唐宋変革期 2
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唐宋変革期において安史の乱はどんな役割を果たしたの? 黄巣は兎も角、安史の乱だと遠過ぎじゃね
まあ藩鎮の乱造と封建化からの五代分立は宋の誕生に一役買っただろうけど 日本では律令制が立ちゆかなくって、荘園制になったけど
唐では律令制崩壊から両税法体制を経て藩鎮分立か ■「唐末五代期における城郭の大規模化 : 華中・華南の場合」(愛宕元)1992年
唐末から五代は、中国において最も激しい変革期です。
この時代、華北には五代と呼ばれる王朝が代わる代わる登場し、華中・華南においては十国と呼ばれる地方政権が分立します。
筆者は、この時期に華中・華南にある城郭(中国の場合、都市そのもの)が大規模化しているという傾向を見出し、
これに対して地域性、拡張増築の時期、構造上の特徴などを検討する、という趣旨の論文です。
導き出される推論・結論は、取り立てて非凡なものではないのですが、各種史料より該当記事を抽出して作成した一覧表が労作であると思います。 中国史における唐末五代は、日本史における「戦国時代」とよく似た位置にある。
国内は群雄割拠の大混乱だったが、分立した各国がそれぞれに開発を進めて発展し、全体としては大きく飛躍した。 「中国史は、唐と宋の間で断絶している」とし、唐宋変革論の提唱者となった内藤湖南。
その内藤湖南は、「日本史は応仁の乱の前と後とで断絶している」とも主張した。
つまり、唐末五代は、日本でいえば戦国時代に匹敵する分水嶺。
戦国時代の日本といえば、中国の毛利、四国の長曾我部、九州の島津といった各地の大名が、
それぞれの地域を統合して国内の開発を進めた。
それを、織田・豊臣・徳川がさらに全国統一したおかげで、天下泰平の江戸幕府が実現。
バラバラなだった日本は、ようやく統一国家らしくなった。
日本は、まるきり別の国に変身した。
それと同じような変革が、唐と宋の間にもあったということになる。 内藤湖南が指摘するまでは、唐と宋の間にそんな断絶があるとは思われていなかった。
むしろ、「唐宋八大家」という言葉にもみられるとおり、一続きの時代として扱われる
ほうが普通だった。
でも、考えてみれば確かに、極めて変化が大きい。
唐と宋というのは、そういう時代。 日本の場合は、平安時代の京都の貴族社会と、鎌倉時代の東国の武家社会では、別の国みたいに違うということを誰もが知っている。
中央権力不在に近い室町時代の日本と、江戸時代の幕藩体制の日本だって、内藤湖南に指摘されるまでもなく、あまりにも違いが大きい。
欧州の場合も、古代ギリシャ・ローマの時代と、フランク王国の時代、中世ヨーロッパ
、そして国民国家の形成が進んだ近世と、同じ地域とはいえ、時代ごとにほとんど別モノに近い
イメージが定着している。
それに対して中国の場合は、「継承されてきた王朝の正統性」を強く主張する建前からか、「歴史の一貫性」にこだわり、変化の話を好まない傾向にある。
しかし実際には、日本や欧州よりも、中国のほうがずっと民族移動が激しく、地理的な中心地の移動も大きく、王朝ごとに断絶がある。人口の大激減だって、何度も経験してきた。
漢と唐など、アステカ帝国とメキシコ合衆国くらい違う。
同じ長安でも、テノチティトランとメキシコシティーくらい違う。
地域が同じというだけであって、実際には異民族。 人口激減の一例として、1645年の屠蜀(四川大虐殺)があります。
四川人のほとんどが殺された事件で、300万人以上が虐殺されています。
これはイエズス会のマガリャンイスの報告書、1578年と1685年の人口調査、四川方言の消失などから死者300万人と言う数字はほぼ間違いないそうです。
同じ1645年に起こった揚州大虐殺など、明末清初には大きな虐殺事件が各地で発生しており、他の王朝末期も似たようなものだったと思われます。
漢末や唐末の人口激減もその後の人口の伸びなどから判断すると隠れていた者の数はたかが知れていたと思われ、人口が激減したのは間違いありません。 また、黄文雄先生の書籍から紹介しましょう。
「戦場において敵兵を捉えて食すか、敵兵の屍肉を割いて食すことは、二種類の積極的意義がある」と、黄先生は続けます。
一つには軍糧を節約し、欠糧の危機を解決できること、もう一つには「肉を食してその皮に寝る」という敵愾心をあおることができる、という事らしいです。
敵愾心をあおるための食人とは文明人らしからぬ仕業ですが、それもシナの特性をそなえた文明の形でしょうか。 食人しながら転戦した例としてとくに有名なのが「黄巣の乱」(875年~884年)の黄巣軍です。
「黄巣の乱」は唐を滅亡に到らせた大きな叛乱でした。
それは流民や飢民を吸収し五十万の規模に膨れ上がり、各地を転戦しながら、880年ついには都・長安を占領します。
以下は『呪われた中国人』(カッパ.ブックス)からの引用です。
「この黄巣軍は、その大軍に食糧を供給するために、大規模な「人肉生産工場」を設置した。」
「中和三年(883年)五月、黄巣は兵をひきいて陳州を攻めて百日が経った。(中略)賊(黄巣軍)は人々を捕らえて食用に供した。
一日ごとに数千人をも食べてしまった。賊は『舂磨砦』という巨大な臼数百基を備えている。人々を臼に入れて、骨も一緒に細かく砕いて食用に供した。」(『唐書』黄巣伝)
「黄巣らの反乱軍は、西は関門、東は青州、斉州、南は江、淮、北は衛州、滑州にいたるまで荒らしまわった。」
「人影は絶え、イバラが野をおおいつくした。反乱軍は食糧が欠乏していたので、食用人間を貯蔵していた。兵士が四方に出て人々を捕獲し、『塩屍』をつくり、関東の郡県はことごとく攻略された。」(『唐書』秦宗権伝)
『塩屍』とは人間の塩漬のことだそうです。
前回の明末の張献忠の仕業に勝る、シナ史上最大の食人匪賊集団であった黄巣軍は、まるでイナゴの大軍のようにその至る所、殺し喰いまくったもののようです。 黄巣の乱のおかげで、唐の人口は激減した。
朱全忠と「独眼竜」李克用による戦乱がそれに続き、さらに、それからも五代の混乱期が続いた。
華北では大殺戮と大飢饉が起こり、生き残った人間も逃げてしまった。 唐末はそんなに減って無いよ
漢末が1/3減、十分減り過ぎでわあるけど
金南宋→元の半減が一番酷い >>12
>漢と唐など、アステカ帝国とメキシコ合衆国くらい違う。
これは全然違うだろ
むしろ大日本帝国人と現代の日本人のほうが断然性は大きい 全然変わって無いわ〜、恐ろしく無能な姦僚と牢固な姦僚主義、暴走する低知能
有史以降で一番大きい断絶は西日本と東日本の支配民族交代、天皇家と北条家の王朝交代かと >恐ろしく無能な姦僚と牢固な姦僚主義、暴走する低知能
シナのことか? 北京と長安なんて、ロンドンとローマくらい違うだろ。
軍事力で強引に併合しただけで、基本的に異国だ。 いまでこそ、言語統一もだいぶ進んできちゃったけどな。 唐の皇帝の墳墓から出てくる副葬品は、ラクダに乗ったオジサンの像とか、そういうのが多い。
時代劇も、唐を舞台にしたものは、敦煌の壁画をお手本にしている。
唐は、鮮卑人が建てた西域のシルクロード帝国。
いまの「中国」とは、あまりにも異質な存在だ。 辺境民は戦乱で絶滅したんじゃ無いの?
あの国土で方言少ないのは中央からの征服によるのでしょう >>24
四川省は、とくにそうだと言われているね
明末清初の大虐殺で先住民が激減したところに、華北から移民が入って今の四川省ができた >>21
福岡と大阪程度の違いだよ、京都と東京程の違いわ無い >>24
要は地理的要因、山脈と河川で隔離されてる江南嶺南は方言がっつり残ってるしね >>23
大唐皇帝の陵墓わ基本的に生前の宮廷を模した物だよw
時代劇も宋代以降の舞台演劇からの流れ
李氏わ関隴集団の出、鮮卑わ大興安嶺周辺の満州とモンゴル東部の出
あんまり思い付きで出鱈目ばかり書くなよ >>26
いや、天安門事件のとき、学生を大虐殺した山西省の兵隊たちは、
北京人とはまったく意志疎通できず、同胞意識が皆無だった。 >>9
中世と近世の境界ということで確かに唐宋変革と日本の戦国は同じ >>11
国としては唐も宋も連続してる
北魏から唐を経て宋まで王朝の交替はあったが一つの国だ
その前の漢から南朝陳までやその後の元は別の国 >>30
漢族か鮮卑族かどちらかと云えば漢族だよ、残念ながらね
>>29
オマエの願望に基づく妄想は自分のブログでやっててな >>34
そういえば、天安門事件を否定するバカがここにはいるんだったな >>34
唐の皇帝は、初代から三代つづけて皇后が鮮卑なんだぜ?
「どちらかといえば漢族に近い」わけないだろ。
むしろ、純粋な鮮卑だ。 楊氏も李氏も家柄のある漢族の末裔という設定だけど妃は鮮卑だし貰った鮮卑姓は本名じゃ無いかって言われてるね
仕えてた北周がそもそも鮮卑だし
ヌルハチホンタイジから順治帝になる所が中国王朝の面白い所だね >>36
3代の皇后自体がとうに血統的文化的に漢化してる >>39
現代の在日朝鮮人だって異民族意識を濃厚に残してるってのに
ましてや古代人がそう簡単に変わるわけないだろ は?
日本語話者且つ日本文化の中で育ってるのに異民族も糞も無いだろw いや、朝鮮学校で変な文化を刷り込まれている
いまでも三国人 >>23
>時代劇も、唐を舞台にしたものは、敦煌の壁画をお手本にしている。
いやさぁあれは墓主たちの生前長安で営んでいたときの様子を描いたものだから別におかしくないんだよ
むしろ、その壁画の様式を丸々ぱくって太極殿とか復元してる日本のほうが大丈夫かと思う
日本独自の建築様式もあったはずだからな 人口の大激減が起きたのは、主に2回
漢末と、元初だ
この2回が中国史における最も大きな断層 唐宋変革がこれだけ重視されるのも、宋の時代に「中国」の基礎が確立されたという認識が背景にあると思われる。 日本でも、室町時代まではバラバラな封建諸侯の割拠状態だった。
戦国時代を通じて、中国の毛利、四国の長曾我部、九州の島津といった国々が各地を統合し、開発を進めて大幅に発展した。
長曾我部元親を例にとれば、四国を統一するのに20年かけているが、その前半はほぼ土佐一国の統一に費やされた。
せっかく四国を統一したのに、織田信長と豊臣秀吉があっという間にその成果を取り上げてしまった。 かつては、唐と宋は「唐宋八大家」という言葉に見られるように、連続した時代と扱われていた。
内藤湖南が「唐宋変革論」を唱えて以来、この2つの間には大きな断絶があるという認識が広まった。
それと同じように、日本史においても、かつては応仁の乱の重要性がそれほど認識されていなかったという。
同じ室町幕府の世だし、群雄割拠状態は応仁の乱から始まったわけではなく、それ以前から
日本は実質的にバラバラだったのだから、本当は、違いはいまひとつ分かりにくい。
いまや、日本史における戦国時代の重要性は、歴史ファンに限らず、ゲームヲタクにまで完全に浸透している。
ここでも、内藤湖南が唱えた歴史観の影響が大きい。 日本の戦国時代と同じようなことが、五代十国で起きたのではないかと言われている。
十国に分かれて、各国がそれぞれに国内の開発を進めた。
そのおかげで、かつては歴史のワキ役だった、中国の南部が大きく発展した。
次の宋の時代からは、江南が名実ともに経済の中心となり、貿易は広東省や福建省の海港が中心となる。
古代から続く、黄河文明が優位の時代は、ここに終わりを告げた。
内藤湖南たちは、そこに「中国史における最大の節目」を見たんじゃなかろうか。 >>36
>>39
唐の初代皇帝李淵の皇后で李世民の母は匈奴系 書籍:図説中国文明史F 宋
− 成熟する文明 −
P3〜6
国家や王朝の品格は、版図の大きさや軍事力の強大さにいよって決まるものではないにもかかわらず、後の時代からは、北の異民
族政権に屈したひ弱な時代であったとみなされ、侮蔑的な扱いを受けることが多い。
内向の時代であったが故に、文明としての精神性の深化が図られたともいえよう。
思弁的な理学の成立や唯心論的な禅宗の流行などは、そのもっとも典型的な例であろうし、それに帯同して生まれた文化現象にもその精神の反映を見て取ることができる。
もし、中国の文明が文治主義的であるという理解があるとすれば、それはまさにこの時代において育まれ、定着した観念である。
すなわち、宋代の文明には、中国において古来そうあるべきだとして説かれてきた文明の成熟した姿を見ることができる。
この文明を支えたのが、士大夫と呼ばれる儒教的な教養を身につけた知識人であった。 経世済民は、もはや皇帝とそれに連なる貴族階層の役割ではなく、新たなる士大夫階層の責務となった。
宋1代、3世紀余の長きにわたる期間、絶対的な権力を振るうことで名君といわれるようになる皇帝が現れなかったのも、このことと関わる。
今に残る宋の皇帝陵の質実さは、その権力がどれほど控えめなものであったかを如実に伝えている。
ここには意識の大きな変革があった。
それを促したのは、江南に基盤を置いた経済の飛躍的な発展とそれに連動した社会の成熟であり、さらにそれに伴う実用次元でも技術の革新があった。
南宋の後半ともなると、経済の疲弊とともに、文明を支えた士大夫たちの自由な言論も、議論のための議論が多くなり、現実から遊離した観念だけの充足に終始してしまうこととなる。
ここに、かつてないほど端正で成熟した文明を築き、拡張主義的な対外政策を取らなかった「文弱」の宋王朝は瓦解への道を突き進んでゆくことになる。
内向することによって昇華された文明は、一定の融点に達することによって自壊作用が進んだということであろう。
新しい時代の社会には、また新しい理念と新たなシステムが必要とされるようになったのである。
しかし、宋王朝の築かんとした文明が、<文>に徹することの価値を掲げたことの意義は、同時代から、また後の時代から、いかに「文弱」だとのそしりを受けようが、今日の文明史的観点から見て、十分に高く評価できるものであろう。 早い話が、宋代というのは、文化史的に極めて高く評価されている。
文官優位の文治体制が確立された。
陶磁器や文人画は、東洋の美の神髄といえる高雅な境地に達した。
朱子学や禅宗といった、内面を重視する精神性の高い思想が流行した。 五代王朝は大別して朱全忠の河南軍閥による政権である後梁と、李克用の興した沙陀軍閥による後唐〜後周に分けられます。
五代と総称しつつ、後唐は後梁を外から武力で打倒して入れ替わっており、ここで断絶がある。
ところが後唐からあとは同じ沙陀軍閥内の持ち回りに過ぎず、国の外枠はいちおう連続しています。
そしてこの沙陀国家が直接次の宋につながるゆえに、唐を滅ぼした後梁一代と、それに置き換わった沙陀の四代を合わせて正統とされる。
あとは単純に、沙陀の中枢を掌握した支配者たちが、順に4つの王朝を称しただけです。
後漢は確かに短期間で後周の郭威に簒奪されますが、一度契丹に征服されかけた沙陀国家を建て直して次にバトンタッチした重要な存在なので、宋の立場上これを外すわけにはいきません。
宋代初期には、むしろ沙陀の系譜につながらない後梁のほうが、正統王朝に数えるべきか議論になっています。 議論といえば、後唐の明宗以前と以後との断絶にもある。
明宗李嗣源が登位するにあたって国号をどうするか検討されたくらいだし。 朱全忠と李克用のは革命だが、あとは自民党内の政権交代みたいなもの 王朝交代のたびに、歴史にものすごい断層が生じる
それが中国史の特徴
なんでかっていったら、それはやっぱり、別の国による支配だから >>56
禅譲簒奪って長年独裁してきた権力党が政権交代した様なもんでしょ
日本のジミン党→民主党とかミャンマーの軍政→スーチー王朝とか南韓の軍事政権終焉とか >>58
おまえら低脳はデタラメなたとえ話をしたがるよね 燕雲十六州(えんうんじゅうろくしゅう)は、10世紀に遼が後晋から割譲されて支配した16の州のこと。具体的には、朔州・寰州・応州・雲州・蔚州・新州・武州・儒州・媯州・檀州・順州・幽州・薊州・涿州・瀛州・莫州の計16州を指す。
燕は燕京(幽州、現在の北京)を中心とする河北北部、雲は雲州(現在の大同)を中心とする山西北部のことで、燕雲とはこの2州を中心として万里の長城周辺に位置する漢人の定住農耕地帯にあたる。燕雲十六州の名が使われ始めたのは北宋徽宗の時代からである。 936年に、後唐を滅ぼして後晋を立てた石敬瑭が、このときに遼(当時の国号は契丹)から受けた援助の見返りとして割譲した。
遼は、この地域の統治を中華王朝と同様の制度でもって行い、従来から支配してきた遊牧民の社会とは別の制度で統治した。
従来も遊牧民系統の支配者層が中華世界を統治する王朝を打ち立てたことは数多くあった。
しかし、北アジア遊牧社会固有の統治制度を取る王朝が、遊牧民による遊牧経済が営まれる北方の版図と遊牧国家の統治制度を維持しつつ、
片や都市と定住農耕経済からなる中華世界を中華王朝の制度を維持したまま支配する形態は、遼の燕雲十六州獲得に始まる。
このような形態の王朝は征服王朝と呼ばれることもあり、対してそれ以前の遊牧民系統の支配者層を戴く王朝は浸透王朝や胡族国家と呼ばれる。 遼の燕雲十六州獲得から、華北の歴史に新しい局面が生じた。
それまでに中国を征服した遊牧民たちは、漢化政策をとってきた。
しかし、このときから、漢化しない征服者が登場した。
征服王朝の時代だ。 契丹人は、燕雲十六州で、中国統治のトレーニングを積んだ。
それは女真人や蒙古人にも受け継がれた。 なんといっても、これにより、北京を首都とする体制が固まったのが大きかった。
五代の諸王朝のように、開封を首都としていたのでは、いずれ漢化して浸透王朝になってしまうのは避けられなかっただろう。
北京に首都があるからこそ、征服王朝のままでいられた。 日本人が中国を支配していたら、神道王朝になっていた さすがに大陸には、讃州や長州や甲州に相州まではないか 女子高生が中国を支配していたら、制服王朝になっていたかもしれない >>71
長州は北魏の時に一時設置
湘州は湖南省 <--これが日本の湘南のルーツ >>69
それわ有るよな、ちょうど出入口に在って大都市の北京とか絶好 でわその理屈でいうと、サンクト・ペテルブルクとモスクワわどうなの? モスクワは伝統的なロシアの都
ピョートル大帝はモスクワでロシアの伝統文化に取り囲まれていては近代化は難しいと考えて
西洋風の新しい都としてペテルブルグを建都した
そしてソ連が首都をモスクワに戻したのは
西洋的ブルジョワ文化との決別のため >ピョートル大帝はモスクワでロシアの伝統文化に取り囲まれていては近代化は難しいと考えて 西洋風の新しい都としてペテルブルグを建都した
それもあるが、ピョートル大帝は、いまの中国と同じで海洋進出を目指していた。
だから、バルト海に面したペテルブルクに遷都した。
遷都は、ものすごい難事業だった。
あまりにも過酷な工事で脱走する労働者が続出し、脱走がバレたら鼻削ぎの刑にあった。
当然、貴族からも不満が噴出した。
史上最強クラスの暴君だからこそ成しえた、無理な遷都だった。 >>77
先進国に地理的に近づくためといえば福原みたいなもんな 北欧や西欧に近づきたいというのは、もちろんあったと思うんだが、オランダでの造船技術への執着ぶり、
海軍創設への異様な情熱などから察するに、やはり内陸国から海洋覇権国への脱皮が最大の目的だったと見るのが妥当だろう。
今の中国とよく似ている。 モスクワは、交通不便な内陸都市。海洋に出られるようなところではない。
実際、ピョートル大帝が遷都したときの苦労話のエピソードには、モスクワからバルト海沿岸まで
移動するのが当時、どれだけ大変な難路だったかをしのばせるものがある。 モスカウは殷周時代の華北中原みたいなもんよな
どちらも元々わ海へ出る意義の無かった土地 株式板より記念甜菜
761 名前:山師さん@トレード中[] 投稿日:2017/11/09(木) 21:28:17.73 ID:d9JWUUnl0 [5/5]
北宋が滅びたときもこんな感じだったんだろうな 中共がそう簡単に分裂するかな?
なんというか、この日本が育てたのだから、その芽を摘んで引導を渡してやるのも日本だと言われているような気がする。 キエフはオルドスみたいなもんじゃん?
緩衝地帯だけどどっちかってーと遊牧民の領域 >>89
ピョートル大帝は、黒海にも進出しようと必死だった。
当時、バルト海にはスウェーデン、黒海にはオスマン帝国という巨大な敵が立ちはだかっていた。
ピョートル大帝は、そのどちらとも長く争った。
でも、ウクライナは広い。キエフも、モスクワとの比較はともかく、それ自体として黒海に近いとは言えない、まったくの内陸都市。
中共の太子党は、現代の門閥貴族
シナは大唐帝国に似てきたな 都の貴族が没落して、地方から出てきた新興地主の子弟が中心になったおかげで、宋の文化には華やかさが欠けている。
でも、ワビサビを好む日本人には、そこがウケる要素。
宋代の美術工芸品は地味な存在だが、日本での評価が高い。 キエフから黒海まで420km
太原、長春、ダラス、アトランタと同程度の内陸都市 沙陀族(さだぞく、さたぞく)は、8世紀から10世紀頃まで、
華北からオルドスから山西近辺の地域で繁栄した
テュルク系民族の開いた突厥を構成した一部族。
突厥の崩壊後、吐蕃につき後に唐に帰服して中原北部に定着、軍閥化して次第に漢化していった。 いわゆる五代十国の華北を支配した五代王朝のうち後唐、後晋、後漢の三つは沙陀人の君主が沙陀系軍閥の軍事力を背景に建国しており、
漢人系とされる孟知祥の地方政権である後蜀をはじめ、
郭威、柴栄といった君主を戴く後周ですら、彼ら王朝創始者たちは沙陀族の劉知遠に見出されて沙陀系軍閥の一員として台頭し、
やはりこの軍閥の軍事力を背景に建国している。
その後全中華を統一した趙匡胤の宋朝もこの後周の国軍から台頭しており、
沙陀系軍閥の系譜を濃厚に継承している。 唐を滅ぼした朱全忠に、独眼竜・李克用は押されっぱなしだった。
しかし、李克用の次の世代からは沙陀軍閥の優位が確立され、それが宋までつなかった。
五代で王朝がコロコロ変わったといっても、みんな沙陀族とその関係者ばかり。 平氏とか源氏みたいなもので
最終的に皇帝、天皇家が権力回収出来たか出来無かったかの差 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています