古代ローマを語ろう【ローマ人の物語】36
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○ >>1 乙 もうお前に用はない
く|)へ
〉 ヽ○ノ
 ̄ ̄7 ヘ/
/ ノ
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/ ローマスレとは関係ないんだけど、許してね
モンゴル帝国と元王朝て名前が違うだけで同じ意味なのかな? 許さないよ
モンゴルスレは他にもいくつもあるからそっちで聞きなさい 笑ったw
キケロとアウグストゥスの関係ってそんな感じだったよなw まぁキケロも友人のカエサルが殺されたら嬉々として暗殺者のアドバイザーになろうとしてたりするんで
自業自得ではある キケロがアントニウスを怒らせるようなこと言うから…
カエサル派のキケロ弟もとばっちりを受ける始末 完全に文人肌だったキケロからすれば
武人であると共に文人でもあったカエサルや少なくとも理解を示したオクタヴィアヌスは容認できても
完全に武人肌だったアントニウスの台頭は許せなかったんだろうな
じっさい統治の実績を見ればキケロの見識は正しかった ローマ帝国側からアントニウス見ると、マジでこいつにいいところが何も無い、ただの筋肉ダルマ
カエサルが暗殺される時にはまったく何もできなかった
それなのにカエサル派のトップであるかのように振る舞う
挙句の果てにはエジプトの女王にローマを売る算段をする売国奴
単純な力も無い、政治センスも無い、恥も知らない この件についてはアントニウスが無能、キケロが無能っていうよりも
オクタヴィアヌスが若いくせにどんだけ老獪なのって話だと思うけどな
オクタヴィアヌス「キケロ父さん! キケロ父さん!」
キケロ「少年よ! 元老院の皆を味方に付けてあげよう。アントニウスを弾劾してあげよう」
↓
オクタヴィアヌス「アントニウスさん、レピドゥスさんや僕と組んだ方が得ですよ」
アントニウス「だが俺を弾劾したキケロは許せん殺すぞ」
オクタヴィアヌス「どーぞどーぞw」 >>15
むしろオクタにとって邪魔くさいキケロを自分の手を汚さず始末できるように持って行った予感すらする
こいつの図りしれない才能やばいよな >>14
また古臭いカビの生えたアントニウス像だな
一度は元老院派に傾いた世論を演説によって再びカエサル派に引き戻したのはアントニウスだし
アントニウスがいなかったらオクタヴィアヌスはとっくに殺されてたよ >>19
アントニウスがただのバカじゃないって主旨には賛成だが
アントニウスがいなければオクタヴィアヌスが殺されてたってのはどうかな
アントニウスはカエサル追悼演説でローマ市民1人に75ドラクマやるという遺言を読みあげたけど、履行はしなかった
履行したのはオクタヴィアヌス オクタはカエサルのクリエンティスや奴隷など
ユリウス一門関係の人とカエサル家のブレーンを壊すことなく引き継いでるんだと思う
カエサルの真似はそれでできたんだろう。 >>20
相続人になった当時18歳だぞ?
アントニウスが巻き返し図らなかったら無事で済むわけないだろ
しかも最後のそれ何の反論にもなってないしな >>22
アントニウスの演説は彼の弁舌の才能だけでなく、カエサルの遺書の存在が大きい
18歳のオクタヴィアヌスにだって遺書を読むことくらいできたろう そのカエサルの遺言書を公表できたのはアントニウスの尽力によるものなんだが
遺書の内容を知っていたのはごく一部だし、アントニウスがいなかったらブルータスにひっそりと葬られて終わりだったろう >>24
「アントニウスの尽力」って、アントニウスはどんなことをしたの?
(おそらくはカエサルの秘書達が保管していた)遺言書を追悼演説で読み上げたというだけではなくて? アントニウスを殺すことすらしなかったブルータス一味が当時のオクタウィウスなんて小物を殺したとは思えんな
>>19は言い過ぎだろう アントニウスは学歴的には当時最高峰、文学的造詣が深くなかったとしてもオクタウィアヌスよりは間違いなく弁論術は上手
軍才は言わずもがなだし、カエサル派のトップとして全く不足なし、と当時の人間も思っただろうし自分でも思っただろう ブルートゥス一派はそういう意味でも中途半端だったな
やるならスッラぐらいの覚悟がないと
まぁ神輿のブルートゥスが許さなかっただろうけど プルタルコスの伝記のブルータス伝によると遺言状とカエサルの公葬を行うことを元老院に認めさせたとのこと
同伝によるとカエサルの亡骸と遺言とをうまく使って大衆が理性を失うほどの名演説をうったらしい
アントニウス伝のほうを読むとギリシャに遊学して当時、もっとも洗練され最も名声を博した弁論術を学び
その弁風は傲慢と虚栄に満ちたもで彼にふさわしいものだったとある
性格は享楽的退廃的だが腕も頭もキレる人物という印象 アントニウスの学歴って、紀元前58世紀に1年ほどアテネにいたくらいだろ
それ以前にはローマ市内でクロディウス辺りと愚連隊やってたっつー札付きのワル
こんなんで「学歴的には当時最高峰」はさすがに草 >>31
紀元前58世紀はさすがに草
さっさとなんJ世界史部にでも帰れよキッズ その一年で立派な弁論術を身に着けたのだから中々の弁士だったと言えるんじゃない
カエサルから目を懸けられてたのも兵士と豪遊したり人妻との密通が趣味だったりよく似た性格だったってのもあるかもな >>30
その享楽的退廃的性格も、父親死んで義父もキケロに殺されてという家庭環境に負うところ大な気がするな
とはいえオクタヴィアヌスも父親死んだりと複雑な家庭環境ながら、強靭な自制心で死ぬまで喜劇を演じきったところが器の差だったのかもな 修辞学と哲学を1年も学んでたら十分だろ
現代の大学感覚なのか? アテネってローマに多くいたギリシアオタにとって我々ロマオタがローマに遊びに行くほどの感動だったんだろうな。 1年は当時の感覚でも短い
弁論術はギリシャ留学で学んだんじゃなくて、アントニウス自身が激動の人生の中で体得した技術なんじゃないか >>36
我々の大先輩である大文豪ゲーテは2回目に訪れた時結構ガッカリしたんだっけか 留学以外ならカエサルの近くで見様見真似で覚えたとか 見よう見まねじゃないかなあ。カエサルはああいう性格だから
感染力みたいなのは高そうだし、真似した若者は多そう
数あるフォロワーの中でも政治的実力と運に恵まれたのがアントニウスでは?
ウマが合うかどうかはカエサル側の実力でどうとでもすり合わせがつくし クレオパトラにであって実は一番損したのがアントニウスか 政治家としてはそうかもしれんが個人としては幸せの絶頂に至ったのかもしれんぜw カエサルは自分で宣伝の為のガリア戦の報告書書いたり、若い頃スッラに追われて逃亡したり、最後は暗殺されるとかの人生だから
それをリアルタイムで見てた10代の若い連中とか感化される奴多かったろうね。
若くてちょっとレールから外れちゃったような奴らから好かれる要素持っちゃってる人生というか。 クリオが生きてたらおそらくアントニウスより重用されたんじゃないか? 期待の若手みたいな感じだしな、クリオ
あとクラッススの息子も
戦死してなきゃどうなってたかはわからん もう毎日毎日寺だの神社だの見る生活は嫌だ
なんでローマにうまれなかったんだろう 日本に生まれても毎日寺だの神社だの見る生活って珍しいと思うが 帝政の設計者たるカエサルを含めた歴代のローマ皇帝が一堂に会したらカラカラとホノリウスは吊し上げくらいそう
カリグラやヘリオガバルスは可哀想な人を見る目で見られそう
ネロやコンモドゥスは一定の理解は得られそう カリグラは高熱出してから暴君に変わったんじゃなかったっけ?
高熱の前から放漫財政ではあったみたいだが 一番吊し上げ喰らいそうなのはウァレリアヌスだな
蛮族の捕虜になるってどういうことだと >>43
レールから外れてない勢からも好かれてたから単なるアウトローの英雄じゃない
どっちからも好かれるもっとヤバい奴 ウァレリアヌスは評価されてもいいはず
井上文則さんの軍人皇帝時代のローマを読むに ウァレリアヌスとその息子は最後のローマ人らしいローマ皇帝
ウァレリアヌスの敗北で重装歩兵の栄光が終わった
ササン朝とパルミラとドナウ軍団らにより重装騎兵の時代が始まる
重装騎兵の時代=中世と言えなくもない
騎兵を主力にしたのは息子ガッリエヌスだけど
帝国を3分割統治にして自らオリエントを担当して
ディオクレティアヌスの手本になったのはウァレリアヌスだった
ウァレリアヌスの失敗は経験不足の息子と孫で分担したので
ウァレリアヌスが捕虜になるとたちまち帝位を奪われてしまった
ディオクレティアヌスは実戦経験が豊富な将軍らで分担させた サロニヌスやホノリウスはまだガキだったのに
ウァレリアヌスやテオドシウス1世は過酷だ
受け入れる現地側もさぞ困惑した事だろう ホノリウスはともかくサロニヌスは14,5くらいだろ
マルクス・アウレリウスはその年代で普通にルキウス・アエリウスの側近として辣腕奮ってたんだが マルクス・アウレリウスはいわゆる天才児とかでしょう
誰もがそんなに優秀ではないでしょう
アルカディウスとホノリウスの兄弟なんて成人してからも
政治に全く無関心だったと評されている >>38
まぁ一応一回目めからいろんな芸術作品生んでるから
ワイらなら感動しただけで終わるところだw 帝国を3分割統治にして自らオリエントを担当して
ディオクレティアヌスの手本になったのはウァレリアヌスだった
アウレリアヌスはプロブスにオリエントの統治を任せて
プロブスもオリエントの統治はサトゥルニヌスに任せた メロヴィング朝とか東西ゴートよりも
ローマのほうが遥かに歴史が詳しくわかってるイメージがあるな ウァレリアヌスはオリエントをパルミラのオダエナトゥスに任せて
自らはドナウ戦線を担当して息子ガッリエヌスにライン戦線を
任せれば長続きしたのかもしれない ローマを分割するとは何事だ!おかげで内乱祭りになったじゃないか!
お前らの征服した範囲が広すぎるんだよーゲルマン人も昔の何倍もいるしさー
ゲルマンごときに負けるなんて実に情けない!昔のローマ人はゲルマン程度ボコボコにしたものだ
おめーが戦った時はゲルマン人が組織的行動してなかったころだろうがよ!点数稼ぎに遠征しただけだろ!
いやいやゲルマンなんてキルマシーンのフン族に比べたらザコでござるぞ!フンに追い立てられるような臆病者たちでござる
そのゲルマンにすらボコボコにされたローマ皇帝が居ましたっけねえ、誰とは言いませんが
とか脳内皇帝元老院が開かれた >47
イタリア人も創価学会員が居て
ナンミョーやってるけどな いろんな神を祭ってる神社はローマ的じゃないか
明治維新の宗教政策は純化したが伝統に反するものだったな 創価って生命力ある宗教団体だよな…
地域共同体を代替する共同体として戦後に都市民の間に拡大した新宗教のうち、創価学会だけが世代間継承に成功したし、
海外布教も統一協会含む他の新宗教同様のブラジルと南部・西部アフリカだけでなく、
伝統宗教である禅仏教が成功した欧米(アイルランドではカトリックとプロテスタントに次ぐ第三の宗教に)にさえ、創価学会は根付いてしまった。
やはり宗教は純粋な信仰の問題だけでなく、生活とビジネスの共同体の問題だな。 同級生の小さな電気やがソウカにはいって持ち直したんだが、その互助の精神はおもしろくもあり恐ろしい
ちな、同級生は嫌だったらしく、ソウカの子弟が仲間意識で話しかけるのを凄く嫌がり、むしろ疎遠になってたW
やはり教義より組織のありかたは重要だねぇ
キリスト教が成功したのも強固ななかま意識だろうし、ユダヤ教が大離散によっても命脈を保ったのはその排他性と裏腹の強固な仲間意識でしょうな >>71
げえええええええ
悪魔憑きみたいな女バイオリニスト草 なんか、古本屋で見たローマ関連の本で
チベリウス、ベスパシアヌス、チトウス、とか書いてあって
なんか新鮮だった。 チェーザレの方が驚いたなあ
なんか、カエサルがチェーザレと呼ばれていたとしたら嫌だなあ
個人的には英語のシーザーかスペイン語のセサルが好きだ セサルはいいね
シーザーはシーザーサラダを思い出してしまうので微妙
>>75
古い本ってなるべく小さなッとか小文字 しまった
途中送信
小文字を昔は使わない傾向があると思う スッラがスラになってたりしてたな
最初誰かわからなかった Suraという名もあるから
Sullaはちゃんと「ッ」いれないとややこしいんだよね sulla
suburra
villa
venus
veni, vidi, vici, 昔高校で習った時はマリウスとスラだった気がするなあ閥族派とか謎の拘りネーミングで意味がわからなかった >>77
セサルは背猿って漢字で変換されそうだけどなw トランプ< ヒスパニックは背の高い猿みたいなもんだ・・ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
>ファルサルスの戦い
この時カエサルは自軍の投槍兵に、騎兵に対して踏みとどまり、ピルム(槍)を投げたり、足や脛を狙うのではなく、騎兵の顔や目を狙って直接突き刺すように命じていた。
この攻撃を嫌った元老院派の騎兵は逢えなく崩壊した。
とは言えマケドニアのヘタイロイ騎兵やヌミディア騎兵が
この様な攻撃で阻止出来るのかどうかだが
トゥールポワティエ間の戦いではフランク軍のシールドウォールで
イスラム騎兵が撃退されているから
ローマ兵のシールドウォール+ピルムでの突きはそれなりに防御力は有るのかも知れぬが
マケドニアでは重視されている軽歩兵が投げ槍を投じ
ローマ兵のシールドウォールを崩した後
ヘタイロイが長槍を利用し突入すれば
ローマ軍はやられる可能性も有るのかだが
ヘタイロイが完全に歩兵を排除出来ず共
重装歩兵ペゼタイロイが後で前進して混乱するローマ歩兵を
排除すると言う可能性も有るのかだが 率いてる指揮官次第で勝率変わる場合もあるよな
羊が率いる羊か、羊が率いる狼か、狼が率いる羊か、狼が率いる狼か マケドニア軍10000の攻撃を鎬げても
11000に攻め立てられたら崩壊する場合も有るし
そんな定性的な話じゃ無いわな ローマ軍がギリシア式密集重装歩兵と戦った時に、グラディウス使ってるから槍に苦戦した
とか言ってる人がいたんだが、ローマはどうやってギリシア式に勝ったの? 「重装歩兵のみのローマ軍VS重装歩兵・軽装歩兵・騎兵のマケドニア軍」という条件ならマケドニアが勝って当然だけども
そもそもローマ側も実際には重装歩兵だけではないからこういう比較は意味がない
投げ槍・投石(帝政期からは弓も)部隊と重装歩兵の連携運用はそれこそローマが得意としたものだし あと重装歩兵・軽装歩兵という区切りのうえでは忘れられがちだけど
ローマ軍団兵そのものにも投擲兵としての能力がそこそこ付加されてるんだよね
投げ槍数本が基本装備だし共和制末以降になると状況によっては大量に揃えて
前列にシールドウォール組ませてその後ろから断続的に投げまくるという戦術もやるし 2世紀の例になるがアリアノス陣形あたりは、
大量の長弓兵やアジア式弩兵スパムで
ゴリ押ししないと崩せないだろうな。
マケドニア軍で正面突破するのは苦しい。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%89%E3%83%8A%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D168%E5%B9%B4)
>当初、戦いは互角に展開したが、やがてローマの前衛をマケドニアのファランクスが突破した。この戦いでのマケドニア軍ファランクスのサリッサ(マケドニア軍のファランクスが用いた長槍)の林にパウルスは驚愕と恐怖に捕えられたという。
さらに、その後方の部隊も破れたため、ローマ軍はオロクロンという山まで後退した。
この追撃のためにマケドニア軍のファランクスの隊列は乱れ、戦列が長く延びて隙間や割れ目ができた。
そこでパウルスは部隊を小分けして敵の戦列の隙間や裂け目の集中攻撃・各個撃破を命じた。白兵戦ともなればサリッサは役に立たないため、マケドニア軍はサリッサを捨てて戦ったが、彼らの短剣と小さな革張りの盾ではローマ軍の剣と大きく重い盾には抗し得ず、敗走した
ローマとアンティゴノス朝マケドニア軍が戦ったピュドナの戦いでは
マケドニアファランクスは追撃時に出来た隙間を
細分化されたローマレギオンに狙われてやられているが
アレクサンダー大王ならこんな隙は作るのかだろうし
ガウガメラでは自ら隙間をペルシャ軍に作っていたから
自軍の隙間の防御と言うのも意識していると言う事かも知れぬが
隙が出来ても騎兵や軽歩兵でカバー出来る体制は
作っている可能性も有るのかだが そういや弩は紀元前からあるけどローマ軍はクロスボウって使ってたのか? 散開したマケドニア軽歩兵には
ローマ兵の投槍も余り有効では無いかも知れぬが
騎兵突撃に対処する為に恐らく密集したローマ歩兵が
マケドニア軽歩兵の投槍を回避する事は困難かも知れぬし
密集しているなら盾の壁を修復する為に
前後が上手く入れ替わる事は何処迄出来るのかだが
盾の壁が部分的に崩された後騎兵突撃を受ければ混乱し
この後マケドニア重装歩兵が突撃すればやられる可能性も有るのかだが
ローマ兵の盾の壁が上手く前後を入れ替わる等して
軽歩兵の投槍で崩せなければ
重装歩兵を先に突撃させて
ピュドナの様にローマ兵が敗走した所に
騎兵突撃を掛けると言う方向も有るだろうか 儒教ってもしローマにまともに伝わってたら、結構支持されたんじゃないかな? >>96
ヘタイロイ騎兵の突撃からは敗走したローマ兵も逃げられず
マケドニアファランクスも敵を無理に追撃しなければ
隙は生じないと言う事かも知れぬが ピュドナやマグネシアの戦い眺めるかぎりだと、共和制期ローマ軍が相手ならアレク指揮で勝てる
でも兵の質と種類が充実し運用もより洗練されていった1〜2世紀帝政ローマ軍相手だと、アレク指揮であっても難しい >>95
個人携帯型の弩も一応使ってはいて
アッリアノスによると騎兵にも持たせることもあったらしい(そういう訓練やったと記録してる)
ただし限定的なものでのちの中世や古代中国のような大規模使用はなかった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています