ドイツ国家成立の歴史 [無断転載禁止]©2ch.net
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ドイツ国家成立の歴史に絞って語りましょう。
なぜならドイツ国家成立の歴史が他のヨーロッパ諸国の国家成立の歴史の中で一番面白いと思うからです。 オーストリアの排除から始まる歴史でしょ?
大ドイツ主義私から見れば非常に微妙だね >>5
近代ドイツ国家建設前史のようなものだろ
神聖ローマ帝国というのは我々が一般的にいう「国家」というよりも領邦という名の「国家」の集合体に過ぎない
その中の一諸侯であるホーエンツォレルン家が自立してバイエルンやザクセンなどの諸侯を屈服させてオーストリアのハプスブルク家を排除したのが私たちよく知っている現在のドイツ フランス語では長らく、ドイツのことを複数形の Les Allemagnes と称していたが、これはドイツが
数多くの領邦で成り立っていた時代が長かったことの反映である。 仕事より人のあら捜しに夢中のゲスイ奴
街中みんなのお笑い草だぜ バカヤロ様がいる
弱い奴には強く出て 強い奴には媚びへつらい
店長崩れのニセモノは
仕事も人望も紛い物
人には厳しく自分には甘く ケジメも無しとする
何でもすべての事が人任せで それでも良しとする
大学行ってもクズだから 常識なんかは通じねェ
相手を選んでハラ立てて
得意の火病はお手のモノ
今は君のために飲もう 僕も風と共に行こう
すべての人に 懺悔しな!!
https://www.facebook.com/katsuyuki.kida.923 ウィルヘルム一世は栄光あるプロイセン王国がドイツ帝国に埋没するのが口惜しく、
ドイツ皇帝に即位するのを前日に至るまで拒否してたらしい
それをなだめて即位させたのはビスマルクの功績 >>5
ローマ帝国っていうだけあって、最初は西ローマ帝国の継承者だった
中世の前期には、ドイツからイタリアにまたがる独伊帝国だったが、
後期にはイタリアから排除されてドイツ帝国となり、
さらに北ドイツからも排除されてオーストリア帝国になった 古代の西ローマ帝国でも、ガリア出身者が皇帝になるのはよくあることだったので、
ゲルマン人が皇帝になっても別におかしくない いや神聖ローマ帝国とプロイセンドイツとの連続性はないと思うぞ >>14
そりゃそうだ
神聖ローマ帝国とつながっているのはオーストリア帝国だし、
バイエルンをはじめとする南ドイツ諸国であり、
ミラノをはじめとする北イタリア諸都市 日本でいえば薩長が天皇をたてて独立し薩長天皇独立国家と江戸幕府国家が並立しているようなものだ プロイセンはドイツ騎士団がつくった国じゃん
スラヴの血も濃いし プロイセン王国には忠誠を誓うがドイツ人の国家であるドイツ帝国には忠誠を誓いたくないポーランド人がいた 確かに、プロイセン王国は、地理的位置からすればポーランドの王朝だな ブランデンブルグ辺境伯に過ぎないホーエンツォレルン家はドイツ騎士団領を継承しここにプロイセン王国を築いたのは大きい
しかし、この地がポーランド回廊という土地を挟んで飛び地になったのは後のヒトラー政権によるポーランド侵略という事態を呼び起こすきっかけにもなった プロイセンは軍国主義国家として発展したため、軍隊やさまざまな職業あるいは組織に
厳しい規律が与えられてきた。
全国民がまるで工場にいるかのように、機械的に管理されていた。
中産階級は、貴族や官僚と労働者の板挟みになり、支配秩序をくつがえすような
大胆な行動には出られなかった。
そしてプロイセン中心に1871年にできたドイツ帝国では、その統一が三つの戦争の
おかげで達成されたために、軍隊の威信がさらに大きなものになった。 「プロイセンは国家ではない。国家つきの軍隊である」
誰の言葉だったか忘れたが ブランデンブルク辺境伯が戴冠してプロイセン国王になれたのは、
18世紀初頭のスペイン継承戦争での貢献が認められたおかげ
同じ頃、ロシアのツァーリのピョートルも皇帝になった 同じ頃に、サヴォイア公も戴冠してサルデーニャ国王となった
後の、ドイツ統一とイタリア統一の出発点 そもそもブランデンブルグ辺境伯とプロイセン(ドイツ騎士団領)が結び付いたきっかけって一体何だったんだろ? 薩摩藩には忠誠を誓うけど大日本帝国政府には忠誠を誓いたくない琉球人ならいそう >>27
Wikipediaのブランデンブルグ辺境伯、プロイセン、ドイツ騎士団を併せて読んでくれ 国家と民族というは別物で当たり前なんだよな本来は
外国人を大きく抱えた日本の藩は少ないので想像しにくいけど <ホーエンツォレルン家>
ニュルンベルク城伯→ブランデンブルグ辺境伯→ブランデンブルグ選帝侯→プロイセン国王→ドイツ皇帝
<歴代ブランデンブルグ辺境伯>
アスカーニエン家→ヴィッテルスバハ家→ルクセンブルク家→ホーエンツォレルン家 要するに日本で例えるなら南部氏みたいなもんだろ
先祖は畿内出身 薩摩藩主の島津家が、琉球国王を兼任するようなもんだな
日本の国内では一藩主だが、国際社会では王家として振る舞う 統一ドイツ帝国では、産業化も軍人貴族や宮廷貴族の指導によって進められ、
ブルジョワ企業家、資本家たちの所業ではなかった。
市民階級が徐々に台頭するとはいえ、それは士官候補生試験に合格した者たち、
軍人貴族の態度・規範を模倣する者たちで、彼らも貴族化していく。
名誉を傷つけられたら決闘せねばならない、という名誉第一に考える気風が
市民たちにまで広がり、ひいてはそれがドイツ人の行動様式の伝統となっていく。 まあ、南ドイツなんかノンビリしていて、我々が考える「イタリア人」のイメージに近いもんなあ
それに比べて、プロイセン人は基地外じみている それを言ったら、日本だって、西日本はかなりアジアっぽい
日本人に特有の気質が強く感じられるのは、やはり東日本の人間 >>33
それか松前氏がアイヌモシリという国家を作ってそれの王になるとかな >>34
遅れた体育会系の地域が主導権を握った、ということでは
やはり薩摩藩みたいじゃないか スマートなプロイセン王国のままでよかった
肥大したドイツ帝国以降は、二度の大戦に敗れてロクなことない ホーエンツォレルン家がここまで大きくなるとは当時誰が予想しただろう? >>39
中世の西洋でいえばフランク王国が各地にグラーフ(伯)を配置したようなものだな
そして彼らは自立しその地の豪族と化する >>35
カトリックとプロテスタントの違いもあるだろうね
南ドイツは食べたり飲んだりすることにドイツ人の中では関心あるしケーキ美味しい マックス=ウェーバーが出版した『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の影響もあると思う 欧州のカトリック地域では美食のほかにオペラも栄えた
ヴァーグナーのパトロンになってバイロイト劇場まで建ててやった
ルートヴィヒ2世はバイエルン国王 ザクセン地方のバッハ
エスターライヒのモーツァルト
ノルトラインヴェストファーレン地方のベートホーヘン オーストリアはなぜドイツを統一することができなかったのかな
あの国は軍隊も弱かったみたいだけど 普墺戦争でプロイセンは電信で通信していたのに対しオーストリアは伝書鳩で通信していたらしいからこれじゃ勝てんわ >>50
そもそも、国民国家という観念がないから統一しようと思っていない オーストリアを含めて統一しようとしたら
ボヘミアやハンガリーをどうすんべ?
てことになりますわな >>50
ハプスブルクはドイツ本体よりも対トルコ防衛という意味でハンガリーやチェコなど東欧に目を向けていたからな
ドイツにはうるさい諸侯だらけで難儀したけどチェコやハンガリーの貴族はハプスブルクに忠実だったし オーストリア帝国は、
イスラム教徒やセルビア人が多く統治が難しいボスニア・ヘルツェゴビナを併合したのが運の尽き
挙げ句、皇太子がセルビア人に暗殺されて大戦争に敗北して崩壊
ボスニア含むバルカン半島なんて、トルコ領のままでよかった ドイツで生まれたからドイツ人なのではなく、ドイツ人が住んでいるからドイツ国
ドイツ人の言語だからドイツ語なのではなく、ドイツ語を喋るからドイツ人 北ドイツ連邦ができた後、南ドイツ連邦を作る構想もあったんだが、
オーストリアがオーストリア=ハンガリーの二重君主制となったので、
南ドイツ連邦は結成されず、
バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデン大公国がプロイセンと
軍事協定を結び、プロイセンないし北ドイツ連邦との結びつきを強めていく
個人的にはカトリック的なドイツも見てみたかったが >>58
イギリス・フランスに負けじと、ロシアまでが海洋進出していた時代
海が欲しかったのは理解できる イギリス・フランスに比べて、ドイツの統一が遅れた最大の原因は、
森林が多かったため、国内の移動がしにくかったこと シュタウフェン朝とかはその気になれば統一ドイツ王国を建設できたんだろうか?
イタリア政策が悪かったと言うが、
シュタウフェン朝の王からすると他のドイツ諸侯に差をつけるためだったのかもしれんし バルバロッサ大帝は、北イタリアの諸都市の反乱鎮圧に苦戦したのが史上に名高いんだが、
実際には、北ドイツの諸侯の反乱にも鎮圧軍を送って同じように苦戦している。
後世から見ると、前者は「イタリア侵略」であり、
後者は「ドイツの内乱」と見えるのだが、
バルバロッサ本人にとってはどうだったか。
当時の北イタリアにいたのは、ゲルマン系のランゴバルト族。
当時の意識としては、同じゲルマン同士の争いだっただろう。 次世代のフェデリーコ皇帝に至っては、シチリアに本拠を置き、
イタリア統一を目指して奮闘していた。
ドイツ統一を目指していた形跡はない。
シチリアとベルリンは、東京とカムチャッカ沖くらい離れている。
インターネットはもちろん、電話やテレビすらない時代に、
とても本気で興味を持てるような距離ではない。 >>60
なるほど、連衡策が失敗失敗して、合従策になっちゃったわけか コンラート4世の後、大空位時代(1254〜73年)に突入し、
君主なしの時代が続いたのも痛かった お前らなんも知らんのな
マクシミリアン1世の帝国改造が宗教改革の新旧教対立によって失敗したから混乱したんだよ
宗教改革がなければある程度まとまった連合国家になってたはず
マキャベリもドイツは帝国改造によって連邦国家になったと褒めてたからな
神聖ローマは日本と似てる面があって
皇帝は幕府より巨大な勢力もってたけど(国内における天領より神聖ローマにおける皇帝領の方が大規模)
隣国のフランスの介入によって幕府みたいに大名を完全に屈服させることができなかった まぁそれでも皇帝は上位の司法権や臨時の軍税徴収権もってたけどな >>68
>君主なしの時代が続いたのも痛かった
実はコンラート四世以降も君主(ドイツ国王)はいたのですよ
ハインリヒ・ラスペ(チューリンゲン方伯、ルードヴィング家)
ヴィルヘルム (ホーラント伯)
リチャード・オブ・コンウォール(コンウォール伯)
アルフォンソ (カスチリア王) では問題
ドイツにおける国民国家の形成について、以下の語句をすべて使用して300字以内で述べよ。
社会政策 ナポレオン ドイツ関税同盟 1848年 普仏戦争 ドイツ統一はビスマルクがいなきゃ無理立ったし、
イタリア統一はカヴールがいなきゃ無理だったと思われるのだが、
そういう卓越した外交手腕をもつ首相が同時期に出現したというのには、
やはり歴史の必然みたいなものが感じられる イタリア統一には普通はガリバルディを上げると思うけどね カヴールは、北だけ統一すればいいと思っていた
というより、そもそも南に関心がなかった
「南イタリアに行ったことは、死ぬまで1度もなかったんじゃないか」と言われている そもそも近代の統一イタリアとローマ帝国以外にイタリア半島を統一した国家なんてあったのか? イタリアは南北だけでなく、東西もバラバラ
間にアペニン山脈があって、日本と同じく、山を越えるより海をグルッと回ったほうが早い ヴェネチア共和国は、イタリア西海岸とバルカン半島沿岸においては
絶大な力を持っていたが、イタリア東海岸には力が及ばなかった ドイツの国土は、南部のアルプス山地から北部の平野にかけて次第に低くなっています。
ドイツは地形的に、大きく3つに区分されます。
北部の北ドイツ平原地帯、中部の盆地と丘陵地帯、そして、南部のアルプス地域です。
北ドイツ平原地帯は、ハイデと呼ばれる荒地が広がっている場所で
一般に気温が低いため作物栽培には不向きで、牧草地が広がっています。
中部はなだらかな丘陵や山脈が横たわる地域です。
この地域は土壌が肥沃で、農地となっており、大麦や小麦などが
栽培されているほか、ワイン用のブドウ栽培も盛んです。
南部には高くて険しいドイツアルプスが連なっています。 南ドイツは農耕に適した肥沃な国土だが、北ドイツは寒冷な荒れ地
南ドイツを本拠地とする神聖ローマ帝国の皇帝たちは、
貧しい北ドイツより、肥沃な北イタリアを取りに行った 南ドイツからアルプス山脈を挟んで北イタリアに至る地域が、ヨーロッパでも最良の土地。
ここが争奪戦になったのは自然の成り行きです仕方ない。 北ドイツの冬は、夕方4時か5時には日が沈んで真っ暗になる。
昼でも天気が悪くて陽光は弱く、どんよりしている。
ここに、「歴代の皇帝は、なんで北ドイツよりイタリアにご執心だったのか?」という疑問がある。 だが、低地だからといって、騎馬軍団が縦横無尽に駆け回れるような地形ではなかった
北ヨーロッパ平野は、無数の湖と沼の世界
ポーランドや北ドイツに、なかなか統一政権ができないのも、
外敵から攻められにくかったのも、結局はこれが原因
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/ef/Wedeler_Marsch.jpg/1280px-Wedeler_Marsch.jpg こういう寒い国を本当に理解するためには、冬に滞在する必要がある。
だが、普通はそんなことする気にならない。 イタリアの豊かさを考えれば、あの地域を無視することはできなかったかと 『最後の授業』で有名なアルザス=ロレーヌは1871年普仏戦争後の話 プロイセンの大半はポーランドだったんだから、本当はポーランド史に入れるべきだな >>95
んじゃそういう視点で欧州史を書いてくれ。
エマヌエル・カントはドイツ史ではなくロシア史にするんだろうけどな。 1,オーストリア帝国
2,プロイセン王国
3,ザクセン王国
4,バイエルン王国
5,ハンノーファー王国
6,ヴュルテンベルク王国
7,バーデン大公国
8,ヘッセン=カッセル選定侯国
9,ヘッセン=ダルムシュタット大公国
10,ホルシュタイン公国
11,ルクセンブルク大公国
12,ブラウンシュヴァイク公国
13,メクレンブルク=シュヴェリーン大公国
14,ナッサウ公国
15,ザクセン=ヴァイマール大公国
16,ザクセン=ゴータ公国
17,ザクセン=コーブルク公国
18,ザクセン=マイニンゲン公国
19,ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公国
20,メクレンブルク=シュトレーリッツ大公国 21,オルデンブルク大公国
22,アンハルト=デッサウ公国
23,アンハルト=ベルンブルク公国
24,アンハルト=ケーテン公国
25,シュヴァルツブルク=ゾンデルスハウゼン侯国
26,シュヴァルツブルク=ルードルフシュタット侯国
27,ホーエンツォレルン=ヘッヒンゲン侯国
28,リヒテンシュタイン侯国
29,ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯国
30,ヴァルデック侯国
31,ロイス侯国(兄系)
32,ロイス侯国(弟系)
33,シャウムブルク=リッペ侯国
34,リッペ=デルモルト侯国
35,リューベック自由市
36,フランクフルト自由市
37,ブレーメン自由市
38,ハンブルク自由市
39ヘッセン=ホンブルク地方伯 >>98
序列3位は、南の大国バイエルンじゃなくて、ザクセン? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています