下流はオランダ・ベルギーで、いずれも古来からヨーロッパの心臓ともいうべき地域。

ノルトライン・ヴェストファーレン州には、ケルンとデュッセルドルフがある。

ケルンは、中世からルネサンス期にかけては、アルプス以北で最大の都市だったと言われている。
0270世界@名無史さん垢版2017/07/01(土) 03:45:10.000
ラインラント(ウィキペディア)

古代ローマ帝国の時代から都市が建設され、ドイツでは最も古くから文明が栄えた地域でもある。ケルン、マインツなどの歴史ある都市が点在し、中世には神聖ローマ帝国を支える主要地域の一つであった。

その地域的重要性から、ルイ14世以来フランスの侵攻をたびたび受けた。
0271世界@名無史さん垢版2017/07/01(土) 03:50:29.510
いまでこそ、ドイツの首都はベルリンだけど、ベルリンは中世には「ブランデンブルグ辺境伯領」だったところ。

中世においては、ラインラントの存在感が圧倒的に大きかった。
0272世界@名無史さん垢版2017/07/01(土) 03:56:44.780
大陸では、川のほとりに人が集まる。

まあ、大陸に限らず、島国でもそうだが。
でも、大陸における大河ほどの重要性には及ばない。

ていうか、人間には水が必要だ。
大陸では、川のないとこは住みにくい。

このため、東京に来た中国人やインド人は、隅田川や江戸川のほとりにやたら住みたがる。

日本では、むしろ洪水になったら真っ先に水没するこれらの地域は、江戸時代には人気がなかった。
0273世界@名無史さん垢版2017/07/01(土) 04:01:38.010
エジプトは、ナイルのたまもの。
ブラジルは、アマゾンのたまもの。

アメリカも、東海岸や西海岸のカゲに隠れて目立たないけど、実はミシシッピ川の国だ。

十数億の人口を抱える中国やインドも、黄河とガンジス川に人口が特に集中している。

それと同じように、ヨーロッパの中心はライン川。
0274世界@名無史さん垢版2017/07/01(土) 04:37:04.950
ケルンは、観光ガイドが「ここは、古代ローマ帝国の植民市でした。
コロニーとケルンは語源が同じです」と長い歴史を誇るのを聞いて、
「それが誇るべき歴史というものなのか」と、日本人がビックリするところ。
0275世界@名無史さん垢版2017/07/01(土) 04:37:53.050
朝鮮人も、「ここは大日本帝国が建設した国なのです」と歴史を誇るべきなのだが
0276世界@名無史さん垢版2017/07/01(土) 05:23:06.130
同じノルトライン・ヴェストファーレン州でも、
ケルンとデュッセルドルフという有力な二大都市があって、
対抗意識が強い。

デュッセルドルフは、日本人ビジネスマンの駐在員が多い。
0277世界@名無史さん垢版2017/07/01(土) 05:26:50.150
ノルトライン・ヴェストファーレン州(ウィキペディア)

ヨーロッパを代表する工業地帯であるルール地方は州の南西部に位置し、これまで(西)ドイツ経済を牽引してきた。

ドイツ全体で12ある人口50万人以上の都市の内、5つがこの州に集まる。

州都デュッセルドルフをはじめ、ケルン、ドルトムント、エッセン、デュースブルクがそれである。

また、東西分断時代の西ドイツの首都であったボンもこの州内にある。
0278世界@名無史さん垢版2017/07/01(土) 05:32:27.010
ノルトライン(北ラインラント)の南には、ラインラント・プファルツ州がある。

ここがまた、ドイツの古都や主要都市が集中するところ。
0279世界@名無史さん垢版2017/07/01(土) 05:57:17.340
>>278
いや、そこは田舎だ
大都市はない
0281世界@名無史さん垢版2017/07/01(土) 06:47:11.290
>>279
ホントだ。フランクフルトは隣の州なんだな。

勘違いしていた。
0282世界@名無史さん垢版2017/07/01(土) 06:49:04.650
>>280
文系学問板ではよくあること
スルーして前の話題に戻るよろし
0283世界@名無史さん垢版2017/07/01(土) 06:54:32.270
マインツ(独: Mainz)は、ドイツ連邦共和国の都市。
ラインラント=プファルツ州の州都。
中世よりマインツ大司教の司教座聖堂の所在地であり、
活版印刷の発明者ヨハネス・グーテンベルクの出身地でもある。
0284世界@名無史さん垢版2017/07/01(土) 13:12:38.850
マインツ大司教、またはマインツ選帝侯は、780/82年から1802年まで神聖ローマ帝国にあった、大きな力を持った司教領主である。

カトリック教会のヒエラルキーではマインツ大司教はドイツにおける最高位の聖職者であり、アルプス以北でのローマ教皇の代理人であった。
0285世界@名無史さん垢版2017/07/01(土) 13:14:15.530
ローマにはローマ教皇、イギリスにはカンタベリー大司教がいるように、
ドイツにはマインツ大司教がいた。

ドイツ・カトリックの最高位聖職者、それがマインツ大司教。

ラインラントに大きな領土を持つ諸侯の1人でもあった。
0286世界@名無史さん垢版2017/07/01(土) 13:19:14.170
7人の選帝候のうち、マインツ大司教・トリーア大司教・ライン宮中伯の3人が、
現在のラインラント=プファルツ州に集中している。

ちなみに、北ラインラントのケルン大司教も選帝候の1人。

ラインラントがいかに重要な地域だったかがよく分かる。
0289世界@名無史さん垢版2017/07/01(土) 14:12:49.640
この北イタリアのポー平原からドイツ・オランダのライン川流域にかけての地域は、
ヨーロッパで最良の土地であり、中世も現代も欧州経済の中心。

日本の「太平洋ベルト地帯」にも例えられる。

中国でいえば、長江流域がこんな感じか。
0290世界@名無史さん垢版2017/07/01(土) 14:14:58.320
>>289
いや、中国に例えるなら、北京・上海・広東省の沿海部だろう
0291世界@名無史さん垢版2017/07/01(土) 14:29:09.440
ポー川平野は稲作地帯だから長江下流域でいいと思う
0293世界@名無史さん垢版2017/07/01(土) 15:00:21.590
欧州の金融と工業の中心は、このブルーバナナにすっぽり入っている。
現代ではロンドンとルール地方、中世では北イタリアとフランドル地方。
物流の中心は、昔も今もオランダの港だ。

ルネサンスも産業革命も、この地域で起きた。
0294世界@名無史さん垢版2017/07/01(土) 15:13:38.810
>>292
歴史地図を見ると、ロタリンギアは、現オランダ〜独仏国境地帯〜現スイス〜イタリア北半分
だけど、これ、どうやって統治やれってんだろう?
0295世界@名無史さん垢版2017/07/01(土) 15:31:25.890
かなり無理があるな
0297世界@名無史さん垢版2017/07/01(土) 16:08:17.780
ライン川〜モーゼル川〜ローヌ川〜レマン湖〜ポー川 の水系に沿う感じだな
0298世界@名無史さん垢版2017/07/01(土) 18:34:20.450
>>274
本来征服者である筈の大和朝廷の出先機関を有り難がって「多賀城市」とか「太宰府市」とか名乗ってる
東北や九州の都市があることを考えれば日本人の感覚としては分かり易いのかな>ケルン
0299世界@名無史さん垢版2017/07/01(土) 20:57:21.860
コローニア・アグリッピナだったという意識はもう無いんでは?
0301世界@名無史さん垢版2017/07/01(土) 21:39:40.830
ヒトラーのラインラント進駐

は936年3月7日にドイツが、ヴェルサイユ条約により非武装地帯と定められていたラインラントに陸軍を進駐させ、
同地のアーヘン、トリーア、ザールブリュッケンに兵営を設けて駐留を開始させた事件を指す。
0302世界@名無史さん垢版2017/07/01(土) 21:41:10.330
1925年のロカルノ条約でドイツ、フランス、イギリスはラインラントの非武装を確認した。
0303世界@名無史さん垢版2017/07/01(土) 21:45:17.270
1936年、ヒトラーはロカルノ条約を破ってラインラントを再武装することを決意した。

イギリス・フランスがどう出るか。側近は反対した。これはヒトラーの大きな賭けだった。

作戦は、極秘で進められた。冬の夜明け、突如としてドイツ軍がラインラントに進駐した。

虚を突かれたフランスは、モタモタするばかりで何も対応できずじまい。
ヒトラーの大博打は成功した。
0304世界@名無史さん垢版2017/07/01(土) 21:46:17.490
第二次世界大戦後、フランス軍に尋問されたドイツ軍のハインツ・グデーリアン将軍は、「もし、1936年にフランス軍がラインラントに進軍すれば、我々は敗北し、ヒトラーは失脚していただろう。」と答えた。

またヒトラーも、フランスが動かないという確信を持っていたわけではないと後年、以下のように述懐している。

「ラインラントへ兵を進めた後の48時間は私の人生で最も不安なときであった。 もし、フランス軍がラインラントに進軍してきたら、貧弱な軍備のドイツ軍部隊は、反撃できずに、尻尾を巻いて逃げ出さなければいけなかった。」
0305世界@名無史さん垢版2017/07/01(土) 23:00:05.920
「自然の国境」を唱えるフランスはライン川を国境にしたいと何度も望んだが、
ライン川を自分たちの川とするドイツは、その西側の地帯をもドイツに含める
ことにこだわった。

後に独仏紛争の火種となるアルザス=ロレーヌ問題は、そうしたところに
起源があったのである。
0306世界@名無史さん垢版2017/07/02(日) 07:53:34.770
もしも中国が分裂したとしても、長江を自然国境として国を分けるのは難しいだろうな。

どの国も両岸の土地が欲しいに決まっている(笑)
0307世界@名無史さん垢版2017/07/02(日) 07:55:27.130
ドイツ人にとってのラインラントは、日本人にとっての京都・奈良みたいなものだ。

経済的な価値もさることながら、民族意識の原点としての古都の重要性が計り知れない。
0308世界@名無史さん垢版2017/07/02(日) 07:59:13.370
ライン川の西岸をめぐる独仏の争いは、中世の東フランクが、中フランクを併合したことに淵源がある

ここで、ヨーロッパ最良の土地であるラインラントは東フランクの領土となり、
さらには神聖ローマ帝国へと受け継がれていった
0309世界@名無史さん垢版2017/07/02(日) 08:11:16.120
中国も、北京帝国が長安を手放すとは考えられない
0310世界@名無史さん垢版2017/07/02(日) 08:11:42.220
まあ、北京自体も千年の古都だが
0311世界@名無史さん垢版2017/07/02(日) 08:14:33.340
中世ヨーロッパにおいては、パリをしのぐ大都会だったケルンだが、
今のケルンにそういうイメージはない
0312世界@名無史さん垢版2017/07/02(日) 08:42:15.570
フランスにとっても、ライン川は自分たちの原点だ。

初代フランク王のクローヴィスは、今でいうベルギーの出身。

シャルルマーニュ大帝は、北ラインラントのアーヘンで戴冠した。
0313世界@名無史さん垢版2017/07/02(日) 08:55:38.960
「史上最強の教皇」ことインノケンティウス3世は、皇帝選挙に介入した。

マインツ大司教・トリーア大司教・ケルン大司教に皇帝選挙権を持たせることに成功したのだ。

1356年、皇帝カール4世の金印勅書により、皇帝選挙権は法的にも確定した。
0314世界@名無史さん垢版2017/07/02(日) 09:34:33.060
ドイツって、北には海があり、南はアルプスに区切られている。

西は、進もうとするとすぐにフランスと利害がぶつかる。

それに対して東は未開地。

ドイツ王はイタリア政策とともに東方政策によってその王権を維持した、
という面がある。人口が増加して新たな土地が必要になると、
その土地の開発管理を有力諸侯に任せることで、不満を抑えるというわけ。
0315世界@名無史さん垢版2017/07/02(日) 12:04:03.440
ブランデンブルグ辺境伯が後に巨大勢力と化したのは、歴史の必然であったか
0316世界@名無史さん垢版2017/07/02(日) 14:42:10.560
>>312
アーヘンは、ライン川よりもかなり西にある

ほぼベルギーの位置
0317世界@名無史さん垢版2017/07/02(日) 14:44:51.160
マンハイムからヴォルムスを過ぎ、ラインラント=プファルツ州都のマインツでライン川はマイン川と合流する。ここまでが上ラインと呼ばれる。

マイン川をさかのぼると、1992年に開通したライン・マイン・ドナウ運河によってドナウ川へと水路がつながっており、この三河川を使用すれば北海から黒海まで河川のみで行くことも可能である。
0320世界@名無史さん垢版2017/07/02(日) 15:27:58.420
昔からブランデンブルクは土田舎で人口密度も20世紀になってもうすいレベル
東でいうとザクセンの方が人口も多くて発展してた
ライプツィヒやドレスデンは東ドイツ文化の中心だったし経済的にも
プロイセン王国はでかいけど人口密度はうすかった
オーストリアも山がちで人口はそれほどでもなかったけど銀鉱があったりイタリアとの通商路で金はあったはず
バイエルンは中世から近世は人口多かったけど18世紀あたりから人口密度が薄くなって衰退してる
アウグスブルク周辺が南ドイツの経済の中心地だった
0321世界@名無史さん垢版2017/07/02(日) 19:23:05.560
中世ドイツでもっとも重要な鉱山は、ザクセンのゴスラーだった。

ザクセンの鉱山都市としては、ゴスラーのほかにはその東方のマンスフェルトの銅山や
南ザクセンのフライベルク、シュネーベルク、アンナベルク、マリーエンブルクなどの
銀山が知られている。
0322世界@名無史さん垢版2017/07/02(日) 19:45:50.590
>>313
カール4世の後もルクセンブルク家の家勢が衰えずハプスブルク家に取って代わられることがなかったなら
プラハを帝都とするボヘミア帝国が史実のオーストリア帝国の位置づけだったんだろうな
0323世界@名無史さん垢版2017/07/03(月) 22:25:30.350
どうかなあ。

オーストリアは、首都ウィーンこそ平地にあるけど、
本質的にスイスみたいな、アルプス山脈の山岳国家。

皇帝マクシミリアンは、インスブルックに首都を置き、ドイツとイタリアの双方にニラミをきかせた。

それに比べてボヘミアの地勢は、帝国全体を統治するのに適していると言えない。
0324世界@名無史さん垢版2017/07/03(月) 22:41:52.370
ボヘミア王は実力がありすぎて、他の諸侯から警戒されたのが敗因
0326世界@名無史さん垢版2017/07/04(火) 08:33:58.700
オーストリアの東にはドナウ川という大動脈があり、プロイセンの東は広大な平地
ボヘミアの東側はすぐに山脈に突き当たるからその二つに比べて東方への拡大の余地が少ない
0327世界@名無史さん垢版2017/07/04(火) 10:49:47.600
あの辺りの地勢見たらチェコとスロバキアの分離は地理的観点から妥当だったのがよく分かる
0328世界@名無史さん垢版2017/07/04(火) 10:52:57.940
プラハはエルベ川だから、ハンブルク・北海方面の物流には良かったかもな?
0329世界@名無史さん垢版2017/07/05(水) 06:58:29.780
ドイツもイタリアも、統一は国民の総意ではなかったし、歴史の必然でもなかった

たまたま、天才的な政治家や軍人が出てきたおかげ

統一できなくても不思議はない
0330世界@名無史さん垢版2017/07/05(水) 17:41:06.800
すぐ隣のフランスと同程度の国家規模を確保しないと外交・国防上まずいという意識はある程度あったんじゃないか?
もしもフランスが南仏とブルゴーニュを併合できず三国志的状況が近世以降も続いていたら今日の統一国家ドイツとイタリアもなかったと思う
0331世界@名無史さん垢版2017/07/05(水) 21:23:44.950
早く南北統一して、隣国と同じ規模になるニダ
0332世界@名無史さん垢版2017/07/06(木) 10:43:17.090
>>330
逆に百年戦争をプランタジェネ家が制して英仏統一国家が出現していたらこれに対抗するためにドイツと北イタリアの強固な統一国家が出来ていた可能性もあるかな?
0333世界@名無史さん垢版2017/07/06(木) 21:45:50.420
フランスは、オーストリアとスペイン(どっちもハプスブルク家)に挟まれて、
“フィンランド化”される恐れがあったから、神聖ローマ帝国を分裂状態に
しておく必要があったわけ。

だから三十年戦争では同じカトリック側ではなくプロテスタント側についた。
0334世界@名無史さん垢版2017/07/17(月) 14:01:47.860
三十年戦争により、戦場となったドイツは荒廃し、近代化が更に遅れてしまいました。この戦争の講和条約が、1648年に締結されたウェストファリア条約です。

ドイツのウェストファリア地方にあるミュンスターとオスナブリュックという2つの都市で講和会議が開かれたため、こう呼ばれます。

この講和条約の主な内容は次のようなものでした。

・アウグスブルクの宗教和議の確認
・カルヴァン派の承認
・スイス、オランダの独立承認
・フランスがアルザスとロレーヌ地方を獲得
・スウェーデンが西ポンメルン獲得
・ドイツ諸邦の各主権が確立
0335世界@名無史さん垢版2017/07/17(月) 14:02:36.250
ヨーロッパ全土を巻き込んだ戦争とその後の条約は、歴史的のどのような影響を与えたのでしょうか。ポイントは次の5つです。

・全盛を誇ったハプスブルク家が後退し、代わりにフランスのブルボン朝が台頭するきっかけとなった。

・カルヴァン派が承認されたことで、新教の立場が確立した。

・ドイツ諸侯の領邦主権が確立したことで、ドイツは300以上の領邦に事実上解体された。(神聖ローマ帝国は名目的には1806年まで存続します。)

・ドイツは戦争と傭兵による略奪によって国土が荒廃し、人口が激減、その後の農業や商工業の発展が阻害され近代化が遅れる。

・ウェストファリア条約締結の際、ヨーロッパ各国が「主権国家」として参加したため、その後の国際関係やヨーロッパの主権国家体制が確立した。
0336世界@名無史さん垢版2017/07/17(月) 14:05:51.360
ウェストファリア条約によって、ドイツは300諸侯が事実上独立した。

日本に例えれば、江戸幕府が崩壊して、300藩が独立したような状況。

いよいよ、弱肉強食の戦国時代が始まった・・・。
0338世界@名無史さん垢版2017/07/17(月) 14:07:12.750
300諸侯の中から台頭してくるのは、三十年戦争の被害をあまり受けなかったプロイセン。
0339世界@名無史さん垢版2017/07/17(月) 14:08:28.630
ハブスブルク王朝が衰退した結果、強力な集権国家・フランス王国の影響力がトテツもなく増大した。
0340世界@名無史さん垢版2017/07/17(月) 14:10:51.880
中国バブルが崩壊

ドイツは巻き添えになって荒廃する
0341世界@名無史さん垢版2017/07/19(水) 13:54:43.760
30年戦争でドイツで人口が半減したとかってもう今どきでは誰も言わないよ
30年戦争開始前と終了後で人口は1600万程度でほとんど変動してないのは確認済
当時の文献だけで、ヒドイ、ヒドイ、と言ってただけ
政治的に混乱したのは確かだけど
0342世界@名無史さん垢版2017/07/19(水) 14:04:31.220
諸侯に分裂したドイツを統一するための手段がドイツ関税同盟だった
諸侯で関税を一律にすれば経済圏としては統一されたのと同じであるって発想で
1834年から順次進められれ1854年に完成する
このドイツ関税同盟こそがEUの基なのではあるまいか?
現代ドイツの行方が気になりだしてから、1800年代のドイツ統一への流れをもう一度おさらいしたくなった
0343世界@名無史さん垢版2017/07/19(水) 14:55:42.090
近代化が遅れたって言うけど地域差がある
中欧ドイツは荒廃したけどルール地方は相変わらず栄えてたし
オーストリアはほぼ無傷、ボヘミアはダメージうけた
0345世界@名無史さん垢版2017/07/19(水) 15:14:09.050
ドイツの近代化は「まずナポレオンありき」って言葉から始まる
ナポレオンに支配されることからドイツ近代史のすべてが始まってる
0346世界@名無史さん垢版2017/07/20(木) 01:54:09.200
どうしてバラバラだった国々が一つにまとまったのか不思議
ドイツの場合は言葉がほぼ共通だったから?

イタリア、中国は違う
0347世界@名無史さん垢版2017/07/20(木) 12:32:01.720
中国は言語は違うけど統一された表意文字:漢字があったから筆談で容易に意思疏通ができた
0348世界@名無史さん垢版2017/07/20(木) 15:45:35.300
>>346
ドイツ統一の定義から始めねばならん、ドイツ語を話すドイツ民族の統一って定義だと一時的にせよ
成し遂げたのはナチス第三帝国時代だけ
オーストリア帝国はドイツ民族圏やらチェコ・ハンガリーも含めた多民族帝国
もしオーストリアからドイツ民族圏が抜けて統一ドイツに参加するとそれはオーストリアの解体になる
だからフリードリッヒとマリアテレジアは戦い続けた
結局オーストリアのドイツ人は諦めその他のドイツ人をまとめた小ドイツ主義に落ち着いた
0349世界@名無史さん垢版2017/07/20(木) 16:51:01.590
ドイツ人は集まるとろくなことしないからバラバラの方がいいな
0350世界@名無史さん垢版2017/07/20(木) 16:58:10.290
>>349
まだ東西ドイツだった時代にドイツ嫌いで有名なフランスの政治家がインタビューの中で
ドイツの統合について意見を求められると
「私がドイツ嫌いだってのは誤解だ、私はドイツが大好きだ、だから世界にはいつまでもドイツが二つあって欲しいのだ」
って答えた
0352世界@名無史さん垢版2017/08/02(水) 08:09:52.090
>>349
日本人もそうかも知れんな
0353世界@名無史さん垢版2017/08/02(水) 09:50:36.710
>>352
いや、日本人は一人ではダメ
日本人は全員親しくなれる程度の小集団(数人〜30人程度)が一番いいのだ
0354世界@名無史さん垢版2017/08/02(水) 11:16:32.130
民族によって一番力を発揮し易い単位があって
日本人の場合軍隊で言えば連隊クラスが一番合ってる
行政単位だと旧分国くらい、だから幕藩体制が一番適合してる
幕藩体制を斬新的に近代化してゆくって道が取れなかったもんだろうか?
0356世界@名無史さん垢版2017/08/02(水) 22:22:16.780
>>354
東京から金沢まで新幹線で二時間半の時代だぞ

徒歩で移動してた頃と同じ距離感で分けられるか
0357世界@名無史さん垢版2017/08/02(水) 22:24:17.490
最近は幕藩体制を理想化するのがアンチ・グローバリストの間で流行ってるが、
地方公務員が腐敗して、「水戸黄門の全国漫遊」が必要になるだけだ
0358世界@名無史さん垢版2017/08/02(水) 22:27:10.030
アメリカを幕府とする、世界規模の幕藩体制が究極の姿

イギリスは親藩、日本とドイツは譜代で、中国・ロシアが外様大名
0359世界@名無史さん垢版2017/08/02(水) 22:30:38.410
江戸幕府は、幕府の力が強すぎて、神聖ローマ帝国とは似ていない。

神聖ローマ帝国と似ているのは、しょっちゅう地方の大名と戦争してた室町幕府
0360世界@名無史さん垢版2017/08/02(水) 23:09:37.910
神聖ローマ帝国 : 典型的な封建制
徳川幕府 : 限りなく中央集権制に近い封建制
室町幕府 : 典型的な封建制

うむ、確かにその通りだ
0362世界@名無史さん垢版2017/08/03(木) 10:33:16.980
ドイツ帝国はプロイセンを徳川とした幕藩体制に近い
藩と幕府の力の差で言えばプロイセンの方が強力だったけどね
日本では討幕は成立したがドイツで諸侯が打倒プロイセンは無理だっただろう
ドイツ帝国と日本との決定的な違いは日本の場合は幕藩体制の上に朝廷って存在があったことだ
忘れられがちだが幕藩体制を語る時に朝廷の存在は絶対に欠かせない
ヒトラーが日本大使に、天皇だけは大切にしろよ、あれだけはマネができないんだ、と語ったというが
朝廷の無い幕藩体制からドイツ帝国を作らねばならなかったドイツ人視点だからこそ天皇の価値が見えたんだろう
0363世界@名無史さん垢版2017/08/03(木) 21:53:15.860
神聖ローマ皇帝が形だけそのまま存続してればドイツもそうなった
0364世界@名無史さん垢版2017/08/03(木) 21:59:56.920
は?
0365世界@名無史さん垢版2017/08/04(金) 00:51:31.580
>>362
ポーランド、バルト方面との戦争、侵略の核になった強力な軍事力があったので統一に成功した
バルト諸国は殺しまくられてまったく荒廃した

隋や唐が北からの侵攻に備えた六鎮の軍事力を元にして中国を統一したのと似ている
0366世界@名無史さん垢版2017/08/04(金) 02:35:16.920
>>359
神聖ローマ皇帝は天領よりはるかにでかい領土もってたけどな
運が悪いことにフランスという強力な敵と接していた
0367世界@名無史さん垢版2017/08/04(金) 02:51:40.030
>>360
徳川幕府 : 限りなく中央集権制に近い封建制
幕末みる限り実はそれほど強力ではなかったと思うけどね
当時のイギリスの外交官の手記みる限りイメージと違って幕府の権威はでかかったけど権利はそれほどでもない
領内に関して大名は独占的権限をもってて、大大名にはほとんど介入できなかった
外交するにしても天皇の権限がより優位だったし
それに全国における天領の割合が15%程度しかない
30%以上あるハプスブルク家よりしょぼい
ハプスブルク家は皇帝としてはかなり強力だけどフランスがそれ以上に強力で邪魔しまくったのがまとめられなかった原因
0368世界@名無史さん垢版2017/08/04(金) 03:13:13.260
天領は少なくても譜代がいるからその点は優位かな
ただ島国だから安定できたってのはある
強力な外国が接していたら徳川も厳しかったろう
0369世界@名無史さん垢版2017/08/04(金) 04:36:24.210
御三家はじめ親藩譜代を足せば
徳川支配地は日本の半分くらいになるだろう
0370世界@名無史さん垢版2017/08/04(金) 07:21:17.710
>>362
中世の前期までは、幕府にとっての天皇と似た存在が、帝国にもあった

ローマ教皇だが
0371世界@名無史さん垢版2017/08/04(金) 07:24:55.680
京都の朝廷と鎌倉の幕府の関係は、ローマの教皇庁とドイツの皇帝の関係に、驚くほどよく似ている

中国には、こういう宗教権威と世俗権力の分離がなかった
0372世界@名無史さん垢版2017/08/04(金) 07:27:28.520
しかし、後には神聖ローマ皇帝やフランス国王も、かなりの宗教的な権威を伴う存在と化していったのは事実
0373世界@名無史さん垢版2017/08/04(金) 08:30:07.130
帝国内に限定すれば、聖界諸侯筆頭のマインツ大司教が天皇に一番近いかな。ただ、これも自前の軍隊や領土を持ってて、近世までの天皇よりは筒井順慶や安国寺恵夐に近い存在
0375世界@名無史さん垢版2017/08/04(金) 08:59:48.770
旗本加えると25%になるからだいたい4割ちょっとぐらいだったみたいだ
0376世界@名無史さん垢版2017/08/04(金) 09:30:19.530
>>371
欧州以外だとアッバース朝のカリフとセルジューク朝やオスマン帝国のスルタンの関係もよく似てるな
0377世界@名無史さん垢版2017/08/04(金) 09:39:46.350
関が原の戦いに秀忠が遅参しなければ、外様に恩賞を与えなくて済むから、
徳川支配地は日本の6割から7割ちかくいってたかな?
0378世界@名無史さん垢版2017/08/04(金) 09:46:32.830
欧州の聖と俗の関係はかなり複雑で単純に法王と皇帝に分けられない
王国なりの広域を統治するためには行政組織が不可欠になるけど
機能する行政組織って教会しかなかった
つまり教会という俗な仕事をやってくれる組織の上に乗ってはじめて王権が成立するわけで
この両者の綱引きが複雑すぎて今でも論争が続いてる
0379世界@名無史さん垢版2017/08/04(金) 12:43:25.380
徳川の場合、関ヶ原で秀忠が遅れたのが痛かった
0380世界@名無史さん垢版2017/08/04(金) 21:20:58.560
>>378
>>371の指摘のように、中国史では西洋史のような巨大な宗教的権威の台頭が見られなかったのは
歴史のかなり早い段階から世俗的な官僚機構を皇帝が自前で用意出来たからなんだろうな
0382世界@名無史さん垢版2017/08/04(金) 21:47:39.830
>>380
同意、中国史の最大の特徴は大規模な官僚機構の構築に習熟してたことだろうね
だがこの官僚機構には明暗両面があって、能力のある者を選抜する、世襲させない
って一見理想的に見えるんだけど実際にはアッと言う間に腐敗してしまう
日本や欧州の世襲封建制の方が遥かに清廉な行政を維持できたんだよな
0384世界@名無史さん垢版2017/08/04(金) 21:56:50.270
国王が民衆の患部に手を触れることで、病気を治す奇跡療法をロイヤル・タッチとよぶ。

ローマ皇帝ウエシパシアヌスが起こした奇跡が、記録として残っている中では最古のものとされている。
皇帝のもつ不思議なヒーリング・パワーによって盲目は光を取り戻し、体の不自由なものは回復したという。

11世紀のイギリス国王エドワード懺悔王や、ノルウェーのオーラヴ2世、
16世紀に良王として慕われたフランス国王アンリ4世らはその特殊な能力で大勢の民衆を治療したという。

彼らは気功師のように強力な気を放って、病人を奇跡的に治したのであろう。
そうでない場合も、「ロイヤル・タッチで病気は治る」という信念が民衆の側にあったからこそ、国王という神聖な存在が威光暗示として働き、多くの奇跡が起きたのである。
0386世界@名無史さん垢版2017/08/04(金) 22:02:55.350
支那は一応、”怪力乱心を語らず”を理想としてるから宗教色はあんまり無いよね
中国史を彩るあの度外れた残忍性や虐殺の原因なのかもしれない
欧州では宗教があるからこその残忍さがあるから一概に言えないけど
やっぱ日本くらいが丁度良いのかも
0387世界@名無史さん垢版2017/08/04(金) 22:09:21.140
儒教では、皇帝が不徳だと干ばつなどの天災が起こるとされている

だから、中国の皇帝は雨乞いの儀式とかを必死でやっていた
0388世界@名無史さん垢版2017/08/04(金) 22:12:02.620
村山富市政権・・・阪神大震災

菅直人政権 ・・・東日本大震災

左翼政権の誕生と、天災は奇妙に符合する
0389世界@名無史さん垢版2017/08/04(金) 22:29:24.240
>>382
中国史上における世襲的封建制の否定と民衆による革命権の肯定
考えようによっては世界史上最も古いリベラリズムなのかも
0390世界@名無史さん垢版2017/08/05(土) 04:35:18.010
>>389
地方に総督を派遣するというのは、古代ペルシャ帝国やローマ帝国もやっていた

でも、だからといって、地方の有力者がいなくなるわけではない
0391世界@名無史さん垢版2017/08/05(土) 04:46:53.900
>>389
>民衆による革命権の肯定

それはジョン・ロックの社会契約説

中国の易姓革命は、単に皇帝の姓が変わるだけであり、社会体制はまったく変わらない

この2つがどれほど異質な思想であるかを、故・小室直樹が力説してたのを思い出す
0392世界@名無史さん垢版2017/08/05(土) 05:09:40.530
漢の豪族社会、唐の貴族社会は、世襲の封建的有力者の世界だった

唐から宋にかけて、それが科挙官僚による統治へと変わる
0393世界@名無史さん垢版2017/08/05(土) 05:11:33.840
長宗我部家が廃され、山内一豊が藩主として土佐に赴任したように、
科挙官僚が地方の統治者として北京から送り込まれた
0394世界@名無史さん垢版2017/08/05(土) 05:22:52.710
廃藩置県した明治の日本では、世襲の藩主に代わって、県令が東京から送り込まれた。

北京の王朝には、近代日本ほどの中央権力があったということになる。
0395世界@名無史さん垢版2017/08/05(土) 06:50:58.070
■秦の中国統一

それまで小国家同士の争いを繰り返してきたユーラシア大陸東部を秦の始皇帝が平定し、統一王朝を成立させる。
この原動力となっていたのが、中央集権化だった。

それまでの世襲の封建体制に代わって、中央から王が派遣する官吏が土地を統治する「郡県制」によって強力な中央集権化を進め、統一王朝を築く。

後の律令制度に繋がる法治主義の確立など、統一王朝のモデルを作り上げた。
0396世界@名無史さん垢版2017/08/05(土) 06:53:39.970
中国の長い歴史のなかで王朝は統一と分裂を繰り返してきた。
カリスマ的指導者の下、国土が統一されると、中国は大きく、
国家は強くなければならないという国家観から、
広大な国土を強力な中央集権型システムで統治する公式制度が打ちたてられるが、
地方の統制は難しく、実際には、中央集権の程度は時代ごとに伸縮してきた。

 中華人民共和国についても、歴史的な中央集権─地方分権のサイクルがやはり確認される。

建国以来1970年代末までの毛沢東時代には、歴代王朝と異なり、
社会主義的近代国家の建設という目標を掲げ、
急速な経済近代化のため中央集権型計画経済システムを採用した。

地方統治の面では、伝統的には県レベルまでの浅い統治システムであったところを、
中国史上初めて郷レベルにまで政府を設置した。
0397世界@名無史さん垢版2017/08/05(土) 06:59:57.450
ドイツとフランス
中央集権と地方分権

 両国の政治の仕組みをみても、その間にはきわだった対照がみられる。
フランスの強大な大統領制とドイツの議院内閣制からして大きな違いがみられるが、
より顕著なのは前者の中央集権制に対する後者の地方分権制である。

 フランスはその発端から、ひたすら王権を強化し、王領を拡大することによって形成され発展した国家である。
パリとオルレアン一帯を支配するにすぎなかったカペー朝初期の所領が、ほぼ今日のフランス本土全域にまで拡大されたのは、
17世紀ルイ14世の時代であるが、これをもたらしたのは、歴代の王が一貫して行なった力による征服の結果に他ならなかった。
その国土膨張の過程で、支配を維持し統一を強化するために確立されたのが、パリを中心とする中央集権制度であった。

 フランス革命で王政は打倒されたが、中央集権制度は生き残っただけでなく、革命とその後のナポレオン時代にさらに強化されて今日に至っている。
0398世界@名無史さん垢版2017/08/05(土) 07:00:42.040
一方ドイツでは、1971年の統一以後も、歴史的な諸国並立の状態は引き継がれ、ヒトラー時代と戦後の東ドイツをのぞいて、今日まで地方分権制を維持してきた。

鉄血宰相ビスマルクによって実現されたドイツ帝国も、決して一枚岩の統一国家ではなく、連邦制の下に樹立された国家であった。

26の邦から構成され、そのうち22邦は従来通り君主制を維持し、それぞれ君主の統治下にあった。

22邦とは、プロイセン、バイエルン、ザクセン、ヴュルテンベルクの4つの王国、それに6つの大公国、5つの公国、7つの侯国である。

これらに、ハンブルクをはじめ3つの自由ハンザ都市、それに帝国直轄地としてエルザス・ロートリングン(アルザス・ロレーヌ)が加わって連邦を構成した。
0399世界@名無史さん垢版2017/08/05(土) 07:04:52.630
ドイツの地方分権は、第一に教育・文化にいちじるしい。ドイツには中央に文部省がなく、教育は州政府の管轄下にあり、各州それぞれ異なる教育行政が行われている。

第二には財政である。たとえば中央と地方の予算配分をみると、ドイツでは連邦(中央)政府の取り分がわずか40%であるのに対し、フランスでは70%以上を国がにぎっている。

第三は国政に対する地方のチェックである。ドイツの連邦参議院(上院)は、各州政府から任命された議員から構成されており、彼らは州政府の意志に拘束されている。

第四にマスメディア、ことに放送である。国営放送中心のフランスに対し、ドイツでは、各州が共同で公共放送を運営している。
しかもフランスでみられるような政治の介入を避けるため、州それぞれ各界多様な代表からなる放送審議会が運営に参加する。
なお各州には、連邦の越権に対して、憲法裁判所への提訴の道が開かれている。
0400世界@名無史さん垢版2017/08/05(土) 08:57:21.460
西欧で勃興した近代国家の本質を見極めるため覇権された遣欧使節団
日本が執るべき国体の参考を探して各国要人と面談を続けた伊藤博文が
統一間もないビスマルクとも会談してる
ビスマルクは何故か最初から日本に好意的で近代国家の有り方について親切に教えてくれた
伊藤に向かってビスマルクは熱弁をふるう
・議会何てのは面倒なだけだから作るな
・選挙はガス抜きとしてやってるフリだけしてればよい、選挙権者は少なければ少ないほど良い
・憲法ほど邪魔なモノはない、あんなものは無い方が良い・・・etc

伊藤は、近代国家の模範を探しに欧州までやってきたのに
このドイツオヤジの言うことを聞いてたら徳川時代どころじゃない専制国家が出来てしまうと呆れかえった
0401世界@名無史さん垢版2017/08/05(土) 12:24:20.440
>>400
幕末までの日本が知っていた欧米の国といえば米英仏蘭といった議会制民主主義の最先進国ばかりだったから
日本の政治思想・制度を原形を留めないほど作り替えなければ富国強兵は成らないのでは、と伊藤は心配してたところ、
日本とそう変わらない半専制的な政治体制のまま富国強兵を成し遂げたプロイセンという国を知って
伊藤は随分と安心したという話をどこかで読んだ記憶がある
0402世界@名無史さん垢版2017/08/05(土) 13:57:31.110
>>397
フランスは血筋が絶えなかったのが大きいよ
全員カペー家につながってるから
カペーからヴァロア家、ヴァロア家からブルボン家で王家が獲得してきた領地を全部相続できた
一方ドイツはハプスブルクまでは安定した継承ができなかったし
カール5世が死んだ後オーストリアとネーデルラントに分割相続した結果皇帝の力が弱くなった
0403世界@名無史さん垢版2017/08/05(土) 14:14:22.520
フランスは百年戦争の後有力諸侯が断絶して
100年ぐらいでほぼ全部王領になった
そして最後に残った有力諸侯のブルボン家が王領を相続してヌヴェール公領を除いた95%ぐらいが王領になった
こんぐらい都合がドイツじゃ起こらなかった
0404世界@名無史さん垢版2017/08/05(土) 14:15:52.920
日本はプロイセンだけじゃなく
イギリスもかなり参考にしてるからな
そもそも明治維新のバックにイギリスがいる
0405世界@名無史さん垢版2017/08/05(土) 18:30:20.290
ないない。すべてはウヨジナル
0406世界@名無史さん垢版2017/08/05(土) 18:46:27.470
日本が議会制民主主義の国になったのは、近代化のお手本となるモデルがイギリスだったからであり、
中国か独裁制全体主義の国になったのは、近代化のお手本となるモデルがソ連だったから。

日本人と中国人の国民性の違いより、その方が大きい。
0407世界@名無史さん垢版2017/08/05(土) 22:20:36.870
日本にお手本などないウヨジナル
0408世界@名無史さん垢版2017/08/06(日) 01:18:45.100
>>406
イギリスをお手本にしようとしたのは欧州各国も同じ
あのフランス革命だってイギリスのようになりたいって気分が強かったという
お手本は同じでも出来上がるのは各国独自のものにしかならない
0409世界@名無史さん垢版2017/08/06(日) 07:39:08.700
17世紀、イギリスでは清教徒革命が起こり、フランスではフロンドの乱が起きた。

イギリスでは国王チャールズ一世が敗れて議会制民主主義が大きく前進した。

フランスでは国王ルイ14世が勝利して、絶対王政への道が開かれた。
0410世界@名無史さん垢版2017/08/06(日) 08:32:12.470
ドイツでは三十年戦争が起きて、神聖ローマ帝国が崩壊した。
0411世界@名無史さん垢版2017/08/06(日) 10:26:44.240
訂正

ドイツでは三十年戦争の結果、神聖ローマ帝国が有名無実化した。
0413世界@名無史さん垢版2017/08/10(木) 06:24:10.810
山県有朋は政党政治の導入に反対していたが、伊藤博文は上からの近代化の一環として譲らなかった
0414世界@名無史さん垢版2017/08/10(木) 06:25:22.360
伊藤博文こそは、アジアに議会制民主主義を導入した世界史的人物
0415世界@名無史さん垢版2017/08/10(木) 07:40:36.410
>>393
>山内一豊が藩主として土佐に赴任したように
当時、藩なんてのはない
領主だ
0416世界@名無史さん垢版2017/12/20(水) 22:54:41.210
大学時代は南ドイツより北ドイツの方が経済的に発展していると習ったけど今は逆になっているみたいだな
南部のバイエルンなんてプロイセンやザクセンに比べたらゆるゆるってイメージがあったんだけど
0417世界@名無史さん垢版2017/12/21(木) 10:56:24.530
>>403
「イギリスのような」というのはそれまで議会制民主主義について具体的イメージを
提供できる国がほかに現存しなかったからというだけ
しかし歴史を紐解けば古代ローマの共和制、古代ギリシャの民主政があった
ギリシャとローマでもだいぶ違うが、モデルはイギリスだけだったわけではないし
またイギリスの議会制度も啓蒙主義から計画的に作られたというものではない
フランスは啓蒙主義に基いて革命を起こしたから各国から危険とみなされて攻撃された
0419世界@名無史さん垢版2017/12/30(土) 13:10:23.040
今でもルール地方は盤石でしょ
ていうかケルンからネーデルラントは1000年前から欧州経済の要
0420世界@名無史さん垢版2018/01/30(火) 12:47:20.430
世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』

RRDOK
0421世界@名無史さん垢版2018/04/09(月) 06:43:30.070
http://natsu00117.cocolog-nifty.com/blog/images/2012/03/31/20090622190017.jpg       

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https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-c9-76/abs76jh/folder/473345/45/32229645/img_1?1179450512

          

https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-8c-36/sokanet_cult/folder/104287/91/8857591/img_3?1366061424                      

https://trendy-da.net/wp-content/uploads/2017/02/39ff44330ec1cd69ab671546c157f0eb-246x200.jpg   
0422世界@名無史さん垢版2018/04/23(月) 00:41:20.290
ドイツ本当におもしれーわ
0423世界@名無史さん垢版2018/05/24(木) 20:54:31.980
HRE!
0424世界@名無史さん垢版2018/05/26(土) 20:01:40.840
>>419
長江下流が中国の要なのと同じく、ライン川下流が欧州の要
0425世界@名無史さん垢版2018/05/26(土) 20:02:22.260
中国ほど地域的な偏りがないので、なかなか実感しにくいことだが
0426世界@名無史さん垢版2018/05/26(土) 20:04:05.050
河口がオランダという、小さな独立国になっているのも偶然ではない

中国も、本当は上海が独立国となり、そこを境に南と北で別の国になるのが良い
0427世界@名無史さん垢版2018/05/26(土) 20:07:06.340
ドイツ国家成立の原点は、1815年のドイツ連邦にある
0428世界@名無史さん垢版2018/05/26(土) 20:07:51.360
あのまま、緩やかな統一国家になっていくという道もあった
0429世界@名無史さん垢版2018/05/26(土) 21:47:40.890
そしたら、オーストリアはなかった
0431世界@名無史さん垢版2018/05/27(日) 10:11:43.680
バイエルンは、今でも別の国みたい

政治も、日本でいえば、大阪だけ自民党じゃなくて大阪維新が牛耳っており、相互不可侵の協定を結んでいる・・・というような体制
0432世界@名無史さん垢版2018/05/27(日) 11:10:01.550
>>431
大阪維新の連中って元々は東京の人間だからそういうのとは一緒にしてはいかんよ
東京の保守派のはぐれものと大阪のゴロツキが一緒になって立てた党だし大阪にも自由民主党(大阪府連)というのがある
プロイセンの保守勢力であるCDUとバイエルン中央党の流れであるCDSの関係とは大いに異なる
0433世界@名無史さん垢版2018/05/27(日) 11:47:34.440
オーストリアは非ドイツ人部分が大き過ぎた
それこそヨーロッパに入りきれなかったイギリスと同じに
0434世界@名無史さん垢版2018/05/27(日) 13:02:36.260
バイエルンの右翼はドイツ国家よりバイエルン王に忠誠心があるイメージ
0435世界@名無史さん垢版2018/05/27(日) 15:57:34.330
>>433
それはプロイセンびいきすぎで、明治国家の枠組だけに染まりきった国家観だ
むしろオーストリアこそ「ドイツ的」部分をよく温存しているのではないか
0437世界@名無史さん垢版2018/06/10(日) 10:49:24.170
言わずとしれた中央集権的な国民国家体制中心の国家観でしょう
0438世界@名無史さん垢版2018/06/20(水) 21:43:43.030
今でもザクセンの公式文書には中央ドイツに位置するって書いてあるらしい
誰がどう見ても東部だろうが
0439世界@名無史さん垢版2018/07/12(木) 10:37:56.160
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0441世界@名無史さん垢版2018/10/31(水) 16:56:42.080
領邦300あったらしいが尋常ではない数だぜ
ドイツって一体なんなんだよ
0442世界@名無史さん垢版2018/11/01(木) 19:46:00.470
>>441
藩みたいなものでは?
0444世界@名無史さん垢版2018/11/03(土) 00:43:35.660
しかし藩に別れていても日本人には互いに同じ民族という意識があって、
おなじような文化を共有していた
ドイツ人にこういうことはあったのか?
0445世界@名無史さん垢版2018/11/03(土) 01:29:36.180
ナポレオン占領下のフィヒテの講演「ドイツ国民に告ぐ」によって民族意識が興ったことになっているが、
その前から当然あっただろう
ドイツ語は方言がバラバラで相互の意思の疎通も困難だったが、1617には「実りを結ぶ会」という
学者や貴族・諸侯が集まる会議が生まれ、綴り字の統一に向けて活動していた
この会の前にラトケという教育者が、それまでの古典語教育以外のドイツ語の教育の必要性を
訴え、神聖ローマ皇帝の選定会議で建白書を発表し、何人かの諸侯がすでに賛成していて、
17年にはワイマール公国の大后の葬儀の場で諸侯らがこの会を結成した
つまり統一国家のない諸国分立状態の中でも、諸侯の政治の場が統一言語を求めたということになる
統一的なドイツ語はこうして組織的・計画的に作られた
0446世界@名無史さん垢版2018/11/03(土) 16:04:45.640
言語が民族を規定する重要な要素のひとつではあるけどね。
言葉が統一されただけで他の要因がバラバラな諸領邦の民同士に同民族としての意識があったかは疑問ではある。
フィヒテの演説だけで勃興した論も腑に落ちないとこはあるけど。
0447世界@名無史さん垢版2018/11/03(土) 18:16:07.870
ラトケの建白書の目的はあくまで教育上の効率の向上だった。
生徒たちが土着のドイツ語を文字言語としてしっかり学ぶことによって、
彼の職場でのラテン語やギリシャ語の教育効果が格段に上がることが確認されたのだ。
その効果をさらに確実とするためには、ドイツ語がより整備され明確な形になっている必要があった。
綴り字の一貫性、他地方のドイツ語方言との統一によるドイツ語書籍の価値の向上、
ドイツ語書籍の出版の活発化など、教育効果以外にも、国家的統一を念頭に置かなくても、いい事だらけだった。

また選定会議に集うドイツ諸侯という人たちは、ドイツ諸言語が少しずつ異なること、
部分的には意思疎通が可能であること、存在したであろう方言間の通訳たちが
大した仕事をしていないように見えること、などを痛感していた人たちでもある。
互いにラテン語は知っていたとしても政治会議の口頭言語には不便だったことも想像に難くない。
統一的ドイツ語は、諸侯たちにとっても、たとえ国家的統一を念頭に置かなかったとしても、
事務上の効率化から必要なものだったのだ。
「実りを結ぶ会」の会合はすぐ後に起こる三十年戦争の間も、政治レベルとは異なる目的で
交戦国同士の代表によって続けられた。
0448世界@名無史さん垢版2018/11/03(土) 18:18:52.050
以下、ウィキペディア「実りを結ぶ会」の項目から引用。

>歴史的には、国語協会の功績は専らドイツ語の純化にあったという限定的な評価がなされてきた[5]。
近年の文学史家は、「実りを結ぶ会」は単なる国語純化やドイツ語の発達に寄与したにとどまらず、
ドイツにおける人文主義を押し進めたと考えている。以前のドイツでは、貴族・学者といった知識階級
によるラテン語の文学と、庶民・市民階級のドイツ語の文学は全く別世界のものとして扱われていたが、
両者が交わることで新時代のドイツ文学の土壌となったと考られるようになっている[5][30][8]。

>会員は、互いに礼節を重んじることが義務とされた。これによって昔から「粗野」とみなされてきたドイツの
領邦君主たちに、優美で荘重な宮廷文化が普及するようになった[10][5]。政治・軍事・宗派のポリシーを
超えて数多くの領邦君主が集ったことで、まもなく起きる三十年戦争で敵味方に分かれた領邦君主の
あいだでも円滑な連絡が確保され、戦中戦後の交渉に大きく寄与することになった[10][5]。さらに、
これらの国語協会の活動は「ドイツ」に対する愛国心を育んだ[30]。
0449世界@名無史さん垢版2018/11/03(土) 20:48:55.410
ヨーロッパって国という意識がすごく薄い気がする
日本の藩程度というか
0450世界@名無史さん垢版2018/11/03(土) 21:20:37.200
江戸弁と薩摩弁の開きというのが、ドイツ諸領邦間の方言の違い程度だったのか、
あるいは同じゲルマン語派ながらさらにデンマーク語くらいまでの開きがあったのか、
さらにはゲルマン語派を超えるくらいまでに差があったのか知りたいものだ
0451世界@名無史さん垢版2018/11/03(土) 21:40:12.900
いやドイツ意識は12世紀ぐらいにはあっただろ
神聖ローマにはドイツ王国が入ってるし
しかも定期的に帝国議会開いてたから領邦君主も顔見知りだよ
だいたい共通語としては中世から高地ドイツが強かったみたいだな
その後はルター聖書の影響でチューリンゲン当たりの言葉が標準語の元になったみたいだな
0452世界@名無史さん垢版2018/11/03(土) 22:48:10.890
>>450
ただ、遥かに差が大きいはずの漢民族にはまだ一体感はあるからね
0453世界@名無史さん垢版2018/11/03(土) 22:50:51.620
>>446
まずまずバラバラってほどでもないんだよ
領邦君主は民族王じゃないから
ドイツ王の部下って位置づけだから
0454世界@名無史さん垢版2018/11/03(土) 23:09:11.210
例外を抜きにして大ざっぱにいうとまずドイツ王国ってのがあって
その中は経済も言語もほぼ共通のまとまりになっててそれは当時の人間も知ってる
けど封建制でドイツ王の下に領邦が存在する
つまり当時の人間も俺ドイツ人だけど同時にどこどこ領邦所属ですって感じ
領邦が違うからお前外国人だろってのはない、
同じ神聖ローマ帝国内でもイタリア人やチェコ人は別王国で外国人だ
ドイツ王国内でフランス語しゃべるロレーヌ人をどう考えたかは知らんけど
0456世界@名無史さん垢版2018/11/03(土) 23:24:38.590
経済に関しても領邦は独立した経済圏をもってたわけじゃない
例えばフランスやスペインはイングランドはそれぞれ独立した経済圏もってたわけで
一方領邦君主はドイツの経済圏に属していたわけ
日本でもたくさん藩があったけど人や物が天下の台所である大阪に集まったように
ドイツでも帝国都市のケルンやアウグスブルクに富が集中した
つまり領邦は藩と同じで中途半端な国みたいなもんだよ
0457世界@名無史さん垢版2018/11/03(土) 23:26:52.890
スイスは例外だろうな
バイエルンは違うだろう
だいたいバイエルンの君主なんて自分がドイツ国王になりたいやつだし
0458世界@名無史さん垢版2018/11/04(日) 00:39:47.120
他にも領邦君主は皇帝が認可した皇帝軍が領地にきたら軍税払う必要があるし
外国の軍勢が攻めて来たら皇帝軍を編成するために軍税払う義務があったり
子弟や自分自身が皇帝軍の将軍やったりもする
0459世界@名無史さん垢版2018/11/04(日) 09:13:19.950
だからこそ日本では廃藩置県が必要だったのにドイツでは領邦を残したままなぜドイツ帝国が成立できたのがわからんのだが。
0460世界@名無史さん垢版2018/11/04(日) 23:56:35.990
低地ドイツ語しゃべる人達にとっては、昔は南部の連中よりオランダ人とのほうが会話しやすかったろうな
18世紀末とかでもまだそうだったろうか?
0461世界@名無史さん垢版2018/11/05(月) 00:29:53.160
今でもそうだよ
低地ドイツ出身のドイツ語の先生が、自分の所の言葉はオランダ語だと言っていた
近いとも似てるとも言わず、そのものだと
この人の業績リストを見たら、少ないながらもオランダ語で書かれたものがあった
0463世界@名無史さん垢版2018/11/05(月) 16:34:50.290
スペイン領ネーデルラントは神聖ローマ帝国のドイツ王国の一部
イングランド王がフランスに領土をもっていてもフランス王の封土だったのと同じ
0464世界@名無史さん垢版2018/11/05(月) 16:38:25.530
スイスやオランダ、北イタリアが神聖ローマから正式に脱退したのがウェストファリア条約
スイスは1500年ぐらいの条約で実質皇帝の影響下から抜けてたけど籍はおいてる状態
0465世界@名無史さん垢版2018/11/05(月) 22:41:16.770
低地ドイツって都市で言うとどのあたりなんだろう?
デュッセルドルフなどはオランダやベルギーフラマン語圏に相当近いけど、
あのへんオランダ語ではないよな
0467世界@名無史さん垢版2018/11/06(火) 06:10:03.210
デュッセルドルフはノルトライン=ヴェストファーレン州で、中部ドイツ語
低地はもっと北で、同じ西側ならニーダーザクセン州、州都はハノーファー

違いの一つとして。第二次子音推移という変化が中世ドイツで起こり、いくつかの条件で
閉鎖子音が摩擦音化、または破擦音化した
「りんご」が高地・中部ドイツ語諸方言でApfelのような形を取るようになったのに対し
英語はapple、オランダ語や低地ドイツ語はappelかそれに近い形のままだった
0468世界@名無史さん垢版2018/11/09(金) 21:27:12.660
19世紀にも、ミラノやヴェネチアは帝国領だったな
0471世界@名無史さん垢版2018/12/07(金) 20:16:24.190
プロイセンはゲルマン民族じゃない
0473世界@名無史さん垢版2019/02/17(日) 22:56:40.280
神聖ローマ帝国にはその国名の前に
「ドイツ人の」ってついてたんだよ
0474世界@名無史さん垢版2019/04/12(金) 01:15:21.760
>>72がスルーされてるの笑ってしまう
0475世界@名無史さん垢版2019/04/12(金) 02:48:38.040
>>207
酢漬けって南蛮漬けみたいの想像したらいいの?
0476世界@名無史さん垢版2019/04/12(金) 05:08:40.070
>>449
19世紀から20世紀にかけて、ドイツとフランスが何度の戦争を戦ったかを考えてみよう

あの頃の欧州各国のウルトラ・ナショナリズムは、朝鮮国営放送のアナウンサーが
「平壌イムニダ。金日成同志、マンセー!」と叫ぶような雰囲気。
0477世界@名無史さん垢版2019/04/12(金) 05:10:29.750
それに比べて、東南アジアなんかは、もともと国境がゆるいというか、わざわざ国家連合なんか作るまでもなく、人も物もテキトーに移動してる感じ
0480世界@名無史さん垢版2019/04/17(水) 20:30:32.650
そもそもナショナリズムの発端がヨーロッパだというのに
国の意識が低く見えるのはEUがあるからだろうな
0481世界@名無史さん垢版2019/05/16(木) 21:30:30.170
ビスマルク!ビスマルク!
0482世界@名無史さん垢版2019/05/17(金) 07:13:49.900
>>480
新興国のナショナリズムは強烈で過激だが、先進国では成熟して穏健になってくる

東アジアでは、中韓がまだまだ過激なレベルなので対立が目立つ
0483世界@名無史さん垢版2019/05/17(金) 07:17:49.260
日本人も、昔は国語のテストで「日本人論」ばかり問題文にして、せっせと刷り込んでいた

今では、中国人論や朝鮮人論のほうが盛んになっているが、昭和の時代の「日本人論」の自意識過剰ぶりは、なんとも奇妙なものだったな
0484世界@名無史さん垢版2019/05/17(金) 12:38:37.430
ドイツもそうだ

ドイツ人は体格も良く、知力・体力・精神力の3拍子そろった人種だが、文明は英仏に遅れていたため、屈折した劣等感を抱えていた

いまや、経済も技術もサッカーもドイツが世界一だ
0486世界@名無史さん垢版2019/06/13(木) 10:13:17.610
野蛮人
0488世界@名無史さん垢版2019/08/09(金) 13:20:40.540
ビスマルクのおかげ
0489世界@名無史さん垢版2019/08/25(日) 22:18:45.510
20世紀前半のドイツやフランスのナショナリズムは、今じゃ考えられないほど強烈

領土の奪い合いの緊張感は、今の尖閣諸島どころの騒ぎではない
0490世界@名無史さん垢版2019/08/25(日) 22:19:59.890
昔から国境の観念が希薄だったように思える東南アジアだが、タイは何度もビルマからの侵攻を受けて、ひどい目に合わされている
0491世界@名無史さん垢版2019/08/25(日) 22:24:06.070
Deutschland Deutschland über alles
世界に冠たるドイツ (ドイツ国歌)

作詞:ハインリヒ・ホフマン・フォン・ファーラースレーベン(Heinrich Hoffmann von Fallersleben)
作曲:フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn)

Deutschland, Deutschland über alles,
Über alles in der Welt,
Wenn es stets zu Schutz und Trutze
Brüderlich zusammenhält,
Von der Maas bis an die Memel,
Von der Etsch bis an den Belt
Deutschland, Deutschland über alles,
Über alles in der Welt.
Deutschland, Deutschland über alles,
Über alles in der Welt.

ドイツ、全てに優るドイツ
世界中の全てに優るドイツよ
護る時も攻める時も常に
兄弟の如き 団結心で
マース川から メーメル川まで
エッチュ川から ベルト海峡まで
ドイツ、全てに優るドイツ
世界中の全てに優るドイツよ
ドイツ、全てに優るドイツ
世界中の全てに優るドイツよ
0492世界@名無史さん垢版2019/08/25(日) 22:27:30.040
La Marseillaise
ラ・マルセイエーズ (フランス国歌)

Allons enfants de la Patrie,
Le jour de gloire est arrivé !
Contre nous de la tyrannie,
L'étendard sanglant est levé,
L'étendard sanglant est levé,
Entendez-vous dans les campagnes
Mugir ces féroces soldats ?
Ils viennent jusque dans vos bras
Égorger vos fils, vos compagnes !
Aux armes, citoyens,
Formez vos bataillons,
Marchons, marchons !
Qu'un sang impur
Abreuve nos sillons !

行こう 祖国の子らよ
栄光の日が来た!
我らに向かって 暴君の
血まみれの旗が 掲げられた
血まみれの旗が 掲げられた
聞こえるか 戦場の
残忍な敵兵の咆哮を?
奴らは汝らの元に来て
汝らの子と妻の 喉を搔き切る!
武器を取れ 市民らよ
隊列を組め
進もう 進もう!
汚れた血が
我らの畑の畝を満たすまで!
0493世界@名無史さん垢版2019/08/26(月) 03:57:10.200
ナショナリズムで言えばヨーロッパは19c後半からWW2終結までずっと強烈だよ
テロやら革命騒ぎが何度も起きてる
0494スレチっぽいけどあえて垢版2019/09/05(木) 22:22:47.370
低地ドイツ語の一派なオランダ語だけどオランダ語圏って
マクシミリアンとかヴォルフガングといったドイツ色の
強そうな名前のオランダ語形が現地住民の間で広く
用いられてんの?

それはそうと19Cのオランダ語圏ではゲルマン神話への情熱が
高まっててそれに基づいた名前が新生児にさかんに付けられて
たんやろか。
0495芋田治虫垢版2019/10/16(水) 17:40:04.890
https://youtu.be/8JIQj-0nasA
https://youtu.be/Kn3whADEu4M
↑ ヒトラーユーゲントと国民突撃隊、第二次大戦時のドイツの一般市民は、 事実上ナチスの残虐な暴政の犠牲者であり、被害者である。
少なくとも、無罪だ。
もちろん、ナチスの末裔のほとんどが無罪だ。
そのナチスの残虐な暴政の被害者たち、及び無罪の人々を犯罪者扱いしたり、敵視する奴らは、麻原予備軍であり、殺人者扱い及び、テロリスト扱いする奴らこそ、ナチスと同じであり、テロリストなのだ。
そういう意味では、大失敗したカルト国家、北朝鮮が日本に要求する、過去の戦争の反省と償いを、地で行く政策をする戦後のドイツは、世界で一番大成功したカルト国家であり、教祖のいないオウム真理教であり、
世界一寛容な国ではなく、世界一の偽善と売国売民国家なのだ。
0496世界@名無史さん垢版2019/12/07(土) 01:31:07.700
ドイツは昔は神聖ローマ帝国だった
0497世界@名無史さん垢版2020/01/31(金) 20:12:22.490
ドイツの起源は神聖ローマ帝国とドイツ騎士団国(プロイセン)だよ
0498世界@名無史さん垢版2020/04/25(土) 06:02:48.420
ドイツ人はゲルマン民族の末裔
0499世界@名無史さん垢版2020/05/07(木) 19:58:08.030
クラフトワークのフローリアン・シュナイダーが死去、73歳
0500世界@名無史さん垢版2020/05/23(土) 07:47:37.400
ブランデンブルクは古くから「神聖ローマ帝国の砂箱」といわれ、
地味も資源も乏しい辺境の田舎国にすぎなかった。
ただ17世紀初頭にライン川流域のクレーヴェとマルクを、
東方でプロイセン公国を継承し、ヴェストファーレン条約によって
ミンデンなどを獲得した結果、支配領域が東西に広がり、
ようやくザクセンと並ぶ東方の雄邦として表舞台に登場してきた。
0501世界@名無史さん垢版2020/05/23(土) 16:47:53.230
>>500
東にフロンティアが広がっていたおかげで、領土を拡大して大国になれたな

ロシアと同じだ
0502世界@名無史さん垢版2020/05/23(土) 18:20:46.020
オットー1世は、937年にザクセンの貴族ゲーロに中部エルベとザール地方
一帯にかけて広大な辺境領(ゲーロのマルク)を与えた。
ゲーロの大マルクは、その死後、北部辺境領、辺境領ラウジッツ、
辺境領マイセンに分かれた。
北部辺境領はのちに辺境領ブランデンブルクに、辺境領マイセンは
ザクセンの中核部になった。
0503世界@名無史さん垢版2020/05/25(月) 10:12:21.500
1800年ごろのドイツは、西欧諸国に比して経済的な後進国であった。
イギリスではすでに海外の植民地市場にも支えられて国民経済が順調に展開し、
18世紀の後半には早くも産業革命に突入していたし、フランスにおいても
イギリスよりは遅れていたとはいえ、重商主義政策に支えられて
国民経済はある程度発展し、植民地競争にも加わっていた。
ところが当時のドイツは、まだ圧倒的に農業国であった。
人口の9割以上が村落、あるいは村落類似の都市に住んでいたのである。
また工業の部門でも、まだ機械が導入されておらず、手工業の段階であった。
0504世界@名無史さん垢版2020/05/25(月) 12:40:01.800
アメリカ帰りのフリードリヒ・リストは、1841年に主著「政治経済学の国民的体系」を書き上げ、
「ドイツを国民として統一し、自由な国民とするためには単なる農業国であってはならず、商業国として独立するためには自国の工業を興さなければならない」と主張した。

国際貿易で後進工業国がイギリスに太刀打ちするためには、国家による干渉が必要であるとするリストの説は、「幼稚産業保護論」と呼ばれ、現在もしばしば論議のタネになっている。
0506世界@名無史さん垢版2020/06/21(日) 19:57:56.110
中世初期は東フランク(ドイツ)の王権のほうが西フランク(フランス)より
強かったのに、なぜこんなに差がついてしまったのか
0507世界@名無史さん垢版2020/06/21(日) 22:48:20.720
古代のゲルマンのゴートやゲピードもそれぞれ国家は築いたが、近代から現在におけるドイツ国家はこれらのゲルマン国家の継承国ではないという。
0508世界@名無史さん垢版2020/08/24(月) 09:51:06.340
ウェストファリア条約の評価は多面的である。戦乱に倦んだ同時代人には
平和をもたらす福音として歓迎されたし、17〜18世紀には領邦の自立性と
信仰の自由を大幅に認めるものとして高く評価されてきた
しかし一転して19世紀的な国民国家の観点からは、ドイツの分裂を決定づけた
「国民的不幸」とされたのである
0509世界@名無史さん垢版2020/09/06(日) 23:44:02.510
ハーメルンの笛吹き男の話が考察されている。

魔族に成ると疑われた子供達の予防的殺害ないし拉致説の紹介箇所。
・・・the date chronicled in all the local documentation pinpoint 26 June
as the day the children disappeared. This day is also the date of pagan
midsummer celebrations.
The fact the documentation also emphasises that the youth followed the Piper
to the Koppen, commonly translated as “hills”, suggest another link.

“There were regions in Germany where midsummer was celebrated by
lighting fires on the hills,” said Reimer.
All that leads to one particularly macabre reading of the Pied Piper legend.

Perhaps the Piper, emblematic of a pagan shaman, playing his flute,
was leading the youth of Hamelin to their midsummer festivities when
the local Christian faction, hoping to cement conversion of the region,
waylaid and massacred the group.

A less bloody theory: maybe the children were spirited away to local monasteries.・・・
http://www.bbc.com/travel/story/20200902-the-grim-truth-behind-the-pied-piper
0510世界@名無史さん垢版2020/09/09(水) 12:42:07.050
>>509
阿部謹也先生の本では東方植民で連れて行かれたのではないかと書かれていたな
0511芋田治虫垢版2020/09/09(水) 15:25:03.320
十 nとはナんなのか

大きな戦争を起こして、多くの人々を、殺して傷つけたnという国が、大きな戦争に負けて、後に西と東の2つ分断された。
そして、東の国の人たちと政府は、そうしなかったが、西の国では、最初に大きな戦争を起こした人たちと、戦争を指揮したり、戦争に行った人たちはもちろん、戦争を支持した人たち全員を、西の国の政府と、遠くの国の政府と人々が、攻撃したとき、西の国の人たちは多くがそうしたし、国を挙げてやった。
自分は当時生まれてなかったが、自分がその西の国に移住したときは、自分は子どもで、西の国の人たちと仲良くなろうとしたし、みんなそうしていたので、自分もそうした。
時は流れ、大きな戦争を起こした人たちの末裔や、その大きな戦争に行った人たちの末裔まで、西の国の政府と、遠くの大国の政府と人々が攻撃したとき、西の国の人たちは多くがそうしたし、国を挙げてやった。
自分は、西の国が、大きな戦争を起こした時に、一緒に戦争をした、同盟国の移民であり、自分の叔父は元憲兵だったし、曾祖父は元将軍だったが、曾祖父は死んでいた、叔父は大嫌いだったので、親族の中には不安を覚えた者はいたが、自分は西の国が大好きだったし、不思議には思ったが、怖くはなかったので、一緒に攻撃した。
長い年月が経ち、自分も年を取り、西の国と東の国が統一した時、東の国の人たちと、西の国と、東の国が勝手に属国にしていて、その国の中で、もめ事が多い、※ファシリアール共和国の人たちと、※ワイマールクセン共和国の人たちを、西の国の政府と、遠くの大国の政府と人々が攻撃したとき、西の国の人たちは多くが疑問を感じたし、統一を後悔するものもいたが、国を挙げてやった。
自分も疑問に感じたし、統一を後悔したし、ファシリアール共和国と、ワイマールクセン共和国は嫌いじゃなかったが、西の国とは違い、東の国は大嫌いだったので、どうでもよかったこともあり、一緒に攻撃した。
そして晩年、その統一された国と一緒に、大きな戦争を起こした時の同盟国の移民はもちろん、いろんな国から来た移民及び難民を、統一した国の政府と、遠くの大国の政府と人々が攻撃したときには、自分を含め多くの人が後悔したが、すでに遅かった。
最後に自分が言い残したことは「どうかjと発音してください」ということだった。
0512芋田治虫垢版2020/09/09(水) 15:25:27.970
>>511

※ファシリアール共和国。かつて西と東に分断されていた、ある国の西に属し、南部にあるb州とされている未承認国家。
b州×
ファシリアール共和国〇

※ワイマールクセン共和国。かつて西と東に分断されていた、ある国のかつては東に属し、南東部にあるs州とされている未承認国家。
s州×
ワイマールクセン共和国〇

追伸・この物語の主人公「自分」のモデルは実在します。
もちろん、俺はこの人を良く知っています。
この人は、5ちゃん(旧2ちゃん)や、いろんなブログにも、書き込んでいます。
もしかしたら、今日も、5ちゃん(旧2ちゃん)を閲覧して、何か書き込んでるかもしれません。
0513世界@名無史さん垢版2021/01/13(水) 22:51:37.100
ドイツはなぜか東へ東へと伸びたがるが、やっぱり西はフランスや
ネーデルラントなどの先進地域などで、ドイツ人の入り込むすきがなかったのかな
東欧は後進地域で人口も少なかったからドイツ人が植民することができた
0514世界@名無史さん垢版2021/01/19(火) 22:00:31.610
150年前、ドイツが近代史の中で初めて統一されたこの式典は、
2つの理由から異例のものだった。
・・・The ceremony 150 years ago at which Germany was unified for the first time
in its modern history was unusual for two reasons.
 
第一に、1871年1月18日のドイツ帝国の宣言は、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿という
海外で行われた。これは、1870年の戦争後のフランスを汚しただけではなかった。
国内での開催は、ドイツのある地域が他の地域よりも優遇されているのではないか
という疑念を抱かせ、帝国の統一性を危うくすることになったかもしれない。
Firstly, the German empire’s proclamation on January 18 1871 took place abroad -
in at the Palace of Versailles outside Paris.
This was not just a way of rubbing France’s nose in the dirt after the war of 1870.
Holding the event on domestic soil might have raised suspicions that one German region
was being favoured over the others, jeopardising the empire’s untested unity.

第二に、式典では全員が軍服を着ていた。民間人は一人もいなかった。
Secondly・・・everyone at the Versailles ceremony wore military uniform.
There was not a civilian in sight.・・・
https://www.ft.com/content/b257bb76-aa06-49d6-b98a-521fd8819e2e
0516世界@名無史さん垢版2021/05/08(土) 20:35:23.080
ポーランドはどうして三分割されて消滅されてしまったのか
プロイセンを抑えられなかったからだ
あるいは、ドイツはどうして二度も世界大戦で負ける憂き目にあってしまったのか
それはプロイセンが強くなったからだ、そしてドイツ帝国にまでなってしまったからだ
バルト三国なみの小国のままであれば、世界(英米)を敵にまわすまでにはならなかったはずだ
では、いつからプロイセンは強くなったのか
シュレジェンを取ったときからか
シュレジェンを取れたのは、ブランデンブルク辺境伯領も領有していたからか
調べたら、ブランデンブルク辺境伯領がプロイセンをとったんじゃないか

ヨーハン・ジギスムント - Wikipedia
選帝侯妃アンナの相続財産ユーリヒ公領は、
「女の知行」と呼ばれたクレーフェ公領及びマルク=ラーフェンスベルク伯領に吸収され、
選帝侯家の所領となった。
1618年、アルブレヒト・フリードリヒの死にともなって、ヨーハン・ジギスムントはプロイセン公国を相続し、
ホーエンツォレルン家宗家の所領はそれまでの2倍の81,000平方kmとなった。

1618年!この年が諸悪の根源なのか
0517世界@名無史さん垢版2021/09/05(日) 08:49:08.940
>>513
その通り
0518世界@名無史さん垢版2021/09/05(日) 09:09:45.160
ハプスブルクがドイツ統一を成し遂げるべきだった
0519世界@名無史さん垢版2021/11/26(金) 21:40:44.230
メールゼブルクのティートマルの「オットー朝年代記」の翻訳本が出たな
0520世界@名無史さん垢版2022/05/08(日) 20:57:03.790
ビスマルクが凄いんだよ
0521世界@名無史さん垢版2023/01/15(日) 16:19:33.820
神聖ローマ帝国ってドイツなのですか?
0523世界@名無史さん垢版2023/02/02(木) 02:52:03.320
プロイセンの東部は神聖ローマ帝国が支配したことは無いし
「一部」とは言い切れんで
0524世界@名無史さん垢版2023/02/07(火) 11:47:32.160
エストニア人は自分はスカンジナビアの一部かドイツの一部と考えてるんかな?
0525世界@名無史さん垢版2023/02/07(火) 14:00:18.300
>>513

> ドイツはなぜか東へ東へと伸びたがるが、やっぱり西はフランスや
> ネーデルラントなどの先進地域などで、ドイツ人の入り込むすきがなかったのかな
> 東欧は後進地域で人口も少なかったからドイツ人が植民することができた


その通り
0526世界@名無史さん垢版2023/05/08(月) 20:07:00.260
ドイツ三大英雄

オットー大帝
フリードリヒ大王
ビスマルク

で間違いないよな
0527世界@名無史さん垢版2023/05/10(水) 23:54:16.830
ドイツ三大迷君
ヴィルヘルム二世
ヒトラー
メルケル
0528世界@名無史さん垢版2023/05/11(木) 02:16:22.350
>>274
ヨーロッパ人って古代ローマを崇拝してるからね
ギリシャローマへの崇拝の念はナショナリズムを超越するらしい
0529世界@名無史さん垢版2023/05/11(木) 06:36:25.390
日本だって中国に朝貢してたじゃないか。植民地じゃないけど。
0530世界@名無史さん垢版2023/05/11(木) 11:11:16.710
>>527
ヒトラーは英雄ではないだろ
0533世界@名無史さん垢版2023/05/11(木) 15:37:16.170
日本人も、古代中国には熱い思い入れがある
0534世界@名無史さん垢版2023/05/11(木) 15:38:26.510
唐宋以後の中国には、思い入れがない
0535世界@名無史さん垢版2023/05/11(木) 15:39:50.360
イタリアには、歴史や文化を抜きにした魅力がある

北イタリアのポー平原は最も豊かな穀倉地帯

明るい陽光にひかれたドイツ皇帝は、イタリアに執着してきた
0536世界@名無史さん垢版2023/05/11(木) 17:04:32.300
現代から見ると、「ドイツの皇帝がイタリアを侵略していた」と映る

でも、当時の人々にとってはどうだったか?
0538世界@名無史さん垢版2023/06/15(木) 01:50:43.660
ドイツの歴史はトイトブルク森の戦いから始まった
アルミニウスは今もドイツのデトモルトに、剣を掲げて立っているみたいね
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