ローマ帝国滅亡から暗黒の中世へ
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ローマ帝国滅亡から暗黒の中世へ 文明が終わるということ 識字率そこそこ → 神父以外文盲 上下水道完備 → 糞尿垂れ流し 食器と食事道具 → テーブルのくぼみに盛り付けて鷲掴み 街道は安全 → 野盗・山賊だらけ 貨幣経済 → 物々交換 地中海貿易 → サラセン海賊跋扈 巨大建造物 → アーチすら作れなくなった 各地の特産物からなる豊かな食生活 → 雑穀雑穀雑穀、ちょっと小麦 地中海の覇者 → フン族、アヴァール、マジャール、ヴァイキング、イスラム、モンゴル、オスマンにボコボコ 人類史上最も幸福な時代 → 重税、蛮族の侵入、疫病、餓死、王侯貴族による圧政、教会による支配 >>715 十字軍w確かに楽しいけど 第1回十字軍の前に行われた民衆十字軍なんて 五胡もビックリの虐殺狼藉ヒャッハーな挙句 エレサレムに程遠いトルコ辺りで正規軍と戦闘になって一瞬でほぼ全滅 赤眉賊や黄巾賊もビックリの烏合の衆w シリアあたりからペルシア、中央アジア、華北に至る日干煉瓦建築地帯は 古い建築がなかなか残らない それに比べてローマやエジプトの石造建築は半永久的に残る シリア アレッポ ダマスカス パルミラ ペルシア ペルセポリス エスファハーン 中央アジア ブハラ サマルカンド コーカンド ヒヴァ テュルキスタン >>742 ポカイア人の南フランスやドーリス人のシチリアへの入植も知らないんですかヤダー オリエント地方の入植もアレクサンドロス以前から始まっていてペルシャ軍も歩兵の主力部隊はギリシャ人なんですけどね >>749 レパント地方へのミケーネ人の入植は紀元前13世紀 アナトリアにミレトスが建設されたのは紀元前11世紀 エジプトにナウクラティスが建設されたのは紀元前7世紀 一方クリミア半島への移住が始まったのは紀元前5世紀からで植民地としての開拓はもっとも後発なんだけどね そんな高校世界史教科書でも書いてある事は お前以外の人もみんな知っているよ馬鹿が クーロス像 紀元前7世紀 https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/15/87/45/src_15874503.jpg?1281578589 メンカウラー像 紀元前26世紀 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/8/88/Menkaura.JPG ギリシャ人はもともとトゥキディデスが言うように元々は略奪を主とする海賊に過ぎなかった それが各地に入植するにつれ、特にエジプト人から建築、芸術、学問を学び文明人となっていった もしアレクサンドロス以前に東方への植民がなければ、ガリアやゲルマンとそう変わらない野蛮人の群れに過ぎず ミレトス学派やイオニア学派も存在しなかったであろう >>759 知ってたら>>749 みたいな間抜けなことはかけないわな インドへの植民もアケメネス朝時代には始まっており アレクサンドロス大王もインド遠征の際に当地のギリシャ人移民にあっている >>760 けど瞬時に師匠であるエジプトを越えてるんだよな 例えば日本が中国を越えるのにどれほど長い時間がかかったか考えると驚異的 >>761 要するに規模の違いだな 10万人が移住する事と100万人が移住する事に 違いがないという事ならばあなた言う通りだ NHKの「古代ギリシャ白い文明の真実」はよかった 古代ギリシャは貧しく、多くの若者が各地へ傭兵として離散していく事となった その結果、帰還した傭兵によって世界中の技術がギリシャへともたらされた >>761 お前が何人かはわからないけど 日本人は喧嘩腰の相手とは議論はしない お前はお前の同胞と議論しなさい ゲロノイは本当にギリシャ人だったのだろうか? ギリシャ人だったとすればギリシャ本土からの移民なのか? ではなくてゲロノイの地こそギリシャ語派の発祥の地で ギリシャ本土へ移住した者と残留した者に分裂したのか? チンチンが本体というのは言い得て妙よな〜 同じ型のY遺伝子をユーラシアに広めたのは事実なんだし 虐殺レイプやりたい放題 その辺一般のモンゴル人はあんま知らないのでは たぶんモンゴルの大河ドラマみたいなので美化されてるんだと ちんちんもどーかと思うがコロコロコミックじゃなあ >>770 金!暴力!セックス!をここまで地で行った男もいないだろう >>771 アレクサンドロス大王のマケドニア軍も アケメネス朝を占領した時は略奪・暴行しまくりよ チンギス・ハンに比べたら董卓も石虎もまだ可愛いもんよ >>770 まだ、こんな頭の悪いガセ信じてる奴いるのか 本人の墓も見つかってないどうしてそんなことがわかるんだ >>771 そんなんどこの戦争でもそうだし 戦国大名も奴隷狩りやレイプは当たり前にやっていたが日本人にとって「英雄」なのは間違いないだろう 信じられますか?これが20世紀の軍隊です 山田支隊山砲兵第19連隊第3大隊黒須忠信上等兵の陣中日記 「二、三日前捕虜せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出して機関銃をもって射殺す。その後銃剣にて思う存分突き刺す。 ウーン、ウーンとうめく支那兵の声、年寄りも子供もいる。一人残らず殺す。刀を借りて首も切ってみた」 朝香進一「初年兵日記」 1938年8月29日 南京攻略戦では、住民が反抗的態度に出たと言うので、「十里四方の住民全部を殺せ」という軍命令が出された。兵隊たちは村落を包囲し、手当り次第、住民を銃剣で突き殺した。 婦女子は特にむごい殺し方をした、と彼等は酔がまわるほどに手ぶり、身ぶりで、その状況を実演して見せるのである。その残酷さは目をおおわせるものがあった。 梶村止『観測小隊長の日記 大陸を戦う』 11月29日 晴(待機) 思ふに国民党の徹底抗日の教育充実し、ここ江南地区がもっとも抗日思想激しき処と聞く。この附近不審の土民は射殺すべしとの内命すらありゐたり。 猪瀬直樹監修「目撃者が語る日中戦争」P60〜P62 「上陸すると、手当たりしだいにぶっ殺す。銃剣で刺すなんて生やさしいものではなく、棍棒でやるんだな。男も女も、バリッとなぐられ、ブワッと血を噴き出して死ぬんだよ」 みんな殺せという命令が、抗州湾上陸の直後に出された。河野さんは、たしかに命令伝達書を見た。そこには、つぎのようなことが書かれていた。 ―共産主義の暴虐を許さず、共匪の跳梁を粉砕するため、農夫、工夫はもとより、女子どもにいたるまで、全員殺戮すべし。 『歩兵第四十三聯隊 U 支那事変編』よりM・S(原文実名)陸軍伍長の手記 徴発といえばなかなか言葉は良いが、人様の品物をだまって持って行くという仕儀だ。内地なれば完全な泥棒行為だ。だが戦場ではこれが自然の習わしになっているらしい。 習わしになっているかも知らないが、誰に教えられるともなしに僕等はその行為を自然にやっている。最も自然に・・・・。 「前田吉彦少尉日誌」 一二月十六日 朝に比べて帰りは街上また大変な人出で無統制に徴発を許した為かそれとも勝手にやっているのかその辺の窓や扉を勝手にやぶって食糧や衣服、 こんなものを両手に抱えている兵隊が多かった。 日本軍に捕らえられた捕虜の死亡率 オーストラリア 35.8% カナダ 28.2% イギリス 24.8% ニュージーランド 30.5% アメリカ 38.8% オランダ 22.7% インドネシア 76.6% ナチスドイツの連合軍兵士捕虜 捕虜数 235,473人 死亡数 9,348人 死亡率 4% 中国歴代皇帝で粛清をやらなかったのは趙匡胤、光武帝、チンギスハン この3人しかいないという現実 >>780 チンギスハンが中国の皇帝だったとは初耳 >>781 法天啓運聖武皇帝という立派な漢風の廟号をもつ皇帝ですが何か >>783 漢風の廟号をもつ朝鮮王は全て中国の皇帝ニダ バカ?朝鮮人で漢族の文武百官から帝号を送られた奴なんていないじゃん >>783 チンギスハンがいつ中国を統治したんだよ? チンギスハーンを中国人として扱うのは、 今の中共政権がウイグル、チベット、内モンゴル、満洲を中国の一部にして支配するのに都合がいいからである 元朝は中国→元朝を作ったクビライハーンは中国人→クビライハーンの祖父のチンギスハーンも中国人と無理矢理に解釈する >>780 始皇帝もしなかったと聞いたけど違うん? チンギス・ハーンは中国以外でも大量虐殺をしたから評判が悪い 人口が多い中国だけなら目立たなかった 例えば19世紀の太平天国の乱で3千万人も死者が出たらしいけど 幕末の日本で3千万人も死んだら全滅だ >>2 キリスト教ってローマ帝国時代に広まってんじゃん 皇帝が国教に指定するといわなきゃいけなくなるくらいに広まって影響力つよくなってんじゃん >人口が多い中国だけなら目立たなかった 中国北部の人口が、「5千万人から9百万人に減った」と言われてるんだから、多少は目立っただろ それって三国時代の人口が900万ないのと同じ理屈で 動乱期はみんな豪族の私有民になって戸籍から抜けるので把握人口がそれだけになるって話 大体そんなに減ったのなら中国の郡県や都市のほとんどがなくなったはずだが 現実は一県も減っていない あくまで戸籍上の話だからな ちなみにローマ帝国崩壊後は教会が戸籍の管理とかやってたらしい この村には何人いるとかね まぁ、その土地の支配者層だからね…セナトール貴族からの。 >>3 >しかしこうした各都市間が互いに依存するシステムは一度交通が遮断されると一挙に石器時代まで戻ってしまうことすらありえる 中国も漢王朝の滅亡後は三国時代や五胡十六国時代など分裂状態になったけど ヨーロッパにおける暗黒の中世ほどの大崩壊には至らなかったのはなんでだろう? >>801 漢と唐の滅亡期も文明の大崩壊期じゃないの?人口が激減したようになっている >>803 実際に人口減少以上に人口が今どれだけいるか把握出来なくなるというのが文明の崩壊ではないかと 漢は唐として復活したし、その後の宋や明も相変わらず大帝国。 ローマ帝国は滅亡後、西はゲルマン諸王国が乱立して旧領がブツ切りになって、 東はビザンツ帝国がどんどん縮小して、二度と大帝国として復活しなかったし (ユスティニアヌスの時ですらローマ帝国の領土には及ばなかったし カール大帝の時も西ローマ帝国の全領土にも及ばなかった)、 文化・生活水準がようやくローマレベルに戻るのが1000年以上のちのルネサンス。 中国は乱世になっても知識階層は残ったが 中世ヨーロッパは僧侶以外文盲なのよね 西ローマ皇帝の末裔っておらんの? ロムルス・アウグストゥルスとその子供たちは生かされたようだが 子孫はどうなったのかな?ゴート戦争に巻き込まれて殺されてなきゃいいけど・・・ ロムルス アウグストゥルスの血筋を引く子孫が今もいる >>805 ドイツやロシアが建国して農業が盛んになったから ヨーロッパの人口は中世の方が古代よりも多い 旧ローマ領外では文化・生活水準は古代よりも向上した >>810 それ、中世農業革命後の話だから ローマ滅亡から400年以上経ってる ならばその後の宋や明も相変わらず大帝国とか 1000年以上のちのルネサンスとか書くな >>812 お前さん無茶苦茶言ってるの理解する気もないだろう 欧州中世ってくくりはめちゃめちゃ長くて、5世紀後半から15世紀中頃まで、おおよそ1000年あるわけ 中世農業革命は11世紀頃の話で、ローマの滅亡とは繋がりがほとんどない代物なの(一般的な西ローマ帝国滅亡の解釈からは600年も離れてて、それまでローマ時代の人口に全く届いていない) 東アジアの大帝国に関しては、地勢的な面も大きいから評価は避ける(評価は分かれるが、「銃・病原菌・鉄」の論考は読んでおくべき)けども ローマ滅亡後の方が人口増えたとか、因果関係がなさすぎて失笑しかない >>812 あと、自分に批判的なレスする人間が全部同一人物だと思うなと 別人だ >>813 オレも別人で横から失礼するけど、 てことはつまり、中世の方が(西ローマ帝国滅亡とは関係無いけど)古代よりも人口が多かった、てのは合ってるのね? >>817 中世農業革命後の、ドイツ、フランスにおいては正しい 12世紀後の話だけどな イタリアにおいては正しくない >>818 イタリアも同時期には全盛期ローマ時代よりちょっと多めくらいに人口戻しとるやろ スペインは後ウマイヤ朝時代にはローマ時代よりも人口が多かったかも 13世紀のフランドル地方の播種率はローマ時代の3倍に及んだ(ヨーロッパ全体とは言ってない) >>820 ローマ時代における奴隷まで含めた人口に並んでたかどうか微妙 ローマ時代のイタリアにおける奴隷の人口は、なかなか通説的なの見つかんないんだけどさ >>824 それってさ、古代ローマの人口を過大評価しちゃってる可能性もある、ってことにならない? まあ厳密に人口統計がとれる時代の話じゃないから難しいのは分かるけど 中世ヨーロッパの人口と古代ローマ帝国の人口比べて前者の人口の方が多いというのはごく当然の話だと同時に無意味な比較だと思うんだが… ローマ帝国=ヨーロッパではないからな 中世のオリエントや北アフリカと比較しないと >>825 勿論そうだよ ただ、今の人口推計的には古代には奴隷集積地だったイタリアは、中世後期までローマ盛期には及ばなかった「らしい」って話 >>826 人口、とくに地域別の人口については、線形に増えていくのは自明でないで、当然ではない 近代以降の人口爆発期と同じに考えてはいけない カール大帝「ワイが西ローマ皇帝やで」 早雲「ワイが北条やで」 西ローマ皇帝を名乗るならあとイスパニアやブリタニア、マウレタニア、アフリカ も回復せんとな 地中海沿岸については、無秩序な農地開発による傾斜地の表土流出と、 それに伴う海岸の沼地化によるマラリアの蔓延が大きいという農学者の説もあるね。 もともとあまり穀物生産に適していなかった地中海北岸は、ローマの経済的繁栄にともない リカード的な地域分業が推し進められ、傾斜地を利用した商業作物生産が主力となった。 この状態で今度は経済が衰退すると、農地の管理が行き届かなくなり、斜面は表土流出して荒廃する。 自給自足に戻ろうにも、ボロボロの岩山と化したイタリア半島の斜面では麦もまともに作付できない。 肥沃な表土は低地に流れ去り、港湾を埋めて沼地と化した。でも夏に雨が降らないから(アルプス山麓のロンバルディア以外では) 東アジアのような稲作もできない。放置された沼地では蚊が大繁殖してマラリアの温床になった。 カール大帝の頃まで西ローマが存続できてればなぁ ローマの元老院によって正式な西ローマ皇帝を名乗れただろう もし東ローマが邪魔してもカール大帝なら跳ね除けられる可能性高い 東ローマのユスティニアヌス帝がニカの乱で廃位になって 東ゴート王国が滅びなければローマの元老院も存続したはずだけど フランクは東西ゴート王国に挟み撃ちにされそうだな フランクはゴートによって地中海から排除されそうだから 北方で勢力拡大を強いられて史実と同じくザクセン戦争はありそう 東京23区 920万人 横浜 370万人 大阪 270万人 名古屋 230万人 札幌 190万人 神戸 150万人 福岡 150万人 川崎 150万人 京都 140万人 広島 120万人 さいたま 120万人 仙台 110万人 >>832 ヴァンダルに北アフリカの穀倉地帯を奪われたのが致命傷 そしてフン族との決戦で最後の力を使い果たした 東ローマのユスティニアヌス1世がニカの乱で廃位になったのならば おそらく東ゴート王国が代わりにヴァンダル王国を滅ぼしたかも ヴァンダル王国は東西からゴート族らに挟み撃ちされそうだな フランクも東西から挟み撃ちにされてラングドックを奪回されそう 西ローマ・西ゴート連合軍 VS フン族 と言われるが、この時期の西ローマ軍はゲルマン傭兵だらけだから 実質的にはゲルマン軍なのよね >>1 日本の田舎でも近い将来こうなりそう インフラが老朽化しても財政難で維持できなくなりそうだし ならねーよバカキッズ インフラが縮小するのとインフラ技術者がまったくいなくなるのとではわけがちがう >>838 フン族側もゲピド族と東ゴート族が主力だった カタラウヌムではゴート族どうしが戦った ウァレリアヌス帝の頃からローマ軍はゲルマン系ローマ人が主力だが プラエトリアニに至っては創設当初からゲルマン系主体 >>843 > プラエトリアニに至っては創設当初からゲルマン系主体 Numerus Batavorumと混同してないか 親衛隊はセウェルス帝による総入れ替えまで大半が本土イタリア系だったはずだよ ゲルマン系なのは皇帝の戦地警護を担ったバタウィ護衛隊 ウァレリアヌス帝の頃にはローマ軍はイリュリア系ローマ人が主力なのでは? ウァレリアヌス帝の息子ガッリエヌスはイリュリア人将軍らに帝位を奪われた ウァレリアヌス帝親子はエトルリア出身の名門だけど息子の暗殺後からは イリュリア人とかバルカンの騎兵出身者らが帝位をほぼ独占するようになった 代名詞を使わない特徴的な文体の人いるけどアスぺか? 健常者にも分り易いようレスになるように推敲してやるよ ウァレリアヌス帝の頃にはローマ軍はイリュリア系ローマ人が主力なのでは? その息子ガッリエヌスもエトルリア出身だけどイリュリア人将軍らに暗殺され帝位を奪われた後は バルカンの騎兵出身者らが帝位をほぼ独占するようになった >>840 廃墟化した鉱山都市工業都市とか既にあるわけだけど それとヨーロッパで起きたことは同じとは言えないような ちゃんと教育を受けて文明の利便の維持できるとこに人が移動してるわけで ちゃんと教育を受けて文明の利便の維持できるとこ=東ローマ帝国領 シルクロードの終端にして交易貿易の中心地を持ち豊かなシリアエジプトアフリカを保有した東ローマでないと維持出来ないレベルの金食い虫なんだよなぁ その東ローマでさえイスラムやら十字軍やらで途中から維持しきれなくなってくる これだから中世は… 全盛期ローマとイスラムとモンゴルで三國志とか見てみたい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.0 2024/04/24 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる