春秋戦国時代
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同じような出来事が多すぎて、いまひとつ頭に残らない春秋戦国時代
ここらで流れを整理しておこう 重耳の時代は諸技術と外交能力に長けた中原の小国(鄭、衛、陳、徐、蔡あたりか)から
将来的な生産力に伸びしろのあった周縁諸国(斉、秦、楚そして晋)に主導権が移っていく時代だった
また諸侯からその家臣に実力と権限が移っていく時期でもあった
重耳は後に重臣となる従者たちと共に中原諸国を放浪し、先進地域の情報を収集し、
各地の公族とコネクションを築き、結果的に自分と家臣の成長をも促した
普通亡命公子は、各国で能力に応じて家臣としてスカウトされ、
また亡命先の国が故国に攻め入って傀儡政権を立てる時の駒にもされる
重耳は境遇によって得られるものの全てを最大限に利用したのだ
…と、『重耳』にも書いてないことも加えたつもりだが、もしかしたら書いてあるかも知れん >>68
でも周辺諸国のうち、三晋と楚はなぜか中原に首都をうつしていた >>66
小室直樹は「三舎を避ける」という言葉が大好きで、いつも使ってた。
「スターリンすら三舎を避けるほどの残虐さ」とか、そんな感じ。 >>69
それは全く矛盾しない。
鄭や衛や陳は「中原という場所にいたこと」が不利だったのではなく、
「中原の限られた土地にしか領土がなかったこと」で国力が相対的に伸び悩んだのだから。
中原自体は全ての時代を通じて交通が便利で商業活動に有利な場所で、情報収集にも向いていた。
ただ生産力が頭打ちだった。
だから戦国になるとどの国も中原かその近くに首都を置き、後背地を農業生産のために確保しようとした。
ただ燕は地理的に魏に阻まれて中原には向かわず、後背地を広げていくことに専念した。
いったん斉に攻められるとすぐ倒されるという脆さがあったことの反省だろう。 趙も北の辺境の国だけど、首都はほとんど中原に近い邯鄲 いや、邯鄲は中原そのものだな
いまでいう河北省の南端で、ほぼ河南省 五代十国の初期(後梁期)なんかだと各国の首都も中原に片寄ってるとかないんだが だってその時代にはもう奥地まで開発が済んでいるんだもん
言質取ったつもりだろうけどマジどうでもいいわ 近世ヨーロッパでも、先進地域のイタリアでフィレンツェやミラノ・ヴェネチア・ジェノヴァ
などが争っている間に、周辺ではフランス・スペインなどの大領域国家が台頭した。
現代でも、ドイツ・フランス・イギリスが争っている間に、超大国のアメリカ・ソ連が台頭した。 スケールの違う国家が登場したおかげで、今までの主要国が小人に見えてしまうという現象。
この21世紀においては、中国とインドがそれに相当するだろう。 【DVD】東周列国 春秋戦国篇 完全版 全11巻(22枚組) 楚で最初に王位についたのは、第18代君主・熊徹のとき。
周に昇爵を要求したが認められなかったため、王位を自称することにした。
即位は「紀元前740年」というから、昔も昔、大昔だ。 しかし、その前の代の奴も、で、『韓非子』や『楚辞』では脂、と表記される。
武王こと熊徹に殺されて長続きしなかった。 武王が死んで、文王が跡を継いだ。
その後、いよいよ成王の時代となる。
「楚の成王」といえば、春秋時代でも屈指のビッグネームだ。
成王と、次の次の荘王が、楚の歴史では飛び抜けて知名度が高い。
まあ、どの王朝でも、有名なのは初期の数人だけで、あとは惰性というのが普通だが。 >>29
「春秋」に書かれている時代が春秋時代(覇者の時代)
「戦国策」に書かれている時代が戦国時代(覇王の時代)
戦国時代は古代では六国時代と呼ばれていた >>85
そうなの?知らなかった。驚き。例えばどの文献? >>87の質問は、これについてです
>戦国時代は古代では六国時代 中国の歴史学ではアヘン戦争以前を「古代」と呼ぶからそこかな 戦国の七雄とか今は言われてるけど、秦は国とは呼べないとかいうイデオロギーありそうな名称 >>92
どの国もそう自称してるけど実態はどうかな 中原にもともといたのはタイカダイやミャオヤオで
後から来たシナチベットに追いやられたという話だな >>91
説というか史記の記述やろ?
楚の初代は周出身って書いてあるし 雲南のハニ族も自分たちの先祖は天津にいてそこから北京や上海に移って、なんていう
よくわからない伝承を持っている
なんか北から来たっていう感覚だけは共通している ベトナム・タイ・ラオス・ミャンマー
みんな、「雲南から南下してきた民族」ってことになってるけどな 宋の建国者は、紂王の兄の微子啓とされている。首都は商丘。
「宋は小国だが、殷を継承する国であった」というのは、宮城谷昌光の小説でオナジミのテーマ 宋といえば、有名なエピソードが2つ。
ひとつは、宋襄の仁。
楚の成王の大軍が攻めてきた。川を渡ろうとしているのを見て、「今こそ、楚を攻撃する好機ですぞ」と周囲に言われたのに、宋の襄公は動かず。
川を渡りきったところで、楚軍は態勢を整えた。
「今こそ、楚を攻撃する好機ですぞ」と周囲に言われたのに、宋の襄公はまたしたも動かず。
態勢を整えた楚軍に、宋軍は叩きのめされた。
古来の戦争の流儀にこだわった、襄公のガンコさと頭の古さが、宋の敗因とされている。 もうひとつは、待ちぼうけ。
ある日せっせと野良仕事、そこにウサギが飛び出して、木の根っこに頭をぶつけて死んでしまった。
労せずしてウサギ肉を手に入れた男は、それからも木の根っこでウサギを待ち続けたため、農地はすっかり荒れ果ててしまった。
これまた、宋人のガンコさと頭の古さが、敗因とされている。 つまり、先住民である殷の文化を墨守する宋は、ガンコで頭が古い国と思われていた。
だから、そういうエピソードばかりになる。 宋は、今でいう河南省の商丘市。
河南省の東端で、開封の南にある。
大昔には、殷の都・商があったところ。 >>99-102
そのあたりはもっと前なら宮城谷昌光じゃなくて陳舜臣で読んだな
時期ごとにそういう人がいる 研究者とは別に 陳舜臣はマジメすぎるというか、あんまり面白みはないな? 宋は小国だったが、宰相の華元は、大国・晋と楚の和議を取り持って名を挙げた。 韓国のパククネ大統領も、アメリカと中国の和議を取り持つ「バランサー外交」をやってたが、失敗して刑務所にいる。 >>38
春秋時代も、初期は、鄭が覇権国だった。
斉の桓公や、晋の文公が登場するまでは、鄭の時代だった。 >>94
チベット人と漢民族よりタイ人ミャオ族と漢民族のほうが遺伝的には近いのだが
つうかお前は語族と人種の区別が多分ついてないだろ 今のチベット人は征服されてチベット語に言語交替した民族だから遺伝的に遠いのは当然の話だぞ 養える人口と農業限界のバランスが崩れ始めた時代だよね
開発過剰国としての中国人の終わらない悲劇が始まる >>112
春秋時代は、さすがに人口が少ない
戦国時代から増えてきて、後漢でピークに達する 前771 西周の幽王、犬戎に殺される
前770 東周の平王、鄭の武公の力を借りて洛邑に遷都
鄭の武公、都を新鄭に移す
前707 周の桓王、鄭の荘公を攻めるが、鄭はこれを撃退、
周王室の権威は完全に失墜する
前706 北戎が斉に侵攻したため、鄭は援軍を送り、北戎を撃退
この辺り(紀元前8世紀の末)までは、鄭の天下だった >>111
漢民族もチベット人も
周やら姜系民族に征服されたってことか 鄭の天下とはいっても、鄭の太子忽は、斉の王女との縁談を、「我が国は小国であり、大国の斉とは釣り合いが取れません」といって断っている。
周の王室と近い親戚で、中原の中でもド真ん中に位置するだけに、権威は絶大だったが、国土が小さかった。 紀元前7世紀に入ると同時に、天下は斉の時代に入る。
前651年、斉の桓公は、諸侯を会盟する。
桓公自身はたいした人物ではなかったが、宰相の管仲が有能だった。 斉の桓公から、春秋の五覇の時代が始まる。
春秋時代に入って、すでに120年が経過していた。 春秋の五覇って無意味なフレーズだと思う
戦国の七雄は戦国時代に力を持っていた七カ国ってことで意味があるけど
春秋の五覇はまず覇の定義が定まってないところに五って数字が定着してしまったから、まるで不完全なリストになってしまった
書物によって五覇のメンバーが異なるってどういうことだ?
それなのにそんな五覇を暗記させるとかまるで無意味すぎる
斉の桓公、晋の文公以外固定じゃないなら五覇とか数を固定する意味がわからん 晋は中原と西部地域にまたがってるけど、
三晋に分割する際、
中原と西部地域をどちらともそれぞれ三分割して配分してるのがおかしい
そのせいで三晋いすれもは(ベルギーやスイスみたいな)二地域にまたがる国家になってる ヨーロッパでたとえると、
カロリング朝フランク王国の
カールとカールマンの分割方法に近い
これもローマ人地域とゲルマン人地域を二人に分けた形
これもカールマンの国は魏みたいな形をしている 秦の穆公も、重耳を晋に送りこんで文公にしたキングメーカーなんだから、覇者には違いないが、いまひとつ地味な存在 春秋のトリを飾る呉王コウリョか夫差、越王勾践が入ってくるなら呉越コンビで入っちゃうんだよな
どっちも覇者としての実際の力より元蛮族が台頭してきたという象徴性が強いと思うが 呉越はなんか唐突だね
え、なんで?そんな国あったの?というタイミング
呉は一応周の太伯・虞仲からの古い由来があるけど信憑性が薄い
そこから500年以上経ってから句呉が呉になっていきなり現れる
越に至っては千数百年前に夏王少康の庶子を会稽に封じたのが源流というが
歴史に現れたのは呉と同じ頃でまったく真実味がなく、まるで呉に対抗してもっと古い起源を唱えただけのようだ
ドラマ性はあるけどそこだけ異世界の話をつないだみたいだ感じさえする
どちらも中央の戦いに加わると無駄に強いし
どちらも会盟で牛耳を執り覇者となるが、そのくせ潰しあってあっさり滅びるという 周を真ん中にして、斉楚秦晋の4大国が東南西北に並ぶというのは、いかにもシナ人好みの五行説っぽい世界。
周を殷にすれば、そのまんま封神演義の状況になってしまう。
この世界観のために、呉越を入れたくなかったんじゃないか。 >>130
封神演義では、
東西南北にどういう勢力がいたの? 殷を中心に東西南北に四大諸侯が周りを固めその外側に異民族という形だが
あくまで創作だからね >>129
呉越は異民族で確定、
楚は微妙なところだな 斉桓公、晋文公、宋襄公、秦穆公、楚荘王、呉王闔閭、呉王夫差、越王句践
候補は八人
大まかには孟子の王道や荀子の覇道が基準で選出されたり、いくつか説あるよなあ
個人的には三番手は楚荘王で確定って気分だけど 北の大諸侯(崇家)
もともとは、殷(いん)で、朝歌を中心とした東西南北とあった四大諸侯のうちの一つ。 西の大諸侯の西伯侯・姫昌の説得により、周と同盟を結んだ。
崇侯虎(すう・こうこ)
北の大諸侯・北伯侯(首領)の崇侯虎だ。弟の崇黒虎と間違えそうな名前なので気をつけよう。
民を権力者の食い物としか考えていない。
つまり、北伯侯の治めた国の民はあんまり住み心地が良くないのだ。
妲己に招かれた酒池肉林の宴で、妲己を諌めた東伯侯・南伯侯を殺されるのを目にし、妲己にこびるようになる。 姫昌(き・しょう)
西の大諸侯。
食べ物が少なくなるにもかかわらす大量の難民を受け入れたり、偶然ぶつかってきて傷を負わせた武吉を許したり、
自分が死にそうなのに北の崇黒虎を味方になるよう説得したりと、まあいわゆる大人物である。
ちなみに100人の子を持つ。
妲己のたくらみにより幽閉され、七年後、長男伯邑孝でできたハンバーグを食べさせられてやっと解放される。 姜桓楚(きょう・かんそ)
東の大諸侯・東伯侯(首領)だ。
娘の姜妃は紂王の正統な皇后。
妲己に招かれた酒池肉林の宴で、妲己を諌めたため、南伯侯と共に殺されて木に吊るされてしまう。
この事件のせいで、東の民は殷に叛乱を起こし、周と同盟を結ぶようになったのだ。 鄂崇禹(がく・すうう)
南の大諸侯・南伯侯だ。
妲己に招かれた酒池肉林の宴で、妲己を諌めたため、東伯侯と共に殺されて木に吊るされてしまう。
この事件のせいで、南の民は殷に叛乱を起こし、周と同盟を結ぶようになったのだ。 宋の襄公は、諸侯の会盟に失敗したから、覇者という感じがしない。 周王の権威が地に落ちて周が無くなる寸前の時代に
呉と越が周王の名代となって諸侯を束ねて会盟を仕切る話が
駆け込み乗車のように立て続けに現れる
戦国になってしまえばみんな王だから会盟なんてなくなるのに 長江の下流が、大陸で最も肥沃であり、最良の土地であることは、昔も今も変わらない
ただ、古代においては、広大な湿地帯であり、人が住むのには適していなかった 黄河の下流も、洪水が多すぎて、当時は住みにくかった。
古代の都市国家は、太行山脈の山麓に集中している 斉の桓王、晋の文王って名乗れなかったのに
呉王と越王は気にせず名乗ってるのって既に周が没落したからか?
周王の封土じゃないから王と名乗ってもいいとかいう理屈? >>137
姜桓楚っていうのは斉の桓公をもとにしたキャラか 太公望が姜氏なんだから単純に太公望が分裂しただけじゃない? >>145
太公望は、斉の建国者とされてるが
東伯候も姜氏なら、それが斉につながってるというほうが自然だな? 斉を意識してるのは間違いないね
姜桓楚の桓は桓公の桓だろうね 姜族ってのは周にくっついて初めて中国の東方に入ってきたんだろう? 呂尚(姜子牙)が東海のほとりの出身であり、
姜氏の部族集団を率いて周と連合して殷を倒したというのなら、
羌の支族といわれる姜氏は東海のあたりにも多数いたことになる
斉に封じられて営丘に都してからも現地の習俗に従って儀礼を簡素にしたというのも
また斉の土地柄に合わせて製塩と漁業で豊かにしたというのも、
呂尚がもともとこのあたりの出身だったからではないのか(東海=斉とは限らないが情報は持っていた) >>143
呉や越は伝承とは別に状況からみて楚から派生した新興勢力とも言われている
王号を早くから用いていたのも楚の模倣、あるいは楚を強く意識した対抗意識からだろう
その時点では周を立てる中原の勢力を意識する必要もないほど辺境だったとも言える
だが急成長して呉も越も一度は会盟の盟主になっているが、
これも、二百年近く離れているが、楚の荘王の覇業の後追いのように見える あと、呉の場合は太伯が周王の位を譲ってできた国(の筈)だから
王号を名乗ること自体おかしい(筈な)んだよな >>150
秀吉を大坂出身と間違えるようなもんじゃないのかな 呉は太伯の末裔だから当然、伯国
楚は蛮国とされ、その王は子爵待遇 下記のサイトの「周代の方言」という項目を見ると、
中原が「周韓鄭(漢代趙魏含む)」と「衛宋」に分かれているけど、
これはなんでなんだろうな。
中原を東西に分けたのか、
周代初期から中原にいた国と春秋戦国になってから中原に移ってきた国を分けたのか
http://heartland.geocities.jp/zae06141/china_history10.html >>130
じゃあ東西南北にさらに東北、東南、西南、西北も加えればよかったんじゃね
東北が燕、東南が呉、西南が蜀だとすると西北をどうするかって問題になるか >>155
そのせいかどうかは知らないが、衛と宋は、2つとも「殷の遺民の国」とされている >>155
そのサイトのそのページの「爾雅に登場する方言の材料」の項目で、
>爾雅単体では、どの地域かの情報が無いものが多い為、
>それらは主として「方言」「説文解字」「郭璞注釈版爾雅」から補っている。
とあるだろう。
それらの書物で「爾雅」と共通する語彙について、
どこそこの方言だ、と言っている項目や注釈の中の地域によって分類するとこうなったということ
なんで、っていうか事実としてそれらのように、傾向として同じ語彙を共有するいくつかのグループが存在する
分けた、っていうより分かれている 殷と周は異民族だろ、さすがに
城市を一歩でたら、そこは異国という時代だ 21世紀の現代でさえ、中国では、「城市を出たら、そこは土人が住む世界」という感覚が強く残っており、戸籍でも市民と土人が明確に区別され、公然と差別されている。
ましてや、ムラとクニに分かれていた古代社会においては、城市に対する市民の思い入れが、ことのほか深かったであろうことが、容易に推測できる。
今でいう「中国」が1つの国であるという意識はまったく無かっただろうが、それぞれの祖国への帰属意識はむしろ強かっただろう。 甲骨文字による亀甲占いには、城市から出るときの安全を占うものが多かった
市民にとって、安全なのは城の中だけであり、城の外のフィールドは異世界だった 殷と周が別民族であることと、
当時の都市国家が一歩外を出れば「野人」(「土人」はともかく史書にはこれなら出る)
のうごめく世界だったことは、
別の話だろう 都市国家は、それぞれ別の国だったが、市民には文明人としての一種の連帯感があったようだ
古代ギリシャに似ている 上海人や香港人も、内陸部の土人より、日本人に連帯感を持っている まあ自分らからそう言うことはあるけど
こっちから日本人が指摘すると勘ぐって全否定してくることもあるよね 「精神的日本人」は今弾圧の対象だからあっちの人も他者にそう言われることを警戒してる 「漢の時代には未開だった長江下流地域は、三國志の呉や東晋の頃から発展して、隋唐の頃には経済力がかなり大きくなりました」とよく言われるのだが、
春秋時代の呉越だって、諸侯を会盟して覇者になるほどの国力があったんだよな? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています