1438年ジョチ・ウルスの中央サライのハン位をめぐる争いに敗れたウルグ・ムハンマドはヴォルガ川のブルガール人の地に退き
カザン・ハン国を建国。1439年よりルーシの地への襲撃を激化させ、子のマフムーデク(のちカザン・ハン国の2代目ハン)とともに
ニジニ・ノヴゴロドの自国への併合を画策。1445年にはスーズダリの戦いにてモスクワ大公ヴァシーリー2世は迎え撃つも敗北、捕虜にされ
膨大な身代金を払い4ヶ月後解放された。この頃権力を狙うシェミャーカはヴァシーリー2世の対タタール敗北への貴族の不満を利用し復活、
彼を幽閉し、盲目にする(盲目公に)。後に盲目公ヴァシーリー2世は復活しシェミャーカ滅ぼす。52年にはかつての敵ウルグ・ムハンマド
の子カシム(和約を結ぶためモスクワに在住・1449年には大オルダのSayed Akhmadのモスクワへの攻撃を阻止。1447-53年には対シェミャーカに貢献)
がマフムーデクから亡命してきたため、カシモフの街を譲渡。カシモフ・ハン国の成立。以後モスクワはこのカシモフ・ハン国を利用し何度もカザンの傀儡化を
試みる。